と、たびたび上方へ行った人は語る

2016年05月31日 17:02

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 19:01:03.04 ID:cykArEs2
訳ありといいしもその土俗の仕癖となる事

京都では、盆中に家毎に灯籠を三十日の間灯すという。
これは明智光秀が京都の地子を許したので、かの土のものが嬉しい事と思って、明智滅亡の後、
追善の心得で七月中は灯籠を門へ吊るしたことからという。

大坂では五月の幟を市中では節句の四つ時分までには残らず取りしまうという。
これは大坂では秀頼が落城した城攻めは五月の節句に当たるので、小児などの幟をとりやめ、
また追って追善を思う故や、と昔は言った。

今日はこれらのような訳でなく、盆灯籠は京都では七月中に家々にともし
大坂では五月の幟も五日の昼はしまう事となって、自然とその風土の仕癖になった。


と、たびたび上方へ行った人は語る。
「耳袋」

今でもそうなのでしょうか?



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大久保石見守長安はもともと猿楽師で

2016年05月31日 17:01

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 04:53:20.22 ID:stBwp1a7
大久保石見守長安はもともと猿楽師で、出世した人物である。
徳川家康の話に出て来た折に長安は、

「もし私が佐渡を預かったならば、1万貫を上納仕りましょう」

と申し上げた。これにより長安は佐渡の代官を仰せ付けられた。
そしてその年、果たして長安は1万貫を上納した。

家康はこれ見て、長安はますます出世増進した。

――『武功雑記』



776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 11:44:23.99 ID:zj+ISLhb
乱破崩れの山師だろうに

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 13:52:24.78 ID:dIc2fj6+
佐渡守を預かると一瞬読み違えて
そこから正信による追い落としになったかとおもた

葛の根は 小松ばかりに残れるや

2016年05月31日 17:00

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 22:08:45.97 ID:v9uyzl3r
永禄八年頃のこと、日向の伊東義祐は鬼ヶ城の城代を小松兵部太夫に命じた。
その頃は真幸口、飫肥口両方に軍勢を出し島津などとの合戦がうち続き、山東の軍勢は
休息する暇もなく、五番代わり、三番代わりに交代した。この事は二十日番と呼ばれ、
この軍役に対する上下の難儀は一方ならぬもので、この件への訴訟が絶えることなく
上がってきた。

このような状況ではあったが、城代の小松兵部太夫はその訴訟を押さえつけ受付なかった。
そのためか非常に機嫌が悪く、常に顔を膨らませて気色荒げていた。
そんななか、ある日何者かがこのような狂歌を詠んだ

『葛の根は 小松ばかりに残れるや いつも腫れたり番代がつら』

これは飢饉の年、窮民たちが葛の根を掘って食うと顔が腫れるということから、
この様に詠んだのである。

(日向纂記)



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 11:42:44.20 ID:zj+ISLhb
すべて島津が悪いんや

「義祐様を押し籠めよう」

2016年05月30日 18:04

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 09:45:32.35 ID:v9uyzl3r
天文20年(1551)、日向の三位公(伊東義祐)は大仏堂の建立を思い立ち、先ず南都(奈良)の
仏師・源五郎兄妹を召し下し大仏を造らせ、大仏堂は大工の奥野筑前守に命じて、同年6月8日より
柱立した。何れも程なく成就したため、その年の12月28日に大仏を安置した。

翌天文21年、今度は佐土原に寺を建立し、金柏寺と名付けた。
同年10月28日、大鐘を鋳てこれを寄付した。その銘文に『日薩隅三州太守藤原義祐』云々の文字があった。

また、海道衆と号した10人の僧侶に笈(修験者や行脚僧が仏具・衣類・食器などを入れる箱)を背負わせ、
昼夜仏名を念じて歩行させ、或いは5人づつ左右に分かれて終日仏論を論議させ、三位公自身も
袈裟を着て捨身の行を行った。
また、或いは諸僧を集めての法問を行った。

三位公のこのような仏教への耽溺は、伊東家中の行儀を乱し、我儘の事のみであったため、国内からの
嘲りも多く、諸大将も国家の大事と思い、密々に評議を行って、「義祐様を押し籠め(強制引退)よう」
となった。

しかしここで、落合源左衛門尉兼永が異論を唱えた。彼は伊東家諸将の中でも忠勇無双の男であり、
諸将の評議を聞いた上で

「一度諌めてそれでも承知なければ、そういうやり方もあるだろうが、最初から少しも諌めず
押し籠めを行うのは、臣たる者の道ではない。とにかく私に任されよ。」

そう言って家にも返らずそのまま君前に出て、諸将の疑念をありのままに言上した。
彼は三位公の顔を見て声柔らかに諌めると、三位公も自分の行いを大いに悔悟し

「以後は何であっても各々の異見に従う。」

そう言って以後行いを改めた。
「思っていたのと違い、賢君であられる。」これに日向の人々は安堵の思いを成した。

(日向纂記)



いま一言をもって日延べをお許しになられたこと

2016年05月29日 13:09

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 09:31:21.71 ID:9iJTYgQ1
慶長の末年、大久保相模守忠隣は本多正信の讒言により、所領を召し上げられた。

その時、安藤対馬守(重信)は小田原の居城を受け取るべしとの命を受け、大久保の
家老・天野金太夫を呼び、「当城内外の諸臣らは、今明日のうちに他所へ退出せよ」
との旨を命じた。すると天野は曰く、

「主人・忠隣の事は、不幸にして罪を蒙り、臣らは今この命を承って、公儀に対して
誰が異議に及ぶことだろう。されども、家臣がこの城を預かり守る主人の命令無くして
他に城を渡すことは臣たる者の道に非ず。

それに、いま城下にいる小臣奴婢などの類は多い。彼らがすぐさま退かなければ
ならないことについて、少なからず憂いがある。この事をぜひともお察しして頂きたい!」
と、言った。その言葉は意気盛んであった。

安藤はこれを聞くと、「私はいま上意のままに命令をなしている。しかしながら、
汝の言うことは実に道理である。日を延ばして城を渡すようにせよ。私がこの事を
取り計らおう」と言って、退いた。

天野は曰く、「わたくしめは、齢傾き見苦しくとも一刀を下して皺腹を切り、貴殿の
馬前を汚さんと思ったのに、いま一言をもって日延べをお許しになられたこと、幸い
これに過ぎず!」と、厚く感謝した。

さて、主人・忠隣からの下知を待って、その後は内外とも騒々しくはならずに神妙に
立ち去った。「大臣たる者の振る舞いはこのようでこそあるべきである」と、諸人は
感賞したということである。

――『明良洪範』



天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

生存したとて死と同じである。

2016年05月29日 13:05

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 01:45:53.35 ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:07:00.87 ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:31:15.80 ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか

奈良かしや

2016年05月28日 11:09

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 19:30:34.87 ID:8hj2j5oy

秀吉公の御時、ならかし(均し・徳政)という事があった。
貸した者が原金を失った上になお、放埓を働いた罪科は軽くないと、
再び黄金を出させましたので、

奈良かしや この天下殿 二重どり とにもかくにも ねだれ人かな
(醒睡笑)



奈良坂や 児の手柏の二面 とにもかくにも ねだれ人かな

の本歌取り


彼は義士である

2016年05月27日 17:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 21:05:11.45 ID:Fuik+Qgj
天正6年7月6日、島津は大友家に付いた日向国石ノ城を攻めることとし、伊集院忠棟を大将に大軍を
送ったが、石ノ城は大友より派遣された長倉祐政、山田匡徳を中心として頑強に守り、島津勢は500が負傷、
また多くの討ち死にを出し終に撃退された。

同年9月15日、島津は島津彰久を大将、伊集院忠棟、平田光宗、上井覚兼らを副将とし、さらなる大軍を以って
再度石ノ城へと押し寄せ、総攻撃を行った。
これにも石ノ城勢は三日三晩にわたって頑強に抵抗したが、元より小勢のなか、兵糧も尽きたことにより、
講和を受け入れ城を開城することと決まった。

講和が決まると、石ノ城の大将である長倉祐政は城の明け渡しのため島津義弘の陣所へと参った。
義弘は長倉に言った
「今回のことは貴方にとって残念ではあるが、これより後は私に従わないか?」
そう言って三方に土器の杯を据えて長倉へと差し出した。主従の礼を取ろう、ということである。

しかし長倉

「確かに残念限りないことです。ですが二君に仕えるのは義士の成さぬ所です。」

そう言うや土器を三方の縁に当てて打ち砕き、その座を立ち退こうとした。

この場の島津勢の人々はその無礼を見て激怒し、彼を討ち果たそうと騒いだが、義弘はそれを制して
「いやいや、彼は義士である。また、その主人のために働いた人を殺すのは不義である。」
そして長倉に

「あなたは此処から何国に立ち退くのか?」

「豊後へ。」

そこで義弘は侍大将二人に命じて、長持ち二つを用意させ、
一つには沓や鞍、雑具の類を入れ、もう一つには食物などを入れさせた。
それを持たせ、豊後との国境まで彼を送ったとのことである。

(日向纂記)



金官の最期

2016年05月27日 17:54

金官   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 04:16:31.27 ID:PvxVDWqo
清正は金官(良甫鑑)という朝鮮人を日本へ連れ立って来て、慣例どおり
に親しくして、八木2百石を与えた。

金官は、「清正に離れて一日片時も永らえるべきではない。御供申さん!」
と言って切腹した。

――『清正記』

金官という朝鮮人は、同24日(清正死去の日)に切腹しようと致したが、
2人の子息がこれを見て脇差を取り上げ、色々教訓して止めた。

そして脇差を隠して丸腰にしておいたのだが、14,5日も過ぎたので、
思いとどまったなと子息も思って油断していた頃、箍掛けを呼び入れて、

古桶の輪を掛けさせ見ていたのだが、人のいない時に箍掛けの鉈を取り、
腹を十文字にかき切って死んだのであった。

これをもって見れば、高麗人も純柔純弱兵とばかりは申し難きことである。

――『続撰清正記』




大坂落城の時、豊臣秀頼は

2016年05月27日 17:52

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:09:30.66 ID:YW3TXSxA
 大坂落城の時、豊臣秀頼は秘かに薩摩に行かれたという一説がある。
このことは異域でも聞こえていると見えて、『湧幢小品』に(明の朱国禎が著したもので、第三十に見える)
「秀頼が敗走して和泉に入り城を焚て死す。又逃て薩摩に入ると言ふ者有り。」
と書かれている。「和泉に入る」とは誤聴である。

 また何で見たのだろうか、落城の時、神祖は天守に火がかかっているのをご覧なされて、
「早く場所を他に移せ。」
と仰せられた。
左右からは
「まだ秀頼の安否が分かっていません。」
と言上があったが、
「天守に火がかかれば落城である。」
との仰せなので、すぐに場所を移されたという。

 またある人が言うに、秀頼が薩摩に行った後、大酒で所々で困ったという。
酒の負債が多くあったともいう。


因みに、今高崎候の居間の襖には秀頼の画というものがある。
金地に老松を描き、その上に一体に空き間もなく廉を描いてある。
廉外に見える体である。もっとも着色である。
その筆は雅楽助、山楽などと見える。
(甲子夜話)

秀頼作の絵というものを一度は見てみたいですね



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 23:33:24.77 ID:aTn+OOyq
明の人「似たような話を聞いたことがあるな
父親が乞食から成り上がって天下とった後、子供のために粛清しまくったら
父親の死後、息子が叔父に(一応旭姫の夫だし)攻められ落城
焼死したということになってるが、実はどこかで生存しているという話を」

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 18:48:52.10 ID:/TJu3MHx
>>654
秀頼作
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Maple_viewers.jpg/1280px-Maple_viewers.jpg
1280px-Maple_viewers.jpg







狩野秀頼だけど

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 19:30:34.87 ID:8hj2j5oy
>>656
そっちは"すえより"なんだよなあ

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

増田長盛の切腹

2016年05月25日 19:52

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:12:33.35 ID:4/B3iYED
増田長盛は関ヶ原の合戦のあと、高野山に登り出家し、その後高力左近太夫(忠房)に預けられ
武蔵国岩槻に置かれた。

大坂の陣が始まろうとした頃、高力は台命を承り、増田に面して

「御辺は太閤に御恩のある方ですから、豊臣家の様子を見たいという願いの有ることでしょう。
であれば、大阪に上られよ。

これはわたしの私的な考えでは有りません。駿府より免しのあった事です。」

増田はこれを聞くと
「大御所は天下の人君なればこそ、いまこの仰せを承りました。
しかし、私はもう老人です。これから大阪に上り、新付の兵を下知しても、たいした働きは出来ず、
返って私を抜擢した太閤の御眼力に徒なす恐れもあります。
ですのでこのまま、配所にて生命を終わりたいと考えています。」

大御所・徳川家康はこの報告を聞くと、「兎にも角にも本人の心に任せよ」と答えた。

その後、豊臣家が滅亡すると、増田は高力に対面し
「両御所が大阪に御出陣の時より、どうにかして主君の終わりを承らないようにと祈り続けていましたが、
天命によって終に滅びました。であるのに私は、今後何を楽しみに存命すべきでしょうか?
身の御暇給わり候らへ」

そう申し乞うて、切腹したという。

(新東鑑)




766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 18:50:30.94 ID:6Eq4MEMp
あれ、増田って息子を大坂方にしたせいで切腹したんじゃなかった

隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん

2016年05月25日 19:50

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:33:00.47 ID:K18+45UD
悪い話スレとどっちかいいのかわからなかったんだけどカキコ

慶長十九年十一月、大坂の陣の直前のことである。
駿府から出陣した大御所・家康と合流していなかった将軍秀忠は、
側近の土井利勝を家康のもとに遣わした。

「以前ご勘気を被って蟄居していた山口重政
 『大坂城に入場し、隙を見て豊臣秀頼を暗殺いたさん』と
 申しております。 いかがいたしましょう?」

しかし家康はこの案を容れず、徳川方と豊臣方は全面対決することになる。
この時の家康、秀忠、重政の心境はどんなものだったろうか?
蟄居の身の山口重政はどうしても幕府と大御所に恩を売りたかっただろう。
秀忠にしてみれば、秀頼が暗殺されれば
千姫がどうなるか気になっていただろうし、
それは家康も同じだっただろう。
それとも、幕府の威信にかけて正々堂々勝負すべきとして
家康は重政の提案を退けたのだろうか。
戦国の最後を飾る大舞台、人々の思案をめぐるお話。               



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2016年05月25日 13:33

05/19~/25のブログ拍手ランキングです!


「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」 31

紺地に六文銭の旗の陣 31

伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいか 25
私が及ぶところではない 22

時は盂蘭盆、咎は瓜一つ 20
清正の舟奉行を4,5夜眠らせなかった 20

良き家人は持つべきことである 16
大木土佐守の殉死 16
勇士の名を汚さぬよう 16
これも人煙のため 8



今週の1位はこちら!「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」です!
コメントにも在りましたが、確かにくどさが義光といっしょですねw流石兄妹。
そしてこの当時の大名家の女性がどういう機能を果たしていたか、非常によく現れている書状だと思います。
ほんとうに面白いなあ。特に

>急いで来るなら、義光のあなたへの好感度もアップすることでしょう。
>ともかく急いでください。今日の昼前には来て下さい。

ここ非常に好きですwここを読んだ留守政景の苦い顔が目に浮かぶようで、双方の関係性まで含めて、
様々に想像が膨らみます。大変素敵な内容だと思いました。

今週は同票でもう一つ!紺地に六文銭の旗の陣です!
わかき甥達の奮闘を、敵として見る真田信繁のお話。敵とはいえ、一族の勇敢さを讃えられ、悪い気はしなかったでしょう。
まあ一方で、幕府軍の中で真田家がこのように無理を強いたのは、間違いなく信繁が大阪方に加わったせい、なのですがw
自分たちまで疑われてはたまらないと、必死の思いであったことでしょう。
そんな双方の意識の違いも現れているような、いい逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいかです!
これは有名な大岡裁き「子争い」の原型の一つなのでしょうが、手を引っ張る、なんて真似をせず、あくまで冷静に理論だって
裁きを行っていますね。そして特筆すべきは「子供本意」であるということ。子が成長した将来はともかく、現時点では
子供の思いが大切であるという、このあたり現代でも通用する内容だと思います。
あの時代にこういう裁きが出来たというのは、やはり板倉勝重は名奉行と呼ばれるに値する人物だな、と感じちゃいますね。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してください!
( ´ ▽ ` )

今読んでいる本
中世武士選書 第33巻 足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-

個人的に、室町幕府や足利将軍家というものを、わかりにくく混乱しやすいものにした最大の人物であると思っている
将軍の波乱万丈の人生を描いた書籍。ほんとうに面白いです。是非一読をお薦めしますよ!
しかし義稙を「大将軍」と表現するとはw

三女下向

2016年05月24日 10:47

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/23(月) 23:49:54.24 ID:dNUJBjsC
大阪冬の陣の和議が整ったものの、豊臣家においては前年の旱魃によって摂津、河内は
甚だしい不作となり、年貢収入が殆ど無い状態となっていた。
その上、大阪冬の陣のため招聘した諸士頭分の者達、並びに武功有る者達は和議のあとも
そのままに抱え置いたため、物入り多く財政難に陥っていた。

そこで大阪方では摂河泉三ヶ国に加えて加増をしていただきたいと、七手組の青木民部少輔(一重)、
伊藤丹後守(長実)の二人を駿府、江戸へと派遣した。

江戸では将軍秀忠より
「委細は大御所と相談し、宜しきようにお計らいなさるだろう。四月上旬には大御所は
上京されるので、その時にこれを解決されるであろう。両人が大阪に帰ればこの事を秀頼公に
申し上げるように。」

との言葉を頂き、これを受けて駿府の大御所家康も

「将軍がそのように言った以上、この件は事済んだ。早速大阪に帰り、秀頼公を安堵させるように。」
と仰せ下した。

両人は大いに喜び早速駿府を出立、道中を急ぐ所に、遠州浜松の入り口において
大阪より降ってきた三人の女性と行き会った。
大蔵卿局二位局正栄尼である。

彼女たちは、両人より駿府と江戸の様子を問い、彼らの首尾を聞くと安堵し
「我々は駿府に下り淀様の御口上を申し上げます。あなた方は帰路を急ぎ、大阪城に登り、
関東の様子を申し上げるように言った。

この時青木・伊藤の両人は思った

『去年、あの三女が関東に下向して、片桐且元を猜疑し、様々に讒言したことによって
終にはあの大乱が起こったのではないか。
それにも懲りず、またあの三女を下されるとは、是非もないやり方である。
今度もどんな災いを引き起こすか…』

二人はそう畏れ、「駿府に向かわず、あなた方もこれより直に大阪に戻るべきです!」と申したが、
「何故?」と三女は全く合点せず、青木・伊藤も持て余し、

「ならば、駿府においては御機嫌を伺う御口上のみも申し上げ、その他のことは一切秘密にして
話さないでください!何故なら秀頼公のお望みは既に落着いたしたからです!
絶対に他のことは申し上げないように。」

そう固く申し含めると、三女もついには納得して駿府へと下っていった。

本当に、去年の騒動もこの三女の口から起こったのである。なのにまた、今年も下されるというのは
浅智の極みではないか。前車の傾きは後車の戒めという言葉を知らないのだろうか。
二人はそう思うばかりであった。

(慶元記)



群盗蜂起

2016年05月23日 17:20

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 22:41:55.91 ID:Bf+Mj0o/
大阪冬の陣があって諸人漂白を踏む思いをなしていた所、和睦となったため人々は思いの外に
静かな春を迎え、安堵の思いをした。

ところがその頃、五畿内およびその周辺の国々では群盗が多く蜂起した。
彼らは「大阪籠城の浪人」と称し、民の財宝を奪い取り、旅人の衣装を剥ぎ取り、往還の人々まで
殺害した。

この時は四方より困窮した者たちも大阪浪人に与して集まってきたので、その数甚だしく、
諸国の庶民たちは大いに嘆き、大阪への恨みは日々大きくなっていった。
世間では『大阪城中の輩が申し合わせて、去年城郭を破却された報復として、このような非道をするのだ』
と言っていた。

板倉勝重松平定勝はこのような都鄙の騒動に大いに驚き、これを放置すれば終には乱の元になると
考え、両人申し合わせ諸国の大名に申し触れた。

『大阪籠城の浪人が諸国に分散し、押し取り、強盗を行い国々の煩いとなっている。
各々の領分の範囲で、手柄次第に捕縛し、なお手に余るようであれば討ち捨てにもされよ。
その委細は関東に報告する。』

しかし、或いは百、ニ百、或いは三百五百と徒党していたため、以ての外に手に余り、一揆が起こったのと
異ならない状況であった。

板倉はこの状況を急飛脚を以って関東へ知らせ、畿内の世上物騒であることを両将軍(家康・秀忠)に
伝えた。また大阪に対してもこの事を申し送り
『秀頼公の御為にも然るべからざる事なので、大阪からもこれを鎮めるようにしてほしい』
と伝えた。

これに対し織田有楽大野治長らの返答は
『去年集まった雑兵共は和睦のあと離散したため、何処に国に向かったかなど詮索も出来ない。
察する所、浪人によせて諸国の盗賊が集まったのだと見える。よくよくご詮議されるべきです。
秀頼公には毛頭和議を疎略にする考えはなく、この上何らかの雑説が流れても信用すべきでは
ありません、』

そう申し遣わしたが。上方ではこの年2月に神踊という事もはやり、貴賎老若動揺をなした。

(慶元記)

大阪冬の陣の和睦のあとも、安定しない上方情勢についてのお話



「このコウロンはいくら?」

2016年05月23日 17:19

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 23:20:34.97 ID:xreISi2k
古道三(初代曲直瀬道三)が洛中を歩いていたとき、
ある棚の傍らに青磁の香呂と思わしきものが合った。
立ち寄ってそれを見るとなかなか良さそうである。

そこでうつけのふりをして
「このコウロンはいくら?」
と問われると、中から
「なんと跳ねても銀子二枚」
とのことであった。
(醒睡笑)

跳ねる発音をすることで間抜けのふりしても、マケねーよ




良き家人は持つべきことである

2016年05月23日 17:14

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/23(月) 03:52:55.26 ID:DB6+UDb0
大坂陣の時、尾張の家士である曽根某という者は16歳になる嫡子を出陣させた。

その時、曽根は譜代の家人某を呼び、「今度、嫡子の初陣に其の方を添えて遣わすので、
私に代わって取り扱い相応の働きを致すように頼むぞ」と、言った。

家人は「畏まり候。決して御気遣いなさいますな」と答えて、嫡子に付き添い出陣した。

さて、戦場に至り、良い敵を見付けると家人は、「槍をお付けください」と言って主従で
打ってかかり、やがて嫡子に首を取らせた。家人はその首の切り口で嫡子の顔を撫で回し、
また流れた血をすくって具足に塗り付け、その首を鞍に付けて嫡子を先へ立たせて、
自身は後ろに下がった。

白糸の冑や白馬に血が付いたその有り様は凄まじく、いかにも一騎当千の働きをしたように
見えたので、人々に感賞しない者はいなかった。これにより嫡子自身も勇気が進み、さらに
手柄があったということである。

良き家人は持つべきことである。主人の曽根は6百石であったが、この家人に百石を与えた
ということである。

――『明良洪範』

関連
家人、曽根某の長男に初陣を飾らせる・いい話


761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/24(火) 22:12:11.22 ID:Z6pSqmZD
>>760
ここまでしても、実戦がもうこれっきりってのが寂しいな。大阪の陣で16なら、島原の乱にも参加できたのかな?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 02:28:48.29 ID:kEuPHOo0
たしか町人と喧嘩して切腹お家取り潰しだったはず

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 15:29:25.35 ID:i+otzPX9
>>762
いい話の後になんてオチだ…。

伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいか

2016年05月22日 11:01

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 23:23:54.00 ID:w5+VKuAW
 下京にちと裕福な者がおり、男子が一人いた。その子は二歳の春に母と死に別れた。
継母をもらったときの男子の境遇には同情するも、さすがに男やもめで日々を送るわけにもいかず、
男は再び妻を求めて後妻を置いた。しかしその子が六歳の春に、父も病の床に伏した。
快復がかなわない事を分かると、兄に向かって、

「私の子はまだ幼いので、あなたのもとで養育してください。
成人したら家をその子に渡してください。」

と言い置きを残し、ついに亡くなった。
 遺言のように、その子を伯父の方へ呼ぼうとすると、継母が

「我が腹から出なかったばかりに、どれほど辛苦して年月を育てたことか。
この後にまた夫をとろうとは思ってません。髪を剃り、あの子を育て家を盛り立てます。
けっしてそっちへは渡せません。」

と怒り、双方が伊賀守(板倉勝重)の前へ出た。

「いずれにも言う所の理がある。それなら子供をここによこせ」

と呼び、子供を膝元でなつかせられた。
炬燵にあたらせたり、菓子などをやって食わせたりして、子が安心した顔つきになったところで、

「そちは伯父のもとにいたいか、継母のところにいたいか」

と問われると

「伯父のところにいたい。」

と言う。

「そうならば、もとの所にいけ。」

と戻してやった。
 伯父と後家は子の手を取って奪い寄せる。子は泣く泣く伯父の膝に座った。
伊賀守は、

「まずしばらくは伯父の方に預けよ。とかく子は伯父になついているようだ。
その後のことは、そのときに考えるとしよう。」

と物柔らかに言って双方を帰された。
(醒睡笑)



756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 06:55:47.91 ID:sMOQ9/Iz
>>755
伯父と継母でひっぱりあいこして離した方に行かせるんかと思ったら違った

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:45:21.22 ID:00wt5hra
大岡裁きの元ネタの人

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 12:50:48.12 ID:+eqi60iP
>>755
>「まずしばらくは伯父の方に預けよ。とかく子は伯父になついているようだ。
>その後のことは、そのときに考えるとしよう。」
すげー柔軟でいいな

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 18:01:03.45 ID:3BcdrjFR
>>758
こう言う柔軟さがないと長年京都所司代は務まらなかったんだろうな。



速やかに退去せよ。

2016年05月22日 11:00

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:39:05.74 ID:MJ+Dsnbs
備前中納言殿(宇喜多秀家)御簾中(豪姫)が、最近産後のご病中に、物の怪が憑いたとあい見える。
きっと野狐の所為と太閤殿下は思し召され、御朱印を以ってこのように決定された。

日本の領域において、誰が公儀を軽んずるだろうか。天下において生命あるものから生命無きものまで、
すべて上意を重んじている。いわんや畜類がそれを畏れ従わないということが有るだろうか。
速やかに退去せよ。

こうなった上は、尚も取り憑き、この物の怪のために不慮の事態が出来すれば、当社(伏見稲荷社)は
即座に破却する。その上で日本国中に狐狩りを毎年かたく仰せ付けられ、その類を断ち、尽く殺し果たす
旨を御意として表明された。

社人はその旨をよく理解し、肝胆を砕いて御簾中が回復する為の祈祷をする事に専念すべきである。
恐々謹言


拾月廿日       石田治部少輔
               三成(花押)
           増田右衛門尉
               長盛(花押)

(伏見稲荷社宛文禄四年書状)

有名な秀吉による、豪姫狐憑きに対する反応である。



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 18:55:34.87 ID:DObW0O0V
産後鬱だったんじゃないのかね

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 20:56:51.50 ID:pHCqulG8
ラスボスの恫喝が怖い

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 21:53:32.60 ID:teJVoUjd
犬千代がラスボスから 国宝大典太光世を借りパクする
ためのイベント

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 00:49:25.25 ID:3/b36sce
>>642
今でいうとそういう医学的な言い回しがあることでも、
当時だと経験的にそういうことがあって原因は「物の怪じゃないかな」って話結構あるのかな

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/22(日) 08:43:01.02 ID:00wt5hra
レビー小体型認知症が知られたのって結構最近
幽霊見たって話は大抵これで説明出来る

清正の舟奉行を4,5夜眠らせなかった

2016年05月21日 14:52

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 04:58:49.89 ID:TcEpCjsE
関ヶ原の乱の時、加藤清正の北の方(清浄院)も大坂にいたのだが、石田三成が人質を取ろうと
しているという話を聞いたため、

清正から付けられていた竹田善兵衛家正と大木土佐恒持(兼能)は謀を廻らし、轉法口にいた
清正の舟奉行・梶原助兵衛(景俊)に梔子の煎汁を飲ませて、4,5夜眠らせなかった。

そうして疲れ衰えた助兵衛が大病人のようになると、彼を駕籠に乗せて綿帽子(防寒具)を
被せ、前後に衾(寝具)を重ねた。そして、門番の前で駕籠の戸を開き、断って屋敷に行く
ことを度々行った。すると、門番は後には見慣れて、いっこうに咎めなくなった。

一方で、川口で百足船を晩ごとに漕ぎ比べさせた。これも番船は見慣れて後には、「どれは速い、
どれは遅い」などと言って、守りを怠っていた。

そんなところへ清正から、「私には石田に与しなければならない用件はない。なんとしても、
北の方を敵に渡さずに逃げ落ちさせるのだぞ」と、告げて来た。それは大木の計画していた
ことであった。

それから、北の方にこの事を告げて、衾の下に彼女を押し隠し、その上に梶原がもたれ掛かって、
いつものように駕籠の戸を開いて門番の前を通った。大木も後から供をして「もし見咎められた
ならば、北の方を刺し殺して切り死にしよう」と思っていたが、事故も無かった。

そして轉法口に行き、やがて北の方を百足船に乗せて漕ぎ出した。番船の前をさっと行き過ぎて
2,3町にもなると、「あれはどういうことだ!」と騒ぎひしめいたが、その間に鳥の飛ぶが如く、
1里余りも漕ぎ延びた。

番船たちは「謀られたぞ!」と言って、碇を上げて追い付こうとしたが、その間に船は行き過ぎて、
ついには肥後へと下り着いたのであった。

大木と竹田は大坂に居残ってこの事を漏れ聞き、「討手が来たならば思うままに戦おう!」と、
待ち受けたが、敵方は関ヶ原の戦いで敗れたために、思いもよらず難を逃れた。

大木はもとは佐々成政に仕えて、後に清正に仕えた。才略と篤実を兼ね備えた者だったので、
清正の寵愛は厚く、今回のことにより、また2千石の禄を増し与えられたということである。

――『常山紀談』




大木土佐守の殉死

2016年05月21日 14:51

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 05:02:57.54 ID:TcEpCjsE
(清正の逝去により、)国中の士農工商は悲嘆に及んだ。大木土佐守という者は佐々陸奥守(成政)
に仕えたが、陸奥守逝去の後に清正に奉公し、3千石の身の上で勤めた。清正は長年とりわけ大木に
懇志であり、それゆえに大木は、「重恩は感謝しきれない。冥途まで御供申さん!」と言って、切腹した。

――『清正記』

大木土佐が追腹を切ったことは本書(清正記)の如く、6月25日の辰刻に私宅で切腹致した。
その時、家老たちへこの旨を申し達し、いずれの者もやって来て様子を見たところ、

三宅角左衛門は、「なんとまあ、武運に叶った侍かな。異国や日本で数度の忠功を致して御厚恩を
蒙り、いままた黄泉までの御供を致すとは、羨ましき武士である」と言って、土佐の死骸より流れ出た
血を取り、自分の手の上に置き戴いて、嘗めた。

この事の是非は計り難いけれども、この他には聞かないことなので、これを記すものである。

(中略)

葬礼は10月13日に西光寺原において遂げ行い、京都本国寺の住持・日桓上人により引導された。
追腹を切った大木土佐と金官(良甫鑑)の棺も清正の棺に続いて担がせ、同じく宮籬の内に左右に
並べ置かれ、同日桓上人により引導された。

(清正の)廟所は本書の通り中尾山に建てた。前述の両人の者たちの廟も日乗大居士(清正)の廟の
左右の脇に並べて立て置かれたのであった。さてまた、本妙寺はもとは熊本にあったものを取り去り、
中尾山の麓に建てたのである。

――『続撰清正記』




「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」

2016年05月21日 14:50

義姫   
637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:16:15.99 ID:PZ8kAf93
人物叢書『最上義光』巻末年表の慶長五年九月二十日に「お東、留守政景に早く出陣するようせつく」とある。
では具体的にはどのようにせついていたのだろうか? 
書状の文面からうかがえる。
「こちらに来て下さって本当にうれしいです!
 大変なことになっているから、ともかく一刻も早く山形に来て下さい。
義光父子もあなたを待っています!
とにかく早く早く、急いで急いで、本当にすぐに来てくださいね!
(九月十九日午前六時頃)」
「昨日はお返事ありがとう。
数を揃えてから山形入りするそうだけど、今日は戦闘になりそうだから、人数揃い次第山形に来て欲しいんです。
最上父子にも何か意見を言ってあげてください。
義光は相手にも都合がある等と口では申しておりますが、
ともかく早く来て欲しいんですよね。
全員揃わなくても、あとから来る部隊は誰かに任せてもよいのでは?
急いで来るなら、義光のあなたへの好感度もアップすることでしょう。
ともかく急いでください。今日の昼前には来て下さい。
一刻も早く来てください。
一戦交えたあとで遅れて来るのでは、あなたのためにもならないと思いますよ。
ともかく早く!(九月二十日午前四時頃)
「今日、使者は送ったけどお手紙遅れなくてごめんなさいね。
あなたの宿舎も窮屈で退屈ではありませんか。
こんな緊急事態で義光父子も何のお構いもできなくて、ごめんなさい。
でも、あなたと私は親しいんだし、義光の前だからって遠慮しなくていいんですよ。
義康はまだ若いから失礼があったらごめんなさい、
私はあなたと義康の間をとりもつから安心してください。
何かご意見ありませんか? 
そういえばあなたのご家族、元気にしていますか?
息子さんもきっと大きくなったでしょうね。様子を聞きたいものです」
さらには上杉撤退後。
「帰陣されるって聞きました。決着はついたから、帰るのもありですよね。
でもまだ籠城している残党がいることですし、まだ一戦ありそうでして。
だから、ちゃんと決着がつくまで戦って欲しいんですよね。
それから帰っても遅くはないでしょ。
義光も内心はそう思っています。
私にそう相談してきましたからね。
でも、あなたにとどまって欲しいというのはあくまで私が考えていることです。
政宗のおかげで最上が助かったことは天下に知れ渡っていますから。
だからこそもうちょっと最後まで見守ってもらえたらな、って。
遠くに行ってしまったら援軍を頼んでも仕方ないって、義光も言うんです。
もう三~五日ですから、留まってください。
そうやって落ち着くまで滞在した方が政宗の評価もアップすると思います」
さらにはお東侍女・小宰相からもこんな手紙が。
「政宗(原文でも呼び捨て)が会津に向かうからあなたも早々に戻るそうですが、どういう理由かお聞かせいただけますか。
山形は敵が撤退したといえども、まだ近隣には残党がいます。
あげくには忍びやゲリラ部隊を使って活動させているとも聞きます。
まだ最上勢は少なく、城の奪還もできず、劣勢の中敵をくいとめている状態です。
最上家は滅亡の危機にあると、ここに伝えさせていただきます」

こうした必死の要請を受け、政景はその後も山形に滞在し、
最上家は危機を脱した。
それにしても、政宗からは深入りするなと釘を刺され、
一方でお東からこんな手紙が毎日のように届く政景の気持ちを想像すると、
胃が痛くなるかもしれない、ちょっと悪い話なのか。
それとも必死で手紙を書くお東のちょっといい話なのか? 迷うところ。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 17:12:29.73 ID:LAEUGsmI
>>637
お東って誰?と思ったら義姫のことなんだね。
これでもかと引き止めててワロタ、帰りづらいってレベルじゃねーw

これも人煙のため

2016年05月21日 14:49

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 23:41:45.80 ID:S7g6JhYO
 一学(市川一学)の兵書講義のとき予(松浦静山)は
「かつて浪花茶臼山の行って所々を眺めたが、御城とは近いように思われた」

と話しをしたら、一学は受けて以下の話をなされた。

「それがしもかつて遠遊したとき見ましたが、それに同じく思われました。
古人が伝え聞くには、この御陣のとき、茶臼山から真田丸までの間は三十丁余のつもりで御陣を構えたが、
実は十八丁であったそうです。そのときは人煙が覆って暗かったので、このような近いところも遠く見えたといいます。

 また長宗我部が守った所から、藤堂の陣までは、二十丁ばかりというが、実は六丁であったといいます。
これも人煙のためであったといいます。

 また冬の御陣のときは、城内を外堀の向かいから望むと、立て連ねていた旗幟の紋が、うちかすんで鮮やかでなかったといいます。
これも人煙がたってそうなったとのことです。
 夏御陣のときは、旗幟の紋が行燈の傍らの物を見るようによく見分けることができたそうです。
これはそのとき人気が一つでなかったためだそうです。」
(甲子夜話)

距離の測り間違えってけっこう致命的なような



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/21(土) 00:02:11.96 ID:PiBkDXt/
霧のせいで時間を計り間違えるとより悲惨
と相手方の又兵衛さんが

私が及ぶところではない

2016年05月20日 10:43

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 00:23:35.05 ID:igMUeQhK
ある時、将軍徳川秀忠は駿府城の二の丸に1ヶ月ばかり滞在していたことがあった。
大御所である家康は阿茶局を召して言った

「将軍は壮年であるのに、旅住にあるのも既に一月なれば、いろいろ退屈にも思っているだろう。
美しい花(女性)に菓子を持たせて、我が命だと言って遣わせば、拒否もしないだろう。
お前の心得にて計ってくれないだろうか?」

これに阿茶局
「よくお心付きたる仰せです。」と、早速女性を選びこれに菓子を持たせて、宵の口の頃、ひそかに
参上させた。

尤も、秀忠にはかねてより阿茶局から斯くと申し上げ置いてあったため、秀忠は裃を着た姿で女性を
待っていた。女性が秀忠の部屋の前に来ると、彼は自ら立って戸を開け、彼女を上座に座らせ、
持ってきた菓子を頂き、手をついてそれへの御礼を申し上げると、女性に

「さあ、早く帰られよ。」

と、自ら先に立って戸口まで送った。その姿意義正しく、言語厳かであり、女性は顔を真赤にして
立ち帰り、この事を阿茶局に報告した。

このように、秀忠が女性を、あくまで家康からの遣いとして対処したことを聞いた家康は
「早くも帰されたのか。将軍は元より律儀な人であるが、私が及ぶところではないな。」
そう感嘆したという。

(慶元記)




時は盂蘭盆、咎は瓜一つ

2016年05月20日 10:42

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 00:34:45.48 ID:S7g6JhYO
 慶長七年七月七日に、背中に笈摺(巡礼者が物を背負う時衣服の背が擦れるのを防ぐための単の袖なし羽織)
などをかけた人足が、痩せ黒んで竹杖にすがって京の町を通っていた。
 見る人々は
「ああ、なんと怖ろしいでしょうか。このごろは地獄の蓋の窯も開き、罪人が聖霊となって出てくると聞くが、そのような者であろうか。」
と言い合っていると、この者はある店に立ち寄った。

 彼は瓜は一ついかほどかと尋ね、店の者は二文であると答えた。
「腰にただ一文ある。盆の結縁と思ってまけてくれんか。」
と言うと、主人は「そうしよう」と提案にのった。
その返事を聞くと彼はすぐに瓜をとって頭からかぶり喰らう。

 食べ終わった後、挟んでおいたはずの銭を見ると、銭はすでに落ちておりただ縄だけがあった。
「瓜の主人よ、慈悲と思って許してくれ」
と嘆くが、この主人は慳貪な性分で
「沙汰の限りだ、おそらくすりの類であろう。皆の衆、出てきてください。」
と町の人を集めて痩せた男を追い立てて、板倉(勝重)殿の垣の内へ引き据え、起こった事を具に訴えた。人足も起こった事をありのまま言上した。
伊賀守はお聞きになられて、
「いずれ事の実否を糾明しよう。先ずこの者を瓜売りに預けようぞ。
一日二回の飯をその者に与え、昼は町でよきように番せよ。なおざりにして我を恨むな。」
と言って帰らせました。
主人はたった一文の事でいらぬ訴えを起こしたら、面倒なことになった物だと思いながら、
一間の所に押し込めて、番を据えて、毎日の飯を与えた。

それから六日七日に及んだが、糾明がないのでこらえかね、
一同が参って「御糾明下さい」と板倉殿にかけあった。
伊賀守は
「やるべき事が多くて忘れておった。
今思案してみると、時は盂蘭盆、咎は瓜一つ、これほどの裁許は初めにすべきであったが、
瓜売りの慳貪な心根の憎さで延びてしまった。
飢えにのぞむ者を見たら、招いてでも与えるべきなのに、
無力な者を捕らえてきて、銭一文の事で首を刎ねよとはなんだ。
 慈悲をさせるために、この日ごろは養わせたのだ。急ぎその者を許して帰せ。」

との下知をされ、その席にいた人は皆頭を下げ、感涙を流さなかった者はいなかった。
(醒睡笑)



747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 21:25:33.40 ID:SGk61fVQ
いい話過ぎるだろ(´;ω;`)ブワッ

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/20(金) 22:38:14.71 ID:0j3juup3
>>746
瓜売り「ウリリリリリィィィィィーッ!!!」

勇士の名を汚さぬよう

2016年05月19日 21:27

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 08:02:28.13 ID:Pn127/+v
越前少将松平忠直の家臣に、原隼人正貞胤という者があった。元は甲州武田家の武士にて武功の者であったが、
浪人していたのを忠直に召し抱えられ、黒母衣衆に編入され、その合戦の知識を高く評価されていた。

彼は真田幸村と古傍輩の好があり、旧友であった。そこで大阪冬の陣の和睦が結ばれると、真田方から
「和睦後、互いの辛苦も語り慰めとしたい」と、しきりに招請してきた。しかし原は自身で判断するわけにも
いかないと、忠直に伺いを立てると、御免あったため、真田の陣所へ赴いた。

真田幸村は原の来訪を大いに喜び、様々に饗応し、嫡男大介も見参に入れ酒宴数刻に及んでから、幸村は語った

「私は今回の合戦で討ち死にすべき身であったのに、今度の不慮の和睦で今日まで存命し、再びあなたに
お目にかかれたこと、生前の大慶である。
この幸村は不肖なれども、今回一方の大将を承った事、今生の面目、死後の思い出と存ずる。

今回の和睦も必ず一端のことであろう。永くは続かない。終にはまた一戦となると、私は推量している。
その時に潔く討ち死にすること以外、私は考えていない。
臨終の時は、いま床に飾っているこの鹿の抱え角の兜、これは先祖重代の家宝であったのを、父安房守が
私に譲られたものだが、これを着けて討ち死にするつもりである。
あなたがもし、この兜首をご覧になれば、幸村が首であると思い、一返の御回向にも預かりたい。」

原隼人はこれを聞くと
「戦場に挑む者のうち、誰が生きることを考えるだろうか。
遅れ、先立つとも、ついには冥土で再会するのだ。」

これに二人は笑いあった。

それから白河原毛という名の馬に、白鞍に金で六文銭を打ち付けたものを置いて引き出させ、
幸村はこれに乗って隼人に見せながら
「重ねて合戦有れば、大阪城の城郭は破却されれているので、必ず平場での合戦となるだろう。
だとすれば平野の辺に馳せ、出撃してきた東国勢に駆け合わせ、馬の息が続かないほどに戦って
死ぬつもりであるので、いまこの馬はひとしお秘蔵にしているのだ。」
そういって馬から降り、再び酒宴となった。

ここで原隼人は言った
「今の和睦こそ幸いである。貴方はともかく、子息のことは、御舎兄の伊豆守殿にお預けに成って、
とにもかくにも、跡を継がせるべきではないだろうか?」

幸村はこれを聞くとニッコリと笑い
「不肖のそれがしであるが、関東より度々招かれており、いま倅を伊豆守の元に遣っても、
さのみ悪いことではないと思う。であるが、一生日陰者として有るのも武士の恥辱である。
高鳥死して良弓蔵されるという。豪傑であっても治平の時代には用いられない。ましてや
柔弱なわが倅など誰が用いるだろうか。

人には皆名分がある。その生死、禍福は人意を以ってどうにか出来るものではない。
ただ私と死を共にして、勇士の名を汚さないようにしたい。」

二人は一日語り合い、黄昏に及んで原隼人は帰っていった。
実際に真田は翌年、かの兜を着けあの馬に乗って討ち死にしたとのことである。

(慶元記)



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 12:26:34.41 ID:C+jA2yLf
こういう潔い武士らしさは、江戸時代でも好まれたんだろうな

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 13:39:12.18 ID:dqPc8IuE
幸村ってあるから江戸時代に作られた話だろうしな

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 17:46:38.62 ID:Iz92FozX
幸村とある時点で胡散臭さ、逸話度がグッと上がってしまうのがなんとも、ね

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 18:08:43.85 ID:S5GhVgTP
写本してるうちに書き換えられたりするからそう単純な話でもない

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 20:30:44.01 ID:ZEO/h7Rc
小楠公
真田大助
大石主税
日本人が好む英雄の息子たちも人気があるよね

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 22:04:34.78 ID:VIqbXPQx
そういえば近所に"ゆきまさ"と名付けられた少年がいるなあ
字面までは知らんが

週間ブログ拍手ランキング【05/12~/18】

2016年05月18日 19:25

05/12~/18のブログ拍手ランキングです!


「しずのおだまき」 38

今川氏真の楽市令 28

17歳で将となったのは 27
いわんや平相国の公達であれば 23

織部事件  16
豊太閤の御木像 16
皆女子ばかりの中ゆえに 16

「そうか。ならばそっちを巡視しよう。」 15
上州犬伏にて 12
閻魔状 11
御軍旗由来 11
長宗我部家督のこと 10



今週の1位はこちら!「しずのおだまき」です!
薩摩に伝わる衆道の物語。薩摩というのは江戸期を通じて、他国から衆道の盛んな国だと思われていたようで、
江戸では「犬と若者は薩摩屋敷に近寄ってはならない」という話が信じられていたとかどうとか。
まあつまり薩摩の人は犬も若衆も食ってしまうから(別の意味で)という事でw
あと鳥羽伏見の後、江戸総攻撃との噂の中、江戸から真っ先に疎開したのは女子供ではなく若い男性であったとかw
そんな話を思い出してしまった逸話でした。

2位はこちら!今川氏真の楽市令です!
今川氏真の楽市令についてのお話。楽市令そのものは、昨今ではかなり解釈も変わってきましたが、積極的経済政策で
有ることには変わりなく、氏真のそういう面でのやる気を伺わせる内容です。
ところで、武田勝頼については、彼が滅びたのは信玄のせいだ、とよく言われますが、氏真も、父義元の積極的な
外征政策、あるいは内政の、負の側面を背負ってしまったのではないかな、と感じています
義元の死後、三河だけでなく遠江でもあれだけ混乱が起こったのは、やはりベースに義元の支配への反感が、ひろく
存在していたように感じるのです。
そんなことも、ふと感じたお話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!いわんや平相国の公達であればです!
名奉行の名裁き!板倉勝重・重宗親子の裁きは、『板倉政要』という書物にまとめられ、これが後世大岡政談のネタ本に
なったりしますが、そのような書籍にまとめられるほど、当時の人達が京都所司代板倉勝重・重宗の裁判を、模範的なものと
考えていたということなのでしょう。
このお話もいいですね。端的に言えば「どうでもいいだろそんなの」という話ですが、角を立てず、「言われてみれば確かに」と
思わせつつ、双方をなんとなく納得させる。真偽を究明していないという批判は有るのでしょうが、それをすると結局はどちらか、
或いは双方に遺恨を作ってしまうわけで、そこをなるべく上手く回避するのが、当時の裁判官に求められたものだといえるでしょう。
そういう意味で、確かにこの人は名奉行だなと、感じるわけなのです。



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました!いつも有難うございます。
また気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね。

ここの所微妙なラインで体調よろしくなく。風邪かなあ?(;´Д`)

紺地に六文銭の旗の陣

2016年05月18日 17:05

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 06:44:03.98 ID:uLvmKNEo
大阪冬の陣、東方の寄手である真田伊豆守信之家臣の矢澤但馬、吐田筑後、榊原石見の三人は
元より武功の者であったので、敵が矢鉄砲を激しく撃ちこむのも恐れず、一番に仕寄りを付けた事は、
両将軍(家康・秀忠)からも賞賛された。

この時、伊豆守の手勢が仕寄りを付けるにおいて非常に勇敢であったのを、大阪方の木村長門守重成も
大いに感じ入り、或る夕刻、真田左衛門佐が出郭より本城に帰った時、重成は彼に対し、
東を指差して言った

「あそこの、紺地に六文銭の旗の陣が最初に仕寄りをつけました。あれはあなたの一族でしょうか?
もしくは他門でしょうか?彼らは実に、城攻めの妙を得た者達です。」

真田答えた
「あれは兄伊豆守の陣です。ただいま軍兵に先立って下知している二人の若武者、
一人は河内守(信吉)といって16歳、もう一人は内記(信政)といって14歳。どちらも私の
甥であります。亡父昌幸の余風があって、彼らも健気に働いているようです。」

重成はこれを聞くと
「その兄弟は、普段は何色の鎧をつけているのでしょうか?今から軍兵たちに、二人には鉄砲を用いないよう
申し付けたい。」

「それは情ある言葉です。しかし彼らは若年であると言っても、他の軍勢に先立って仕寄りを掛けるなど、
味方にとってはなかなかの剛敵です。
ご存知でしょうが、忠義のためなら親疎も言い出さないのが武士の習いですから、私の一族だからといって
弓鉄砲での攻撃を避けるというのは考えもできません。彼らもまた、私を見れば必ず攻撃して
来るでしょう。であれば、誰にかぎらず秀頼公の敵と見れば、席を去らずに討ち果たすべきです。
これが武士たる者の本意です。」
そう語ったという。

(慶元記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 11:21:19.48 ID:IT3tWaKI
一族が敵方にいる以上、周りの他の軍より率先して働かないとダメだし
兄一家も大変だな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 21:39:16.08 ID:7o1opGdq
黒田基樹「真田信之」p172によれば
「真武内伝」に
木村重成の持口を信吉・信政が陣頭に立って攻めているのを見た木村が信繁に
「あの六文銭はあなたの一族か?」と尋ねたところ
信繁「むろん、兄信之の子で私にとっては甥にあたる」
と返答し、木村が
「若年にして奇特な戦いである、あの2人には矢、鉄砲を放たぬようにしよう」
という話が載っているが、信繁は真田丸を守っていたため、残念ながら全くの創作である

としてたけど、真田丸から城に帰ってからの話なら問題ないような
(しかしたしかに木村重成より若いとはいえ、木村重成が「若年ながらたいしたもの」
と言うのには違和感)

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:09:52.91 ID:RsDfDWju
>>734
信吉が1595年(文禄4年)生まれで大阪の陣の頃には二十歳前後、信政はその2つ下だから、別にいいんじゃね?

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/18(水) 22:58:53.72 ID:8V1YisfJ
>>732
結局最後の最後まで兄一家は弟に振り回されて終わっているんだよなあ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/19(木) 04:38:18.20 ID:otyaGBAD
>>732
源為義 為朝 平忠正「そうか?」