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だから越中に謀られたのだ

2016年06月17日 17:55

732 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/17(金) 11:15:30.85 ID:GEmWGYBE
三成の柿の話は綿考輯録(細川家譜)だろうからたしかに違うがこのコメント4も訂正しないので自分が
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html

慶長4(1599年)年3月26日家康は向嶋の屋敷に移動した。
これより以前三成はどうしても忠興を味方にしないと家康を倒せないと考え、多くの人に頼みその中には前田玄以もいて
「忠興と仲が悪いのは大いなる誤りで何とかして和睦できるよう、お頼み申す」とひたすら頼まれたので玄以は忠興の所に行き、このことを告げた。
しかし忠興は許さないので玄以は重ねて「太閤の大恩をもし忘却してなければ私恨を捨て三成と和睦してください」と再三説得してきたのでついには納得して三成と会うことを決めた。

長束大蔵大夫(正家)は和睦のことを聞き大いに喜び、「忠興から三成の所に行くのも、三成から忠興の所に行くのもどうかと思うので、我が屋敷にて共に会って和解するといいでしょう」と
と玄以を通して申し入れたので、日を定めて行くことになった。

三成は早くから来ていて手には盤上の柿を忠興の前に仲直りの挨拶もせずに置き、三成は「以前好物だと聞いていたので持ってきました。
お先に召し上がりください」と言うので忠興は挨拶してから柿を食した。
その席にて三成が内府の専横を数えあげては言い「これをそのままにしては天下は穏かならずことになり終いには天下は内府を主とするに至るでしょう。
まことに遺憾で何とかして秀頼公に奉公仕り権勢を欲する内府をを討ち果たべきと決意しました。
太閤への大恩を忘れてなければ我々に味方してはくれないでしょうか
秀頼公への忠節に対しては、お望み次第にどこでも好きな国を二ヶ国を拝領することを三成が周旋することをお誓いしよう」と丁重に言うと
(忠興も)「我々に目をかけてそのようなことを頼むことに大変嬉しく思う。この上は不肖を捨て一命をかけ、お味方しよう。さて、内府を討つ手立ては?」
(三成は)「こんな時のために、太閤存命の頃から内府の屋敷を取り巻き、味方の面々の屋敷を変えさせました。
今夜即夜討ちをするつもりで宮部善祥坊(宮部継潤)と福原右馬助(福原長堯)は家康の近隣で屋敷が高いところにある。
これらのところから火矢を打ちかければ火が出て何の備えもない家康方は慌てて屋敷を出るところを井楼から一人一人鉄砲にて討ち取る。
僅か二千の兵と聞いているので仮に逃げだす者がいても、こちらの多兵をもって討ち取る算段なので何の手間もいらないので(忠興にも)兵を出していただきたい」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 11:20:29.37 ID:GEmWGYBE
忠興もこれはもっともな手段だと思ったが、少しも合点がいかないふりをして、
「いやいやそれでは駄目だろう。火矢を打つのは地の高下とは限らない。
内府も堀裏に走り、櫓などを付け、火矢の用意もあるだろう。その上近辺の諸将には、常に忍を置いていると聞くので今夜の企みもはやくから知っているだろう。
こちらから火矢を10射出す時、向こうからは100も射かけてくるだろう。そうすると、敵の屋敷より味方の屋敷が先に燃えてしまいます。
内府は数度の武名を顕し、場数の勇士も多い。2000人が心を一つにして必死の働きをすれば、討つことは難しい。
その内に彼と親しい諸大名が聞き付けて駆けつければ、却って御味方の敗北は疑いようがない。
例えその状況でなんとか勝利を得ても、『弱きの巧みな臆病なる手立』などと後々まで嘲りを受けるのは大変悔しい。

しかしながら、それほどまでに思い定めているのなら、私に一策があるので聞いていただきたい」と言い三成も「その意見を承る」と返した
「今夜の先手を私に命じろ。無二無三に切り入るから各々は二の目を取れ。そうすれば内府を討ち取ることもあるだろう。
例え敗死したとしても、潔い英名は後代に残る」

と申したところ三成はそれを聞かず「あなたを捨て駒にしてそのようなことはできません。お願いだから最初に私が提案した意見にしてください」というが
忠興は納得せずお互いに意見を引かないため論争になった
「忠興殿もあのように言うしどのような意見でまとめるにしろ時間も大分過ぎて夜も深いし、今夜はお開きにしませんか」と提案があったのでそのとおりとなってその日は皆帰った。

後日この話を聞いた小西行長の反応は
「なんて口惜しいことだ。五奉行は世間事には賢い者達だが軍事には拙い。だから、越中(忠興)に謀られたのだ。もはや内府を討つ事など思いもよらないことだ」と、言い頭を抱えて悔いたと聞いた。

忠興はその夜、幽斎を通して「このような事があったので、向嶋に立ち退くように」と言ったが、「彼らにどのようなことができるのか」との返事だった。
翌日忠興自ら家康の所に赴き、そのことを全て話して早く向嶋に立ち退くようにと提案した。
家康はその計画を知り大いに驚き、「命を落とす所だった。この御恩は子々孫々までも忘れない」と語ったという。

関連
柿と三成と忠興・悪い話


甲州初て御手に入て神祖命令の事

2016年06月16日 12:27

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 01:22:43.30 ID:NrDrQuB2
甲州初て御手に入て神祖命令の事

甲州を神祖が手に入れられたときに、初めに出した令は

甲州の政は何事も信玄が致し置いたことから外れてはならない。
ただし毒矢を軍用に施すことばかりは、停止するものとする。

といったものであった。
甲州の人民は、たちどころに神祖の御厚徳に伏したという。

たしかに合戦の勝負は武士の常である。
しかし敵を倒すために、毒で人を苦しませるのは武の道ではないだろう。
仰感もあまりあることである。
(甲子夜話)




「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

明応二年四月二十八日の怪異

2016年06月16日 12:26

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:08:19.93 ID:0Q9E5mRm
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)



723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:19:44.81 ID:ZSZT4DHF
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:25.01 ID:ktDOEWmB
京兆家では良くある事

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:32.40 ID:3H7wGKyS
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 23:47:26.13 ID:rHhvGcTa

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////
          松本蔵人

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 00:17:28.80 ID:/6VPyBFD
>>726のAAが出てきて一安心

週間ブログ拍手ランキング【06/09~/15】

2016年06月15日 19:02

06/09~/15のブログ拍手ランキングです!


情けある事である。 35

ふらずはいかで 天が下とは 22

台徳院が着られた御具足 15
伊東家累代の家臣 14

米良重矩の帰参 13
世に”一富士二鷹三茄子”という事がある 13

沢庵番 12
御爪が1つ足りません 12

道器一致の旨にかなう 11
負けた者も腹が立たぬように 10
東北鎮護の為であり 9

徳川秀忠も同意であり 8
稲津重房とその母、妻 8
公方が御謀反された時 6
とりわけて心を決めろ 6


今週の1位はこちら!情けある事である。です!
島津義久が敵武将から取った人質を丁重に扱っていた、というお話。殿中というその家中の中心たる場所で召し使われる
ということは、その家の多くの機密も含めて情報を得ることも出来、また君主からその仕事ぶりを即評価してもらえる
立場でも有り、家中において、相当以上の信頼を得たエリートと考えていいと思います。そういう立場に、敵将の人質を
使ったというのは、人質となった人たちの資質も良かったのでしょうが、敵とはいえその人物を尊重する姿勢もあったと
いうことでしょう。
こういう面で戦国期島津家からは、一種の男らしさ、清々しさを感じますね。

2位はこちら!ふらずはいかで 天が下とはです!
こちらも島津義久の、雨乞いの歌についてのお話です。
コメントでも有りましたが、この義久の「てるとても ことわりなれや 日の本に ふらずはいかで 天が下とは」という歌、
小野小町の、いわゆる雨乞い小町「ことはりや 日のもとなれば照りもせめ さりとては又あめが下とは」が明らかに元ネタですねw
こういうのは当時はパクリとは考えません。一種の「教養」と受け取られていました。ですのでこの歌を聞いた人は、
義久の教養の深さを思ったことでしょう。
そんな事もふと思った逸話でした。ダムの貯水量、心配ですね(;´∀`)

今週管理人が気になった逸話はこちら!台徳院が着られた御具足です!
徳川秀忠の鎧にあった銃弾跡についてのお話。秀忠は遺骸の調査から骨まで達した銃創が在ったともされ、一体いつの合戦で
負傷したのかと、いろいろ想像されています。
ただ甲冑については、鎧の強度を見る「試し打ち」などでわざと鉄砲で撃ったことも在ったようですし、本人の銃創についても、
調練や鷹狩の場など、合戦以外での負傷も考えられるわけで、今後何らかの記録が発見されない以上、いろいろな方向に、
想像をふくらませる話と成って行くのかもしれません。
ですがこの話、案外創作物に反映されませんね。戦国創作の世界における、秀忠のよくも悪くも存在感の薄さがそうさせるの
かもしれません。きちんと見ていくと非常に面白い人物なのに、惜しい。

今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話があったら、そこの拍手ボタンを押してみてください!
( ´ ▽ ` )


今読んでる本~
「怪異」の政治社会学 室町人の思考をさぐる 著:高谷知佳
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062586290&_ga=1.93005789.1507046815.1462956700


中世、特に室町期において、「怪異」が社会的に、どう受容され、どのような効果を持っていたのかを研究した本です。
当時の社会を考える上で非常に面白い本ですね。
特に、細川政元に関して多くのページを割いているので、どのくらい居るかはわかりませんが、魔法半将軍ファンには
必読と言っていい内容ですw

柳生家門番の事

2016年06月15日 13:16

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 00:08:01.21 ID:bTZypxN7
柳生家門番の事

あるとき但馬守(柳生宗矩)の方へ沢庵がきた時に、門番所に一首の偈が張ってあった。

『蒼海魚竜住、山林禽獣家、六十六国、無所入小身』

「おもしろい文句であるが、末の句に病がある。」
と沢庵は口ずさむと、門番が
「いささかも病はない。これはそれがしの句である。」
と答えた。
沢庵は驚いていかなる者か次々と尋ねると、朝鮮の人で本国を奔命して日本に渡り、
但馬守方門番をしているとのことであった。

但馬守は聞いて、
「どうして入る所が無い事があろうか」
と二百石与えて、侍に取り立てたという。
今でも柳生家に子孫がいるとか。
(耳袋)

一体どの家なんでしょうか



「これは危なきことよ」

2016年06月15日 13:14

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 03:36:11.83 ID:nrusAHo5
池田光政徳川家康に御目見したのは5歳の時だった。その時、彼は脇差を拝領し、
家康の膝元近くにいた。家康は彼の鬢髪をかき撫でて、

「三左衛門(池田輝政)の孫である。早く大人になり給え」と、言った。すると光政は
拝領した脇差をするりと抜いて見つめた。家康は、「これは危なきことよ」と言って、
自ら柄を持ち、鞘に納めた。

それから光政が退出した後に家康は、「眼光の凄まじさは常人ではない」と、言った。

――『有斐録』



朔寧の監司

2016年06月15日 13:13

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 20:20:08.45 ID:dzuNT2ui
文禄の役でのこと。

文禄元年10月18日、朝鮮に派遣されていた伊東祐兵は駐屯していた鐵原より出陣、19日早朝に
朔寧の城を攻め落とし、400名余を討ち取った。

するとその後、日本軍が占拠している王城(ソウル)において、朝鮮人が群集し、痛く泣き
哀しんでいた。不審に思った石田治部少輔(三成)が彼らに理由を尋ねると、このように答えた

「鐵原の上官(伊東祐兵)によって、朔寧の監司を討ち取られたとの事なのです。それ故に嘆いて
いるのです。」

石田はこの事を伊東祐兵に伝え、急ぎこの監司の首を送るように言った。
この使いに伊東祐兵は大いに驚いた

「夜懸けであったので切り捨てにしたため、大将を討ち取ったことも知らなかった!
急ぎその首を探すのだ!」
そして落合九右衛門尉、川崎又右衛門尉両人に、士卒70を付けて朔寧城に派遣した。

両人は朔寧に住む朝鮮人二人を捕え、監司の死骸について問うたが、彼らは有無の返答も
しなかった。この態度に落合、川崎は大いに怒り、即座に一人を惨殺した。
すると残った一人は大いに怖れ、死骸のある場所を知っていると白状した。
そこで彼を先に追い立て案内をさせた所、朔寧城から三里ほど奥にある松山に入った。
ここには墳墓が多くあったのだが、監司を埋めた所は墳も築かず、上に木の葉などを撒き散らして
何事もない体に偽装していた。

落合たちは士卒に命じてこれを掘り出し、死骸は長持に入れ、金襴の類にて包んだ。
冬のことであったので、色もほとんど損じていなかった。
そして首を斬って持ち帰ると、すぐに王城へと送った。

この首は中台門に曝されたが、朝鮮人はこの首の前を通る時、必ず再拝して泣いたという。

(日向纂記)



徳川秀忠も同意であり

2016年06月14日 17:48

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:34:32.03 ID:VPNrXKgR
徳川家康武田勝頼のことを、「若気ゆえに強ちすぎて、終に滅亡した」と
言い、殊に惜しんだ。徳川秀忠も同意であり、勝頼の子孫を尋ねたところ、

宮原右京(晴克)の母は勝頼の娘である旨が申し上げられ、秀忠は喜んだ
様子で、「初めて聞いた。その他にはいないのか?」と、言った。

家名の絶えたことを憐れんでのことである。

――『明良洪範』



836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 03:12:55.53 ID:G40Fhy1X
清和源氏足利基氏の血筋なり。上杉憲寛、上杉義勝、宮原義照と続き
義照の実弟義久を養子とす、兄弟同母が真理谷信政の娘なり。
義久、家康より勝頼娘貞との結婚と嫡子は宮原姓、庶子は穴山姓を名乗ることを命ぜられる。
高家なり。


837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 07:08:30.30 ID:ym6v2zfR
>>835
甲陽軍鑑のせいだけど家康、勝頼は数えで4つしか違わないので
完全に同年代なんだよなぁ。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:00:59.65 ID:twXBwpVX
真理谷信政ということは武田信長の子孫か

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 08:10:57.18 ID:X1xNTxNG
真理谷には信玄の子供が養子に入ったという伝承があったような

公方が御謀反された時

2016年06月14日 17:46

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 17:15:53.28 ID:ZCjPkN6A
信長公に対し、公方が御謀反された時、
信長公が御出馬されて、上京を放火なされたことがあった。
その後連一検校が御前に出て
「このたびの御陣の洛中での騒ぎで、上下が怖がり恐れることは前代未聞のことです。」
と申し上げれば、信長公が
「そうであろう。さてその恐れたる様子とは?」
と仰せられたので、連一検校は以下の話をされた。

「上京に火がかかったと見ると、二条にいた者の妻が、
まず我が子だけでも連れて逃げればすむと思い、
三つか四つの子を背中に負い、慌てて走り、四条の橋のたもとまで逃げきった。
あまりに苦しくて、ちょっと子を降ろして休もうと思って地面の上にどっと置いてみると、
石臼でございました。」
(醒睡笑)



712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 18:27:43.12 ID:rxTBNthZ
>>711
落語みたいw

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 20:03:03.72 ID:ceKeV3cO
>>711
>信長公に対し、公方が御謀反された時、

謀反ってw

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:36:16.80 ID:tavheLe0
天皇御謀反ともいうんだから公方が謀反したっていいだろ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 21:53:46.47 ID:F7+1vUHt
室町将軍が都を追い出されるのはよくあった事だけど
義昭の場合、昵近公家衆がついて行かなかったんだよな。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:48:29.32 ID:xgZWF6Y2
義輝の時点であまりついていかなかったそうだ
正確には京を退去するまでは従ったが、亡命先までは付いて行かなかった

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 23:54:02.95 ID:zYwTxKAt
>>713
信長公なんだから信長が主人公、公方は敵役

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 00:12:22.96 ID:twXBwpVX
東洋史学の岡崎文夫は魏の皇帝である曹髦が臣下のはずの司馬昭に対してクーデタを図ったのを
「浪漫的な反抗」と評してたが
義昭に対してそういう言葉を使う人はいないんかな
それともナポレオン3世の自己クーデタ(こっちは成功)のような喜劇扱いだろうか

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/14(火) 02:53:59.02 ID:MKd78BCA
すでに傀儡だったじゃん。実権ねえから謀叛なんだって。

米良重矩の帰参

2016年06月13日 11:21

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 18:57:26.47 ID:b8183FBv
米良美濃守重矩は日向伊東家の家臣であったが、過ぐる天正4年、一旦の憤りに、
累代の主君に背き、島津家へ寝返った。これが終には伊東家の日向没落へと繋がったのである。

しかし米良は薩摩において栄達したものの、心安い日は無く、鬱々と思った。

『私はこのまま、叛逆の罪を抱いて生き、不快の月日を送るよりも、一度旧主に見まえて、
身の罪過を謝し潔く誅殺を被ってこそ、この上の本意ではないだろうか。』

そう考えている中、天正16年、伊藤祐兵が再び飫肥を拝領したと聞いて、取るものもとりあえず
飫肥に帰り、祐兵に対面して先非を謝した。

伊東祐兵はこれを聞くと
「美濃守は叛逆の徒であり、国を覆した者であるから、必ず厳罰が行われること必定である。
であるのに、死を決して帰ってきたこと、奇特である。」

そう言ってその罪を宥し、さらに知行を与えた。
米良重矩は感激のあまり、叫んだ

「公百年の後、私は必ず殉死します!」

しかし、伊東祐兵が慶長5年、大阪で死去した時、嫡子祐慶は未だ幼少であり、また宮崎一乱の
最中でも在ったため、心ならずも本意を遂げることが出来ず、その後、清武の領主にもなったが、
程なく病死した。
この時、末期に及んで嫡子勘之助にこう言い残した

「汝、必ず我が志を継ぐべし。」

寛永13年(1636)、伊東祐慶が江戸にて死去すると、米良勘之助は清武にて殉死を遂げた。

(日向纂記)



負けた者も腹が立たぬように

2016年06月13日 11:20

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 02:51:28.66 ID:gEWYMp6S
板倉伊賀守殿(勝重)は訴訟の決断の時に、負けた者も腹が立たぬように決断した。
「事にはよるだろうが、奇特なことである」と、分別ある人は語った。

――『備前老人物語』




世に”一富士二鷹三茄子”という事がある

2016年06月13日 11:19

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 02:04:39.09 ID:ZCjPkN6A
 或る人より聞いた。
駿海産の甘鯛を生干しにたのは”おきつ鯛”と称して名品の一つである。
今は興津鯛と書いて、興津の産であるなどと考える人もいるが、誤りである。
これは駿城に烈祖が在られたとき、奥女中のおきつと云う者が宿下りして戻ったとき生干甘鯛を献じた。
これが非常に御口にかない、戯れに”おきつ鯛”と御定めあってから名高くなり、その地で専ら”おきつ鯛”と呼ぶに至ったという。

このようなことにさえ転訛は多いものである。

 また楽翁(松平定信)が話されたことに、
世に”一富士二鷹三茄子”という事がある。この起こりは、神君が駿城に御座いましたとき、
初茄子の価が高く、数銭を払わなければ買えなかったので、
その価の高さから

「まず一に高いは富士の山だ。その次は足高山だ。その次は初茄子である。」

と言われたという。
かの土俗は、足高山をタカとのみ略語で言ったので、今では鷹と訛り、
その挙句には三物はめでたいものを寄せる等と考え、画に描いて掛けてもてあそぶとまで至るのは
余りあることである。

(甲子夜話)



707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 02:13:55.79 ID:OcMckIT/
うっかり信じてしまいそうなホラ話だな

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/13(月) 14:09:26.65 ID:WDc3Al78
権現様また命名してる・・・(´・ω・`)

沢庵番

2016年06月12日 17:26

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 01:12:52.81 ID:Bc2GXjZ1
 品川の東海寺には、沢庵番というものがある。
これはかの寺領の農夫が夜毎に寺の門々を守り居ることである。
そのわけを聞くと、沢庵和尚は高徳で猷廟(家光)は殊に帰依なさっていた。
大城へも召し、また寺へも御立ち寄らせなさること度々あった。
しかし、和尚はとにかく永住を欲せず、時として寺を立ち去ろうとする。
公はこれを憂いなさり、人に守らせて出て行くことを止めなさった。
沢庵和尚が遷化の後も例となり、永くその旧例によっている。

 今親しく農夫に
「どうして夜々に寺門を守るのか?」
と問うと、
「私どもが守らなかったら沢庵が逃げ去られるからです。」
と答える。
農民の愚直にして古色を保っているのは、誠に愛すべきことだ。

(甲子夜話)



830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 09:50:09.92 ID:N/XJnpxD
>>828
家光「おじいちゃん、家はここですよ。」

東北鎮護の為であり

2016年06月12日 17:24

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/12(日) 03:08:16.25 ID:CjzaKTNh
保科正之は寛永14(1637)年1月、江戸城二の丸留守居役として勤務していた。
同年10月、九州にて「島原の乱」が起こると、正之が将軍の名代として九州に派遣されるという風評が立ち、
正之は下命に備えて家臣達に派遣の準備を命じた。だが下った命令は

「二の丸留守居役を免じ、直ちに山形に帰国せよ。」というものだった。

期待していた大役とは違い、家臣らは失望したが、当の正之は至って機嫌が良く、かつて家康が秀忠に教えたという

「東国に変事ある時は西国を固め、西国に変事ある時は東国を固めよ。」という言葉を紹介した。

そして

「この帰国命令は東北鎮護の為であり、藩屏として信任されている証である。」

と家臣に語ったという。



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 11:09:15.52 ID:5v0A27iF
>>829
奥羽とは言うが東北なんて言葉あったんかね?

稲津重房とその母、妻

2016年06月11日 21:00

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 21:21:03.04 ID:hbwty/xh
稲津次兵衛尉重房は、永正の頃、綾の地頭であった稲津越前守重頼の孫であった。
伊東家の日向没落の時は僅かに14歳であり、伊東義祐への供奉に遅れ、心ならずも
薩摩島津家の幕下に属し、その後、島津家大阪邸に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いていた。

そのような所に、伊東祐兵に日向国飫肥が拝領されたとの話を聞き、「累代の旧君を他所から見るのは
快からず。たとえ死すとも帰参せねば」と思い立ち、譜代の郎党たちを呼び

「私の心底はこの通りだ。お前たちは早急に薩州に下り、母と妻を連れて飫肥へ脱出せよ。
私はその頃合いを合わせて、この邸を立ち退き飫肥に到着するようにしよう。」

こうして郎党たちに早船を求め、薩摩に向かって下らせた。そして稲津は、郎党たちが薩摩の近くまで
行ったであろう頃合いに、にわかに邸を脱出した。

薩摩邸の番頭は稲津が逃亡したことに気がつくと、すぐに早船を仕立ててこの事を国元に報告した。
ところが、稲津の郎党たちが乗った船ははるか以前に大阪を出たのに、海上が風波悪しく、殊の外
到着が延び、却って番頭からの注進の船より1日遅れて薩摩に着いたのであった。

この時島津家では「この事について寛大な処置を取れば、家中の他の、旧伊東家の者達への差し障りとなる。」と、
稲津重房の母と妻は殺されるに至った。

稲津重房は飫肥に帰参し、これに伊東祐兵はニ百石を与えた。
その後慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。37歳であった。

(日向纂記)



情けある事である。

2016年06月10日 13:09

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 21:51:54.21 ID:WhuxB23e
豊臣秀吉の九州征伐の結果、伊東祐兵が飫肥を拝領し日向に復帰すると、山田匡得は早速、
豊後から祐兵の元に帰参した。

この山田匡得の妻子は、伊東家が日向を没落した時、薩摩軍の捕虜となったのであるが、島津義久

『名のある武士の妻子である。疎略に扱ってはならない。』

と、自らの殿中において召し使っていたのであるが、匡得が豊後より日向に帰った聞くと、
義久はこの妻子に金銀衣服を与え、匡得の元に送り返した。
情けある事である。

(日向纂記)



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 23:22:12.47 ID:uF7Wiswo
>>820
疎略じゃなくても結局召し使うのか?

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:12:36.79 ID:QvQElJKz
>>822
召使っていれば自分の目が届きやすいだろ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 10:27:35.35 ID:5eiexPJT
粗略に扱うのなら牢屋にぶち込むか南蛮に売ってる

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/10(金) 12:34:17.77 ID:dsKdPzyC
>>822
わしの女扱いしておけば部下が手出しができないだろ
さすが島津公!

ふらずはいかで 天が下とは

2016年06月10日 13:08

821 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/09(木) 22:12:46.34 ID:JQnODw8/
慶長九年(1604年)の夏の初め鹿児島では月を跨いでも雨が降らず水が枯れて民が非常に難儀しているので
島津義久が早鈴神社に詣でて、
「五月雨は 雲重なりて 日比ふれ なへて早苗の うるふはかりに」
「山廻る 雲の誘はば 雨をちて 大御田小田の 早苗うるほせ」
と雨乞いの祷をこらし詠せ玉ひけるところ、即日盆を覆すが如く大雨が降り旱魃を免れることが出来た。
是より、この所の民は此御歌を短冊に写し、旗の端につけ、金鼓を鳴し舞踊をして祈祷すると
雨降らずということなく、寛政九年(1796年)夏より雨少なく民苦しむ時にも、この詞で雨乞いすれば、
即座に雨が国分一郷に悉く降り二百年以上旱魃の憂いはなし。
(文化六年(1809年)には義久の雨乞いの様子が書かれた雨乞いの碑が建てられる)
また、国分城に居住の頃(慶長九~十六年)も雨乞いを行っており、大穴持神社にて
「てるとても ことわりなれや 日の本に ふらずはいかで 天が下とは」
と和歌を奉納してます。
(「鹿藩名勝考」「国分の古蹟」「広瀬の歴史資料」)

利根川のダム貯水率過去最低と聞いたので水不足解消祈願で



826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:08:18.02 ID:HS/lanIb
>>821
    伊奈忠次
       |
   \  __  /
   _ (m) _ピコーン
      |ミ|
   /  .`´  \
     ∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
    (・∀・∩< 水がないなら引けばいい
    (つ  丿 \_________
    ⊂_ ノ
      (_)

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/11(土) 14:23:39.20 ID:nCt3Ho3I
藤堂高虎「水が無いならため池いっぱい作って貯めよう」

道器一致の旨にかなう

2016年06月09日 17:11

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 21:37:51.16 ID:fbNcmqXW
 前に、増上寺虫干しのとき、台廟(徳川秀忠)の御具足を出し、
その御鎧に銃丸の痕が所々有ることを言った。
予は台廟は御戦場でこのように銃を蒙りなされたこと無かったと疑った。

 然る後に、軍講者の宗耕に会う。このことを語ると、
「不審もっともでございます。それは関が原の御合戦の時、
小山御陣で台廟が御物見として通りなさったところを、真田が山上から銃を連ねて撃ったときのものです。
このとき御側衆には、討ち死にの人が二、三人有ったとの事です。」
と話した。

予は聞いて歎息し恐れ入った。これらは(坂本)天山が伝える所の、道器一致の旨にかなう。
(甲子夜話三篇)

道器一致ってなんでしょうかね



695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:01:15.68 ID:etFF9G+S
道器、道具、甲冑

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:06:27.62 ID:xCyA6pUL
同母弟のがほぼ同時期に狙撃されたのは偶然なのか

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 12:03:16.65 ID:Acm8aK/8
暗殺だよ。

伊東家累代の家臣

2016年06月09日 17:10

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 19:23:32.62 ID:CmxE+Ops
天正15年3月17日、島津中務家久(良い方)は豊後と日向の境である梓嶺から撤退する時、そこを佐伯惟定の
軍が追撃した、薩摩勢も山の中腹に踏み止まり、幾度も盛り返し戦ったが、終に敗軍し、家久は僅か七騎にて
引き上げるのを、佐伯惟定の軍師である山田匡得は追い駆け、これを討ち取ろうとしたのか、声を揚げた

「そこに落ち行かれるのは中務殿と見たるは僻目であろうか!?山田匡得、ここまで追い駆けたり!
軍は常の習い。夢にも余儀を存ぜず。静かに引かれよ!」

これを聞いた家久は、虎口を逃れた思いをし、また少し行って道の脇で休んでいた所、山上より人の声がして、
山田匡得がまた追いかけてきた!」と聞こえたため、家久は狼狽え、取るものもとりあえず逃げた。

山田匡得がこのように家久を見逃したのは、伊東家の日向没落の時、匡得の妻女並びに弟の新左衛門尉、
七兵衛尉が捕虜と成って薩摩に抑留されていたためで、もし家久を討ち取れば、彼らに害が及ぶことを
慮った為であった。

その後、島津家久からの使者が、山田匡得の元へ尋ね来た。その趣は

『貴殿は豊後表において、度々の高名、その比類なきことは世の人が遍く知る所である。
これは我が主君義久の聞こえに達し、もし豊後を立ち退き薩州に来るなら、三百町の地を宛行われる旨を
申し含まれた。』

との内容であり、書状には島津義久よりの、三百町を宛行うという直判書が添えられていた。

山田匡得は答えた
「私の武勇の聞こえが、義久公のお耳に達しただけでなく、三百町の地を宛行うとの事、見に余り
辱く存じ奉ります。その上私の妻子兄弟の者が、多年に渡り御厚恩を被っていますから、本来なら
参上して御助成を受けるべき所でしょう。

ですが、私は伊東家来の者です。二君に仕えるのは本意では有りません。
ですのでこれは、辞退させて頂きますので、そのように御報告下さい。」

一方、山田匡得の豊後での軍功非常に多く、大友宗麟より感状を下された。
そこには

『匡得、度々の高名比類なき手柄のほど感心せしめ候。これにより豊後において百五十町の地を
宛行う』

とあった、山田匡得は謹んで宗麟に言上した

「御感状の趣は身に余り、辱く思います。ですが私は伊東家累代の家臣です。
伊東家が日向の内に、些少の地でも安堵されれば、早速に帰参しようと考えているのです。
ですので知行頂戴のことは、幾重にも辞退させていただきたいと思います。」

そう再三に渡り申し上げるのを聞いた宗麟は、感動し涙を流して言った

「匡得の二君に仕えざるの心底、誠に以って感ずるに余りある。だが私は所領以外に、
一体何を恩賞に与えるべきか。
ああそうだ、幸い我が家が秘蔵する鎧が十領ある。この内からそなたの目利きに任せ、
好きな物一領を与えよう。」

そこで山田匡得は、ありがたく存ずるの旨言上して謝意を表し、即座に目利きをなして、
鎧一領と兜一頭を拝領したのである。

(日向纂記)



818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 22:07:19.41 ID:etFF9G+S
後から言ってきた大友が島津の半分かよw

とりわけて心を決めろ

2016年06月09日 17:09

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/09(木) 02:16:48.68 ID:r8hTccR9
勝ち戦で武具を落としたことは恥にならない。先を心掛けたと思われるのだという。
負け戦の時に落としたことは恥になるということである。その時によるのだろうが、
およそ負け色の時は取り乱すものだから、とりわけて心を決めろとの意味であろう。

――『備前老人物語』



御爪が1つ足りません

2016年06月08日 17:09

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:07:57.55 ID:/fdBuAhc
ある時、信長公が手の爪を取りなさるのを小姓が取り集めていた。
すると小姓があれこれ調べ、探し求めている様子だったので、

信長公が「何を探しておる?」と問いなさると、小姓は「御爪が1つ
足りません」との旨を申した。そこで信長公が御袖を払いなさった
ところ、爪が1つ落ちてきた。

信長公は御感心なされ、「物事にはこのように念を入れなければ
ならぬ」と仰せになり、小姓に御褒美を与えなさった。

――『備前老人物語』




814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 03:24:05.47 ID:mrEuZqdb
これが後に乱ちゃんの話になるんだっけ

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 08:13:06.45 ID:RqtV25Pc
爪を取るだなんてどんな拷問だよ
サディストはやっぱ違うぜ

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:54:18.75 ID:oRXpAH/t
備前老人物語みたいな逸話集のせいで
本来の人物像からかけ離れちゃったイメージを植え付けられた被害者は結構いると思うんです

台徳院が着られた御具足

2016年06月08日 17:08

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 00:49:24.05 ID:fbNcmqXW
 芝の宿坊雲晴院は、増上寺で役を勤めた者で、年をとって引退し故里因州に帰っていたが、
故あってまた私の宿坊の住持としている。
 この僧はかつて方丈の虫干しに関わった者なので、よくそのことは知っている。
虫干しの品も数多いことゆえ、御朱印部類、御甲冑部類、御刀剣部類など唱えて、
御代々御寄附等の品々をよく干していたという。

 分けて御秘蔵の品として伝わる物は、方丈の書院に干す。
その中に、台徳院(徳川秀忠)が着られた御具足があった。その御背の所に、銃丸の痕が所々あったという。
恐れ入ることである。台廟は、神祖のように御戦場の話はあまり聞き及ばないが、どこでこのような危うい御事があったのだろうか。
これが御秘蔵の御物なのはしかるべきことであろう。

 宗耕曰く、『慶長外伝』に中に書いてあるそうだ。
『慶長五年九月七日、江戸中納言[台廟]、信州上田へ御出勢なされましたとき、
城中から真田勢が打ち出で、その他、山からの手勢と合わせまして、
御旗本へ鉄砲を撃ち掛けましたので、御勢は三町まで繰り上げましたという。』
これによれば、この御具足は正しくはこの時のものである。
この時御側の輩にも、不慮の討ち死に等が有った。
との話である。

(甲子夜話三篇)

今でも残ってはなさそうですねえ




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 01:16:10.80 ID:vr887YWi
当たっただけで貫通はしてないのかな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 05:35:28.46 ID:YdrSKFuN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3852.html
遺骨調査によると骨まで達した銃創痕があったとか
真田のせいだとしたらそりゃ九度山下山を許されませんわ

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 10:03:38.48 ID:YCJF0dkB
>>688
第二次上田合戦で秀忠が負傷した記録は、伝承も含めて一切存在しないし、
仮にそんな重症を負ったら、逆にあんなに早く家康のもとに駆け付けられない。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 11:41:35.45 ID:8tzKO/kN
隠蔽したんじゃないの?ひと揉みに攻めたら反撃くらって負傷とか跡目相続に関わる事件だわ

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 12:36:54.76 ID:CmxE+Ops
隠蔽って便利な言葉だな。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 13:07:12.04 ID:mrEuZqdb
まあ、この話も甲冑に弾の痕とはあるけど怪我したとは書いてないね
軽傷くらいは負っていそうだけど、骨に残るような銃創ていつ負ったんだろうね

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/08(水) 15:40:34.79 ID:EuFT9BDA
>>688
こういう逸話を思わせるのいいね、ロマンだわ(実話とはいってない

週間ブログ拍手ランキング【06/02~/08】

2016年06月08日 17:00

06/02~/08のブログ拍手ランキングです!


村上織部道浄の自刎 30

上杉謙信の武勇 22

徳川秀忠へ譲られた七宝 18
この世で最も汚い事は 16

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし 14
織田三七殿の侍・二宮千太郎は 14
ジョン・セーリス航海日誌から 13

真柄といった者は私めなどに 12
伊東義祐父子、伊予に亡命す 11
つまるところ、その時の運 11

神祖は常に御面を俯いて 8
美作国万灯会 7
火の手があがれば落城よ 7
後藤又兵衛は大志ある男である 7

伊東家再興の事 5
にぐるもはやき あしがらの敵 5
旧伊東勢蜂起の失敗 4
この世に生まれて嬉しいことが3つ 3


今週の1位はこちら!村上織部道浄の自刎です!
葛西家の家臣であった村上道浄の物語。陸前高田に、このような郷土の偉人がいらっしゃったのですね。
教え子が二派に別れ争い、それを自らの死を以って止める。師としての責任に殉じた、というべきでしょうか。
この逸話からは、学問が普及した江戸中期以降のような空気が有り、それだけこの村上さんが、時代を先取りする
知性の持ち主でもあったことを現すのでしょう。そんなことも思わせてくれた、いいお話です。

2位はこちら!上杉謙信の武勇です!
こちらは信長の軍勢の威勢を嘲笑うことで、織田軍を十里退かせた上杉謙信のお話。なんだかこう書くと、中国の古典に出てくる
武将のようですねw
これはもちろん逸話ですが、逆にここで、諜報、情報を重視し、慎重な上にも慎重さを心がける信長の人物像がリアルだと思いました。
史料などに顕れる織田信長って、わりとそういう人ですねwそして、それが出来るからこそ、信長は強かったのです。
謙信の、傲慢とも言えるほどの大胆不敵さとともに、そんなことをふと思った逸話でも有りました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!ジョン・セーリス航海日誌からです!
このお話でやはり面白いのは、日本で受けるのが戦争の絵と色絵、という所ですねw浮世絵、春画の流行は江戸時代中期くらい
からですが、この時期から好みはそうだったのだなあと、我らがご先祖様たちの、そういう面での変わらなさを、実に面白く読みました。
それにしても、この報告の結果、ヨーロッパからはどんな絵が輸入されたのでしょうね?それも非常に気になるお話でしたw



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも有難うございます!
そして先週は1万エントリへのお祝いを本当にたくさん頂き、心底嬉しかったです。涙の出るほど嬉しかったです。・゚・(ノ∀`)・゚・。
今後も少しずつ地道に、ここを続けていければいいなと思っています。
どうぞ、宜しくお願いします!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



神祖は常に御面を俯いて

2016年06月07日 10:20

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 00:04:18.26 ID:k3eFWNRj
神祖は常に御面を俯いて人と応対さなれていた。
そこで天海僧正
「かかる御姿は御威望がないかと思われます。
こいねがわくは、御心があってほしいです。」
と申した。

御答えに
「そうであるが、以前太閤の御前に在ったこと忘れず、これが癖と成ったのだ。」
との仰せがあったという。

かかる恭敬の御有様であられたことは後には知られなくなった。

以上を輪王寺宮安楽心院[公延]が御物語されたと
その近習に勤めていた者の話を聞いた。
また宮のこの話は、慈眼大師からの世々相伝の言という。
(甲子夜話)



家康が最も恐れた男、太閤豊臣秀吉
家康はその恐怖により、秀吉の死後も面を上げることができなくなったという




この世で最も汚い事は

2016年06月07日 10:19

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 02:35:36.30 ID:oFUqmr/s
多分、まだ出ていないかな。曽呂利新左衛門と秀吉の茶の話。

豊臣の秀吉の家臣、曽呂利新左衛門は、いつも絶妙の湯加減で茶を点てていた。
その極意が知りたくなった秀吉は、ある茶席にて、直に極意を確かめようとした。
新左衛門が次の間にて茶の用意を始めると、こっそりと後をつけて、ふすまの隙間から中を覗いてしまった。
すると新左衛門は、茶碗に釜の湯を注ぎ、自分の舌で湯加減を確かめていたのだ。

秀吉が急いで前の間に戻ると、早速新左衛門が次の間に案内してくれた。
いざ次の間に入ってみれば、秀吉の前に出されたのはなんと、新左衛門が口をつけた茶碗。
無論、濃茶ならば回し飲みをするものだが、それとこれとは話が別。そこで秀吉、新左衛門にこう告げた。

「お主、この世で最も汚い事は何と心得る?」

「覗き見をする心でござる」

新左衛門、覗き見されていた事をちゃーんと知っていた。
湯加減を見たら茶碗は変えるつもりだったのだが、秀吉の覗き見を嗜めようと、同じ茶碗を使ったのだ。

そんな、秀吉のばつが悪い話。



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 15:23:08.34 ID:hLnkzSCo
好きな話だけど前に見た気がする

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/07(火) 21:16:19.28 ID:bDyBXs41
倍々ゲームの人だっけ?

伊東家再興の事

2016年06月06日 21:24

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 22:48:37.10 ID:uRfp4+2t
天正9年8月下旬、伊東義祐に仕える山伏である三部は、大峯山に登った帰り、羽柴秀吉が
姫路城を建築し、大層な普請であるとの風聞を聞いて、立ち寄って見物した。
するとここで、一人の武士が三部を見て話しかけてきた

「客僧は何国の人ですか?」

「九州日向の者です。」

「であれば、貴方に訪ねたいことが有ります。」

この武士はそう言って、三部を座に招き、聞いた
「日向では伊東殿が浪人されたと聞いていますが、本当でしょうか?」

「はい。島津家に国を奪われ、今は伊予国河野家の領内に蟄居しています。」

「日向伊東家のイトウの”トウ”は、藤の字を用いるのでしょうか?」

「いいえ、”東”の字を用います。」

「であれば!正しく私と同族ではないか!もし義祐殿が羽柴殿に仕える気があるのなら、私が宜しく
周旋しよう。私は伊東掃部助と言う者です。貴方は急ぎ帰国して、この事を告げてほしい。」

これを聞いて三部は彼に篤く謝礼を述べ、急ぎ伊予に下り有りの儘に申し述べた。
しかし伊東家の人々は、数年の間住み慣れた所を出ること名残惜しく、また自分たちを受け入れてくれた
大内氏の情けも捨てがたく、さらに女性たちは、三部のためにこの上さらに憂き目を見るのかと
嘆いたため、決断は先延ばしにされた。

その内に年も暮れ、天正10年正月、伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳となった。
三部はその間もしきりに秀吉に見参することを進めていたが、終にその言葉に同意し、
伊東義祐父子、並びに奥方、川崎駿河守ら上下二十余名は、名残を惜しみながら道後の城下を離れ
小舟一艘に乗り込み播磨国姫路に渡った。

姫路では三部の案内にて伊東掃部助と対面し、掃部助は懇ろに義祐父子を饗し、秀吉に対して
しきりにこれを推挙したが、秀吉は

「今、蔵米も払底している有様である!こんな時に浪人など扶持できるか!」
そう拒絶された。
そこで掃部助も、ここは暫く様子を見ることにした。
そして伊東祐兵がよろず武芸に達し容貌も魁偉なのを見て、掃部助は工夫し、秀吉が城外に
出る時を見計らい、路の側に平伏させておいた。
案の定、秀吉は祐兵を一目見て、側の者達に聞いた「あいつは何者か?」
そこに掃部助が後ろから出て申し上げた

「彼は前に申し上げた、日向の伊東です。」

「なるほど、骨柄たくましい壮士である。私が西国征伐を行う初めに、西国の武士が頼ってくるのは
吉端であろう。」
そういって即座に三十石を与えた。伊東祐兵はこの頃、六郎五郎と名乗っていたが、この時から
民部太輔と称した。

掃部助は、伊東義祐にも、秀吉に見参するようにと勧めたが、義祐は
「私は不肖なりといえども。辱くも三位の位を頂き、年齢も既に70。今浪人の身とは言いながら、
何の面目あって木下藤吉ごときに追従しようと言うのだ。
しかし子孫再興のためであるから、祐兵は格別である。」

そう言って、ついにそれを受け入れようとはしなかった。

(日向纂記)



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:08:23.62 ID:UHSHnu6x
ガラケーなので確認してないけど以前に見たような記憶がある

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:42:19.06 ID:i4Vt1r+V
>>802
前のは出典が日向記だな。
ベースは日向記なんだが、時代とともに逸話の変化を見るのも楽しいよ

伊東祐兵、秀吉公に仕える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7567.html


伊東三位入道、秀吉との謁見を断る
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7566.html



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 16:14:07.06 ID:fnaWRgWi
>>801
>伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳
すげーw

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 19:39:05.73 ID:UHSHnu6x
現代でも原樹里の親父さんなんか80超えていたような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 20:06:55.64 ID:vmhAmFX+
金森長近なんかは80越えてから子供生まれてるな

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:15:35.25 ID:BBMgsAJR
秀吉じゃないが本当にお前の子供かと、問うてみたい

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:11:47.67 ID:FeuIYPzX
鹿児島の現在の知事は伊藤祐一郎氏だが
先祖は島津日新斎に仕えたそうな
すると日向伊東と同族ではないということか

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/07(火) 08:41:11.26 ID:hyaoyfFP
>>805
46の時の子供なんて…。
大権現さまを見てごらんよ。

この世に生まれて嬉しいことが3つ

2016年06月06日 21:21

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 02:45:04.77 ID:NtgvmjWl
ある人の言ったことには、

「私はこの世に生まれて嬉しいことが3つある。1つ目は
男に生まれたことである。2つ目は下戸に生まれたことだ」

とのことで、もう1つは言わなかった。しかし、強いて
問われた後にその人は、

「大名の子に生まれなかったことが嬉しい」

と言った。その理由は何故だと問えども問えども、その人は
秘密にして明かさなかった。どんな意味であったのだろうか。

――『備前老人物語』



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 06:54:13.70 ID:DnmM45Zt
メフメト2世「せやな」

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 13:50:10.93 ID:KkNZ28zy
毛利元就?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:05:39.99 ID:q6VDGptn
元就は親兄弟が飲酒で短命なのを見て
酒断ちだっけ

伊東義祐父子、伊予に亡命す

2016年06月05日 22:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:24:47.85 ID:fhquBQUK
大友勢が耳川の戦いで敗北すると、豊後に亡命していた伊東義祐父子の居住も何ともなく心苦しい
ものとなっていった。そのような折、嫡子祐兵の奥方は容儀美しい女性であったので、義祐父子を
殺害して奥方を奪い取り、大友義統の嫡子惣五郎(大友義乗)の妻としようとする、という企てが
あると、密かに伝える者があった。

この頃、この奥方は母の阿喜多夫人の宿所を訪ね臼杵城中にあった。そこで川崎駿河守が工夫して、
阿喜多夫人の侍女に新大夫という心利いた者があり、彼女に計略を授け、夜に紛れてゴミ取りの
穴より彼女を盗み出した。

その頃伊東義祐父子は野津の光明寺を忍び出て、彼女らを途中で待ち受け、海辺に向かって
落ちていった。ここでは落合四郎左衛門尉兼家が、かつて薩摩に人質に行った折に拝領した
金作りの刀で小舟一艘を買い取り、これに伊東父子を乗せた。そして

「私もお供仕りたいのですが、年老いて、却って足手まといになるでしょう。願わくば、
早く御運が開かれ、御吉左右の程を承りたい事です。」
そう、涙を流して別れた。そして落合は程なく、豊後にて病死した。

伊東義祐父子は、供の男女20人余を引き連れて伊予の道後へと渡った。時に天正7年4月。
道後は代々河野家の居城にてこの時の領主は河野四郎通直であったので、先ずはこの人を
頼みとしたが、河野は、
「日向一国の領主であった人を、今流浪の身であると言っても、抱えおく事は出来ない。」
そう言って保護を拒否した。

伊東父子はどうするべきかと、進退を失い困惑した。
しかしここで、河野家の一族である大内次郎左衛門尉信孝という者が、その知行である久保田の
寿王庵に迎えたいと表明し、伊東父子はここで天正7年4月から同10年正月まで、貧しい月日を
送った。彼らは朝夕の食事すら調わない有様で、川崎駿河守は、一人で酒を醸造しこれを売り、
奥方の女房であった阿竹の方という女性は仕事の合間に木綿の帯を織って道後の町で売って、
これらを朝夕の助けとなした。
また三部(名は快永)という山伏は下野の者であったが、日向に下り数年の間義祐の恩顧を蒙った故に、
この時も付き従い、諸事の調度を取り賄った。

こうして、苦しい生活の中でも、心は慰められ滞在していたそうである。

(日向纂記)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:49:57.33 ID:+NFWd+lq
寄生虫やん

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:05:58.77 ID:TYTWMosG
宗茂だって浪々の折りはみんなにおんぶにだっこやったやん

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:53:34.34 ID:a6XJEzQL
宗茂の場合普段と変わらぬ姿を見せることが何よりも家臣の励みになるという特殊?な関係なので…