毛利・宍戸の和睦

2016年04月30日 17:01

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 09:18:46.56 ID:SZUuzKNG
毛利元就より、宍戸元源へ和睦の申し入れがあると、元源は孫で嫡男の隆家、深瀬隆兼をはじめ親族重臣らを集め
これを協議した。
この席で、元源の弟である深瀬隆兼はこう主張した

「私の愚案によって判断するに、今、将軍家の権威は明け方の月のように薄く、頼みに成らない仲、
西国の武士は尼子・大内両家に属しています。その中において毛利元就は智謀万人に越え、さらに
大内と通じて尼子を討とうと欲しています。

仮に我らが元就を討とうとしても、大敵の大内が後ろに控えているので滅ぼすのは難しいでしょう。
また、尼子は家が古すぎます。武道廃り、晴久の政治も正しくなく、与して我らに何の益があるでしょうか?
京都に加勢を乞うても、肝心の中国において背くものが多ければ、多勢を下向させることも出来ません。

毛利元就に合力し両家一和すれば、備後・安芸の諸士は招かずして参るでしょう。
また、我々が老衰する前に元就と和平しておけば、元就は良将ですから、若き隆家の師として
彼以上の人物はありません。」

この言葉に元源はじめ一門も同調し、天文二年に和睦を受諾し音信を通じた。しかし未だ、元就・元源の
両者が参会することはなかった。

明けて天文三年正月十八日、毛利元就が年始の儀として宍戸氏の領地である五龍に来た。
宍戸元源はこれを慇懃に饗応し終日物語あったが、このとき元就は寵臣である粟屋右京、国司右京の
両人だけを留め置き、その他の人数はみな郡山に返し、主従三人だけで五龍に滞留した。

宍戸元源は、元就が隔心なく人数を返したその志に感じ入り、打ち解けて終夜、軍法の評判、
隣国諸士の甲乙などを論じ合い、旧知のように親しく語った。
虎穴に入らずんば虎児を得ずと言う事である。

元就は言った
「このように別心無き上は、私の嫡女を隆家殿に進め、親子と仲と成れば家中の者達までも
心やすく交流できるでしょう。元源殿が同心いただければ本望です。」

元源答えて曰く
「その志、甚だ悦び入り候。私も老衰におよび、息子元家に死に遅れ、隆家は未だ若輩です。
まったく無力に思っており、これこそ私の方から、時節を見て申し入れたいと思っていたのです。
それをそちらから仰せを承ること、まことに深き値遇です。

元就殿は子息も多くありますから、今後は隆家の兄弟も多くなります。
隆家のことはすべて、元就殿に任せます。どうか御指南を頂きたい。」

そして「子孫長久の酒を進めましょう!」と、その座に一門を召し出し、家中貴賎を問わず
酒宴を成した。

元就が吉田に帰ると、その後吉日を選び婚姻の礼を整え、吉田と甲立の境に假屋を建て
双方より人数を出し、宍戸家が嫁女の輿を受け取った。
毛利方の責任者、桂元澄、児玉就忠が式対して渡すと、宍戸方の責任者である江田元周は、
輿の側にスルスルと歩み寄り、戸を開いて輿の中を見、元就の息女に紛れない事、篤と見届け、
桂元澄に向かい

「確かに受け取った!」

と答えた。後で元就はこれを聞くと
「現在は乱世であるから、元周振る舞いも当然である。総じて宍戸家の者達は志何れも健やかで、
わが家の若き者たちも見置きて手本にせよ。」
と、これを賞賛したという。宍戸家との婚姻により、近隣の大半は毛利元就に従うように成った。

(宍戸記)



646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 13:53:21.53 ID:9vuFlLAf
隆家って結局は隆元の義兄になるわけだし、後年の毛利家の繁栄を思えば
大英断だったな
以降の処遇も手厚かったと聞くし

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 16:10:10.69 ID:99N7f508
ノブヤボだと良い笑顔だな

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関白任官の理由

2016年04月29日 18:33

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 17:06:55.08 ID:ffZrOZ+L
大坂の陣が起ころうとする時、大阪の豊臣家は島津家に対して援兵を募ったと、浪華軍記、村越覚書等に
記されているが、これに対して島津家からの返答はなかったという。
そもそも島津家、伊達家、上杉家といった家は従来、自己の武功を以って治め来たりし国であり、
太閤秀吉の与えたものではなく、この点、加藤福島といった人々とは別である。故に秀吉自身も、
天下の武士の心を察して、自ら征夷将軍とはならず、関白に任官したのである。

これによって秀吉は、天下の大名に上洛を促し、聚楽へも参勤をさせた。
この国に在る者は、誰が神系(天皇家)を尊ばないものが居るだろうか?
故に、もし秀吉を疑って上洛を遂げぬ者があれば、直ちに朝敵であるとの名を付け
之を討とうとの謀であった。
小田原の北条父子の事などは、こういう視点で見るべきである。
これ故に、天下の諸侯もやむを得ず在阪するもの多かったのである。

(慶元記)



魔法神社のキュウモウ狸

2016年04月28日 12:01

637 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/27(水) 08:57:43.10 ID:63QNjozb
魔法で思いだしたので書き込みしてみます。
岡山県に魔法神社という神社があります。ここの御祭神は、キュウモウ狸という、キリスト教宣教師と共に南蛮から来日した狸だそうです。
この狸はいたずらを繰り返していましたが、後に改心したらしく、村人たちの前で牛馬の守護神になると誓いをたてたため、神社にまつられたそうです。



638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 21:15:16.28 ID:Rv1hm6fo
ググったら「魔法神社」って石碑出てきてワロタ
ご利益ありそうで行ってみたい

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 13:48:42.26 ID:8luqifc7
タヌキって日本周辺ぐらいしか生息してないんじゃなかったけ?
南蛮から来たのなら正体はアライグマとか?

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:04:43.95 ID:25eFKUwQ
あ、それってハクビシン?

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:05:55.27 ID:6jIygt/Z
田舎なのん?

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:08:08.61 ID:FW/XmVsB
大都会岡山になんて事を

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 14:17:19.14 ID:6jIygt/Z
百姓を手伝ったり祭りでばか騒ぎしたりと、グッドネイバーさんだったという話しもあるみたいだね

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 15:20:57.07 ID:rzuLob8x
童貞力がつきそうだな

辻片目をや光らすらん

2016年04月28日 11:09

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 20:38:38.69 ID:4qe9qUS8
伊達政宗が、将軍徳川家光の供奉として上洛した時、東福寺大雄庵の住持の入院(住職となって寺に入ること)
があった。政宗はこの寺の檀那であったため、辻固め(貴人の外出の際などに、辻々に立って
道筋を警戒すること)の警備の人数を出した所、建仁寺の態長老(細川幽斎の甥であるという)が聞かれて

『今日をはれと 檀那伊達して政宗が 辻片目をや光らすらん』

と戯れ歌を読まれた。これは政宗が片目により、辻固めと片目をかけたのである。
政宗はこの歌を伝え聞くと

『ともすれば 吾名におひと固めをも 光らす身のかかる迷惑』

と詠んだ。

(新東鑑)



571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 21:30:29.55 ID:EwIzzuRo
悔しいのぅ

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 22:12:10.00 ID:K1fnOyC4
辻々で四の字固め?

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/27(水) 22:45:20.24 ID:YfPLe9G6
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6910.html?sp&sp
同じ逸話がこっちでは
「熊」長老となっている
さてどっちが正しいのか

人を呪う事はあってはならない

2016年04月28日 11:07

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 02:50:37.10 ID:V0jy1STk
大納言(前田利家)様の御咄に、人を呪う事はあってはならないというものあります。
その理由として以下のお話をされました。

利家様が荒子を信長公の御意で前田蔵人(利久)殿から受け渡されたとき、
蔵人殿の御内様が腹を立てられて、色々呪う事をなされた。
屏風・障子にまでも呪いを封じさせてから退城されましたが、
結局大納言様にはいや増しに吉事があったとのことです。

村井豊後も同じことを語っていました。
(利家夜話)

なんで信長は利家に家督を相続させたんですかね



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 06:09:16.99 ID:lAFOKSFt
そりゃもうアーッよ

576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/29(金) 00:54:22.03 ID:GjfOD1XB
>>574
呪うと呪った相手にいや増しに吉事が訪れるから?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 10:03:32.46 ID:lNQCYFn2
「祝ってやる!」だろ?

「政宗はありのままの者である」

2016年04月27日 18:58

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:37:16.93 ID:g3d8honN
豊臣秀吉の、小田原進発の時に、伊達政宗は参陣がなかったことで、秀吉は甚だ怒った。
これを政宗聞き、小田原陣に至り、中村一氏に言った

「私は関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって頃合い、日和を見て
いた所、北条滅びて後に奥州に御発向あるとの風聞を承った。然るにおいては、防戦危ういこと
必定と考え、日を継いで馳せ参じた。
昔頼朝公が、上総介広常の遅参を咎めた時のような御気色あるのは迷惑である!」

これを聞くと秀吉は笑い出し、「政宗はありのままの者である」と、その罪を免じた。

しかしその年の冬、奥州九戸に一揆起こり、政宗もその方人であるとの聞こえ有り、秀吉は
政宗を悪み、急ぎ上洛すべきと命じた。
政宗承り、「私ほどの者が磔にかかる時。並々にては口惜しい」と、金銀にて鍍金した磔柱を
先頭に持たせて上京した。その頃秀吉は伏見の城地を見ていたが、政宗の上洛を聞くと、
「ここに来るべし」と命じたため、政宗伏見に向かうと、側に招き、その日使っていた
杖にて政宗の首を押さえて言った。

「其方、上洛せねばこのように申し付けるべしと思っていたが、速やかに馳せ上がった上は
免ずべし。」

政宗畏まり、御前を退出したという。
(新東鑑)



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2016年04月27日 18:56

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魔法を得る 22

清正の懐剣 20

私は当家の軍神と成り 18
大分名物、だんご汁事始 16
池田輝政は数百人の牢人を扶助し 10

道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず 9
【雑談】幸村になっちゃった経緯 9



今週の1位はこちら!魔法を得るです!
かの、魔法半将軍細川政元が師事したことでも有名な、司箭院興仙が魔法を得るお話。なんとも不思議なお話で、そもそも
その蔵の鍵ってどこの蔵の鍵だよ!?と、誰もが突っ込まずに居られないかとw
あと、それ以前に壮絶な修行は在ったのでしょうが、厳島では結局二週間で魔法を得ており、わりとさっくりしています。
そういう部分も含めて、なんだかしらんがすごいなこの人、と感じるのか正しいのかな、なんて思いましたw

2位はこちら!清正の懐剣です!
コメントなどにも有りましたが、昨今では加藤清正は、晩年は豊臣恩顧というより、徳川頼宣の義父という、徳川一門に
連なる立場の方を重視していたと言われます。そしてその上で、徳川と豊臣の融和を図っていた模様です。
大坂の陣の時に「清正や浅野幸長が生きていれば」というような話をする人や書籍は多いのですが、それらは概ね、
「彼らなら秀頼に味方しただろう」というような思いを含ませていますが、個人的には、大坂の陣の頃まで彼らが生きていたら、
豊臣の、徳川への臣従を積極的に勧めたものと考えます。常識的に考えてそれが最もベターなのですから。
彼らが死んだから大坂の陣が起こった、というのは、徳川方に関しては言えないと考えますが、豊臣方に関しては、
大いに言及できると思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!大分名物、だんご汁事始
大分名物にこんな謂れがあるとはwアワビとこねた小麦を間違えるというのは、大いに抜けているようで、おおぶりな人物とも
感じさせ、なんのかんので大友宗麟は愛されているのだなあと実感します。
このだんご汁、僕はまだ食べたことがありませんが、このお話を呼んで、是非食べてみたいと思いました。
そして、今回の地震の九州の被災地、熊本、大分の、一刻も早い復興を、心より願います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

今読んでる本
いろいろ消化中(;´∀`)

道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず

2016年04月26日 19:28

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 05:12:43.08 ID:g3d8honN
摂津国野里村の三右衛門は、農民ではあるが勇を好み勢い強き故にて、一度兵を起こせば
隣邑尽くこれに属した。

片桐且元が大阪を脱出し茨木城に入る時、大阪より摂州堺の政所を攻めると聞いて、
騎歩ニ百ばかりを遣わして政所を救おうとしたが、三右衛門は近隣の郷民を集め、
この且元の軍の大半を討ち捕った。これに且元は歯噛みをして怒ったが力及ばず、
後に大御所(徳川家康)が天下を定めた時に、且元はなお鬱憤解けず、これを訴え
それによって三右衛門を召しこの事を責めた。

三右衛門は且元をキッと睨むと
「貴殿は故太閤の重恩を担い、権を取り威をも逞しくされたのだから、死を以って忠を
尽くされるべきなのに、危難にあたって君を忘れ身を顧みた。これは武臣の本意に非ず!

我らその時は貴殿が敵であるのか味方であるのか、その心中すら計りかね、そのため
貴殿の士卒を討ち捕ったのであり、あながちに罪とするべきではありません。
道に叛くより義を守って滅亡するに敷かず。いま貴殿は、自らを恥じないどころか、
却って人を讒言するとは言語道断である!」

そう、憚ること無く申すと、且元も閉口した。

大御所は三右衛門の言葉を聞くと
「弁才勇義があり、只者ではない。統治において道があれば、彼は良き締りにもなるであろう。」
そういって三右衛門を宥免したという。

(慶元記)



565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 09:55:02.01 ID:Pv/ahYrZ
つ胃薬

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/26(火) 19:20:45.39 ID:Zj1szefR
武士が近隣の郷民に負けることも恥な気がするけど

池田輝政は数百人の牢人を扶助し

2016年04月25日 18:33

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/25(月) 14:05:16.66 ID:uDiaW7d3
池田三左衛門輝政は、その寵臣である若原右京、中村主殿をして、諸国の牢人の中で
武名才気ある者へは常に米穀、あるいは金銀を与えて扶助し、その数は数百人であった。
思う所あってその米穀金銀は出納を通さなかっら。

これは大阪に変が有れば、関東の出馬を待たず、播磨、備後、淡路の兵にこの牢人を加え、
自ら率いて一人でこれに当る事を欲したためであった。それは、彼が関東より殊遇されていたため、
殊忠を致さなければならないと思っていたためである。

この為、彼は自ら婦女への愛や器物への愛玩等の費えを禁じた。
彼は人に常に言っていた

「今日、大国に封じられた者は礼遇にのみ篤く、手足の労を以って仕え難い。それゆえ
私はただ多士を育んで天下の干城にならんと思い、これによって自分の娯楽を抑損して、その財を以って
武備に散ずるのだ。」

実に輝政の如きは忠尽の将と言うべきであろう。
(慶元記)



私は当家の軍神と成り

2016年04月23日 17:42

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/23(土) 09:28:54.86 ID:I0Yl7va5
愛宕山で修行していた司箭院興仙はある時、実家の宍戸家のある安芸国五龍城へ帰ると
兄の宍戸元源に向かって言った

「私は年来の願望成就を得ました。然れば、世間を徘徊して褒貶の唇にかかるのも益無く、
今後は親戚を離れ人倫の交わりを絶って無為の世界に入ろうと考えています。
孝長の道も今日限りです。

これは私が修行中に誓願を込めた物です。」

そう言って、赤地に金の日輪を書いた軍扇に、自筆で梵字を書いたものを取り出した。

「この扇を持って戦場に向かわれれば、弾矢の難はありません。また伏兵夜討ちその他
不意のある時は、扇に必ず奇特が有ります。

勝負は時の運、生死には期があり天命に帰するものであって、この司箭の力及ぶところでは
ありません。ですが、私は当家の軍神と成り矢面に立って守護いたします。

衆を愛し、惻隠辞譲の道を正し、賢を求め耳に逆らう言葉を容れ、義を以って恩を割き、
佞奸を遠ざけ讒言を容れず、衆と苦楽を共にし心と力を尽くせば、戦わずして勝ち、
招かなくても人は来て、国は治まり威凛々として敵も従います。

また、士を侮り己を誇り、諫言を拒み忠賢を遠ざけ恩愛に偏するようでは、巧弁の佞臣たちが募って、
賢愚長幼の序を失い凶災を呼び寄せます。
明神も、一体どちらを擁護するでしょうか?この司箭もそのような災いを祓うことは出来ません。」

そして画像を一枚取り出し
「この両頭の不動は厳島明神の神詔によって私が得た霊仏です、これを、当家の守護仏として
斎戒尊崇を怠ってはいけません。」
このように兄弟は終夜別れを惜しみ語り合った。

翌日、祝屋城に至り、元源の子である深瀬隆兼と対面し、
「今後、再開することもないだろうから、私が多年学んだ兵術の妙理を伝えおく。」と、
兵書を授け密法を伝えた。これは源九郎義経、鬼一法師より伝わる軍記といわれ、また
太郎坊より伝わる剣術は、宍戸・深瀬・末兼の三家の外には伝えることを許さないとした。
その伝法については、新たに斎戒すること7日にして後にこれを伝えた。

また、典川作の刀一腰を隆兼に譲り、その後愛宕山に帰ると、柳を以て自像を刻んだ。
愛宕の瀧川の上に座し、容貌を水鏡に映し刻んだ。厳島にて賜った白羽の扇を負い、その形
山伏の姿で、涼やかに尊聖陀羅尼を梵字にて書いている坐像であった。
今も愛宕山太郎坊の脇に立つ司箭の像がこれである。

何かある時は、この像が変化して、或いは沙門となり或いは女体と成り、或いは衣冠をして
座しているように見えるなど、様々に変化して見える。
愛宕山七不思議という伝説が有り、七つの妙があると言い伝わっているが、この司箭の像の変化も
その一つである。

(宍戸記)



清正の懐剣

2016年04月22日 17:57

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 17:32:58.74 ID:Qlm7sFUg
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が無事に終わり、加藤清正は退出して宿所に帰り寝所に入ると、
肌に隠した短刀を抜き出し、これを暫く眺めてまた鞘に収め、数滴落涙し

「この清正、幸いにも冥加に叶い秀吉公の厚恩を僅かながら報ずることが出来た。
もし、二条城において不慮のことが有れば、御前であるので清正も無腰であるため、
この懐剣を以って働くべしと思っていたが、君も恙無く御帰城され、私もまた今日の安堵を得た。

この短刀は昔、清正が未だ虎之助と言っていた頃、賤ヶ岳の戦いで高名した時、当座の褒美として
秀吉公より下し置かれたものである。
その時秀吉公は、『後日加恩の上は、この短刀は返してもらうぞ。』との上意があったほどの
御秘蔵の名剣であり、だから私はこれを常に肌から離さぬのだ。」

この話は、寛永年中に肥後加藤家の浪人で、庄林隼人の子息である隼之介という者が北条氏長に
語ったものである。

(慶元記)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:13:02.93 ID:roU5wnxq
>>627
この時の短刀と称するものが現存してるよな

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/22(金) 21:43:07.08 ID:g5Jihzey
備州長船祐定と清正拵だな

魔法を得る

2016年04月21日 11:41

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 10:47:01.28 ID:cfXXliyr
宍戸元家の三男・又次郎家俊は、上天文に通じ下地理に明るく、六韜を暗記し鬼神の境に遊び、
是非の外の事について自得した。生来、その利口なこと万人を超え、幼稚の頃より兵法剣術を好み、
学習を通じてその妙を得た。

長ずるに及んで安芸国厳島明神に参拝し、17日間食を絶ち昼夜12度身を水垢離し祈願した。
祈願の内容は、

『家俊幸いに天地五行の徳澤に従いようやく人間の数に入るといえども、何も為すこと出来ず、徒に
国土の食を浪費しているだけである。当社は八大龍王の姫宮であり、生身の妙神と承る。
明神のお力により、家俊は武名を天下に顕し永く秋津島に佳名を残したいと欲する。
所願感応においては、7日のうちに一つの奇瑞を見せ給え!』

五体を地に投げ丹誠を致して既に7日に満ちる日、験兆たちまち現れた。神殿の扉は甚だ鳴動して
蔵の鍵ひとつが家俊のもとに現れた。
家俊はこれを見て激怒し神殿に向かって叫んだ

「私は愚賤といえどもどうして富財を願いましょうか!?富貴は人の好むところといえども、
それは夢のなかの快楽、浮雲のようなものでしかない!この家俊においては能く貧に安んじ
名を成さんとする也。それにこの鍵は何の益があるというのか!?

九万八千の軍神もご照覧あれ!神国に生を受けて今生の誓願虚しくれば、魂魄はどこにいくだろう?
迷い悪鬼と成りこの島にあって参拝の者を悩まし、永く明神の奴となるだろう!」

そして神殿に向かって鍵を投げ、また7日宮籠し暫く睡眠に落ちると、夢のなかにお告げが在った。

『汝の今の誓願に嘘はない。であるが、汝は丙午(ひのえうま)の生まれにて天上の水である。
潤沢の果てある故に、富を以って名を成さしめん為、蔵の鍵を与えたのだ。
天上の水である故に、降気あって昇進無い。その果無き者には神力も及ばぬ。

であるが、汝の信心は私無く、肝を煎り胆府を砕くものであった。よってこの2つの品を与えよう。』

そして白羽の扇一つ。両頭の不動明王の書画一つを与えられた。

『これを持って愛宕山に登り魔法を勤行すれば、必ずその妙を得、天下にその名を顕すであろう。
今、世の君臣は驕慢の気が剛強にして真を失っている。故に、世は既に魔魅に掌握されている。
それ故に正法聖道は煙霧の中の灯火の如きもので、光を上げ難いのだ。』

目が覚めると、夢と同じように2つの品があった。
家俊は奇異の思いをなし、この品を三戴九拝し、「所願成就した」と大いに喜び、神前において
自ら名を「司箭」と改め、そこから直ぐに愛宕山に登り、太郎坊に誓約して難行を勤した。
彼は厳島明神の品から、凡夫の力に非ざる通力を得て、居ながら宇宙の変化を知り、起きては
瞬時に千里を走った。
(宍戸記)

あの細川政元の魔法の師、司箭院興仙が魔法を得るまでのお話。



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 11:28:32.65 ID:LetTt0aP
凡夫なので蔵の中にどれくらいの財宝があったのか気になる
というかどこの蔵の鍵なんだ

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2016年04月20日 17:55

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一栗豊後誕生 25

【ニュース】島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見 23

横町の由来 22
器量の謀り 17

その名は”無限地獄” 16
殿に媚びへつらう者のなかに 11
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は 8

武夫の名を汚すまじ 7
且元の書状 7
是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり 7
平秀吉は薩摩人奴隷であり 5



今週の1位はこちら!一栗豊後誕生です!
しかし一栗さんの理論だと備後守も丹後守もアウトですねw「遅れる」ということに非常に敏感だったということでしょうか。
ある意味この時代の武士らしいともいえます。でも当時の豊後守を名乗っていた人は、わりと猛将タイプが多かった気も
するのですけどねw
何はともあれ、義光の機転で上手く場を収めた、という感の強い逸話です。こういう機転も、大将にとって大切なことなのでしょうね。

2位はこちら!【ニュース】島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見です!
これは当時の島津氏と琉球都の関係を見る中で、興味深いニュースです。
このニュースの背景をより深く知りたい、という方には、前にも紹介しましたが

黒嶋 敏 著 『琉球王国と戦国大名 島津侵入までの半世紀』


こちらをお薦めします!いろいろな印象がガラッと変わると思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!その名は”無限地獄”です!
この宍戸元家、仮名を入れると「宍戸悪四郎元家」であり、その名の通り、そうとうアクの強い猛将です。
またコメントにも有りましたが、彼の末子、司箭院興仙が細川政元に仕えて魔法を教えるなど、子孫も非常に
アクの強い人々がそろっています。そんなアクの強い人のアクの強い逸話、興味深く読ませていただきましたw



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました!いつも本当に有難うございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
( ´ ▽ ` )

【雑談】幸村になっちゃった経緯

2016年04月20日 17:29

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 10:18:28.26 ID:0hzWkX3H
ここまで来ると信繁なのに幸村になっちゃった経緯が知りたいなあ
やっぱ憚かる意図でもあるのかな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 18:59:20.57 ID:WqevE3tP
「幸」の字はともかく「村」の字はなにか由来があるんだろうか
実名に使われることのない字ではないようなんだけど、なんとなく気になる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:32:59.50 ID:9VC/ICMp
>>551
徳川に仇なす「村正」から取った、と以前TVでやってた。

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 19:38:26.76 ID:l9K9toaz
>>552
村正云々は、「幸村」という諱が出てきた難波戦記の成立よりもっと後の時代に出来た話だな。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 22:23:10.92 ID:2jFexQYU
村の字使った名前はこれ以前から見かける気がするが

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 23:49:51.90 ID:dLfZ/8TK
赤松義村、浦上村宗か

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 02:58:45.77 ID:VOlUpwvC
伊達家にもある

大分名物、だんご汁事始

2016年04月20日 17:24

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 11:46:00.47 ID:IUZy39Ty
九州の雄、大友宗麟はアワビの腸が好物で常日ごろから食していたが、
あるとき戦場で食べたいと言い出した。
それを聞いた家臣たちはアワビを探しに出かけたが、
場所はあいにくと山の中、見つかるはずもない。
困った彼らは小麦粉をこねて伸ばし、「アワビです(すっとぼけ)」として出したところ、
たいそう喜ばれたという。
これが大分県の名物、だんご汁の始まりとか(諸説あり

先の地震で由布院のあたりにも被害が出ているようですが、
お前らもだんご汁を買って被災地を応援するがよい。うまいよ。
http://www.rurubu.com/season/special/gourmet/img/gourmetphoto/G00434_1.jpg




609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 12:22:43.13 ID:b/bo/+I+
今日のおやつは、朝鮮飴を食べて応援♪

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:35:49.46 ID:aUHcehPc
>>608
それ宗麟の悪い話な気もするが

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 17:57:55.63 ID:IUZy39Ty
>>610
現代まで伝わる名物を生み出したということで、そこはひとつ…

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:12:34.86 ID:CQRPzq1v
しかし練り物とアワビの肝を間違えるとは
宗麟はかなりのバカ舌なんだな

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:21:49.30 ID:U55pfKwR
宗麟「アワビ大好きっ!」

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:22:08.51 ID:IUZy39Ty
宗麟様の名誉のために別パターンも。

あるとき、宗麟は菊池氏の家臣を居城に迎え宴を行った。
(両者はドンパチやってたような気もするが逸話ではそうなってる)
その日のメインディッシュはアワビの腸だったのだが、
菊池氏の従者の数が想定していたより多く、アワビが足りない。
困った彼らは小麦粉(略
これが大分県の名物(略


615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:50:19.69 ID:ELGMQhwz
ノブはアワビの醤油付けが好きなんだっけ?

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 18:51:43.97 ID:fhHu8Jbn
>>613
人妻のか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 20:46:47.62 ID:aUHcehPc
畠山義続「アワビは若いのに限るのに…」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 21:01:11.45 ID:ELGMQhwz
人によっては小さいモノより大きいモノのほうがいいらしい

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 04:29:16.50 ID:vt3vGCzo
義隆 義隆 盛隆「ふん!アワビなど大した事ないわ!」

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/21(木) 05:27:26.78 ID:QRy/Q4FX
政元「せやな」

器量の謀り

2016年04月19日 17:17

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 14:04:39.99 ID:l9K9toaz
泉州堺は大阪に近隣する繁華の湊であり、関東より柴山小兵衛が政所に置かれていた。

大阪の豊臣勢が片桐且元の茨木城を攻め、幕府と豊臣家との対立が決定的になると、
堺においては『大阪城中では評議が在って、ここに関東の軍勢が滞在できないよう放火すべきであると
決定し、軍勢を差し向けるそうだ。』との風聞が流れ、言葉にも出来ないほどの大混乱と成った。
ある者は財貨雑具を船に積んで四国南海へ逃れようとし、ある者は山林に身を隠し、親を忘れ
子を逆さまに背負った。

このように前代未聞の騒動の中、幕府の代官たる柴山小兵衛は当時眼病を患い、起居すら自由にならない
有様で、豊臣の軍勢を防ぐ事など考えもできなかった。

このような時、ここに阿賀屋正斎という古今不敵の町人が在った。彼は自身で街中を駆けまわり説いた
「女、童、足弱(老人)たちはどこかに避難させ、15歳以上60歳未満の男は一人も散乱してはならない。
今度のことは、私の計らいに任せて頂きたい。

その計らいの内容だが、若年の者と老人とは、当分の間交わりを絶って、敵味方のように振る舞って欲しい。
また、大阪には焔硝千斤を献上し、『堺の町人は残らず大阪の御味方です。』と伝え、放火狼藉を免れるべし。

また京都へ宿老の内二人を上らせ、所司代の板倉殿にこう申し上げよ『大阪より堺を放火して略奪するという
風聞が有り、この凶から免れるため、このように計らいましたが、これは全く御敵対をしようという決断では
ありません。』

こうしておけば後の祟も無いだろう。

また、若者たち二百人ばかりは政所に馳せ参じて、『備えの軍勢ではなかなか防ぐことも出来ないでしょうから、
早々岸和田に御退きあれ。』と提案せよ。今政所の柴山様は眼病でもあるから、必ずこの意見に従うだろう。
また、宿院の荒男(柴山小兵衛の弟である五助の事。この時代官として宿院に在った)が、我らが大阪に
焔硝を献じたことを咎めてきたら、『その事は老人たちの采配であり、我々にはどうにも出来ませんでした。』
と、若者たちはその難を逃れよ。また、大阪から政所の者たちが岸和田に退いたことを咎められた時は、
『若者たちが是非を存ぜずあのようにしてしまいました。そのため私達は、彼らを義絶致しました。』
と言い訳して時間を稼ぐのだ。

そして、天下一統の時は宜しき方に従う迄である。絶対に騒動してはならない。」

堺の人々はこの提案を受け入れ、尽く鎮まった。
豊臣家が滅び天下一統の後、大御所徳川家康はこの話を聞くと、
「器量の謀りである。あの時の状況に適した智謀であった。」そう賞賛し、阿賀屋に褒美を与えた。

(慶元記)



伝に曰く、真田左衛門佐幸村は

2016年04月18日 19:08

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 17:52:09.61 ID:FNLmB20G
伝に曰く、真田左衛門佐幸村は真田安房守昌幸の次男であり、兄は伊豆守信之という関東伺候の
大名である。幸村は父の昌幸とともに石田三成に与し、信州上田城に在った。
関ヶ原の時、将軍家(秀忠)は東山道を上っていたが、その道を塞いだため、将軍家は
五万騎あまりにてこれを攻めたが、幸村父子は八百人で能く防ぎ、終に落城しなかった。
そのため将軍家は伊豆守信之、および森右近大夫(忠政)を以ってこの城の押さえとして置き、
自身は上ったが、これによって関ヶ原の合戦には間に合わなかった。

その後上田城は兵糧が尽きて城を明け渡した。この時将軍家は、大切な合戦に遅れたのは
真田父子の為であるのだから、かの父子を死罪にも仰せ付けたいと思っていた。
しかし大御所(家康)はこう言った

「彼らが当家に敵対することは、既に野州の小山において、信之を義絶し私にも断って
西軍に与したのだ。その様は誠に豪傑の士である。現在、誰が彼らに比肩するだろうか?
また、信之の奉公の労にも代えて、先ずそのままに差し置くべし。
年を経て招けば、また来ることもあるだろう。」

こうして昌幸父子は紀州高野の内、九度山の麓の宿に潜居したが、常に、もし豊臣秀頼と
関東との合戦があれば大阪に与して関東を滅ぼすことを志していた。しかし昌幸は慶長15年に
死去し、それ以後は幸村一人ここに在ったが、この度秀頼より『早々に入城すべし。一方の大将に
付け、利運の上は信州一国を与える』との招きを受け、幸村は畏まって籠城した。

この幸村は良将であった。もし、彼の諫言が用いられ鍛錬調っていたなら、関東にとっても
困難なことになったであろうが、大野渡辺の如き未熟者のために、せっかくの幸村の良策も
遂に皆、徒となったのである。惜しい哉。

(慶元記)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 18:44:21.06 ID:1WhIiklT
>>540
へえー家康がどうしても死罪にしたいって言うのを、忠勝他が身を張って止めた逸話の方が有名だが

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 21:21:30.22 ID:I9wKNc0i
>>541
この話もその話も嘘だよ。
実際は真田昌幸程度だと流罪が妥当。
徳川方の被害もたいしたことなかったし。

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:13:17.31 ID:1x/2qN4b
>>543
悪い話ダナー

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/18(月) 22:22:34.83 ID:noPVwmW4
もう、真田幸村で定着しちゃってるんだな

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 08:11:06.26 ID:/FGASa5h
「幸村」って名前で出てくる時点で話に信憑性がないよね


548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 12:42:49.99 ID:7l9E/FCE
真田昌幸本人も本多正信が動いてくれてるからじき赦免されるだろと軽く考えてるから
流罪で妥当、十分重い刑という認識だからね。ただ赦免は結局かなわなかったが。
そして家康の意向を受けてるあるいは影響を与えられる正信が動いて好感触でも反故って事は
正信-家康ラインの外からの横槍があったと考えられ第一候補は将軍となる
大坂の陣で関ヶ原がトラウマになってる事を窺わせる書状と併せて考えれば
死罪は無いにしても秀忠激おこはあっただろうなとつらつらと

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 13:02:46.52 ID:xIAoJ1OI
天正壬午の乱を思えば初陣さんには無理げー

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/19(火) 15:23:07.70 ID:ImIZUG93
逸話スレ見てると秀忠は賞罰に私情を挟むタイプではない気もするから、横槍を入れるとしたら将軍側近で親子で痛い目に合わされた大久保忠隣の方がありそう。
で、面子を潰された正信の讒言で大久保長安事件が…と妄想してみた。

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 07:05:37.96 ID:DCj7IRhz
>>546
ここは逸話の中身の信ぴょう性なんてどうでもいいスレだよ。
投稿者が自作した逸話はノーサンキューだけど。

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/20(水) 10:48:42.16 ID:9ODF2SZe
>>548
話聞かないけど昌幸って本多正信と交誼でもあったんかね?

殿に媚びへつらう者のなかに

2016年04月17日 12:21

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 22:32:07.65 ID:9mBkuUZ9
殿に媚びへつらう者のなかに、気力が強く悪賢い人間が現れたときは、
殿を騙し、己が出世することばかりに力を使うものだ。
なにをすれば殿が喜ぶかというツボを心得た者は、少々のことでは奸臣だと見破られないものである。
非常に見破りにくいものだからこそ、大賀弥四郎という奸臣は、あの家康公をさえも騙しぬいたのだ。
このような奸臣は新しく召抱えられた成り上がり者に多く出てくる傾向がある。
譜代や高禄の武士には稀であるということである 【葉隠】



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 23:25:23.32 ID:8GBmpV1E
直茂「広橋とか勝屋とかね」

その名は”無限地獄”

2016年04月17日 12:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/17(日) 09:33:58.35 ID:WytbZ4y4
その頃、後藤助三という金物師がいた。生国は都の者であったが、打ち続く京の惣劇に家も貧しくなり、
身を置くのも難しくなったため、縁を頼り中国地方に下り、安芸の吉田・甲立あたりをあちらこちらと巡り、
彼は非常に弁舌が立ったので、古今の事を語って人の気持ちを慰め糊口を得ていた。

その中でも宍戸元家は東国で生まれた人であるので、都あたりの物語珍しく、この助三を常に近くに呼んで
洛中洛外の名所旧跡の事などを訪ね聞いた。

ある夕暮れ、欄干において、残暑も過ぎ涼しい風に元家が半醒半睡となっている所、助三はいつにも増して
熱心に語り、元家の膝近くまで近寄った。

が、ここで元家の左右の手が助三の手足を掴んだ!そして
「汝の今の音声は常成らぬものであった。間違いなく殺意の音があった。汝は虎狼の心を抱くと覚えたぞ!
詳細に白状いたせ!」

そう責め立てると、初めのうちは弁舌を尽くして弁じていたが、百人力、千人力と言われる元家に締め上げられ、
眼も飛び出し骨も砕かれんばかりになると、終に

「この上は有りの儘に申します!この程、北野入道浄真、中山弾正、只菅某に頼まれたのです。

『その方は上方者であり、殊に武道を学ぶ人でもないのだから、いかに宍戸元家が人の表情を悟る人間
だとしても、お前に用心することは無いだろう。そこで隙を伺い、元家を殺せば、紀州において百貫の地を
お前に与え、そのほか望みのままだ。』

そう言われたため、卑賤の身の浅ましさ、君の御恩を忘れ哀れにもこの事を行い、紀州にて報奨の地を得て
故郷に帰り、妻子を安楽に育み、数年の浪々の艱苦を忘れようという嗜欲にほだされ、時を伺っていたところ
今日さいわい、君が御休息されていたので、御睡眠を待っていたのですが、因果不昧の断り免れず、
却ってこのようなことに成りました。

ですが!これらは皆奥家の寵臣たちの陰謀であって、私の野心ではありません!
日頃のお情けに、どうか命だけはお助けください!」

元家、にやりと笑って
「そういう事なら糾明には及ばぬ。汝が望みであるのだから、紀州以上の大国の土地を与えよう。
その名は”無限地獄”。子々孫々にまで与える!入部せよ!」

そう言って左右の手を一つに寄せると、後藤助三の背骨が折れ果てた。彼の懐中には刀が有った、

その後、この刺客を放った北野入道浄真の一族、北野心右衛門、中山弾正が周田五郎によって
討ち果たされ、彼ら一味の残党は或いは逐電し或いは討たれた。その折、城に在った者達は
逃げる道なく倉庫に取り籠もり、内より火を放ち自害して滅んだ。

(宍戸記)



平秀吉は薩摩人奴隷であり

2016年04月16日 17:42

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 21:28:09.91 ID:c1ZmxOEk
そういえば「明史紀事本末」っていう1649年にできた「明史」より前の私撰歴史書があるんだけど
その62巻が「援朝鮮」って朝鮮出兵の巻
それを読むと

平秀吉は薩摩人奴隷であり、魚を売って木の下で寝ていたところ、関白という職業についていた山城国の信長に会い、
弁が立つため「木下人」と名付けられた。信長は彼に田地を与え、20余州を征服した。
信長は参謀の阿奇支に刺殺されたため、吉(秀吉)は信長の兵を収め、阿奇支を誅殺し、遂に関白の位につき、66州をくだした。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1322.html
「明史紀事本末」を参考にして「明史日本伝」は書かれたと思われるのに、そっちではなぜか
「参謀に阿奇支なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。にわかに信長は部下明智に殺される所となり」
と参考にしたはずの「明史紀事本末」よりも記事がおかしくなってしまっている。

清正と行長の不和や、石曼子の強さについても書かれてるから興味あればネットにあるから読んでみるといいかも




596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 09:48:06.45 ID:5nZ12KyB
伊達家と細川家の交流は忠興と政宗から明治初期まで続く腐れ縁。

九州地方のほっこりする話ないの?

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 09:52:54.39 ID:7OMagasJ
光秀が分裂増殖した??

武夫の名を汚すまじ

2016年04月16日 17:41

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/16(土) 17:32:27.72 ID:eKrsW2py
豊臣秀頼家臣の石川伊豆守貞政は、片桐且元の討ち手の役を仰せ付けられていたが、且元と一味して
襲撃に先立って知らせたため、大阪において且元を討ち漏らす事となった。
そのため大阪では

「ならば石川貞政も誅するべし!」

との風聞が頻りであった。貞政は之を聞くと、元来武勇の聞こえある武士であったので、
ある日の暮れ頃に出仕し、大野治長、渡辺糺らを討ち果たさんばかりの勢いで殿中に上がり、
座中を睨み付けて言った

「この貞政、逆意有るに依って誅せられると承り、参上いたした!
誰でも、その命を承った者は貞政の頸を刎ねて上覧に備えるが良い!」

そう大音声を発し、仁王立に立った。
しかしそのような命令は出ておらず、誰も彼に立ち向かって勝負しようという者は居なかった。

貞政は暫く待ったが、大野、渡辺も姿を見せぬので、宿所へ帰り若党一人に薙刀を持たせて
玉造口から泉州堺まで移動した。家来たちは取るものもとりあえず、武具馬具のみを整えて
あとから追いついた。
そこから河内路を経て片桐且元の茨木城に向かい、且元に会ってこう言った

「大野、渡辺らが寄り来たらば、私も貴方とともに籠城してこれを防ぎたい。」

しかし且元は、この提案に肯かなかった

「傍輩と相語らって籠城すればこれは反逆である。私は謗臣たちが寄せくれば、恨みの矢一つを
射てから切腹し、武夫の名を汚すまじと思っている。であれば、あなたが当城に在るのは、
義において外れた所である。
幸いなことに織田常真が京都に居るので、これより直に上京するといい。」

貞政もこれに信服し、それより茨木を出て京都に上り、板倉伊賀守と対面して大阪の有様を語ると、
板倉は

「大阪には、既に御反逆の用意がある中、あなた方はこれを知って京都に逃れられたこと、
両将軍も定めてご満足でしょう。」

そういって屋敷を与え、日々の賄いも申し付けた。こうして織田常真、石川貞政の両名を京に留まらせることが
出来たのは、板倉伊賀守の智謀の深さゆえであった。

(慶元記)



且元の書状

2016年04月15日 18:43

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 17:59:53.48 ID:Qv6X6gsX
大阪冬の陣の直前、片桐且元がその大阪屋敷から退去した時、その屋敷の床の中央に一通の書状が
置かれていたという。それは織田有楽斎宛のものであった。中を見てみると、こう書かれていた

『且元、計らざる災いにかかり、城中を追い出されてしまいました。
私は関東に対して、力を尽くして豊臣家を守ろうとした、その寸忠は全て仇となってしまいましたが、
私は、秀頼公の御身の上が今後もつつがなく渡らせられることを望むばかりです。

今、且元が大阪を退いたことが関東に聞こえれば、定めて御不審を持たれるでしょう。或いは乱の
基とも成るかもしれません。

この上は、外に策もありません。ただ御台所(千姫)を早々に本丸へと引き取ることが肝要です。
夢々ご油断あるべからず。』
しかし、大野治長らは早々にこの策を用いず、終にその意図を外してしまったのである。

御台のことは、難波戦記やその他の書にも、大阪落城の時に坂崎出羽守が盗みとって岡山の御陣へ
お供した、とあるが、その説は否定されるべきものである。

(慶元記)



【ニュース】島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見

2016年04月14日 18:51

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 16:08:34.38 ID:7lW748pB
島津義久から琉球国王の書状、伊予にて発見される。

 島津義久が天正18(1590)年に尚寧に宛てたとみられる書状が、愛媛県伊予市の個人宅で発見された。
 
 豊臣秀吉の関東平定を伝え、祝いの為に上洛するよう促す内容。義久の書状を研究する東京大史料編纂所の黒嶋敏准教授(日本中世史)は「同時期の他の文書で使っている義久の花押と同タイプで、原本と確定できる」と指摘している。

 書状は縦約33センチ、横約45センチの斐紙(ひし)に筆書きで「日本天正拾八年仲秋廿一日 修理大夫義久」と記され、義久の花押と朱印がある。
 宛名は「琉球国王」としてある。

 書類がどのように愛媛に渡ったのかは不明。黒嶋准教授は、明治には書状が愛媛にあったと示す記録が残っているという。史料編纂所に残る記録では「下浮穴郡役所所蔵文書」と紹介。
「下浮穴郡役所」は明治の一時期、現在の松山市森松町に置かれた後で合併し「伊予郡下浮穴郡役所」となった。
 当時、全国各地の史料を収集していた修史局(現・東大史料編纂所)の1888年の記録にも、「下浮穴伊予郡役所」から義久が琉球国王に宛てた書状1通を複製作成のため持ち帰ったことが記されている。
 その後、修史局が編纂した古文書複製本「史微墨宝 第二編」(89年)にも収録され、薩摩藩の兵が1609年の琉球侵攻の際に奪い取り、その後、伊予の人の手に渡ったのかもしれないとの旨の推測も記載されている。
 書状は東京で複製を作成した後に返却されたが、長らく所在不明だった。
 今春、松山大の山内譲教授(日本中世史)、伊予高の柚山俊夫教諭(伊予史談会常任委員)らが書状を確認。写真を黒嶋准教授に送り、鑑定を依頼した。

 黒嶋准教授は「薩摩が琉球侵攻した1609年以前で、島津家当主から琉球王国への書状の原本が残っている例はなかった。今回見つかったのは大きな成果だ」と評価している。

 書状発見を受け、伊予市文化協会と市教委は16日午後2時から、市中央公民館で黒嶋准教授を招き講演会を開く。演題は「琉球王国と豊臣秀吉―『下浮穴郡役所所蔵文書』の歴史的意義とは」。

 http://www.ehime-np.co.jp/news/local/20160413/news20160413231.html
(愛媛新聞ニュース)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:01:52.08 ID:xBj0KzN9
学者さんも史料を研究目的で強奪していくんだろ(´・ω・`)

588 名前:sage[] 投稿日:2016/04/14(木) 12:01:32.74 ID:45ebjxff
 この場合は複製作成後に返却してくれたみたいですけど、悪質な相手だと本物ではなく複製した方を持ち主に返したり、もっと悪質だと借りたまま返さない場合もあるそうですね。

横町の由来

2016年04月14日 18:49

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:08:21.73 ID:DDb6sdaQ
横町の由来

天童合戦で野辺澤信景(延沢満延)を味方に率いれた最上義光はその喜びの余り、山形城下の定期市町の名称である「九日町」の名を満延に上げてしまった

それを知った重臣の氏江尾張のなにがし(氏家守棟)といった者が眉間に皺を寄せ、義光に窺った

守棟「城下には一(日)から十(日)までの数を冠した市町がありましたかな。
嗚呼、誰かが能登殿(満延)にその一つを差し上げられたので、今は歯抜けがありましたか。
ーそれで、欠けた『九日町』の代わりになる様な素晴らしい名前を我が殿は用意なされているのでしょうか?
満月も一つを欠いてはままなりませぬ。
思いつきや勢いで町名を上げたり等という事はまさかありませんよな?」

義光は守棟を宥める様に口を開いた

(´・ω・`)「いくら儂でもノリだけで迂闊な事はそうはしない。九日町の名を満延に与えたのはそれだけ彼を買っての事。
…九日町は七日町の南隣(つまり横)
かつ十日町の北隣(つまり横)
九の字は四(よ)と五(こ・ご)を足した数だから旧九日町の地の町の名には四と五で横町なんてどうだろう!
…なんつって!」

守棟「…」

(´・ω・`)「…(やばい…怒ってる?)」

かい摘まんでますが、本当に横町の由来がこんな鮭様のおやじギャグが発祥とされています

「山形細見」

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:49:01.91 ID:DDb6sdaQ
山形市横町(現山形市民会館付近)
http://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=10558417622106&c=10

●九は四たす五、だから四五町に。語呂が悪いから「横町」

…義光公時代に「九日町」は尾花沢の延沢城にくれたという。町人は、四と五を加えて九日となるので、九の日に市を開きたいので四五町(よご町)にし、語呂が悪いから「横町」というようにしたと語り伝える人も見られた。



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 07:32:45.86 ID:GMsMng5l
家康「安直じゃな」

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 08:00:54.98 ID:9jR94Tq+
ノブ「子供の名前に使わせてもらおう」

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 19:33:28.52 ID:VVpbIm0a
また最上の病気が再発したか

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:18:29.99 ID:1ByHse5H
>>522
せっかく1から10まで揃ってるのに9あげちゃうのかよw
それだけ買ってるってことなのかも知れんが、もらう方も微妙な気が…

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 21:51:26.97 ID:biJM3Xtr
一戸から九戸までのうち四戸は縁起が悪いせいか今はないのに
四日市はいろんなとこにあるな

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 00:49:20.25 ID:aV2luiL4
そもそも町の名前ってあげちゃっていいものだったのか

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/15(金) 11:24:57.02 ID:toTFfKWq
犬ころに娘を差し出す奴だっているしねえ

一栗豊後誕生

2016年04月14日 18:48

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/14(木) 02:30:18.62 ID:DDb6sdaQ
一栗豊後誕生

山形の最上義光は目を掛けた家臣に「光」の字や受領名を与えていた

しかしあるとき市来隆春(一栗高春)といった侍が苦虫を潰した様な顔で義光に尋ね出た

高春「周りに人がいないので殿に直にお聞きしますが、何故に私の受領を豊後守になされたのでしょう?
いくさに後(おく)れ(油断や遅れ)を取る事が多い、もっと精進せよとでもいった意味でもあるのでしょうか?」

義光は高春に即座に返答した

(´・ω・`)「否、そちはなにか思い違いをしておる。そちは兵の道の他に歌や文の道にも長けておる。
豊後はいくさで遅れを取るのが多いといった意味ではなく、文悟(武道だけでなく文才もある一角の人物だよ)といった言葉遊びを含めてのもの。
難しく考えず、受領を授けるだけ気に入ってると考えてほしいんよ」

「山形の昔話」

裸武太之助や鶴ヶ岡・亀ヶ崎のネーミングと連歌の豊かな表現とのギャップとで、鮭様の普段のセンスが正直わからなくなってきた…



是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり

2016年04月13日 15:16

519 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:54:58.69 ID:9iw9dGpA
片桐且元が駿府にて幕府との交渉にあたっていた時、大阪においては、「今回は秀頼公の御使者(且元)
ばかりにて淀様からの御使者が無い」と、前々より関東に下った経験があり物馴れた女中三人を下し、
ご機嫌伺いとして江戸駿府の様子を見てくるようにと、大蔵卿局(大野治長母)、二位局淀殿女中頭)、
正栄尼(渡辺糺母)の3人を八月二十三日に出発させた。八月晦日に駿府に到着すると、この三女は
早速片桐且元と対面し、そこから下向の理由を家康側室・阿茶局へと連絡すると、明日登城すべき旨
申し来たため、三女は喜んで用意した。

九月朔日、八つ時(午後2時頃)三女は徳川家康の御前に召し出された。家康は三女の口上を直に聞き、
「秀頼公夫婦、並びに母儀にも恙無く大慶に思う。」と答えた。
三女は謹んで申し上げた
「今度、鐘銘において韓長老が不調法を行ったため御機嫌宜しからず、供養などまで延期を仰せられた事は、
御母子も殊更困惑されています。」
これに対し、家康
「それは世上の聞こえを憚って一段と申し付けたまでの事であり、苦しからず思っておる。」
こう言う家康は機嫌も常と変わらなかったため、三女は大いに喜んで宿舎に帰り、早速飛脚を以って
大阪へ注進。翌日、江戸へと出発した。

そして江戸への御礼を終え、十一日に再び駿府へと戻り阿茶局と対面して江戸の様子を報告した。
阿茶局は御前より下されたという御菓子を贈りながら言った
「今後はあなた方とも、しばしばこの様にお付き合いできますね。ほんとうに嬉しい。」
「…は?どうしてそのように仰るのですか?」

阿茶局は意外そうに
「ご存知ありませんか?しかじかの事により、淀様が関東に下向なさること、片桐且元が大方お請けして、
品川表にて御屋敷の地までも願いの通りに許可されましたから、おっつけ御下向あるでしょう。
その折にはあなた方もお供として同行されるでしょうから、このように申したのです。

さらに且元は本多正信の縁者に仰せ付けられましたし、尚以ってめでたい事です。」

三女は聞くごとに耳驚き、挨拶もそこそこに暇乞いをして、十二日の早朝、駿府を立ち退いて道を急ぎ
遠州浜松の付近で且元に追いついた。三女は先ず万事を知らぬふりをして申した

「かねて案じていたのと違い、大御所の御機嫌も甚だ宜しく、互いに安堵いたしました。」
且元
「そうではない。関東には様々な思惑があって、今回且元には御難題を仰せ出され、私は甚だ迷惑している。」
三女が強いてその訳を尋ねると、且元は三ヶ条の趣き(豊臣家の大阪からの転封、もしくは秀頼の江戸への参勤、
又は淀殿の江戸への下向)を以ってこれを語った。三女は問うた

「この内何れを関東の意に任せるのでしょうか?」

520 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/04/13(水) 11:56:09.09 ID:9iw9dGpA
且元は胸中に深慮有りといえども、天下の大事であるからここで軽々しく女に語るべきではないと考え、
あえて「これ皆天下の御大切である。であるが御所替にもまた御参勤にも及ばぬよう、淀様が御下向の儀さえ
御得心あれば、事済むものである。各々帰られれば、この段たって申し上げて欲しい。」と申した。

三女は心に思った。『且元は駿府で既にこの事をお請けし、その上本多正信の縁者になったので、万事関東の意に
叶うよう取り計らうのも当然だ。』そう察すると、先ず「尤もの事です」と同意したふりをして、
そこからいよいよ且元の所存を聞き出そうと同道して上った。近江国土山に宿した夜、且元は三女に申した
「私は去る八月大仏供の延期についての交渉で関東に下り、久しく駿河に逗留していたため、今度の駿府の模様を
板倉伊賀守殿に報告すべきことがある。次の機会にしようとすればまた延びのびになってしまうので、ここから
直に京都に立ち寄り用事を済ませて大阪に下る。あなた方は先に大阪に上られよ。」

こうして三女は土山から直に大阪に登り、九月十九日到着。そして関東のあらまし、また且元の方針を
散々に讒言した。
日頃から関係の悪かった且元の事であるから、三女は言葉を揃へ、中でも正栄尼が申したのは、
「仄かに聞いたことによると、淀様を大御所の御台にもなされるとか。将軍の御台所と御連枝の淀様が
左様な儀は人倫の道にあるまじきこと!これも且元が申し勧めているそうです。その証拠に、淀様が
関東へ下ることが決定すれば品川にて御屋敷地を下さると固く約束なされたとのことです。これは
阿茶局が申していました。その上且元は、君にも伺うこと無く本多佐渡守と縁者に成りました。
これは上を蔑ろにする行為です!」

このように言葉巧みに申し上げると、淀殿も甚だ怒り「私は賤しくも織田信長の姪、浅井備前守長政の娘であり
秀吉にまみえたことさえ常々口惜しく思っていたのに、今関東に人質として下される事思いもよらぬ!
その上家康の妻と成るなど、無念の至りである。秀頼、もし私を関東に下すというのなた、生きて恥を
抱えるより、ここで剣に伏せるにしかず!」そう涙を流して訴えた

秀頼も「母を売って何の面目があるだろうか。それは考えもできないことだ。片桐が登城すれば
その実否を正そう」と発言した。

大野治長、渡辺糺といった奸臣たちは、普段から且元を強く憎んでいたため、折を得たと様々に
讒言を構えた。

是れ、大阪が社稷を失うの第一と成れり。

(慶元記)


週間ブログ拍手ランキング【04/07~/13】

2016年04月13日 15:04

04/07~/13のブログ拍手ランキングです!



池田話三連発 28

「清正の言葉然り」 26

池田恒興の若かりし頃のお話 22
片桐且元の「十一ヶ条」 21

【ニュース】「金陀美具足」の修理が完了 19
「恋う人は 沼のかなたよ ぬれぬれて わたるわれをば とがめたもうな」 17
槍中村 13
娘一人に婿三人という事は以下の事である。 13

室賀はそれに納得しない態度を見せたため 8
井伊直政 木俣土佐 8
片桐且元が時々に異見していたため 7



今週の1位はこちら!池田話三連発です!
池田恒興のお話。池田恒興といえば信長の乳母兄弟として、割合順調に出頭していった、というイメージが合っただけに、
このようなトラブルが合ったとは知りませんでした。また、源氏を称する池田氏が平家の蝶の紋を使っていることに、
こんな逸話があったのも初めて知りました。まあ信長が平氏を名乗りだしたのは上洛以後とか言うのはまたゴニョニョw
どれも非常に興味深い逸話でした!

2位はこちら!「清正の言葉然り」です!
二条城での対面の要求に関して、秀頼を説得する加藤清正のお話。対徳川強硬派の大野道犬を圧倒する、清正の
迫力を感じる内容です。
この二条城対面も昨今は研究が進んで、二条城会見で加藤清正や浅野幸長は、俗説のように豊臣恩顧として秀頼に
随伴したのではなく、あくまで婿である紀伊徳川頼宣、尾張徳川義直の介添えとしてこれに出席しているのですね。
つまり俗に、ここで家康が秀頼と豊臣恩顧の強固なつながりを見て脅威を感じた、という話とは真逆の、清正や幸長といった
代表的豊臣恩顧すら、徳川体制の中に組み入れられたことが証明された場であった、というのです。
そう考えると秀頼やその周辺が、これに出席することを嫌がったのもむしろ理解できるかなあ、などと思ったりしました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!片桐且元の「十一ヶ条」です!
徳川家康の、秀頼に対する七ヶ条の糾弾というのは割と有名ですが、之に対しての片桐且元の反論というのは、小説などでも
省略されることが多いですね。ここでは、それが詳細に書かれていますが、感状に流されず冷静に状況を分析しており、
非常に知的な人物であったと想像できます。また秀頼母子の鬱屈や且元の立場の悪化を作り出したのは幕府に責任があると、
言うべきことははっきり言っている部分も目を引きます。
こういう人が排除されざるを得なく成ってしまったことは、袋小路に入ってしまった豊臣家、という感慨を強くさせます。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

今週は積み本をいろいろ消化中!w

片桐且元の「十一ヶ条」

2016年04月12日 16:37

516 名前:1[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:09.37 ID:IoCtMYLU
いわゆる方広寺鐘銘事件への対応で駿府の家康のもとに交渉に赴いた片桐且元は、家康よりの豊臣家への
糾弾に対し、本多正純へ次のように反論した

「今度御前において七ヶ条の仰せを蒙り、甚だ困惑しております。このこと、帰国を許されれば
秀頼公に委細申し上げたく思いますが、ここであなたにお尋ねしたいことが有ります。
問題がなければ、貴殿より大御所様にお聞かせして頂きたい。

一、慶長五年の関ヶ原合戦のあと、大阪の蔵入りを百万石と定められ、秀頼公を外様大名にように
  扱われていることは、御母子が常に憤られていることです。これが一つ。
一、七手組を警備に用いているのはひとえに大阪警護のためであって、専ら秀頼公を敬っているように
  見えますが、その実は却ってそうではなく、関東に対して別心のある者が出た時、それを速やかに
  防ぐためなのです。なので幕府の懸念は我々には理解できません。これが二つ。
一、我々兄弟は執事として大阪に在りますが、諸人はまったく心服しておらず、その職を全うできる
  状況ではありません。先に大仏殿再興に関する奉行をしていた時も、ただ空しく長い月日を
  浪費していただけでした。これらは家臣である私の身ではどうにも出来ることではなく、ただ
  困惑しながら日を送っている有様です。
  今の立場は私に対し、関東のご指図によって俄に仰せ付けられた物ですから、そのせいでも有るでしょう。
  一体私に何の過怠があって、大阪に付けられたのでしょうか!?今はただ、御役御免して頂くことを
  ひとえに願い奉るところです。これが三つ。
一、二代将軍(秀忠)の将軍宣下、ならびに氏の長者の御綸紙が関東に下りましたが、この際大阪には
  一応のお届けもありませんでした。大御所の将軍宣下の際は、秀頼公も未だ弱冠にも至っていません
  でしたから話もわかりますが、秀忠公においては大阪へのお届けの儀も有るべき筈なのに、絶って
  その御沙汰はありませんでした。
  そもそも古今の武将たるもので、この征夷大将軍の職を重要視するのは、一人秀頼公に限ったものでは
  ありません。誠に、枯骨が蘇生した喜びも、この職に勝るものではないでしょう。だからこそ秀頼公は
  これを常に羨み、母君はまた憤っていますが、これもあながち理のないことではありません。
  先日、御前において左近中将様(松平忠吉)が亡くなられた時、そのお悔やみに日にちを得て後に
  平侍を以って御追悼を申し上げたのは失礼であると、ごもっともな仰せが有りました。然るに、
  将軍の宣下があったのに大阪に在る大小名に、皆駿府、江戸への参勤をすべしというお届けが無かったのは、
  何れに用捨があるのでしょうか?これ四つ。
一、太閤殿下が薨去のみぎり、五大老三老五奉行、そのほか列侯牧伯には各々盟約を捧げ、秀頼公15歳に
  成られたら天下の政を知らしむべしとのこと、これ天地にあるもの皆知らぬということありません。
  ですが殊更に虚談を構えて、秀吉公が
  『秀頼公15歳とならば天下の政道を任すべし。但し、もしその器に非ずんば譲ってはならない。
  天下は一人の天下にあらざるなり。』
  そう遺言されたと云々されています。
  はっきり言いますが、秀吉公は堯舜のような君主ではありません!どうして我が子を捨てて他人にこれを
  与えるでしょうか!?このことは最も大切な儀であります。これ五つ。
一、朝鮮人、オランダ人らが来訪の時も、直に皇都へ至りそこから江戸駿府に下って礼をなしました。
  異域からは長らく来朝の事ありませんでしたが、太閤の武威を以って朝鮮人を日本に来訪させることを
  得ました。であるのに先年の来訪の時も大阪へは入りませんでした。また毎年オランダ人が来ていますが、
  大阪に来ることはありません。これらの事、秀頼公の恥辱は日本ばかりか外国までの恥辱です。これも
  母子が常に鬱屈しているところです。これ六つ。
一、この事は砂を噛むような瑣末な事であり、もとより言うに足らぬものですが、四座の猿楽から絵所に至るまで
  皆駿府に呼び寄せられ、大阪には一人も置かれません。これらも御無礼と成るのではありませんか?

517 名前:2[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:36.34 ID:IoCtMYLU
一、先日御前において、秀頼公に対し、福島正則、加藤清正、黒田長政、浅野長晟、加藤嘉明といった
  諸大名が別して御入魂である事は、秀忠公に対して無礼であるとの仰せが有りました。ですが、彼らは
  あなたも御存知の通りみな太閤お取り立ての大名であり、今は数少ない大家です。であれば、禽獣は
  いざしらず、いやしくも人倫たる者は誰が秀吉公の御恩を忘れる者が在るでしょうか?故に
  秀頼公には四季時々の御礼、又は国の産物を差し上げるのです。関東でもし、譜代の輩が突然
  ご奉公を怠ればそれをお許しないでしょう?大阪であってもそれは同じです。太閤の御恩を厚く
  蒙った人々の内、秀頼公に粗略になった者達には、秀頼公も処罰を仰せ付けたいと思っているのですが、
  現在の状況はただ穏便にしようという他なく、時勢を守っているのです。
  この件に関してこの且元の心底には、少しも弁じ難い所はありません。これ八つ。
一、兵具を調え武芸を習っているという指摘は御尤もですが、鎧の毛を抜き、鞍の損じを繕い、
  武具馬を整えて常に武芸を学ぶことは治に乱を忘れざるの所であり、古来良将が常に兵を鍛錬するのも、
  一旦事ある日に即座に備えられるようにしている為です。ただし、徳川の御家には、弓を袋にし
  太刀を鞘に納め、飽煖の安きに居て金革を布くの苦しみ、矢石を侵す危うき等を知らざるを以って
  善とされるのでしょうか?
  軍の勝敗は瞬間の間にあって、治世の政とは異なるものです。だからこそ武芸のことは常に鍛錬しなければ
  ならないのです、であるのに、独り大阪城中の士ばかりは女童の勤めのみを成せばよいのでしょうか?
  これ九つ
一、将軍御父子には、秀頼公に対し御粗略にすることはないと仰せに成りましたが、近年御上洛あっても
  大阪へは御下向の御沙汰これなく、殊に秀頼公と御台所(千姫)との御仲不和の事を、昼夜思召して
  忘れずと仰せに成ったことは、これは御孫姫君の事ですから勿論のことですが、大阪よりは毎年、
  念頭の御礼として七手組の内一人と、淀殿の御使として局一人、姫君の御使として女中一人は必ず
  関東へ下っています。これは御縁者たるの礼儀を重んじているためです。一方、関東からは旗本の士
  一人を登らされますが、女房の御使はかねて沙汰すら聞いたことがありません。姫君がいらっしゃるの
  ですから、これは在るまじきことです。
  また去々年の秋、大阪の河口が、舟入が悪いため川床を浚っていたところ、江戸よりお咎めあれば
  工事半ばにして中止しました。その時、泰平には要害はいらぬという仰せでした。ならば、現在の
  江戸城の御普請は一体何の為なのでしょうか?これ十。
一、江戸城普請の人足には天下に千石夫を仰せ付けられ、また遠近につき五百人夫を仰せ付けられました。
  ところが大阪はそこから除外されました。しかしこれは大阪を敬しているようで、その奥に深い
  意味があります。武威を示す為に諸侯に仰せ付けられるだけでは、太閤の時代に大阪、伏見城を
  築かれたのと変わりません。
  また大阪城では仮に少しの破損があっても、そのままにして差し置いています。これは関東に対しての
  御遠慮なのです。これ十一。」

以上の十一ヶ条の外は末代への規範にも成らず、また豊家の瑕瑾にもならざる事ですから差し控え、
今この条々は現在天下の人の知るところです。しかしこれを直に申し上げるのは甚だ恐れある事ですから、
あなたからお伝え下さい。但しこれは、先に仰せに成られた七ヶ条への、豊臣家としての返答ではありません。
ただ全く、この愚臣が考えたことです。」

518 名前:3[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 23:05:56.35 ID:IoCtMYLU
この発言にさすがの本多正純も且元の識量にとりひしがれたのか、否の問答もなく、暫くして言った
「結局、この議論に関しては太閤の御遺言についてだけが大切であり、その他は枝葉のことです。
しかしその実情を知る人は一人加賀利家でしたが、彼も亡くなってしまった以上、どうにも出来ません。
ただし、天下の政道は人力でどうなるものではありません。必ず天道の能くするところなのです。
天下万民の父母と成り、万機を心に任せる将軍の宣う所は、もとより常人の行いが及ぶべくもありません。
神明とても知るや知らずや、ただ天道の自然と存ずる所です。

その器に非ざるにして天下の政道を取ろうとすれば、どうして終始を全うできるでしょうか?
秀頼公を始め、その他の諸臣もここに気づいて頂ければ、却って幸甚です。
昔秀吉公の、岐阜中納言(織田秀信)へのなされ方をみれば、秀吉公はよくその事を知る人物であったと
存ぜられますが、こういった事は総じて容易のことではなく、私の判断の及ぶべきものではありません。
今、貴殿の申された十一ヶ条は詳細に大御所に言上いたします。そうすれば必ず、近いうちに
召しだされるでしょう。その時は御前において、貴方からさらに詳しく申し上げるべきです。」

こう伝えて正純は帰っていった。
(慶元記)

大坂の陣の前、徳川との交渉での、片桐且元による反論についての記事である。



槍中村

2016年04月11日 18:03

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 16:11:56.56 ID:IoCtMYLU
松永久秀が三好三人衆との戦いで南都多聞城に籠城した時、三人衆は三好日向守、岩成主税介を大将として
大仏殿に陣取っていたが、松永はここを夜討ちし、槍中村と呼ばれた中村新兵衛を討ち取って、大仏殿を
焼いたが、これは松永久秀が切腹したのと同じ10月10日であったという、不思議な事である。

所でこの中村新兵衛とは、当時隠れなき勇士であり、三好の一党が四国より攻め上がって、京都畿内での
合戦で、毎回のように先駆け殿の働きをし、寡を以って多に勝ち、万死一生を出ること多く、
槍中村と異名された。

後に三好一党が彼を大将に選出した時、固く誇示したがかなわず、大仏焼き討ちの時には大将の号を
得ていた。

彼は松永の攻撃から逃げようと思えば逃げることが出来た。しかし

「私を選んでくれたことに応じなければ、生きた印がない」

そう言って義名を清めて討ち死にした。その姿は誠に剛死と呼ぶべきである。

(甫庵信長記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 17:36:29.39 ID:6nxEBH5I
東大寺を本陣とした三好と東大寺に夜襲した松永、どちらが卑怯だろう
生き残るために悪名を取った松永は偉いと思う

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:13:44.25 ID:EBCmPijS
中村新兵衛ってどっかで聞いたなと思ったら
菊池寛の小説に出てくるやつか

自分の鎧だか陣羽織を貸してやった若武者が
新兵衛のネームバリューにビビった敵相手に無双して
普段と違う出で立ちの新兵衛は相手も気後れせず立ち向かってきて討ち取られるってやつ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/11(月) 21:48:53.58 ID:6VygWZv8
「形」の元ネタ話なら数年前に出てた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-805.html

池田話三連発

2016年04月10日 10:04

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 00:04:29.42 ID:bPmoY5Ei
昨日になってしまったけど今日は小牧長久手戦の日ということで恒興の話に便乗して
池田話を三連発で。
(悪い話かなと思う微妙なのもあるけどそこは恒興の命日に免じて許してくだされ)

その壱
恒興が10才になった頃信長の遊び相手として信長に仕えることになった。
その頃、母養徳院は吉法師の麻上下(肩衣と袴と思われる)を拝領しており恒興が
仕えるにあたり信秀と謁見することになった時にこの上下を着用させた。
信秀はその恒興を見てその上下がとても似合っていると言ったという。
この上下には織田家の紋である蝶紋が入っていたが池田家でも代々蝶の紋を用いることを
この時に許されたそうな。

(池田勝入斎信輝公少伝)

その弐
恒興が13歳の時、同列の小姓と口論となった。
この小姓は信長のお気に入りでもあったが恒興が父無し子であったことを
普段からバカにしておりこれを元になじることも度々あったという。
(多分この日の口論もそれ絡みであったと思われるが)恒興は無念に感じながらも
信長の屋形でのことだったので憤りを押し込めその場を去った。
しかし憤りが収まらない恒興はこの小姓を待ち伏せし帰宅途中であったところを
バッサリと造作もなく斬り倒してしまった。
その場に居合わせた小姓の仲間達は一斉に刀を抜くと恒興に斬りかかったという。
近くにいたのか運良く森寺がこの騒然の場に来て恒興に斬りかかる者達を次々と
斬るなどして追い払うと恒興を連れ出奔してしまった。
信長は怒りまくったが帰参を許されるまでの間、森寺は信長の気性を知っていたためか
恒興を故郷の伊勢で匿っていたのだという。

(同少伝及び信長の逸話関連あれこれ等を加味)


その参
輝政は年をまたいで産まれたが生年決定で論議になった。
産気づいたのは子年だが産まれ落ちたのは丑年、さてどうするかといった具合である。
最終的に産土神である中村八幡宮に占って貰うことになり出た結果は子年であった。
そのため、輝政は以降子年生まれとされたという。

(同少伝)

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/10(日) 01:12:10.50 ID:bPmoY5Ei
>580の補足を少し

その壱関連
池田履略で光政によると池田の家紋は蝶以前は釘貫だったらしい。
恒興戦死時に着用していた柿色の布が残っていたらしくそれには釘貫と丸貫の違い紋が
入っていたそうだ。
この布の所在地も書いてあったけど今もあるかはわからん。

その参関連
輝政の出生地、通説では清洲なんだが(池田履略も清洲)こっちでは小牧となっていて
当時の池田の館は小牧山山中にあったとされている。
館跡があるらしくここが輝政の出生地らしい。

その弐関連
こっちにも鉢巻話は載っていた。
戦も年代も違っていたりこの弐とつながっている感じではあるんだけど、具足を
用意しようにも金がないから養徳院に助けを求め彼女が集めた綾といった上質の布や
彼女の持ち物である鏡の類まで森寺は売って金を工面して古具足を調達したが兜はなく
鉢巻で戦に出たと大筋は合致していた。
だからどちらにしても若い頃の恒興が苦労したというのは間違いないなさそうかな。


小牧の日に恒興や池田家についての史料をじっくり見ることになったのも何かの縁だろうけど
個人的に楽しかった。
こういう縁を結んでくれたこのスレや鉢巻話レスに感謝!