そういえば、乃至政彦「戦国の陣形」っていう近頃出た本で

2016年01月31日 17:37

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 22:00:54.95 ID:+Q47h22A
>>11
そういえば、乃至政彦「戦国の陣形」っていう近頃出た本で陣形についての話が載ってた
要点を書き出すと
・律令政治の頃は大陸や朝鮮との関係悪化の可能性があったため、大規模な動員を可能にし、それなりに陣形も研究していた
・常備軍が必要なくなると、各々の領主が部下を率いるという形で全体を統率するようなことはなく、陣形は不可能であった。
・文献で「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」「鳥雲の陣」などはたしかに見られるが、それは単に密集とか散開などを意味するだけで大して意味はなかった。
・戦国時代になってやっと大名による大規模な動員が可能になり、おそらく山中勘助が八陣を耳学問ででっち上げて信玄に具申し、陣形をとることにした。
・しかし、信玄に追い詰められた村上義清がやぶれかぶれで兵種ごとに統率した戦術によって陣が崩れ、信玄も負傷したため陣形の重要性が薄れた。
・上杉謙信は亡命してきた村上義清の戦術を大々的に組織し、信玄と度々対峙したため、北条氏なども五種の兵種に分けるという戦術を採用。
・川中島の「車懸り」というのも、実は螺旋状の陣形ではなく、単に上杉家の戦法のひとつで八陣とは関係なし。
・織田や関西勢力も上杉らとの戦いから、だんだん五種の兵種に分けて統率する手法が主流となり、陣形などは顧みられなくなった。
・そもそも実際の戦争は流動的であり、両者が互いの人数を確認したうえで布陣、などはほとんどない
・江戸時代に入り、甲州軍学が流行したため、山中勘助の言っていた「八陣」が戦国時代の主流と勘違いされた。
・なお、陣形の元祖である中国大陸でも、「八陣」という名はあったので、孔明たちが研究。
・孔明は思考実験をしていたのだが、後世、孔明の「八陣」と称するものがあらわれ、もともとは「8つの陣」を主軍の周りに配置、という意味だったはずが
いつの間にか「8種類の陣」と意味が変わってしまっていた。
・結論:中国の「陣形」も日本の「陣形」も実戦ではほとんど意味を持たなかった

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4460.html
で真田信之が「戦闘開始後、敵と味方の勢いを見て随時補強が先決、陣形などは二の次、三の次」
というような事を言っているが、実戦の経験がある武将には合戦譚などは笑止千万だったんだろう




65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/31(日) 14:46:26.08 ID:dYdpsyyl
不利になれば重いもの置いて逃げるのが一兵卒だもんな
予備兵投入するか督戦しないと瓦解する

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/31(日) 16:18:16.06 ID:12F+pkU1
>>63
最近は軍事学本増えてうれしい
軍事オンチがこの手の本を書くなやってのは置いといてw

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侏儒どんの年齢

2016年01月30日 17:45

230 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/29(金) 19:34:58.61 ID:9p1svj2Z
侏儒どんの年齢

侏儒どん(徳田大兵衛)は小男のうえに、いつも朗らかな性格であったので、いつまでも若々しくて
年取った様子が見られません。
それでいつも人が集まると、侏儒どんの年齢が話題となっておりました。
ある十五夜の月見の宴の席上で、また侏儒どんの年齢が話題になりました。
「どうにかして侏儒に年齢を言わせてみようじゃないか」
「よかろう、しかし簡単に言うような奴じゃないな、どうやって言わせるかな」
良い方法がないかと一同協議を始めますが中々良い案がありません。
やがて殿様(島津忠恒)が、
「よし、俺に任せておけ、俺が言わせて見よう」
そこに丁度折りよく侏儒どんが入ってまいりました。
「侏儒よいところに来た。今お前の年齢が問題になっているが歌で答えられるか?」
かねてから負けず嫌いの侏儒どんのこと策に乗せられるとも気付かず、即座に
「暗の夜の梨の梢に虫が寄り、今宵の月には波は引くなり」
と声高らかに口ずさみました。
一同は何が何やらわからずポカンとしております。やがて殿様が
「侏儒!!そんな歌ではわからないではないか」
「わかりませんか、さてさて・・・」
侏儒どんは仕方がないと云わぬばかりに説明を致します。
「暗(八三)の夜(四)の梨(七四)の梢に虫(六四)が寄り(計三十六)、
今宵の月に(十五夜で十五、合計五十一)そして波(七三)は引くなりで、
五十一から七三(十)を引いて実際の年齢は四十一歳でございます」
これには一同、大爆笑、大拍手
(日当山侏儒どん物語抜粋五編集)



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:28:37.70 ID:rSbT1qMA
そはだいよw
いっと知らんがおw

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 09:04:34.70 ID:vzsMFvWl
>>230
こんなんあらかじめ準備してたんじゃね?ってレベルですごいわ

髭殿、必死だった

2016年01月30日 17:44

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 01:58:42.81 ID:sUYAW1Cr
サライって雑誌に髭殿がラスボスと 誼みを結ぶ為に必死だった話が載ってた

①天正13年 鯵ヶ沢から船で上洛しようとするが嵐で松浦沖まで流され失敗
②天正14年 矢立峠を越えて上洛しようとするが、比内の浅利氏に阻まれ失敗
③天正15年 兵2000を率いて鹿角に向かい南部領を突破しようとするが失敗
④天正16年 秋田口から上洛しようとしたが、秋田氏の妨害にあい失敗
⑤天正17年 秋田氏と和睦して重臣の八木橋備中を上洛させる事に成功

弘前藩の正史である津軽一統志が出典みたい
いち早く中央と結びつこうとしてたのは知ってたけど、こんなに必死だった
とは知らんかった。

鑑真和上かよ...



233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 02:01:28.14 ID:qxVdg1gg
よかったな髭。

秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事

2016年01月30日 17:43

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 12:34:06.81 ID:OQaqTFvJ
   おきて

一、足さすり候とき、居高なるていをし候者においては、ふちふち十石返させ申すべく事
一、湯殿の裏への供番、代わりたるべく候事
一、秀吉・お祢に口答え候はば、一日一夜縛り申すべく事
以上

天正十三年十一月廿一日 でんか

( 豊臣秀吉文書集二 1757 足さすり等掟)

ちょっとブラックな豊臣家が垣間見える掟
(読みづらいので原文より漢字を増やしてます)



61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 14:30:24.35 ID:g4DmB2LH
>>60
この時代はどこもこうだったのか、それとも厳しい方なのかわからん。

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/30(土) 14:59:09.43 ID:ZGufmnku
天正十三年十一月だと関白になって四国平定した後くらいかな

「犬に食わせよ」

2016年01月29日 18:53

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 02:11:06.15 ID:cFB0egY4
安藤彦四郎はこう語ったという。

「武士の身の上には“伊達”というものがあるが、心得ている者は少ない。
武士の伊達には、討死にまさるものはあるまい」

――『武功雑記』

大坂夏の陣の時、安藤帯刀(直次)の子・彦四郎重能は、徳川秀忠の小姓の
成瀬豊後守(正武)の組であった。

彦四郎は常々人に語り、「およそ武士というものは、長生きして度々戦場に出て、
武功は多くとも死なずして世を送っては、格別に優れた勇士とは言い難い。ただ、
討死することこそ本望である」と、言った。

5月7日になって、彦四郎は「一番首と言わば彦四郎と思いなされ、一番に
討死と言わば、それも彦四郎と思いなされ!」と言い、撓いの指物を巻いて
井伊直孝の先陣へ行った。

そこで彼は庵原助右衛門(朝昌)に向かって、「いざ掛からん!」と言った。
しかし庵原は同意せず、「敵の待ち受けている矢先へどうして掛かることが
できるだろうか!」と、言った。

これに彦四郎は「待ち受けている矢先へ掛かってこそ勇士と言うべきである!」
と言うが、庵原は「いまだ早い!」と言って攻め掛からない。

すると彦四郎は、「さらば私が掛かってみせん!」と言った。庵原は彦四郎を
押し止めたが、彼はまったく躊躇わずに敵の中へ駆け入って討死した。

さて、父・帯刀は馬上で采配を取って諸軍を命令していた。そこへ従者が駆けて
来て彦四郎討死の旨を告げ、「屍をいかがいたしましょうか」と申し上げた。

これに帯刀は「犬に食わせよ」と言いながら、崩れた味方を立て直した。その後、
合戦が終わると、帯刀は大いに嘆いたということである。

――『明良洪範』



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 03:22:56.23 ID:i2sa2dX4
匹夫の勇ってやつかね
子育てに失敗した悪い話だな

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 10:43:13.93 ID:p3p9MENe
ヴァイキングの社会では戦場で勇敢に戦って死ぬとエインヘルヤル
としてヴァルハラに行けるが、天寿を全う、病死、海難事故は藁の死と言われて
地獄行きの恥ずかしい死に方とされていた。

鬼武蔵こそ大正義

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 11:02:32.71 ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-684.html
犬に喰わせろ、の話は既出

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 12:49:15.38 ID:Rw0/EE71
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3368.html
伊達も出典はないが既出だった

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 14:25:15.09 ID:uO/yXBy0
い、伊達

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/29(金) 19:20:01.82 ID:gZducy7M
一番首(討ち死に)=ファーストペンギンの役目ってことなのかな?
自軍を鼓舞するには手柄あげるにしろ死ぬにしろ勇敢に奮戦するところを見せること

ちなみに彦四郎殿は南龍公の茶入だかを酔った末に破損
→自害も覚悟したところを許してもらっており、拾った命と思っていたのもあるんじゃない?

利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので

2016年01月29日 18:51

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 15:06:16.95 ID:et56NdCV
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。

 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。

 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)




「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」

2016年01月28日 12:51

46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 08:10:08.01 ID:mxjf220e
古田織部正は、古くから伝わる器などが完全に保存されているのを、「あまりに思うところがない」として
好まなかった。されば、書画のような物でも、かしこを切りここを裁ち、普通の茶道具も、多くは破損させ
或いは砕いて、それを再び補修し、継いで用いた。世の人々はこれを興あることと思い真似たため、
世の中から全き物は無くなってしまうようであった。

松平伊豆守信綱の実父である大河内金兵衛久綱は、古田織部について近くの人々に、
「彼は必ず禍に巻き込まれて死ぬだろう」と言っていた。
後年、織部は罪を蒙って誅せられた。
人々は大いに驚き、久綱に聞いた
「あなたはどうして、織部があのようになると知っていたのか?」

「古の宝器と聞こえた物も、世々の乱に多くは紛失し、現在まで残っている物は、皆神仏によって
護持されていたからこそ、このように世に残ったのです。それを、己一人の好みに合わせて破損させると
いうのは、必ず鬼神の憎むべき行為でしょう。ならば、それをしている人もまた、身を全うして終わることを
得られない。そう思って言ったのです。」

これは名言であると、古き人の物語を承った。この事は萬に渡り心得あるべきだろう。

(藩翰譜)



47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:10:40.58 ID:WL2rLY7i
言いがかりだなぁ…
たまたま当たったからこうやって記憶にも記録にも残されてるけど
外していたらあっという間に忘れ去られているだろうよ。

安藤さんが本多正純の失脚を言い当てたのも同じようなもんだな。

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:15:29.13 ID:WL2rLY7i
織部のやつ怪しからんって思うのは個人の勝手だけど、織部には織部の思うところ(豊臣の存続?)があって

それの実現のために動いた結果、徳川政権と相容れなくなった。つまり結果論だろう。

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 13:23:35.17 ID:my13jaj9
DQN眼竜「ほんま名物壊すとかロクでもないな」

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 14:36:46.95 ID:jd9xfX/V
破袋みたいなゴミをありがたがってる織部の審美眼はかなり怪しいw

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 14:59:43.17 ID:nTarwUBU
審美眼は人それぞれだから何とも言えないけどわざわざ壊してまで好みに合わせるってのは凡人にはよく分からんなあ
自然に壊れたものに金継ぎしたり鎹打ったりしたものが味が出て喜ばれるってのなら分かる気もするけど

殿下は総じて他国との取り合いを御存じなく

2016年01月27日 18:38

40 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 23:45:07.38 ID:qMlN0UKE
 太閤様は朝鮮陣の時のことです。大明から加勢として名将李如松が三十万騎の総元帥として来たので、日本勢は小勢なので敵わないと、
朝鮮の都を立ち退きました。そこで、加勢の事を朝鮮から次々とお願いに来ましたが、大神君と加賀公の両公へご相談があったといえども、思った程には軍勢が整わなかった。

 殿下は小国に生まれましたので、口惜しくも軍勢が整わなかったと落涙されたという。
一応はその理が無いことではないが、殿下は不学なのでただこのような御上意をなされた事はもったいない事である。
中華とて格別に軍勢が有り余ることはない。民兵と申すものを拵え置いて、用のない時は百姓に、戦の時は組を取り決めておき、官軍にさし加わって働きます。
その方法の子細は中華の書にある。もっとも中華といっても時代によって違うというが、まずは大体この方法で軍勢を拵えると聞いております。
 または乱世では亡命無頼の者が最終的に天下を取ることもあります。このような事は日本神国で昔から無かったのは、無類の神国であるからと思われます。
殿下が遠征を思われたときにかねてから軍学者とご相談がありましたらこの後悔は無かったでしょう。
 その賢慮がなく却って本朝を小国と後悔されたことは、禁裏に対し甚だおそれあるお一言であり、諸事思い違いが多かったので、御代は永くなかった。

41 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 23:46:14.21 ID:qMlN0UKE
 殿下は総じて他国との取り合いを御存じなく、下賤から日本を手に入れなさった考えでは、大明からの加勢で大いに思い違いをなされました。
このように、上見ぬ鷲とやらであり御利運になっても、朝鮮と我朝は海路で隔たっているのに、そのうえ秀次公のような人柄、器量が少しもない人を関白に進ませながらの御遠征は
始終のところ何の益もなく、兵は貪兵と申す類となり、朝鮮大明人などは倭奴入寇とけなす事は本朝の恥と言えます。
 終いには大明のあぶれ者の沈惟敬と申す説客が、大いに大明と日本をだましました。
この一件は小西行長、沈惟敬の受け持ちであり、大明から王号衣冠を贈られたことを、殿下は大明から我朝の尊さゆえに贈られたと心得られていた所、
その文章が甚だ横柄で、日本国王に封じたので朝鮮国王と和睦せよ、との事であったのでまた取り合いが始まった。
 この事は中華は外夷へ王号を贈り、中華の正朔(暦と年号とのことである)を請けるという事からきている。
つまり琉球なども薩摩公の御下知に随いながら、中華の正朔を請けており、中華の勅定によって王号を代替わりに申請しており、
外夷はみな二八月に貢物を捧げることなど、全く御存じなかったので、殿下は大いに思い違いをなされ、終いにつまらぬ和睦となってしまいました。

 なんにせよ民兵の事は天領私領問わずいてほしいことである。また民兵が始まりましたら、これまで書いてきました様に、甚だ工夫が必要な物だと思われます。
(本阿弥行状記)



昨日、不始末をし叱った坊主を

2016年01月27日 18:37

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/27(水) 08:33:42.92 ID:QK5rajFN
土井大炊頭が、坂崎出羽守愛用の三池典太の脇差を所望し、家臣の寺田某を
坂崎の屋敷に遣わした。寺田から話を聞いた出羽守は
「大炊様から脇差を所望されたのは、名誉なことである。斬れ味
を確認して頂いた上で進呈することとしよう。」
といい、家老を呼び、罪人がいるかどうかを尋ねた。
家老が
「今日はいません。」
と答えると、出羽守は
「昨日、不始末をし叱った坊主がいるだろう。そいつを
連れてこい。」
といい、連れてこられた坊主を木に吊るし、その脇差を抜き打ち
に胴切りにし、坊主の体を両断した。その一部始終を寺田に
見せた上で、脇差を渡した。

坂崎の凶暴さとともに、脇差の抜き打ちで胴を一刀両断にする
恐ろしい腕の冴えを伝えるお話し。

「元禄世間話風聞集」



43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 10:07:02.40 ID:bmM4omYX
試し切りされる程の不始末ってどの程度の物なんだろ?
三才様家の庭師レベルなんだろか?

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/27(水) 12:27:56.12 ID:+L0D7x0A
銘「大炊、刃に丸」

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 01:54:28.78 ID:jd9xfX/V
土井利勝に刀をもっていかれてムカついたんだろうなコレw

週間ブログ拍手ランキング【01/21~/27】

2016年01月27日 18:33

01/21~/27のブログ拍手ランキングです!


【ニュース】豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見 23

鬼武蔵大河出演が決まったそうだが 19

その頓才は実に驚くべきものであり 18
生駒騒動 11
治世に乱世を忘れざるの一助 11

かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 9
鏃をその場で抜かない場合は 9
しかしこれによって異国と本朝は 8

雑談・独裁者についてなど 7
車懸りや座備が何だというのか 7
葛西・大崎一揆勃発 6

了意和尚の話されることには、 5
楽焼の事 5
秀吉公とても忠義の人に非ず 5
親に不孝な人は運が悪いと申すことは 6


今週の1位はこちら!【ニュース】豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見です!
秀吉が脇坂安治に送ったとされる書状が大量に見つかったというニュース。いろいろ興味深い内容がたくさんありますね。
秀吉が細かいところまで指示を出しまくっているという話には、さすが加藤清正の師匠だな、なんて思いましたw
あと、秀吉が「信長の時のように甘くはないぞ。」と書いている部分、『如信長時』と書いていて、これは「尊敬表現としての諱呼び捨て」
ではないですね。ものすごいドライな感情を感じます。
豊臣秀吉という人物を、さらに立体的に見ることの出来る史料だと思います。

2位はこちら!鬼武蔵大河出演が決まったそうだがです!w
ついに鬼武蔵がw大河ドラマ「真田丸」では、信濃国衆をかなりピックアップしているので、鬼武蔵という異名の元になったとも
言われる、人質引き連れての信州脱出をやるのでしょうね。
あの時の人質については、皆殺しにされたというものと、全員無事に返されたというものの、2説が存在しています。
果たしてどちらを取るのか。そういった部分も含めて楽しみですw
参考
森長可、川中島郡撤退

今週管理人が気になった逸話はこちら!
かぎりあれば 吹かねど花はちるものをです!
蒲生氏郷の、その若き死に関するお話ですが、氏郷という人も、将来をかなり嘱望されていた人物なだけに、そのあまりに早い
死に関して、秀吉が毒殺したのだ、という雑説が巻き起こったのは、同時代資料にも出てくるので事実のようですね。
そしてその黒幕が、石田三成だと言われたことも。
個人的には、三成にせよ秀吉にせよ、彼らが氏郷を毒殺するなんて、非常に荒唐無稽な話だと思っています。
というか本当に邪魔なら堂々と捕らえて切腹なり斬首なりさせるでしょう。そのくらいの権力を秀吉は持っています。
ただ、ここで重要なのは、同時代の人々が、秀吉の政権、またその実力者である石田三成は、そういうことをしてもおかしくないと
認識していた部分なのでしょうね。そういう部分から、当時の民衆の、豊臣政権への体温のようなものを感じられるかもしれません。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてください!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

【今読んでいる歴史本】
落日の豊臣政権 秀吉の憂鬱、不穏な京都 著:河内 将芳

戦国の陣形 著:乃至政彦

怪しいものたちの中世 中世人にとって「宗教」とは何だったのか 著:本郷恵子

マンガで読む真田三代 すずき孔 (画) 平山優(監修)


生駒騒動

2016年01月26日 17:55

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 17:01:09.85 ID:H4d7WJ4x
生駒壱岐守高俊は、藤堂高虎の外孫であり、土井利勝の婿であった。しかし彼は天性愚かなる人物で、
世の笑い草に成る事ばかり多かった。

生駒家の家老、石崎若狭・前野助左衛門という者二人は常に江戸にあり、中でも前野一人が
計らいとして生駒家全体を差配していた。それは在国している家老等には納得出来ないもの
ばかりであったが、前野は常に「御舅土井殿の仰せである」或いは「幕府執政の人々の旨を得ている」などと
言い送ったため、「ならばかの人々の仰せに背くのは、家のため然るべからず」と、曲げてその旨に従った。
そのようであったから、生駒家の政治は日々月々に善からぬこと多くなって行き、武士も領民も怨み苦しんだ。

ここに至り、在国の家老である生駒将監は「このままでは家が滅びるのも遠からず」と、密かに江戸に参り、
幕府の執政の人々に「高俊が家の事すべからく、早く関東よりのご沙汰を止められ、父祖の例によって
国の静謐を致すべきです!」と訴えた。

これを聞いた執政の人々大いに怪しみ、先ず前野助左衛門を召喚して尋問した。しかし前野は
「皆様の御下知を承らない事を、私がどうして国元に申し送るでしょうか?」
そう陳じた。このため生駒将監前野助左衛門の両名を召して対決させた。

生駒将監は何も言わず、懐中より一枚の書状を出して執政の人々に捧げた。
彼らがこれを見てから「それを前野にも見せてください」と申し上げた。
前野はその書状を見ると思わず吹き出し、執政の人々に向かって言った

「これは将監の元から鯛二つが送られた時、私が送った礼状です。一体どういう意味があってこんなものを
ここで披露するのか。こんな不思議の事をやるような男ですから、今回のように跡形も無いものを訴えたり
するのですよ!」

将監、人々に向かい
「この書状は前野自ら書いたものか否かを尋ねて頂けますか?」
前野は人々より聞かれるより早く「勿論私が書いたものだ」と応えた。

「ならばその書状を返していただきたい。」そう言ってこれを再び懐中に戻すと、今度は別に大量の書状を
取り出した。それは数年に渡り、前野が、土井利勝を始めとした幕府執政の人々の仰せを承ったと騙り、
自らの心のままに国務を沙汰した文書であった。それらは全て、前野自身の筆跡であった。

ここに至り前野は争う様子もなくひれ伏した。執政の人々大いに怒り、彼を即座に搦め捕って禁獄した。
そして即座に生駒高俊およびその家臣たちを召喚し

「高俊が天性愚かである事、知らないわけではなかったが、父祖の功を捨てられぬため家を継がせたというのに、
このように家が乱れた上は、今後国を与えておくわけにはいかない。
しかし、心が至って愚かである以上、その罪も重くはない、とも言える。」

そう沙汰し、別の義を以って所領一所を賜った。
前野は一族尽く誅せられ、石崎若狭は、同じく江戸にあり、前野の振る舞いを見ていながら彼に従ったこと、
その罪逃れるべからず。しかし前野とは罪の科は同等であるべきではないと、誅殺は彼自身のみに留まった。
その他の家臣たちも、その罪の軽重によって尽く刑が行われたという。

(藩翰譜)

「馬鹿だから罪一等を減ずる」というのもひどい話ですな。



39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 17:13:55.78 ID:Kn7fuvcZ
現代の精神鑑定してなんちゃらってのと同様やね。昔の記録にもちょくちょく出てくる

葛西・大崎一揆勃発

2016年01月25日 15:16

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 01:40:42.53 ID:GtrZCsB2
天正18年8月、豊臣秀吉は奥州会津・白河・二本松において90万石を蒲生氏郷に
与え、葛西・大崎を木村伊勢守(吉清)に与えた。伊勢守は登米にいて、嫡子の
弥一右衛門(清久)は古川におり、家来各々へ知行を分け渡した。

その中で岩手山を領する某という者は、自領内の農人の子を召し抱えて、小姓に
使っていて、いつも自分の髪などを結ばせた。

その某は前述の小姓の親に非分の事を言い掛けて苦しめていた。その親を、死罪に
すると決まった時、その小姓はいつものように主人の仰せにより、髪を結び掛けたが、
やがてその髪を取って某を引き倒すやいなや、一刀で某を刺殺した。

この事は誰言うとなく領内一円に知られ、たちまち百姓一揆が起こり、その日のうちに、
木村父子の家来を30余人打ち殺した。

これより一揆はますます大勢になり、国中が騒動に及んだので、伊勢守は古川へ
行って弥一右衛門と一所になろうと乗り出し、弥一右衛門は登米へ行って父と一所に
なろうと乗り出した。2人は途中で出会い、それから父子は佐沼の城へ籠ったが、
終いには家を亡ぼした。

――『明良洪範』



鬼武蔵大河出演が決まったそうだが

2016年01月25日 15:16

森長可   
14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 12:23:36.93 ID:3Cxazat6
鬼武蔵大河出演が決まったそうだが例の逸話を全国ネットでやってしまうのか?

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/mori_nagayoshi.html#mainContents

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 12:34:25.11 ID:JTtuyOsL
農民相手に敗走する赤鬼っすかw

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 13:19:03.18 ID:8+YSOaBQ
関所の逸話ですね。分かります

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 14:18:58.07 ID:ugeCPIAk
>>14
例の逸話って、どの逸話?
26歳で死んだ人とは思えないほど逸話が多い人なので。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 15:31:23.82 ID:yWDanqGL
信州で鬼武蔵と言えば、国人たちに色々親切にしてあげてたよね
烏帽子親になってあげたり...

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 16:23:48.67 ID:aCutGqKr
>>18
いい話だなー(棒)

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 16:45:41.45 ID:w9485U0J
でも烏帽子親になって森姓与えても結局自ら殺しちゃってるけどね

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 18:18:57.84 ID:SKaJqW/h
真田が主人公なんだから滝川さんがちょっといい話で去っていく中で「一方信濃では…」って感じで紹介されそう

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 18:21:02.32 ID:mzR+6PaL
ヒャッハー状態であった…

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 18:55:04.65 ID:ZMWEDtlT
天皇の名を叫びながら民間人を犯した関東軍と通底するものがあるよね

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:22:29.21 ID:mzR+6PaL
獅子心王じゃないけど
鬼の意味がヒトによって違うよなw

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:22:46.51 ID:ugeCPIAk
鬼武蔵のキャスト、まだ公表されてないんだな。
このスレの鬼武蔵みたいな、極端な悪者にしてほしくないが。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:29:12.53 ID:Oh2x50Ry
>>25
出てるぞ

森長可(谷田歩)
http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/mori_nagayoshi.html#mainContents


27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:42:37.15 ID:ugeCPIAk
ほんとだ。
でも、イケメンぽいけど年齢が高過ぎないかな?

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:44:14.85 ID:RkQTRoUZ
森長可(谷田歩)
もし、この鬼武蔵が頭良くて権謀術「数」、「計」略に富んでたら
タニタ歩数計と呼ばれて

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:44:59.81 ID:SKaJqW/h
江の信忠と同じ人らしいな…あんま覚えてないけど
野武士っぽい感じだな

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 19:48:47.09 ID:RkQTRoUZ
しかし今までなら、「森蘭丸の兄」と説明がつきそうなもんだけど
もう森長可単独で知名度高くなったから、弟については書いてないのか

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 21:15:34.06 ID:6uxYqnph
まぁ元々可成の跡継いだ森家の棟梁と言えば長可の方なんだし今までが空気過ぎたんじゃないのか

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 23:29:18.20 ID:8+YSOaBQ
なんか最近は森蘭丸の影が薄くない?
蘭丸くんの逸話とかあんまりないのかな

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 06:01:49.94 ID:aR5Bs2au
たしかに、歴ヲタの間では、なぜか微妙に影薄いな>蘭丸
ゲームでもいるにはいるけど、やっぱ微妙にキャラ立ってないし

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 07:38:18.96 ID:aRcSoxjZ
小賢しい逸話しかないからな
本能寺が宿舎になったのもこいつのせいだし傾国美童といっていい

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 10:05:00.54 ID:0IydTtIn
20前で死んでる小僧だしそう目立った逸話は本当はない

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 13:06:33.49 ID:S9dHEqe8
武将というより事務官だからしょうがあるめぇ

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/26(火) 13:12:50.25 ID:Kn7fuvcZ
使者や奉行もやった仙千代やQ太郎とは違って内々の事しかやってない段階で死亡だからな

了意和尚の話されることには、

2016年01月25日 15:16

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/24(日) 17:02:55.34 ID:glXQjhzz
了意和尚の話されることには、

「最近の僧侶は消極的で自分の目先のことだけ守っている。
自分のことを守るのみがなすべき仕事だと思い込み、腐り果てている。
役に立たない。逃げ尻の腰抜けというしかない。
私はもう歳を取ったが、どこぞからお呼びがかかればすぐにでも駆け出す覚悟でいる。
金沢の大乗寺を隠居してから、関東にくだり三つの寺を駆け巡り、
性根を据えて、どうにか少しばかり落ち着きたいと思っていたけれども、
雑用ばかりで心のままにならず、残念なことではある。
昔の侍は、布団の上で死ぬことを無念に思い、戦いの場で死にたいとのみ願いを込めたものだ。
僧侶もこの心を持たなければ、道を成し遂げることは出来ぬ。
人の間を避けて引きこもりたがるのは腰抜けである。
引きこもってなにか善いことをするかと思えば欲心ばかりである。
仮に引きこもって善いことをしても、それでは世に影響を与えて、道なき道を拓くことなど出来はしない。」

とのことである 【葉隠】



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/24(日) 23:41:09.64 ID:1wGSzzmV
了意和尚(1612-1691)
島原の乱(1637年)までと長くみつもっても、戦国時代の人物とみなすのは無理がないか
葉隠の中でも戦国時代の人物についての話を選んだほうが反感を買わないと思う

楽焼の事

2016年01月25日 15:16

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/25(月) 06:52:19.75 ID:lrPzvY3Q
 楽焼の事
飴屋長次郎の親は中華の人である。長次郎は陶器を焼き始めたので飴屋焼と言った。
天正十二年豊臣殿下が樂という字の印を贈られたので、これを姓として樂焼と言い始めたという。
今の吉兵衛は樂の制作に関して非常に優れている。

私たちは吉兵衛にうわぐすり等の伝を譲り受けることができたので慰みに焼くことができている。

後代吉兵衛の作は重宝するだろう。しかし現在は先代よりも苦しい様子である。
総じて名人は皆貧乏なものである。
(本阿弥行状記)



車懸りや座備が何だというのか

2016年01月24日 16:48

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/24(日) 01:52:33.44 ID:1oPsJCju
豊臣秀吉は陸奥に赴く時、宇都宮で佐野天徳寺(房綱)を呼んで物語りをさせた。
天徳寺が武田と上杉の合戦の勢いが盛んであったことを語ると、秀吉は嘲笑い、

「おい天徳寺、謙信と信玄という坊主も早く死んだことは幸いであるな。

今も生き永らえていたなら、1人には薙刀を担がせ、1人には我が輿の先で朱傘
を持たせて馬の前に召し具したろうに、この世にいなければどうしようもない。

車懸りや座備が何だというのか。全て戯言である」と、言った。
(何條車がかり、坐備、皆戯言なり、とぞ言はれける。)

――『常山紀談』



12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/24(日) 02:14:30.64 ID:Xhod1L9J
生きていたら織田がどうなっていたことやら…

かぎりあれば 吹かねど花はちるものを

2016年01月23日 10:10

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 18:52:25.90 ID:Ckr/msp4
蒲生氏郷は名護屋に陣していた文禄2年の春、俄に体調を崩し下血夥しく、諸医術をなしたるも
験無く本国の会津へと帰還した。
同3年正月、病をおして上洛した。この年の11月、太閤秀吉は氏郷の邸に入り、饗宴の事があった。
その後も氏郷の病は日々重くなり、40歳という、文禄4年2月7日、都において死去した。

『かぎりあれば 吹かねど花はちるものを 心みじかき春の山風』

この歌を、氏郷は仮初の筆ずさみのように書き残していた。
この歌についてこういう説がある

去る天正19年、九戸での戦いが終わり、石田三成は都に帰還すると秀吉にこう報告した

「今回、蒲生氏郷が軍を運用する模様を見ましたが、彼はただ人ではありません。
彼の軍勢が道を通過するのに、7日ほども引きも切らないほどでした。
その上一人も軍法を犯すものがありません。

彼は殿下のお為に、二心を持たない限りは、あのような御固め世にも二つとないでしょう。
能く注意して見ておくべき人物だと思います。」

これを聞いて秀吉は、氏郷に密かに毒を與え、それによってたちまち病に冒され、終に空しくなった。
氏郷はこのことを察していて、このような詩を綴ったのだという。

(藩翰譜)




7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 19:48:52.60 ID:8sLYXkgQ
徳川の世だし、悪口しかないよね

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 20:39:59.59 ID:nTLumAyT
まぁ、結局辻褄の合わない話が多いね
後世の創作は…

秀吉公とても忠義の人に非ず

2016年01月23日 10:09

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/23(土) 01:51:56.84 ID:OQs1dSBS
 唐土も本朝も、主君が征伐なさる官軍の他は皆貪兵と申すもので、戦に負け滅亡すると大将へ罪を負わせるものであります。
義兵は至って稀なものと考えております。

 これについて明智日向守(光秀)殿が悪人である事は誰もが存じていますが、
この人としても老年ということもあり、善悪の区別が無い人ではなかったが、信長公の御心が小さく
御身亡き後の信忠公の代で軍学といい、武術といい、その代に並びない日向守を生かしておいては、天下危うしという
信長公の深いお考えから、光秀に無理ばかり仰せられ、必ず謀反を起こすだろうという程の御仕置きをなされたので、
却って光秀が先をとったものと承っております。

 秀吉公とても忠義の人に非ず、信長公の御孫信秀公を天下へ据えられるところを、自分自身が天下をお取りなされました。
不忠不義は日向守も同じ事でありますが、秀吉公の悪はめぐり合わせがよく隠れているだけでございます。
(本阿弥行状記)

ここでは、本能寺の変は怨恨説ですね



10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/23(土) 08:57:07.53 ID:sF8lhDa4
本阿弥はなんか太閤に親でも○されたの?
太閤の治世は色々問題があったとは言え、ここ最近の本阿弥系統の逸話は悪口が多いように感じる

悪い話スレだから仕方ないかも知らんが

親に不孝な人は運が悪いと申すことは

2016年01月22日 17:08

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 23:02:07.90 ID:XY4nnJys
親に不孝な人は運が悪いと申すことは天のなすことである。
 
 今武田流は軍学に一あって二ない軍学であるが、その軍学も間に合わず武田家が滅亡したのは何事であろうか。
 これは信玄公が父信虎公へ不孝であり、その他にも甚だ残忍なことがある大将なので、滅亡なさったのだろう。

 また、川中島合戦は古来から甚だ難しく、この戦で信州一円を信玄は領しなさりましたので、まずは勝ち戦の様に聞こえますが、
武田家は御舎弟左馬頭信繁殿をはじめ、歴々の名のある武士に討ち死にが多かった。
上杉家には格別名のある武士の討ち死を伝え聞いておりません。
 そうであるなら勝ち負けはまずなく互角の戦で、武田家は名のある武士を討ち死にさせて、信州一円を取りなさり、
上杉家は名のある武士を打ち取って、信州を武田家に渡されたということであろう。
(本阿弥行状記)



【ニュース】豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見

2016年01月22日 17:07

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 01:29:50.31 ID:swulrW9l
【社会】豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見、東大の研究グループが復元・分析「しつこいくらいの細かい性格がよくわかる」
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1453368923/

豊臣秀吉が家臣に送った手紙33通発見 東大グループが復元・分析
01/21 17:54

豊臣秀吉が家臣に宛てた手紙33通が、まとめて発見された。

ずらっと並べられた書状。
400年以上前、豊臣秀吉が家臣・脇坂安治に送った手紙33通。
保管先の火災で、一部燃えたり、水浸しになったりと、状態は悪かったものの、
東京大学の研究グループが復元・分析した。

東京大学の村井祐樹氏は「豊臣秀吉のしつこいくらいの細かい性格がよくわかる。
佐賀から材木を出せということについて、何度も何度も、あるいは伊賀国の統治の仕方について、
あわせると、1年間で10点くらい、たびたび細かい指示を出している」と話した。

豊臣秀吉が徳川軍と戦っていた時代にも、家臣に材木を集めさせ、
橋や建物の建築にも力を抜いていなかったことがうかがえる。

これらの手紙を受け取った家臣・脇坂安治は、豊臣秀吉にとって、
自分が一から育て上げた部下のような存在だったという。

FNN
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00314235.html
(ソースに動画あり)



219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 06:42:12.55 ID:Jo6vIzfY
昔の人は筆まめだねえ。

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/22(金) 07:10:35.47 ID:acrmqYQp
まぁ昔の人が今のメールやラインみたら逆にそう思うだろ

しかしこれによって異国と本朝は

2016年01月21日 17:38

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 05:15:56.58 ID:TEmnWNJ0
文禄の役の講和のため、大明・朝鮮の伝奏が来日することは、小西行長石田三成を通して
報告していたので、秀吉もかねてより、馳走すべきであると、その歓待のため家臣を奔走させた。

伝奏が登城すると、秀吉は上壇に着座し、伝奏は次の間に置かれたのを、伝奏は通詞を以って
秀吉に訴えた

「日本国太閤秀吉、大明国に和を乞うた以上は我らと同輩である。
そもそも私は、この冠を太閤に御免なされる勅使なのだから、太閤の態度は無礼である。
太閤は次の間に下り、大王より御免なされた勅書、冠を頂戴すべきである。」

これを聞いた秀吉は以ての外に激怒し、小西が表裏を言ったのだと思い、
「この冠を捨てよ!」と命じ、庭に捨てさせた。
そして明皇帝からの勅書を台長老、哲長老に読ませ、その内容を聞いた所、小西が報告したこととは相違し、
先ほど勅使が言った通りの内容であった。

秀吉はますます機嫌を悪くし
「この秀吉を大明国王の婿とし、朝鮮四道を割譲すると、小西が申した故に、軍勢を釜山浦まで引き取り、
朝鮮の王子たちも返したのだ!どれほど後悔しても及ばない。小西を呼べ!!」

そして呼び出された小西行長を見ると、「こやつの首をはねよ!」と怒ったが、小西は色々と
詫び言を申し上げ、また石田三成からもたっての取り成しを申し上げたため、当座の難を逃れた。

しかしこれによって、異国と本朝は再び手切れとなったのである。

(續撰清正記)



雑談・独裁者についてなど

2016年01月21日 17:37

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 16:55:15.78 ID:yZOpTE7P
劉邦、朱元璋なんかも最後の方は猜疑心の塊みたいになってたし
独裁者というのは、自分の政権を誰かが転覆させるんじゃないかという
強迫観念に必ず襲われるからな

曽呂利みたいな道化がいなかったら、秀次事件以上の粛清の嵐が発生していた
だろう。
つまり、曽呂利は家康の大恩人。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 18:17:50.86 ID:/uw8fHcl
それはあるかもね
独裁者というか基盤地盤を持たずに成り上がった人間は怖いんだろね
自分みたいな奴が現れたらと思うと

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 18:32:23.99 ID:tl6YVjYO
>>200
家康が豊臣家を徹底的に抹殺したのも同じ理由だったんだろうな

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 19:59:12.56 ID:zvCPSfLJ
秀忠でさえ色々な大名を潰しにかかってたよな

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/20(水) 20:18:35.18 ID:6ktvD0p2
まぁ、清盛なんかは情けをかけた結果があれだったし

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 20:25:30.92 ID:ZjOTw8Px
創作なんかだと家康は豊臣に寛大で秀忠が潰したがってるよね

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 20:28:04.45 ID:/uw8fHcl
それ原哲夫だろw

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 20:32:51.06 ID:ry+NMqZj
つか史実でも家康は決して豊臣を滅ぼそうとはしてないんだよなあ。
大坂の陣の後でも、秀頼の男系を処刑しただけだし。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 21:51:54.97 ID:WF3cKGfg
そもそもやる気満々で浪人囲いまくってんだから
それを見逃したら頭沸いてるとしか

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 23:00:26.07 ID:DnMYjG3n
秀頼さまが、媚びて生きるより、戦って滅びる思考だったのもあるんじゃないの?

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 23:20:07.79 ID:xVgyn3Zo
死ぬなら独りで死ねよ
巻き添えになった家臣はたまったものではない

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 23:43:50.44 ID:S5kACRif
それでもついていったんだろ。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 23:58:32.17 ID:/uw8fHcl
せめて出陣してればな

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 00:25:03.68 ID:39WG4Oxb
家康の愛読書が吾妻鏡な時点で、何をしても秀頼は死ぬ運命だった

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 05:57:20.21 ID:xBl4YKwz
>>213
「貞観政要」もそうだけど、「吾妻鏡」が家康の愛読書だったって説はちょっと微妙だと思ってる。

家康の文か活動って豊臣政権の頃から、散逸した書物を集めたり写本を入手したりしてたけど、
かなり手広く集めてて、特定の書物に傾倒してる様子が見られない。

あと講釈させてたのも他の書物ばかりだし、本当に愛読してたら「東鏡綱要」なんて作らせんだろう
とか、まあ色々と

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 06:42:50.58 ID:A+JIfymX
>>210
最近話題のSMAPとマネージャーみたいだな

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/21(木) 09:36:36.69 ID:Q0PPCEFm
そら寝食を供にしたマネだぜ
当然下の世話もしとる
暴露されたら終了

その頓才は実に驚くべきものであり

2016年01月20日 19:18

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 03:18:16.12 ID:8QvfyOqv
ある日のことだが、かつて豊臣秀吉は数多の金銀の蟹を作らせ、それを
庭の泉水、あるいはそのほとりに放って楽しみとした。

しばらくすると秀吉は、「見飽きた」と思って、近習の者に、「何ぞ一用を
言い出した者にはこれを与えよう」と、言った。

これに皆々は大いに喜び、「臣はこれを紙押さえにします!」とか、「臣は
金の茶釜の蓋さえもないので、せめてこれをその蓋のつまみにします!」
とか、あるいは何と言い、こうと言い、各々1個ずつを賜った。

その中で曽呂利新左衛門がどのように乞うたかというと、「臣は人の相撲は
既に見飽きたので、この蟹を集めて相撲を致さんと存じます」とのことだった。

これに秀吉は、「相撲となれば5個や10個ではその興も薄かろう。ことごとく
持って行くがよい」と言って、残りの蟹を全て新左衛門に与えたということだ。

その頓才は実に驚くべきものであり、また感ずべきものである。

――『常山紀談(異本に拠る)』



196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 06:43:37.38 ID:nFk5QTFx
>>195
曽呂利新左衛門のエピソードを聞くと
とんちが利くと言うより、秀吉の喜ぶ事を熟知しているって気がする

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 07:06:27.14 ID:BQ9uWYM5
正体が幽斎様だとしても驚かない

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 07:06:58.43 ID:/uw8fHcl
うん、周りからはすげー嫌われてそうなイメージ

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 08:13:07.91 ID:1vfJMcPu
秀吉の逸話の中でしか語られないからやっぱそういう人物だったんだろうな

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 16:55:15.78 ID:yZOpTE7P
劉邦、朱元璋なんかも最後の方は猜疑心の塊みたいになってたし
独裁者というのは、自分の政権を誰かが転覆させるんじゃないかという
強迫観念に必ず襲われるからな

曽呂利みたいな道化がいなかったら、秀次事件以上の粛清の嵐が発生していた
だろう。
つまり、曽呂利は家康の大恩人。

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 18:17:50.86 ID:/uw8fHcl
それはあるかもね
独裁者というか基盤地盤を持たずに成り上がった人間は怖いんだろね
自分みたいな奴が現れたらと思うと

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 18:32:23.99 ID:tl6YVjYO
>>200
家康が豊臣家を徹底的に抹殺したのも同じ理由だったんだろうな

鏃をその場で抜かない場合は

2016年01月20日 19:18

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 03:55:31.01 ID:8QvfyOqv
朝鮮出兵の際、晋州の城攻めの折に、加藤清正の家来・矢木八右衛門
という者は、具足の綿噛に矢を射付けられた。

これを取って抜くと、矢柄だけが抜けて鏃は止まってしまった。しかし、
その場は差し迫っていたので、鏃をそのままにして城へ乗り込んだ。

さてその夜、矢木は陣屋へ帰って鏃を抜こうとしたが、肉に食い込んで
締まり、抜けなかった。そこで傷を足で踏み付けて鉄鋏を使い、ようやく
鏃を抜いたということである。

ある老功の者が言ったことには、「鏃をその場で抜かない場合は、肉に
食い込んで締まり、抜けないものだ」ということである。

――『常山紀談拾遺』



治世に乱世を忘れざるの一助

2016年01月20日 19:18

994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/20(水) 03:59:55.98 ID:HSsoKgow
 尊氏公の御血脈の阿波公方の子孫の足利左兵衛殿は今でも浪人です。かような貴族をはじめ、古き名家の子孫には、
なにとぞ堪忍分(客分や討ち死にした家来の遺族に与える俸禄)でも贈ってほしく、これが天下の御仁政の一と思います。

 そのほか、蒲生、福島、加藤などの浪人衆に、功名の者が数人いるでしょう。甚だ残念な者には、
自然と一揆などの大将となっては、主君に仕えていました時より外に遠慮がなくなりまして、器量も十分に執り行い、
ついには公儀の苦労となりましょう。国々で領主が調査して、彼らにもまた堪忍分として召し抱えてほしく思います。

 治世に乱世を忘れざるの一助かと思います。
(本阿弥行状記)

確かに、阿波公方の扱いは面倒くさそう



週間ブログ拍手ランキング【01/14~/20】

2016年01月20日 19:11

01/14~/20のブログ拍手ランキングです!


軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があって 36

義光がここに侍っている以上 24

この湘南宗化の功である。 23
「論語猿」の逸話・続撰清正記ver. 20

一代の不仁残忍の報いであり 18
長持ちアサガオ 18
願わくば1日、御耳の匂いを御嗅がせくださいませ 17

不吟味なる若輩者共の申し分 13
細川家の取り成しで 11
上杉謙信「我が国の武徳も衰えたものだ!」 10

講談、寛永御前試合では 10
生活の状態が悪いのでこのようなのである。ああ。 9
中野神右衛門が子供たちに言っていたこと 8

岩龍島由来 7
これは加藤清正を呪詛する儀式であり 6
公はめざとくそこを見咎め 5
加藤清正「そんなの知らんがな」 2


今週の1位はこちら!軍書狂夫「午睡之夢」っていう小説があってです!
こんな怪しい小説があったなんてwストーリー的には江戸期の読み本の伝統を受け継いでいる、という感じもしますね。
それにしても文字通り破天荒な小説だなあ。どこかでこれを、現代風に翻訳して見たり、マンガなどにしてみるという方は
いないものかwそう思うくらい、デタラメだけど妙な熱さのある小説だと思いましたw

2位はこちら!義光がここに侍っている以上 です!
最上義光と徳川家康のつながりはかなり古く、一次資料では確認されないものの、義光と信長の取次も、家康が行っていたと
言われます。また小田原の陣では家康を通じて秀吉に遅陣についての報告をしていたのは有名ですね。
中央政権において、家康は義光の、一種の後見人だったと考えていいでしょう。
ただ、中央政権内部の関係性を超えて、義光が家康の、一種の組下大名のように行動するようになったのは、やはり
秀次事件の影響が大きいのでしょうね。あの事件は義光を初めとして、多くの大名に、豊臣政権というものを見限らせたと、
個人的に考えています。秀吉自身はアレを権力の強化と考えていたでしょうから、つくづく秀吉ほどの傑物でも、
権力の中にいると自分自身の姿が見えなくなるものなのだなと、哀愁のようなものを感じます。

今週管理人が気になったお話はこちら!長持ちアサガオです!
この、家康の側室であったお万の方(養珠院)というのは一種の女傑でして、側室というだけでなく、家康の重要な側近の一人
であったと言ってもいいでしょう。
大阪冬の陣では、家康の意をくみ、大阪方との交渉責任者として和議を成立させるなど、大活躍をしています。
このあたり、今年の大河「真田丸」でも、今後描かれるのでしょうね。実に楽しみですw
そんな、並の大名では叶わないほどの、お万の方の傑物っぷりが良く出ている逸話だなと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつもありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

上杉謙信「我が国の武徳も衰えたものだ!」

2016年01月19日 18:18

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 09:41:28.27 ID:sbbHpyFn
上杉輝虎が、石坂検校に平家物語を語らせこれを聞いていた時、鵺の段にてしきりと落涙した。

側に居た者達が不思議に思うと、輝虎はこのように言った

「我が国の武徳も衰えたものだ!
昔、鳥羽院の時代、禁中に妖怪があったが、八幡太郎義家が弦を鳴らして『鎮守府将軍源義家!』と
名乗っただけで、妖怪はたちまち消えたという。
その後源頼政は、鵺を射てもなお死なず、伊野隼人が刺し殺して止めを刺したと聞く。

義家が鳴弦したのは天仁元年のことだ。鵺の出たのは近衛院の仁平3年であるから、この間
僅か46年だというのに、武徳は既にこれほどまでに落ちている。

現在は頼政の時代から450年。私自身も頼政の武徳からはるか遠く劣っておる。なので、思わず涙を
流したのだ。」

(常山紀談)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 11:15:01.83 ID:lo0+gfwY
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6549.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5189.html
一応既出、出典が違うけど

この湘南宗化の功である。

2016年01月18日 13:53

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 22:18:58.56 ID:ztzdwhA7
天正十三年旧暦十一月二十九日の深夜、近畿・東海・北陸一帯を強い揺れが襲った。
いわゆる天正地震である。
この時の近江長浜城主は山内一豊だった。
水辺の軟弱な地盤に築かれた城は城下町ごと崩壊し、各地で火災が起きて死傷者が多く出た。
折悪しく一豊は京都にいて、城は一豊夫人と家老たちが守っていた。
一豊と夫人の間には「およね」という六歳の一人娘がいて二人はこの子を可愛がっていた。
だが地震は夫人と姫の寝ていた長浜城の御殿をつぶしてしまう。

地震直後に駆けつけてきたのは家老の五藤市左衛門だった。
深夜のことで何も見えなかったが、御殿のあった辺りから声がした。
「市左衛門か?」
一豊夫人の声がする。
市左衛門が「はい」と答えると「およねは?」尋ねられた。
夫人は倒壊した御殿からなんとか抜け出ると闇の中で娘を探していたのだ。

市左衛門は姫は無事ではなかろうと思いつつも夫人を避難させるため
「ご無事でございます」と嘘をいって安全な場所に連れて行った。
そしてすぐに引き返して御殿の屋根を切り破って捜索したところ、
棟木の下から姫が乳母とともに息絶えているのが見つかった。

夫人は覚悟していたもののその嘆きは深かった。
やがて急を聞いた一豊も駆けつけてきた。
かつて矢で頬を貫かれても平然としていたこの男は、変わり果てた娘を前に周囲もはばからず号泣したという。


その後一豊夫人は城下で捨て子を見つけた。
藁のかごに入れられて短刀一振があり、武士の子と思われた。
一豊夫人は哀れに思い、その男児に「拾」と名づけて自ら養育することにした。
のちに拾は家臣の北村十兵衛正雄の子だという噂が耳に入っても気にしなかった。
最初はなくした姫の代わりのつもりもあったが、山内夫妻は実子のように慈しみ育てた。
拾は非常に利発な子で一豊は大層気に入り、一時は養子にしようか思案するほどだった。
拾が十歳になったとき、山内夫妻は拾と相談して彼を妙心寺で修行させることにした。
そのとき夫妻は拾の学費として黄金百枚を用意したという。

拾は学才があり、成長して湘南宗化という学問僧になった。
彼の門下からは山崎闇斎が出、山内忠義も門下に加わった。

土佐藩を学問藩にしたのはこの湘南宗化の功である。



公はめざとくそこを見咎め

2016年01月18日 13:53

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/17(日) 19:15:21.11 ID:fbuNqolP
 虫の絵屏風は中屏風である。秋草に多数の虫が描かれてある。
頼朝公がご所持されていて、その後代々将軍家の御添状があった。

 豊臣殿下が御上覧される時、蜥蜴「ルビ:イモリ(原文ママ)」をお嫌いであるという事で取り計らい、
絵を切り抜いて修繕しておいたうえで御上覧に入れた。
 繕ったところが新しかったので、公はめざとくそこを見咎め、理由をお聞きになられたところ甚だご立腹なされ、持主へ御直筆の御断状を添えられた。

 後、二条の御城で当将軍家の御上覧があったという。私は折り悪く拝見できず残念であった。
以上の事は噂として承り認め置く。

絵筆者は小栗宗湛で、印は無いという。
(本阿弥行状記)

頼朝が持っていたのに小栗宗湛の作?
謎の多い屏風ですね


これは加藤清正を呪詛する儀式であり

2016年01月17日 10:58

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 18:02:47.80 ID:uFnQCabv


朝鮮国の慶尚道、全羅道等の水営の軍官が、毎年日を占って、諸営の戦艦を集め海に浮かべ、
海神を祭る事をしている。
この時、藁で人像を造り、これを射て海に鎮めるという催しをする。
かの国の人は隠しているが、よく調べてみると、これは加藤清正を呪詛する儀式であり、
その人像は清正を象ったものなのだという。
しかし朝鮮国の能く射る者であっても、恐れて終に当てること叶わぬのだとか。

これには謂れがあり、何れの頃か、一人射て当たり双なき高名と讃えられたが、たちまち発狂して
あたりを飛び走った。彼の親戚が清正を祭り様々に罪を謝すると、人心地に戻った。
その後人々いよいよ恐れ、かの人像に当たる事を恐れるようになったという。

我が国寛文の中頃に、この祭りのため水営の戦艦を海上に浮かべた時、突如突風が吹いて高波おこり、
多くの軍艦が破損した。
これも清正の祟りであると朝鮮国の人々大いに恐れたそうだ。
これは対馬の人々が密かに聞いた話である。

(藩翰譜)



981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 23:49:28.90 ID:u54HFJUl
全裸道

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 23:56:19.54 ID:o3F2haSv
島津だと死人が出てしまうから清正にしといたんですね