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「そうか。ならばそっちを巡視しよう。」

2016年05月17日 18:37

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/17(火) 17:54:36.19 ID:alOWNQJz
大阪冬の陣、大御所徳川家康は仙波より順々に諸陣を巡視した。これに伊達陸奥守政宗、
藤堂和泉守高虎らが付き従った。諸将は且つ迎え且つ見送った。
石川主殿頭(忠総)の陣所を過ぎる時は、ここの家臣たちが三河以来知る者多かったため、
皆に言葉をかけた。馬喰が淵、阿波座、土佐座を乗っ取り、殊に高麗橋の戦功を賞賛し、
尚も巡視を続けていると、大阪城の兵たちが家康に気が付き、この一行に向かって
鉄砲を雨のように撃ってきた。

この事態に家康の馬廻りも散り乱れ、御家人衆は御馬の七寸(轡)に取り付いて
「あまりに鉄砲厳しく、御勿体なし!」と申し上げた。

家康は最初、これに返事すらしなかったが、人々が強いて諌めてくるのを聞くと

「運は天にあり!」

そう言ってさらに城の近くに進み、詳細に城の様子を観察し始めた。
この時、横田甚右衛門(尹松)が進み出た。

「ああ、いつもこの殿はこんな鉄砲激しい場所が好きですな。ならばそこを退き候へ」

そして家康の馬の周りにいた近習の面々を追い払い

「ここよりも西船場表(一説に信貴野)のほうが大変です。城中より大鉄砲を揃えて
激しく攻撃されているために、御味方は陣を成しかねぬ有様であると聞きました。
どうか、急ぎ御上覧あれかし。」

そう言って御馬の鼻先を西に向けると

「そうか。ならばそっちを巡視しよう。」

こうして家康は西船場方面へと馬を進めた。ところが西船場は城中より程遠く矢弾が全く来ない場所であった。
横田は武功有る故に、こうして鉄砲の急難から家康を逃したのである。

(新東鑑)



織部事件

2016年05月16日 15:30

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/15(日) 23:38:21.49 ID:g0H9Yewj
大阪夏の陣が始まろうっとしていた慶長20年(1615)4月28日の昼、京都一条岩神に住む町人の
岡村喜左衛門という具足師が二条の京都所司代へと参り、

「神泉苑の傍に、怪しき者十余人が隠れています。」

との情報を板倉勝重に伝えた。これにより板倉は雑色を先に立て、与力10騎、同心20人を派遣し、
16人ほどを捕縛した。

板倉が彼らを糾明すると、その賊の中の一人で、年寄りの者が白状した。

「我々は、将軍が28日に御出陣と承りました。その時洛中に火を放つべきことを大野と約を定め、
私は十余人ほどを引き連れ京に潜伏しましたが、未だに御出陣の沙汰無く、このため仲間たちは皆々
落ち失せ、今はこの16人だけとなってしまいました。
ここ一両日は食に飢労し、体力も無くなっていたため、動くことも出来ずこのようにやみやみと
縄に懸かってしまったのです。
哀れと思し召され、御慈悲を以って、どうか生命をお助けください。」

これを聞いて板倉は
「下臈の事であるかあら、有体を申すにおいては上に伺い命を助けよう。
しかし、ここ一両日飢えていたというのはよく解らない。なにか買い求めて食おうとしなかったのか?」

「いかにも、代物があれば買い調えたでしょう。しかし一銭の貯えもなかったのです。」

「それは不審な事だ。このような大事を思い立つ者が、どうして用意をしていないのか?」

賊、重ねて言った
「我々も最初は、二十日あまりの計画を立て金銀を用意していましたが、
古田織部正の茶道である宗喜と友人でありますので、彼と合図を定め、城中に狼煙を上げるのを見れば
所々に火をかけると約束し、一両日分だけの糧を貯え置いたのです。
残りの者達は皆、古田織部正に従いました。」

この言葉に板倉は驚愕した
「お前は宗喜と何の由縁があるのか!?」

「博奕の友です。」

「博奕で、初めて出会ったのか?」

「いいえ、十年来の友人です。」

板倉は彼から篤と証言を聞いたうえで宗喜を捕え、双方を監禁し、この旨を言上した。
これによって古田織部正も、その後切腹を仰せ付けられたという。

(新東鑑)



閻魔状

2016年05月16日 15:30

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 04:46:55.42 ID:/09Z0TN3
慶長3年、上杉景勝が会津へ移ることになる折、横田式部という者が召使いの茶坊主を斬罪にした。
そもそも誤りのないことだったので、坊主の親類が大勢決起し、国改めに京都より、前田玄以
石田三成が下向した。親類らはこの両人へと訴えた。

これに玄以と三成は「その事は直江の方へ申せ」と指図したので、訴訟人らは直江兼続のところへ
詰め掛けた。兼続は対面し、「皆々の申し分はもっともである。それならば、主人の横田式部に、
詫び言のために銀50枚を出させるので堪忍せよ」と、仲裁した。

だが、訴訟人たちはますます怒って帰り、再び玄以と三成に訴えたが取り合ってもらえなかった。
そこでまた兼続のところへ詰め掛けると、兼続は「それならば銀70枚を出させよう」と仲裁した。

しかし、訴訟人たちは、「70枚でも700枚でも、死んだ人が帰るであろうか。とても道理に合わぬ
ことを御申しになる!」と、難癖を付けた。すると兼続は札を1枚取り寄せ、一筆書いてじかに持って
出ると、「訴訟人たちのうち、張本人は幾人いるのか?」と、尋ねた。

これに、「その坊主の兄と伯父がこれに」と、両人が出て来ると、兼続は「何と仲裁しても汝らどもは
承知しない。とかくこの上は、かの坊主を再び今生へ呼び還さなくては、汝らの心には叶うまい。
さりながら、誰も呼びに遣わす使いがおらぬので、その者の兄と伯父と2人で迎えに遣わすとする。
この高札を持って早々に地獄へ参り、閻魔主にこれを見せて、かの坊主を召し連れて帰るがよい。
すなわち、その文を聞け」と言い、高札を読んだ。

 『いまだ御目にかかってはおりませんが、一筆申し入れます。さて、横田式部の召使いの
 茶道坊主を親類どもが呼び戻し申したいと達て申しますので、こうして親類2人を迎えに
 寄越し申しました。きっと御返進してくださいませ。恐々謹言。

  二月十日     直江山城守兼続

  閻魔大主殿 参』

以上の書付を読み聞かせると、兼続はかの張本人2人をその場で斬罪にし、その高札を前に立てて、
2人の首を獄門にかけた。そのため、徒党は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、国中強訴は1人も
なく、静謐と相成った。

――『北越太平記』

関連
直江兼続と閻魔大王への手紙・悪い話


629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/16(月) 12:11:11.17 ID:O2Ebagvq
>>627
村上さんで脳内再生された。

御軍旗由来

2016年05月15日 17:47

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/15(日) 14:31:14.63 ID:g0H9Yewj
御軍旗由来

『厭離穢土欣求浄土』の旗については、永禄五年の秋、三河の一向宗寺院である
佐々木上宮寺、針崎正満寺、野寺本称寺が一揆を起こした事に由来する(三河一向一揆)

この時、徳川家譜代の面々から大勢が、宗門のために数代の主君を捨て一気に与し、
徳川家康に対し弓を引いた。
これは同七年九月に至るまで合戦止むこと無く、また三河国内の親今川勢力も
一向宗に一味したため、徳川の軍おおいに危うかった。

そこでこの時徳川家康は、菩提寺である三河浄土宗大樹寺の住職である登誉上人
加勢の事を頼んだ。上人は承諾し、浄土宗の各寺院に触れまわると、
檀那の中の武士たるものは申すに及ばず、百姓町人等に至るまで馳せ集まり、
総勢千余人に及んだ。

この時登誉上人は、徳川家の旗に自筆で、「厭離穢土欣求浄土」と書いた。
この旗を真先に押立て、徳川勢は一揆の中に攻め入り、死を軽んじて戦ったため、
一向宗は敗北し家康の勝利となった。

この文は、生を軽んじて、死を幸いとする事を示している。
これははじめ、一向一揆の時に、上宮寺の住持や檀那の輩が、兜の真ん中に

『進足極楽浄土 退足無限地獄』

と書いていた事で、これに対抗する浄土宗の者達は、この「厭離穢土欣求浄土」を書いて
死を勧めたのだという。

(新東鑑)




豊太閤の御木像

2016年05月14日 08:29

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:09:50.26 ID:WXNRv0gj
この年(慶長16年)、御城中(弘前城)北の郭に御建神を御勧請遊ばされた。御建神の
御神体は豊太閤の御木像である。はじめ為信公が御殿中で御祭り遊ばされたのであるが、
このたび、(津軽信枚が)一社御建立遊ばされた。

――『小山内氏古文書』

慶長十六辛亥年御城内ニ御館神堂社御勧請豊太閤ノ木像

去る28日、黒田豊国会長(長成)は金子・金山両氏を従えて、本所大手町にある津軽邸
に至り、金子氏が先般、東北地方巡回中に取り調べられた結果、豊太閤の木像が古来
津軽家に御建神と称して祭祀され、今日現に本所の邸内に稲荷として安置してある事実を
発見したのをもって、同家の許諾を得てこれを参観せられた。

この木像は太閤の存生中に刻まれた3体のうちの1つで、1つは大坂城に安置してあり、
同城とともに焼失し、1つは阿弥陀ヶ峰に安置し、のち日光に合祀となる。

今津軽家にあるものはすなわち石田三成に賜ったもので、その形は極めて小さいけれども、
一見あたかも生きているかのように自ら威望を備え、千古の大豪傑たる風采を観るに足る
名作であるという。

その由緒など大いに歴史家の参考に資すべきもの少なからざれば、近日詳細の取り調べを
世に公になされるとのことである。

――『青森県史(明治三十年十月三十日 日本新聞)』



720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:47:24.25 ID:xQ4W6Xyn
これの事だな

http://news.infoseek.co.jp/article/serai_47201/


721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:49:26.32 ID:sTcOIiXM
秀吉、なのか

722 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/14(土) 13:38:19.69 ID:SdKSqZae
下がり藤の家紋に加えて、冠が唐冠なのが決め手。
秀吉は唐冠を好んだ。
他の武将の肖像画と比較すると分かりやすい。


長宗我部家督のこと

2016年05月14日 08:27

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 20:46:22.05 ID:SNQmTQv8
ある記録によると、豊臣秀吉在世の頃、長宗我部元親は京より帰国し、一門衆・家老を集めて言った

「嫡子孫三郎(信親)が討ち死にしてから、未だ家督をだれに継がせるべきか定めていなかった。
しかし私も高齢となったので、信親の娘を右衛門太郎(盛親)に嫁がせ、彼を家督に立てようと考えているが、
お前たちはどう思うか?」

一座の人々は盛親が不肖であることを知っていたが、あえて返答する者はいなかった。
しかし、元親の婿である吉良親実が進み出て

「信親様のご息女を右衛門太郎殿の奥方として、跡継ぎとされるというのは、御嫡子の筋目が立つに
似たりと雖も、三男の津野孫次郎(親忠)殿は既に秀吉公にも見知り置かれ、御器量も優れておりますから、
津野氏の家を誰か別の者に御相続おおせ付けられ、孫次郎殿を御家督に立てられるのが宜しいと
考えます。」

しかし元親はこれを聞くやいなや
「いやいや、盛親を家督に立てるのが道の正しきに叶い、即ち家長久の基となるのだ!」
そう、いかにも不機嫌そうに反論した。

それでも親実は重ねて
「私は両者何れにも親疎があるわけではありません。私がこの様に申し上げるのは、国家静謐の基を
固く定めたく思っているからです!」

家老の比江山掃部助親興も最前よりこの座に在って控えていたが、進み出て
「只今、吉良氏の仰せられたことは、誰かのためというような依怙の沙汰ではありません。
御家繁盛、子孫長久を祈る良策であります。ですので、是非ともご了承なさるべきです!」

だが、元親は怒りの顔色にて、一言も発せず座を立ち奥へと入り、その日の談合は終わった。

しかし佞臣たちが元親の傍にあり、親実、親興の両人の事を様々に讒言したことで、終に
天正16年10月14日、比江山親興に切腹申し付けられた。吉良親実もこれを聞き、同じく
切腹したと言う。
以後は誰一人元親を諌める者無く、思いのままに盛親を家督に立てた。

(新東鑑)



622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 02:19:35.34 ID:MAGd5jI6
一方武田では…

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 07:51:32.09 ID:Qzbcp+k7
叔姪婚には特に反対はしないんだ

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 08:07:45.90 ID:lMYQd5Fe
兄貴たちが死んでしまった表裏さんみたいに、一度別家に入った人間が家督を継ぐのは異例だと思うんだけど、盛親ってそんなに評判良くなかったのかな

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/14(土) 09:12:04.97 ID:b93BGPM7
改易されてしまった人を良いように書くわけにはいかんだろ

皆女子ばかりの中ゆえに

2016年05月13日 18:05

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 21:02:23.66 ID:L75+RdWl
殊に清正の内室(清浄院)は徳川家に旧縁の女性なので、ひとしお御懇ろであった。
その女性の腹に男女2人が生まれた。

しかしながら、清正は奥方へ入っても刀を放さず、膝元へ引き付けて置いた。
ある時、五条の局という老女が申して、

「表方におられる時はいかにもそうでありましょうが、奥方へお入りの折は
女子ばかりの中ですから、そんなにも御用心には及びませんでしょうに」

と、言った。すると、清正はにっこりとして、

「女子の知ることではあらざれど、不審に思うのならば申し聞かせよう。表方では、
余の一命に代わる家士たちが昼夜怠りなく詰めているので、たとえ無刀でいても
気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

と、言ったのであった。

――『明良洪範続編』




717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 22:11:29.24 ID:8K076fGS
>>716
>気遣いはない。しかし奥方では皆女子ばかりの中ゆえ、厳重に用心するものなのだ」

平八郎「女の方がいざとなったら度胸が据わっているぞ」

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 00:17:45.68 ID:DwDDtGoI
そりゃあんたの娘があんなだし

と思ってたら黒田基樹「真田信之」p37に
「いわゆる「犬伏の別れ」であるが、正しくは「天明の別れ」というべきものといえる。
ちなみに昌幸はその帰路の途中、信之の本拠沼田城に立ち寄ろうとしたところ、
信之妻小松殿の対応で追い払われたという有名なエピソードがあるが、これも事実ではない。
小松殿はこの時、大坂で大谷に保護されて不在であったのである。」
と書かれてた
大谷吉継が保護した信之の「妻子」が小松殿でない可能性もあるけど

上州犬伏にて

2016年05月13日 18:04

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 20:36:13.50 ID:lpkqYaEd
真田左衛門佐幸村(信繁、または信仍と有る)は、信州上田城主、安房守昌幸の次男である。
去る慶長5年、上杉景勝反逆の故に、徳川家康は上杉攻めとして、諸大名を召しつれ伏見を発向し、
関東に下向したことにより、真田昌幸、嫡男伊豆守信幸、次男左衛門佐幸村も、上州犬伏まで
打ち出た所、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉継両人より、昌幸に書状が届いた。
その内容は、

『今度天下の御為に大老奉行相談し、内府(家康)を滅ぼすこととなった。真田父子も同意あって、
会津への出陣を止められよ。』
というものであった。昌幸は伊豆守、左衛門佐が先陣に在ったのを呼び返して言った

「たった今、石田、大谷より申してきた内容を見るに、上杉景勝が幼君に対し逆心の無いことは
明らかだ。この上は内府を敵とし、ここより引き返すべし。お前たちはどう思うか?」

伊豆守は答えた
「仰せ、誠に至極です。今回内府に従うのは、世上の批判も大きいでしょう。その上父上は石田治部と
御縁者(ある説によると、真田昌幸と石田三成は、ともに宇多下野守(頼忠)の婿であるとされる)です。
また左衛門佐は大谷刑部の婿であり、上方に筋目が有るのですから、先ずは御領内に帰って御思慮
あるべきでしょう。

しかし私は内府と御懇意であり、ことに本多中務(忠勝)と縁者のよしみがあり、お許しいただけるなら
徳川家の旗下に属したいと思います。そしてその上で、なお志す所があります。
もし、上方の軍が敗れ、城々に籠もった者達まで内府によって罰せられた場合、私が父と弟の罪を
謝し、如何にもして危難を救い、それのみならず、真田の氏族が断絶しないように私は計ります。」

これを聞くやいなや、左衛門佐は言った
「憚りながら兄上に、私がご意見申し上げます。
内府がどれだけ懇切だったとしても、それは太閤の御恩に及ぶものではありません。
また本多中務と縁者のよしみがあっても、それは私的な関係であり、公儀の事ではありません。
また、上方の軍が敗れたと時は父上と私の身命の危うきを救って下さるとのことですが、
おおよそ戦場に臨みて功なき時は、将より士卒に至るまで、必ず戦死する事となります。
然らば、父上と私が存命かどうかも計り難い。

それに御苗字のために内府に属すると言われるのも、あまりに難しい御思案です。
秀頼公のために一家尽く滅んでも、ご先祖への不孝とはならないでしょう。

事新しい儀ではありますが、天正年中に父上と内府が不和となった時、一旦は当家の武功によって
徳川家の軍勢を切り崩しました。しかし徳川、北条が手を結び、重ねて大軍によって攻められれば、
籠城も危うい状況であったのに、太閤の御下知によって和談と成りました。この時は上杉も、
越後より後詰を出されました。これらは浅からぬ恩義ではないのでしょうか!?

それ以降豊臣家の旗下に属すること十余年です。これで君恩を忘れ、景勝殿の志を捨て、
内府の味方をするというのは、人たる道ではありません!
兄上は御若年より器量も人に優れ、戦功も立てられた、一廉の御用に立たれる人なのに、
それがむざむざと敵になる事、残念至極です!」

これに信幸は大いに立腹し
「父上に先立って無用のことを言うのみならず、内府の旗下に属する者は人たる道に非ずなどと、
妄に私を軽んじ讒るとは!今一言を出すにおいては、即時に討って捨てる!」
そう太刀の柄に手をかけると、左衛門佐は少しも動ぜず返答した

「私は豊臣家のために死のうと思っている生命なのですから、ここにて御手にかけられる事、
御免あるべし。」

ここで昌幸が間に入り二人を制して
「伊豆守が言うことを考えたが、一応その理無きにしも非ずだ。秀頼公の御大事も、今回に
限ったことではあるまい。ただ自分の望みに従って、内府の味方をせよ。」

そう打ち解けて、免した。こうして伊豆守はここから徳川秀忠の手に属し、安房守・左衛門佐と
別れたのである。
(新東鑑)




今川氏真の楽市令

2016年05月13日 18:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 14:31:29.91 ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 15:25:50.57 ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 16:46:25.06 ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね

いわんや平相国の公達であれば

2016年05月12日 14:40

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 23:31:39.23 ID:RZRieaSv
知恩院と墨谷源空寺とに、平重衡が所持していたという松陰の硯という什物が、それぞれに相伝されていた。
その硯は自然と潤いのある希代の名物であると、それぞれ自寺のものを誇り、終に両寺は真偽を争い、
京都所司代へと訴え出た。

ここで板倉周防守(重宗)はこのように審判した
「両寺の僧衆はつくづく世事に疎いと見える。例えば私如き者ですら、硯をいくつも所持しているのだ。
いわんや平相国の公達であれば、松陰の硯を二面も持っているだろう。どちらもそれぞれの寺の重宝である。」

(新東鑑)



715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/12(木) 01:59:32.61 ID:kan8FPUc
良い裁きだと思うけど、それ以前に寺院の見栄に煩わされる所司代の仕事は面倒だなー

「しずのおだまき」

2016年05月12日 14:37

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/12(木) 14:21:46.75 ID:2HZR3jHL
薩摩には「しずのおだまき」と題名のある本が2冊あり、そのうちの一冊は「賤のおだまき」
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次(槍の達人)と、文武両道に秀でた吉田大蔵清家
(清盛ともいう、弓の名手)の男同士の愛の契りの物語である。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4(1599)年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が島津忠恒に伏見で上意討ちにされたため、
幸侃の嫡男忠真は都城を中心とする庄内12城にこもって反旗をひるがえした。庄内の乱である。
三五郎と清家はともに12城のひとつ、大隅財部城を攻める軍勢に加わった。出陣した2人は帖佐のあたりで辻堂のそばを通りかかり、
その柱に「共に庄内一戦旅(いちせんりょ)に赴く」と筆で書き、ともに千に一つも生きて帰らじと誓った。
庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂(現在は醫師神社(いしじんじゃ))に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。
そこへ遅れて平田三五郎と吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れた。しかしすでに堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く
吉田大蔵に抱えられ、堂の高い所に辞世の句を残した。
平田「書置くも 形見となるや 筆の跡 吾れは何処の 土となるらん」
吉田「命あれば 又も来てみん 門倉の 薬師の堂の 軒の下露」
 財部で2人は一緒に戦っていたが、ある日、乱戦のなかで離れ離れになってしまい、三五郎は清家の討ち死にを知らされる。
清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙(ひま)なふ(なく)して後れしこと無念なれ、今生の対面是迄なり」
と告げると、馬にひらりと打ち乗り、敵陣に駆け入って古井(こい)原で討ち死にした。三五郎は清家との愛に殉じたのである。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。「本藩人物誌」は三五郎を
「時に十五歳にて卯花威(うのはなおどし)の鎧を着せると云々」、清家についても「慶長四年庄内乱ノ時於財部戦死二十八歳」と、
それぞれ記している。また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には、11月28日条に清家と三五郎の名前が並んで出ていることから、
2人は同日に亡くなったことがわかる。
2人の討ち死には島津方の間で静かな感動を呼んだらしい。歌詠みとしても知られる新納忠元も庄内合戦に出陣したが、
三五郎の死を聞いて「かれは無双の美童なり」と哀傷し、一首を手向けている(「盛香集」)。
「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかゝる黒かみ」
(昨日まで誰かの手枕の上で乱れていた黒髪が、いまは荒れ果てた陣所に(遺髪として)かけられていることよ)−という大意だろうか。
 忠元が詠んだように、薩摩武士にとって衆道は不道徳なものではなく、士道の精華として称揚された面もあった。
その理想像こそ三五郎であり、二才たちの間で三五郎に仮託される形で遺風が伝わったのかもしれない。 
(さつま人国誌、薩摩琵琶歌の形見の桜など)

「賤のおだまき」は森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場しております。
「賤のおだまき」が明治17、8年に「美本仕立て」で出版されたが発禁になったことがその当時の新聞に書かれています



17歳で将となったのは

2016年05月11日 17:59

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:15:36.90 ID:RZRieaSv
尾州長久手の戦の時、成瀬隼人正は17歳であったが、敵陣に乗り込んで兜首を取り、
徳川家康の御覧に入れると

「汝は勇士である。今、旗本の兵が少ない。先ずこれを守れ」

そう命ぜられたため、本陣の先にて息をついていた所、先手が苦戦しているのを見て
駆け出そうとした。

ところが馬取が馬の轡を捉えて

「あなたは既に功名を遂げられました!それなのに再び敵の中に入り生命を亡ぼして、
一体何の益が有るというのですか!?」

成瀬は激怒し馬取を罵ったが、それでも手を離さぬため、刀を抜いて峰打ちし

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、さらに逃げるの
を追い詰めた後に止めるべきものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みられようか!?」

そう怒鳴りながら峰打ちしても、なお手を離さない。

この時徳川家康は30間ばかり(およそ50メートル)隔てて戦況を見ていたが、
ここで声を発した

「味方は持ちこたえられない様子である!壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

この時、馬取は手を離した。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を得て、東西を駆け巡り叫んだ

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!なのに黒くも逃げ走り、なんの面目あって
今後人に見えるのか!?」

こう見方を辱めると、引き色だった者も踏み止まり、進む者はなお勇んだ。

そして成瀬隼人はこの年の暮れ、家康から「成瀬の長久手での働きは軍功の士にも恥ずべからず。
誠に感じ入った。」と根来衆50人を預けられ、将の一人となった。
徳川家において、17歳で将となったのは、成瀬隼人一人だけであったという。

(新東鑑)



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:31:57.70 ID:vojZxJwv
轡取りの行く末が気になる…

週間ブログ拍手ランキング【05/05~/11】

2016年05月11日 17:54

05/05~/11のブログ拍手ランキングです


わが一生は清正に騙されたのだ 22
うまくこの戦争が終わったら 22

徳川家康は、大御所と称した頃に成っても 21

明石掃部介の子は 15
兵部少輔、覚悟せよ! 15
小身の益、大身の損 14
浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末 5



今週の1位はこちら!わが一生は清正に騙されたのだです!
清正重臣、飯田覚兵衛のお話です。コメントにもあるように、実にツンデレですw
覚兵衛が言うように、本当に流れや空気で辞めるタイミングを逃したのか、それとも清正という将に心酔していたことを
人に言うのが恥ずかしいだけなのか。そのあたりを想像するのもまた面白いですねw
それにしても「覚兵衛」は、秀吉が「名を覚えた」ということで「覚」の字となったのですねえ。わりと家康的なセンスのようにも
感じますがwこういう話が秀吉にあるのもまた面白いですw

同票で1位はこちら!うまくこの戦争が終わったら
大阪方についた武士の、後年の述懐。戦場や籠城中の城内がいかに過酷かを語っています。
こういう話には、強いリアルを感じますね。特に大阪城内で様々な雑説が飛び交い、戦う前に精神的に疲弊していた、
という部分、後世の視点から見ても「そうだったのだろうなあ」という感想を持ちます。
軍記物などは、勇ましく戦闘意欲にあふれた話ばかりといっていいのですが、それはこう言った圧倒的な現実が
あったからこそ、ごく一部の勇ましい人々の行動が目立ったのだ、ということも感じさせるお話だと思いました。

3位はこちら!徳川家康は、大御所と称した頃に成ってもです!
徳川家康という人の持つ安定感の一つに、「必要以上に偉ぶらない」というのは確かにあると思います。
自分の偉さを誇示しないというのは、地の性格に加えて、やはりなんのかんので生まれた時から「主君」であったことが
大きいのかな、と感じます。自分で誇示しなくても周りが最初から従ってくれているわけですからね。
その上で若い修行僧に「彼らもいつか名僧に成るかもしれないから」と、下馬するというのは良いお話だと思います。
こういう話は事実か否かではなく、当時、あるいは後世の人間が、徳川家康という個性のどの部分に魅力を感じていたかを
表している、と考えて読むべき逸話なのだろうな、と思っています。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました!いつもありがとうございます。
また、気に入った逸話を見つけましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

今読んでいる本
江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓 (講談社選書メチエ)

本日のメール
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違うから!エロい話じゃないから!

浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末

2016年05月10日 11:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 01:43:25.42 ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 13:04:56.47 ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 12:51:11.61 ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 13:40:42.63 ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない

小身の益、大身の損

2016年05月09日 21:04

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 22:18:00.14 ID:42bWAfDU
徳川家康が遠州浜松に在陣していた時、或る夜、本多正信、並びに外様の者三人、御用の事あって
御前に召し出され、御用済み、三人は退出しようとしたが、その内の一人が御前において、鼻紙袋から
書き付けた物を一通取り出し、家康にそれを差し上げようとした。

家康は尋ねた「これは何か?」
この者答えた「日頃、私の存じ寄りたることを書き付けて置きました。憚りながら、万に一つも御心得にも
成るかと思い、ご覧に入れ奉るのです。」

「それは奇特な心入である。」家康は感心し、「佐渡守(正信)は聞いても苦しからず。
そこにて読んで聞かせよ。」

そこでその者は、数箇条あるものを一つ一つ読みあげた。家康は彼が一箇条読むごとに、「尤もなる事」と
返事をし、「その書き付けたものをここに」と取り寄せ

「これに限らず、今後も思ったことが有れば、少しも遠慮なく申し聞かせよ。」と言うと、この者
「お聞き届け遊ばし、有り難く存じ候!」と感動して御前を下がった。

その後には本多正信一人残ったが、彼は家康に言った
「さてさて、彼の者は卒爾な者です。彼の言ったことの内、一箇条も御用に立つと思えるものは
有りませんでした。」

しかし家康、手をふって
「いやいや、さして用の立つほどのことはないけれども、その身相応の思案を尽くし、内々に書付け
私に見せようと言う志は、何よりも奇特なることである。その言葉が用に立たぬのなら、用いねば
いいだけの話であり、卒爾などという事ではない。

総じて、身分の上の者も下の者も、我が身の過ちは知らぬものである。されど小身なる者は、心安き
友達傍輩などがあり、互いに身の上の悪事を言って、吟味もするほどに、気がついて改める事も多い。
これは小身の益である。

一方、大身なる者は、そういった事もなく、家臣たちは追従するばかりで、大方のことは尤もとしか
言わないため、我が身の過ちを知るすべがない。これは大身の損というべきであろう。

古より富貴なる者で、国を失い家を滅ぼすのは、大抵は自分の過ちを申し聞かせる者がなく、自身のことを
宜しきとばかり思う故である。
であれば、自身の悪を言い聞かせるものは、大切に想うべきではないか?」

正信はこの時家康から聞いたことを、後日、嫡子上総介(正純)に聞かせ、上がご思慮の深きに加え、
御仁厚成ることを申し、落涙に及ぶのを、上総介は聞いて

「で、その人は誰で、申し上げた内容はどんな物だったのでしょうか?」と聞いた。

佐渡守は怒り叱りつけた
「この話はな、ただ上の思し召しの厚さを承るのだ!その他のことをお前が聞いてどうするというのか!?」
そう言って言った人物や内容は、遂に言わなかった。
これは、上総介が若年故に、その人を侮る心があるのを佐渡守が察し、それを抑えようとしたのである。

(新東鑑)



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:04:02.90 ID:0CFR/PL/
無能な働き者って言葉が浮かんだんだけど

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 23:39:50.85 ID:SIIba21c
家康の言葉が見えてますか?

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:10:47.14 ID:saQw9OQd
この話は前にも出てたけど、これが一番まとまってるな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 02:17:21.93 ID:vl+MZ50d
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1251.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html?sp&sp
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7344.html?sp&sp
正純といえばその話、ていう定番逸話だと思ってた

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/09(月) 10:04:02.61 ID:6/81B7mK
この人でいい話あるん?悪口ばっかやん

明石掃部介の子は

2016年05月08日 13:31

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 19:18:39.93 ID:TtGhYx1x
明石掃部介全盛(全登)は大阪落城の時、戦場より逃走し潜居した、という説がある。
これによると、大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り、明石も押して晴れたる身となったが、
既に老衰におよび、遂に病死した。

その子は明石の苗字を憚り、三方次郎右衛門(或いは三郎左衛門)と名乗った。
物に馴れた者であったが、元和年中に幕府が金山開発を発表した時、気のことを願い
佐渡の金山を掘る事への許可を得た。そこで彼の国に赴き掘り立てたが、金の鉱脈に当たらず、
父が蓄えた金をこれのため残らず失い、京都に帰ろうとした。

その道すがら、座頭の者が、官を進むための金を持って、同じく京に向かう所に行き会った。
三方はこの者に

「その金を是非貸して頂きたい!もしその気がないのなら殺害する!
我が願いが成就すれば即座に返済して官を進ませよう!」

そう命を捨てて言い放った。
座頭も、否といえばたちまち殺されると察し、力なくその金子を渡した。
三方はこの金を持って佐渡に立ち返り、再び掘りかけると、金脈に当たり、
これによって分限者となった。

こうして最前の座頭に早速返済し、検校の位に進ませた。
この座頭も、約束の信義を失わなかった三方に感じ入り、その後入魂の間柄と成った。

金山も次第に繁盛し、三方次郎右衛門は後に帯刀を御免あって、従者に槍など持たせて往来した。
その頃になると三方但馬と称し、裕福にして京に居住して生涯を終えた。病死の後妙覚寺に葬られ、
そこには今も彼の塔があるという。

このように、彼は佐渡において御用の役に立ったが、扶持は下されなかった。
しかし代官同様の待遇であった。

彼の息子は後年禁裏に仕え、深尾左近将監と名を改め、その子も将監を称し、孫は
左近将曹といって、従六位上であったが、享保13年(1728)に病死した。

(新東鑑)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 20:58:48.37 ID:Qdu+qghk
明石全登といえば
子孫がロシアにわたって反乱を扇動し
その後台湾の支配者になったとかいう伝説が

わが一生は清正に騙されたのだ

2016年05月07日 17:37

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 19:32:50.06 ID:Y602gNMy
加藤肥後守清正は、武勇のみならず能く人を使ったそうだ。彼の家来に、飯田覚兵衛という武功の者があった。

ある本に、飯田覚兵衛ははじめは「角兵衛」と書いたが、朝鮮征伐の時、手柄があったため、
豊臣秀吉の命により、「覚」の字にした。これは文禄二年の事だという。

肥後加藤家が滅亡ののち、飯田覚兵衛は京へ引き込んで、再び奉公もせずに居た時の物語に、

「わが一生は清正に騙されたのだ。最初、武辺を仕った時、その場から帰ってみれば、
私の朋輩たちは皆々鉄砲に当たり、或いは矢にあたって死んでいた。
さてさて危ういことである。もはやこれ限りにて武士の奉公を止むべし。そう思って帰るやいなや、

『さても今日の働きは神妙、言う事無し!』

そう言われて清正より腰のものを給わった。
私はこのように、戦のたびに毎回武士をやめようと思っていたが、清正は時節を逃さず、
陣羽織、或いは加増、感状を与えられ、このため諸傍輩も羨み、讃嘆したため、その空気に
引っ込む事も出来ず、侍大将と言われるほどになった。

一生清正に騙されて、私は本意を失ったのだ。」

そう語ったという。

(新東鑑)




595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 20:36:11.23 ID:MGASwZu/
>>594
ツンデレ過ぎだろ

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 11:50:16.78 ID:yCZ3XLCc
>>594
なんつーかツンデレw

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 16:30:48.27 ID:S0r/bwAA
>>594
部下のそういう気配をしっかり察知したのかw

うまくこの戦争が終わったら

2016年05月06日 17:53

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:26:09.94 ID:YyOFRyTP
毛利安左衛門は長宗我部宮内少輔(盛親)に属して大坂の陣で戦ったが、生命を助かり、
後に人々にこう語った

「戦場の事については、今時の壮士たちが畳の上で推量しているものとは違って、簡単に
高名手柄の成るものではない。

おおよそ戦場においては、昼夜の境なく心は苦しみ、寒暑を防ぐことも出来ず、兵粮と言っては
黒米を食い、おっ立て汁に塩を舐めてようやく飢えを助け、寄せ手は竹束の陰に武具を枕とし、
霜露に晒されながら夜を明かす。

城中ではなおさら、今や攻める、今や討ち死にすると寝食も忘れて緊張している中、色々な雑説が流れ、
何某は内通するとか、誰は敵を手引して今夜火を掛けるとか、様々な危ういことが、
毎日毎日言いふらされていた。そのため膝を並べる同僚の面々であっても油断できず、片時も
安き心で居られず、手柄高名を心がける以前の問題であり、勇気を折る事しか無かった。

普通の喧嘩であれば、互いの怒りから勇気も出て、死も顧みない心にも成れるが、合戦は敵に対して
私の怒りなど無く、ただ忠と義を盾にして争う事であるから、喧嘩ほどの勇気も出ない。
であるから、十人中九人までは、このような状況に日夜悩まされると、高名立身の望みも失せて、

『うまくこの戦争が終わったら武士を辞め、どんな賤しき業をしてでも、一生を過ごすのだ!』

そう思う者ばかりとなるのである。」

(新東鑑)

大坂の陣に、大阪方で参戦した武士の回想。大阪城内の雰囲気が見えるようです。



589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 19:48:54.52 ID:VjacA46w
織田頼長「せやろ?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 21:50:59.76 ID:tNQfI0do
>>588
大阪の陣って、武士が必要とされなくなる世の中が目前に迫っていて、その恐怖から逃れるために死に場所を求めて参戦する場だと思ってたんだけど

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 22:23:31.74 ID:jl9/eRDb
大坂の陣に参加する人の多くは、成功できなかった人たちがイチかバチかで行ったけど、
周りも似たような人ばっかりだからまとまらないんだよ

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 12:19:30.86 ID:DFAR/Q3V
大坂の陣で大阪方に参加したのは、徳川家が改易しまくったせいで無職になってしまった武士たち

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 14:27:09.70 ID:jeuPwFxy
いや再就職出来なかった奴等だろ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/06(金) 22:22:12.91 ID:mUyupg5Q
>>588
俺この戦争が終わったら武士辞めるんだ(死亡旗)

兵部少輔、覚悟せよ!

2016年05月05日 13:50

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:53:39.95 ID:wIDEY8AF
徳川秀忠は関ヶ原合戦の時、真田安房守(昌幸)に防がれ、合戦の終わって後に
美濃に到着したことに、徳川家康は不快に思い、「持病の寸白を発した」と言って、
対面を許さなかった。

秀忠は「さては着陣が遅くなった為、故意に会おうとされないのだ」そう推量し困惑し、
幕の外に出たあと少しく落涙した。
この時、秀忠に従っていた榊原康政、大久保忠隣、本多正信、酒井備後守忠利を
はじめとした御家人たちを一人も召さず、下陣すると言い出した。

井伊兵部少輔直政は秀忠に仰せ言を述べて後に、榊原らに対し荒々と言い放った
「中納言様(秀忠)が遅く上らせ給い、大軍が合戦に間に合わなかったのは、各々の
不覚である!」

しかしこの発言に対し彼らは、家康の機嫌を憚り返答するもの一人もなく、それぞれ
退出した所、酒井忠利は御前であっても所存を臆すること無く言う人であり、
兵部少輔の言葉を聞いてこう思った

『秀忠公の御舎弟、下野守殿(松平忠吉)は井伊の婿であるため、今度の合戦に後見して
鮮やかな戦功があったと聞く。このため、直政はむやみに秀忠公の遅参を言い立て、
忠吉様の御手柄を吹聴しているのではないか?』

そして一人その座に居残り、直政に言った
「兵部殿の先の言葉は心得がたい!何故ならば、中納言様が遅参したのは正当な理由ある
事であり、内府公(家康)が機嫌を悪くされるような話ではない!
それなのに、若き殿の憤りを憚らず、粗忽のことを申されるのはいかなる心中に候や!?」

井伊直政はこれに冷笑した
「言っても返らぬ事だが、天下の人の口にそう懸かってしまう、その口惜しさに申すのだ。」

忠利は屈せず
「例え、本当に誤りがあって内府公の御機嫌よろしからずという場合であっても、格別の時期であるから、
御父子の対面があるように、貴殿こそ申し直すべきなのに、その計らいが無いだけでなく、今更無益の
批判を言うとは何なのか!?
この上も我らと争い、中納言様の御事を悪しく申すのなら、兵部少輔、覚悟せよ!」

そう言いざまに直政に向かって進み寄る所を、側にあった諸士が慌ててこれを止めた。

井伊直政が申す所は、秀忠の身にとって、心良からぬ事であった。並の気質であれば、直政は
秀忠の不審を被ったであろう。しかし秀忠は露ばかりも彼を悪む様子がなく、却って、彼が死去した
時には、深く惜しんでいたという。

(新東鑑)



587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 19:57:53.36 ID:Huu4TCor
家康「真田を無視しとけよ
寸白(サナダムシ)を理由に会わんことにする」

徳川家康は、大御所と称した頃に成っても

2016年05月04日 18:49

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:18:36.50 ID:Qmu0dwwF
徳川家康は、大御所と称した頃に成っても、驕るような所のない人であった。

彼は、武田信玄の息女である賢性院と対面する時でも、いつも上段より下っていた。
また鷹狩の折、尾州桶狭間、今川義元討ち死にの場を通ると、必ず下馬した。

またこんな事があった。家康が鷹狩をしている時、そこで駿府法体寺の所化(修行僧)三人連れに
巡りあった。その時家康は

「青々とした一寸の若い松の中に、棟梁の姿あり。聖人も後世恐るべし。彼らもいかなる知識にかならん。」

そう言って下馬した。
また上杉中納言(景勝)に逢う時も、必ず輿より下りて、礼儀厚かったという。

(新東鑑)



690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 10:27:08.84 ID:Huu4TCor
そういえばハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は
徒歩で道を急いでいる神父と行きあった時には下馬して馬を貸す慣習があったとか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 11:01:00.55 ID:5MLnzDQF
>>689
実態はどうあれ、こういう話が美談として語り継がれる日本っていい国だと思う

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:27:26.73 ID:03ukgPKl
>>689
前半の信玄の娘や義元、未来の聖人かもってのは分かるんだけど
景勝に対して礼儀をとるってのはなんで?五大老仲間だからか?

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 13:42:07.74 ID:wIDEY8AF
>>692
関係あるかわからないけど、家康は武田信玄に圧迫されてアップアップしていた頃、
上杉謙信からの応援にかなり感謝していたらしい。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:08:17.31 ID:Y02hg7ib
天下をくれた張本人の一人だからじゃないの?

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 17:52:41.09 ID:vPmXlx37
江戸時代後期の本だからなぁ、既にいろんな逸話がごっちゃに
なってるんじゃないかな

景勝を礼遇したという話なら秀康が定番だしね。

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 00:12:52.88 ID:iWWPHNT/
成田「輿から下りて挨拶?」

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/05(木) 02:20:24.37 ID:sbF/5fzx
俺なら撫で切りにしてる

週間ブログ拍手ランキング【04/28~05/04】

2016年05月04日 18:47

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「政宗はありのままの者である」 28

魔法神社のキュウモウ狸 22

毛利・宍戸の和睦 16
関白任官の理由 11
辻片目をや光らすらん 11

真田幸村は近在の百姓たちに 10
戦場での頓智 10

あの小姓を、彼に恋した男のもとに 9
人を呪う事はあってはならない 9
籤で持ち口 8



今週の1位はこちら!「政宗はありのままの者である」です!
これの記された新東鑑というのは、おおよそ安永年間と言いますから、江戸も中期の成立ですね。
その頃にはもう、伊達政宗という人がこのような、大胆不敵というか傲慢というかw
一種の英雄然として認識されていたらしいこと、面白いですね。
秀吉の評する「ありのままの者」という言葉も、いまから見ても、伊達政宗という人の一面を表していて、良い言葉です。
あんなの天然じゃないと絶対出てきませんからw
色々と印象深い逸話だと思いました。

2位はこちら!魔法神社のキュウモウ狸です!
宣教師が連れてきた謎の生物キュウモウ狸w
そういえば中世では、現在のタヌキと呼ばれる生物は「ムジナ」と呼ばれていた、という話を聞いたことが有ります。
で、ムジナ(アナグマ)が「タヌキ」と呼ばれていたとか。「狸寝入り」というのは、ムジナが擬死する習性を表したのだとか。
とすると伊達政宗に『阿波の古狸』と呼ばれた蜂須賀家政はタヌキではなくアナグマか、とか、いろいろ混乱しそうになりますw
宣教師が連れてきたという由来、魔法神社という名前も含めて、調べていくと様々に面白いことがわかってきそうな
逸話です。

今週管理人が気になった逸話はこちら!毛利・宍戸の和睦です!
毛利と宍戸の和睦、同盟というのは、毛利元就にとってかなり大きなターニングポイントで、これによって
安芸における主導権を確立したとも言えるでしょう。
元就が宍戸をどれだけ特別に思っていたかといえば、例の「三子教訓状」において、宍戸に嫁いだ娘を、
隆元・元春・隆景「同然」と書いていることからもわかります。なにせそれ以外は「虫けら」なのですからw
そして江戸期の間も宍戸家は毛利家中の名家として続きました。そういえば幕末、四カ国連合艦隊に敗れた
長州藩が下関で講和交渉した時、高杉晋作の名乗った偽名が「宍戸刑馬」でした。
この時期、毛利家において家老・重臣といえば宍戸家、という意識が逢ったことがわかりますね。
そんなことをふと思った逸話でした。



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GWも終盤!皆様、よい休日を過ごしてください!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

僕は本を消化で終わりそうです!( ;∀;)

あの小姓を、彼に恋した男のもとに

2016年05月03日 09:42

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 19:56:28.34 ID:+xSS6T0o
福島左衛門大夫正則は、諸将の中でも、とりわけ物狂わしい人物であった。
猟より帰って口をすすがず、その後の食次の時に「食物の中に砂有り!」と言って
料理人を殺した事も度々あった。あまつさえ、その頸を脇差しで貫き、くるくると回して
興ぜし事もあったとか。
しかし、思いの外なる話もある。

ある日、正則の一門衆集まって酒宴の時、正則の愛する何某とかいう小姓が、懐から
菓子を3つ4つ落とした。
正則はこれを見て、小姓が盗んだのだと考え、激怒した。
彼は小姓を引き寄せると、左手で頭髪を掴み、右手で刀を抜き持って小姓の股を突き刺した。
血がおびただしく流れたが、小姓は少しも動ぜず、何事もなかったかのように再び
給仕をした。

座の人々は何れも、正則の気質を知っているので、この小姓が終には死罪に及ぶことを
惜しみ、片脇へと引かせて「何か申し分が有るのではないか?」と尋ねた。
しかし一言も言葉を発しないため、人々も苛立ち

「侍の子たる者が、どうしてあのような卑劣なことをしたのか?その身が
死罪となっても仕方がない。そして死んでも、父兄弟の面汚しであるぞ!」

小姓、これを聞くと
「申すべきことも有りますが、人の命まで取ってしまうことと成り、それは私の本意では
ありません。その人の生命を助けていただけるのなら、仔細を語ります。
私の命は、許されるべきではありませんが、一門の名折れと仰せられることの口惜しさに、
申すことが出来ないのです。」

人々は何れも誓った
「其方のことは力及ばぬ。しかしこの事について、外の人の命は、我々が命に変えて救おう!」

そこで、小姓は語った
「彼の人も、殿様の御家中である若者ですが、彼は私に恋い焦がれ、数十通の文を頂きました。
しかし私は殿様の御座をも汚す身ですから、それらは取り上げてさえ見ることはありませんでした。
しかし、それから三ヵ年、日々に文を送ってくるその心の切なさに愛おしさを感じ、ある時
彼の姿を見て、その志を感じ、図らずも返事をすると、かの者はいよいよ耐えかね、虚労のように
煩ってしまったと聞いたのです。

私のために人の命を失う事の笑止さに、どうにかして一度逢って見たいと思いましたが、
出仕すれば常に殿のお側に有り、下がっても寄合部屋にて、仲間の目も忍び難く、下部屋にて
なんとか逢おうと思い、かの男を番葛籠に入れさせ、昨日下部屋にその葛籠を取り寄せました。
然れども折り悪く、三日三晩の御酒宴となり、致し方ない状況な上に、かの男が飢えることの
痛わしさに、この菓子なりとも遣わそうと懐中にした所、運が盡き、御前において取り落としたのです。

願わくば、彼の入った葛籠を、何事も無く外に出してください。私は生命を惜しむことありません!」

一門の人々、これを聞いて正則に対し
「あの小姓の命乞いをしても、承知なされないことはわかっています。しかし、彼が菓子を盗んだのは
卑劣な行為ではありません。ですからせめて、死後の恥辱を救ってください。」
そう事の顛末を語ると、正則はたちまち機嫌が直り

「私が側に召し使うほどの者らしく、卑劣の業は成さなかったか。
恋する男に逢おうとするのは、自分の目を盲にするのと似ているが、年少の者にはよくあることだ、
深く咎めるべきではない。
その上、彼の今日の様子、さすがに私の目鏡に違いなしと見えた。よって、彼の死罪を免ずる。
また、彼に心を懸けた者も、私の気質は知っているのに、是非に逢おうというのは、
これも用に立つべき者であろう。
あの小姓を、彼に恋した男のもとに遣わせ!」

そう命じた。この時正則は、大方成らぬ機嫌であったという。
(新東鑑)



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 20:24:41.78 ID:SWwwf+k1
ホモにはみんな優しい

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 00:25:57.83 ID:tK/mOlVU
>>681
ミラクルやん「いいかい市松。人は刀で股を突き刺されたら出血多量で死ぬんだよ」

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 07:14:42.33 ID:OvJrnKm4
あんたは太ももじゃろ

真田幸村は近在の百姓たちに

2016年05月02日 17:56


661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 21:08:06.92 ID:GXYtd421
関ヶ原後、流罪と成った真田幸村が紀州高野山の麓、渋田という場所の禿(かむろ)の宿に
潜居していた時、近在の百姓たちに金銀を貸し与えていた。

そんな幸村が豊臣秀頼の招きに応じて大阪に籠ろうとする時、彼が銀子を貸し与えていた
百姓たちを呼び寄せ、こう申し渡した

「私は今度、大阪の御招きによって入城することに成った。よって今後、そなたたちと再会することは
計り難い。
お前たちには去る慶長五年の冬より久しく相馴染みたれば、今は実に名残惜しい。
今度は天下の軍勢を向かえての合戦であるから、運を開く事はとても難しいであろう。
なのでただ、義の為に討ち死にを志すばかりである。

であれば、今更預け置いた金銀を返してもらっても、何にも成らない。
万が一にも勝利して、秀頼校が天下の主とならば、私はともがらの富貴を求めるまでもなく
富貴に至らしめるだろう。

各々は年来の馴染みであるから、その金銀は返してもらうに及ばない。」

そう言って、彼らの目の前でその証文を尽く焼き捨てた。

百姓たちはこれに感じ入り、拝伏して恩を謝した。
この事によって、禿近隣の土民たちは大阪に加担したのだという。
真田幸村という人はこのように、良く人情を知って彼らを感じ入らせる者であったと伝わる。

(慶元記)




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:40:33.88 ID:O5SgVsgF
>>661
幸村じゃなくて信繁ね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 23:58:14.98 ID:gWM6M/E4
兄貴から仕送り受けてる分際で金貸しかよ

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:21:45.15 ID:qUUxIBXi
>>662
「幸村」の逸話として使わっているのなら、幸村でよい。
信繁でなく幸村として伝わっている時点で、江戸時代が始まった後の逸話とわかる。

このスレで考えるべきは、「事実に合っているか」でなく「どうしてそういう逸話が生まれたか」だよ。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 00:48:44.54 ID:Qh5wzMBH
お兄ちゃんから金借りてるくせにいい人ぶって人に金貸すとかとことん信繁はクズだな
いい話でもなんでもないだろこんなの

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:14:56.04 ID:cnfJL4OU
大河みて思ったけど信繁って老け顔だったの?まだ廿くらいと思ってたが

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 02:22:40.70 ID:cnfJL4OU
>>664
原文ママ、とか書いておけばいらぬ誤解を招かなくて済むね
現代語訳されてたら分かりやすい名にしたのかもと思う人もいるし

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 03:07:05.25 ID:TEIuaXFM
義の為()人情()
兄貴に金の無心するしか脳がない無能がなに言ってんのやら…

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 05:28:44.61 ID:bLtPv79l
真田関連の話が出るたびに思うが
親父とこの弟に囲まれながら
兄貴はよくあんな長生き出来たな
そのストレスがなければ200年ぐらい生きたんじゃねえの

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 06:42:49.63 ID:G8HDWN8M
ヒキニートが兄の金を使って詐欺をする話に近いなw

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 07:50:41.87 ID:RhJTHYdf
信繁じゃなくてお兄ちゃんのいい話だな
流石お兄ちゃんw

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:45:24.99 ID:zJtsB6dp
>>670
ひょっとすると胃が痛くなるようなストレスから解放された反動で
あれだけ長生きしたのかも知れん

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:48:14.30 ID:j/3s0OIp
お兄ちゃんは心労で寿命半ばで亡くなったんだ

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 09:55:26.58 ID:eJp4EjAV
>>670
おい、鬼嫁を忘れているぞ!

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 10:07:29.48 ID:cnfJL4OU
志半で倒れた隆元が偲ばれるで

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 22:02:30.95 ID:mhCM9B4I
>>661
禿って今の学文路?

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/02(月) 23:23:14.45 ID:Qh5wzMBH
みんなお兄ちゃんの話しかしてなくてワロタw
やっぱりお兄ちゃんは愛されてるな…w

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/04(水) 08:55:56.62 ID:0KlKkSVY
>>661
孟嘗君の食客、馮驩が元ネタだな

戦場での頓智

2016年05月01日 17:14

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:34:37.83 ID:nbHvxLNh
美濃・尾州を取り合いました時のことです。
日暮れとなり、互いの兵共が槍を持ってにらみ合っていた。

尾州側には佐久間久右衛門という功者武辺者、これは佐久間玄蕃の父で、柴田修理殿の姉婿であった者がおり、
彼は日暮れになると左右に下知して小声で「田を結べ、田を結べ」と言う。

当時は八月の頃で、ちょうどその場にいた兵は何れも流石にその道に心得ている者たちだったので、
槍の柄を持ちながら田を結び静かに退いていきました。
折節中秋の頃なので、草村を過ぎる風の音がしほしほと鳴いていました。
尾州側が六、七間ほどさっと退きました時、敵がどっと槍を入れてきた。
しかしかの武者共は先の結び目に蹴躓いて転び、尾州方は美濃方の兵の首を十五、六個程取れたという。
それゆえ美濃から五十日ほど人数を出せなかったそうです。


以上のことを利家様は物語なされました。
皆々もこのような話などは、ぼんやりと聞くことは無いようにと仰られました。
(利家夜話)

戦場での頓智のいい話



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:39:37.51 ID:4uXgvXJp
農民にはえらい迷惑な話だね

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:44:20.67 ID:P+SQIl3F
この頃は泥臭く戦ってそうだもんな

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:55:48.07 ID:x4B2WdUx
子どもがやってお百姓さんに怒られそうな罠だ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 04:42:21.54 ID:gw+TwaKS
>>650
泥じゃなくウンコ投げてたしな

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 06:11:37.94 ID:tMR6Mg7P
中秋の頃なら、刈り取り終わってね?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:17:26.06 ID:KedlLjNm
>>653
中秋といいつつ八月とも書いてあるからなぁ

ただ本当に中秋だとしても関ヶ原の直前も刈田がどうこう言ってたし、美濃では普通なのかも

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:29:24.50 ID:tMR6Mg7P
>>654
8月は旧暦の八月だと思う

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 08:01:48.76 ID:O6t3KIs2
中秋とは八月のこと。
昔は梅雨(五月雨)の頃に田植して十月に稲刈りが一般的
以上はもちろん、旧暦での話

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 11:59:18.46 ID:gWM6M/E4
何故尾州と書いて濃州と書かない?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 12:14:24.32 ID:98MthrCf
なるほど、そりゃ「春は(食料も尽きてきて)死の季節」って話にもなるわ

籤で持ち口

2016年05月01日 17:13

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 21:19:12.93 ID:SZUuzKNG
大阪冬の陣が始まろうとする時、大阪城中では関東の出馬を聞いて、諸方の砦、その他外構え等の
普請に傭役を増やしてこれを急いだ。そして豊臣秀頼は、譜代新参の諸大将を召して評定を開いた。
その内容はこうである

「先に命じた各々の持ち口(担当部署)には善悪が有り、それに対して不満も出ている。
そのためもう一度、籤によって持ち口を定めたい。」

これを聞いた各持ち口の頭分の者達は
「最前既に仰せ付けられた持ち口ですから、それに善悪があろうとも今また変更すべきではありません。
また、兵家が籤を用いる時は、故実に従うべきです。
ともかく、そのままに差し置くべきです。」

そう、この件に反対した、

この時、大野治長渡辺糺は籤奉行であったのだが、大野治長がこう発言した
「黒門口は平野口に近く大手の内の要害ですから、かの口三十間は治長がこれを堅めます。」

これを聞くや渡辺糺が怒鳴った
「治長殿のやり方は理解できない!いま、持ち口に善悪があるからと籤を用いようとしているのに、
黒門口は治長自ら堅めると言われる。ならば籤はしないのと同じではないか!?

総じて修理亮殿は万事ほしいままにして諸将を蔑ろにしている事、甚だ奇怪である!今後、慎まれる
べきである!」

しかし治長は少しも屈せず
「黒門口は内側が広ければ小勢を以っては担当できない。それ故にこの治長が、籤を執る前に
これを堅めたいと申したのであって、全く我意を挟んだものではない!
そもそもそのようにいう和殿こそ、却って秀頼公の思し召し良きをいいことに、常に諸士に対して
無礼であるため、人々もこれを悪んでいると聞くぞ!
この治長に意見する前に、先ず自身が謹しまれよ!」

そう荒らかに言い放つと、糺も激怒し
「普段のことはともかく、今度の黒門口は籤の上であれば、特別に治長に堅めさせるようなことはしない!
強いてというなら、余人には渡さぬ。この糺自ら請い取るべし!尚も言いたいことが有れば申してみよ!」

目を怒らし居丈高に成り、肘を貼って叫ぶ渡辺糺に、大野治長も立ち上がった所を、座中の人々が
慌てて両人の間に入り
「御両人はこの城の棟梁の臣なのですから、このような諍論は似合いません。殊に大事を控えながら
朋輩同士が口論するのは然るべからざる事です。第一君の御為になりません!」

そう制したことで渡辺は鎮まり、治長も「私も誤っていた」と謝罪し、各々はその座に帰った。
この諍論に時間を取られたため、籤の沙汰は無くなった。

籤が中止に成ったことを真田幸村は聞くと「さもあらん」と嘲笑った。
そして後藤基次は
「両人の喧嘩は大阪の幸いであったのに、どんな馬鹿者がそれを止めたのか。
この両姦人さえ討ち果たせば、城中の評議は思う様に整って、天晴花ある軍となっただろうに。惜しいことだ」
と、大いに腹を立てたという。

(慶元記)



580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:16:14.42 ID:q6uhGX3x
いつ見ても城内ばらばらやな

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/30(土) 23:49:28.24 ID:1l8pvDLb
目立った働きのなかった譜代が目立とうとして必死なんよ

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:06:04.93 ID:x4B2WdUx
突出して凄いのが出てくればよかったんだろうけどねー

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 00:33:08.56 ID:98MthrCf
そりゃまあそれほど戦慣れしてない譜代は浮足立ちもしそうなもんだ