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軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって

2016年01月16日 17:58

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 00:45:33.25 ID:knB9DjzK
軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって
ヨーロッパを支配したナポレオンがアレキサンダーやシーザーを蘇らせてアジアに侵攻して
それに対して中国は諸葛孔明を軍師にジンギスカンやティムールや項羽が対抗
一方中国から勧誘された日本は豊臣秀吉が漁夫の利を狙おうと画策。
楠木正成は武士にあるまじき振る舞いと拒否したため真田幸村が軍師になって孔明と対抗
なお途中の一騎討ちで

加藤清正vs関羽
佐久間盛政vs張飛
木村又蔵vs樊噲

という場面がある。
この本が明治17年刊行だから、当時は幸村=孔明レベル、清正=関羽レベルと思われてたんじゃないか

関連
近代デジタルライブラリー:午睡之夢 : 軍書狂夫
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/881948



966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 02:13:32.55 ID:u54HFJUl
>>964
ベタベタだけどすげー面白そう

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 06:34:46.79 ID:gscrk4Z0
>>964
そんな昔に厨二大喜びな小説があったのか

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 07:38:50.33 ID:l7Ys8WSi
>>968
そらお前、源為朝が琉球王朝の開祖とかの時点で、なろう小説とかわらないじゃないか

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 10:33:22.39 ID:kaC62K3R
>>964
うっかり日本の歴史に名を遺すと
死後もやたらと召喚されたり女体化されたり忙しいにゃー

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 14:11:34.22 ID:VQB9pWsr
>>964
フェイトみたいな有名人転生物の元祖って魔界転生かと思ってたけどもっと早いのがあるんだなw

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:10:19.18 ID:c3m46MB9
>>964
近デジにあったんで目を通してみた。
・中国軍が欧州軍に勝利の後、ナポレオンを台湾(!)に流す
・対中国の軍議が紛糾した際、並み居る英雄豪傑の中にいきなり
 杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
・日中対決の場はまたしても朝鮮半島
・台湾からナポレオンが復活して、日本を襲う。しかも秀吉が斃れて、家康が後を継ぐ。
 もうめちゃくちゃだが、この時点で残りページ数が少ない。
 案の定、風呂敷をたためず、いきなり作者が夢から覚めて終了。

すごいものを見てしまった。

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:23:34.62 ID:572Pakfc
>>983
>杉山地球守蓋世という作者のメアリースーが出てきて軍議をまとめる
クソワロタwいつの時代も変わらんなぁw

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 16:46:32.04 ID:bUsPNyKz
地球守か、宇宙大将軍と比べるとまだ小物よ

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 19:53:43.34 ID:LqN4OQEX
>>983
近デジに有るのかよって事で自分も開いて今から読むところだけど

「第六回 ナポレオン、力(ちから)ヒマラヤ山を抜き気アジアを蓋う」
(原文は片仮名部が漢字表記)

もう目次の文章だけで腹筋に候

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 20:55:41.05 ID:sxNNr2BO
「午睡之夢」ってアニメ作ったら面白そうだ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 23:07:31.87 ID:v5ECu0Fy
初っ端がサンダンジャクル城(アクル)でシドニーとフェリポと対戦
フェリポがナポレオンの同窓というので矢文でフェリポがナポレオンに通じていると偽情報を掴ませ離間の策

…架空小説ならトラファルガーかワーテルローか、エジプト関係ならアブキール湾での逆転を使いそうなのに
攻略に失敗したとはいえ、なぜ比較的マイナーなアクル包囲戦を
http://i.imgur.com/2AudXr2.jpg
http://i.imgur.com/9jt5sRF.jpg
http://i.imgur.com/A4hvsVq.jpg

岩龍島由来

2016年01月16日 17:58

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 12:26:07.11 ID:jASBeQfw
岩龍島というのは昔は舟島と称した。宮本武蔵之助という刀術者と佐々木岩龍が
武芸の論をして、この島で刀術の仕合をし、岩龍は宮本のために打ち殺された。
縁の者がいて岩龍の墓を建てたことにより、土地の住民は岩龍島と呼ぶ。

赤間が関で土地の住民の言い伝えを聞いたが、板本に記される内容とは大いに
異なる。佐々木は武蔵之助と約束し、伊崎から小舟を借りて舟島へ渡ろうとした。
浦人たちが岩龍を止めて言うには、

「武蔵之助は門人を数多引き連れて、先達て舟島に渡りました。“大勢に手なし”
というように1人では叶いますまい。今日は御渡海は無用です」とのことであった。

岩龍曰く、「武士は言を食まず。固く約束したことゆえ、今日渡らないことは武士の
恥辱である。もし大勢で私を討てば、恥辱は彼にあって私にはない」と言い、強いて
島に渡った。すると、浦人の言ったように門人の武士4人が与力しており、ついに
岩龍は討たれた。

はじめに止めた浦人が岩龍の義心に感じて墳墓を築いたことにより、岩龍島と称する
ようになったのだ。その虚実は分からないが、土地の住民の物語りを記すものである。

ある人が言うには、宮本の子孫は小倉の御家士にいるという。宮本の墓もあって、
岩龍に相対しているという。

――『西遊雑記』




972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 13:11:31.86 ID:LYMUNCzg
吉岡一門「いかんのか?」

講談、寛永御前試合では

2016年01月16日 17:58

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:00:42.28 ID:8PHIYbdq
講談、寛永御前試合では寛永9年(1632年)9月22日に家光の前で
大久保彦左衛門、柳生宗矩、小野忠常を審判として
関口柔心大久保彦左衛門荒木又右衛門宮本伊織
伊達政宗(65歳、秋元但馬守に勝利)たちが試合を行ってるな(信ぴょう性はおいといて)

異説では
穴澤盛秀(大坂の陣で死亡)、柳生宗冬、由井正雪、関口弥太郎(まだ生まれてない)が試合を、
と魔界転生より前に著名な剣士たちが試合を行う話が

なんとなく、幕末に土佐藩御前試合(撃剣会)で坂本龍馬が桂小五郎たちを倒して優勝したとかいうネタ話を連想する

関連
勝海舟「陸軍歴史」巻28より『寛永御前試合』



975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 17:16:03.25 ID:xmb79h4y
江戸末期になっても伊達政宗がこんなもんにほいほい出てきちゃう●●だと認識されていたことにry

義光がここに侍っている以上

2016年01月16日 17:58

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 19:57:16.12 ID:PiZdnrgl
文禄4年7月、秀次事件が起き、関白秀次が切腹すると、彼の側室となっていた最上義光の娘も
誅せられた。その上義光も秀次の謀叛に与していたとの噂が流れ、最上家滅亡かと思われた時、
徳川家康の計らいによりその罪免ぜられた。義光がこれに感謝することこの上ないものであり、
如何にもしてこの恩報じ参らせんと決意した。

明けて慶長元年閏7月12日の夜、伏見に大地震が起こり、伏見城も崩壊した。
この時、伏見に在った諸侯は皆、太閤秀吉の元に馳せ集まった。
しかし最上義光一人は、家の子郎党を具し、裸馬に打ち乗って徳川家康の館に馳せた。

「このような時には人心も計り難いものです。御館を御出になるべきではありません。
いかなる事態になろうともこの義光がこのように居る以上、お心やすくいて下さい。」

そう申して家康の館を守った。

その後、秀吉自ら茶を点て、家康にも参るようにと言ってきた。
この事、怪しく聞こえたため、義光は急遽秀吉の御所に参り、家康に近づくと
「相構えて、今日のことお気をつけ下さい。義光がここに侍っている以上、何の差障りも
起こさせませんが、しかしながら思うところもあり、事が終われば直ぐにお帰りに成るべきです。」
そう申し上げ、茶会が終わると家康の供をして御所を下がった。

(藩翰譜)



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:40:35.81 ID:Fbvw596u
えらく屈強なボディガードやね…<家康の供をする鮭様

生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。

2016年01月16日 17:57

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 21:54:51.20 ID:CiWguw9k
 殿下秀吉公、上杉中納言景勝と御和談が調い、中納言は一万騎で上洛された。
もっとも御和談のうえであるので常の行列であるとはいえど、ことのほか厳重でありましたところ、殿下は密に粟田口まで御覧なされ、
ひどく上杉家の行列の備えを誉められました。分けても景勝の乗り物が多人数で取り巻きなさる勢いは誠に鉄城のようだと、
かえずがえす上杉家の軍法に大いに興味を持ちなされました。

 それにひきかえ、いかに治世であるといっても、大小名方は日雇いの人数を行列に遣わすのは余りのことである。
これというも大小名方は前と違って、生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。
(本阿弥行状記)

大名行列って日雇いばっかだったんですけど、戦国以前では全員軍人だったのですかね



217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 10:33:30.17 ID:1LtlXlv+
>>192
景勝の馬廻り衆が8000人だから(秀吉時代だからもうちょっと増えてるかも)
それに直江の馬廻りとか奉行衆の連れてる家臣とか足したら日雇い無しで普通に一万じゃね
米沢時代になったら大分減るかもしれんけど景勝の馬廻衆は譜代(謙信の分と実父の分含む)だからなあ

「論語猿」の逸話・続撰清正記ver.

2016年01月16日 17:57

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/15(金) 22:04:06.42 ID:Fbvw596u
(清正は)江戸上り下りの船中でも四書の講義を聞いていたそうだ。
或る時、伏見に居た時に、清正は手ずから論語に朱筆で注釈を書き入れていたが、
飼っていた猿がその様子をじっと見ていた。
清正が用事が有って席を外している間に、この猿は筆に朱を付け、
論語にめちゃくちゃに塗り付けて落書きだらけにしてしまった。
(戻って来た清正は)この様子を見ると、
「昔々から猿は見た物を学習するものらしい。
昔、終南山に住む僧侶が失くした袈裟をその山に住む猿が盗み、
その袈裟を身に着けて岩の上で坐禅を組んだ。
彼の他の多くの猿達もその姿を真似て坐禅を組んだ。
その猿は戯れに袈裟を身につけ、ただ人の真似をして坐禅を組んだのだけれども、
その功徳によって仏に成る事が出来たと聞いている。
この猿も悪戯で論語に朱注を付けたのだけれど、
(この功徳によって)少しは聖人の道に叶った行動が出来るように成るだろうか。」
と言って笑ったそうだ。
武勇一辺倒の大将にはこのような事は出来まい。
(続撰清正記)

訳注:終南山=中国陝西省西安市に位置する中国仏教における霊山

有名な「論語猿」の逸話・続撰清正記ver.。
単純に動物好きとも本人の苦悩の反映とも解釈される事が有る逸話だけど
どうやら仏教説話の影響が濃厚な模様。



不吟味なる若輩者共の申し分

2016年01月15日 16:43

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 19:02:51.36 ID:eUEOCpxp
天草国人一揆において、加藤清正が本渡城を攻めた折のこと。その本丸まで攻め入った時、敵三十人ほどが
甲・具足を着て鑓・薙刀を持って、どっと斬って出たのを、清正の軍は取り囲み、ひとり残らず討ち取って
その死骸を見ると、男は一人もなく、皆女人であったため、首を取らず斬り捨てにした。

この戦闘で、清正の軍に負傷した者が5,7人あったのを、清正の側の者たちが、いかに働くとも
女人に斬られ突かれるというのは弱いというように取りざたしているのを清正が聞いて、申し下した

「さだめてそれは不吟味なる若輩者共の申し分である。女人は逃れがたき所であっても、命を惜しむというのが
世の中一般に言われることだが、死を軽んじ、思い切って出てくる心中は、却って男子より堅固なものだ。
そういう相手に対し負傷したのは越度にならない。

そうでがあるが、女人には男ほどの働きは出来ないので、高名にもなり難い。

それにしても、一人残らず打ち捨てたのは、一段と気分が良い。」

そう仰ったのである。

(續撰清正記)



一代の不仁残忍の報いであり

2016年01月14日 15:53

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 01:27:45.91 ID:GP8sbhlK
 勝頼公まで二十八代の間、武田家は屋形作で城がなく、新羅三郎義光公の嫡孫であるので頼朝公と同様の規模のお館であった。
 そこで、勝頼公は『将来城がないのは危ない』とお考えになられて、新府中の城を築こうとなされた。
しかし、普請している最中に旗下の大将の内の妹聟の木曾殿、伯母聟穴山殿をはじめとした者が信長公へ頼ってしまい、
終いに勝頼公は天目山へ逃げ込み滅亡なされた。
 これは皆父の信玄公に孝なく、嫡子義信公に対し悪意が有ったといはいえ
父の愛を与えず牢暮らしさせたような事に代表される、一代の不仁残忍の報いであり恐るべきことである。

 また勝頼公、信勝公の首実検を信長公がなされた時、ただ何の作法もなく、いつもの服で首に向かい、悪口を仰せられ、
扇子で叩かれなさったようなことをしたので、この君も一、二月の間に亡ばれたのも不思議なことである。

 勝頼公が家老達の申す事を用いなさったら、天下一統の功も建てなさっただろうに、皆長篠合戦で討死したのは残念なことである。
かろうじて信州の川中島に在城してて生き残った高坂が、諫言を申し上げたといっても、長坂、跡部の中傷で忠言も取り上げなされなかった。
 これをひどく残念がって、弾正は甲陽軍鑑という書を編集して、死後勝頼公へ進上せよと遺言した。
ひどく古くさい俗書であったがあっぱれな忠義の武士であった。この忠義をそっくりそのまま武家方にお見せしたい事である。
この書を版にして広く武士である人に見せたいものだ。

 加えて、信玄公の御舎弟の信繁公は至っての賢者である。惜しいことに世の人はこれを知る事は稀である。

(本阿弥行状記)

信玄の尻拭いをさせられる勝頼(´・ω・`)



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 02:33:23.47 ID:YCC7Mq2I
昌信の申すこと尤もじゃな。長坂跡部を更迭するから甲府に留まり助言してくれんか。

いやいや某は先君より川中島の抑えを任されているので動けませぬ。
川中島あっての武田なのですぞ!

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/14(木) 09:40:22.26 ID:ql3fNf7A
勝頼「お、おう」

長持ちアサガオ

2016年01月13日 22:41

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 20:11:24.02 ID:nH5mbrsG
お万の方。紀州家頼宣(家康10男)を生み、水戸家頼房(家康11男)を生む

頼宣。のちに南龍公と呼ばれる、紀州家の暴れん坊殿様も、
まだ子供のころは、無邪気な少年であった
ある日、遠乗りに出かけたら、アサガオが昼過ぎになっても咲いている
珍しいや、と取って、母親(お万の方)あての手紙に添えて送った

しばらくして、母から返事が来る
「長持ちアサガオなんて珍しいものをありがとう。
花の寿命も、人の寿命も、同じね
もとが短くったって、
適切な管理がハマれば、このように長生きするのよ
この現象は、しっかり肝に銘じておきなさい
家中や国家のマネジメントだって、同じことなんだから
適切にケアすれば長持ちで問題なく続くのよ」
……母親は(一応)喜んでくれたようである
個人の修身=国家運営。論語ですな
けっこう教育ママさん

頼宣「朝間の花、午を過ぎて猶ほ栄ゆ。一粲に供する所以なり」
お万「朝花の贈りもの、奇観喜ぶべし。抑も人寿も猶ほ此の花のごとし。
苟しくも其の養を得ば、短き者も亦た之をして長からしむべきなり。
之を勉めよ之を勉めよ。即ち家国を養ふも、亦た唯だ此の心にて之を視ば、
国祚何ぞ長久ならざるを患へんや」



186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:17:42.59 ID:x5ZvWWHA
>>184 既出があった
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1097.html
昨日の身延山話は、別人あつかいになってる
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1838.html

細川家の取り成しで

2016年01月13日 22:39

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 02:19:26.40 ID:o6xk6LZS
萩原殿は吉田にお館があるようである。その館とは細川幽斎公の別荘である。
元来萩原殿は豊国大明神の社司で、大仏の南、今は宮様のお館になられていますところに一万石領されていた。
ほかに一万石を豊国の修復料としてもらっており合わせて二万石領されていた。

そうであるところに、大坂落城したため豊国社は破却され、二万石も召し上げられました。
そのとき萩原殿は細川三斎公の御息女御菊殿の婿君であったので、吉田の別荘を細川家から進上されて、
細川家の取り成しで段々と千石を領することができた
(本阿弥行状記)



中野神右衛門が子供たちに言っていたこと

2016年01月13日 22:38

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 14:40:02.70 ID:HMNPAWK4
中野神右衛門が子供たちに言っていたこと。

「末代の子孫に至るまで、どんなに大勢の子供を持っても、決して見捨てることがあってはならぬ。
その者その者の器量によって、草履取りでも馬取りでも、奉公に差し出すとよい。
草履取りの役目には侍の末子を差し出したいものである」 【葉隠】



願わくば1日、御耳の匂いを御嗅がせくださいませ

2016年01月13日 22:37

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 01:09:45.27 ID:Kz0bIkYN
ある時、曽呂利新左衛門豊臣秀吉に、「願わくば1日、御耳の匂いを御嗅がせ
くださいませ」と、言った。秀吉は訝しく思い、「こやつ、また何かするつもりだな」
と疑ったが、「何はともあれよろしい。汝の好きに嗅がれよ」と、その事を許した。

その後、新左衛門は大名が秀吉の御機嫌伺いに出た時を窺い、秀吉の耳元に口を
寄せた。それが何やら言っている様子に見えたので、皆々は心中で密かに驚き、

「こやつ、何を言っているのだろう。もしや、私を讒言する内容ではあるまいか。
こやつはすこぶる殿下の寵愛を受けているから、その言葉を御用いになるかも
わからないぞ」と、憂いた。

各々は自邸に帰ると、早々に数多の金銀財宝を用意して密かに新左衛門へと
贈ったので、数日にして金銀財宝が山の如く集まった。

新左衛門は秀吉の御前に出て感謝し、「殿下の1日の御耳を拝借し、御芳しき匂い
を嗅いだ功能によりまして、金銀財宝は山嶺の如く集い来たり、ほとんど座る場所も
ありません。これはまったく、殿下の御耳の功能であります」と、言った。

これを聞いて秀吉もまた呆然とし、驚いたということである。

――『常山紀談(異本に拠る)』



加藤清正「そんなの知らんがな」

2016年01月13日 22:36

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:02:36.55 ID:x5ZvWWHA
熊本城城下の本妙寺。加藤清正の菩提寺である
いつしかここの参道は、
ハンセン病患者がずらりと並び、喜捨を待ち受ける場となった
つまり顔面ドロドロに病変した、不潔異臭と病人特有のウミ異臭を放つ、
ホームレス乞食がうじゃうじゃひしめいていた
(明治4年から並びだしたという記録がある wikipedia本妙寺事件)
日蓮宗の古刹への参拝客めあてか、清正にあやかってか、
清正がらい病だったから、という説もある

付近には患者が運営する宿や、バラック村が出来る
やがて一帯は絵に描いたようなスラムとなり、
賭博場ができたり、無法地帯となった
(困ってる人にたかるダニも大量に集まるのだ)
患者達は相愛更生会という結社を作り、
北海道から台湾朝鮮まで、大日本帝国じゅうに
組織的に違法寄付を強要して回った

病気、極貧、マフィア支配なスラム、当然ながら周囲からの差別
あまりに悲惨な状況に、ハンナ・リデルやコール神父などの
ハンセン病患者救済活動といったイイハナシダナーも焼石に水

国は、本妙寺事件1940年07月を起こす
部落の住人(=患者)を残らず捕らえて治療施設送りとし、
部落まるまるひとつを焼却消毒した
(まさに「汚物は消毒だヒャッハー」を地でやった)
(治療施設。実態は瀬戸内海離島や山間温泉地付近の隔離「強制収容所」である)
(焼いたバラック村は、二束三文とはいえ、患者からいちおう買い上げた形式にはなっている)
以後、本妙寺の参道はキレイになった

しかし、ハンセン病患者差別問題は、戦後まだまだ続く
赤ちゃんポストとか、アイレディース宮殿黒川温泉ホテルの宿泊拒否とか、熊本で鋭敏に騒がれたのは、
こういった地域黒歴史の影が落ちているためである

加藤清正「そんなの知らんがな」本妙寺。加藤清正の菩提寺である




936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 09:49:07.40 ID:loMutV+n
黒川温泉いきてーな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 11:12:27.96 ID:VbT6KnIo
温泉ってだいたい戦国のころからあるんだよね。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 12:20:03.61 ID:sBqaoL9/
戦国の頃からある温泉なら、ほとんどは日本に人類がたどり着く前からあるんじゃね?

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 14:25:12.27 ID:mFzWFS4F
今も残ってる老舗の旅館に戦国武将も泊まったりしたのかな

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 16:18:23.50 ID:vbxLAyLi
旅籠の下女の子供が真柄兄弟

941 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/13(水) 16:59:24.63 ID:OZUL8EGi
>>934
本当に加藤清正にとってそんなの知らんがなって話だな
病気に対してそんな悪意に満ちた描写する必要あんの
書いてる人間の悪意と差別感情だだ漏れで不愉快極まりないわ

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 19:00:32.22 ID:vbxLAyLi
わざわざここに書くことでもないと思う

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 19:55:40.54 ID:loMutV+n
マガラッチョ!チェケラッチョ!!

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 20:57:18.70 ID:dE2SgIDi
有馬温泉に至っては日本書紀の時代から知られてるよな

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 20:59:59.93 ID:OlaQue00
聖徳太子が湯あみした道後温泉(`・ω・´)

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 21:58:01.41 ID:YQBpxiD/
去年行った信玄の隠し湯は創業昭和35年だった

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 21:59:49.33 ID:loMutV+n
信玄公って長生きだね

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 22:29:15.11 ID:sBqaoL9/
昭和35年まで隠し通されてきたんだろ

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和泉は大食いのじいさんだなぁ 16
茶入・玉堂 14
すると猿松が 13

【雑談】名前や渾名とかに「鬼」がついてた武将てどれくらいいます? 12
里見民部と秀頼の朱印状 11
これこそ、我が一代の快き振る舞いである 11

見延山は昔、 10
後人の愚昧の者の所作 9
地獄へなりとも極楽へなりとも 7

肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり 5
豊国のお宮は名ばかりとなり 5
「あのような理不尽者には」 5
このような時は、武功をなすべきである。 4
志賀の松 2



今週の1位はこちら!敵よりは景勝を恐れたのであるです!
景勝が怖くて水に飛び込んだ家臣たち。そういえば思い出しましたが、義父である謙信も非常に怖い人で、彼に従った
関東の諸侯も、謙信があまりの怖いので離脱した、なんてことが関東の軍記物に出てきたりしますw
越後上杉家の当主というのは、怖くないと務まらないものだった、のかもしれませんw

2位はこちら!【雑談】大型銃についてです
鉄砲の大型化というのも、割合早い段階から始まっていたようですね。そういえ長篠籠城戦で、徳川方は大型で射程の長い
鉄砲を揃えていたため、旧式の鉄砲装備だった武田軍はなかなか近づけなかった、なんて説もあるようです。
同じ鉄砲と行っても、様々な種類、大きさ、使用目的が有ったらしいことは、史料の隙間からなんとなく見えてきます。
そういった研究も、今後進むといいなあ。

今週管理人が気になった逸話はこちら!和泉は大食いのじいさんだなぁです!
司令官たるもの、自らの軍勢を落ち着かせるために、様々な体の張り方があるものですが、
これもまた面白いものですw現在であってもあっけにとられちゃいますね。
それにしても謙信公、突っ込む所はそこじゃないだろw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつもありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )


地獄へなりとも極楽へなりとも

2016年01月12日 18:25

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 16:04:57.83 ID:ec3QsGx4
天正17年(1589)天草国人一揆のこと。加藤清正は木山弾正(正親)を大将とする軍と戦いとなったが、
これに出勢の時、清正は道の端にて押し行く軍兵たちの様子を見ていたが、南部無右衛門という者が、
真っ先に進むのを見て声をかけた

「無右衛門、今日の合戦は大事なるぞ!一入精を出せ!」
南部、これに

「別儀あるまじく候。ただ死ぬる迄よ!」

そう言い捨て通って行った。この言葉を聞いた人々は、あまりに大きな高言であると思った。
ところがこの合戦は、言葉にも似ず木山弾正の勢に追い立てられ、清正の軍は旗本まで敗れ逃げた。

その後、諸勢によって軍議があったが、南部無右衛門もその場にいるのを見た清正は聞いた
「そこにいるのは何者か?」」
南部無右衛門なり。」

「いやいや、無右衛門は今ここに来るはずがない。もし無右衛門ならば、きっとそれは幽霊であるだろう。
清正の家中に、死人が幽霊となったのを抱え置くというのは忌々しいことだ。
さっさとここから、地獄へなりとも極楽へなりとも、行ってしまえ!」

そう言ってその場から彼を追い払った。

(續撰清正記)



肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり

2016年01月12日 18:24

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 21:32:46.25 ID:acgC7geU
 肥後熊本城は加藤清正の縄張りであり、今の細川家も清正の霊威が強いので、普段は外の屋
敷に居られ、年に一度入城なされる。

追手の馬繋等は江戸城よりも仰山あり、諸国の大名、小名を熊本へ登城させようと、内心に
は謀反の企みがあったのであろうか。

同清正公の二代目断絶のとき家老九人が切腹いたし、その亡骸を御城の追手玄関前に石塔を
建てよとの遺言があった。今をもっても石塔が並びあって、少しでも無礼があるときは祟るという。

また、清正公を敬い崇める神霊は、今もあらたかであり、いろいろ不思議なことが多いという。

菩提所本明寺とやらの後ろの山に御廟がある。

(本阿弥行状記)



このような時は、武功をなすべきである。

2016年01月12日 18:23

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 02:40:22.81 ID:8ZqBou7N
朝鮮出兵の折、戸川肥後守(達安)の父・戸川平右衛門(秀安)
の家士・馬場重助という者が南天門の棟へ上って中を見ると、
人が1人もいない。

時に、重助は味方を顧みて招いた。同家士の宍耳太郎兵衛は
続いて上り、

「大門の一番乗り、宍耳太郎兵衛!」

と名乗った。これによって、重助は功を空しくした。このような時は、
武功をなすべきである。

――『常山紀談』




931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 10:03:34.52 ID:D8+SgqqM
山内一豊のような強かさ

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/12(火) 17:22:34.35 ID:jBoLvV2e
あれを笑って許すのが器量ってやつだよなぁ

すると猿松が

2016年01月12日 18:22

179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:09:57.64 ID:iWayTfBO
長尾為景の治めていた府内の城外では、盗賊が出て人々を脅かしていた。
そこで為景はその盗賊を斬って首を獄門にかけた。

そんなある夜、為景が近侍のものに「あの盗賊を首を取ってこい」と命じたが、
皆恐れをなして取りにいこうとはしなかった。
すると猿松(謙信)が「自分が行こう」と言い出した。
為景は猿松に小刀を与えたが、彼は傘だけさして雨夜の中盗賊の首を取って、
(複数いたのか)その髪をつなぎ合わせて引き摺り引き摺り府内へ帰ったそうだ。



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 13:08:11.73 ID:TjaJYsFf
>>179
水戸光圀の伝記で同じような話を見たが
(刑場から父の命令で幼少の頃夜に罪人の首を持ってくる)
度胸試しとしてありふれてたのか、それともどっちかがもう一つの逸話をもとにしたのか

和泉は大食いのじいさんだなぁ

2016年01月12日 18:21

180 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:21:43.79 ID:iWayTfBO
柿崎和泉守景家は非凡の猛将であった。

ある時、部下の老兵が「小蛇を土中に埋めた祟りだ」と発狂しだしたので、
景家は出陣の途中老兵の家に立ち寄って、蛇を掘り出して、
老兵の面前でムシャムシャこれを食べてしまった。
そして「このような珍味を土中に埋めておいたのではもったいないではないか。」と平気でいった。
それを見たものは皆、舌をまいた。
伝え聞いた謙信も「和泉は大食いのじいさんだなぁ」と大笑いしたそうだ。




183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 23:55:22.13 ID:ys1zp3di
>>180
ヘビは寄生虫の塊みたいなもんだから生食はダメ。素手で触るのも宜しくない。触ったら念入りに手洗い。
ナマで食って平気なのは鬼武蔵くらいだからな。

見延山は昔、

2016年01月11日 15:36

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 21:06:32.44 ID:zMeJSstW
見延山は昔、女の登山は高野山と同様に禁制であった。

紀州様、水戸様の御母堂、御万の方(剃髪後養珠院殿と号す)が、

万部経を興行なされ、魔をお鎮めなされました。

その後女が登山致すことができたことで、万代の功徳を蒔きなされた。

ためし稀なる女性である。

(本阿弥行状記)



160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 21:34:24.46 ID:A05CQKtF
後に徳川は将軍も御三家もお万の子孫になるから功徳があったんだろうな


164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 16:58:56.39 ID:J2TE0C90
>>157 お万の方 水戸光圀のばーちゃん
小田原戦役のころ(11歳のロリ姫様である)、
勝浦城落城のさいに、
布をつないで断崖絶壁に垂らし、大脱出を敢行

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 18:14:01.63 ID:ys1zp3di
>>164
断崖絶壁から下に敷いた布団めがけて投げ落とされないだけマシ、って思ってしまったオレはこのスレに毒されすぎなんだろうな・・・。

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 18:45:41.15 ID:y3ojcd3p
>>161
草井お万か・・・

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 19:18:14.09 ID:J2TE0C90
お万の方養珠院。日蓮宗の僧・日遠に帰依する
いっぽう家康は浄土宗大好き(あの馬印)

家康の宗教政策で、日蓮宗は迫害を受ける
いや、それまで、他宗教との抗争上等で論戦をふっかけては、
積極的に布教(物理)して、トラブル連発させていた日蓮宗も悪いのだけれど
家康は「浄土宗vs日蓮宗どっちが優れてる?」江戸城にて
仕込みアリのヤラセ公開討論会を開いた
(討論会前日に家康は日蓮宗側論客を家臣に襲わせ、半死半生にさせていた)
結果、「浄土宗最高! 日蓮宗2流カルト!」
日蓮宗を邪教認定し、一部教義内容の放棄を宗門に迫った(1608年:慶長宗門)

日遠は日蓮宗布教をやめず、幕府による教義内容変更要求もつっぱねたため、
日遠は捕らえられ、安倍川で磔刑にされかかる

「おや。わが妻よ、何をお裁縫してるのだ?」
「死に装束2着ですわ。我が師匠を処刑なさったら、わたしも一緒に死にます」

布教(物理)は咎められても当然だが、
政治がいちいち教義内容にまで手ぇつっこんだら、宗教は宗教でなくなるだろ常考
そこまでやりとりがあったかは知らないが、
ともかく、
お万の方の必死の助命嘆願により、日遠は殺されずに済んだ
翌1609年、日遠は身延町大野に本遠寺を創建する
(お万の方は死後、ここに葬られる)

という経緯があるので、>>157は、ただのウーマンリブ破戒じゃない

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/11(月) 19:22:50.07 ID:J2TE0C90
>>165 ttp://cmeg.jp/ci/107102
半島の先、灯台のあるところが、勝浦城跡(勝浦八幡公園)

豊国のお宮は名ばかりとなり

2016年01月10日 14:23

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 20:30:31.44 ID:rr4acJX/
 豊臣殿が老年に後に、御他界なされたら新八幡宮と祝われたいとのことで、
内々にお願いがあったといえども、日月地に墜ちず、勅許がなかった。
 その沙汰が引き伸ばされているうちに他界なされた。

 よって秀頼公、淀殿のお願いで、豊国大明神と祝われなさったが、
知術ばかりで仁徳は露程も無かったので、今は豊国のお宮は名ばかりとなり、悲しいことである。
(本阿弥行状記)




920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 21:49:01.18 ID:aD8PYNPa
>>919
そういや鶴松を八幡太郎と呼んでたという話もあったな。
どんだけ八幡が好きだったんだろう

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 21:58:38.64 ID:Npn3LlM/
お陰で岩佐又兵衛作の豊国祭礼図屏風には
「いきすぎたりや廿三、八幡ひけをとるまい」という鞘を傾奇者が

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 22:37:46.27 ID:3p+yPRxe
武家は八幡神好きだからな

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 00:07:16.55 ID:My8zH9Tj
やっぱり幡が好き

「あのような理不尽者には」

2016年01月10日 14:22

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/10(日) 10:09:30.91 ID:l4mamycO
久松彦左衛門は小栗又市(忠政)と人返しのことについて遺恨があった。

「このような事は使いでは埒が明くまい。じかに又市に会って埒を明けるぞ!
いかに又市が武辺者であるとしても、頭が割れぬはずはあるまい!」

彦左衛門はそう言って又市のところへ行った。

しかし又市は、「あのような理不尽者には」と言って、対面しなかった。

――『武功雑記』




里見民部と秀頼の朱印状

2016年01月09日 09:24

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 05:21:57.90 ID:1X0ifiPd
里見民部と秀頼の朱印状

慶長8(1603)年、最上義光に廃嫡された最上義康暗殺事件の黒幕とされた里見民部少輔(里見義章、里見義正・義満とも)は所領の長崎城を捨て突如として出奔した

里見民部は先の慶長出羽合戦において寡兵で上杉軍を翻弄し、直江兼続の副将の本村親盛を討ち取る等の高名を成したために加賀の前田家が二万石の高禄で召し抱え様と動きを見せた

しかしこれを知った旧主最上義光は激怒し、「民部の様な不貞(不逞)の者を家人とするならば一戦も辞さない。里見は不忠のものなれば身柄を拘束し山形に送られんと欲す。適わない場合はせめて所払いを願う」と使者を差し向けた

前田家も最上家からの介入を蔑ろに出来ずに、民部を雇う事を諦めた

しかし民部は豪(剛)の者であったために次に越前松平家が3万石で召し抱え様とした

義光は越前松平家にも使者を遣わし、徳川将軍家をはじめ有力大名へ里見民部の奉公構の文を出した

民部は幕府の懐刀本多某とも深い仲ではあったが、奉公構が出された事により幕臣になる道も裁たれ、高野山を頼った

やがて最上義光が死に、最上家親が山形藩主となると民部の元に家親から書状が届いた

家親「父(義光)は老齢にあって我が兄にして長男の義康を失った哀しみのあまりに正常な判断が出来ずに民部にその咎の責を取らせ様としたのだろう
悼ましい事件であったが私(家親)は民部に責はないと考えている
また私には頼れる近臣がいないために、是非とも片腕となり政を助けてはくれまいか」

民部は義光の死と家親からの書状に望郷の念も加わり高野山を降り山形へと向かう事にした

海路庄内に着いた里見民部の一族は田川で下吉忠の軍に身柄を拘束され、最上義康が暗殺された櫛引付近で全員が処刑された

民部の遺品には文箱があり
中には「大坂方に与し大願成就の際には庄内三郡を与える」といった豊臣秀頼の朱印状が入っていたと伝わる

「奥羽永慶軍記」など



志賀の松

2016年01月09日 09:23

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 22:33:21.84 ID:81OdLAL0
 志賀の松は昔のものは枯れたが、天正年中に江州百万石の佐々木義郷公が、
歌を詠み祝して昔の松に似ているものを植えなさったという。
 このお家は今志賀郡で郷士の様に御相続されています。
この義郷公は甚だ義の者であったが、石田の讒言でお家断絶となってしまい、残念なことである
(本阿弥行状記)



【雑談】大型銃について

2016年01月08日 21:54

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:35:19.60 ID:UJPgkuoq
当時の火縄銃の有効射程かなり短いよね50mだったかな。
多分あたっても小さな石が当たったくらいかなと。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:46:16.52 ID:WlNmolV7
口径によってだが現代の9mmパラからショットガン並みの威力があったわけで球形弾だからといってそこまで威力減衰はしない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 23:17:14.56 ID:XM3CD45w
>>883
狙って当てられる距離と殺傷力を保つ距離は違いますので
50メートルってのは狙って当たる距離でしょうね

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 21:59:16.60 ID:z9z01J+o
>>883
大阪市夏冬の陣で豊臣方が使った「大狭間」という重さ20kgを超える長さ2mの大型銃が有効射程が300m!
昨日の歴史ヒストリアでやってた
鉄板で作った甲冑が貫通してた

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 22:46:58.37 ID:RUaDK4UY
>>896
去年オープンした大分の佐伯市歴史資料館に毛利高政が所持してた慶長大鉄砲の
「閻魔王」、「四海波」、「秋風」の3丁が展示されてて、四海波は逆に徳川方として
大阪城への攻撃に使われたって書かれてたな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 22:55:36.50 ID:exb94W39
殺し間へようこそ

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 23:02:46.63 ID:RUaDK4UY
ちなみに
「四海波(しかいなみ)」(全長282cm)
「無聖(むしょう)」(全長281cm)
「閻魔王(えんまおう)」(全長278cm)
「秋風(あきかぜ)」(全長201cm)
だって、無聖というのは展示されてなかったけど

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 00:21:39.92 ID:cvuFW8Z0
名古屋城には超大型の火縄銃が展示してあった
南蛮たたき塀に据え置きしてあった奴だっけ

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:17:05.10 ID:iX36EQHW
国崩し「所詮は銃 我が前にひれ伏せ」

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:36:30.65 ID:dq7EJNHl
カルバリン「せやな」

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 14:12:23.43 ID:hdy5voJL
>>900
名前がカッコイイ!

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 15:35:19.03 ID:64yPhC5F
中二魂にビュンビュン来るな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 20:50:54.49 ID:GqVEGtvU
忠爾魂響

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 21:44:45.18 ID:pGHg298z
>>897
四海波ってサボテンじゃないけどそういう感じの植物のこと?

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 21:56:30.41 ID:ZIDvVtma
大鉄砲じゃないけど火縄銃で好きなのは立花宗茂が黒田長政との的当て勝負をして手に入れた「墨縄」だな

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 22:38:41.73 ID:qaSFpfwz
弓全廃の長政と弓火縄両用の宗茂が竿を的に優劣を証明した結果、長政が負けて火縄を譲った逸話ですね
後日宇喜多秀家の勧めで宗茂の弓を長政に贈ったとか
いい話やん

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 22:46:26.80 ID:QE7dXYOL
名刀に銘がついてるんだから鉄砲にも付けてもいいんだよな
銘のついた鉄砲なんて見た事無いわ

そもそも鉄砲隊を指揮してた武将なら結構居るけど
自らが鉄砲撃ちって武将自体そんなにいないしな

稲富祐直、雑賀孫市、杉之坊照算くらいか

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 22:54:21.89 ID:GqVEGtvU
あと志茂田景樹

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 23:55:13.16 ID:dq7EJNHl
小早川秀包が鉄砲の名手で雨夜手拍子て銘の銃持ってたとか

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 01:51:51.27 ID:q1NFy4Xc
>>910
島津は名のある士卒身分が鉄砲撃ちを担当してたらしいけど

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 02:36:52.70 ID:h8uM5bke
>>909
竿じゃなくて笄っていう15cmくらいの髪結い道具が的
結構難易度高いと思う

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/09(土) 03:20:42.64 ID:h8uM5bke
墨縄には「行きやらで、山ぢ暮らしつ時鳥、今一こえのきかまほしさに 墨縄」
って風流な感じに銘が彫られてるな
長さは127,5cm、口径14mmらしい

917 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/09(土) 09:58:18.09 ID:DzzfVqTg
>>913
種子島さんたちは名人と呼ばれるほどの
腕前だったそうですね。

後人の愚昧の者の所作

2016年01月08日 21:54

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 22:59:39.03 ID:Y2hskBHE
 豊臣殿下の御一生の事を、台命によって将軍家譜を道春が編集していたときに、殿下のご幼少の有様、
ならびにお父君の事あれこれ詮索したが確かにならなかった。まずは父親がわからない子でありましたので、
世間の申す所を取って、竹阿弥の子と書かれた。しかし殿下の御一代に、竹阿弥に御贈官等の沙汰が無かったことを考えるべきだ。
今書林で取り扱っている書本等は皆虚で飾りたてているものだと心ある人は笑っているだろう。

手短く申すと以下のようなことである。
殿下が自分で思われたように、幼少より貧賤の家に生まれてどうして天下の望めただろうか。
ただ立身しようと心がけて、信長公へ足軽奉公に出かけたのだろう。だんだんと立身して、
龍が雲を得たような勢いになりなさって、ついに天下を取られなさったのだろう。

 総じて本朝の名将の中で、幼稚の時から高年に至りなさるまでの事をしたためたものは一つもない。
古い事で知られてないためである。それを殿下おひとりが御幼少の時からしたためた本こそ、
後人の愚昧の者の所作と思える。成長すると自分の身の上の事さえ忘れるのに、ああ、愚人をたぶらかす偽書こそ残念に思う。
(本阿弥行状記)



これこそ、我が一代の快き振る舞いである

2016年01月07日 08:21

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:44:23.75 ID:QAqgW5J8
加藤清正公がある時の夜咄に語ったことである

「賤ヶ岳の一戦の折、私は秀吉公のお側近くにいたが、先に合戦が始まると見及んだため、一人抜け駆けして
良き敵あらば討ち取ろうと思い、何でも無い体で抜けだそうとした所、秀吉公は屹とこれを見つけ、
「虎之助、法螺貝を吹け」と命じた。
しかし私は聞こえなかったふりをして2,3間(3~50メートル)ほど進んだが、そこで急に思い直した

『事の急なる時、臆病者が吹く貝は音が出ないと、世間では言い習わしている。ならば、私も
心臆しているため貝を吹かなかったのかと、秀吉公も思われ、また諸人もそう考えるであろう。
そうなったら、仮に手柄をいたし、もしくは討ち死にした後までも弓矢の上の恥辱、これに過ぎたる
物は無い。』

そう考え、立ち戻って貝を取り、いかにも静かに吹き上げ、法の如くに吹き終わると、馬を引き寄せ
打ち乗って、急ぎ先へと進んだ。

ところがここで、谷兵太夫という者が道の脇で私を見つけて声をかけた
「そこを通るのは虎之助ではないか。若輩なる者が逸りすぎて、敵前近くなって馬に輪をかける(馬の
速度を上げる)のは見苦しいものであるぞ。控えて馬に乗るように。」

私は『近頃にない悪き言葉だ。どのように彼に返答すべきか。」と思い、振り返って見てみると、
谷は少し小高い場所に、馬を横ざまに立てていた。いやまったく、彼は巧の入った老武者である。
味方はわずかの勢であるから、もし追い立てられ、敵が勝ちに乗じて競って来たなら、そこの横槍を入れて
突き返すためにそのように控えているのだと見えた。

とかく曲者である。何も言わないほうがマシだと思い、私はそのまま馬を早め進み、一番鑓を初め、
名のある敵の戸波隼人を討ち取ったため、味方はこれに利を得て、喚き叫んで攻め戦った。

この勢いに敵は辟易し、多く討ち取られる体たらく。天に光り地に響き、血は馬蹄に蹴りかけられ、
多くの死体が野に横たわり、寸尺の地も余さないほど夥しいものであった。

こうして私は戸波隼人の首を秀吉公の実検に備え、その後立ち退いて見ると、あの谷兵太夫は未だに
傍らでうずくまっていた。

「こここそ最前の返答すべき所よ!」
私は戸波隼人の首を彼に向かって投げつけると叫んだ

「先ほど其方が申した如く、若輩者が逸り過ぎて、馬に輪をかけた者は、これほどの手柄を立てたぞ!
能く能く見ておいて、汝の子孫までの物語にせよ!」

そう言い捨てカラカラと笑うと、かの者は目尻でこれを見て、更に一言の返答も出来ず、顔を真赤にして
俯いていた。
これこそ、我が一代の快き振る舞いである。」

清正公が機嫌の良い折は、いつもこれを声高に仰せになり、御喜悦なされていた。

(續撰清正記)

参考
加藤清正「あれはしずヶ岳の戦いの時だ」


茶入・玉堂

2016年01月07日 08:17

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 21:52:48.17 ID:H+6WH/5C
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。

その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。

 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。

 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)

この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:35:33.17 ID:L9nbHTsQ
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 02:53:24.13 ID:VhdIqWPd
そして宗教へと続く

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:58:53.66 ID:8GTdO5fn
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:23:54.44 ID:iX36EQHW
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

【雑談】名前や渾名とかに「鬼」がついてた武将てどれくらいいます?

2016年01月07日 08:14

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 17:56:10.99 ID:+7WFdRrq
【雑談】
名前や渾名とかに「鬼」がついてた武将てどれくらいいます?

島津義弘 鬼島津・鬼石曼子
十河一存 鬼十河
佐竹義重 鬼義重
真壁氏幹 鬼真壁
小島貞興 鬼小島
赤井直正 丹波の赤鬼
籾井教業 丹波の青鬼
本多重次 鬼作左
井伊直政 井伊の赤鬼
服部正成 鬼の半蔵
原虎胤  鬼美濃
馬場信春 不死身の鬼美濃
森長可  鬼武蔵
新納忠元 鬼武蔵
鬼庭良直
鬼庭綱元
九鬼隆次
九鬼泰隆
九鬼浄隆
九鬼定隆
九鬼澄隆
九鬼嘉隆
九鬼守隆

他に該当する人いませんかねえ?

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:09:23.95 ID:WlNmolV7
長宗我部元親。姫若子鬼若子

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:28:39.37 ID:8Y7jvzki
岡部長盛 黒鬼
松田康郷 鬼孫太郎、赤鬼

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 19:20:46.04 ID:Ww3MVgf5
最上義光「当たらなければどうってことない」

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 20:08:28.27 ID:BQ61hF1b
鬼日向

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:02:57.72 ID:x13VZ9gB
鬼小十郎、鬼九郎、鬼道雪

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:36:22.30 ID:L9nbHTsQ
鬼嫁


890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 00:34:17.65 ID:RUaDK4UY
>>880
肥後国人の和仁人鬼

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 00:58:36.88 ID:uOhuKffg
>>880
メジャーなの忘れとるよ

加藤清正 鬼上官

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 01:01:51.92 ID:uOhuKffg
>>880
これも抜けてた

柴田勝家 鬼柴田

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 01:28:56.38 ID:RUaDK4UY
世鬼政時
山本道鬼斎(勘助)
沼田万鬼斎
立花竜鬼斎

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:03:16.04 ID:ep07falj
佐久間盛政は鬼玄蕃だったか

敵よりは景勝を恐れたのである

2016年01月06日 12:48

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:38:20.91 ID:LZRsqKCk
大坂陣の時、信貴野口にて、先手の仕寄を見物しようと上杉景勝の近習で
非番の同輩らが忍んでやって来た。

その後で、景勝が巡見のために一騎でそこにやって来た。これを見た近習らは
咎められるかもしれないと恐れて、鉄砲の玉が降るほど飛んでくる竹盾の外へ
出て、景勝から身を隠した。

敵よりは景勝を恐れたのである。

――『北越太平記』



878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 23:50:05.53 ID:nMWthXiW
当たらなければどうという事もない

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 01:22:18.84 ID:L/qhRbOX
上杉にとっては大坂の陣など子供の石合戦に等しいとかなんとか

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:35:19.60 ID:UJPgkuoq
当時の火縄銃の有効射程かなり短いよね50mだったかな。
多分あたっても小さな石が当たったくらいかなと。

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 18:46:16.52 ID:WlNmolV7
口径によってだが現代の9mmパラからショットガン並みの威力があったわけで球形弾だからといってそこまで威力減衰はしない

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 23:17:14.56 ID:XM3CD45w
>>883
狙って当てられる距離と殺傷力を保つ距離は違いますので
50メートルってのは狙って当たる距離でしょうね