梁の武帝が達磨に対面された通りに

2016年06月30日 16:06

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 09:14:07.33 ID:xdkSpOUE
 上様が沢庵和尚をお召されたころである。
如何様に応対するのがふさわしいかと、柳生殿が内々に尋ねられた。
沢庵和尚は

「梁の武帝が達磨に対面された通りにしてください」

と申した。
 その時の応対とはどういうものかと柳生殿は次々と尋ねられると、
甚だ仰山に重々しい事であることがわかった。

「それでは余り御崇敬が過ぎますので、いますこし軽くするべきではないか」

と柳生殿は申されると、和尚は

「あなたはそのようにお思いなられるだろうが、当将軍家を武帝ほどには私は思っていない。」

と申されたという。

 しかしながら、沢庵和尚は元来生臭坊主ではありませんでしたので、
江戸逗留の間は柳生殿の長屋に居られ、登城の際には下男を一人連れるだけだというので、
後に上様はそれは余りに粗末な事だと、別に旅宿を仰せ付けられ、
ついには和尚のために東海寺を御建立された。
末代には稀な智識である。

(本阿弥行状記)



スポンサーサイト

島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し

2016年06月30日 16:04

784 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/30(木) 00:04:29.52 ID:3X+PEQ8D
伊達政宗が金箔の十字架背負って上洛したのは有名ですが、それより先に金箔十字架背負って
秀吉に降伏した人がいるのをご存知でしょうか?

上記の話は、うっかり戦国漫画かいこ様サイトで知ったことですが、「逸話文庫」という本に載っていて

伊達政宗、奥州一揆の時、秀吉の疑を受け、金箔打ちたる磔柱を荷はせ、上京せしと云ふ。よく人の知る所なり。
然るに是より先き秀吉九州を征せし時、島津義久、磔の木に金塗りして持たせ降参し
『若し赦さゞる時は此の磔の木にかゝるべし』と云へる由、南海道記に見えたり。(逸話文庫)

南海道記を探してみたのですが見つからず、この話の出典元はわからなかったのですが、
島津家に関する展示があるところで九州征伐での黒田如水の紹介文に
「黒田家の記録に島津義久が金の磔木を持ち、秀吉に降伏したことが書かれている(後略)」
とあるので、学芸員の方に聞いてみると、
「この話は黒田家譜に書かれていて、初出も(おそらく)黒田家譜です」と言われました。

島津義久髪をそり、墨の衣を着して、名を隆伯と号し、磔木を金みがきにして眞先に持せ、
太平寺に行て秀吉公の陣へ降参し、その罪を謝す。(原文ママ)
若御憤ふかく、御免有まじく候はゞ、此磔木かゝり申べき為、持せ参て候と申上ける。
秀吉公是を感じ給て、其罪をゆるし、却て御懇意を加へらる。(黒田家譜巻之四)

教えていただいた学芸員の方に「何故このようなことをしたのでしょうか?」と聞いてみると
あくまで個人の考えですがと言われた後、
「薩摩は海外の貿易が盛んだったので、金の磔木を見せることでそのことを豊臣方に
思い起こさせ、降伏を認めた方が(豊臣方の)得になると思わせようとしたのでは」と・・・

義久だと違和感あるから、やっぱり金箔十字架は伊達政宗の方が似合うな。



786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:04:13.10 ID:sv5Jc6ie
>>784
島津の家紋が十字だしただの偶然?でも宣教師九州に多いし知ってて当然か。
政宗がこれをまねしたのかな?

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/30(木) 16:21:18.83 ID:O2r7q+WV
まさむねが初めてじゃなかったんだね

伊達政宗の逝去

2016年06月29日 10:32

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 20:16:07.58 ID:B8g3gQ5R
寛永13年5月24日、仙台中納言藤原(伊達)政宗が逝去した。

政宗逝去の前日に、将軍家光が彼の邸宅を訪れ、政宗の病を見舞った。
この時、政宗は病み衰えた状態であったが、手水をとって月代を剃り、髪を結い、
衣装を改め、裃を着し、席を去って家光に平伏し

「御懇の上意、有り難き仕合。今生の思い出、何事かこれにしかん。
政宗は、誠に冥加にかなう武将です。日本国において誰が肩を並べん!」

そう、茫然と叫んだ。

暫くあって家光還御の時、政宗は心しずかに台顔を拝した。
家光もまた、名残を強く惜しんだという。

(玉露叢)



妖も鬼も三界火宅

2016年06月29日 10:32

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 22:42:25.66 ID:HtJd3PKa
鳥羽候[稲垣氏]の邸は麹町八丁目にあった。
伯母光照夫人がここにいましたので、予は中年の頃まではしばしばこの邸を訪れていた。
邸の裏道を隔てて、向こうは彦根侯[井伊氏]の中荘で、高崖の上に大きな屋が見えた。
千畳鋪と人はいう。

この屋は以前加藤清正の邸であった時のもので、
屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花が出てくるという。
この千畳鋪の天井に乗物[駕籠だという]を釣下げてあり。人が開き見ることを禁じているという。
清正の妻の屍を入れてある、
もしくは、中に妖怪がいて時として内より戸を開いているのを見ると、老婆の形である者が見える、
といった話を幾人かから聞いた。

しかしその後かの荘も火災の為類焼して、千畳鋪も存在しなくなった。
きっと天井の乗物も焚亡したのだろう。
妖も鬼も共に三界火宅であった。
(甲子夜話)




週間ブログ拍手ランキング【06/23~/29】

2016年06月29日 10:26

06/23~/29のブログ拍手ランキングです!



森忠政の養母大野木殿のこと 19

素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ 18

森本宇右衛門天竺より小人国に往く事 16
一体誰が詠んだ歌? 15
益田修理の色紙 15

武功の者の子であるから 14
基次最後の挨拶 13
【ニュース】肝臓は大切にね! 13
今、この戦いに及んで昌続は 13

駿府城の御堀に蛙はいない 8
梶金平辞世の事 7
神祖、猷廟楽を遊ばされし御事 3



今週の1位はこちら!森忠政の養母大野木殿のことです!
あの忠政がいいことを!(失礼)というお話ですが、当時の有力武将の関係者の流転ぶりを感じることも出来る、興味深い
逸話だとも思いました。特に、秀吉に目をつけられた人物が無残になる事、ここでも実に印象的です。
「自分に敵対した人間、恥をかかせた人間」に対する執拗な復讐心、というのは、実際には当時の中世日本人にとって
普遍的な感情であり、世間的にもそう有ることが求められていた、といえるでしょう。
大きな流れで言えば、そういった感情・直接行動の世界である自力救済社会が徐々に制限され、法や話し合いでの解決へと
移行するのが、中世から近世への変化、と言われます。この考えからいくと、秀吉という人物は近世を切り開いた人ですが、
個人としては中世の気質を濃厚すぎるほど濃厚に持っていた人物、と言えるかもしれません。

2位はこちら!素より蝿虫だと思っていれば気にならぬです!
後藤基次、真田信繁による大野治長評。ただ、いわゆる史実的なものを追っていくと、どうも大阪城内における後藤基次は、
大野治長に近いポジションに居たようで、必ずしも治長と対立はしていなかったようです。
このあたり大坂の陣が終わった後、豊臣滅亡の責任が、淀殿と淀殿に最も近かった治長に帰せられた事で、基次などの
「活躍した」武将と近くては困るという、創作的な意向が働いたように感じます。
大坂の陣の大阪城内は、ひとり『佞臣』大野が間違った道に追いやった、などと言うにはもっとずっと複雑ですね。

今週管理人が気になったのはこちら!【ニュース】肝臓は大切にね!です!
このニュースに関して、僕はもうはっきり言いますが、「ありえない」くという感想を持っています。
そもそもこの医師が前提にしている小早川秀秋の状況は、ほぼ俗説・旧説のたぐいであり、実際には、秀秋が
関が原の合戦において寝返りの決断が遅れたとは、とても言えないからです。というかそもそも決断に関わるほど
体調がよくなければ、合戦に出てこないでしょう。
思考的な遊びとしては面白いと思いますが、前提を間違えたまま結論を出していると言わざるをえません。
それにしても小和田先生…、人が良すぎます(;´Д`)



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。おつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さい!


今読んでいる本
戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち 単行本
丸島 和洋 (著)

81b8pjsnTOL[1]
武田氏研究の第一人者であり、真田丸の時代考証にも参加されている丸島先生の新著。
これも一武田氏にとどまらず、全体として質の高い戦国大名・戦国時代論になっています。
真田丸を楽しんでいる方々にもおすすめです!
( ´ ▽ ` )

基次最後の挨拶

2016年06月28日 15:23

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:30:31.39 ID:xIwt/IjX
元和元年五月二日、後藤基次は大和口の大将としてまさに出立する時、『今度は生きて再び
帰ることが無いであろうから、秀頼公に最後のお暇を申し上げよう』と、御広間へ向かい、
速水出来丸(速水甲斐守息子・当時24歳)を通して斯くと言上すると、秀頼も早速に出御し、
「早や、出陣か」
と声をかけた。

基次は謹んで畏まり
「私は不肖の身ではありますが、去年召し出して頂き、直ぐに諸大夫に仰せ付けられ、殊に
大将の号を許された事、弓矢の面目死後の思い出、何事がこれに勝るでしょうか。
であるのに私は、尺寸もこの御恩に対して報いておらず、この事、返す返すも口惜しく思っていました。

この基次、今度は一番に東兵に相当たり、千変万化に戦って、これぞと思う敵と引き組み討ち死にし、
せめてもの忠を泉下に報い奉ろうと決心しています。然らば、今生において御尊顔を拝するのも
これが限りであり、一層名残惜しく存じます。」

さしもの猛き基次も、この時はしきりに涙を拭っていた。秀頼もまた涙を流しながら

「汝の忠貞は感ずるに余りある。私も宿運拙く、いまやこの体になってしまい、一日も安堵の思いなく、
遺恨余りある。しかしこれも、前世からの宿業なのであろう。

汝と真田を私は、我が両翼と思っている。例え討ち死にの覚悟であったとしても必ず、
再びこの城に帰って、私と死を共にするのだ。この事、必ず忘れてはならぬぞ。」

基次はこの上意の有り難さに感涙を流していたが、率然と叫んだ
「天晴!名君の仰せであるかな!今生の望みもこれにて満たされました。上意の趣、畏まり
奉ります。」

そう言って御前に在った傍輩たちにも皆、暇乞いをして広間を立った。
そして襖障子に一種の歌を書き付けた

『主命ぞ 親子も捨つる武士の道 辞ひとつの命もろとも』

これを見る者は皆感動し、世の口碑に刻まれたのである。

(慶元記)



894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 22:51:58.81 ID:KCWhgknx
>>893
このままドラマにできそうなクォリティだ…

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 16:37:08.04 ID:gsTyxJTG
>>893 は実話かなあ?。秀頼の発言が詳しく載っているところをみると
創作だろうけど。

神祖、猷廟楽を遊ばされし御事

2016年06月28日 15:22

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 03:08:29.10 ID:HtJd3PKa
神祖、猷廟楽を遊ばされし御事

先年楽翁(松平定信)話で聞いたことを、林子が話した。

彼の藩に平松氏の人がいる。金次郎の後胤であるとか。
藩でも代々番頭等の役にはいいつけるが、軽い役はいいつけないという。
その者の家伝の品に横笛が一管ある。
言い伝えとして、長久手一番槍の時、当座の褒賞として神祖から手ずから賜ったという。
管もちょうどその頃の新品だろうと察せられる年代の品だという。

林子(林述斎)の意見では、
神祖は大事業の他に、瑣義末事、小技曲芸までお手の届かないことはない。
この逸話からも音楽も遊ばれることが分かる。
そうでなかったら急な御陣中でも携えることはない。
不思議なばかりで、天地の事大小となく包まれることよ
と仰感させられる。

また猷廟(家光)は篳篥を遊ばれたと見え、
御家紋付きの管が、そのころ奥勤めしていた御旗本衆の家に持ち伝えていた。
近頃執政の沼津侯(水野忠成)がいかがしてか、その器を手に入れられて、
多くの楽器陳列の中に並べて見せられた、
とその人の物語で聞いたという。
(甲子夜話)

権現様はなんでもやってるなあ



梶金平辞世の事

2016年06月27日 17:36

梶正道   
889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 20:53:11.14 ID:6jeSAv6P
梶金平辞世の事

御当家御旗本の豪傑と呼ばれ、神君の御代、戦場で数度武功で世間に知られた梶金平(正道)
が死んだとき、辞世の歌として人に話したものは、
豪気無骨の人物が忠臣の心を詠んだとしては、いささか人の批判賞美を顧みない所が
おもしろいので、ここにしるした。

死にともな あら死にともな 死にともな 御恩になりし 君を思えば

(耳袋)

私はこの歌が好きですね
格好をつけず、本心をそのままさらけ出しているようで



890 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/26(日) 21:05:05.75 ID:/pKKS7Ox
忠勝の辞世の句じゃないのか

武功の者の子であるから

2016年06月27日 17:35

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 03:31:11.65 ID:tprsOUH+
天正3年5月、長篠の戦いで小栗忠政は酒井忠次に属し、鳶ヶ巣山の要害を攻めて
兜首を取った。また、武田の士・雨宮十兵衛家次と組み合ってついに討ち取ったので、

徳川家康の御感を蒙って、御腰物を与えられた。その家次は討たれた時、忠政に
自分の子のことを託し、帯びていた刀を「渡してくだされ」と言ったので、忠政は

これを承諾し、その後に家康が甲府に打ち入った頃、その男子が恵林寺にいたので
訪ねて会い、遺言を伝えて刀を与えた。

そして、この事を家康に申し上げると、家康は「武功の者の子であるから」と言って、
男子を御家人に召し加えた。

――『寛政重修諸家譜』




【ニュース】肝臓は大切にね!

2016年06月27日 17:34

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:14:32.30 ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」


肝臓は大切にね!



776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:35:48.54 ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 14:31:31.81 ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 15:45:50.91 ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:16:22.03 ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:55:27.76 ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 19:58:33.34 ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 15:40:48.51 ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?

森忠政の養母大野木殿のこと

2016年06月26日 17:57

森忠政   
884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 16:51:28.88 ID:V5zi0zXd
森忠政の養母大野木殿のこと

天正4年森忠政が7歳のとき、塙直政の養子に行く取り決めが交わされたことがあった。
塙直政は妙向尼(忠政母)の母の兄弟で、忠政からみれば大叔父に当たる人物である。
直政には既に男子がいたものの、信長から山城南部と大和・河内の守護を任せられ、
柴田勝家の娘(養女という説も)の大野木殿を後妻に迎えるなど当時の織田家では権勢を振るっており、
森家にいては"家督を継ぐ可能性はほぼゼロの六男坊"の忠政にとっては悪くない話であった。

ところが塙直政はその年の天王寺の戦いで討死し、責任を負わされる形で塙一族は没落。
大野木殿も勝家の家臣の原元次に再嫁し、当然ながら養子の件は白紙になってしまった。

その後大野木殿は元次との間に男女一人ずつもうけたものの、
天正11年に元次は勝家と共に賤ヶ岳の戦いで戦死したので、尾張の大野村に隠れ住んでいた。
しかし天正18年の小田原征伐のとき、それを聞きつけて来た秀吉により
「勝家の孫だから」という理由で12歳になっていた息子を殺されてしまい、以後は細々と暮らした。

~それから21年後~

慶長16年春42才の忠政は、名古屋城普請をしているとふと大野木殿のことを思い出したらしい。
養母になるはずだった彼女の居所を突き止めると、家臣を迎えにやり津山へ呼び寄せて内山下の屋敷に住まわせた。
忠政は大野木殿のことを「御母公様」と呼び慕い、実の母親のように扱ったという。

寛永4年に大野木殿が亡くなると忠政は遺言に従い法然上人ゆかりの誕生寺に葬送し、御霊屋を建立した。
御霊屋は後世に観音堂に転用されたものの、現在も残る。

――『森家先代実録』



885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 17:10:02.82 ID:vj5SNGYk
た…忠政にいい話だと…

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 19:27:35.39 ID:3vlpcHIf
それなのにラスボスは相変わらず

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 23:28:09.26 ID:V5Jo8c+e
小田原攻めの時には、たしか遠江時代のいじめの報復を考えて相手を探索させてなかったっけ?

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 21:29:56.93 ID:KbY3yhVd
>>884
川中島時代にひどい事したよね
自業自得かもしれんけど

森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

2016年06月26日 17:56

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 00:23:04.18 ID:6jeSAv6P
森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

清正の臣森本儀大夫の子を宇右衛門と称す。
儀大夫が浪人の後、宇右衛門は、わが天祥公(松浦重信)のときしばしば伽に出てきて、
天祥公はその咄などを聞かれたという。
この人はかつて明国に渡り、それから天竺に行こうとして、
かの国の境にある流沙河を渡る時に蝦を見たという。殊に大きくて数尺に及んだそうだ。
それから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様を自ら図記して携えって帰った。
〔今その子孫は、我が領内にいる。正しくこれを伝える。しかし今は模写である。〕

また方々をめぐり歩く内に、小人国に至ると、折節小人が集まっていた。
一石を運んで橋に架けようとしていたのを宇右衛門は見て、
自ら一人で石を水に渡したら、小人達は大いに喜んで、
報酬と思しき菓物を多く贈ってくれた。
これも今に伝えているが、年を経たためか、今では梅干のようなものとなったという。
〔初めは多かったが、人に与えていくうちに今はわずか二、三だけである。〕


近頃、ある人が曰く、これらの行ってきたところは、真の天竺ではなく他邦であると。
流沙河もその本当のところでは沙漠で水はない。
なので、我が国で常に聞き及んでいたので、これを名付けたのだ。
また山や舎の如きも皆異所であろう。
かの国にはこの類のことがなお多い。
また小人国も南北所々にあり、この小人はどこのものであろうか。
たしかに外域、はるか遠くの地に至ったのは疑いもないけれど、
その頃は世界四大洲の説もまだ明らかでなかったので、
あいまいで分かり難い。
とのことであった。


(甲子夜話)

実際は、祇園精舎ではなくアンコールワットだそうで
小人国って、ガリバーみたいだなあ



一体誰が詠んだ歌?

2016年06月25日 14:07

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/24(金) 18:26:00.32 ID:AODPDf4a
一体誰が詠んだ歌?

数年前に新聞にも載ったから北陸地方の人は知ってると思うお話しです。


越前と若狭の国境近くにある国吉城。その城主粟屋勝久は若狭武田家の重臣であったが、
主家の内紛に乗じて同じく武田家重臣の逸見氏と結んで叛乱を起こす。独力で鎮圧できない
と見た武田家では、縁戚である朝倉義景に助力を要請した。朝倉軍は永禄6年(1563年)から
元亀4年(1573年)まで足かけ10年にわたり国吉城に籠る勝久を攻撃したが、遂に落城させる
ことはできず、勝久と国吉城の名を世に知らしめる結果となってしまった。

その3回目の籠城戦の時のこと。永禄8年(1565年)8月、朝倉勢は若狭に侵入し、中山という
所に付城を築き国吉城下を荒らしまわった。この頃になると、朝倉方では直接城を攻める
よりは収穫期を狙って侵攻し、略奪を繰り返すことで相手の力を徐々に削ぐという戦法に
変えてきたようである。領内を荒らされた勝久は、逆に相手の付城を襲い奪われた穀物を
奪い返すことを計画、夜討ちを仕掛けて見事これを成功させる。付城に残された兵糧や武器
を国吉城に運ぶとき、次のように書かれた一枚の短冊が見つかった。

「武士の 鎧の袖を 片敷きて 枕に近き 初雁の声 9月2日 朝倉太郎左衛門

敵の主将朝倉太郎左衛門の詠んだ歌だった。勝久も歌の嗜みがあったので「朝倉殿も武勇
ばかりでなく歌道にも通じておったか…」としばし瞑想したという。



と、籠城戦を記した『国吉籠城記』に書かれ、福井県ではこの歌は朝倉氏の詠んだ歌と
思われていたのでした。ところが、時代はくだって平成21年(2009年)、若狭国吉城歴史
資料館の職員さんが富山県の魚津城跡を訪れた際、城跡に建てられた碑に朝倉氏が詠んだ
とされる歌と全く同じ歌が刻まれているのを発見。傍らの説明文には天正元年(1573年)、
上杉謙信が魚津城に陣した際に詠んだ歌と記されておりました。この職員さんが更に
調べたところ、謙信が信濃に出陣した際に戦勝祈願のため詠んだ歌にもほぼ同内容の歌
(「武士の 鎧の袖を かきたして 枕に近き 初雁の声」 ―長野市豊野町川谷日影に
伝わる民話「陣場山」より)があることが判明。同じ北陸でありながら福井・富山両県
とも、更には長野県も加え、一つの歌にそれぞれ異なる伝承があることを知らなかった
ということがわかりました。発見した職員さんに感謝敬礼!


さて、この歌の作者は一体誰が詠んだのでしょうか?残念ながら現段階では誰かわからず
もやもやしますので悪い話に投稿します。個人的には朝倉太郎左衛門が誰かということにも
興味あります。



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:36:41.16 ID:Ks3dfeuz
>>767
無名だから気づかれてないだけで全国に同じようなことありそうだなぁ。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 18:49:17.75 ID:6TIcVgos
季語を変えるだけで割と応用が利きそうな歌だし何らかのテンプレが存在したとか
紛争地域の武士にはよくありそうなシチュだから、みんな詩想が似ていたとかかね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 02:07:24.24 ID:t+feyNi7
>>767
朝倉太郎左衛門は宗滴だけど没した後だし、
養子の景紀は九郎左衛門なんだし、
その息子で長男の景みつの可能性が「太郎」だから
高いと言えるけど前年に切腹しちゃってるし、


と考えると消去法で景恒かなと思う。
太郎左衛門と名乗ったかどうか確実じゃないけど。

駿府城の御堀に蛙はいない

2016年06月25日 14:06

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 04:20:33.79 ID:BkXP1c/6
「駿府城の御堀には蛙はいない。
俗伝では、神君が御在城のときに、騒々しいので蛙がいないほうがよいだろうとの仰せがあったので、
それ以来一匹もいないという。

また御城の地に生息する鈴虫は羽根の表に葵の御紋がある。
御城の外の鈴虫は鳴き声が悪く、御城の中のは細く長く美音である。
これらのことを当地の人は言う。」



「この駿府の御城の鈴虫は葵の御紋があり、蛙がいないというのは
かの地の御番衆の長田藤十郎(三十年来駿府に居る人という)の話では
確かなではないとのことであった。

ならば俗間の浮説に違いない。」

(甲子夜話)

確かに隣に田んぼがある家に住むと、この季節だと本当にうるさいんですよね
今ほど夜に音がない時代なら、尚更うるさく思ったでしょうね




772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 10:34:55.05 ID:IUXL45iW
中国の皇帝ならカエル排除したり、鈴虫一匹一匹に絵を挿れさせるぐらいやってても違和感はないが

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 10:37:09.49 ID:ypVPLKq8
スズメはお米食べちゃうから駆除したら大躍進だね!

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/25(土) 12:24:16.94 ID:MXbV8OFW
>>773
毛首席乙

益田修理の色紙

2016年06月24日 16:48

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 12:41:13.00 ID:SrqavXuK
寛永13年、将軍徳川家光は江戸城外郭の総石垣、見附桝形、並びに総堀普請を諸大名に命じた。
麹町の見附は松平長門守(毛利)秀就の町場であり、ある時、家光は普請の状況を見るため
この秀就の町場を訪れた。

秀就に任命された普請総奉行の益田修理(就固)は、竹杖を横に伏せて平伏しこれを迎えた。
この益田に家光は尋ねた

「益田は所持している小倉山荘の色紙を、今回は持参してきたのか?」

益田謹んで、持参していることを伝えた。

「ならばその掛け物を見るため、茶を行いたい。」

主人の秀就は御礼申し上げ、その町場に仮の御茶屋を造った。
益田修理が所持している小倉山荘の色紙は、能因法師の歌で

『さびしさに 宿を立出で眺むれば いずこもおなじ秋の夕ぐれ』

これが書かれたものであった。
益田修理は公儀御普請の総奉行を命ぜられ参府の所に、思いの外である色紙を持参して、
これを将軍家のお尋ねに預かり、思いの外の冥加に叶う事となった。
ここより、武士たる者は心を配り相嗜むべきと言われるが、この益田が色紙を持参していたのは、
万端の心得が有った事だと、人々は沙汰し合ったのである。

(玉露叢)



今、この戦いに及んで昌続は

2016年06月23日 11:23

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 02:54:12.79 ID:/cWLiVkI
土屋昌続は平八郎、右衛門と称した。武田信玄に仕え、使番となってしばしば戦功が
あったので武田家の長臣・土屋の称号を許され、侍大将となり兵士5千騎を預かった。

元亀2年、信玄が三河国加茂郡に出張った時、昌続は抜群の働きがあったので、
徳川家康および織田信長は伝え聞いてその武勇に感心した。同3年12月22日の
三方ヶ原の戦いの時には鳥居四郎左衛門忠広を討ち取り、功名をあらわした。

天正3年5月21日、長篠の戦いに武田勝頼に従って発向した。以前に信玄が死去
した時、昌続は殉死しようとしたが、高坂弾正昌信に、「今死ぬことは容易いが、
生きながらえて主君のために戦死することは難しいことであろう」と言われて強いて
止められ、その通りだと思って殉死を止めた。

今、この戦いに及んで昌続は、「今日の討死は高坂がかつて諌めたところだ」として、
織田家の陣に向かい、柵際に攻め寄せて自ら柵木を引き破り、なおも進んで奮戦して、
鉄砲の玉に当たって討死した。享年31歳。法名は道官。

――『寛政重修諸家譜』



881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 07:44:59.38 ID:03GZzFDX
兵5千騎か…ふう。

週間ブログ拍手ランキング【06/16~/22】

2016年06月22日 18:01

06/16~/22のブログ拍手ランキングです!


最上義光の武者修行(複数説あり) 28

最上義光の小田原参陣 26

大津の死骸返し 18
だから越中に謀られたのだ 18

御坐所は牀卑く作らせらるゝ事 12
柳生家門番の事 12

立花道雪足疵 11
甲州初て御手に入て神祖命令の事 11
明応二年四月二十八日の怪異 11

遠からぬ内に、世の中は 10
増高を願って 8
「これは危なきことよ」 8

宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状 6
神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意 7
「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」 7
朔寧の監司 7

その刀は皆、正則から賜ったという。 4
智勝院殿には父母が四人いる 4



今週の1位はこちら! 最上義光の武者修行(複数説あり)です!
最上義光の武者修行、のお話です。実はこの手の「武者修業」という言葉、軍記物では、その家から出奔したことを
武者修行と表現して、一時的であってもその家を見限ったことを糊塗する、という使い方があります。
水野勝成や伊達成実など、そういう使い方をされたりしますね。なので、後年父子の争いがあったことも含めて、
義光が一時的に最上家(当時は”山形家”だったと思われます)を離れていた時期があったのでは、なんて事を
想像できるかな、と思ってしまいました。もちろん同時代史料に見える話では有りませんが、いろいろ妄想をふくらませる
事ができるなあとw

2位はこちら!最上義光の小田原参陣です!
家康本人が出迎えた、というお話ですが、家康は信長の時代から、最上義光と信長の間の取次をしていたとも言われ、
相当に古くからの関係に有ったのは確かなのでしょう。それだけに家康の側もかなりの親しみを感じていたと思われ、
その気持ちがこの出迎えにも繋がったのかな、などと想像します。
それにしても当時の「取次」って、人脈、コネクションそのものだなと、この逸話からも強く感じちゃいますね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!だから越中に謀られたのだです!
例の、細川忠興と石田三成の、柿のお話の全体像ですね。
細川家の記録ですから、もちろん「忠興の功績」を描いているわけで、単純に信用すべきものでは有りません。
しかしこの逸話から、当時の政局における多数派工作の一端を感じることは出来ると思います。
この時期、徳川・反徳川の両方が、自陣営に大名を取り込むため様々な活動があったことは想像できます。そういった状況の
「空気」が、この逸話にも込められているのではないかなと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ

2016年06月22日 17:18

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 14:46:53.32 ID:cUFFAOL9
大阪夏の陣直前、後藤基次と大野治長の間で口論となり、一触即発という事態が起きた。
その後基次は真田の陣屋に行き、「今陣中にてかくかくの口論が有った」と伝えた。
真田はこれを聞くと、

「そういう事は人を選ぶべきだ。それを蒼蠅に向かって、後藤殿は大人げない。
蒼蠅という虫は、いかなる貴人高官の首にも上がるが、素より蝿虫だと思っていれば気にならぬ。
だからこそ昔の君子も、悪人を蒼蠅に例えたのだ。

近頃私は、あやつを蒼蠅だと思っているので、奴の行動に対して無念と思わなくなった。
後藤殿は生まれつき堪えられない性分であるから、闘論にも及んだのだろう。
今後はそのようにお心得あるといい。」

これに基次も笑い出し
「仰せ至極である。ただ、戦の出鼻をくじくような言動に腹が立って、若輩のようなことを
言ってしまったのだ。しかし、我々が討ち死にするのも間近なのだから、蝿に出会う機会も
もはや稀であろう。
ああそれにしても、あの蝿を払う唐国団扇があれば、千金を以ってしても求めるのになあ。」

「なあに、おっつけ落城の時は、どんな蒼蠅も駿河団扇によって払われるだろう。」

二人は大いに笑い、基次は宿所へと帰っていった。

(慶元記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 10:10:37.15 ID:03GZzFDX
獄門に晒された首に蝿が止まりますがなw
やせ我慢するから九度山いくんだ

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 11:12:23.18 ID:30ZeMVQb
しょせん後藤は陪臣出身、豊家の家老級から見ると見下す対象だったのだろう

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/23(木) 20:09:32.12 ID:MjtEezd7
大野治長佞臣説は悲しいなあ

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 02:12:15.04 ID:dd6ReUWt
全くだな、本当の佞臣は落城前に逃亡するもんだ。

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 08:15:17.70 ID:bKV/JtHm
片桐「んだんだ」

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/24(金) 09:55:06.45 ID:bB1GLsRN
>>764
織田宗家のワシを愚弄する気か!

伊東家毛利家喧嘩の事。並びに落合浅之助について

2016年06月21日 21:17

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:11:17.89 ID:qBcS+riJ
朝鮮の役の折、伊東祐兵が釜山城に在番していた時に、伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。

ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。

このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、事態はどうにか
鎮まった。

この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて
浅之助に放とうとしたが、彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、わざと
足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。

この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り
比類なき働きが有ったので、近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにも
かかわらず、その後全くその沙汰がなかった。皆不思議に思い、ある者が「どうして浅之助に
褒美を与えられないのですか?」と尋ねると、祐兵は答えた。

「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。だが浅之助は、年齢少なくして勇気が
あまりに強すぎる。彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」

しかしその後浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。

(日向纂記)



874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 02:16:31.73 ID:kVu0ZNF3
自決の引導でしたか

宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

2016年06月21日 21:15

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 11:35:27.38 ID:/z1n7eoo
真崎文書より宇都宮国綱改易後の結城朝綱への書状

返返、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、
来礼被見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、
然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、
石治・増右、内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、
尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、
其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、
恐々謹言、
(慶長二年) 霜月九日 国綱 
七郎殿へ

突然改易された事は天道によるものであったとしてもあまりになげかわしいものという悲しみ
増田長盛石田三成はこれまでと変わらず懇切に対応してくれるので彼等を頼みとしていること
改易された状況でも結城朝勝を岡山訪問を思いとどまって関東にいるようにと気遣っている手紙



876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 18:01:13.44 ID:zZxvwWud
>>875
宇都宮は最初取次は石田三成だったのが浅野長政に変わったんだよなあ
石田のままだったらこんなことにはならなかったのかなあ
佐竹は石田のままで石田がかばってくれたけど

弟はたしかに気性の荒いイメージはあってこう心配するのはわかる
しかし彼の行動は戦国を生き抜いた武将そのものだよなあ

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:09:28.38 ID:eaC71Bj5
タイトルのほうは結城朝綱になってるけど朝勝だよね

秀吉に実家を潰されさらには結城家を出ることになったけど終始豊臣方なんだね

878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 22:02:58.19 ID:B/LRMvhn
>>877
豊臣方と言うより結城領を取り戻す為には秀康や家康の敵に回るしか方法が無いとも言える

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 23:50:14.47 ID:HAdMnRVS
実家の宇都宮も潰されてる可哀想な坊っちゃん

その刀は皆、正則から賜ったという。

2016年06月21日 21:14

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 00:24:29.16 ID:sc6DvSW+
今月三田侯〔九鬼長州隆国〕が隠荘を訪れられて、物語をした中で
かの臣に福島正則が除国の後に来て仕えた者が四、五家ある。
その家の何れにも村正の刀を所持している。
その刀は皆、正則から賜ったという。 
どういう故であろうか.
 
と語られたことがあった。
(甲子夜話)

当時の大量生産品だからね、仕方ないね



754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 07:36:13.81 ID:Y/t1TMOa
甲子夜話ができた頃には村正が公儀に差し障りがある、って認識ができてたのか

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:23:19.09 ID:QnhTDb55
村正の逸話は家康存命時代からあったんじゃなかったっけ

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 20:25:20.99 ID:BeJhKfHh
>>755
無いね。村正が云々言われるようになったのは江戸中期以降。

757 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/21(火) 20:36:07.02 ID:P9+DT3Zu
中期どころか江戸初期
寛永11年に長崎奉行が村正所持で切腹

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/21(火) 21:13:22.65 ID:qBcS+riJ
>>757
それ「村正持ってたから」ってのは、後世の解釈じゃなかったっけ?

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/22(水) 12:18:41.72 ID:m7j9aCCZ
>>756-757
ファミコン版ウィザードリィが流行ってからじゃね?

遠からぬ内に、世の中は

2016年06月20日 17:57

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:37:51.41 ID:SUyILvdO
慶長元年12月下旬、伊東祐兵は朝鮮の安骨浦陣中より、黒田如水に相談の事があって、家臣の
借家原甚右衛門尉満鎮を豊前に派遣した。如水は甚右衛門を近くに召して

「さてさて、良い所に参った。私の方からも使いを出して、伊東殿に申したいことがあったのだ。
実はな、太閤が近頃殊の外衰えられた、その上日本中で様々な怪異が多く起こっている。
遠からぬ内に、世の中はまた騒がしくなるであろう。

民部殿(祐兵)は小身であるから、国元について甚だ心もとなく思うだろう。
天下の事が未だ起きない内に、片時も早く島津家と談じて、縁故を取り結ぶか、又は麾下に入る事を
申し入れるべきだろう。その上で互いに神文を取り交わすべきだ。
この旨を早々に帰って伝えるように。」

甚右衛門は急ぎ豊前を立って明けて慶長2年正月中旬、安骨浦に帰り黒田如水の口上の趣を申し上げると、
伊東祐兵はこの助言を喜び、早速加徳島にあった島津の陣中に赴き、兵庫頭(義弘)と会談して、
以後、堅く唇歯の好みを結び、互いに違背有るべからずと、神文を取り交わした。

(日向纂記)



神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

2016年06月20日 17:56

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 19:44:56.15 ID:u3Lu+wCX
神祖、駿城御坐のとき、遊所ゆきのことに付上意

神祖が駿城におられました時、
若い御旗本の面々が、とかく二丁町という花柳ある所に夜毎に参っているということを
板倉防州(重宗)の耳に入り神祖へ報告すると、上意として

「二丁町に参る者どもは、きっと夜は寝ていないのであろう。
ならば何れかの時には直にかけつけて味方できるではないか。
それしきのことは捨て置くものだ。」

との仰せがあった。
(甲子夜話)



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 23:40:06.68 ID:CErL0txa
>>868
寝ずに女遊びしてる奴は役立たないだろ

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/20(月) 09:49:00.52 ID:k8W5BvM9
薄田兼相「いやいや、立派に役に立ってみせますぞ!」

最上義光の小田原参陣

2016年06月19日 15:59

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/19(日) 14:38:17.62 ID:jsVozfSA
最上義光の小田原参陣

天正18(1590)年、最上義光が豊臣秀吉の命令により兵500(300とも)を引き連れ小田原に向かう途上徳川家康の使番が義光に文を齎した

家康「義光殿、遠路遥々ご苦労様です。この先酒勾川辺(ほとり)からは道案内をさせて頂きます」

義光が酒勾川に着くとそこには徳川家康自らが義光の到着を待っていた

義光はまさか家康本人が出迎えてくれるとは予想外でいたく驚き、大変に感動したと伝わる

「山形の昔話」




立花道雪足疵

2016年06月19日 15:59

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:43:24.11 ID:t7BOj0bT
立花道雪足疵

 立花宗茂の父は〔名は忘れた。道雪斎か〕は足の病で馬上におれず、
歩行も不自由なので、出陣のときは台に乗り士卒数人で担がせていた。
戦場に及ぶと、持っている青竹〔これは采配の代わりである〕で台のふちを叩きたてて、
台ながら敵中に持ち込んで、投げこめなげこめと下知したという。

 また上杉謙信の采配も三尺ばかりの青竹で、臨戦のときは鞍の前輪を叩きたてて下知したそうだ。

 神祖も御戦に及ばれるときは、采配を御鞍に打たれて士衆を下知されて、
御指の血が、御鞍に染みたという。

 家法印殿(松浦鎮信)の采配の柄も竹であったが、戦陣では士卒を下知されるとき、
常にらちがあかないと、鞍を打ち口にくわえなさったので、
采配の柄は歯痕で見苦しいほどに傷ついていたそうだ。
(甲子夜話)

行儀が悪い話



751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 21:12:25.78 ID:Yw8Kk2C+
爪を噛むよりええやん

御坐所は牀卑く作らせらるゝ事

2016年06月18日 11:29

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:33:03.99 ID:tk/OOdJm
神祖の御坐所は牀卑く作らせらるゝ事

 何れの時か、武田勝頼、神祖を秘かに害しようと、忍者を遣わして
御座所の床下に入って刺し通して来いと命じた。
やがて、その者は帰ってきた。
勝頼は「そうした。成し遂げたか」
と問うと、
忍者は
「床下まで忍び入ったが、床が低くて刀を使うことができなかった。なので空しく帰ってきた。」
と答えたという。

 ある日、林述斎にこの話を語ると以下の話をされた。

「神祖は駿城へ移りなさろうして、造作を命じられたとき、
『床の高さは、女子が上り下りが自由にできるほどにせよ。
そうすると間者が床下で、働くことができぬ。』
との上意があったという。」

(甲子夜話)

バリアフリー建築の思わぬ効用



863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 22:16:57.57 ID:9RvsmYHx
???「でも厠は広い方が良いよね」

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 22:36:07.45 ID:KYpkGVOp
更衣は広い所で致したい

増高を願って

2016年06月18日 11:28

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:37:22.89 ID:quiHw0RT
伊東祐兵が豊臣秀吉によって飫肥に封ぜられた時、石高は2万8千石であった。
しかし文禄2年、朝鮮の役に参戦する中、軍費が足りないと、増高を願って検地を行った。
これによって伊東家の石高は3万6千石となった。

しかし、それでも猶、軍功成し難いとして、文禄4年、再び増高を思い立ち、飫肥、清武にて
検地を行った。だがこの時は目的通りの高にはならず、僅かに4万5百石の数字が出ただけであった。
当初の予測に及ばなかった事で、この時の増高は中止されたという。

(日向纂記)



736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:52:18.95 ID:qGvkDOSE
ワロタ。隣みたいに無理やり嵩上げ石高出さなかっただけマシだな

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:59:36.74 ID:L9K8Eq0L
島津のこと?

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:25:25.91 ID:5P/de7pp
>>735
信長の野望じゃないんだからそんなに簡単に石高増えないだろw

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 21:55:50.54 ID:qGvkDOSE
申告漏れを掘り起こしてる状態だから増えるんだなこれが

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 02:12:54.78 ID:gdW/4aF4
柳生の隠し田ですか?

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 06:50:55.40 ID:DPUQJOLE
実際には石高大幅増は検地した場合でも石盛や等級を操作してるケースばかり。
指し出しに一定の率を掛けるという雑なものも多いな。

関ヶ原後の毛利くらい逼迫すると、荒地扱いだった土地を無理やり組み込んだり
無茶することもあるけどさ

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 10:02:28.50 ID:fZr4YD9T
最後、どの位を期待してたんだろ?

最上義光の武者修行(複数説あり)

2016年06月18日 11:27

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:06:57.52 ID:YWmczOZ9
最上義光の武者修行(複数説あり)

座王高湯(蔵王温泉)で賊を退治した最上義守・義光父子が山形城に帰って後、義光は昼夜問わずに寝食を忘れ武芸の鍛錬に勤しんだ。
そんな義光は城を訪れた者から「越後の主上杉謙信は世にも知られた名将ですが、幼少の時から修業に明け暮れ、国中のあちこちに忍び旅をされたと言います」といった話を聞いた。
また近習が言うには「天下に名前を知られる大将に愚かなる者は一人もいません。
小田原の北条氏康の祖父の早雲公は昔伊勢国で友達数人と巡礼の如く武者修行を行い、旅の途中の駿河で今川氏親に仕え両上杉を追い払い、伊豆相模は素より関八州の棟梁ともなりました。」と話をされた。
義光は幼心に英雄譚に想いを馳せ、父義守に暇乞いもせず親しい者わずか二・三人と語らい、書き置きを残して夜のとばりに山形城から忍び旅立ってしまった。

明くる朝若殿(義光)がいない事に気付いた山形城内は騒然となり、最上義守に近臣が義光の書き置き状を差し出した。

義守が紙を開いて見ると

義光(`・ω・´)「義光はいやしくも清和天皇の流れの武門の家に生まれ、おとん(義守)の慈しみを受けて成長してもう立派な若者なんよ。
…なのに未だ武勇の徳が足りずにご先祖様の名跡にふさわしい行いができていないからこれは歎き悲しむだけではダメなのでなんとかしようと考えたんよ!
だから天童街道から大石田を抜け庄内から越後方面へと武者修業するんよ!
名刹・古戦場を見学して修行の旅を通じて人馬の運用や地形と戦術を身につけるんよ!
あ、とりあえず七年くらい武者修行してくるんよ」

義守「・・・」

近習の者が殿(義守)を見るには微動だにせず、その内心を窺い知る事はできなかった。

「奥羽軍談」



744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 11:39:34.08 ID:knxNHmPT
最後の一文も書いてあるのかな、それとも投稿者の創作?
最上は見極めづらい

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:33:02.22 ID:Ljbl26nA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8510.html?sp&sp
これだと自分より強い者を探しに全国で武者修行するぞ!ととりあえず隣の越後行ったら
軍神様がいて自分の弱さを思い知ったとかなんとか

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 12:49:24.85 ID:s4ObcymM
馬鹿だねぇ

747 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/18(土) 13:46:22.71 ID:YWmczOZ9
義守ヒラキテ見玉フニ其文「…先ツ七年ノ御暇玉ハリ候得カシ(義光書置)」ト有シトカヤ。義守気色少驚カセ玉ハズ。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 13:59:37.20 ID:YWmczOZ9
(´・ω・`)雰囲気で

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 14:39:23.92 ID:NzW65WpW
いつも同じ顔文字つけるといろんな解釈できる逸話も一様に印象偏るんだけどわざとやってんのかな

智勝院殿には父母が四人いる

2016年06月17日 17:57

森忠政   
856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 16:22:25.49 ID:kp3uQH50
智勝院殿(森忠政正室・お岩)には父母が四人いる。
実父:名護屋因幡守 実母:養雲院
養父:大和大納言(豊臣秀長)  養母:智雲院

太閤御台政所(高台院)の父は尾州浅井庄の浅野与七郎で、(高台院は)初名を祢々といい
養雲院殿の筆子(←原文ママ)だったので、当時木下藤吉郎と名乗っていた太閤との縁組の際
因幡守は与七郎へ「藤吉は唯人ではないので(嫁に)やりなさい」と差図した。

また(因幡守は)信長公にも木下殿を執り成され少々便宜を図られたので
(因幡守が亡くなった後)養雲院殿は後家料として摂津国の尾坂田に知行を与えられ
京都四条の屋敷で、余生は結構自由な暮らしでいらっしゃった。
養雲院殿死後は(世話をしていた者たちを)忠政君は召し抱えられたということだ。

――『森家先代実録』




大津の死骸返し

2016年06月17日 17:56

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 04:02:05.70 ID:i6P555yl
大津城の戦いの時、立花宗茂は使者を城中に派遣し、

「今日、味方で討死した者の中に“十時伝右衛門”と申す者がいます。
取り分けて不憫に存じているのです。遺体をお返しください」

と言って、十時の物具の色を書いて言い送ると、やがて十時の遺体が
返された。また城中からも、

「“山田三右衛門”の首をお返しください」

と望んだので、冑を添えてその首を送った。これを“大津の死骸返し”
といって、勇士死後の誉れとした。

――『常山紀談』



861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/17(金) 20:54:07.40 ID:PtZ7CRgp
誉れなのかぁ

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/18(土) 01:26:54.93 ID:qsZH8YMt
>>860
「とりわきて不便に存るなり骸を返し給はり候へとて物具の色を書て…」(原文)

骸(首なしの死体)と首を交換したってことだね