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倹約と吝嗇を取り違える者がままいるものですから

2016年03月16日 13:16

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 02:26:37.27 ID:IKzbChQ9
 権現様はお鷹狩等をされる時はご側室や付添いの女中も連れず、馬上でお供のことなどをたびたび拝見されていました。
駿河から江戸表へ鷹狩から直接行かれる時はいつもこのような事で、古雅で尊い品行だと思われます。
 このような事も下々への倹約をお示すためと存じています。
そうでございますので貴賤ともに倹約に専念しており、この御示しをありがたく思っております。

 しかしあまり貴人方が倹約なされると、職人とりわけて織屋などは今日の生計が尽きてしまうのではないでしょうか。
貴人には貴人の倹約が有って、あまり衣裳法度などを厳しく仰せ付けられると、
下々は表向きは君の御意に叶いますように見苦しいものを着用して、
私的な用や夜分または私邸では、思いのほか結構なものを着用する事などが出てくるものだと思われます。
 十人いたら九人は良い物を着たがりうまいものを食べたがるものです。

 倹約の例は五百年前でも稀なことなので、青砥左衛門尉が布帷子に藤巻の大小を用いられたことが日記にも残っています。
今では何の考えもない人たちがケチの例え使っておりますが、その真似はできるものの、その青砥の器量を真似る事はおぼつないものです。
もっとも青砥左衛門尉は主の心に叶えようと倹約をなさったのではありません。
 北条三代目の泰時、時頼の品行もこれに似ていたので、この青砥のような人も目利きに預かって評定衆の第一となりました。
この青砥左衛門尉藤綱は藤済の末氏と聞いております。

 これにひきかえ太閤様は奢りを徹底的にお極めなされました。
それを大名小名も目に入ったり聞いたりして、段々と下々の者までにも伝わって奢りが移っていきました。
御仁政が多く御代が太平でしたので、皆が我を忘れた事と思われます。
 いつでも倹約は人間の常でありますが、下々の者どもが痛まないような御倹約を示されたいものです。
倹約と吝嗇を取り違える者がままいるものですから。

(藤綱の先祖は伊豆国住人大場十郎近郷、承久の兵乱で宇治に向かって高名をなした。
その勧賞に上総国青砥荘を給わり、これより相伝して代々青砥左衛門尉と呼ぶとのことです。)

(本阿弥行状記)

倹約が過ぎると本阿弥一族にも支障がでたのでしょうね



週間ブログ拍手ランキング【03/10~/16】

2016年03月16日 13:10

03/10~/16のブログ拍手ランキングです!


【ニュース】人物叢書『最上義光』、発売時点で品切れ 34

【雑談】みんなだったらどこ座りたい? 22

男であったら今弁慶 21
信幸は武勇の大将であり 21
真田昌幸の娘の行方 20

徳川家康「言わぬほうがマシだ。」 16
だからこそわざと隣同士において 15
一休和尚は御臨終の時、並びに本阿弥行状記の筆者は誰であるのか 15

あの壺は素晴らしいものなのだ 12
天下の政は『重箱を擦子木で洗う』 7
室我入道謀殺 7
妙秀は人が死んだ後に借銭が少しあると聞けば 4
【ニュース】県庁前に秀康が“2人”? 2


今週の1位はこちら!【ニュース】人物叢書『最上義光』、発売時点で品切れです!
ええもう、僕もまんまと買いましたよ!その内容についての感想は後で!

2位はこちら!【雑談】みんなだったらどこ座りたい?です!
どこに座りたいかというだけの話なのに、何故かパズルゲーム、もしくはアクションゲーム的な悩ましさを醸しだすという…
そしてこんなメンツに授業する先生は誰なんだ?と色々想像するのも楽しいですね。
個人的には、学園長はきっと源頼朝です。誰も頭が上がらない存在ならそのくらいしか居ないようなw
空想がどんどん膨らむ、そんな記事だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!男であったら今弁慶です!
こんなところにも凄い女傑が。鉄砲玉を5つも食らって割と平気そう、というのも壮絶です。
そういえば本多忠勝が『女のほうがいざと成ったら肝が座っている』なんて事を言っていましたが、こういうお話を見ると
確かにそうかも、なんて感じちゃいますねw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )



今週読んでいる本~
217401[1]
もちろんこちら、伊藤清郎 著 人物叢書 最上義光 です!
本当に待望の本だったと思いますが、その期待に違わぬ良著だと思います。
人物史ものだと、対象に自己没入しすぎて贔屓の引き倒しのような内容の物も間々見られるのですが、こちらは
最上義光に対し、きちんと一定の距離を取りつつ描いています。その姿勢がまず素晴らしい。
そしてただ距離をとっているだけじゃなく、最上義光、そして最上氏に対しちゃんと、「愛」があります。
愛がありながら愛に溺れない。この非常に難しい事を最後まで成し遂げています。
最上義光が好きな方も、これから義光を勉強したいと思う方も、最適の本ではないかと思います。

男であったら今弁慶

2016年03月15日 11:24

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:50:34.72 ID:wXXKRlD6
第一次上田合戦でのこと
小縣上田原染ヶ馬場に、徳川軍の大久保、鳥居勢が出撃し、真田信幸の軍勢と合戦と成った。
この時、真田勢は劣勢となり、昌幸は禰津助右衛門尉に下知して三百騎あまりを救援に向かわせる。
これに森右近の軍勢が二千騎あまりにてかかり来ると、救援軍の加澤世間兵衛は大薙刀を水車に回して
それと戦った。しかし鳥居軍中根の二百人あまりがこれに駆け寄り、加澤は取り囲まれた。

この時、加澤の妻が上田城大手の櫓より、敵に囲まれている旗印が、夫の用いるすわまに鷹の羽の紋で
あることに気がついた。

彼女はこの櫓に禰津主膳が置いていた馬に打ち乗ると、粥を飯籠に入れさせ、”はた織”という下女に
これを持たせ召し連れ、染ヶ馬場へと突撃した。

そして敵兵ニ百人余りの中に割って入ると、夫婦一緒に成って敵を四方へと追い散らし、
小高い場所へと上がって散らばっていた兵を集め粥を与え、殿して城中へと引き入れた。
この女房、城に帰って自分の体を見ると、鉄砲の弾が五つ当たっていた。

彼女は禰津の一族、別府閑斎の娘であった、父は信州において隠れなき剛の者であったが、
昌幸は「さすが別府の娘である。男であったら今弁慶とでも呼ぶであろう。」と賞賛した。
そして上田合戦が終わった後、小縣郡西田澤において五貫文の知行が与えられた。

(加沢記)



468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 11:49:52.95 ID:M7rnYvQk
>>467
無双キャラ決定か

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 12:32:37.76 ID:hyAM4yJg
>>467
粥食わしてる暇あるならさっさと戻れよw
あえて戦場で食べる示威効果とかもあるのかな。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 15:19:14.78 ID:X083umLf
「お腹がすいてもう動けないよ~」的なアレだろ

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:16:42.85 ID:8+mdhNud
はた織もお粥持ちながら奮戦したんだろうな

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 16:31:22.71 ID:fCODIKy5
ふむ、前に見た上田真田を舞台にしてるアニメで
「一番いけないのはお腹が空いていることと、一人でいることだから」という
家訓があったがこれが元ネタだったのか(真顔

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:43:45.89 ID:bijnJOfb
てっきり熱々のお粥を敵兵めがけてブチ撒けるのかと思ったら、普通に食うのかよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 23:59:37.88 ID:hdMqxwPy
>>474
食い物粗末にする訳ないだろ、籠城の時に敵に浴びせるのは
熱々の糞尿と楠木正成の時代から決まってる

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 00:59:29.18 ID:BOz2xNr+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3356.html
真田や楠木の粥云々は前に色々話題になってた

天下の政は『重箱を擦子木で洗う』

2016年03月15日 11:23

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 00:53:38.69 ID:r9VV4Cyo
 天下の政もあまり厳しくしますと、我が朝は勇智が鋭い国ですので、役についている者が安心せず、
思いもよらぬ自害をする事も出てくるでしょう。
 権現様が毎度仰せられていたことに、天下の政は『重箱を擦子木で洗う』(細かなことまで詮索しない)
ようにするのがよろしいとのものがあります。
この御上意は末代の亀鑑だとと思われます。

 また何の役であろうと、自分の仕事が済むとすぐに立ち去るように考えている人がございます。
これは先祖からの知行に疵が付かないようにとの心で、
先祖へは奉公の様に聞こえましても、君への不忠かと思われます。
これは上の情は下へ通らず、下の情が上へ通じないことから出てくるのだと思われます。

 そのうえ権現様が御他界されてからわずかな年月しか経っておりませんのに、自然と華麗になっていますので、
私も人もこれを心に忘れないように、上様の御恩を子孫の者どもへ申し聞かせるのでございます。
(本阿弥行状記)

仕事の引継ぎを準備せず放り投げてくる人っているよね(´;ω;`)



【ニュース】県庁前に秀康が“2人”?

2016年03月14日 18:35

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:24:19.35 ID:aCW8pZdW
中日新聞福井版2月21日
県庁前に秀康が“2人”? 結城会が新設に動く
現在の像「容姿」に異論
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016022102000199.html
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100124_size0.jpg
PK2016022102100124_size0[1]
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/images/PK2016022102100125_size0.jpg
PK2016022102100125_size0[1]
江戸時代初期に福井藩の初代藩主を務めた徳川家康の次男、結城秀康(一五七四~一六〇七年)の騎馬像について、
結城家のゆかりの福井市民らが違和感をもち、新像の設置を模索している。福井城跡である市内の県庁前に立つ
現在の像には子孫関係者からも異論が出ており、インターネット上で「中国風」「日本の美意識がない」と批判
されたのを機に動き始めた。今の像を計画した市側は静観するが、二つの像が並び立つ日が来るかもしれない。 (中場賢一)

馬にまたがり、手綱を持つ姿で、県庁の来訪者を迎える秀康の石像。越前国北ノ庄(現福井市)入りから四百周年を
二〇〇一年に迎えたのを記念し、福井市と、市の歴史や文化を紹介する公益財団法人「歴史のみえるまちづくり協会」が
城跡を管理する県に贈呈し、〇二年に除幕された。

制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

建立直後から、結城家の家臣の子孫の市民らでつくる「福井結城会」には、秀康の子孫の結城松平家や結城家の関係者から
「イメージに合わない」と異論が届き、撤去するよう要請があった。ネット上では「中国風にデフォルメされている」
「日本独自の美意識が感じられない」と評されている。
会の片岡賢三副会長兼事務局長(67)は「不評や失笑どころか怒りを買っている」と新像を計画。秀康に関する資料を精査し、
銅像制作を手掛ける富山県高岡市の「竹中銅器」に昨年十二月にデザインを発注し、一月に完成した。

その姿は秀康が愛用していた唐冠形兜(とうかんなりかぶと)をかぶり、手には天下三名槍(めいそう)の誉れ高い
「手杵(てぎね)の槍(やり)」が握られている。顔は「ナマズに似ていた」ともされているが、イケメン風にアレンジ。
ただ、片岡さんは「あくまでたたき台」と強調する。




316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:44:56.84 ID:mmYKOCFu
容姿に異論、ていうからギイに似ているとか鼻が欠けた姿にしていたのかと思いきや

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 19:53:36.58 ID:Q9hijGnh
>>315
>「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」
キックバック?公益財団法人の悪い話…。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 21:14:50.13 ID:/SDAcKHs
>>315
>制作したのは県と友好提携している中国浙江省の石像作家。協会が依頼したが、デザインや制作先を決めた経緯について、
>協会関係者は「当時関わった人が在籍しておらず、詳細は分からない」と話す。

態々、浙江省の石像作家に頼むからこんな中華風な像なるんだよな
国内の製作者でも戦国の騎馬武者像を正しく作れる人がどれくらい居るかも分からんのに

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:42:28.69 ID:AcXeEgg+
>>315
御手杵を馬上で使える訳無いだろw
関係者に馬鹿しかいねぇwww

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 23:59:30.17 ID:wbpvzEpq
はい草

322 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/14(月) 01:14:31.04 ID:Vz9aN3QN
>>320
変に関羽みたいになっとるw

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 15:55:50.98 ID:X6LOFWbh
戦国時代騎馬武将の写真なんてあるわけないし
当時かかれた絵もおもいっきりデフォルメされてるので細部は全くの不明
誰も本当の姿なんて知らないし県庁前とおるほとんどの通行人も興味もないししりたいとも思わないので
わざわざ作り直す必要性もないだろう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:24:28.52 ID:fT7s1wsQ
左手にサイコガン付けようぜ

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:38:31.19 ID:lbTjKK+/
ヒューッ!

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:04:24.99 ID:xlMMQtnb
>>323
鎧とかなら残ってるんじゃないのかな

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:36:53.05 ID:Yol0YFF+
馬具も馬術書もある

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 20:58:58.14 ID:egIkNCog
中華風にプロレタリア感が加わった何とも言えない石像だなとは思った
まあ結城秀康といえばあの脇立がなきゃって気もするし、どっちもあっていいんじゃないの

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 10:28:25.24 ID:4eCAY+2k
中華風にリアリィティないというなら各地の駅前とかにある馬上戦国武将像もあれだろ
ポニーサイズの馬に変更しないと・・・

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:38:45.21 ID:utlpfOlk
>>339
ポニーだって体高150くらいあるの知ってる?

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 13:42:56.47 ID:vNIvEO5E
>>315
たぶん、碌な資料も渡さずに発注したんだろうな。
秀康像の困惑顔は作家の本心を表してるに違いない。

室我入道謀殺

2016年03月14日 18:31

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 17:54:03.61 ID:Yc5G3ZeV
天正壬午の乱の結果、信州一国は徳川家康に属することになったが、ここで天正11年6月、
真田安房守昌幸は国中を従えんと企て、先ず室賀を討つべしと一門を一手に引き連れ
室賀の館に押し寄せた。

しかしこれに、室賀兵部太夫(正武)は自ら打って出て、篠山において火が出るほど激しく戦い、
互いに多くの郎党が戦死したため、双方ともに引いた。しかし翌日、真田は再び取って返して押し寄せ、
これに室賀より和睦を請うてきたため、これを許して帰国した。

室賀入道は真田に従属したことを無念に思い、翌天正12年6月、高井彦衛門尉を通じて
遠州の徳川家康に訴えた。これに対し家康は、「謀を以って真田を討つべし」との返答を得た。
室我入道はこれに大喜びし、それから上田に見舞いに参ること甚だ頻りとなった。

ある時、上方より囲碁の上手が上田へと参り、これに室我入道は招待された。
室賀は「よき時節なり」と考え、日限を定め、一門の室賀孫右衛門を以って
「来月7日、真田の居城に囲碁に参りますが、この時真田昌幸を討ち取ります。
ですのでご加勢下さるように。」
と、徳川家臣の鳥居氏に申し送った。

ところが、この室賀孫右衛門は内々真田昌幸に通じていたため、その書状を直に上田に持って行き、
その内容を語った。真田昌幸は大いに喜び、孫右衛門を馳走して反した。

一方、室我入道は全てうまく行っていると思い、家の子である桑名八之助、相澤五左衛門尉、
堀田久兵衛などを従えて上田に参ると、昌幸は兼ねて用意してあった通り、書院に招いて
囲碁を始めた。
この時、長野舎人、木村戸右衛門が討ち手に決められており、合図を出すのは禰津宮内太輔、麻利子藤八郎、
長命寺、安楽寺であった。

長野、木村は次の間より太刀を抜き出し、室が入道を無常にも殺した。
室賀の家臣である桑名、相澤、堀田はこの騒ぎを聞くより早く殿中に斬り入り、散々に戦った。
しかし、たとえこの3人が項羽の勇を顕したとしても、多勢に取り巻かれ、最後には生け捕りにされた。
この3人は後には心を変じて真田に仕え、無二の忠を成した。
この時、桑名八之助は深手を負った。

室賀の妻子たちはこのことを聞くと、取るものも取りあえず早々に甲州へと落ちていった。

(加沢記)



だからこそわざと隣同士において

2016年03月13日 18:50

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 05:23:41.44 ID:J76LvMUu
この年、天正19年は改元して、文禄元年となった。
諸国の軍兵は豊臣秀吉の命を受け、筑紫に赴き、朝鮮に入る準備をした。

12月28日、近江中納言豊臣秀次は関白に任じられ、天下の政治を掌握した。
そして秀吉は太閤と称した。

秀次はこの日参内し、日本中の大小名の内在京しているものは、尽くこれに供奉した。
その行列は予め定められ、1番に蒲生氏郷、2番に伊達政宗、3番が山形(最上)出羽守義光であった。
ところがこの事に対し、蒲生氏郷が秀吉に訴え出た

「山形は源氏の末裔であり、また伊達政宗に対して母方の伯父であります。それなのに義光が
政宗の跡に立つのは本意に非ずと、出羽守は頻りに嘆いています。」

秀吉はこれを聞くと
「誠に私の過ちである。山形は源氏、政宗は藤原氏。山形は伯父、政宗は甥である。
また山形は忠節人、政宗は降参人であるので、山形を先にするのが道理である。」

こうして義光が政宗の先に立つことに決まった。
義光は大いに喜び、蒲生氏郷に対し
「天下に面目を立てることが出来ました。一生この恩は忘れません。もし会津に一乱有れば、
必ず義光が救いに参ります。」
その証人として、息子の駿河守を人質として会津まで送ったが、氏郷はこれを丁重に送り返した。

さて、伊達政宗は、これに間に合うよう年内に上洛していたのに、その甲斐もなく義光が
行列の2番に立つことになった。政宗はこの顛末を聞くと、蒲生氏郷を憎むこと骨髄に至るほどであった。

蒲生氏郷伊達政宗の関係が、水と火の如くであることを、秀吉はよく知っていた。
だからこそわざと隣同士においてその境を守らせたのである。

(伊逹秘鑑)

蒲生氏郷伊達政宗の悪関係、実は秀吉が煽っていた、というお話



徳川家康「言わぬほうがマシだ。」

2016年03月12日 14:18

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 19:00:42.70 ID:cGLcVCWY
天正19年、愛息鶴松を失った豊臣秀吉は、10月19日、諸大名、奉行たちを尽く集め、
朝鮮への出兵を宣言した

「先ず朝鮮を征して、従えばこれに先登させて進むべし。従わずば尽く攻め平らげ、
そのまま大明国に攻め入ろう。何の難しいこともない。各々、どう思うか!?」

諸大名は驚愕した。みな、秀吉は愛子を失い、嘆きのあまり狂気したのだと思い、
口を閉じて答える者はいなかった。
徳川家康は上座に居たが、彼はこう思っていた。我々は連年の軍旅に疲れ、去年に成ってようやく
一息ついたというのに、またもや兵を三韓に出せば、人民がどれだけ困窮するか言葉にもしがたい。

そして秀吉の言葉が聞こえなかったかのように、何も答えなかった。
秀吉は家康が答える様子がないのを見て、憤怒の表情になり、歯を食いしばり拳を握った。

その時、毛利輝元、前田利家、上杉景勝などが、その気色に恐れ口々にいった
「甚だ然るべき、誠に神功皇后以来の大事業です!武将と呼ばれるほどの人物の中で、兵威を
異朝に輝かせるのは、秀吉公にあらずして誰が及ぶでしょうか!」

このように阿ると、秀吉はたちまち喜びを表情に表し、すぐに九鬼嘉隆に命じて、伊勢の浦にて
巨大な艦船数百艘を作るよう命じた。その中で最も巨大なものは日本丸と号した。また中国四国九州の
諸大名は、秀吉の命に従い戦船を調え粮米を集め、兵を動員した。このように、当座の狂言とばかり
思われたものが、終に実際の出来事となり、大小名に至るまで興を覚ます思いをした。

こうして御前伺候の者たちが退出する中、浅野長政一人、見舞いと称して徳川家康の屋敷を訪ねた。
長政は聞いた

「今日の、秀吉公が韓朝を攻めるという話をどう思うか?」

「…名を末代に留めようとする者は、これを是とするだろうか?はっきり言えば、全く益のない企てである。
仮に三韓を攻めて日本に従わせたとしても、それから得られる利益はない。みな日本の費えになってしまう
だろう。
また、大明を日本の国力で従わせることが出来るとは思いもよらない。年月を経ても大明は雌伏するだろう。
10年も20年も戦えば、日本は兵力が尽きて、却って異国に奪われてしまう。
また大明を攻めてその兵を撤退させる時、大明の国王が、どうしてそれをそのまま置いておくだろうか?
彼らを見捨てることは出来ないのだから、撤退させるためにさらに軍を派遣しなければならない。
そうなれば日本の民はさらに疲弊し、亡国となるだろう。

あの時私は、秀吉公が怒ってその仔細を問うて来たなら、叶わぬまでも問答して押し止めようと思っていた。
ところが輝元たちが秀吉公に阿って非を是とした。忠臣の法ではないよ。
秀吉公は愛子に別れ、狂してああいう心が出たのだろうが、3年5年も過ぎずに後悔するだろう。
去年、北条が滅んでようやく静謐と成ったのに、今また朝鮮への企てを成す。是非を論ずるまでもない。

おおよそ、天下の主は万民の父母である。天下は一人の天下ではない。それなのに我意にまかせ名利を
貪り、民を苦しめる。本人は果報によって安穏に居られるかもしれないが、子孫は覚束ないだろう。
惜しいかな、秀吉公は、士を恵み民を慈しめば武運長久であるのに。」

長政はこれを聞くと言った「願わくば、秀吉公を諭していただけないだろうか?」

しかし家康
「皆が一同揃って然るべからずと諌めれば、もしかすれば説得することも出来ただろう。
だが、私一人が何度言っても、承服するような性格ではないだろう?
曲がった言葉を出す者は、また人の言葉も曲げて入るという。言わぬほうがマシだ。」

これに長政も「その通りだ」と答え、夜になって帰っていった。

(伊逹秘鑑)



298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 19:10:28.83 ID:IF10bqjj
>>297
家康が反対しても潰されるだけだろうしなぁ…。
五大老全員反対してれば秀吉も内乱で負けると思って止めるかも?

あの壺は素晴らしいものなのだ

2016年03月12日 14:16

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 12:39:50.67 ID:Hphtd2wu
戸田三郎(勝隆、秀吉家臣)と戸田半左衛門(勝成、丹羽長秀家臣)が、
それぞれの主人の使いで岐阜城下で一緒になった。
用事を果たした二人が、帰り道に美濃の大百姓の家で茶を馳走になった時に
その家にあった古びた壺に目をとめた。
「これは素晴らしい逸品だ。持ち主は壺の価値がさほどわかっていない
ようなので、持ち金があれば買い取っていくのだが」と
半左衛門は残念がった。
そして、二人はそこで別れて帰途についた。
三郎も茶を親しむ者ではあるが、その壺の価値は判らなかった。
風流にかけては優れている弟が言うことなので、あの壺は素晴らしいもの
なのだろうと思い、近くにあった知人の家で金を借りると、引き返して
壺を安く買い取ることに成功した。
その壺を持ち帰ったところ、羽柴殿はそれを見て「素晴らしいものを
持っておるな。さすがは三郎じゃ」と大いに褒められたので、大いに
面目を施したということである。(近江東西記)

「兄貴!あれはいいものだぁぁ」なマクベ戸田兄弟な話。




【ニュース】人物叢書『最上義光』、発売時点で品切れ

2016年03月12日 14:14

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 06:39:46.85 ID:x4ZIOuxh
吉川弘文館営業部
伊藤清郎『最上義光』(人物叢書)出羽57万石の礎を築いた戦国武将!山形を見守り続けたその生涯を描く決定版!3/11出荷開始。

吉川弘文館営業部
人物叢書『最上義光』ですが、事前のご注文・ご予約が非常に多く、本日発売時点で品切れとなりました。ありがとうございます! 現在、3月末出来予定にて重版に取りかかっております。書店さんで見つけた時点で即ゲット、をお勧めいたします。

(´つω;`)おまいら鮭様好き過ぎ…どこにも在庫が無いお…



461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 13:28:06.38 ID:uVrm8Bs+
>>458
すげーw出版社もびっくりしてそう、なんでマイナー武将が即日売切れするんだよ!?って

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/12(土) 16:39:31.10 ID:QLqbZWfD
>>458
どんな本なん?
検索かけたら、最上義光 鮭と最上義光 シスコンがワンツーでワラタ。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/13(日) 13:28:45.82 ID:CgeMS3F6
>>458
ついさっきまでamazonにも残ってたけどな。
ネット通販なら探せばまだあるだろ

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/14(月) 12:08:33.67 ID:h0pzVdeU
いったいどこの奴らだ
最上義光と鮭やシスコンを結びつけたのは

一休和尚は御臨終の時、並びに本阿弥行状記の筆者は誰であるのか

2016年03月11日 13:46

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 21:30:55.87 ID:l/ankN4B
一休和尚は御臨終の時、「しにとうない」と弟子に仰られたことは
とても珍しいことで、一休でなかったらこのような事は仰ることができないだろう。
それゆえ今の代までも尊ばれているのだ。
この意味は筆紙の及ぶところではない。
(本阿弥行状記)

>>371-374 >>376
本阿弥行状記の筆者は誰であるのかというのと、成立年代について少し述べたいと思います。
本阿弥行状記というのは、大きく分けて上巻と中・下巻の二つに分類できます。

上巻は一~六十四段で構成されていて、

一~十四段:光悦と妙秀の逸話
十五~五十段:松平信綱が上京した時に、信綱と板倉重宗に光悦が意見した内容を書き上げたもの
五十一~六十四段:鷹峯と本阿弥家の逸話

に分けられます。五十段では「家父光悦」と書かれているので光悦の子の光瑳が五十段目まで担当し、
五十五段では「親光瑳」との記述があるので、五十一段からは光悦の孫で光瑳の子の光甫が担当したと読み取れます。
そして、光甫が上巻を編纂した考えられます。

中・下巻は上巻の附録として六十五段~三百八十段あり、光悦と光甫の二人が書き残した反故紙から取り出した逸話と
編集者の聞いた話を混雑校合せずに列挙したものだとの説明があります。
では編集者は誰なのかというと、三百三段に「堀田公老中、酒井雅樂公御大老の砌」に「祖父の被申は」とあるので、
酒井忠清が大老で堀田正俊が老中であった延宝七、八年の時には当主光甫であったので、
彼の孫で本阿弥家当主を務めた光春だと推測できます。

いつ頃中・下巻が成立したのかというと、
一番新しい逸話としては二百四十九段と三百四段に吉宗の諡号の「有徳院」の名がみえるものが挙げられますので、
宝暦元年閏六月二十九日に吉宗に諡号が授けられた後ということになります。
つまり、今までちょっといい話・悪い話に投下した本阿弥行状記出典のもので本阿弥家と光悦の意見に該当しない、
戦国武将の逸話等の作者は戦国期の光悦でも江戸前期の光甫でもなく、吉宗の時代の光春の可能性がある、
いや、かなり高いと思われます。

それは、光甫の編纂したので江戸前期のものと思われる上巻も所々おかしな記述が見受けられるからです。
石川五右衛門の名が堂々と出てきたり、寛永二年を秀忠の代としていたり(秀忠は生きているが家光に譲っている)します。
また、家綱の諡号「厳有院」の名がでてくるので延宝八年以降に光甫は編纂したことになるのですが
光甫はその二年後の天和二年に八十二歳で亡くなるので行状記は八十歳でまとめたという計算になります。
加えて、もう延宝七年には鷹峯を返上してるのにまだ住んでいるという記述があったりして事実と矛盾があります。

そして本阿弥行状記の大きな問題点として、原本が現存していないということがあげられます。
今残っている写本は数種類ありますがそのどれもが同一系類で、奥付の由来が途中まで一緒なのです。
そしてその写本の最初は宝暦元年初冬に佐々木高豊という人によるものなのですが、その写本も失われており、
現存の写本は天保以降に写した写本の写本の...となっています。

先の上巻の誤りは写していく過程で生じたものかもしれないとの指摘があると思いますが、
刊本されない家伝書だからといって、宝暦頃まで写本が一つもない、現在も一つの系統しかない、というのはおかしな話です。
いちおう大田南畝が『仮名世説』の中で本阿弥行状記の妙秀の話を書いています。
『仮名世説』が刊行された文政八年には存在したことになりますが、
それ以外に江戸期にこの行状記の内容に言及したものは寡聞にして知りません。
上巻の光悦の意見の箇条書きは、家康も見たと行状記の中に書かれていますが、
そんな記録はどこにもありません。

なので、この本阿弥行状記は大体吉宗の頃に当時の本阿弥家が一から書き上げた書で、光悦でも光甫も書いてない
と言われても反論の仕様が無いのですね。
実際のところは、光悦や妙秀の元となった逸話自体はあってそれを膨らませていったのだと思いますが、
とりあえず、本阿弥行状記の作者を光悦や光甫と考えるのは少し危険かもしれませんね。



【雑談】みんなだったらどこ座りたい?

2016年03月11日 13:44

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 22:03:39.93 ID:GlMZAr4d
ヤフーニュースから
https://pbs.twimg.com/media/Cc2u_8sUsAAhNQB.jpg
Cc2u_8sUsAAhNQB[1]

みんなだったらどこ座りたい?
※なお森長可の人間無骨は二つ隣りの席まで届くものとする

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 22:38:37.40 ID:pIU/YpjM
>>291
15かな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 21:45:32.61 ID:C5sK8azt
>>291
元ネタはこれかな?
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1293102886/294

趣味 [戦国時代] “最上義光「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」”

294 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/20(火) 22:38:53.05 ID:BCkTOTcG
        暗殺教室         座席表

 徳川家康 陶晴賢  大関高増 明智光秀

 松永久秀 武田信玄 織田信長 尼子経久

 毛利元就 伊達政宗 黒田孝高 宇喜多直家

 最上義光 津軽為信 斎藤道三 大田原資清


殺せんせー「人に笑顔で胸を張れる暗殺をしましょう 君達全員それが出来る有能な暗殺者だ」


294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 10:16:15.46 ID:axDp3R6T
>>291
少なくとも5の席の机の上には花瓶と花が置いてあるのはわかる

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/11(金) 14:40:54.41 ID:8yyrruOc
>>291
小野木公郷助命問題で忠興と揉めた直政と
ガラシャが隣ってのが上手いね。
とりあえず教科書忘れたガラシャに机くっつけてあげる直政と
それを歯ぎしりして見ている忠興の図は想像できた。

真田昌幸の娘の行方

2016年03月10日 11:36

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 18:50:21.20 ID:Ya1EF9Tr
※大河の今後の展開のネタバレが入っていると思われるので注意して下さい


本能寺の変が起こってから、真田昌幸が安土に出した人質である娘の行方は全く解らなくなり、
昌幸の御母堂の嘆きは止まること無かった。
真田の一門、家老の人々は日々集まってこの事を協議した

「この事、行方は覚束なく、落涙する外無い。しかし信長公の御台様や公達は、日野という所に
蒲生忠三郎が忠義を以って引き取り、御扶育されているとのこと。もしや姫様もそちらに
ご一緒しているのではないだろうか?」

「いやいや、未だ織田に対してさほどの忠節を見せたわけでもないのに、その人質を日野まで
伴っているだろうか?ただ、傍若無人な者の手に渡り、いかなる御身に成り果ててしまっているか…」

とにかく人数を出して探し出すより他無いと、手分けして尾張、近江、遠江、三河、甲斐、駿河の
6ヶ国の在所在所を草の根を分けて手の及ぶ限り探したが、やがて豊臣秀吉の時代になり、世の中が
静謐となってもその行方はわからなかった。御母堂は片時も彼女のことを忘れず、嘆きは深まるばかりであった。

さて、彼女が行方不明に成って翌年の春、真田昌幸が上洛した折、桑名の渡守の所に真田家の下郎達が入って
休息していると、20歳ばかりの女房が走りきて聞いてきた

「今日、御上洛の殿様は何という大将で、国は何処でしょうか?」

「これは信州真田殿の上洛だ。」

これを聞いて女房はさめざめと泣いた
「信濃とは懐かしい。私も信濃の者ですが、いささか仔細があってこの国に有ります。
ですが本国ですから母を一人持っています。在所は上田の城…」

そう言いかけたが、言い直し
「上田の城町の喜兵衛と申す者の所に、これを届けて頂けないでしょうか?」

そう、紙包みを一つ渡した。彼らは下郎であったので、とくに何も考えず「心得たり」と懐に入れ、
帰陣まで何もせず上田に持ち帰った。
そして『城町の喜兵衛』という人物を尋ねたが、上田の城主(真田昌幸)の名が喜兵衛であるため、
外にその名を付けているものは一人もなかった。

この事、追々足軽大将に聞こえ、彼が預けられたという紙包みを開いてみると、まさしく姫様よりの
御文であった。早々に山田文右衛門に渡し、そのまま奥方にさし上げると、喜ぶこと限りなく、
すぐに桑名へと人を遣わし、渡守に褒美を与え、彼女を向かえ取った。
渡守は安土の乱の時に彼女を奪い取ったが、大切に思い深く隠し置いたのだという。
浅ましい話で、2年間の憂き目のほど、思いやられていたわしく、聞く人ごとに哀切の気持ちは増した。

彼女は後に、小山田殿の御内室になった。

(加沢記)

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 21:23:18.02 ID:IAi8UN//
おやまだ結婚してなかったのか

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/10(木) 01:27:53.74 ID:rGWTfnmK
座布団どうしようかなぁ

信幸は武勇の大将であり

2016年03月09日 18:20

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 19:07:16.92 ID:lZNfxQ9T
織田信長による甲州征伐が進行する中、武田勝頼は新府城に到着すると、武田から寝返った
不忠の者達の人質は、あるいはハタモノ、あるいは獄門と、三族ともに成敗し、忠信の人々の人質は、
それぞれに形見として返還し、杯など下して本国へと送った。
そして真田昌幸の嫡男、源三郎信幸を召し出して言った

「お前の父、安房守の今度の忠信は、草葉の陰までも忘れがたいものである。私が小山田の申す所を用い、
このように成り果てたのは神慮にも放たれたということなのだろう。昌幸は私を、不甲斐ないものと
思うことだろう。
どうか、お前の母と弟、その他一族の人質をつつがなく引き取って帰り、末まで繁盛せよ。」

そして御杯を下し甲州黒と名づけられた名馬一匹、金作りの太刀を与え涙にむせびつつ「これまでである」と、
忝なくも広縁まで見送り、「若年の者、落人として生け捕りにされることがあるかもしれない。」と、
自身の人数から数十人を付け、5,6里の間彼らを送るよう命じた。誠に昌幸の忠義に感じ入ったため
致したことであった。誰もがこのようであるべきなのに、相伝の主君に弓を引き逆心を企てるような
心意は、神慮もきっと憎む事だろう。心ある輩はこれを感じて、みな涙を流した。

真田家の人々は3月5日に新府城を引き払い信濃との国境へと向かうと、ここかしこより甲州の落人を
剥ぎ取ろうと、盗人共が寄り合い同類を集め、百人二百人ずつ待ち伏せし、鬨の声を上げて討ってかかってきた。

真田信幸、この時17歳。弟藤蔵15歳、源五郎7歳、信幸の姉18歳、矢沢殿の娘、祢津殿の娘、
室賀殿の娘も同行して下っていた。
信幸は先陣に進み、続いて御母堂の乗物と続き、山田文右衛門が殿をしてその勢男女二百余人、
信幸は一揆共を追い払い、鳥居峠につくと人馬の息を休ませた。しかしこの事はすぐに盗人共に知られ
「よき物取りが出来る」と、信州のスッパと上州・武州のワッパ共集まり、一千余人、峠の麓の
小松原に潜み、坂中にて鬨の声を上げると、百千の雷もこれには過ぎぬと、恐ろしさのあまり
母親は信幸に訴えた

「敵は多勢、この方は無勢。そして京まで3日の間の道中にての、昼夜度々の戦にて手負いも多くあり、
多くは疲れ果てています、なまじ戦って雑人の手にかかるよりは、私は自害しましょう。それから
あなたもお腹を召しなさい。」
そう涙に咽んで語ったが、信幸は武勇の大将であり、謹んで母親に言った

「あの程度の一揆、たとえ百万騎あろうとも物の数ではありません。お心やすく思って下さい。
只今彼らを追い払い、安々と国元までお供いたします。」

そして鎧の上帯を締め直し十文字槍を持つと、勝頼より賜った甲州黒に打ち乗り、さも勇々とした態度で
控えた。母親も鎧を着、白綾を畳んで鉢巻にし、志津三郎の打った薙刀を小脇に手挟み床几に座った。
真田信為(信繁のことか?)も緋縅の鎧に鍬形を打った兜の緒を締め、弓を引き、敵がかかれば討ち懸からんと
母親の脇に控えた。

信幸は五反斗乗り出し一揆の様子を観察し、真田の男女200人の一行を3手に分け、先陣を山の并びに
50人、母親の所を旗本として100人、手回りに50人を従え、信幸は言った
「この山陰から麓に廻り貝を吹きたて、50人を二手に分け、喚きながら峠に駆け上れば、敵は盗賊の
奴原であるから、我々を尾張勢と勘違いして散々に逃げ去る事間違いない。ただし、もしこの作戦を
敵が悟り、戻ってきて戦うことになれば、この山上の岩窟に母上を引き上げた上で戦うべし。」

こう評定し山陰に廻ると、そこには鎧武者10騎ばかり、人数7,80人が忍びやかに細道を登っていた。
信幸は、これは敵が後ろより来たのだと思い、配下の50人のうち1人を農民の出で立ちにして物見に
行かせたところ、それは信州より信幸たちを迎えに来た人々であった。
「これはなんということか!」相互に大喜びし、一行はすぐに信幸の元に向かった
「この峠に差し掛かり、遠見を出したところ鬨の声が頻りに起こり、その軍勢は雲霞の如くでありましたので、
この山陰を廻ってきたのですが、これこそ天の与えた幸運でした。」

こうして彼らも信幸の共に属し、麓に下り貝を吹き、鬨の声を上げると、案の定一揆勢は四方八方に
逃げ散り一人も残らなかった。

それから母親らの人数と合流したが、信濃国は信長の尾張勢がここかしこの城要害に押し寄せ兵乱の
最中であり、通行も難しいということで、ここより輿を捨て、母親をはじめとした女性も男の出で立ちにて
通るべしと、皆甲冑姿と成った。
(加沢記)

参考
真田信之の脱出


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 09:57:20.30 ID:JZptPlK9
>>441
大泉洋と堺雅人が浮かんで来てコメディーになってしまう

妙秀は人が死んだ後に借銭が少しあると聞けば

2016年03月09日 18:19

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/09(水) 06:18:22.49 ID:MxI7Zgjc
 妙秀は人が死んだ後に借銭が少しあると聞けば、

「さてさて、その子供はめでたい譲りを受けたものだ、冥加があるだろう。
親の心は高きも賤しきも、自分の身を切り詰めて子に譲りたく思うものです。
 まして下劣の者どもは自分の身に着たい物を子に着せて、珍しい物があれば自分で使わず子に与えます。
老い衰えて見苦しい姿となるまで田舎遠国へもへつらって廻り、金銀を貯え持つのは皆子に譲りたいためです。
 そうであればこの譲りを受けるのは、親を剥ぎ、親の咽を絞め、親に恥を与えるものではありませんか。
この道理を心に持って、分に過ぎて親の譲りを受け取った人々は猶更考を尽くすべきです。

 遺産を譲り受けた富貴の身としては、親が死んで『これは』という程の仏事もなさず、
一生の恩を忘れて、その忌日だけにさほど聞こえのない僧をただ一人二人招いて弔うだけでは不足であります。
自ら香花を供養し、慇懃に僧の給仕するべきです。

 また親が借金を負ったのは、子に譲るべき物をたくさん使ったためです。
親が苦しみながら持っていた借状を将来に相続する子には、仏神の御恵みがあり天命に叶ったのを数々見てきました。
返す返す考えるに、欲深く貯えた金銀を譲り受けることは恐ろしい事です。」
妙秀は常に申していたという。
(本阿弥行状記)




週間ブログ拍手ランキング【03/03~/09】

2016年03月09日 18:17

3/03~/09のブログ拍手ランキングです!


鷹羽の心根 27

このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶 15

松永久秀臣従 14
織田信長が鷹狩を好んだのは、 14

兵は偽りの道である 11
義理を知らない者には必ず災難が来るものだ 9
銭轡 はめられたるか右馬助 6

願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡は 5
『土蔵にただ今火が入ってきました』「さてさて、嬉しいこと嬉しい事」 5
『遠きは花の香』 3



今週の1位はこちら!鷹羽の心根です!
主君大内義隆の敵を最後まで追い、散った美少年のお話。
武士の「衆道」とは本来、色恋というような関係を超えたこのような命懸けのものだったようです。
井原西鶴の『男色大鑑』などの男色モノにも、衆道相手が殺され、命をかけてその敵討ちをする話が多く収録されていますね。
そのために衆道の相手のの妻子(!)と協力したり。現代人の感覚ではなかなか解りにくい行動をとったりしています。
このように衆道がある意味理非を超えた関係性だったがゆえに、細川忠興などはこれを危険だとして禁止したのでしょう。
戦国期の男色については、乃至政彦 著 『戦国武将と男色 知られざる「武家衆道」の盛衰史』 がお勧めなのですが、
この本、もしかしてもう絶版に成ってる?(;´Д`)

2位はこちら!このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶です!
信長が朝倉義景、浅井久政・長政親子の頭蓋骨に金箔を貼って杯にしたという有名なお話ですが、ここでは単純に頭蓋骨に
金箔を貼っただけなのですね。
そして家臣たちの反応は、まさに「やったぜ!」と大喜びなわけですが、この時代の武士の感性を考えれば、このほうがやはり
自然でしょうね。なにせ浅井朝倉は、織田家の人々が心底から肉を食らっても許せないと思うほどの仇敵でしたから、
そんな彼らを滅ぼしたことを、信長も家臣たちとともに祝うために、このような趣向を凝らしたということなのでしょう。
無論、同時代的にも趣味の悪い行為ではあるのでしょうけど、未だ野蛮を多く残している、この当時の武士ですからねw
織田家の、浅井朝倉への怨みの深さだけでなく、そんな当時の武士の気質も見えてくるような、興味深いお話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!兵は偽りの道であるです!
まあコメントなどにもあったように、家康曰く「政宗の言うことを信じるとか、バカなの?死ぬの?」というお話ですw
ですが、家康は蒲生氏郷を騙した政宗の事を、一言も批判していません。むしろ「勇者だから当然」という受け取り方です。
そして「騙された氏郷が悪い」という文脈に終始しています。
この逸話が実際にあったものかどうかは別として、当時の武士の考え方をよく反映しているお話だな、と感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!また、気に入った逸話を見つけたら、
そこの拍手ボタンを押してみてやってくださいな。
( ´ ▽ ` )

今週読んでいる本
東北の中世史4 伊達氏と戦国争乱
東北の戦国時代の展開から、織豊政権によってそれが取り込まれるまでを描いた本。
東北の戦国乱世を理解したい人には必読。この手の本にありがちな、対象に過剰に思い入れることがなく、常に適度な距離感を
きちんと保っていることに非常に高い知的さと好感を覚えました。


鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

『遠きは花の香』

2016年03月08日 13:10

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 08:04:27.69 ID:zmeUVn88
 妙秀が常に申すことでは
「親子兄弟は近くに住むことはよろしい事ではない。『遠きは花の香』と言われています。
住居が近ければ、下働きの者がたびたび行き来して、良きことを言わない。
またもし火事に遭うことがあっても、兄弟で別々の家があるとその方へ立ち退いて、差し迫って事を欠かない。」
とのことであった。
(本阿弥行状記)



願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡は

2016年03月07日 17:23

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 17:15:06.26 ID:kS/hBmPc
織田信長の元へ、鏡屋の宗白という者を、村井長門守(貞勝)が召し連れ、彼は手鏡を献上して
御礼申し上げた。

信長はこの手鏡を取り上げると言った
「たいへん明白に映る鏡だ。願わくば心の善悪も見ることの出来る鏡はないものだろうか?

世の癖として、諸侯太夫、寵臣たちは、良くも悪くも皆適切な発言をする。しかしこれによって
主君たる者は却って心を暗まされてしまう事、日々月々にいや増しているが、行いの悪しきを
諫むる者は居ない。
だからこそきちんとした諫臣を得なければ、政道の実利は聞こえてこなく成るものなのだ。」

そんな事を語りながらふと鏡の裏を見ると、そこには『天下一』と銘してあった。
信長の機嫌はたちまち悪化した

「去年の春、どこぞの鏡屋が献じた物にも『天下一』と銘じてあった。天下一はただ一人あってこその、
一号にてあるべきだ!それが二人もあるのは濫りというものではないか!

これは偏に長門守の不明より起こったことであるが、汝の不明は私の不明である!」

そう、殊の外ショックを受けたようであった。(事の外にぞ痛み思召し給ひける。)

(甫庵信長記)



286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 17:26:02.55 ID:3as9S0BN
オンリーワンて意味だろ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:10:39.31 ID:Zknb0aiq
そもそも、信長が色んなものに天下一って評価を与えてるんじゃなかったっけ?
自分が関係ないところで「天下一」を使ってることに起こったんじゃないか?

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/08(火) 10:24:08.55 ID:42/aHoLr
おこなの?

このような肴を以って酒宴に及ぶ事ができた。誠に大慶

2016年03月06日 11:41

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 00:31:56.39 ID:wMKdL7YO
天正元年の12月下旬頃より、織田信長配下の大名小名は遠近を限らず一人残らず岐阜に集まり、
正月元旦の出仕のための準備をした。

そして元旦、儀式厳重にして信長も打ち祝い、酒も出て既に三献に及ぶ時、

「珍しき肴が有る。今一献あるべき」

そう言って黒漆の箱を出してきた。人々、何であろうかと怪しみ見るところ、
柴田勝家が呑んでいる時、自ら箱を開けると、そこには金箔で覆った頸3つがあった。
それぞれには札が付けられており、朝倉左京大夫義景、浅井下野守、子息備前守長政、
彼ら3人の頸であった。

万座の人々これを見て大いに喜んだ
「この御肴にては、下戸も上戸もおしなべてただ食べよ!」
そう言うがまま各々歌い舞い、酒宴はしばらく止むことはなかった。

信長は言った
「皆々がいずれも数年苦労をいたし、勲功重畳するによって、このような肴を以って酒宴に及ぶ
事ができた。誠に大慶、これに過ぎたことはない。」

そうして刀脇差しなど数多出して下された。

(甫庵信長記)

有名な逸話ですが、ドラマなんかじゃ信長の行為に家臣たちドン引き、ってパターンが多いのに、
こちらでは信長のサプライズ披露に一同大盛り上がりで大フィーバーなのですね。



416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 06:31:32.92 ID:S+0nU0Jf
>>415
まぁ、敵の髑髏みてビビる様じゃ、戦国武将やってられないでしょうけど

…最大の問題は、小瀬甫庵が今で言う山田風太郎って事なんですよねぇ…

桶狭間の奇襲も、長篠の三段撃ちも、橋の下の秀吉も、話の出所はみーんな小瀬甫庵…

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 08:14:43.45 ID:9f1O8Ufp
正月祝いのドクロについては、信長公記でも一座は沸いたとあって
「ドン引きした」なんてのはそれこそ戦後の小説の類からなんだよなあ

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 09:15:24.03 ID:llBUOtPS
当時の庶民だって、晒し首を見るのは娯楽の一つだったんでしょ。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:18:45.51 ID:M2FNLIul
滝川一益が諫言した逸話もあるでお

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 14:19:29.42 ID:3rdYTjdp
佐々成政な

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 15:19:51.03 ID:ndK+URkg
まぁウソなんですけどね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:06:10.63 ID:Od0Q5EBR
これか。佐々成政、信長への諫言・いい話 
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2132.html

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 16:30:50.14 ID:1HlgnIZB
>>418
今より死体見る機会多かったからそんなでもなかったのかもね
裁判傍聴するような感じかね

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 17:47:53.08 ID:ogl0BerH
節なら首実検で慣れてるだろうし、髑髏なら腐乱生首よりマシだしいいかーって感じじゃね?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 18:59:08.59 ID:XNriMdrd
ああ、武士か。何かと思った。

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/06(日) 21:51:32.57 ID:+PZ9S6Yh
戦国時代の武士なんて道端に死体が転がってたら
とりあえず試し切りする連中だぞ
鎌倉時代の武士よりは優しいけど、現代人よりはずっと鬼畜だよ

『土蔵にただ今火が入ってきました』「さてさて、嬉しいこと嬉しい事」

2016年03月05日 14:09

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/04(金) 23:33:07.35 ID:2bHsAD0P
 昔大火事が有った時、私たちの聟の家も類焼に遭った。
召し使っていた女が『土蔵にただ今火が入ってきました』と
嘆き来たのを妙秀は聞くと

「さてさて、嬉しいこと嬉しい事」

と言った。光悦が側に居り

「何という事を仰られますか。人が聞いていますよ」

と言うと、

「確かにそうですね。しかしこの者の先祖は無慈悲けんどんで、わずかな金を貸して悪くない物を質物に取り、
持主が金を返したので質を返してほしいといっても、『もはや期限の日も過ぎたので外へやってしまった。』と
偽って返しませんでした。

 その道具の持ち主は高値で売り払ったものの、後に妻子を養おうと思っていた物を取られ迷惑していたというのに、
むごいことにあの者は返さなかったのです。
 そうやって人の宝を痛ましくも自分の物にして高価で売り渡し、
何につけても欲深く貯えて置いた財宝が今にも蔵の中にあります。
この財宝があるうちは聟は災難に遭うだろうと日夜心苦しく思っていました。

 そこに蔵へ火が入ってきたと聞いたので、あまりの嬉しさに何のわきまえもなく
先の事を言い出してしまいました。
許してください。」

妙秀は返事した。
(本阿弥行状記)



413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 13:21:27.73 ID:i83ZJqNE
テレビとかで詐欺の報道見る度にバカだなあと思うけど騙される時は騙されるんだよ明日は我が身とはよく言ったもんだ

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 22:36:52.81 ID:BiCLFBQb
これがその「災難」なんじゃ…
災難にあい続けることはなくなったってこと?

兵は偽りの道である

2016年03月05日 14:08

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 07:35:27.90 ID:3KJccw/e
ある時、徳川家康物語の折、大久保忠世が言った
「奥州一揆(葛西大崎一揆)の時のことです。蒲生氏郷伊達政宗に謀られ、名生城を攻め懸けましたが、
危うい合戦に打ち勝ったのはまさに武功の大将です」

家康はこれを聞くと
蒲生氏郷は武勇の士であり、武功とは言いがたい。
おおよそ”功”と言えば、智謀勇あって勝つことを武功と呼ぶ。”功”は”いさお”と読むと、
これは「功績」を意味する。
また”剛”は強きを意味する。氏郷は武剛と呼べるであろうが、謀は不足している。
第一客戦(敵の領内での戦争)の法をわかっていない。

敵国に入るには、郷導を5人も10人も求めて、地理および士民の風俗、粮の有無を案内者に
尋ねた上で働くのが定まった法である。然るに案内者を求めなかったのは智謀の足らざる所である。
これによって不覚を取ったといえる。

氏郷が伊達政宗を唯一の案内者と頼み、彼が申すのを真実としたのは智の不足である。
政宗が味方だからといって、その言葉を真実と受け取るのは愚かなことだ。
勇士の習いとして、人を出し抜き独り功を立てんと思う輩は、偽り、謀を構えること、
その例多い。昔、佐々木高綱は梶原景季の馬の腹帯が伸びていると偽って先に登った。
近くでは九戸城攻めの時、堀尾帯刀が病気と偽り、先陣と定められていた氏郷を出し抜き、
九戸城をただ一人で攻め落として蒲生の手を失わせたという例がある。

そもそも名生を攻める前、政宗に思うところあって氏郷を茶に招いた時、氏郷は政宗の
企みを察し、郎党も含めて用心していた。それなのに政宗の、高清水のほか敵は居ないという
言葉を事実と心得、案内者も求めず名生城を攻め立てたのは、正直に言って全く智謀がない。

兵は偽りの道である。ではあるが、偽りを以って躰とはしない。実を以って躰とし、偽りを
権に用いる。
戦争では虚実の変がある。これを判断できなければ、いざという時、必ず失う物が多くなる。」

この言葉に、一座伺候の者達は皆感心した。

(伊逹秘鑑)



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 09:59:03.17 ID:6uru3vLx
俺が氏郷ならDQNをぶっ殺してラスボスには、こいつが黒幕でした
って事後報告するわ

DQN殺して、咎められるとは到底思えん

280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 10:31:57.42 ID:rfLBdCmG
何、このゲーム脳

281 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/05(土) 11:24:16.14 ID:RMpi+8RN
>>278 一行にまとめると「政宗を信用するとか、バカなの?死ぬの?」ってことか。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 11:51:18.60 ID:2PJRhSNT
家康は甲斐で一揆を扇動して、河尻秀隆を殺してるから
大崎葛西で一揆を扇動した政宗の心理も良く分かった事だろう

工場長は優秀なんだけど順風満帆な人生のせいで、悪人に対応する
スキルが不足している気がする

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/05(土) 14:17:51.74 ID:ZeMm1oSb
上手いこと言うね

松永久秀臣従

2016年03月04日 18:21

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 22:14:31.27 ID:23E5b8t+
松永弾正少弼(久秀)は、その嫡子右衛門佐(久通)と共に計った

織田信長は若年の頃より、小勢を以て大軍を砕き、度々勝利を得たのは、時の運に乗じたのみではない。
武勇も世に超え、智謀も人に優れ、古今に傑出した人なるが故である。
往を以って来を計るに、今後彼の武威はいよいよ四海を覆うだろう。私が危険に逼迫してから屈服しては、
敵にも味方にも侮られてしまい、それから悔いても意味は無い。未だ余裕のある内に降参し、和州多聞城を
明け渡して偏に忠をなせば、きっとその益もあるだろう。」

そう議定し、内々に佐久間右衛門尉信盛に遣いし、この旨を述べると、信盛は早速岐阜に参じて
これを取り次いだ。信長は言った

松永久秀は武略にも達し、かつ聡明な人物だが、隠れなき佞人である。
己が名利のために計る者は、その威積累する時には、果たして国家を乱すこと、掌を返すより
簡単に行ってしまう。そのような徒者をどうすべきだろうか?」

佐久間は答えた
「それは暗君に仕えての事です。まず御赦免されれば、天下静謐の功も、速やかに成し遂げられるでしょう。」

これに信長も説得され
「ならば汝が、兎にも角にも計らうように。」と信盛に任せた。
これによって降参の義は調い、先ず多聞城を請取、こうして松永父子は元亀4年4月10日に
岐阜に参向し御礼申し上げ、不動国行の刀、薬研藤四郎の脇差など進上した。
こうして多聞城には山岡対馬守を入れ置かれた。

(甫庵信長記)

甫庵信長記より、松永久秀臣従の模様である



276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/04(金) 10:11:20.67 ID:752mqM54
全て甲斐の生臭坊主が悪い

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/04(金) 14:20:47.94 ID:1i+wHq0y
>>276
人とは欲を生きることじゃ、己の欲に生き生き抜いてこそ見える境地あるかもしれぬ

義理を知らない者には必ず災難が来るものだ

2016年03月03日 18:18

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/02(水) 22:27:24.64 ID:ymgD2YIm
 何の某とかいう者が、侍の娘を娶り子を三人産んだ。
しかし、侍は娘がその後に疱瘡にかかり見た目が悪くなったといって、娘の元から去ってしまった。
初めの時よりますます大切にするべき事だというのにと、人々は侍を見限った。
だがその指摘みたいに大切にされる事がかなわない女はあまたいる。

 親がいるときに嫁としてもらったら、親が死んだ後に嫁の元から去るものではない。
また親の身の上が衰えたからといって去るものではない。
嫁が盛りを過ぎたからといって去るものでもない。



 光悦の弟に宗智という者がいた。
京中で隠れない大正直者であったが、かの妻と離別した者と時々出会っていると妙秀が聞いて

「世に隠れない畜生と伴にいる者もまた畜生である。私の子ではない。」

と勘当した。これはあまりの事だと人々が申していると

「私もさように思いましたが、
我が一類が多いのでこのような義理に違う者もいるだろう
と思ったので見せしめにしました。」

と彼女は申した。

 また本妻が年老いると夫婦仲が薄くなり気随放埓となり、成人した子供の思いにも恥じることなく、
本妻の心を痛めさせる義理を知らない男がいる、
との話を妙秀は聞くと、

「さような者とは必ず疎遠にするべきだ。義理を知らない者には必ず災難が来るものだ。」

と申していた。
(本阿弥行状記)

宗智さん、ちょっととばっちりのようなきがしないでもない



織田信長が鷹狩を好んだのは、

2016年03月03日 18:18

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 00:14:46.09 ID:23E5b8t+
織田信長が鷹狩を好んだのは、ただ逸楽の為ではない。万民百姓らが愁い申すことなどを
知ろうとする為であった。

されば、これは尾張国海東郡での事だという。ある時信長はただ一人、地味な格好で鷹を据えたまま
在郷を通っていると、老いた婦人が悲しんでいるのに出くわした。

「一体どうしたのだ?」信長が尋ねると婦人は
「これはお侍様、わが家が先祖より所持していた田畑を、里の長に横領されたため、今このように
飢えに至り、何とも涙がそぞろに流れるのです。」

聞いて信長は思った
『このように邪なことも、近年兵乱が打ち続き、制法と言うこともなく、ただ明けても暮れても
武勇のみを事とするように成ったためだ。これは、私の罪ではないか!
古人は言った。おおよそ民において、姦邪、窃盗、非法、妄行といった所業をする者は、不足があるから
生じるのだ。不測は度無きより生ずる。度の無き時は、小物は盗みをし大物は奪い尽くして、それぞれ
節義を知らない、などと言い伝わる。』

こうして信長は自らの政道が正しからざるを嘆きつつ帰城し、人も多い中、丹羽五郎左衛門尉(長秀)を
召して

「百町の里にてしかじかの事があった。急ぎ対応し、世の懲らしめ、又は式法にも成るように処置せよ。」

そう命じると、丹羽は即座にその里に参り老人(おとな)衆を呼び集め、事の様子を仔細に尋ね問うて、
先規の如く沙汰すると、かの老婦人、喜ぶこと限りなかった。
立ち帰って信長にこれを報告すると、「かの里の長は見せしめの為にも、永き先祖の所領を改易し、
かの老婦人に取らせよ。」と重ねて命じ、そのように計らせた。

これによって信長の領内では日を逐い月を経て、下の下に至るまで、自ずから淳直になっていくように見えた。
昔北条時頼が姿を変えて、六十余州をめぐり、摂津国難波の浦に至ったという話があるが、
これなどかくやと思われる。

(甫庵信長記)



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 02:13:36.07 ID:D9oiY5Ee
老婆に田畑を与えて耕作できるのか?
創作もたいがいにしろ

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/03(木) 06:48:04.64 ID:jcsXy8cn
>>410
老婆が一人暮らしという事を前提にしてるようだが

銭轡 はめられたるか右馬助

2016年03月02日 19:25

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/02(水) 18:06:45.15 ID:qjSQcFqM
織田信長の時代のこと。

ある時堂上の人と、上北面の侍との間に、事の仔細あって諍論があり、
彼らは佐久間右衛門尉(信盛)と村井長門守(貞勝)にその勝敗の決断を請うたが、
「我ら裁断に及び難し」と、織田信長に伺いを立てた。

信長は双方の主張を仔細に聞き、「さらに衆議し、評定した上で結論するように」との旨を
仰せ出しになり、佐久間・村井の両人、これを承り、理の明らかなる人々呼び集めて
それぞれ評議した結果、堂上の人に道理があるとの結論に至った。

この事に北面の侍は強く憤り、織田右馬助という人の元に行き、言を巧みにし非を飾り、種々頼むよし
申し上げると、織田右馬助殿という人は大変心が浅く、体格もよく頼もしげに見える人物であったので、
是非も考えず信長に対し再三この事を取り申した。

信長は、『いつも物事に雑な人物だが、老いたるを敬うのも礼儀というものだ』と思い
「先ず帰宿されよ。追って返答する」と言って座敷を立った。そして

「このような僻事を重ねて聞かされるのも、私の不明のためだ」と、政道の正しからんことを
嘆いたが、『理に従う時は幸いなり、欲に従う時は危うし』という言葉を思い出し

 銭轡 はめられたるか右馬助 人畜生とこれをいふらめ

そう一首、狂歌を認め右馬助へと送った。
右馬助はその後より次第に御前遠くなったが、彼はその後、この轡の狂歌を思うたびに悔しく思い、
ずっと強く恥じていたため、やがて何が理由ということもなく衰病して、ついに儚くなったという。

(甫庵信長記)



週間ブログ拍手ランキング【02/25~03/02】

2016年03月02日 19:24

02/25~03/02のブログ拍手ランキングです!


命名「猪之助」 25

金の馬鎧 24

真田信之は倹約の人であった 18
舞い遊ぶ 千代萬代の扇にて 18

一度後れては3年失せぬ 16
「汝は我跡を相続する者ではあらず」 14
おしき武士を討ってはならない 13

今の甲賀衆がこれである。 10
役者共に守らせて済ませるべきである 8
富貴な人ではけんどん(けちで欲深い)なので 5

しかし妙秀は、 5
【雑談】北条家が生き残るのは 4
かのような乱の中で優しい武士であった 4
【雑談】我が両眼昌輝説? 2


今週の1位はこちら!命名「猪之助」です!
庄内の乱で島津義久による命名のお話。「猪狩りの名人だから猪之助」というのも実に直接的ですが、それだけ彼の狩りの腕前が
有名だったというのもあるのでしょう。そして義久直々に彼の姿絵まで納めるとは、よほどの功と考えられたということなのでしょうね。
大名が家臣などに名を与える事が、どれほど褒美として受け止められていたか、色々考えることの出来るお話の一つだと思いました。

2位はこちら!金の馬鎧です!
真田丸も好評ですが、そんな真田の忍のお話。個々で面白いのは、命じられた城への放火をコロッと忘れて、金の馬鎧を
持ち帰っちゃうところでしょう。忍とはいえ、武士らしい武具へのこだわり、功名心のようなものを感じさせます。
またこれに対し特に罰せられた記述もないのが、そこに当時の真田昌幸(?)の命令権限の限界を見ることもできるかな?
なんて感じたりもしました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!真田信之は倹約の人であったです!
信之が、いわば宴会をやらない代わりにその必要経費を上納させていたというお話w
確かに、家臣の家への大名の御成なんて、アホみたいにお金のかかるものだったらしいです。名誉に関わることですから、
単純に必要な物だけ揃えればいいわけじゃない。同じランクの他の家との競争のようなことにもなりますし、
負担は拡大こそすれ、小さくなることはなかったはずです。
それを、必要経費だけで済ますことが出来る、というのは、当時の意識からすれば確かに善政かもしれません。
それで家臣・重臣層とのコミニュケーションが疎くならないのか、なんて心配も出来ないこともないですが、そのあたりはまた、
別の機会にとっていたのでしょうね。
そのようなことを思わせてくれた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また、気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )


今読んでる本
978-4-584-13703-1[1]
図解 戦国の城がいちばんよくわかる本 著:西股総生
本当に、今まで著された戦国の土の城に関する本の中で、一番わかりやすく、かつ内容も深い本です。
これを読むと城を縄張りして築城したくなりますよ!かなり本気でw



おしき武士を討ってはならない

2016年03月01日 10:45

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:33:38.22 ID:T189vIaX
武田家の滅亡後、真田昌幸が室賀兵部を攻めていた時のこと。
室賀の城より、6尺(約180センチ)あまりの大男がただ一人、5町(約500メートル)ばかり出て
物見をして、馬に乗って帰っていった。

これに、昌幸の配下である大熊五郎左衛門の足軽が一人追いかけ、「逃さじ!」と声を上げたが、
この武者は少し振り返っただけで、そのまま静かに退いた。

その姿を見た昌幸が左右の者達に「あれは何者ぞ!?」と尋ねると、何れも
「あれこそ聞こえる、松澤五左衛門です!」と申し上げた。

彼を追いかけていた足軽は、3町ばかりの内に追いつき、斬りかかった。
五左衛門、手を差し伸ばしてこの足軽の髻を掴んで引き伏せ、足で踏んで首を掻き落とし、
田の中へ捨てると、何事もなかったかのように再び退いた。

これを見た真田勢は何れも槍を押し取り馬に打ち乗り五左衛門を追いかけようとしたが、
昌幸は采配を以ってこれを止めた

「室賀は小身者である。おっつけ踏み潰して私は、あの五左衛門を我が手に付けるであろう。
おしき武士を討ってはならない。」

その言葉通り後年、松澤五左衛門は真田の臣となった。

(名将言行録)



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/29(月) 22:54:14.29 ID:Nzh5sqjC
真田丸のおかげで室賀という名前に聞き覚えがある
信濃の豪族衆で昌幸に突っかかる小物って感じだけど

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 05:28:41.27 ID:w14DspfW
>>403
黙れ小童!の印象が強すぎて強すぎて…

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 07:53:07.53 ID:S6X9nm2V
童貞に見えた

富貴な人ではけんどん(けちで欲深い)なので

2016年03月01日 10:44

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/01(火) 04:24:57.41 ID:RUUgDYNK
 妙秀には男子が一人、女子が二人いた。姉の方の娘は尾形という者の方へ遣わした。
しかし、仲人が偽って身の上が良いように申していたが尾形家は殊の外貧しかった。
「娘は内心ではさぞかし苦しく思っているだろう。」と光二は大いに悔やんでいた。
 しかしこれに妙秀
「身が貧しいことは苦しくありません。富貴な人ではけんどん(けちで欲深い)なので有徳(富み栄える)となったの
だろうと心もとないです。
 この聟の親は正直正路で親に孝行な者です。このことを確かに聞き及び心が引かれたので娘を遣わしました。
先祖が善心であることに勝る宝があるのでしょうか。
 第一に夫婦仲の事は心安く思ってください。彼らは頼もしいですよ。」
と申された。

 さて程なく娘夫婦は男子をもうけた。男子は尾形新三郎といった。
尾形家は浅井殿の御家来筋のものであったので、台徳院(徳川秀忠)様へ御台様(お江の方)が御輿入れなさった時、
聚楽から伏見へ、かの妙秀の孫の新三郎もしおれた袴と肩衣でお供に参っり、その後も常に式台に詰めていた。

 程なく(秀忠が将軍となり)天下の御台様とならせられました。
御台様は(姉の淀のいる)大坂へ言付けをなされたおかげで、尾形家は大坂へ呉服を差し上げることができ、
それで御台様の御用は申すに及ばず、その家柄により今に至るまで上様方のおかげで
かの者の子孫は見かけ良く世を渡っております。

 とにかく妙秀はけんどん大欲で有徳になった者は程なく滅ぶ、と申して大いに嫌っていました。
(本阿弥行状記)

この尾形新三郎宗柏の孫に
五千円札の燕子花図でお馴染み、 尾形光琳がいます