鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきか

2016年03月31日 12:15

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/31(木) 05:18:15.10 ID:D7dfEllj
武田家滅亡の後、織田信長は武田の分国への仕置をなし、関東の管領として滝川左近将監一益を
上野国群馬郡厩橋の城に移した。武蔵・上野の旧武田分国の武士は残らずこれに出仕した。
真田昌幸は信州、上州両国に領地が在ったため、厩橋にも出仕した。

滝川一益は厩橋城で昌幸と対面した時、こう声をかけた

「あなたは承った所によると、以前は武藤喜兵衛と名乗っていたそうだ。しかし今回、つつがなく
武田が没落した以上は、鐵(かね)兵衛殿と呼ぶべきかな?」

そう、座興として言ったそうである。(喜兵衛を音が似ている金兵衛とかけた駄洒落である。)

その頃沼田の城は甲州の乱によって北条殿に横領され、藤田信吉は越後に浪人していた。
そこで一益は沼田の城に甥の滝川義太夫を城代として入れた。
一益は国中より人質をとったが、真田からの人質はなかった。これは真田信幸の姉が、人質として
安土に遣わされたためである。

(加沢記)


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諸国に銀札と申す事があります

2016年03月30日 19:25

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 00:34:23.46 ID:6rIyf3Q2
 諸国に銀札と申す事があります。この事について思いもよらぬ刑罪の人が出てきています。
国々に銀札の替わりに銭を拵える事をお許しなされたら、日本国中でゆとりが生じ、万民がありがたがることができると思われます。

 ただしこの一事で承っております事に、秀吉公の御賢慮により
「随分色々と臨時の事を申しつけて、とにかく払底させることが天下太平の基」
と仰せられましたことは、一応その利が無いわけではありませんが、国々の困窮が甚だしくなり下々に響き総じて日本国の
弱みとなるかと思われます。民は国の元と承っております。
 秀吉公はあまつさえ千枚分銅とやら申して、黄金を数限りなく貯えられましたという。
秀頼公の御代で新たにお召し抱えた大名小名へ金子で知行を下されましたと聞いておりますが、
いかほどの名城でも日本国中の大名小名を敵にしましては、千枚分銅もだた当座逃れの事でついに落城しました。

 なにとぞ諸国で銭を鋳る事をお許しなされて、その下地の鉄を粗末にしないようにしたいことです。
鍋銭(寛永通宝鉄銭)では悪だくみの者が似せまして、銀札の偽札と同じようになるでしょう。

 ならびに銭の相場も下がるのではないかと思われます。とにかく金銀ともに相場と申すことなく、
銀六十目で金一両、銀十五匁で銭一貫文にしたいことです。
(本阿弥行状記)

札のほうが銭より手頃でいいのにね

【ニュース】名古屋城天守閣の復元、竹中工務店案を採用

2016年03月30日 19:24

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 17:51:43.46 ID:8Xmg7lP3
名古屋城天守閣の復元、竹中工務店案を採用 総事業費500億円
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFD29H3Q_Z20C16A3CN8000/
http://www.fnn-news.com/news/jpg/sn2016032913_60.jpg
http://www.sankei.com/photo/images/news/160329/dly1603290032-f1.jpg
sn2016032913_60[1]

dly1603290032-f1[1]

うーん…

どうしたものか



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 18:29:34.45 ID:YbXYRxtz
アメリカに請求すべき

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/30(水) 19:14:19.92 ID:XQdkBBbY
織田の普請奉行が竹中工務店の創業者か
いっそ一夜城を

【ニュース】大坂夏の陣の史料発見

2016年03月30日 19:21

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/29(火) 09:44:26.25 ID:PPqJsMzz
松山藩主だった松平定行の弟、定実(1597~1632年)が徳川家康の旗本として参陣した大坂夏の陣での功績を伝える書状が見つかり、
愛媛県内の高校教諭や郷土史研究家らでつくる「伊予史談会」が28日発表した。
伊達政宗らが定実とその家臣にあて、軍功を挙げたが、軍令に違反し蟄居(ちっきょ)していた定実を擁護するような内容が記されているという。
同史談会によると、書状は8通あり、政宗のほか、政宗の家臣の片倉小十郎、福山藩初代藩主の水野勝成ら6人の花押が記されている。
定実の子孫にあたる松平定理さん(86)の松山市内の自宅に残っており、昨年11~12月に内容を確認した。

定実については「久松家譜」などに夏の陣で軍功を挙げたが、軍令に違反したとして家康の怒りを買い、合戦後は蟄居していたと記されている。
書状には「自分とともに最前線で活躍されたことを存じている」(勝成)などと定実の軍功が記され、
「家康様からお尋ねあれば、活躍を申し上げる」(政宗)といった定実を擁護する記述も確認でき、
「久松家譜」の原文にあたる資料としている。

同史談会常任委員の井上淳さん(49)は
「大坂夏の陣で武将に関する資料が一度に複数見つかるのは珍しいのではないか。定実の戦場の様子も詳しく記されている」と話した。

http://www.sankei.com/region/news/160329/rgn1603290028-n1.html



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 13:54:16.62 ID:ERoemA1V
これで最後っつー戦で指揮官が先頭にたって闘ったから諌めたんでしょ
前線で死んでいいのは外様だけだよ

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 19:35:25.79 ID:yIVUvw+v
伊達政宗らの書状がまとまって見つかった」って書くと「そりゃ1シーズンに一枚くらいは出るだろう」と思うが、
「大坂夏の陣関連の書状が見つかった」と書くと確かに珍しいと思う

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/29(火) 20:58:29.31 ID:jgJAHo4N
戦後を支えるべき旗本が最前線って
そりゃ怒るわな

週間ブログ拍手ランキング【03/24~/30】

2016年03月30日 19:16

03/24~/30のブログ拍手ランキングです!



毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~ 14

小早川隆景「私の父である毛利元就は」 13
あの兄弟が振る舞いに 13

【雑談】武将とお風呂 11
匂坂吉政の「思い切りのいい」お話 9
名作刃物の事 8
石田三成について伝わる話によると 8

全公家衆のもとへ三万石ばかり贈られれば 7
この話はここかしこにて囁かれ 7
【雑談】人相見について 5
御大名方へ銀主と申す者達が 2



今週の1位はこちら!毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~です!
毛利隆元のお風呂で気をつけること。
毛利隆元の逸話は、わりとイメージから外れないものが多いように思います。この逸話も、隆元の自分を律する性格が出ていて、
しかもきちんと書き残しているあたり、いかにも隆元だなあ、という気持ちになりますw
隆元にかぎらず、「ああ○○だ」という逸話に出会うと、嬉しくなっちゃいますよねw

2位はこちら!小早川隆景「私の父である毛利元就は」です!
こちらも毛利家。小早川隆景が秀吉にした小田原城攻めのアドバイスのお話。
父・毛利元就の教えですが、流石は謀略の鬼。味方に引き入れられると駆られないとか関係ない、調略を入れること自体が
既に謀略の一端を担っているという。凄みを感じますね。
そういえば大坂の陣で徳川家康は、真田信繁に調略を入れ、それは信繁から拒絶されるのですが、調略を受けたという噂により
信繁は大阪城内で白い目で見られ、それが最終的には博打のような突撃を行わざるを得なくなった理由である、なんて
話を思い出しました。
隆景(元就)の戦略は、現実的に効果があるという実証かもしれません。

2位に同票でもう一つ!あの兄弟が振る舞いにです!
こちらは細川忠興・興元兄弟のお話。忠興・興元といえば、正直仲の悪い兄弟、というイメージが有るのですが、この頃は
どうだったのでしょうね?死を恐れずガンガン突っ込んでいく若武者。もういかにも信長が好きそうなシチュエーションですw
蒲生氏郷をはじめとして、少年期に信長の影響を受けた武将に、単騎突撃癖の強いひとが多いのは、それが信長の好みだったから
なのだろうな、と想像していますw
それにしても少年時代の細川兄弟、さぞや凛々しかったことでしょうね。そういう彼らを見てみたかった、という気持ちにも成ります。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さい!

☆今週読んでいる本
いろいろ忙しくて読書ができていないズラ…(´;ω;`)



小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

名作刃物の事

2016年03月28日 18:09

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 03:23:26.90 ID:LkpVFYZx
 名作刃物の事、これは私の先祖からの業体として目利きをしていて、折紙も御所望の時は差し上げています。
ですが、新身でも名作に劣らぬ物があり、この後でも昔の名作に劣らぬ名人はいくらでも出てくるでしょう。
そうでなくては、千年も後まで現在では値高い名作は残るはずがありません。
既に『天国』などは私も見ておらず、たまにあります物も多くは偽物でございます。

 総じていか程の名作を持っておられる大将も、心得悪くなされると無益な物となります。
そういいますと名作の折紙もいらぬものになるが、昔からしてきました事なので、
武士が名作を御吟味、御賞翫なさる事は治世に乱世を忘れなされない武備第一の事と思われます。

 現在は新身でも一条国広などは、後代に正宗、宗近程にきっと成るにでしょう。
そのほかにも新身の名作は、後代にいくらでも出て来るでしょう。
ただし名作物などを、小知行の武士方が扱いますとかえって禍も出て来るでしょう。
小身衆は新身の良い物を嗜むべきかと。


 総じて刃物によらず、できるのは昔だけでこの後にはできないと申す事はきっと不自由の論でして、
今から千年の後にも刃物をはじめ何によらず不自由は無いでしょうし、
ただ今はそれほど賞翫されていない諸道具、陶器一切の物で後代に値が上がる物や、
現在は値高い物で後代に値の下がる物など色々あるでしょう。

とにかく、天地創造物の細工ほど恐れ入ります物は無いだろうと考えています。
これを神明と申すのだろうと思われます。
(本阿弥行状記)

折紙よりも自分たちの目利きの方が優れていると、自信たっぷりですね

また、陶器では名作を残し、書では光悦流を築き上げる等の諸芸で才能を開花させたことから
光悦には古い物だけでなく新しい物でも素晴らしいものがあると確信していたのでしょう



全公家衆のもとへ三万石ばかり贈られれば

2016年03月27日 11:24

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 23:16:31.64 ID:y6nwLLrA
 秀吉公の御代から知行は四ツ物成(年貢が四割)になりまして、甚だ御禄のものが払底しております。
なにとぞ他のなされかたもあるのではないかと思われます。

 また公家方は三十石取といった御身上は、はてさて、恐れながら気の毒だと思われます。
多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。
なにとぞなされようがあってほしい事と思われます。
今は関白殿下を始めとして、揚名の官(名ばかりの官職)でして政に関与なさることはなく、
明け暮れ歌を詠み、香車風流ばかりを弄びなさっています。
きわめて小禄の公家衆は歌も詠まず、おおかた無理に飲むことで酒をたしなみ、身軽いので密かに勝負事の場所へ入り込まれています。
あるいは貧しい売女のような者に恥とも思わず馴れ通って、果てにはその売女を本妻にされる類も内内に聞いております。
 これは貧しいから起こることで、なんとも気の毒でございます。
なにとぞ全公家衆のもとへ三万石ばかり贈られれば、お行儀も直せるのではないでしょうか。
かつ禁裏様の御守護も重くなるのではないのでしょうか。
(本阿弥行状記)

全ての公家に三万石はきついでしょうねえ



450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 23:29:32.27 ID:tBtQgp7s
合計で三万石ってことでしょうね

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 02:28:56.27 ID:IdgiLpGz
ああ、そうですね
公家の数を約130家としますと、一家に約230石ぐらいとなりますね

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 07:56:29.16 ID:vQfV29B3
実力で成り上がった秀吉は利用する価値もない泡沫公家なんか大嫌いだろw

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 09:03:00.89 ID:edYvsl2/
これ猪熊事件の頃の話じゃないのか

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 09:18:58.21 ID:pZZ2/1xg
織豊以前はもっと困窮してたろ

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 09:33:37.01 ID:7Jein4zk
この後に和子入内で秀忠が増やしてやってるんだよね

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 09:35:50.11 ID:U/uXeUMx
関白も政治に関与してないって事から
徳川幕府成立後の話なんでは。
秀吉公の~ってのは予防線としての前置きみたいなもんだと思う。

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 11:31:47.93 ID:9X1WzsL8
4割と定まってるならそれ以上多額の税をかけるわけにもいかないということか
貧乏をこじらせてやることといったら飲む、打つ、買うってのは確かに哀れなんだよなあ
逆に戦乱で京都から亡命してた頃のほうがいい暮らしができてた人もいるんじゃないか

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 11:59:36.91 ID:Qwl0utdK
公家領は武士に対しては存在する軍役・賦役が無く、税収がまるまる懐に入るので実は武士より恵まれていた面がある

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 13:17:44.94 ID:9X1WzsL8
>>458
あー、言われてみればそれもそうか
でも同額面の武家の知行の数倍相当だとしても決して高くはないのでは

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 13:29:35.72 ID:7Jein4zk
亡命出来るくらいの公家は手に職持ってるからそれなりでは
亡命時代の日記みても今度は小姓に六韜講義しろって言われためんどくさとかいってたり
やっぱそれなりに大変そうやでw

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 13:42:50.81 ID:9X1WzsL8
>>460
確かにそれもそうだ

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 18:00:19.13 ID:4Aczxb8v
>多くの商人達の十人に九人は、公家方と申すと鬼神のように心得て掛売もしない。

どういう意味だろうと思ったら、ローンで買わせてくれないってことか。
金を返してくれない存在と商人たちが思ってたってことで。

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 21:53:16.39 ID:/od626cG
>>462
ローンじゃなくて現金払いかどうかって事。

クレジットカードに近いけど、集金するのがクレジット会社じゃなくて
商店自身がやらないといけないので、踏み倒す危険性が高い人は
掛け売りを断られてしまう。

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/27(日) 23:00:42.57 ID:bRpg+Au9
なお細川家…

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/27(日) 23:45:07.53 ID:4Aczxb8v
武家は武器で脅して踏み倒していたけど
公家はどういう理由で踏み倒し得たんだろ・・・

469 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/27(日) 23:49:49.56 ID:4Aczxb8v
あー、公家は武家と違って一度不渡りを起こしたら二度と貸してもらえないんだ。
自分で解決した。武家が刀で脅すのは二度目ですね。

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 03:32:00.26 ID:kKHIffK9
???「借金?そんなもんは一揆起こせばチャラになるから怖くねーぜ!」

あの兄弟が振る舞いに

2016年03月26日 17:47

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 11:26:39.93 ID:sD2szMy3
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老名某も、
河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任(明智)光秀、
筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。

ここで、長岡藤孝の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳、
この兄弟が真っ先に駆け入った。

しかし片岡城の者達は河内国でも聞こえ有る兵であったので、全く騒ぐことなく彼らを防いだ。
しかしこれを見た長岡家の郎党たちは「あれを討たすな!続けや!」と我先に駆けつけ、これもあって
兄弟は良き兵たちを討ち取り、それを見た藤孝は両眼をうるませた。

筒井順慶、惟任光秀もこれを見ると、士卒に向かって
「あの兄弟が振る舞いに、恥じない者は居るか!?この程度の城にいつまで手間取っている?
早々に乗り入れろ者共!!」
そう大音声を上げ目を怒らせて罵ると、皆々「尤もである!」と螺鐘を鳴らし喚き叫んで攻め入った。

それでも片岡城の兵たちは、義を重んじ命を軽んじて「一歩も引くな!」と、
それぞれが担当した場所から少しも引き退かず防ぎ戦った。しかし織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに
攻め立てさせたため、死傷者多く出て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は
腹を十文字に掻っ切って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。

信長は與一郎、頓五郎の働きを聞くと、即座に感状を下した。
兄弟が感状を頂戴したことは、天晴勇々の事であると、羨ましがらない者はいなかった。

(甫庵信長記)

細川忠興・興元兄弟の片岡城攻めのお話



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:42:16.65 ID:EmgUfXaA
片岡城て大和じゃないのか?

【雑談】武将とお風呂

2016年03月26日 17:45

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 23:38:53.66 ID:EHKpoSn5
戦国時代のお侍のお風呂って、普段は
小物や近習と入って世話してもらったりするんかね?


昔の偉い人のお風呂ってーと、なんかよく
薄着一枚の女の人に世話してもらうみたいな
ピンク気味の接待と直結してそーなイメージがあるんだがw

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 23:41:47.34 ID:RsgRIGxx
蒲生氏郷「風呂は主人が焚くもの」

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 23:50:22.81 ID:10Tr2RE8
その人によるんじゃないのか?
男好きな奴だっているし

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 00:22:19.25 ID:uE+/Jy3t
細川政元「女じゃ刺客が来た時あてにならないから小姓の方が良いだろ」

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 00:44:22.84 ID:EmgUfXaA
風呂には木刀があれば大丈夫

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 01:00:08.86 ID:jRU1UnJO
竹光持って風呂入ろう

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 01:19:29.02 ID:zhcQj6Rq
風呂で刺客に襲われて死ぬのは嫌だな
源義朝とか太田道灌とか最期がみっともないからいまいち評価されてない

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 02:07:41.44 ID:B+a2Nk0M
風呂で小姓とイチャイチャしてるところを刺し殺されたんだっけ?

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 03:15:25.75 ID:hU6z037w
>>433
家康「主人とよく似た女を使って、いざってときに影武者にすればいいじゃない」

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 04:40:26.45 ID:3Pwn/aoY
式神でいいじゃん

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 05:29:49.44 ID:kKXYlWLB
源義朝の暗殺の話読んだ時おもったのは周囲に警戒してる手下いなかったんかね?
だったな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 07:49:44.86 ID:I2IpVs83
剛毅な人ほど大胆に振る舞うからね
用心は臆病者のすること

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 07:56:58.47 ID:enf1COfj
>>436
確かに信長の最期が風呂で襲われて
「是非もなし!」
だったら大河ドラマとか無理そう。

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 09:12:22.51 ID:UjQLVa6U
世の中には厠で死んじゃった人だっているんですよ!

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 09:56:20.80 ID:nqotctmz
>>442
イケメン俳優に湯船からザバーッと立ち上がらして裸で仁王立ちしたあとに是非もなし!なんかかっこいいw

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 10:41:07.94 ID:HD0VYwLt
信長「昔より 主人を討つ身の 風呂なれば 報いを待てや 日向惟任」
と言って斃れる信長か

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 13:14:58.35 ID:kiw4woY8
十河「馬から落ちて死ぬよりはマシ」

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 15:13:32.43 ID:tBtQgp7s
佐竹義重「源氏として頼朝公に倣っただけだから・・・」

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/26(土) 15:24:58.02 ID:taSdLLLC
頼朝の死といえば、「東鑑」に頼朝の死亡あたりの年の記事がないもんだから
「頼朝にとって不名誉な死だったため、頼朝を崇拝していた権現様が削ったのだ」
と語られていたけど、択捉島に「日本の領土」という碑を立てた近藤重蔵が
「戦国末期の時点の写本でも欠落しているため、江戸に入って削られたものではない」
と考証したという話があるな
権現様が頼朝、東鑑を参考にしてたというのは有名だったんだな。

匂坂吉政の「思い切りのいい」お話

2016年03月25日 18:25

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 16:34:22.16 ID:3HFhF8Id
桶狭間の敗戦により、今川氏は急速に衰えを見せ始め、いわゆる「三州錯乱」、
続いて「遠州惣劇」といった事態に陥る。当主氏真は必死に挽回をはかるが、
状況は悪化するばかりであった。

遠江匂坂城主匂坂長能は今川氏輝時代からの信任厚い武将であり、井伊・飯尾・
堀越・天野といった諸将が叛乱を起こす中、最後まで氏真のために働いていた。その
長能が永禄9年(1566年)に亡くなると、三男の六郎五郎吉政が後継者となる。

永禄11年(1568年)12月、遂に武田信玄による駿河侵攻が始まり、秋山虎繁の
率いる別働隊は伊奈を経て二俣に到達した。遠江の諸侍はこぞって参集し、帳面に
己の氏名を記入した。今川氏に忠義を立ててきた吉政も、ここが潮時と二俣に赴き
帳面に「匂坂ノ惣領ナリ」と書き記した。なお、二人の兄、政信・政通は混乱の中、
掛川城に篭城していたようである。

ところが、吉政が退出した後、兄政信の息子十左衛門政祐もまた秋山のもとにやって来た。
不審に思った吉政がこれを窺っていると…
政祐「匂坂の嫡流は某にございます。このことは遠江の者なら誰でも存じております!」
秋山「吉政が惣領ということで、本人もそう記しておったが…まあ信玄公にお執り成しする
    ことにしましょう」
これを知った吉政は城門のあたりで待ちうけ、色よい返事に上機嫌の政祐をたたき斬った!
その足で掛川城まで駆け行くとと、二人の兄を指差し「先に徳川につくからなあーッ!」と
叫びそのまま家康のもとへと遁走した。状況を包み隠さず家康に述べると、家康も喜んで
12月22日付で本領安堵の感状を出している。


匂坂吉政の「思い切りのいい」お話。

この後、姉川で三兄弟で真柄十郎左衛門と死闘を演ずるのですが、お兄ちゃんの政信、
心が広かったんだねえ…

なお、お兄ちゃんの度量はその孫には受け継がれず、政祐の遺児は吉政暗殺を企てる。
不穏を察知した家康は用心のため出仕を控えるよう吉政に命じたが、吉政は意に介さず
出仕を続けたため、結局鉄砲にて暗殺されたようです。



毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

2016年03月25日 18:24

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:22:56.31 ID:hbwHPgnY
ちょっと訳しきれなかった所あるからあやふやだけどご勘弁


毛利隆元のお風呂マナー講座 ~主人と一緒の時~

一、目上の方とご一緒する時は、下にむしろを敷いてはいけません。

一、風呂の湯殿に入る時は、自分の垢をきれいに掻き落としてからむしろを敷きます。
  主人が上がったら、いつまでも湯殿の中に残っていないで上り殿へ上がりなさい。
  本当に上がる時もちゃんと上り殿にいて、主人が帰った後は小風呂に入りなさい。

一、元結やさくすは小者に言って取ってもらいないさい、自分で取り寄せるんじゃない。
  湯殿の衆が上り殿に出てきたのに、小者達を上り殿に上げずにいたらこういう用がこなせません。
  前もって小者を上げておくこと。


当時の風呂も裸の付き合いとか言いながら、
会社の慰安旅行みたいに色々気を遣わなきゃいけないとこあったんだろうなーと
悲哀を感じたので悪い話で。
こんなマナーをメモに残しておくなんて、お兄ちゃん何かあったの……?




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:29:41.72 ID:gM8E/NV1
蒸し風呂とはいえあまりそこいらにあるものじゃないから、
使用方法に慣れてなかった人が多かったんじゃあるまいか

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 22:43:06.27 ID:VMlfcDmH
さくすって何?

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:11:11.56 ID:o+FjbNAE
さくすでググったらスクラマサクスって剣が出てきました

425 名前:421[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 23:14:41.69 ID:SiAtBDJm
>>423
すまん、自分もさくす分らんかった
元結と一緒に書かれてるから身の回りの品なんだろうとは思うんだが

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:13:55.44 ID:OLtmf2Ma
サクスもだけど、元結ってなんでしょうか?

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 11:59:42.46 ID:ZcUwe5A0
サクス…ザ・シンプソンズでリサが吹いてるやつだろ

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 12:03:06.67 ID:tbZyYa43
文七元結という人情噺でしったが髷を縛る紐

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/25(金) 13:25:17.28 ID:10Tr2RE8
髷を結う紐だから、それに関係する物じゃないかな?
櫛とか椿かなにかの植物油とか、あるいは酢かもしれん

【雑談】人相見について

2016年03月24日 17:12

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 21:23:19.98 ID:4pG2BeYQ
人相見はいつの時代くらいからあるの?
中国から輸入されたものだろうと思うが

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 21:33:32.71 ID:4pG2BeYQ
自分でググってみたが、戦国時代には僧侶が人相学の知識持っていたようだ。

「ヨーロッパでは古くから人相学の研究が盛んに行われ、古代ギリシャではヒポクラテス、アリストテレス、プラトンなどが古代西洋人相学の基礎を築いたと言われる。
18世紀にはスイスのラヴァーターがそれまであった多くの文献をまとめた『人相学断章』を著した。
またドイツのクレッチマーなどは現代科学の側面から人相を研究した。
日本で最も古い相書(人相学の本)とされるものは室町時代の天山阿闍(てんざんあじゃ)著の『先天相法』である。
元禄時代にはアジアから大量の相書が輸入され、民衆の間に人相学が広まった。
この頃から浮世絵などで人物の性格を表すのに人相学が使われるようになった。
明治時代には目黒玄竜子が熱心に研究し、二代目玄竜子は人相学を体系付けたと言われる。」
Wikipedia「人相占い」から引用


「相法は仏教とのかかわりが深く、戦国時代にはもっぱら僧侶の業(わざ)となり、
室町時代には叡山の天山阿闍梨(あじやり)による《先天相法》が出た。
一方、室町末期の《塵塚物語》によれば、
源義経が鞍馬山の天狗から相伝されたという《兵法口舌気(ひようほうくぜつき)》の中に人相術も含まれている。」
世界大百科事典[人相学]より

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 03:09:31.99 ID:WuqJWtzH
人相は三国志の時代からあるからなー

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 04:55:54.41 ID:mGvEqn2w
>>525は反骨の相が出てるから処刑すべき

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 14:03:43.08 ID:RNryVxDD
反骨の相は後頭部が出てるんだっけ?

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 14:18:40.68 ID:3NhZN36w
つまりハゲは反骨ってことかよ

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 19:45:03.09 ID:WOd6IEPf
そういや江戸前期あたりから後頭部がでっぱった骨格が急速に減るそうだな
反骨心が無くなってしまったのか

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 20:29:04.67 ID:eOZbiGAQ
首が180度回る人…

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 20:38:28.79 ID:tCc2aBe8
>>525
はるかに前からある

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 21:20:10.54 ID:50FpX816
三河武士や黒田武士の後頭部はつんつんしてそう

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 21:54:11.95 ID:RNryVxDD
>>529
短頭は弥生型、長頭は縄文型という説がある。
信憑性は知らないが

石田三成について伝わる話によると

2016年03月24日 17:09

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 00:20:02.39 ID:qtiUgdxf
石田三成について伝わる話によると、太閤秀吉の寵臣である石田治部少輔三成は近江国石田村の地士、
佐五右衛門という者の子であったという。この佐五右衛門は久しくこの土地に住んでおり、村邑の長と
称していた。


この妻が解任し一子を儲けた。佐吉と名付けられ、両親から限りなく寵愛された。
弱冠に及んで智計群を越え、器量もまた類いなかった。父母の喜びはさらに増したが、その家貧しく、
育て難かったため近隣の真言宗の寺に扈従として預けた。

ある時、羽柴秀吉がこの寺に参詣した折、佐吉が容貌艶やかで、立ち振舞も勝れていたのを見ると、
秀吉は彼を召して、夜には閨を同じくし、玉枕を並べた。

それより次第に立身し、二十万石の大名と成ったのだという。

(伊逹秘鑑)

珍しい、石田三成が秀吉の寵童だったという記述である。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/24(木) 13:44:06.56 ID:HBQcswxs
正澄が完全に無視されてるな

御大名方へ銀主と申す者達が

2016年03月23日 18:46

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 01:09:40.50 ID:iBFEBss3
 御大名方へ銀主と申す者達が御館入を務め、金銀の御借入れの事などを近年承っています事は甚だあってはならないことです。
万石取は町人風情の金銀を御借入れなくても、なさりようで毎年準備金を残すことができると思われます。
このような事等は誠に役人が物事を自らの仕事を済ますとすぐに立ち去るように取り扱うために起こるのであり、
この事情により御借入することが出てくるのであると思われます。
 銀主と申して館入を務めることは、秀吉公の御代から始まりましたことだそうで、
その余毒がただ今でも行われてきたことは、あってはならない事と思われます。
(本阿弥行状記)

天下一統により需要が増えたので借金しなければならなくなったのでは?
後、本阿弥家のある京阪では銀で、江戸では金なのですね



この話はここかしこにて囁かれ

2016年03月23日 18:45

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/23(水) 18:05:18.90 ID:69exh12o
賞の隠れたるはこれを探り、罰の顕れたるはこれを押さえる事こそ、名将の為す所である。
天下泰平の時代でさえ、人の心を疑い、善悪の偽説が往々に流言すること、これ世の常である。

いわんや戦国の人心、昨日は今日に替り、明日は今日に変ずる。これ乱世の常である。
おおよそ兵家において、その時によって虚偽を謀るのは一時の変であり、あえて不信不実の沙汰には
及ばない。ただ、君を欺き親を欺く徒のみその罪逃れる所なかった。

天下一定しない内は、諸侯互いにこれを謀ること、これは乱世の覇将たるもの専らすることであるので、
その事績においては虚実紛々である。

伊達政宗豊臣秀吉の糾明によって私戦の伝評を立てられ、太閤の機嫌を損ね、首尾は他に異なる
ほどであったのに、合戦粉骨で得た地である仙道会津を召し上げられ、蒲生氏郷に与えられた事、
時の盛衰とは言いながら、時日も経ない眼前の賞罰に、伊達家の家臣たちは或いは怨み、或いは憤る者
多かったため、政宗自身の心中もああだろうと推察した者たちが言い広めたのだろうか、
ただ誰となく、このような話が唱えられた

『今度の奥郡発向を幸いに、大崎・葛西・南部の端々の者共一揆の結成を勧め、不日に蜂起すれば、
蒲生氏郷は兵を発してこれを制するであろう。その時政宗もかねてよりの先鋒であるから、出陣するも
一揆と密通して、時所を計り、土地の案内を知らない氏郷を引き入れ、包囲して討ち果たせ、
その後に自ら一揆を鎮めれば、氏郷は不運に滅亡したということに落ち着き、一揆を鎮めた功は
政宗に帰され、その賞として再び会津仙道を得る。その陰謀は実に巧みである。
見ていよ、不日に奥郡に一揆が起こるであろう。』

この話はここかしこにて囁かれ、会津仙道においては只事ではなく、この流言のみ飛び交っていた。

(伊逹秘鑑)

秀吉の奥州仕置の後の、風聞についてのお話。



週間ブログ拍手ランキング【03/17~/23】

2016年03月23日 18:41

03/17~/23のブログ拍手ランキングです!


大梅梅子(たいばいばいし) 26

その時、私が感じた恐ろしさは 17

梶原又右衛門の忠節 15
【雑談】戦国時の森林について 13

それゆえ山津波と申すことが 11
倹約と吝嗇を取り違える者がままいるものですから 11
人相を見るということは 10

【雑談】在来馬についてのことなど 9
白井百人衆を謀る 6
『知人太郎国清』『才二郎国綱』『剛三郎勝光』 5

中国から見た日本の聖人とは 5
白河義親顛末 3
林羅山の心をも動かす平家物語 3
新法は当分便利でも良い事は無い 2



今週の1位はこちら!大梅梅子(たいばいばいし)です!
薩南学派を確立した、桂庵玄樹が試験の題材に機智鋭く答えたお話。
公案もそうですが、禅宗というのは、こういう思考方法が必要だったのかな、などと感じます。
一休さんの頓智話も、この手の思考訓練の一環として現れたものなのでしょうね。
そういえば、桂庵の確立した薩南学派って、禅宗ではなく朱子学の学派なんですよね。
儒教が中世、中国と結びつきの深い禅宗の僧侶によって日本に広められた思想であることを思い起こさせますね。

2位はこちら!その時、私が感じた恐ろしさはです!
伊達政宗が感じた豊臣秀吉への恐怖。彼の「関白」の位階の後ろにある、その人格的迫力に圧倒された感が強くにじみ出ます。
大河ドラマ「独眼竜政宗」の対面シーンを思い出した、という人も多いようですね。あのシーンは大河ドラマ史上に残る名場面だと
思いますが、現実の政宗も、あの時の、勝新太郎に対峙した渡辺謙のような気持ちだったのかなあ、なんで想像してしまいます。

今週管理人はがきになったお話はこちら!それゆえ山津波と申すことがです!
昨今では近代以前、日本でも森林資源の消費は非常に大きく、多くの山野がいわゆる禿山であった、と言われています。
よく「自然環境との共存」「リサイクル社会」などと賞賛されることがある江戸社会も、実は幕末期にはシステム的に限界に来ていた、
という説もあります。平和な江戸期でそうなのですから、戦乱によって木材が大量に消費された戦国期はどれだけ荒廃した
環境だったか、想像を絶しますね。
そんな、近代以前の環境破壊とその悪影響、というものを感じさせる逸話だと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

今週読んでる本
いろいろ消化中(;´∀`)

【雑談】戦国時の森林について

2016年03月22日 11:17

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 02:50:01.47 ID:CTRuR/43
戦国時代は、集落の近辺は禿山ばかりだったはずだしなぁ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 07:36:20.97 ID:YeOWXXly
>>400
燃料から資材として森林を使いまくっていたもんな
禿げ山だらけなんだよな
今の時代のほうが森林としては豊か

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 09:45:43.45 ID:3uzQrhf5
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
             (|   |)::::
              (γ /:::::::
               し \:::
                  \

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 10:54:37.96 ID:gb6tx5ZK
昔はヒノキの大木なんてそこら中に林立してたんだろうね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 11:17:12.46 ID:497TVpTj
昔つっても大昔ならな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 16:33:21.41 ID:gWI1KZhW
集落の近辺がみんな禿山ってありえるのか?
それなら集落維持できなさそうだが

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 16:34:41.67 ID:XdFMeAZt
京都がマツタケの名産地になったのは木材の需要が多い為
殆どの山が禿山になってしまい、その後アカマツしか生えなかったから

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 19:27:17.85 ID:vepE1UGe
木曾とかはどうなんだろ
もともと制限かけて守ってきたのかな?

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 00:12:44.84 ID:L2q8UnZ2
東海道53次の絵の背景はほどんど山に木がないのは実際そうだったからという話があるくらいだし
薪や家の木材としての消費量は凄かったんだろうな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 00:47:22.61 ID:d6BmmApU
北朝鮮は燃料で伐採→山崩れで大惨事を未だにやってる

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 10:25:05.84 ID:mr3hUf0x
秀吉の脇坂へのお手紙も材木がああ本数がああ産地がああ早く送れええだからねw
どんだけ木に飢えてたことか

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 21:57:40.20 ID:3dUL2Xni
そういえば戦国時代かどうかは知らないけど日本昔話の「箸蔵山の赤い火」というので
箸蔵山ってのは神聖だから入ってはいけない、となっていたのに
ある百姓が落ちている木を薪として売ったところ大儲け
そのうち落ちている木だけじゃなく立っている木もどんどん切って売ったため大富豪となり
山の麓に大きな屋敷をつくった
しかしある雨の日、箸蔵山から石がとんできて何者かの轟くような声が聞こえたとおもったら
山崩れが起きて屋敷は潰れてしまいましたとさ
こうして「やはり箸蔵山には神が住んでいる」とそれからは誰も木を取ろうとはしませんでした
てのがあったが、こういう教訓話で伐採を禁じてたんだろうか

白河義親顛末

2016年03月22日 11:16

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/22(火) 10:06:45.18 ID:Sv+Wg9UP
白河の、結城七郎藤原義親は、かつて暦応(1338-1342)の頃、南朝の勅によって、国司北畠顕家卿の
要請に従い、奥州より攻め上り伊勢国にて死んだ結城上野入道道忠(宗広)から十代あまりの末裔である。

であるが、義親の一族である中島上野介という者は、義親へこう諫言した
「豊臣秀吉公が鎮西南海北陸に威を振るわれている事は、ここ5,6年の間に耳に触れてきたことです。
殊に、今度は坂東一の首長である北条の一族も間もなく滅亡するだろうと、世間もはっきりと取りざた
しております。ですから、直ぐに小田原に参向あって、秀吉公の味方に属せば、まさに当家中興の先表になると
考えております。」

しかし義親
「私もそうは思っているのだが、家が貧しいため行程の旅費、土産の品も沙汰しがたく、徒に日を移して
しまっているのだ。」

上野介
「今度のことはお家の大事なのですから、旅費・土産は家中の面々に課役をかけ調達すべきです。
先ず、土産の品は、秀吉公も小田原まで遠路の陣中なのですから、米ニ百俵を献上すれば然る可きと
考えます。その内の百俵は私が調達します。残りの百俵を、家中にて調達して下さい。
しかし、もし遠方への旅程を苦労に思われるのでしたら、恐れながら私が代官と成って秀吉公の
もとに向かい、宜しく申し上げます。」

こう言われても、白河義親は結局はこれに同意しなかった。
彼は奸佞の近習たちを集め「この事どう思うか?」と評議させた。
面々は兵粮運送の課役を厭い、言葉巧みに申し上げた
「今の乱世に諸民は疲弊しています。その上に白米ニ百俵の課役運送の人夫の費えは、民にとっても莫大な
ものになります。
また、あの中島上野介は、普通の人間以上に利口で弁舌の立つ人物ですから、彼が代官と成って秀吉公の
御前に出れば、何を言い出すか解ったものではありません。」

等々讒言したことに、白河義親も同意し使者すら送らなかった事こそ、運の尽きであった。
その後秀吉公が会津に下向した際、義親は御迎えに出たものの、彼は許されず領地は没収され、その地は
伊勢の住人である関右兵衛に与えられた。

この後、白河義親は城西の金勝寺という禅寺に密かに居住したが、関右兵衛はこれに遣いを立て伝えた
『そこでは下郎の推参もおぼつきません。ひとまず何処へなりともお退きされますように。
こう申すのも痛わしい事ですが、公儀を恐れ、このように申し入れているのです。』

義親は
「私もそう思っているのだが、暫く住居を求めている間にこの様に引き延ばしてしまった。
追っ付け立ち退くであろう。」

そう返答し、やがて那須の内湯元という所に移っていった。
後には伊達の一族の由縁があったため、仙台の門下に降った。

(伊逹秘鑑)



林羅山の心をも動かす平家物語

2016年03月22日 11:14

林羅山   
522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 21:40:22.47 ID:WI2DWjOe
 林道春は鳥羽戀塚の碑銘を書かれた時、

「袈裟御前は女ながらも鉄肝石心の烈婦で、源ノ渡に義を立てて身代わりになった志、古今に例のない女のみさおである。」

と、感涙を流された。

また

「源渡、後に重源と改名した者は、隔て心のない出家である。自分は儒者であるので、
儒の見識によりこの評論はしばらく筆を差し置かせてもらう。」


とも言われた。
(本阿弥行状記)

林羅山の心をも動かす平家物語



人相を見るということは

2016年03月21日 20:57

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 21:05:57.65 ID:5XgJvU+M
老武士が言った。
「人相を見るということは大将たる者の重要な資質である。
楠木正成が湊川で正行に与えた一巻には眼のことばかりが書いてあったと伝わる。
人相にはなにか秘められた大事がある」
という証拠であろう【葉隠】




その時、私が感じた恐ろしさは

2016年03月21日 20:56

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 21:35:54.13 ID:28PC8Ciw
伊達政宗がある夜、原田左馬助、片倉小十郎、茂庭石見が伺候したおり、小田原で初めて豊臣秀吉
謁見した時のことを物語した

「私は兼ねてからこう考えていた。秀吉に謁見してもさほど恐れることはない、と。
しかしあの時、私は彼の、関白の位階に恐れ、そして凡下よりあのような雲上の高官へと昇った程の
勇武に、自然の威厳を感じ、心ならずも低頭した。
その時、私が感じた恐ろしさは、類ないものであった。」

(伊逹秘鑑)

伊達政宗が初めて秀吉に謁見した時の感想である。



それゆえ山津波と申すことが

2016年03月21日 20:55

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 00:11:41.04 ID:WI2DWjOe
 都の近所の丹波丹後などを見受けましたところ、山を開いて山畑を造り、水の便の良い所は畑年貢で米も作っている様子でございます。
それゆえ山津波と申すことが近年所々にあると承っております。
 その様子は山に木を無くしましたので、大雨等がとどまる所が少なくなり急に流れます。
すると、いくつかの川がつかえまして、水損と申すことが出てきました。
もちろん常に水がない川の者は新田を願い出、だんだんと新田が増えることでしょう。
両方が利益の追求に走ることで、かえって上等の田が損してしまうことになるかと思われます。
 きっと近国に限らず、皆このような類が数か所で発生していると思われます。
(本阿弥行状記)




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 02:50:01.47 ID:CTRuR/43
戦国時代は、集落の近辺は禿山ばかりだったはずだしなぁ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 07:36:20.97 ID:YeOWXXly
>>400
燃料から資材として森林を使いまくっていたもんな
禿げ山だらけなんだよな
今の時代のほうが森林としては豊か

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 09:45:43.45 ID:3uzQrhf5
           |
            |  彡⌒ミ
           \ (´・ω・`)また髪の話してる
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               し \:::
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403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 10:54:37.96 ID:gb6tx5ZK
昔はヒノキの大木なんてそこら中に林立してたんだろうね

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 11:17:12.46 ID:497TVpTj
昔つっても大昔ならな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 16:33:21.41 ID:gWI1KZhW
集落の近辺がみんな禿山ってありえるのか?
それなら集落維持できなさそうだが

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 16:34:41.67 ID:XdFMeAZt
京都がマツタケの名産地になったのは木材の需要が多い為
殆どの山が禿山になってしまい、その後アカマツしか生えなかったから

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/21(月) 19:27:17.85 ID:vepE1UGe
木曾とかはどうなんだろ
もともと制限かけて守ってきたのかな?

梶原又右衛門の忠節

2016年03月20日 18:59

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:32:52.43 ID:vEIBgH9Y
本能寺の変が起こった時、尾張の住人梶原左衛門尉の嫡子松千代丸は13歳になっていたが、
その折病に冒され、己の宿舎で養生していた。

しかし、織田信忠の在る二条城の様子を聞くと、すぐにそこに向かおうとした
「私は未だ幼稚ではあるが、一廉の弓取りの子であるのだから、どうにかして私を連れて
御所の中に入れよ。働くこと叶わずとも、ただ伏しながら敵の刃にかかり、君の御供をいたさん!」

これに同姓の家臣である又右衛門という者が、強いて諌めた
「らとえ御所の中に入ることが出来たといえども、この有様ではどうしようもありません!
君御父子(信長・信忠父子)は逆臣のために殺されたとしても、その後いかようにも、織田家
ご親族の人々によって逆徒討伐の儀がなされるでしょう。であれば、今は治療をして、
その折を得て忠節を成されるべきです。

であれば、私はこれより御所に駆け入り、この事を申し上げ、恐れながら御名代として
信忠卿のお供をいたします!」

そう言い捨てるとその場をづんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗り。諸鐙を合わせて二条城に馳せ、
寄せての明智軍に紛れて御所の中に入り、広縁にて跪き、松千代丸の状況を信忠に委細に言上し、そして言った
「主の代官に、それがし、御敵を防ぎ奉らん!」

その至忠に信忠も感じ入り、自らの薙刀を又右衛門に与えると
「屍は戦場に晒すとも、まことに後世までの面目なり!」
そして庭上に躍り出て、蜻蛉返し水車と、八方透かさず斬って廻り、敵数十人を薙ぎ伏せ突き伏せ、
尽く防いだが、寄手は大勢であったので事ともせず次々と向かってきたため、終には討たれた。

その忠節を感じ、陪臣でありながら、彼の名は阿弥陀寺の過去帳にも書き載せられているという。

(甫庵信長記)




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:44:12.47 ID:hslUDo2B
こないだから甫庵を出してくるのは
小説の「良い話」を紹介するのとおんなじなんだけどなぁ…

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:53:01.40 ID:ECqYoMqa
もっと後代の名将言行録からもいろいろ出てるし問題ないだろう
武功夜話でも出典書いてれば載せてOKだろうし

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:47.45 ID:Ile/5imJ
>>500
一応指摘しておくと、昨今は甫庵太閤記の史料性も再評価されてる。
徳川家の武田旧臣などから、独自ルートで取材したフシがあるらしい。
あと太田牛一信長記と甫庵信長記は、成立したのはほぼ一緒の時代の軍記。
逆に言えば太田牛一信長記を信用しすぎるのも危険。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:57:53.86 ID:hq9GYHmV
軍鑑なら、甲陽軍鑑なら...

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 21:58:24.17 ID:Ile/5imJ
>>502
甫庵太閤記じゃない、甫庵信長記だw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:55:07.93 ID:4DVvuEN+
武人百話も100年位前だね

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 08:43:31.70 ID:jqPquz/P
>>502
史料として見直されてるのは、甲陽軍鑑と同様に風習が参考になるって話で
事件などの顛末については評価が低いよ。

甫庵信長記は一次史料とあからさまに食い違ってる話が多いからさ

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/20(日) 11:05:53.99 ID:Q9Nctl58
春日惣次郎の時代までは遡れそうなもので間違いないんだっけ?
まあおじいさんの回顧録とかには「時系列ぐちゃぐちゃだし話盛るし細かいところ適当過ぎ」ってのしばしばありそうなもんだが

新法は当分便利でも良い事は無い

2016年03月20日 18:59

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 23:11:31.28 ID:tWYe0WnB
 運上の事で色々願います者が次第に出てくるでしょうが、古来から無かった事は御取り上げないことがよろしいかと思われます。
とにかく国々では昔から何事にも古掟等があるでしょう。甲州一分は今をもって信玄公の御代の通りにその国限りで使われており、
国の掟も信玄公の御定めの通り権現様はお聞き届け、そのように治めなされたといいます。
以上のように考えますと、新法は当分便利でも良い事は無いと思われます。
(本阿弥行状記)

甲斐では他国との貿易に金を頼らざるをえないので、
信玄は持ち出し禁止にせざるを得なかったのでしょうね





『知人太郎国清』『才二郎国綱』『剛三郎勝光』

2016年03月19日 18:02

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 18:15:55.45 ID:Vxh6YQdw
ある時、京堺などから、才知ある人、あるいは名のある者たちが、安土に信長への御目見えとして下ると、
とある暮時、信長より饗応があると、森の乱(森蘭丸)より伝えられ、皆安土山に登ると、
信長は大変機嫌よく、深夜に至るまで饗宴は続いた。

その座に良琢という丹波の者があったが、彼が「荒木山城守(村重)殿は、馬印に興のある事をしていました。」
と発言した。信長は「それは何か?」と尋ねると

「はい、山城守殿は、白い絹の四半に朱にて

『態と申入候。近日西国へ下向せしむべく候。拙者好物共、いろいろ調へ置かるべく候。
 聊御油断なく御調へ頼入候 恐惶謹言。
(あえて申し入れますが、近々西国(西方浄土)へ行く予定なので、私の好物を色々準備しておいて下さい。
 少しも怠りなく準備して頂くよう頼み入ります。 恐惶謹言。)

  天正三年八月吉日      荒木山城守(判)
    進上 阿弥陀殿 参』

と、このように書かれておりました。」

この話に信長は殊更喜んだ。
また渋屋万左右衛門はこんな話をした

「この頃洛中では、翠竹院道三が、『福の神の10人の子供』に仮名・実名などを付け、京童たちは
これを屏風や扇畳紙などに書き記し、口ずさんでいます。」

「それは如何なることか?」

「はい、それらは『嗇(しわ)太郎為持』『内寝二郎仲吉』『斟酌(しんしゃく)三郎末安』など…」

語り終わらぬ内に信長はみるみる機嫌が悪くなり、大声で言った

「いや!それは工商等には福の神かも知れないが、武家にとっては貧乏神である!
我らの福の神とは、『知人太郎国清』『才二郎国綱』『剛三郎勝光』といった者たちだ。

”知人”とは、彼は宰相の器、これは有司の器、誰々は武将の量など、心優れた人にも問い選び、
心にも練ってこれを知り、そして実際に抜擢し信用する。こういう時はその国の上下恨むことも無くなる。
これぞ国清というべきであろう。

”才”というのは智謀度量を逞しく伸ばし、ただ国綱の久しからん事をのみ、昼夜、寝床の中でまで
考え工夫し尽くせば、その国は必ず久栄となるだろう。これそ国綱と言うべきである。
ただし、周公の才をのみ専ら用いるべきである。その他は才に似て才ではない。
今の世の中で『才覚者』と呼ばれる者は、多くはただ佞人なだけの人物がその名を得ている。

剛の者は進退よろしきに叶い、小功に心を労せず、邪悪の敵を討伐し、温厚の君を尊び、
ただ大功を天下国家に及ぼし、民を撫育しようと思う心が実であるから、天神も感じ入り、
人も自然と服する。こういう時は、一戦功成ってその威光も大変雅やかである。
これもまた、勝光ではないか!

かの嗇太郎為持にして、天下国家を失わざるは稀である。」

そう声高に言われる姿は、辻談義の坊主が椅子に上がって、いかめし顔に説法し、
他宗を誹謗し、自宗を賞賛する様子より、さらに越えたものであった。


(甫庵信長記)



493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 23:05:57.10 ID:83Oss3NM
その例えって褒めてるように思えないんだけど

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 23:09:43.28 ID:Ltj02MCp
信長記だからなぁ…

中国から見た日本の聖人とは

2016年03月19日 18:01

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 01:50:48.16 ID:tWYe0WnB
 本朝では六孫王経基公より代々の名将が学問を好みなさったという事は承っておりませんが、
天下を治めなさりますのなら、とにかく不学でも心に置くものと思われます。

 もっとも宋朝の儒者が書き残した書などは、高論もあると聞いておりますが、
誠に口先ばかりで天下一統の功に全く寄与できませんでした。
そうでありますので、学文も我が朝の御政務としてはあまりよろしい方法と思われません。
ただ権現様が御定められた掟を守らせなさることが第一と思われます。

 本多佐渡守を以前門徒宗に味方なされましたことにも似合わず、今は仏法を軽んじられております。
貞永式目等にも仏神尊敬の事を認めてありますので、佐渡守様がいかなる御見識かは知りませんが、ちと御不料簡かと思われます。
そのうえ学文をことのほか御政務のことに仰せられます。しかし天下の大綱は上様が直にご決断なされますので、格別学文の害が出てこないのです。

 また佐渡守様が堯舜禹湯文武周公孔子の聖人を天からこの世へ授けなさり、天下万民を安泰に教え導くなさった様に申されます。
しかし、聖人方が自然と世に出られたのです。
その理由は唐土でももはや孔子在世の時には乱世で、なかなか孔子のお力があっても太平になりませんでした。
また父を弑し、主を弑し、国郡を取る人が数多くおり、後代明朝までの歴史に思いがけない悪人も数多くいました。
これも天から悪人をこの世へ出されたと申すべきでしょうか。
孔子の後にも漢高祖、後漢光武帝、元太祖皇帝、明太祖皇帝、この四人の天子が天下を順にお取りになされました。
彼らははなはだ聖人に近い者でありましたが、英雄賢君とばかり書にも明記されております。
堯から孔子まで聖人が打ち続いて天からこの世へ出されたとは、天も偏ってなされかたするものだと申すべきでしょうか。
何事も天下の治乱であっても、まずは自然とでてきたものだと思われます。

 とにかく上にいる方々が無欲でありましたら、下は自然と治まるものではないかと思われます。
楠正成公の庄五郎正行公への遺言などは甚だありがたいものです。これも二三ヶ国を治めますのなら随分よろしく思われますが、
天下の御政務には恵みがなくては下々は詰まるのではないかと思われます。
そのうえ本朝は下々の謀反が出てきた時、その家でなければ味方します者は一人もいません。神代から今の代までついに承っておりません。
そうでありますので、外国と違って、甚だ治政が良い事と思われます。
また唐土の方から本朝の聖人を選びますと数人は挙がるでしょう。

 何事もあまりに物事を詳しくしすぎますと、円郭の周りに沿って人を追いかける様であり、まるで先に走っている者が
かえって遅れているものを追う事と似てきます。
何事も始めは少なく後に大きくすることが、物事を根強くするもので、鼻の先の学術智術ばかりでは、大きな舞台では
行き届かないことがあるでしょう。

 これにつけても、天満宮が御在世の時、遣唐使のことを御諫めされて御止めになりましたことなどは
ありがたい御尊徳と思われます。
(本阿弥行状記)

中国から見た日本の聖人とは




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 04:53:37.41 ID:ZJZgB71Y
朱元璋「聖人とは朕のごときものが名乗るべし」

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/19(土) 14:35:26.09 ID:8YDH9Ll4
皇帝のご威光はまさに光り輝いているようですな

大梅梅子(たいばいばいし)

2016年03月18日 17:09

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 20:45:36.78 ID:4Ep7Bp6v
大梅梅子(たいばいばいし)

應仁元年(1467年)のことである。後土御門天皇は遣明使を派遣することを画策し、随行する数人の僧侶を選抜するように
京都東山の建仁寺の住持、岐陽和尚に依頼する勅命を出した。
依頼を受けた岐陽和尚は、公平を期するために、全国から選ばれた八十余名を建仁寺に参集させ、選抜試験を課することにした。
当日、受験生が試験会場に入ると、各人の目の前には、なぜか大きな梅干しが一個ずつ置いてある。
全国各地から参集した受験生が不思議に思っていると、時間になって、試験官である岐陽方秀和尚が粛々と上座に着席する。
すると、鳴磬一聲、大書された『大梅梅子(たいばいばいし)』の題が高々と掲げられたではないか。
「大梅(たいばい)」とは、大きな梅のことである。また、「梅子(ばいし)」とは、梅の実を指す。だから、『大梅梅子(たいばいばいし)』とは、
大きな梅の実のことであろうか。
まるで、禅の公案みたいなものである。いかにも人を喰ったような題で、全国から集まった英才たちも、さぞかし面食らったことであろう。
いくら禅寺であるとは言え、出題した岐陽方秀和尚も只者ではない。
すると、ある一人の僧侶がただちに次の詩を詠んだと言う。

   大梅梅子鐵團團   大梅梅子、鐵團團。
   八十餘人下觜難   八十餘人、觜を下すこと難し。
   今日當機百雜碎   今日、機に當たり、百雜碎く。
   那邊一核與他看   那邊の一核、他と與に看る。 
  
  (大きな梅の実一個。それは真ん丸で、まるで鉄の塊のよう。
   ここにあつまった八十余人は、それを目の前にして、どうすることも出来ない。
   本日、遣明使随行の一員たらんと思ってやってきたが、その思いもむなしくなるばかり。
   誰もがこの梅干しをどうにかしようと、ひたすら見つめている)

この詩を詠んだのは、長門にある永福寺の住職であった桂庵禅師その時四十一歳。
この詩で遣明使となり、明に渡海して蘇州などを遊学し、後に薩摩に赴き薩南学派の祖として名を成した人物である。
(「三国名勝図會」、『桂庵禅師傳』、「漢学起源」)
補足:「大梅梅子(たいばいばいし)」は、大梅法常和尚の残した公案であると言う。
(大梅法常(752~839年)唐の僧侶)



白井百人衆を謀る

2016年03月17日 14:39

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 19:50:36.70 ID:AOgP06Dt
天正12年の正月上旬のこと。
上州白井長尾の家中には、百人衆と呼ばれる徒歩の侍の集団が有った。
その頃、真田昌幸の家臣であった沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、
私曲の事があって沼田を立ち退き白井に属し、白井においてこの百人衆に組み入れられた。
しかし、この3人はどうにかして昌幸に忠節を立て、故郷に立ち返りたいと考えていた。

この3人、談合してその事を昌幸家臣の高橋右馬充に伝えると、右馬充はこれを金子美濃に相談した。
金子美濃は「其方、上田に参り注進すべきだ。」と勧めたため、右馬充は上田に参り、丸山土佐守、
木村戸右衛門を通じて申し上げると、真田昌幸は大喜びした
「神妙のことである!卒爾無きように謀るべし!」
そして高橋右馬充は戸鹿野へと戻った

さて、かの3人は白井において、傍輩の者たちをたぶらかした
「沼田、戸鹿野には有徳(金持ち)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか!」
こうして130人ほどが申し合い、この林、吉野、井上を案内として、戸鹿野へと忍入った。

彼らが侵入し終わると、かねてからの計略通り、橋を外し、彼らを四方より取り巻き、討った。
突然の事に、瞬く間に白井の者達は120人余が討ち取られ、水練の達者の者5,6人だけが助かり、白井へと
逃げ帰った。

この忠節により、高橋右馬充には知行が与えられた。

(加沢記)




【雑談】在来馬についてのことなど

2016年03月17日 14:38

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 20:11:29.35 ID:iW5qRqqm
根岸にある馬の博物館に在来馬とサラブレッドの
骨格標本が展示されてたけど、思ってたほど在来馬は
小さく無かった
ってかサラブレッドが思ってるよりも大きい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 10:57:19.82 ID:Mr0glBl3
サラでも三冠馬ディープインパクトなんか体高164だで
現代競馬の祖のノーザンダンサーで157、サラの代表的な祖のハイペリオンなんか152だ

いつまでもサラガーサラガーいってるバカは物知らなさすぎだべ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 11:50:01.50 ID:E/Z+ByCm
そっだらごどいっだっでよ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 13:16:21.91 ID:T/2Dqs4v
だいたい戦国時代は蹄鉄という概念がなかったんだろ
宣教師が日本の馬は人乗せると少ししか移動できないとかなんとか書いてなかったかな
甲冑装備の武将が馬に乗ってたのかも怪しい

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 15:11:11.20 ID:kB3DZJB7
原種が水辺棲種の西洋馬は蹄が柔らかい蹄鉄必須だが
草原産のモンゴル馬と同種である和馬は蹄が固いので必須ではない
また馬の足裏は第二の心臓として機能してるので本来は余計なものは付けない方が良く
モンゴルでは現代も蹄鉄は付けない

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/15(火) 20:11:29.35 ID:iW5qRqqm
根岸にある馬の博物館に在来馬とサラブレッドの
骨格標本が展示されてたけど、思ってたほど在来馬は
小さく無かった
ってかサラブレッドが思ってるよりも大きい

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 10:57:19.82 ID:Mr0glBl3
サラでも三冠馬ディープインパクトなんか体高164だで
現代競馬の祖のノーザンダンサーで157、サラの代表的な祖のハイペリオンなんか152だ

いつまでもサラガーサラガーいってるバカは物知らなさすぎだべ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/16(水) 11:50:01.50 ID:E/Z+ByCm
そっだらごどいっだっでよ


350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 10:24:48.53 ID:ozVZcnDf
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Uma_yoroi_%28bagai%29.jpg
Uma_yoroi_(bagai)[1]

在来馬と鎧武者の再現画像あったぞ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 10:59:03.88 ID:6UzlzMVn
日本の在来馬 木曽馬みたいなやつ?は半レグアしか歩けなかったと宣教師は報告してるね

352 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 14:01:48.19 ID:wDC9oqoH
まぁ仮にさその報告が正しいとしようよ
レグアも仮に6kmとしよう
半レグアってんだから3kmしか歩けないって話だ

そんな動物を乗物や動力にするバカが居ると思うか?
たった3kmのために飼育して3kmのために鞍とか馬具つくるバカがいたと思うか?

それがわからなくてしたり顔で「報告してるね」などと書いてしまう真のバカは
オレオレ詐欺にすら引っかかる素晴らしい能力があると思う

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 14:13:03.10 ID:1RgEfUuQ
>>352
後半は言い過ぎだが、まあその通りだな

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 14:17:40.96 ID:1YBUArYE
そもそも3km走れれば十分じゃね

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 14:25:11.44 ID:PwD/CDv5
バテレンの報告だしな
それを迂闊に信じるほうがバカなのであって351本人はバカじゃないだろ、いわば釣り
そんなことも分からない352は池沼

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 18:30:36.78 ID:SqIOMTiN
>>351
宣教師って具体的には誰の報告?
原文訳を見てみたい

364 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 18:35:57.61 ID:SqIOMTiN
近藤好和氏なんかはこの大きさはアジアの馬の特質であり日本の馬はその中でも標準サイズと
言っているね

日本の馬と同サイズの中国の軍馬やユーラシアを征した蒙古馬なんかも
数キロで歩けなくなるのかな?


近藤好和「弓矢と刀剣」
かかるわが国在来馬の特質(特にその小型であること)は、一見、特異なことのように
思われる。しかしそれは、競馬のために品質改良されたサラブレッドなどと比較するからである。
現在のモンゴルの馬をみればわかるように、実はわが国在来馬の特質は、アジアの草原馬全体の
特質であり、その中にあってわが国の在来馬はむしろ標準といえよう。古代中国でも
軍馬の条件は一三○センチ以上であり、有名な秦始皇帝の兵馬俑は実物大だが、
その馬俑の平均体高は一三二センチなのである。

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 18:40:38.29 ID:SqIOMTiN
半レグアってのは何キロくらいになるんだっけ?

http://www.marvellouswings.com/Kattyuu/Review/Review.html
> 和種馬はその小柄な体型から甲冑武者を乗せるとよたよたとしか走れない、
と誤解されていますが、約3.5kmをノンストップで速歩、駈歩で問題なく
走り続けられることを確めました。

368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/03/17(木) 20:10:09.50 ID:E19qjm7b
サラとアラブの血が混じったアングロアラブでもポニーサイズになるのもいる
↓の馬は体高146センチで日本でいえば南部馬の平均よりやや大きい程度の
ポニーになるが小柄な印象だろうか

アラブ馬視察
http://yohcan.a.la9.jp/20040111-sisatsu.html
>マゼッタ、マゼ、賢双、賢双の2、達の父親です。
体高は146センチと小ぶりだが子馬は大きいのが多い。

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/17(木) 21:55:53.90 ID:8yUpp46g
在来馬でひとくくりに語ってるけど木曽馬と南部馬でも全然大きさ違う

南部馬は最高級のブランド

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/18(金) 15:26:08.68 ID:JSDXJhF6
フロイスの日本覚書にわらぐつが半グレアしかもたなかったと記述してるやつじゃないの