役者共に守らせて済ませるべきである

2016年02月29日 22:05

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 21:45:38.54 ID:O8pFZG4m
真田信之曰く
「農民、商人の人質を取り置くところには、焼草を置き頭(かしら)一人を差し置き、
能役者などを付け置いて、変あらば火を掛けさせるようにするべし。
その程度のことは長袖にても出来ることだ。

今の大名は、役者を抱えるのにその芸ばかりを吟味している。
尤も、役者を持ち抱えるのは大名役ではあるのだが、雑人の人質の番に
能き士5人10人を付け置くなど不本意なことだ。頭さえしっかりとした武士一人を置いておけば、
役者共に守らせて済ませるべきである。

しかしながら役者にも、例えば保生太夫は大阪夏の役に、小笠原秀政の手に属し出陣し、
比類なき働きが有った。之などは掘り出し物である。」

(名将言行録)



392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:21:03.92 ID:4pDtWCD/
>>389
金春安照と北七太夫は真田隊にくっついていたらしいけどたいして働きなかったのかね

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【雑談】我が両眼昌輝説?

2016年02月29日 22:04

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 22:05:32.20 ID:/ZYhmTFD
真田の逸話が出た所で聞いてみたいんだけど
武田信玄が「我が両眼なり」って評した逸話について
どうも真田の方は昌幸説と昌輝説があるみたいなんだけど
昌輝を指してる文献って知ってる人居る?
正直昌輝説って初耳でwikiとかに乗ってるようだが出展乗ってないんだよね




391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:01:23.74 ID:vxlJIPkF
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/899828
近代デジタルライブラリー版の甲陽軍鑑のp145の右側のページだと
ちょうど潰れているけど
曽根内匠、真田喜兵衛
のことを信玄は「両眼」と呼んでいる。
甲陽軍鑑以外に「わが両眼」の出典があると聞いたことはないが
ほかの甲陽軍鑑のバージョンがあるのかもしれない
しかしwikiに真田昌輝を指した、てソースが示されていないなら、昌幸と考えたほうがいいような

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 23:51:06.40 ID:YYM3tdLp
ヤフー知恵袋で10日ほど前に両眼の質問があった
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q14156041644

小和田泰経の三増峠についての戦いの解説に載ってる可能性があるそうだからそれに出典があるかも
しかし、確かに今川・北条との戦いで伊豆侵攻してた時に昌幸がいたら
大河で「儂は海を見たことがない」と言ってるのがおかしくなるな
脚本家がどこまで考えてるかは知らないが

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 00:05:08.83 ID:nrh/V1rV
ありがとう。やはり軍艦だと曽根内匠と真田喜兵衛だよね
wikiの記述は以下の通りなんだが

>小姓として武田信玄に近侍し、器量を見抜いた信玄により、
>有力武将の子弟が任じられる「百足衆」に抜擢される。信玄に常に付き従い、
>「一之先衆七千」を務め、「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという
>逸話が残っている。現在の本で、弟の昌幸が「我が両眼なり」と称せられたかのように
>記載された書籍があるが、それは誤認であり、「我が両眼なり」
>と称せられたのは、兄である昌輝の方である。

現在の本では誤認と言ってるがまず何の本か明記してないし
この記述だと兵部昌輝一人が両眼と言ってるように読み取れる
甲陽軍艦以外にこの記述が無ければ編集者の先走りかそれこそ誤読の可能性高いかな
wiki以外にも昌輝だとする記述があるけどwikiを見て書いてる可能性もあるしな

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 02:23:53.59 ID:20JiABHD
昌輝のwikiには「兵部は我が両眼」とある、まずこれを探そうか
軍艦だと喜兵衛だしな、軍艦よりましな資料なんだろう

しかし妙秀は、

2016年02月29日 22:02

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 02:24:48.36 ID:7U1uPL/A
 人を殺めた者が血刀をさげて走り込み、妙秀本阿弥光悦の母)を人質に取った。
しかし妙秀は、
「私はあなたを助けましょう。こっちへ来てください。」
と納戸の内へ押入れ外から掛け金を掛けて、自身はそのまま家の外の近くに出て座った。
 追手の者どもが数十人駆け入ってきた。
妙秀はまだ若い女であったが顔色も変えず、
「これは何事ですか。」
と言うと、追手は
「人を切った者がただ今この家へ走り入った。」
と話した。妙秀は聞くと、
「何と恐ろしいことでしょう。裏へ走って行ったのかもしれません。
よく探してください。」
と言って大いに騒いだ。追手たちは『さては隣家にいるのだろうか』と隣を探したそうだ。

 日が暮れた後、妙秀は彼にかたびらを着替えさせたり編み笠を被らせたりして、
旅費などをやって去らせた。
(本阿弥行状記)

なぜ妙秀はここまで手厚くしたのでしょうね



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 06:56:16.84 ID:Ekt8UXVi
知り合いだったとか
あるいは宗教の同門
実は光悦の本当の・・・

真田信之は倹約の人であった

2016年02月28日 19:14

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 18:18:01.46 ID:8Qb5qlMK
真田信之は倹約の人であった。そのため、人々から彼は金を集めていると称されていた。

彼が家老の宅に臨むとした時、家老より、何を支度すべきか尋ねると、信之は用意すべき品物
一つ一つを大積りに値段を書き取り、
「本来そちらに行くべきなのだが、難しい事情があり訪問できないので、必要な経費を
金納せよ。そうすれば、殿中にて慰みにいたすであろう。」

こうして信之は毎年このように金にて差し出させた。しかしこれは、その邸宅に訪問することより
物入りが少なかったため、下々喜び、金はますます増殖した。

ある日、信之が近臣たちに「どうして私が吝き沙汰をすると思うか?」と尋ねたところ、
何れも「お金を集めるためでしょう。」と申し上げた。これに信之は

「私は関ヶ原陣や大阪の両陣も勤め、そこで覚えたのは、士卒を励まそうとしても、
下知ばかりではなかなか励まない、という事だ。
金銀を快く遣わしたうえで下知しなくては、合戦は出来るものではない。
だからこそ、武士は金銀を大切にすべきなのだ。」

(名将言行録)



388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 22:32:16.67 ID:RHe8pw1e
大坂の両陣?
活躍したのは息子たちや義理の弟や実の弟のような

「汝は我跡を相続する者ではあらず」

2016年02月27日 17:40

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:46:04.34 ID:Wke8w9Jz
天正の末、参州水野和泉守の嫡男、水野六左衛門は
太閤秀吉公の扈従であったが、相撲の諍いによって傍輩を殺して出奔した。
秀吉公大いに怒って、諸国を尋ね求めてこれを殺さんとした。
六左衛門は勇敢身に備えたる人であったので、九州へ下向し
姓名を改め、所々の戦闘に参加し功があった。
名が既に顕れたので、ここも逃げ去り、糧食も尽き、身も塞がってしまったので
漢の韓信が釣りを垂れる苦しみであった。
美作国へ往き、安藤という百姓の聟(むこ)となった。
しかし農作を勤めず、朝夕川に臨んで網釣を事とし
山へ登って禽獣を狩ってばかりいた。
安藤、これを見て「汝は我跡を相続する者ではあらず」と大いに怒り、追い出した。
恥辱と思ったのだろうか、刀を抜き刺殺し、ここをも走り去り、三村紀伊守を頼った。

(西国太平記)



245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:38:18.43 ID:r+I6p6vK
>>244
毎度お馴染みの水野さん

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 10:42:43.56 ID:mTZkIgw9
どの話でもだいたい大筋の流れ同じだからやっぱり本当にDQNだったのだろう

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 14:14:58.07 ID:4EbOraoe
>>244
水野「ヒャッハーッ!血だ!血を寄こせ!」

各地でこれだもんな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 00:26:07.39 ID:+mnejghW
>>244
水野勝成は今で言うADHDっぽい。
衝動性や他人への共感性の欠如や
自伝での虚言癖等、当てはまる要素が多い。
ADHDは適性に合った職や環境に出会うと改善するが
勝成の場合、家督を継いで小藩を治める、というのがそれだったんだろう。

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 06:02:43.25 ID:8i+MnqKv
>>253
それ言いだすと、鎌倉時代以降~元禄期までの武士はADHDだらけだぞ。
毎日人を殺さないと気が晴れないとか、生首を飾ってないと機嫌が悪いとか、悪口から周囲を巻き込んで殺し合いとかごろごろしてる。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 07:02:41.61 ID:5s/MLQ/I
当時はそれが仕事だから

256 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 07:53:29.36 ID:MPqumkkl
>>244
これでも水野一族ではまともの方なんだよな
勝成さん以外の水野一族の方々も
表に出てないだけで勝成さん以上の無茶ぶりをやらかしてるし
三河では勝成さんクラスのDQNが当たり前だから
たまたま勝成さんは奉公構えで全国を彷徨ったから目立っただけだから
ただこの狂気な水野一族の血脈から天下人が出て来たから
ある意味勝ち組何だが

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 09:00:58.75 ID:xgbWrhES
それが当たり前なら、勝成を始めとする水野一族を
無理に持ち上げなくてもいいような気がするんだけど。
どうしても高く評価されないといかんのか?

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/28(日) 10:02:18.56 ID:LfsNoNs8
それでも島津軍法みたいなのは基地だと思う
おかげで島津軍の通ったあとの九州各県は兵だけでなく
片っ端から村人殺されペンペン草も生えない大虐殺だらけで
薩摩以外からはいまだに嫌われてる
まあ黒田とかも好かれてないが

259 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 13:48:59.74 ID:sDx5l1XY
水野一族は変わり者が多いからな
天保の改革で有名な水野忠邦なんか
老中になりたいが為に実質20万石以上ある
唐津藩を捨てて6万石程度の浜松藩に転封したぐらいだからな

260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/28(日) 15:03:20.59 ID:RTpfv5yA
松平の血で中和出来たんだろうか?
でも諸々のエピソード聴くと短気なところは受け継いでるな

一度後れては3年失せぬ

2016年02月26日 17:14

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 14:59:51.90 ID:BOOoXAE2
島原の役の時、真田信之細川忠利にこう言った
「今回、板倉内膳正重昌が討ち死にした事で、敵を急ぎ踏み潰すためにあなた方を
遣わされるようですが、ただし、手間取って思ったようには成らないでしょう。
そのように心得ておくべきです。

私が昔、忍城の成田氏を攻めた時のことです、
軍勢は勇まず、下知を聞こうとしませんでした。帰陣した後、私は父の安房守(昌幸)に言いました
『あのような腰抜けばかりを選んで私に付けられたので、今度の合戦で勇まないのです。』
安房守は怒って申しました
『若輩者が!何を不智な事をいうか!?それはお前が、去年合戦で後れを取ったためだ。
一度後れては3年失せぬものである!』

今度の島原も、内膳正は討ち死にし、軍勢は損害を受け、みな恐怖心を持っているでしょうから、
軍勢は勇もうとしないでしょう。であれば、手間取ります。
その分別をして、ご出陣すべきです。」

(名将言行録)



239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 15:29:09.86 ID:wJbS32Th
そりゃあ総大将がアレですから

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 16:05:21.65 ID:linV+D2a
>>238
小童!ではないのか。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 17:55:57.98 ID:DxkpIThN
去年合戦で遅れをとった、て名胡桃城取られたこと?
信幸に責任あったっけ

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:23:49.08 ID:rVEZlCrD
沼田の責任者だからだろ

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/26(金) 18:34:42.29 ID:vERWSTmf
そのお陰で北条攻めの名分が出来たのに…

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:16:09.29 ID:fqUtjaJs
>>242
その時沼田は小田原に割譲済だけど?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/27(土) 12:27:16.72 ID:nDdVzJi9
つ名胡桃

金の馬鎧

2016年02月25日 19:10

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:32:41.00 ID:OZ8/vebl
天正の初め、武田軍は中山、上野の尻高、中山、白井の諸城を攻め、真田勢もこれに随身した。
しかしそれらは屈強の要害であり、吾妻勢は度々利を失った。そこで真田昌幸は、
忍を入れて城を焼き落とすべしとして、唐澤玄蕃にこれを申し付けた。

唐澤はこの旨承り、割田新兵衛尉を相語らい、尻高城に忍入り放火した。

中山城に忍入った時、城主の中山安芸守は鼓を打って酒宴をしていた。中山は鼓が非常に下手であった。
百のうち一つもまともに鼓の音を出せなかったので、世の人は『中山殿の鼓にて百一つ』と語り合っていた。

そうして夜もふけ、皆寝静まり夜廻のものも油断した頃、唐澤玄蕃は中山城の納戸に忍入り、ここかしこを
捜索していると、金の馬鎧を発見した。これは畢竟の事だと思い、放火せずにこの馬鎧を盗みとって
帰陣した。

この馬鎧は、中山安芸守が、関東管領・上杉憲政の元に出仕した時拝領したもので、それを今度
唐澤に取られたのである。

唐澤玄蕃は一本気な若者で、その後合戦があればこの馬鎧を着けて出陣した。
ある時、西上野に出陣した折、唐澤は真田の軍勢に属していたが、これが信玄公(原文ママ)
の目に止まり、真田信綱を召して「あれは信州松山合戦の時に見た馬鎧だ」と仰せになった。
その頃は乱世であり、金の馬鎧など見ることは殆ど無かったという。その時「あれは何者か?」と
お尋ねになったので、「唐澤です」と申し上げた。このため、唐澤玄蕃は不意に高名を上げたのである。

(加沢記)

加沢記より、真田の忍・唐澤玄蕃のお話。後半の信玄は勝頼の間違いですかね?



377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:08.23 ID:IqQWvIY0
唐沢玄蕃といえば、
歴史秘話ヒストリアの真田昌幸・真田信之回でこの話をやってて、
金の馬鎧に目を輝かせて思わず盗んでしまう、おちゃめな忍者として描かれていた
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org753051.png
唐澤

今の甲賀衆がこれである。

2016年02月25日 19:05

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 07:36:37.17 ID:8HeofBJo
 信長公が明智により生害なされたころ、東照宮は御上洛し堺に逗留されて、諸方の珍器等をご覧されていた。
 そのところへ、御注進が来て堺の辺りも殊の外騒がしくなった。御小勢なのでとても明智へ向かいなさることは叶わず、
大和路から伊賀越えで江戸甲賀郡へ御ひらいて御帰国なされようとしたところ、甲賀郡で野武士どもが、『落人がいた』と数十騎で道を妨げた。
東照宮は馬上で真っ先に御出でになされ、

「我は全く落人ではない。三河国の徳川家康である。上洛の折から将軍が御生害ゆえ本国へ引き取
るものである。道を開け。開運の時節もあらば恩赦があるだろう。」

との御上意があった。するといずれも御威光に恐れて御道を開き御国元へのご案内をしたという。

 今の甲賀衆がこれである。伊勢の神宮三方衆もこのたびの御恩賞として、神務の外に今は御朱印を頂戴されたという。

 天下を取りなさった君は、天がゆるせる御果報があって、めでたく帰国なされたという。
危うい場所での御高運と言えるだろう。
(本阿弥行状記)



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 08:33:22.41 ID:TxbN0KVY
これが徳川に対する配慮かw

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 08:45:28.21 ID:OMvcFVKY
アンコンされてるな

【雑談】北条家が生き残るのは

2016年02月25日 19:04

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 20:56:52.37 ID:xvX4Nzda
氏政と黄梅院の話とか、夫に尽くす早川殿、北条夫人をみると
北条家が戦国時代を生き残るのは難しかった気がする

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 22:31:33.07 ID:4Krux0rQ
早いうちに同盟を結び後々臣従すれば生き残れただろう
しかしながらどこの大大名も猿ごときなどと侮って過小評価してるからなw
魔王くらいインパクトないと畏怖しないんだね

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:03:12.07 ID:GZz9U8JJ
ぶっちゃけ東国組で速攻秀吉と手を結んだのは
勝家との確執って理由があった(勝家の対抗馬なら誰でも良かった)上杉くらいですし

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:00.97 ID:GDc0Jsbf
上杉毛利は勝ち組、徳川についた奴は負け組

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:43:57.09 ID:OZ8/vebl
西国だってそうだわ。毛利は秀吉と勝家を両天秤にかけてて、賤ヶ岳合戦のあと秀吉から糾弾されてる。

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 11:59:32.29 ID:lg3xEMyk
北条まで本領安堵なんかしちゃったら与える土地が全く無くなるからな
北条が生き残るには秀吉が西より東から統一してなきゃ無理だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 14:22:15.78 ID:GDc0Jsbf
そもそも抵抗してる時点で詰んでるよ
本拠地を攻められて降服じゃあ相模伊豆安堵も危うい
やるなら野戦して降服しないと

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 18:25:33.36 ID:yQOMArRR
小牧長久手の時にラスボスと同盟結んで背後から徳川を攻撃する事以外、
北条が生き残る道は無かった
それ以外にラスボスに恩売るタイミング無かったし

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 19:54:52.15 ID:6Blzu3C3
北条は大領で本領安堵は難しいという説はよく聞くが、実際どうかな?
状況は違うが家康は5か国安堵してもらっているし、毛利・上杉もそう。
家康入府以前に関東なんて大して開けてないし、九州征伐前後の時期、
北条から腰を折って来たら秀吉も受け入れたのでは?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:26:16.51 ID:kmCFO9Qi
かろうじて河内狭山藩主として残ってるからま、多少はね?

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/25(木) 17:47:51.90 ID:O9n+VizP
>>228
その時は受け入れるが、後々徳川と両天秤に掛けられてどちらかが潰されてた気はする
そうなるとより大身で色々と火種を抱えやすいほうが・・・

舞い遊ぶ 千代萬代の扇にて

2016年02月24日 15:47

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 19:18:30.42 ID:U3Y9Dosw
永禄11年(1568)9月28日、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、9月28日、今日の東福寺に入った。
この時、連歌の宗匠である紹巴、および昌叱心前、医師の半井蘆庵、雖知苦院道三、その他諸道に
名を得ている者共、また上下今日の年寄りと言って、仮初めの事にも出席して評議する者達が、
様々な捧げ物をして上洛への御礼を申し上げている中、里村紹巴は末広がりの扇二本を、
台に据えて直に捧げた。

どうなることかと人々が注目する中、紹巴は御前に進み出るとご挨拶よりも前に

『二本手に入るけふのよろこび』と申し上げた

信長は之を聞くと、即座に句を継いだ

『舞い遊ぶ 千代萬代の扇にて』

洛中の老若はこれを聞くと、言葉もなく、
「この人は猛き武士であるから、寿永の古に木曽義仲が京入りした時のようになってしまうと思っていたが、
言葉に優しさも有り、もしかして、安心しても良いのではないか?」

そう、心の中にやや頼もしさを覚え、皆息を安めたという。

(甫庵信長記)



命名「猪之助」

2016年02月24日 15:46

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/23(火) 23:42:22.80 ID:7TVfVt9h
命名「猪之助」

慶長四年(1599年)島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を手討ちにしたことが発端となる庄内の乱。
乱が始まると島津勢は地理がわからず、島津義久の命令で家臣が猪狩りの名人で
山道に詳しい前田利之助の元を訪れ道案内を頼みましたが、
「私は伊集院家の家臣、有難いことではありますが・・・」と断ります。
それでも家臣が是非と頼みますので、利之助の兄の意見を聞いてみますと、
「前田家は島津様に恩になった家、有難いことだ」と言うので、道案内を引き受けました。
戦が終わり、義久は利之助を呼びその武功をほめ、利之助に「猪之助」の名と土地を与え
猪之助の姿絵を島津家の菩提寺の福昌寺に納めたといわれています。
(市報こくぶ昭和62年11月1日号)

権現様ごめんなさい。
手負いの猪が家康に向かって突っ込んできた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6588.html

権現様の名付けは安直な上に普通のネーミングと思ってましたが
義久の名付けを見てこんな時は直球な名付けをするものだとわかりました・・・



かのような乱の中で優しい武士であった

2016年02月24日 15:45

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 23:46:42.98 ID:6NNrWvJY
 齋藤内蔵助は明智日向守殿が謀反の時に申したことは
「この思し召しを、私は十が九で勝手な御振る舞いと思いません。
そうであるのであえて御諫言を申し上げません。」
と、血判を速やかにしたという。
 そのうえ安土の城を受け取った後に、もはや落城に及ぼうとしましたとき、
敵の方へ信長公が御所持されていた道具を渡した後に城に火をかけた。
道具は世々の宝なので焼失すると残念だと、かのような乱の中で優しい武士であった。

 これにつけても松永弾正が平蜘蛛の釜を落城のときに割りましたことは、
甚だ賤しき志である。
(本阿弥行状記)




371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 01:09:02.03 ID:aWt95gpS
光悦はこのエピソードを秀満じゃなく利三がやったことにしてるのか

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 06:55:25.67 ID:Yzm0g8SB
>>371
筆者は光悦じゃないってば

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:13:58.97 ID:Y9/NH5SF
本阿弥シリーズが始まったときは自分も光悦が筆者かと思っていたっけ

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 12:54:48.08 ID:MZQzaca8
じゃあ本物の筆者は誰なんです?

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/24(水) 20:04:35.10 ID:Yzm0g8SB
>>374
本阿弥光甫。光悦の孫。

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2016年02月24日 15:44

02/18~/24のブログ拍手ランキングです!



島津義弘と道案内役 49

馬上で火縄銃を持つのは 18

エムベロルの覚え目出度からんためには 17
英林塚の鳴動 13
死せるエムベロルの妻の弟なる柴田殿 13

この時、松田の末子左馬助は 10
水野忠胤の悲劇 10
氏政公が飯へ汁を二度かけて 9

西美濃三人衆の寝返り 8
青磁香炉『大千鳥、小千鳥』 7
御近習の某、ある時茶宇の袴を着ていたのを 6


今週の1位はこちら!島津義弘と道案内役です!
関ヶ原撤退の恩人、というべきか、被害者というべきかwそんな文右衛門さん、もしくは又右衛門さんと
島津義弘殿お話です!あの撤退は、決して愉快な思い出ではないのでしょうが、その時の同行者を、こうして歓待するというのも、
島津義弘らしさを感じさせますね。またこの文右衛門さんが何者かわからないというのも、このお話をさらに良い話にしているように
思います。
身分は違えど同じく激しい歴史を生き抜いた人たちの、温かみを感じる逸話だなと感じました。

2位はこちら!馬上で火縄銃を持つのはです!
加藤清正と馬上鉄砲のお話。現実的に鉄砲騎馬の運用を普通に考えれば、集団として使うなら、ヨーロッパのピストル騎兵のように、
機動力を利用して敵の側面なり後方なりに回って一撃して逃げる、という活用だったのでしょう。
まあ日本の場合は、源平時代には騎馬弓兵が馬上で弓による一騎打ちをしていたような国なので、そっちの伝統を模した
可能性もありますがw
そういえば秀吉の朝鮮出兵の時の明側の記録では、馬上から鉄砲を撃ってくる日本兵の記録もあるそうです。
このあたり加藤清正と直に関係のある話でも有り、色々と想像が膨らみます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!氏政公が飯へ汁を二度かけてです!
「本阿弥行状記」は本阿弥光悦の養子の息子、すなわち孫にあたる本阿弥光甫によって編纂された書物です。
ちなみに光甫の号は空中斎。彼の得意とした信楽焼は「空中信楽」と呼ばれています。ちょっと面白い語感ですねw
そんな「本阿弥行状記」にも掲載されたこの北条氏政の二度かけ飯の逸話ですが、これと似たような話は毛利輝元にもあり、
どうも当時、暗愚とされる人を表すテンプレ逸話だったような感じがあります。もしかしたら「あいつは汁を二度かけるような者だ」
という定型文があったのかもしれませんね。
そういえば北条滅亡の時の逸話として有名な「小田原評定」も、実はその前に、朝倉氏が滅ぶ時、何度も会議したが結論が
出なかったということで「義景相談」と呼んだ、なんて話があります
義景相談・悪い話
北条家の滅亡に際し、この話も紛れ込んだんじゃないかな、なんて思うことも有ります。そんなことを色々考えた逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してみてください!
( ´ ▽ ` )

今読んでいる本

琉球王国と戦国大名
島津侵入までの半世紀


戦国~近世初期、島津の琉球侵攻までの日本と琉球の関係史。琉球、および薩摩島津氏の時代史、また西国戦国史としても
読み応えがあります。
この手の本にありがちな、どれか一方の立場に立ったものではなく、全ての関係勢力から適度な距離をとる立ち位置の
バランス感覚が非常に素晴らしい。
この時代のこの地域だけでなく、日本史、あるいは東アジア史全体を考えるうえで非常に参考にもなる、良著です。

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

西美濃三人衆の寝返り

2016年02月21日 18:53

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 17:59:48.90 ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。



青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

2016年02月20日 12:54

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:35:10.96 ID:HpJTYx46
青磁香炉『大千鳥、小千鳥』

 昔東山殿が鴨川の千鳥を聞きに出られなさった時、
千本の道貞と申す者が蘭奢待を持って参って焚いている、
ということを聞きなされ公も名香をお焚きになられて、お取り替えなされたという。
古雅な事々である。
(本阿弥行状記)



エムベロルの覚え目出度からんためには

2016年02月20日 12:54

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 21:59:32.75 ID:2fmnXVf9
それより両エムベロル(豊臣秀吉・秀次)は、その随行全員とともに、日本最大の諸侯である
飛弾殿(Fidandono 蒲生氏郷?)の宴に招かれたが、これもまた善美を尽くしたもので、
皿を覆っている金箔だけでも4千クラウンを要し、酒宴の費えはこれよりも遥かに多額を要した。
どういう事かといえば、エムベロルに対して飲む酒盃の数は九献にして、第一杯には献品として
1万クラウンを要し、第二杯より暫時上がって、最期には一杯目の倍、2万クラウンとなる。
故に饗宴費はほとんど計算することすら出来ない。エムベロルの覚え目出度からんためには、その費用を
惜しむことなど出来ないのだ。

翌日、太閤様はまた、八州の太守ギエタゾ(Gietazo 徳川家康?)の邸に赴き、飛弾殿のそれにも劣らない
饗宴に臨んだ。

(モンタヌス日本誌)

蒲生氏郷が、秀吉の御成りを受けた饗宴の模様。しかし、ギエタゾ…?



185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 22:15:09.13 ID:EWxuNQyH
ポルトガル語なら
giはジ、もし最後のoがなければzはスに近くなるから
ジエタスにはなるか
や行の発音はたしかなかったからこのあたりが曖昧になるんだろう
前のレスを見ても「山口」を「アマングチウム」とか書いてたし

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 08:39:46.73 ID:T0tcXj2W
ジエタス→いえやす にはなるか
でも家康を家康って呼ぶ人はいないよなあ
トクガワヌスとかにならんのか

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:13:36.47 ID:+HWr++cl
>>187
当時の家康くらい高位になると「徳川」と書かかれたりすることの方が少ないよ

諱を書かれることについて「政宗」がよくネタにされるけど、書状なんかで「家康」
と書かれてる事がかなり多い。
ある程度のビッグネームには多い現象なんだよね。

もちろん当人への書状の宛名に使われるのは「江戸大納言」等だけどね。

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 11:24:45.82 ID:fgf6N03W
歴史上の人物は諱OK、雲の上の人も諱OK
宛名での諱を名指しも場合によっては一周回って厚礼になったりする場合もあるから複雑

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 17:31:11.87 ID:D1hnpXG6
諱呼びは「大名の中でも有名人枠」みたいな扱いじゃね
名字も領地も官職も書かないけど皆知ってるよねポジション
政宗と景勝が特に諱でほいほい出てくるせいか
北国でその傾向が特に強いんじゃないかって話は見たことがある

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 21:01:53.13 ID:1/ck4STB
「みなさん、本物の政宗でございますよ」
「偽物がいたら見てみたいんですけどね」

じゃねえよなあ

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 14:27:00.42 ID:ou0lTV7q
>>195
佐竹家老梅津政景の日記で、義宣と親しい景勝が普通に日記上で諱で登場するんだが
景勝が亡くなって定勝に代替わりすると普通に「上杉弾正少弼」に表記が変わるので
身分の上下などでは表せない個人に対する敬意や親しみなんかが
諱表記で表現されるんだろうって研究がある

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 20:56:04.71 ID:+cazqg1Z
>>201
親疎や経緯はありそうだけど、定勝は景勝に比べて官位などが
恐ろしくグレードダウンしてるから比較対象としてどうなんでしょう?

水野忠胤の悲劇

2016年02月20日 12:53

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/20(土) 02:44:55.17 ID:jvV7FCmr
水野忠胤の悲劇
三河水野藩藩主である水野忠胤が
遠江浜松藩主松平忠頼を自宅招いて茶会を開いていたが、
忠胤の与力である久米佐平次と服部半八郎の両名が囲碁の
勝敗をめぐって口論となり、刃傷事件に発展した。
この争いを見て忠頼は両名の仲裁に入ったのだが、
逆に仲裁に切れた佐平次が、よりによって忠頼を殺害してしまった。
佐平次は忠胤によって切り捨てられたが
その事件によって忠胤は切腹を命じられ水野藩は改易になった。
ちなみに長男の勝信(織田信長の孫)はこの後に
徳川忠長に仕えた
(妙蓮寺旧記)



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 09:54:31.55 ID:KZwAhx2/
水野藩って聞いた事がないなと思ってググッてみたら
どこにあったかもわからないらしい w

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 09:56:52.54 ID:fZRPebE5
>>186
忠胤が切腹する理由はなんやねん
実在はともかく気になる

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 10:05:31.20 ID:fgf6N03W
それまでも不手際あったらしいからスリーアウト的な改易かね

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 12:06:40.75 ID:6H2FGaXT
>>189
部下同士の争いで部下が大名を殺したんだから十分な理由だよ
全く与り知らないところならいざ知らず

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 06:10:51.84 ID:8tZiaW+w
>>186
似たような話を関が原の時(前夜?)あったような気がするんだが
重い打線

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 07:35:04.13 ID:0hhC4clU
水野忠胤の父親の水野忠重が関ヶ原直前に堀尾吉晴や加賀井重望と三人で飲んでたら、
なぜか加賀井重望が水野忠重を殺害して、堀尾吉晴にも傷を負わせ、
堀尾吉晴に返り討ちにあった、て話では?
(徳川実記だと、加賀井重望は石田三成の刺客だったそうだが真偽は不明)

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 09:19:05.90 ID:8tZiaW+w
おーそれだ!

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 10:48:42.25 ID:5wqhA/F9
命がけの日々を送っていると
PTSDでおかしいやつらがそこら中に発生するんだね

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:41:27.73 ID:esA0ZeQ1
親兄弟が死んでる森長可のことですね

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:47:11.23 ID:0LMYINhw
政宗の父親や弟も悲劇的な最期を遂げてるから政宗がああなったのか

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 11:59:23.35 ID:SDvQUnR0
>>211
政宗の弟は政宗自身が殺したんだがな

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 18:32:22.20 ID:GQLxreIm
二本松義継「輝宗の死因は銃撃ですよね?」

英林塚の鳴動

2016年02月19日 14:49

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 01:32:13.30 ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ~…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 08:53:39.29 ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 12:06:46.75 ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 15:58:41.47 ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!

御近習の某、ある時茶宇の袴を着ていたのを

2016年02月19日 14:48

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 05:56:54.94 ID:ObbaCpIo
 東照宮の御近習の某、ある時茶宇の袴を着ていたのを、君が尋ねられたので
「唐から新たに渡りましたので受け取りました。」
と申し上げると、君は大いに怒られなさった。
「そち達が我らも知らぬものを着るのは甚だ奢りである。」
と、さっそく退役を仰せ付けられたという。
(本阿弥行状記)



180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 07:44:05.07 ID:QBxVywqO
器のちいせえ奴w

馬上で火縄銃を持つのは

2016年02月18日 18:03

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 04:42:56.84 ID:vBhg/CRY
加藤家騎馬武者馬上鉄砲の事
 加藤家では大小身は共に騎馬は一尺三寸、或いは一尺五寸の鉄砲を馬上で持って、
陣前で打ち放し鑓を入れるという。
 清正家中の老人が後に話すに、
「馬上で火縄銃を持つのは何とも持ち難いものである」
とのことだ。
(常山紀談拾遺)

戦国の竜騎兵!




350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 04:54:54.91 ID:L9buplfW
まさむね「な、なんだってー!?」

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 06:59:08.36 ID:QSBbt7HD
ジミーさん?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 07:00:28.04 ID:QSBbt7HD
すまぬ、清正って書いてあったわ。

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 07:52:23.08 ID:IzhtG3XL
水鉄砲なら余裕だったけどな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 12:27:52.13 ID:ZtmSkng1
真田丸で信繁の引き立て役になる伊達の騎馬鉄砲隊

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:34:54.63 ID:L9buplfW
神保さんは噛ませの犬死にって言いたいんですか

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:49:08.60 ID:tDJQIy8N
騎馬の機動力に鉄砲の火力
ちょ、これヤバくね?最強の部隊じゃん...

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 13:59:40.41 ID:YJ9TozuW
歩兵の鉄砲の火力の方が強いという最大の弱点を抜かせばな

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 18:51:32.39 ID:LDxNPsHC
馬上で槍を振るうのだって難しいのに
馬上筒で標的を狙うのなんて無理に決まってる
それでも実戦投入しちゃうのがDQNの良いところw

死せるエムベロルの妻の弟なる柴田殿

2016年02月18日 18:02

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 16:53:07.51 ID:gfgaEMBE
死せるエムベロル(織田信長)の妻の弟なる柴田殿(Xibatodono)は、信長の遺族中、最も近い
親類であったが、羽柴藤吉郎の行為を快からず思い、力を極めて彼に抵抗した。ここにおいて、
藤吉郎は柴田殿を滅ぼさんとその居城を囲んだ。

柴田殿は突然攻撃を受け、免れる事ができないのを知り、将士を尽く集めて言った
「卿等は予の窮境をしらん。予は残虐なる暴王に屈せんよりは、むしろ自殺せんとす。
予の願う所は、予が死したる後は卿等が予を火葬するにあたり、不人情なる叛乱者をして
誇らしめるべき何者をも残さざるように成してほしいという事である。
卿等は生命を保たんがために如何なる談合を成すも可なり。」

しかし万座の者達は、柴田殿の決心を賞賛し、みな柴田殿の例に倣わんと決心した。

柴田殿は彼らの忠義に感じ、この世の別れとして宴をおこない、食卓上には様々な肴を具え、
ある限りの楽器を鳴らし、彼らの好む茶、および酒を飲み交わし、かくて饗応も静まるころ、
彼らは起きて各種の燃焼物を部屋に満たし、これに火を放つと、焔煙は屋を貫いた。

ここにおいて、残酷なる饗宴が始まり、柴田殿は先ず妻子、僕婢を刺殺し、あるいは重傷を負わせると、
彼の諸将もこれに倣って同様に親族従者を殺した。次に彼らはこれらの死骸を火中に投じ、その上に立ちながら
切腹して果てた。

時に藤吉郎は、城中に火災が起こったのを見て、偶然の失火だと思い好機を逸してはならないと
総攻撃を命じたが、門といい城壁といい何らの戦備も抵抗もなく、ただ未だ焼け終わらない
数個の死骸を見たのみであった。

藤吉郎は柴田殿の城を陥れて都に帰るや、最初の名の藤吉郎のみならず羽柴の名も改めて、
関白殿、すなわち日本の最上卿と称し、1594年以降は太閤様と名乗った。すなわち大エムベロルの事である。

(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本史より、柴田勝家の最期についての記述である。



島津義弘と道案内役

2016年02月17日 18:17

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 00:29:18.18 ID:OUAq51ED
島津義弘公の決死の関ヶ原敵中突破の後、
道案内役として拉致された文右衛門(恐らく正しくは又右衛門)さんなんだけど、どうやら堺まで一緒だったようです。

後日談があって、慶長16年夏、義弘公77歳の時にわざわざ大隅国加治木まで訪問して再会していたりします。
文右衛門さん曰く、ご存命のうちにもう一度お会いしたかった、とのこと。
もちろん義弘公も大喜びして大歓迎。
関ヶ原の思い出話に花を咲かせて、さらにその後もあの時のお礼と言わんばかりに宴三昧、ご褒美をたくさん与えたようです。

なおこの文右衛門さんですが、どこの国で苗字は何なのか、正体不明のままです。
大小の刀を差していたことから士分であったことは間違いないようですが。

素性がバレて義弘公の逃亡を手伝った罪に問われる事を防ぐため、島津家なりの配慮なのでしょう。

ただそれが敵中突破後の退却路がよく分からん、という結果にも繋がっているのだと思います。

関ヶ原後日談に見る、身分違いも気にしない義弘公とその戦友の良い話。

(帖佐彦左衛門宗辰覚書)



週間ブログ拍手ランキング【02/11~/17】

2016年02月17日 13:35

02/11~/17のブログ拍手ランキングです!


鬨の声、といえば 27

「蛍丸」 24

それに比べて、豊守は 22
織田信長「平手がこのようになってしまったのは」 20
太閤さま曰く「龍蔵寺隆信という者は」 20
知恵伊豆のユーモア 20

この、広く富んだ島をこの国の人々は「ニッポン」と称す 18
獅子が獅子であるということ 17
ランシス・カイロンの取りたる日本の王公の歳入 14

【雑談】戦国屈指のいい話 13
【雑談】黒田長政って何で 8
寛永7年秋9月12日、御即位の事 7

『初祖達磨大師』と書くべきを 6
エムベロルの血の森 5
つまり今の古筆目利了延は 5



今週の1位はこちら!鬨の声、といえばです!
さすが薩摩隼人、命を取るぞと言われたら、むしろ積極的に捨てに行く。しかも全員でw
こんな人達を統率する殿様は、それはそれは大変だったことでしょう。その苦労が忍ばれます。
殿様の立場にたてば、、ちがうよ、そうじゃないんだよお前らの役割は、と言いたくなるでしょうね。
え?何故”殿様”を忠恒にしたのかと?そりゃあそのアレでまあゴニョゴニョ。察して!

2位はこちら「蛍丸」です!
某刀剣ゲームとは別の「蛍丸」。なるほど鞘に入れた刀が光れば、何れであれ蛍のように見えるでしょうね。
それにしてもこの刀、何故持ち主の居場所を追手に伝えたのか。ここに至るまでの逸話も、なにかありそうですね。
そこを想像するのも面白そうです。

今週管理人が気になった逸話はこちら!それに比べて、豊守はです!
意外と微笑ましい謙信公のお手紙w疾風怒濤、かつ峻烈なイメージの強い上杉謙信ですが、実は相当細心な所があり、
だからこそ名将であった、ともいえるでしょう。強引なだけでは、必ず行き詰まるものですから。
この書状からも、そんな謙信の細やかな面がよく出ていると思います。
しかしコメントなどにもありますが、これが軍記などになると、他人の気持ちなど推し量ろうとしない恐怖の「軍神」謙信と
なるわけですから、世の印象という物も面白いですねw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

今週読んでる本
殺生と往生のあいだ 中世仏教と民衆生活
「殺生」を否定する仏教思想流入の流れと、朝廷・天皇のその受容の過程。そして「殺生をする側」である狩猟・漁撈民、そして
武士による対処。古代~中世の思想史としても非常に読み応えがある本です。

『初祖達磨大師』と書くべきを

2016年02月16日 17:44

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 02:49:19.54 ID:EKCT9y2h
 洛陽の某の元に一休の筆がある。
『初祖達磨大師』と書くべきを、『初祖磨大師』と書かれ、そのまま"師"の字の下に"達"の一字を書いて、そのはねを引き上げて"磨"の字の頭に点して置いてあると聞く。
 慣例通りのものである。この活人の底の働きは、言語の及ぶところにない。
(本阿弥行状記)

私もよくやります



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:07:15.52 ID:E7gWz3Jd
>>337
消して書き直すのめんどくさいもんな
公式文書じゃなければ俺もやるわ

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 09:51:24.49 ID:NcNAty0/
昔、いしいひさいちの漫画で日蓮直筆の「南無妙法蓮月経」の書を手に入れた道具屋の主人が
書いた本人に法外な値段で買わせることができると大喜びする、というやつを思い出したよ。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:07:13.85 ID:xcfy70n8
>>337
今なら国会で野党の追及を受けそうだな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 10:19:40.76 ID:2mNhTnlm
>>341
志賀直哉の清兵衛と瓢箪を思い出した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 15:59:50.29 ID:il9ecMq6
>>337
昔は矢印の代わりにはねを引き上げてたんだね
実に興味深い

エムベロルの血の森

2016年02月16日 17:43

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 14:38:06.42 ID:ISKtEFxg
1564年、エムベロル公方(足利義輝)は日本を支配し、宮廷を都に有していた。しかしその時、
1万2千の逆徒はエムベロルに対し厳粛なる同盟を作りて反逆を謀り、最初の着手として都を襲い、
宮殿の四ヶ所に火を放った。公方は不慮の襲撃にあって、適応な防御手段を講ずることが出来ず、
自ら剣を抜いて大胆なる突撃をし、ただ200人を従えて血路を開かんと試みた。しかし衆寡敵せず、
敗れて数ヶ所を負傷し殺され、従臣もまた全て寸断された。

こうして反逆者は宮中に乱入し、公方の母および娘を見つけ出して惨殺した。
一人妻女は寺院の僧舎に隠れていたが、たちまち発見され、これもまた罪人として斬られた。

斯くの如くにして彼らは王族を完全に滅亡させ、ただ公方の弟のみを残した。これは彼が僧籍に在ったが
故である。反逆者たちは事件の後、この弟に対し安心を得るために、宗教上の契約を以って彼を拘束した。
しかし彼は、その契約後逃亡し、密かにロカの君主和田殿(Vatadono)の元に走った。和田殿は彼を
丁寧に待遇し、尾張(Bonari)の王信長に援助を乞わんことを勧めた。

信長は之を容れて6万の軍を戦場に出し、公方の殺害者と相対した。殺害者たちは抵抗し得ざるを見て
降伏し、首魁たる扇動者は罰せられた。

信長は血統において最も近い公方の弟を立てず、自ら都の都市および城の絶対的君主となった。
焼けた宮殿を再建するとしてその完成を急ぎ、費用と労力とを厭わず、土工を使用すること日に
1万5千人に及んだ。彼は抜刀を携えて此方彼方を巡視し、これがため何人も懈怠、又は時間を
徒消することは出来なかった。彼は、軍前通りかかった婦人の覆面を上げたと言って一人の木工の首を
刎ねたこともあった。

信長は威風堂々として短日月の間に30の王国を征服し、我が治下に立たしめ、継いでまた公方を廃して
エムベロルの冠を己が頭に頂いた。その後彼は、同じ王冠をヅボにおける彼の新たな肖像の頭に加え、
以って生存中に神として礼拝せされんとした。この目的のために、彼は彼に阿諛追従する宮廷の官人、
および市内の佞者を欠かすことが出来なかった。後者は彼の虚栄心を長ぜしめ、彼が細心、卓抜の行為、勇気に
よって斯くの如き驚嘆すべき事業を成し、斯くの如き多くの勝利を得たる上は、今の行為は正当にして
また栄誉であると自覚するに至ったのである。

しかし他人は、この虚栄の空想と傲慢なる企画を忌むこと甚だしかった。彼らは多くの君主で善行ある者に対し、
その死後これを神として祀ることには慣れていたので、このために彼を忌むことはなかったが、
彼の望む所は甚だ高く、生存中、すなわち人間が弱点に陥りやすい時において神となり、同時に人たらんとし、
特に霊界に在って永久に祝福される者にのみ捧ぐべき供物と犠牲を受けんとするのは、神聖を冒涜するものであり、
彼らが言うには

『人々は斯くの如く残虐、破約、偽誓をなせるものを神とすることを欲しない。例えば、いかなる国が
彼の君主たる面目、警言、寛仁を信頼して彼に降伏することがあっても、彼は攻撃の手を緩めず、これを略取し、
しかも暴力を以って侵入したかのように無慈悲にその国人を屠るのが常であるのを憎んでいる。』

信長を怨める者の中、最も甚だしいのは明智(Aquechi)王であった。
彼は大胆にして勇気ある君主であったが、信長の冒涜的傲慢を見て平然安堵する所を得なかった。
信長は多くの寵遇を明智に加え、彼を丹後の王となし、自己の全軍の大将としたが、宗教の名誉、並びに
正常なる神の真の礼拝が危機に瀕することを見るや、彼は信長の全軍をして彼に変心、反対せしめ、
1582年6月20日に都に進軍した。

こうして信長は不測に襲撃させられたが、自己の軍勢を以って囲まれた事でもあり脱走を企てる方法がなく、
敵の追跡を破り都に近い森林の中で殺された。
この森は以後、”エムベロルの血の森”の名を得るに至った。

(モンタヌス日本誌)

永禄の変から本能寺の変まで、モンタヌス日本史の記事である。



166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:09:51.32 ID:il9ecMq6
>>164
本能寺から逃げて都の外れの森林で殺されたとは面白い
歴史秘話ですね

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 16:18:37.32 ID:ZNRGt3ln
朝倉義景「ウチに公方の弟なんてこなかったよ?」

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 22:17:57.90 ID:1KdjBj4R
血乃森蒼紫

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 06:11:25.68 ID:7sCp75Ni
>>164
エムベロルって何?
エンペラー?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 07:25:42.08 ID:YUNgAg2D
ポルトガル語のエンペラーだったかと

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/17(水) 21:53:44.65 ID:1ckoV6Tq
>>164
”エムベロルの血の森”
やだカッコイイ

鬨の声、といえば

2016年02月15日 13:53

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 09:41:17.09 ID:IiHzuNCP
鬨の声、といえば悪久か誰か、島津の藩主が狩りをしていたところ
部下の一人が声を立ててしまったために獲物が逃げてしまった
怒った藩主は「今度獲物がいる時に声を立てた者は打ち首にするぞ!」
とののしり、狩りを続行。
ふたたび獲物を見つけたため、藩主が捕らえようとしたところ、なんと部下全員が
「オー!!!」と鬨の声をあげ、獲物は逃走。
藩主が「打ち首にするぞ!と言ったのを忘れたか!」
と罵声を浴びせるが、部下たちは
「島津の兵たるもの、打首が怖くておとなしくしていられましょうや!」
と答えたという。




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 13:08:38.90 ID:jxx97yxz
>>316
馬鹿ってことだな
そりゃ厳しすぎる罰則がいるわな島津は

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/14(日) 15:53:50.79 ID:UTAvUVaC
面目第一の武士にこんな事を言う方が間違ってるわな


360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/18(木) 23:32:39.62 ID:ftniuCPl
>>316の鬨の声について薩摩の話を書いた者だけど
元ネタの海音寺潮五郎の「史談と史論」上を読んだら、
元々は「甲子夜話」が出典らしくて、それを調べたら

海音寺潮五郎は「巻狩」と言ってたのに、甲子夜話では実は「軍事演習」で、鬨の声を上げたんじゃなくて銃を撃ってた、
つまり、軍事演習の際にたまたま部下が銃を放ったのに怒った薩州侯が
「今のは大目に見てやるが、今度やったら打ち首だぞ!」と言ったのに、
その後、数十人が銃をぶっ放して
「大目に見てくださったのはありがたく思いますが、打ち首だぞと言われておとなしくしていたのでは、
打ち首が怖くてぶっ放しなかったと思われて本意ではありません」
とわざと銃をぶっ放した、て話だった

おそらく甲子夜話の作者、松浦鎮信と同じ頃だから悪久ではないと思われ


361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 06:06:10.17 ID:KQQNOvRt
配下としては、三河武士とどっちが扱いにくいかな…

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 11:23:52.87 ID:3/pga4/H
どっちもヤダ

363 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 15:29:04.61 ID:kpw11bYQ
三河武士

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/20(土) 00:52:02.94 ID:WGYlcrB4
犬のように忠実な三河武士と言われるけど
隙を見ては主人にも噛みつく狂犬

ランシス・カイロンの取りたる日本の王公の歳入

2016年02月15日 13:52

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 00:25:17.82 ID:ATq8urbY
最後にこの大帝国(日本)に属する歳入に関しては、フランシス・カイロンの取りたる日本の王公の
歳入の公記にて明らかである。

歳入は、日本風によればコキーン(古金?)を以って計算する。1コキーンはフランス貨幣1クラウンに
当たる。フランシス・カイロンがこの地に居住していた時は、最大の歳入を有せしエムベロル(将軍)に次ぐ者は、
カンガ(加賀)、ゼッチュー(越中)、およびナツタ(能登)の王にして、カンゴチューナゴン(加賀中納言)
と称し、ランガ(金沢?)に居住している。年々の収入は黄金120トンを下ることはない。
(黄金1トンは一万ポンドである)

スルガ(駿河)、トト(遠江)、ミカワ(三河)の国の王、スルアンゴダイナゴン(駿河大納言)は、
ファイチュー(府中)の城塞に居住している。オワリ(尾張)およびミノ(美濃)の両国の王オワリノダイナゴン
(尾張大納言)はナンガイ(名古屋)の城塞に居住す、各年々70万ポンドを有している。

マサニネ(政宗?)およびオーチオ(奥州)の王センダイノチューナゴン(仙台中納言)は堅固なる
センダイ城に居住し、年々黄金64トン以上を有する。

サツマ(薩摩)、オシナ(大隅)、シューゴ(日向)およびルチオ(琉球)の王サツマノチューナゴン
(薩摩中納言)はカガシマ(鹿児島)城に居住し、年々60万ポンドを得ている。

キノ(紀伊)およびイセ(伊勢)の王にしてワカヤマ(和歌山)の城を支配するキノクニダイナゴン(紀伊大納言)は
年々55万ポンドを有する。

クマモッテ(熊本)城に在るヒゴ(肥後)のカットー・ヒゴノカミ(加藤肥後守)、およびフカサ(福岡?)城
にあるスンキセン(筑前)のマツェンデイロ・エムノスコ(松平右衛門佐)、およびオエクデの城塞を守る
エチュセン(越前)のマツェンデイロ・イノカミ(松平伊予守?)の諸王も大抵同様の収入がある。

ハギ(萩)に在住するソヴァ(周防)のマツェンデイロ・ナガト(松平長門)、およびミト(水戸)の
城塞に在るヒタイツ(常陸)のミトンスチューナゴン(水戸中納言)、ロギオイス城を支配する
ヒジェン(肥前)のナビシマ・シナノ(鍋島信濃)、タカハム(高浜)城塞に在るイナバホキ(因幡・伯耆)の
マツェンデイロ・シンダイロ(松平新太郎)は、年々31万ポンドを収める。

その他第二位の諸侯、すなわち候にあたるもの、第三位の諸侯、すなわち伯に当たるもの等、以下差異がある。

(モンタヌス日本誌)



326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 04:54:05.75 ID:XYvsWhlB
コキーンは石かな さもなくば小金?

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 07:22:55.11 ID:QDOkNT47
マツェンデイロナガト
やだ、かっこいい。

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 07:41:14.34 ID:3gxUKt4i
一万石で黄金1トン換算なのか

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 07:59:12.97 ID:8kGl8Ch8
基本的に一石=一両だよな
小判一枚で金20gも無いはずだが

それに比べて、豊守は

2016年02月15日 13:50

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 12:00:49.33 ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:12:22.47 ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:55:44.45 ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:20:22.31 ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:30:29.28 ID:ByMwmBOM
恋文かよ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 16:01:54.84 ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 20:48:23.95 ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 00:34:21.48 ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って