氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

スポンサーサイト

小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

2016年07月30日 14:18

13 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 06:17:50.15 ID:n3UleyDq
小野次郎右衛門遠流の事附御免にて召し帰られし事

 世に愚かな者がいた。両国の辺りに看板を出し、
「剣術無双の者なり。誰でも真剣で立ち向かってこい。
たとえ切り殺されても厭わない。」
とのことを記した。

 都鄙から夥しい見物人が来て、
彼を切ることができず木刀でやっつけられた者は門弟となり、
もっぱらの評判となった。

 次郎右衛門がこれを聞き及んで、

「かのようないかがわしい者を天下の御膝元に置く事ふがいなし。」

と門弟を引き連れて見物に行った。
桟敷でかのいかがわしい者のなせる業を見て門弟一同は微笑していたのを、
かの者が聞いて大いに怒り、
「どうして笑いなさるか!
すでに看板を出しておるように、誰でもあれ真剣で試合しようと言っている。
笑いなさるのならば、ぜひ立ち合ってくだされ。」

と罵ると、傍輩の者が

「あの桟敷にいるのは、将軍家の御師範次郎右衛門です。」

と押し留めたが、全く聞き入れなかった。

「たとえ御師範であろうとも」

と申し止らなかったので、次郎右衛門も嘲られては武備の恥辱と、やむを得ず下へ降りて

「しかる上は立ち合おう」

と、鉄扇で立ち向かわれた。
かの者は正眼にかまえただ一討ちと切りつけたので、あわやと思われたが
いかがわしき者の眉間は鉄扇で打ち砕かれ、二言なく果てたという。

この話を大猷院様(家光)が御聞きになられ、
「師範たる者の行状ではない。」
と遠流を仰せ付けられたとか。

14 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 06:18:12.16 ID:n3UleyDq
 その後のことである。流された先の島では畑の瓜・西瓜を盗み食う曲者がおり、
捕らえようと島中の者が集まっていた。
しかし、盗人は大勢に手を負わせ、瓜小屋に籠り、小屋の周りに西瓜・瓜の皮を並べて、
捕り手の者が込み入っても瓜の皮を踏んでしまい身体が自由にならず、
多人数が死傷を負ってしまった。

次郎右衛門の元へ島の者どもが来て、

「なにとぞ捕らえてください」

と嘆くので、次郎右衛門は粗忽にも軽々しく脇差をおっ取り駆け行った。

「瓜の皮で足場がよろしくありません。」

と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。
待ち受けていた曲者は拝み打ちで打ちかけたが、
小野派の神妙といわれる太刀筋で、滑りながら脇差を抜き払って、上へ払うと
曲者の両腕ははたと落ち、すぐに召し捕らえられたという。

この趣が江戸にも伝わり、召し帰され、即時に元の禄を下されたという。

さて、次郎右衛門が召し出された時、、
「彼は遠流でしばらく剣術の修行を怠っているだろう。
我は日夜修行してきたので、立ち合って成果をみせてやろう」
と、大猷院様の思し召し、毛氈を敷いて、木刀を組み合わせて
「いざ、次郎右衛門、立ち合え」
との上意をされた。

次郎右衛門は謹んで毛氈の端に手をついて居た。
ただ一打ちにしてやろうと御振り上げ御声をかけられた時、
毛氈の端を取り、後ろへ引いたので、後ろへ御転びになられたという。
よって、大猷院様は御信仰なされ、一刀流を御修行なされたという。
(耳袋)




15 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/30(土) 12:28:58.10 ID:v3P/mw3I
>「瓜の皮で足場がよろしくありません。」
>と傍らから申してきたが、耳にもかけず駆け行き、やはり瓜の皮を踏んで仰向けに倒れてしまった。



言っちゃ悪いけど次郎衛門ってやっぱバカだよな・・・

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 13:24:47.42 ID:XkDfPbFP
敵の誘いにわざと乗って油断して掛かってきたのを返り討ち
知勇兼備の男だと思うね


17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+

>>13-14
脳筋過ぎないこの人wそれで勝っちゃうのが凄いけど。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 18:52:32.85 ID:e1XwGdjL
わざと引っかかったのか、そうでないのかはわからん
ただ、咄嗟に脇差しを抜いて払っているあたり、わざとかかったようには見える
まあ、ただの反射神経かもしれんが

20 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/31(日) 08:41:19.10 ID:PQ8Hl6kn
>>15
言っても悪くないぞ。 俺もそう思うから。

藤堂高虎の遺訓よりいくつか

2016年07月29日 14:13

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:12:49.61 ID:mXIkhx0i
四六 自分の知らない芸を嫌うという者が多い。逆に自分の得意な芸能はもてはやす。
   これは道理に合わないことだ。それぞれの好き好きではないか。

四九 総じて、落ち目の人を救うことが大切である。

七二 宿を発つ時、一人を後に残して座敷その他を見まわってから出るべきだ。必ず道具を
   忘れていることがあるからだ。

七六 不用心な道中を通る時は、錐をこしらえ持つべきである。色々と便利だ。錐のこしらえ方に
   心得が有る。

七九 人をしとめる時は、その前に言葉をかけてはならない。刀を打ち付けるのと同時に言葉をかけよ。

八一 負け戦の時は、豆板銀壱歩を飲み込むべし。強盗によって身ぐるみ剥がされてもその後大便と
   ともに出てくるのだ。ただしその飲み方については口伝がある。

一〇〇 人の好む芸能や道具について貶してはならない。それぞれ好き好きなのだから。

一〇一 碁や将棋で人に助言をしてはならない。慎むべし。

一二二 若いうちはどんな芸でも習うべきだ、捨てるのは簡単である。盗人のやり方だって習えば、
    盗まれない用心のためになるのだし。

一二七 得な事ばかりを好んでも、損をすることがある。しかしわけもなく損を好むのは間が抜けているし、
    得をする道があるのなら得をするに越したことはない。だからといって吝いばかりでは世の中
    成り立たない。損することが不可避なときに損を厭ってはならない。その時々の状況による。

一二八 常に運が悪くても我慢すべきだ。…などというが、それも状況による。我慢することばかり
    心得ていてもよくないぞ。

一三〇 人に物を言うのに繰り返しくどくど言ってはならない。聞き苦しい。

一三七 人に喜ぶべきことがあれば、自分で見舞いに行っても人を遣わしても良いので祝福の意を伝えよう。
    人の喜びを喜んで、後悔の有るわけがない。

一七一 もし止むを得ず家来を手討ちにする時は、一刀打ち付けたならば続けて二つ三つと討つべきだ。
    一刀にて様子を見てはならない。切れてない時は逆襲され自分が負傷するからである。
    よく心得ておくように。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)

藤堂高虎の遺訓より、現代でも役に立ちそうなものをいくつか




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:32:52.54 ID:jqlE2XOh
現代でも使う「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とかもあるな

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 13:52:47.11 ID:7N19GxjF
嘉明辺りに自分の好きな芸能でも馬鹿にされたのかな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 14:03:03.58 ID:FHMGljol
>>4
八一下手すりゃしにそうw

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 17:56:57.04 ID:VN/z4dJA
>>4
七九はあまり役立てたくないですねw

高虎さんは死ぬ間際に200条も遺訓を口述したのでしょうかw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 18:03:49.67 ID:mXIkhx0i
>>11
『高山公遺訓ニ百ヶ条』は、高虎の死後、その側近くに使えていた太神朝臣(佐伯?)惟直という家臣が、
生前高虎が言っていたことを編纂したものだそうです。

武勇実談の事

2016年07月29日 14:12

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 00:42:50.57 ID:qYW8xHbD
武勇実談の事

戦国が治まり太平に成りました頃まで長生された老人が、
〔此の老人の名を聞いたが忘れてしまった。問い質したうえで追って申し伝えたい、と川尻氏は言った。〕
集会にでて雑談していたとき、年若い輩が戦場に出て功をなしたいとの事を狂い語ると、
かの老人は笑った。

「それは大きな了見違い違いじゃ。
我らは数度戦場に出たが、なかなか恐ろしくて、かねての心がけはできないものじゃ。
我らはある日の戦で、伏勢の中に組み入れられて草が高い林の中に埋伏しておったが、
その時の心に、
『ぜひとも、敵よこの道を過ぎてくれ...』と思っておった。
遥かに馬煙が見えた頃には、いよいよ恐ろしくなり、
『今度の合戦が済みましたら武士を辞めましょう。』
とまで思うが、
敵兵が通り過ぎる頃に合図が出て打ち出るに至ると、さほど恐ろしく思わず、
味方の馬に踏まれたり、打ち者に当たったりして討ち死の数に加わる者もあるが、
その期に至っては何とも思わん。
籠城にも数度行ったが、このときも再び武士にはなるものかと思い詰めた事もあったが、
戦が散った後は、また辞めようなどという気は失せるんじゃ。」

と語ったという。

そうでもあろうという実情の物語だと、聞いたままに記した。
かの老人の物語に
「我が臆した心底だから、こうなのじゃろうと思われるだろうが、
そのときの同輩の者はいずれも同様なのじゃ。」
と話したという。

(耳袋)

いかにもなお話ですね




慶長17年7月11日の喧嘩

2016年07月29日 14:11

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 03:19:32.15 ID:stCyV8p8
慶長17年7月11日、黄昏後に駿府御城下の市町において、飯田伝吉(元高麗人)
と、朝比奈甚太郎ならびに松野勘助(徳川頼宣の近臣)が喧嘩した。

その子細は、朝比奈と松野が飯田に対して悪口を吐き、あまつさえ帯刀を抜いて
切りかかったため、伝吉はこれを黙ってはおれず、松野と従僕をともにたちまち
殺害した。朝比奈も3ヶ所傷を受けて倒れ伏したので、飯田は退き行方をくらませた。

町司・彦坂九兵衛(光正)は、この旨を大神君(徳川家康)のお耳に入れ、大神君は
飯田の神妙の働きを感心なされて、速やかに飯田を呼び戻しなさった。

また、朝比奈の過言の咎と未熟の振る舞いに御不興なされ、朝比奈に切腹を仰せ
付けなさったということである。

――『関難間記』



前田慶次が大事にしていた召使い

2016年07月29日 14:03

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:08:18.50 ID:U/gwoNap
前田慶次は関ヶ原で活躍することはできなかった。しかし関ヶ原の戦い
のちょうど一年後、関ヶ原をちょうど通過していた。
そのときに、前田慶次の朝鮮人召使いが体調不調がいちじるしくなり、
馬に乗せることもできないほど重態になった。
前田慶次はその朝鮮人を斬首して捨てていった
わけではなく、竹中ハンベエの息子がちょうど近くで城主をやっていたため
入院の招待状?を書いて、召使いを竹中氏に預けている。
前田慶次が大事にしていた召使いであった。



1000 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 14:09:24.54 ID:U/gwoNap
入院の紹介状、だな。大体の意味は。
1000ゲット

「お前達の身分で白米の飯を食べる心得では」

2016年07月28日 11:48

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 11:41:38.66 ID:X8KUo6QX
 駿府宮ケ崎という所の町人滝善左衛門は、常に神祖の御囲碁の御相手として御側近くに出ていた。
ある日神祖が鷹狩を御遊ばせられていたときに、途中にその者の家の前を通られた。
不意に中へ入られると、ちょうど家族皆で飯を食べていた。
そこで、直々に御共に参るべしとの仰せで、善左衛門は召し連れられた。

 翌日善左衛門はいつものように囲碁の御相手として出かけたら、
いつにもなく神祖の御面色が荒々しい。

「お前は後々家の相続が上手くいかないだろう。」

と仰せがあり、善右衛門は大いに驚いた。

「どうしてそのような仰せをなさせるのか」

と伺うと、

「お前達の身分で白米の飯を食べる心得では、なかなか相続ができないだろう。」

と仰せであった。善右衛門はすぐにたくらんで

「さすがは身分の高いお方であられる。身分の低い者の食物を御存じでない。
昨日の飯は、豆腐かすをかて飯としたもので、とりわけ白くも見えるものです。」

と欺きますと

「そうであるならよし。」

と仰せられて、御面色も解けられて、いつものように御相手を仕り退出した。

善右衛門は家に帰って、

「不届きにも上を欺いてしまったので、この後は必ずその言葉を違えてはならない。」

と米にかすを混ぜて炊き、そうでないときは膳にかすを付けて出すことに決め
子孫へも言い贈った。

 その子孫も豪商で、近い比まで代々栄えていたが、ついにその家は絶えたという。
絶えた者は奢侈が分を超えたことも多く、能舞台をも建てたほどであるという。
このような御教戒に背いて、自分の祖の訓示も忘れたら、このような事も有る事であろう。

(甲子夜話)



934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 16:41:05.40 ID:kfD42Jl/
>>926 じつは玄米だの豆と混ぜたメシの方が、健康にいいのだが、
当時は白米だけの方が高級だと思われていたという話ですね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 23:11:51.42 ID:1eH1imrE
分不相応な行いが身を滅ぼすと言ってるんだから、この場合に健康がどうとか関係ないでしょ

一年に一日だけの臨時駅 ~「心岳寺参り」~

2016年07月28日 09:33

992 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/27(水) 23:20:11.45 ID:FxsOh3OW
一年に一日だけの臨時駅

天正二十年(1592年)七月十八日、島津歳久、帖佐郷竜ヶ水(現在の鹿児島市吉野町平松)にて
自害す。享年五十六歳  戒名 心岳良空大禅伯
歳久の首級を確認した義久は号泣したという。
遺体は帖佐の総禅寺に埋葬され、義久は秘かに歳久の廟を島津家の菩提寺福昌寺に建て、
墓を同寺内の恵灯院に建てました。(現在、福昌寺の貴久の石塔の後方に歳久の石塔がある)
秀吉が没した後の慶長4年(1599年)に義久によって歳久の最期の地に菩提寺が建立され、
歳久の戒名の一部を取って曹洞宗滝水山心岳寺と号された。
歳久の命日には参拝の人々が多く集まり(「心岳寺参り」)島津忠良所縁の「日新寺参り」、
島津義弘所縁の「妙円寺参り」共に心岳寺に詣でることが大流行した。それぞれの命日に
それぞれの菩提寺に詣でるこの習慣は「鹿児島三大詣り」と呼ばれた。
「鹿児島三大詣り」は、実際は「お参り」というより鹿児島から夜を徹して長距離を徒歩行軍し
目的時間に到達する「軍事教練」に近いものであり、特に心岳寺への道は江戸時代までは
海岸沿いの街道(磯街道、現在の国道10号)及び鉄道(日豊本線)は全く無かったために
西側の裏山から断崖絶壁を下るという厳しいものであった。
(明治3年(1870年)に寺号を廃して神社へ改め、平松神社となる)

1908年(明治41年)「心岳寺参り」へのアクセス目的として、その日だけ使用される「心岳寺駅」が
重富駅 - 鹿児島駅間(現在の重富駅 - 竜ヶ水駅間。当時竜ヶ水駅は未開業)に設置された。
大正元年八月十九日付の鹿児島新聞には、
「十七日夜の客車は一回平均十一台を連結し、最も多く連結せしは、十一時三十分の
十五台なり。午後三時半頃より小児と老人多く、一般拝客は午後九時、十時最も多かりしと、
当夜の乗客は六千六十人・・・」
露店が数十軒並び、「猫も杓子も集まり、幅広き街道が身動きだもならず」
警察も「警視以下二十五、六人」整理にあたった。と当時の「心岳寺参り」の様子が記されている。
(また当日は垂水丸という船が鹿児島、平松間を一晩中往復運航していて、船首から船尾まで
電灯で飾られ満員状態、国道10号線は往く人帰る人の行列の波だったそうです)

歳久は「戦の神」として祀られた一方、「安産の神」としても信仰されていましたが、戦後は
「戦の神」いう側面がなくなり、心岳寺詣りが急速に衰退すると駅の利用客も激減したため、
1967年(昭和42年)に廃止されました。
(「島津歳久の自害 増補改訂版」「昔の鹿児島―かごしま 新聞 こぼれ話―」など)

「心岳寺参り」も行われなくなってしまっていたが、これを惜しみ伝統行事及び青少年鍛錬として
心岳寺詣りを山下りも含めて復活させようという試みも近年出てきています。

「心岳寺詣り」(平成23年11月23日開催)を紹介します!
http://archive.is/wl1i#selection-1171.0-1171.29 



993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 07:50:45.52 ID:N+kdMWZx
自害理由:秀吉に謀反を企てたと思われたから
ってのも書いたほうがわかりやすいような

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/28(木) 09:23:11.61 ID:U/gwoNap
お寺詣りというのが、戦後の日本でずいぶんハヤっていたんだな。
連想した他のお寺詣りの宗派についてはここでは言わないけど。

【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

2016年07月27日 19:30

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 20:10:27.63 ID:v2CYyG+/
【家来常々召仕様之事】(けらい、つねづねめしつかいようのこと)

十一 家来には先ず情けをかけ、諸事失敗が有っても見逃すことが肝要である。その結果として
   大それたことが有った時は、自分の不運とすべきである。
   処罰をする時は理非をもってすべきだ。しかし助けても良い理由があれば、その点について
   よく考えよ。切るのは遅くても良いのだ。

十三 人の中傷を聞くべきではない。横目(監視)は災いのもとである。例え告げ口をいう人がいても、
   それをいう人と言われる人との間では常のように接し、何事も聞かなかったように振る舞うべきである。

十四 召し使うものに良い者も悪い者も無い。それぞれの得意な面を見出し、それぞれ適した場所に使えば
   人に屑は無いのだ。であるのに、出来無い事を申し付けるから埒が明かず、結局腹を立てるのである。
   これは主人に人を見る目が無いからなのだ。

十五 家来と言っても、異なる意見があるなら詳しく聞くべきだ。世間の評判を聞くことと同じである。
   よく聞き届け、自身で考えて、的確なところは用い、そうでない所は捨てればいい。
   主人によっては、家来が異見を言うのを推参であると機嫌を悪くする者がある。
   これは天下一の悪人である。
   本当に主人のためにならない者は陰で指をさして他の家来に語る者である。このような事は
   自分自身にとっても家来にとっても不本意な状況である。
   常に情け深い主人は家来の名を言い立てず、他の家来は、主人の作法のことを尋ねられても
   語らない。主人の心持ちが肝要なのである。

十七 すべて人間たるもの、上下ともに心正しくし律儀にして、一言半句も嘘を言うべきではなく、
   人を疑ってもならない。
   ただし、世間話などには嘘が混じっていても構わないが、これも、人の害になることは言うべきではない。


二十二 主人に物を見る目が無いというのは必ず災いが多い。よく奉公する者に気が付かず、当座のへつらいに
    喜んで録を与え親しむような事をするから、良き奉公人は気を変え暇を取るのだ。これは主人が
    悪いからである。当座にへつらうような者は下劣な者である。

(高山公遺訓ニ百ヶ条)


藤堂高虎の遺訓より、家来の召し使い方についていくつか




987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:22:02.54 ID:I+zFuU/G
>>985
家康と気が合うのも判るような気がする。

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:20:38.42 ID:+jAUqd1W
>>985 戦国の転職王・藤堂高虎が言うのだから、
要するに、藤堂高虎が上司を次々に変えたのは、上司が悪いから
と本人は言いたいわけだな。
おっと、悪口を言ってしまった。

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 07:24:05.73 ID:+jAUqd1W
>>985はカーネギーの「人を動かす」という名著の内容と
似ているものがある。
部下を動かすときの心得は、悪口を言わないとか、名前を馬鹿にしないとか(自分の名とは誇り高い
ものである)、○○してはいけない、というのがいくつも列記されていて実現は難しいけどな。
と、また悪口を言う俺は人使いが全然できない。

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 13:39:33.08 ID:dJYVM1fJ
>>985
現代でも充分通用するなぁ。

永井大監物并君臣の健強

2016年07月27日 19:28

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 22:26:52.40 ID:o1YPUaPP
永井大監物并君臣の健強

 今三千石余の寄合である永井氏の先祖を、大監物、名は白元という。
初めは井伊氏に仕え、それから加藤氏に仕え、後に御当家に召し出された人である。
その家譜に以下の話が見えた。

 豊太閤在世の時、烈祖は大阪城に登られていた。
放鷹の時に関東へ下向されよと豊太閤が言いければ、
未刻あたりに退出され、町の末から深尾清十郎が献上した葦毛の馬に召された。
御早乗りなので供奉の輩はつづくことができなかった。
たた白元と岡部小次郎の二人は遅れなかった。
供奉して伏見の邸に御着きになられたときは、酉刻を過ぎていたという。

 また関白秀次が謀反の時、早掛けで御上られることがあった時も、この二人は代わる代わる御腰物を持って土山駅まで供奉されたが、
小次郎が疲れたのであろうか、この駅に泊まられた。
翌朝出立のときに、御腰物は監物に持つようにと命ぜられ、未刻過ぎる頃に伏見に御着きになられた。

忍・河越で御放鷹の御帰りに、志村台から本多上野介(正純)が献上された鹿毛の馬に召されられたが殊の外速く、
供奉の者は続けなかった。しかし白元一人のみがつづいて供奉していた。
そういったところに、府の大橋に至る頃合に無礼者が出て、『上と競走しとう』と言うまま、
御馬に続いて阿部伊予守(正勝)の邸の前まで来た。
監物に、『その者の腰刀を取り上げよ』との仰せがあると、
白元はその腰物を奪い取って、かの者を追い斥けたという。

その年の君臣の健強なことを思い遣ることができる。
大橋辺りの無礼者も奇男子である。
このころの風儀もまた見ることができると林氏(述斎)が話した。


この白元はいかにも足の達者な人と見えた。慶長二年十二月上旬、台廟が御放鷹として武州稲木へ出かけられ、
かの地で疱瘡を受けられたことを烈祖は伏見で聞かれ、
同月十七日白元を御使いとして府に下された。
四日半で府に着き拝謁し、直に御暇下され賜物を頂戴して上り、
合計日数九日で伏見に帰り、御容体をつぶさに言上されたとか。

(甲子夜話)

馬について行けるなんて一体何者なんだ



988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 23:24:45.17 ID:fPo8uA7W
周倉さんだって負けへんよ?

非人

2016年07月27日 19:27

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 04:44:40.19 ID:Kwaz3sVL
(本能寺の変の時、)尾張国の水野監物(守隆)は明智(光秀)に
従い、翌日に明智が安土城の殿守へ上った時もこれに伴った。

その為、当時の人は“非人”と言ってこれを非難した。明智の死後、
終いには監物は牢人となったのであった。

――『当代記』



週間ブログ拍手ランキング【07/21~/27】

2016年07月27日 19:23

07/21~/27のブログ拍手ランキングです!


人々はみな自分の悪を忘れて 30

頼もしき家来の事 26

【ニュース】清正の鎧兜、再現される 24
金言耳に逆らい、良薬口に苦しという言葉は 24

私が最近、書物を改版しているのを 20
我儘な者が、 20

墨子をとくとく味ふべし 18
まぎれもなく雪舟の作であったのだ 13
与えなかった者の馬は 11

小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事 10
信長公の時代に勇者と申した者は 10

太平の世に所して勤を苦む誤りの事 9
「隠れもない、熟柿臭いわ」 9

大阪城からの脱出体験記 8
そのような嗜みで侘びがなろうか 8
清康様の御後胤がいる。 7



今週の1位はこちら!人々はみな自分の悪を忘れてです!
徳川秀忠のお話ですが、秀忠が生まれた頃は既に、徳川家は押しも押されぬ大大名であり、秀忠は貴公子そのものでした。
そんな人が、どうしてこのように、酸いも甘いも噛み分けたような、老成した思考が出来るように成ったのだろうかと、しばしば
不思議に思います。『徳川史観で美化された~』なんて説明も有るのでしょうが、秀忠はわりと若い頃から、性格として
ああいう感じなんですよね。そんな事をふと思った逸話でした。

2位はこちら!頼もしき家来の事です!
これは端的に言えば、南龍公が、家臣に恥をかかせなかった話、と理解すべきなのでしょうね。
仮にこの武士が、この話を聞けば、一朝事あった時、頼宣のために生命を惜しまないでしょう。
こういったことを言える人が、主君の器の持ち主、ということなのかもしれません。

今週管理人が気になった逸話がこちら!私が最近、書物を改版しているのをです!
徳川家康という人の面白いところは、とにかく本が好きな所ですね。
彼が関ヶ原で天下を取った後。ほとんど即座に始めたのが、古典の出版事業です。
古典をだれにでも読めるようにしたわけですが、これは日本史において画期的な事業でした。
それまで「古典」というものは、それぞれ「家学」としている公家があり、その公家に弟子入りし「伝授」されるしか
ほとんど読むことが出来なかったためです。一種の既得権であったわけですね。そういったものを完全に否定したのが
家康でした。
そういえば有名な吾妻鏡の「北条本」も、これまでは北条家に伝わったもの、とされていましたが、研究が進んだ結果、
実は徳川家康が多方面から吾妻鏡の断片を探し求め、ついに「復元」したものであった事がわかったそうです。
このあたり、書籍への執念さえ伺えますw
そんなことを思い出した逸話でした・

今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

大阪城からの脱出体験記

2016年07月26日 17:55

おきく   
920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:53:34.18 ID:yFDPg3Ct
大阪城の夏の陣にて真田の兵も壊滅して、あとは城内へいよいよ押し寄せてくるばかりになった。
そのときいた「おきく」は、危機感にも気付かず、そばを食べようとして下女に調理を命じた。
下女は台所に行ったところ、城内のあちこちが燃え出しているのをみてびっくり。おきく
ようやく事態のヤバさを知り、脱出することになった。
出ようとしたら黒い鎧に身を固めた武田(竹田)永翁がいた。出てはいけない、と言ってたが
おきくたちは無視した。武田(竹田)永翁はこのあと2時間以内に自害して死ぬことになる。
建物から出たおきくたちは、豊臣家の立派なひょうたんが、地面に投げ捨てられているのを
発見。敵にとられたら恥ずかしいので、ひょうたんをバラバラに打ち壊した。
回りは味方の武将も敵兵もおらず、シーンとしていた。(本能寺の本城惣右衛門覚書のよう)
そのとき銃弾除けの竹柵のかげから、敵兵がひょっこりと顔を出し、サビだらけの刀を突きつけて
カネを出せといった。金塊(70万円相当)を2つ持っていたので、一個あげて、藤堂の陣まで
連れて行ってくれるよう頼んで、着いたらもう一枚あげると言ったら、その兵は道案内して
くれることになった。地獄の沙汰もカネ次第、とはまさにこのことである。
道案内されて歩いていたら、淀君の妹の常高院を発見!。大阪城が落城するというまさにそのとき
脱出をしていた最中であった。淀君らは別の建物に退避していって翌朝、発見されて死ぬ。
おきくは常高院らに付いていくことにした。サビ刀の兵にカネを払ったかどうかは知らない。
常高院は兵士におんぶされていた。別の兵士が常高院の足を抑えていたというが、当時は着物
なので、常高院の足が剥き出しになるのを防ぐため、足をかかえて隠していたのかもしれない。
高貴な身分の人なので。常高院一行は教われることもなく、家康の軍勢の方にて保護された。
処刑される恐れもあったので覚悟を決めるよう言われたが、家康から自由を保証されたので
助かった。以上、大阪城からの脱出体験記でした。カネは必要で6文銭では全然足りない。



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:42:19.90 ID:T9VmpO8Z
>>920
面白かったけど読みにくい、改行してくれると助かる。

小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事

2016年07月26日 17:54

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 23:20:28.70 ID:Yfnqv6S2
小野次郎右衛門出身の事附伊藤一刀斎が事

 伊藤一刀斎は剣術を広めようと諸国を修行していた。
淀の夜船で大坂へ下っていたときのことである。
船の船頭は力量が優れていた者であり、一刀斎が刀を携えていたのを見て

「御身は剣術でも修行されているのか。
剣術は人に勝つ道理だというが、我の力にはあまねく剣術の達人でも敵うとは思えない。手合わせできないだろうか。」

と言う。一刀斎は様子を見て、かなりの強剛に見えたので、どうかと思ったが、
どうせ剣術修行の出てきたのだから、たとえ命が果てることとなっても手合わせを辞退をするのは本意ではないと、
互いに死を約束して陸に上がった。
 船頭は櫂を片手で持って拝み打ちで一刀斎を打ちにいったが、身をかわされ外してしまい、
力が余ったためだろうか大地へ櫂を打ち込んでしまった。
引き抜こうとしたところを、木刀で櫂を打ち落とされ両手を押さえられたので、船頭は降参し弟子となって諸国へ付き随った。

 元来力量が優れていたので、国々で立ち合いの時も一刀斎は手を下さず、大抵は船頭が立ち合い、いずれも降参させて、門弟とさせる者も多かったという。
 しかし元来は下賤の者で、その上、心ざまは真っ直ぐではなかったので、一刀斎に降参したのを遺恨に思っていたと見え、
立会いでは敵わないと夜陰に旅泊していたときに一刀斎が眠っているとみたら、付け狙う事数回に及んだが、
一刀斎の身の用心に隙間がなく、むなしく江戸へ随ったていたという。

 江戸では将軍家から一刀斎を召抱えたいとの話もあったが、諸国修行の望みがあるのでとお断り申し上げた。
門弟の内にふさわしい者はいないかとお尋ねがあったので、小野次郎右衛門を推挙して、召抱えることに決まった。
 これに、かの船頭は大きく恨み

「我は最初から一刀斎に随い、共に流儀を広めた功がある。
このたび、将軍家の御召しに末弟の次郎右衛門を推挙した事は心外である。
全く生きてきて良いことが無い。次郎右衛門と真剣の試合で生死を決めたい。」

と申し上げると、一刀斎は

「その方は、最初から随身していたが、これまでたびたび我を付け狙ってきた事は覚えているだろう。
今まで生かしておいたのは格別の恩徳のためだというのに。
しかし次郎右衛門と生死を争いたいといのは望みに任せるとしよう。」

と次郎右衛門を呼んでこれまでの委細を話し、勝負せよと申し渡した。
同時に次郎右衛門へ伝授の太刀を許した。

立会いのとき、次郎右衛門の一刀で船頭は露と消えた。

 さて次郎右衛門は召しだされて、牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合いを仰せ付けられた。
これもまた次郎右衛門が妙術を顕わして勝ったので、千石で召抱えられたというそうだ。

(耳袋)

船頭の命までは奪わない甘い展開はなかったわけだ



923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:02:44.90 ID:I4E7S5xh
牢内の罪ある剣術者を選んで立ち合い って最初から処刑前提で選んでいるだろ。
グラディエーターという映画では、皇帝が勝てるように最初から対戦相手にはケガを負わせてから
出場させていたけど。

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/27(水) 13:25:08.35 ID:K9rTlUr0
>>923
こういうのは死にもの狂いの人間相手に勝てるか、っていうある種定番のテストだよ
死刑囚に「勝ったら無罪放免にしてやる」って言って戦わせるの

家中の人間に本気で相手させると遺恨が残ったりするけど
死刑囚なら使い捨てに出来るから適任なの

私が最近、書物を改版しているのを

2016年07月25日 13:48

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 19:11:35.68 ID:oCJkB7a/
徳川家康公の御意に

「私が最近、書物を改版しているのを、皆は古版が悪しき故にしていると思っているようだ。
そうではないのだ。
このように古版を改版させることにより、字義の間違いなどに気が付きこれが改まれば、
研究が深まり、人道の吟味もここから起こると思う故なのだ。
天下がそういった風になってほしいと思ってのことなのだ。」

(松のさかへ)

家康が自身の出版事業について語ったとされる記録である。



太平の世に所して勤を苦む誤りの事

2016年07月25日 13:48

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 20:03:26.22 ID:V9QSvxmc
太平の世に所して勤を苦む誤りの事

日光山御修復につき予(根岸鎮衛)は三年に渡って山にいた。
御虫干のときに御宝蔵の品を拝見したなかに、東照宮が御陣場に召された御駕籠があった。

結構な品ではなく、前後は竹を打ち曲げて御簾は?輿(あんだ:板の床に竹を編んだ縁を巡らせた、屋根のない粗末な駕籠)
のような物である。
恐れ多くも戦の指揮の御手遊びとしたのだろうか、前の御簾竹にこよりをかけられており、
観世縒りのこよりがニ、三寸あった。
また?輿に鉄砲の弾跡はニ、三ヶ所あった。

神君の大徳は宇宙を灑掃(さいそう:水をかけたり、塵を払ったりして綺麗にすること)なされ、
千辛万苦なされてこのような危難に処されたのを見れば、かく太平の代に住んで、
飽きるまで食い、暖かい物を着て、なお遊楽を願う心は、慎むべきことだと

ここに記し置く。

(耳袋)



976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 00:42:47.42 ID:yFDPg3Ct
鉄砲の弾跡があると、名誉なことなんだね。
それが実話かどうかはともかく。

【ニュース】清正の鎧兜、再現される

2016年07月25日 13:47

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:02:27.66 ID:uaW899fi
鶴岡市ゆかりの戦国武将加藤清正が身に着けたとみられるよろいが専門家の手で再現され、
24日、同市丸岡地区の天沢寺(庄司良圓住職)で披露された。
清正と嫡男忠広をしのぶ同日の清正公祭(せいしょうこうさい)に合わせて一般公開された。

調査を含め、8年かけて制作した名古屋市在住の甲冑(かっちゅう)師、熱田伸道さん(68)は
「武将としての誇りを感じる高価なよろい。再現できてうれしい」と語った。

基となったよろいは1949(昭和24)の発掘調査で、同寺境内に立つ「清正閣」の下から出土した。
熱田さんは2008年に庄内藩酒井家のよろいの調査と修復で鶴岡を訪れた際、清正のよろいがあると知り、同寺に立ち寄った。
生誕地が名古屋である清正に縁を感じ、再現を申し出た。

原形をとどめていなかったよろいの各部を手掛かりに、類似の甲冑(かっちゅう)を調べて全体像を推定。
試作を重ね、今年6月に完成させた。

鉄製で胴高32センチ、重さ6.5キロ。
熱田さんは「動きやすい作りで、縁の一部を金で塗装していた。量産できるよろいにはない」と話していた。
自費で制作し、足軽のよろい2体と陣羽織10着と共に同寺に奉納した。

清正公祭には関係者ら約170人が出席した。
祈とう後、よろいが披露され、熱田さんが特徴や制作工程などを説明した。
庄司住職は「時間と労力をかけ、立派に作ってもらった。感謝している」と話した。

よろいは同寺に展示し常時公開する。

写真:地元住民らにお披露目されたよろい。再現した熱田伸道さんがよろいの特徴や制作方法などを説明した


以下ソース:山形新聞 2016年07月25日 11:43
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/kj_2016072500578.php



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:23:44.59 ID:ubYqWaTL
意外とハイカラなんだなぁ
自費とはまた熱田さんも徳が高いなぁ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:28:14.08 ID:tUJJnSrs
>>977
足軽の南無妙法蓮華経具足も再現したのか

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:45:21.33 ID:T9VmpO8Z
>>977
この色良いなぁ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 20:30:51.65 ID:2i2W/QBL
現代でも甲冑師っているんだな。
名古屋住まいで熱田さんって、先祖が熱田神宮ゆかりなのかな?

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:05:59.64 ID:I4E7S5xh
重さ6.5キロでは軽過ぎる。
実戦よりも、装飾性重視の鎧なのだろう。色から見てもな。ブルーかよ。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:20:30.43 ID:1WD3eRzi
ブロンズ聖闘士だなw

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 09:21:16.85 ID:QYRr2myg
熱田伸道は甲冑師名で本名は小川伸夫さん。
独学で先達に教えを受けながらここまで来た人ですね。
http://www.j-armor.com/
http://ameblo.jp/j-armor1/
復元に3年ほどかかったようだ。


色が青いのは、写真を拡大するとわかるけど、縅(糸)の色が青いだけで
甲冑そのものは漆塗りの黒だよ。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:02:32.98 ID:Dc/KJL3l
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html

よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:41:55.25 ID:eC7NYJ1C
ぜんぜん発色ちがうねw

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 21:01:58.56 ID:c+HJ+kvB
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

与えなかった者の馬は

2016年07月25日 13:46

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 02:35:17.88 ID:8T2sXMC4
滝川一益が武蔵野合戦(神流川の戦い)に打ち負けて撤退した時、
極暑の頃だったために馬はたいへん疲れ、全身が汗にまみれた。

川を馬に乗って渡る時、馬に水を与えた者と与えなかった者がいた。
水を与えた者の馬は、10町ほどでみな行き倒れたのだが、与え
なかった者の馬は、別段の支障はなかったという。

――『武将感状記』



915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:38:19.20 ID:qe87IzyC
体育教師「よし、運動中は水飲むなよ!」

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:44:13.86 ID:Ej7RqOj7
>>914
なんでだ?

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 07:47:28.36 ID:qe87IzyC
人間なら水だけで塩分与えないと帰って血中の塩分濃度が低くなり、
血中の塩分濃度を高くするために体外に水分を出そうとして
水を飲むとよけいに脱水状態になるとか

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 08:02:43.74 ID:JZ2D5XOT
水中毒ってやつか
水ばっかり飲んでるとバテるぞとよく言われたっけか

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 17:20:06.39 ID:8xAJT9gO
ノドが乾いても水を飲ませてもらえず
疲れたら馬針で脚をブスブス刺される
戦国時代の軍馬は地獄だぜぇ

そのような嗜みで侘びがなろうか

2016年07月24日 16:30

千利休   
913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 04:12:28.94 ID:Ny5WpbVL
宗易(千利休)は花の頃(春)に、ある侘(茶人)を伴って東山へ参られ、
道中でその人に「その方は宿に釜を仕掛けて出なさったのか?」と問うた。

これにその人は、「今日は早朝から御供いたすので仕掛けておりません」
と、答えた。これに宗易は、

「いやはや、そのような嗜みで侘びがなろうか。これから帰って、仕掛けて
いらっしゃい。晩に誰が寄るかも分かりませんよ?」と、言った。

――『茶話指月集』




墨子をとくとく味ふべし

2016年07月23日 07:54

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 23:41:32.49 ID:ZxhPasnp
ある時の徳川家康公の御意に

「私が好んで書物を読み、聞くのは、良く国家を治めるものは四書をよくよく見聞きしなくては
いけないためだ。
だがこれも長々しいものであって、そういう事の出来ない者は、墨子だけでもよくよく味わうといい。
しかしこれも人によるかなあ?私はそう思っているのだが。
(墨子をとくとく味ふべし。但し人にもよらんか。我は左様に思ふ也。)」

(松のさかへ)

徳川家康が、諸子百家のうち、墨子を最も重視していたらしい、というエピソード。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 00:14:21.66 ID:gZak6UOT
墨攻ってあったなーなつい

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 02:25:32.44 ID:wBCMQ+NH
蝗を操るアレか

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 15:26:52.40 ID:ECkhSOKH
>>967
>しかしこれも人によるかなあ?
ここがいいね、家康っぽいw

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 16:27:46.28 ID:6pN9afEG
大坂城に墨子がいたら絶対に落ちなそう

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 20:18:24.81 ID:bIdrIW5Z
>>972
落ちなくても状況は悪いからなー
良くて小田原合戦状態だったと思うけど。

人々はみな自分の悪を忘れて

2016年07月23日 07:53

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/23(土) 04:23:28.57 ID:2iesiE+O
徳川秀忠の仰せによると、「人はただ我が身が他人より劣っていると
知って、諸事を慎むべきである。

愚人は蛤の貝の片一方を持ってその対を探し求めている時に、合わな
ければ、たちまち怒って持っている貝を捨てる。先程から持っている
貝が劣っているわけでもない。自身の心の仕業である。

人々はみな自分の悪を忘れて、友を恨み嫉むのだ」とのことであった。

この物語りは、阿部備中守(正次)が聞き覚えていたものである。

――『武功雑記』



金言耳に逆らい、良薬口に苦しという言葉は

2016年07月22日 21:15

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 18:55:06.95 ID:oeM5MNtq
徳川家康公のある時の御意に、このようなものが有った

「金言耳に逆らい、良薬口に苦しという言葉は子供も知っているが、実際には歴々の者たちでも
知らぬのだ。
何故かといえば、大名はあまたの家来にもてはやされ、図に乗り、殿様風をふかせ、気ままで
増長し我儘になり、自分の心すら取り留めることが出来なくなる。

そんな時に、その方(本多忠勝)のような者があって諫言すると、聞くやいなや無性に腹を立て、
自分の感情に従って口論するために、目がくらむほど大変に憎くなるのである。

そういう時、よくよく冷静に成り、気を静めてみれば、家のため国のために正しいのは
どちらか理解できる。
こういったことを、我儘というのだ。この”我儘”に負けては、つまらないことですら
気に勝ってしまう。

薬は苦いが、一口飲んでみれば熱も冷め、情も静かになり、快気するものだ。
もっとも悪い状態は、身を捨てて薬を奉る家臣もなく、また怒りのあまり聞く耳を持つ主人も
無いことだ。こうなっては天下の爪弾き者であるぞ。」

(本多平八郎聞書)



957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 20:10:04.68 ID:pRwHLnJA
>>956
偉くなると周りがイエスマンになるのは変わらないねー。

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 20:36:04.16 ID:Jxc4fsiO
家康の周りのイエスマンは藤堂高虎ぐらいしかいなかったんじゃない?

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 00:41:57.28 ID:3qpLlctc
>>958
高虎にイエスマン逸話なんてあったっけ?

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 05:56:50.19 ID:ent32oT8
>>960
他は家康がなんか言うと、10倍ぐらいにして言い返す三河者ばっかりだろ

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 16:40:54.74 ID:aYPdD9Gt
>>960
徳川家中では
インテリ=イエスマン
常識人=おべっか者
クレーマー=忠義者
故に高虎はイエスマンなんだな。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 23:34:51.64 ID:VyMMLeHY
高虎はインテリか?

「隠れもない、熟柿臭いわ」

2016年07月22日 21:15

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 22:10:30.51 ID:uZgz+BuU
尊氏将軍五世の孫義政公の御時、洛中洛外で酒を禁じられた事があった。

万阿弥という同朋衆が仕えていたが、いかがして飲んだのだろうか、
面もどこも赤漆で塗ったようなありさまで御前に跪いた。
大樹は彼をご覧になられて、

「お前は酒を飲んだ顔だなあ」

と仰られると、万阿弥

「いや、あまりの寒さで参上するときに焚き火にあたったのでございます。」

と言い訳した。

「そうであるならここへ来い。かいでみよう。」

とのことから、是非なく参ると

「隠れもない、熟柿臭いわ」

と仰せられる。それに万阿弥

「そのような事もございましょう。柿の木の焚き火にあたっていましたので。」

(醒睡笑)



961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 01:28:31.57 ID:+EHNhqgx
>>959
柿の果実酒ってあったのか

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 02:30:57.86 ID:eZAHWWpd
バニラユニコーン

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 10:44:01.25 ID:wfYA40BD
>>961
酔っぱの呼気に含まれるアセトアルデヒドは熟柿臭いのだ

まぎれもなく雪舟の作であったのだ

2016年07月22日 21:14

雪舟   
904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:09:29.91 ID:6X1DPJep
 雪舟等楊は室町から戦国にかけて活躍した画家であり、明国で修業した後に帰国してからは
日本各地を旅して多くの水墨画を残した。
 明応8年(1499年)の頃の雪舟は山口の大内氏に仕えて、明国から購入した絵画の鑑定をするようになった
 その年の夏、雪舟は主君の大内義興に呼び出されて一幅の山水画を見せられたが、その絵を見た雪舟
なぜか何も答えなかった。
「この見事な絵は先日、明国から大金を支払って取り寄せたものだが落款(作者の署名、印)が無いので、
誰が描いたか分からぬ。そなたはこの絵をどう見る?」
 大内義興はそう言って意見を求めると、雪舟は口を開いた。
「おそれながら、この絵は私が明国にいたころに描いたものでございます。自分の絵について
とやかく意見を申すのはひかえとう存じます」
 これを聞いた義興は激怒して、「落款がないからといって、自分の絵などと言うとは不届き者め!
もうよい、さがれ!」と叱りつけた。
 それから、雪舟は石見の国へ旅立ったまま山口へ戻ることはなかった。
 ところが、その後になってこの絵の裏側を剥がしてみたら、雪舟の僧名の「等楊」の字が見つかった。
この山水画はまぎれもなく雪舟の作であったのだ。



905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:14:53.21 ID:NvgDwZXH
昔日本の偉人を一ページずつ漫画にした学習漫画があって
雪舟の話がこれだったのを思い出した

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 23:51:26.85 ID:/tuRtWGf
雪舟はアーッじゃなかったからか?

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 00:29:53.71 ID:VyMMLeHY
>>906
息子と勘違いしてる?

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 01:29:56.82 ID:+EHNhqgx
なんで剥がしてみようと思ったんだろ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 05:55:13.27 ID:RlPreye2
相剥ぎしようとしたんだろ

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 07:12:34.27 ID:i21XoMp7
>>905
涙で描いたネズミが縄切った話だろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/22(金) 15:18:09.83 ID:8ZNSG2+n
>>908
仕立て直しでしょ

頼もしき家来の事

2016年07月21日 17:16

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/21(木) 00:27:49.69 ID:uZgz+BuU
頼もしき家来の事

紀州南龍院(徳川頼宣)様は、ある日和歌山で御物見に入られ往来をご覧されたことがあった。
御出になられたとも知らずに御家中の者は大勢往来していた中で、
ある御家来が供侍、草履取り、挟み箱持ち、槍持ちを従えて通りかかった。
御側に居た者が

「あれがかの噂となっている男ですか。」

と笑ったのをお聴きになられた。

「どのような噂があるのか?」

と言われたので、御側の者共はやむを得ず話した。

「かの者は身の上が苦しいとのことです。そうなのですが他に取り計らい方もあるでしょうに
甚だ不束なことをしているのでございます。」

「どのようなことをしているのか?」

「かの者が召し連れています侍はかの者の次男でございます。
草履取り、挟み箱持ち、槍持ちはいずれも三男四男、あるいは世話をしています甥などです。」

「それは頼もしい家来である。予は大勢召し連れているが、かの家来に劣らぬ草履取り、槍持ちがいるかというと心もとない。
家計の苦しさは関係のない事だ。」

程なくかの者を御取り立てられて、子供も相応の役に付けられたそうだ。

(耳袋)



我儘な者が、

2016年07月20日 10:26

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 22:35:07.44 ID:QFg/ztwm
我儘な者が、自分の願望が叶うことは決して有りません。

第一に、我儘では親を恐れません。
第二に、そのため親に疎まれます。
第三に、友人からも疎まれます。
第四に、召し使う者たちからすら疎まれます。
そして第五に、自身の願いは尽く叶いません。

以上の五段階の通りになってしまった後は、その者は天道を恨み、最終的には心煩わしく、
心乱れるより他有りません。

ですので、幼少の頃より、物事は自分の自由にはならぬのだということを、よくよく心得させるべきなのです。

大名にとって、惣領は別格の存在であり、次男以下は召し使われる者達と同然であると心得るよう、
くれぐれも申し付けて下さい。次男の威勢が強いのは、家の乱の基なのです。

(松のさかへ)

徳川家康が、徳川秀忠夫人(お江の方)に宛てた、子息の教育についての書状の一節。



950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 10:08:04.39 ID:TqI2A5B9
なんか家光ってすごい理屈っぽいお坊ちゃんだけど
理屈さえつければ簡単に許してくれるよね

信長公の時代に勇者と申した者は

2016年07月20日 10:25

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 03:46:26.93 ID:cFB0egY4
信長公の時代に勇者と申した者は、

菅谷九右衛門(菅屋長頼)、安藤与兵衛、神子田半左衛門(正治)などである。
半左衛門は八右衛門の弟である。八右衛門の子の四郎右衛門は、大坂で討死した。

また他の説では、信長の時代の勇者というのは、稲葉伊予守(良通)、池田伊与守、
氏家卜全(直元)である。

美濃西方の三人衆というのは氏家卜全、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(安藤守就)である。

――『武功雑記』




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 09:59:34.15 ID:ZNGYzNmM
あと、鬼武蔵を止めようとした瀬田の橋の番人

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:29:48.39 ID:daAkwI4G
勇者として菅屋の名前があがるんだねえ
どちらかというと官僚をイメージしていただけに意外だった

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 12:56:10.58 ID:dOYI8WFy
美濃三人衆って何で4人いないの?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 14:12:18.92 ID:nMsEvtnS
伊賀伊賀守って喉風邪の親玉ですか

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 22:24:15.75 ID:2PTcoJ25
>>952
つ 不破光治

清康様の御後胤がいる。

2016年07月20日 10:24

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 02:01:05.37 ID:zmeUVn88
今の小普請衆か、もしくはわずかな知行の人の中に、清康様の御後胤がいる。
家紋には一つ引をつく。この家には常に何たることもないが、
不幸があって跡目を仰せつけられたときは、
必ず弔い料として金子百金かを賜ることという。
『林子(術斎)曰く、妄説であるとか』


(甲子夜話続編)


この頃になると、こういったゴシップも流れるようになるのか



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/20(水) 08:16:14.81 ID:Gh41KMSN
水戸光圀公は、産まれるとき水子として処分されそうになった。
でも命は助けられて、成長して、名君?となった。

で、水戸光圀公はイケメンでモテまくっていたが、女に手をつけて妊娠させると
その子は水子にして処分した。
でも全員処分ではなくて、産まれた子もおり、大きな農家(武士ではない)に
あげちゃったりしている。

週間ブログ拍手ランキング【07/14~/20】

2016年07月20日 10:17

07/14~/20のブログ拍手ランキングです!


堀秀政は牛数十頭を買っておいた 15

台廟御馬、岩浪の事 12
国主の若い息子は 12

こうしてようやく、一時の急を免れる 11
下風道二斎が事 10
五月八日、順風を待っていた所 9
甲賀は忍の者多し 9

このような物数寄を 7
大将の兜、鉛痕 7
是非に及ばぬ沙汰の限りの分別違いである! 6
陣中に人気たつ事 6

隠逸の気性の事 5
古兜に鉛痕ある事 5
「子はかわいいものだ」 5
太閤の家において三奉行とは 3


今週の1位はこちら!堀秀政は牛数十頭を買っておいたです!
予め輸送用の牛を確保しておいたというお話。さすが名人久太郎、と思わせてくれるお話ですね。しかし秀政は、
この小田原での陣中に病没するわけですが、この逸話を見ると、体調の悪い中、陣中での無理がたたって、とも
感じてしまいます。また、九州の役ではあれだけ華々しく戦っていただけに、小田原陣での逸話がこのくらいだというのも、
少々物悲しさを感じさせるものですね。

2位はこちら!台廟御馬、岩浪の事です!
徳川秀忠の馬のお話。この時代、馬も名を引き継ぐことが有ったらしく、ものによってはものすごい長生きをした、と言うことに
なってしまうものもありますねw(武器なんかもそれが有ったようで、たとえば本多忠勝の「蜻蛉切」は、特定の槍ではなく、
その時その時忠勝が愛用していた槍をすべて「蜻蛉切」と呼んでいたとか)
それにしても、将軍家菩提寺である増上寺に葬られるほど、大切にされていた馬だったということがよくわかります。
伝説的なものも含めて、武将と名のある馬との交流、という論文なんてあったら、読んでみたいなあ。

同表でもうひとつ!国主の若い息子はです!
こちらは大友宗麟次男、大友親家のお話ですが、この人は兄の義統と対立して、事もあろうに島津に通じたりしているのですよね。
そのわりに父宗麟からは気に入られていたようで、宗麟の葬儀を取り仕切ったのもこの親家でした。
どうもこういうあたりからも、大友家の複雑な中身を感じさせるように思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

隠逸の気性の事

2016年07月19日 18:48

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 00:52:27.28 ID:7WZz4ZTv
隠逸の気性の事

坂和田喜六(佐川田昌俊)は、大猷院様(家光)御代までには世にその名が広まっていた。
その頃諸家で文武両道の達人を吟味して、こちらには一人、あちらには二人等と調べることがあった。
そのころ公けでもその御評議があり、

「文武の達人といえば坂和田喜六であろう。」

との上意があり、永井家を召されて

「そちの家来の坂和田は文武の英才である。
眼をかけて遣う様に」

との御意があったので、永井も大いに面目を施して、立ち帰ってさっそく喜六を呼び出した。

「今日、かくかくの上意があった。誠にその方のおかげで家に光輝をなせた。」

と殊のほか喜ばれたので、喜六はこれを聞いて

「未熟な私めにそのように御褒めがあったことはありがたいことです。」

と厚く喜んだ気色であったが、その翌日にどこに行ったのか妻子にも言わず、
家宝を捨て置いて、遁世したという。

どのような所存があったのか、一時の英名があれば、偏執の誹りも出てきて、
かえって英名を落とすことになるとの心であろうか。

(耳袋)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 12:40:58.35 ID:z7VvuQ5M
>>898
草だったのかな?

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/19(火) 13:27:09.16 ID:8lILfdzV
そのうち大猷院に召し出されるかもしれないのが嫌だったんでしょ