真田昌幸「そういう事は時と場合による」

2016年10月31日 09:38

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 23:52:44.11 ID:ky4QU8i1
慶長5年、真田安房守(昌幸)は下野国犬伏という所から引き返し、信州へと向かった。
その途中の上野国は徳川家の領分であったため、人数を連ねて通ることは出来ず、昌幸は
真田左衛門佐(信繁)、桑原若狭、佐藤軍兵衛の四騎にて上野国赤山の麓へかかり、夜を日に継いで
沼田へと到達した、

安房守は沼田へ行き、左衛門佐では沼田の町に火をかけ焼く恐れがあると、木村土佐という家老を
沼田に遣わし、安房守は沼田に参着した。

沼田は伊豆守(信之)の領地であるが、普代の所であるから、百姓たちは急ぎ城へ参り、
「大殿が突然こちらにお出でになられた!」と伝えた。
伊豆守内儀(小松姫)はこれを聴くと

「伊豆守は家康公の御供をして東に向かった。家康公は今頃下野におられるはずだ。であるのに
安房守殿が帰ってくるのは不審である。」

そう考え、留守居たちに「大手の門に寄らせてはならない!」と命じ、門を固めているところへ、
桑原若狭が表れ、「安房守様をこちらにお連れしたい」といろいろ申し上げたが、内儀は
「城口にも近づけてはならない!」と拒絶し、安房守は仕方なく、沼田の町にある正覚寺という
浄土宗の寺に立ち寄ると、そこに石庵という半俗の者が参って「伊豆守様はどうなさったのでしょうか?」
と尋ねた。これに左衛門佐が

「伊豆守殿は浮木に乗って風を待っているのだ。」

と言い放ち、石庵は、これは話にならないと座を退いた。

安房守一行は暫く休息を取ると沼田を通過する事にしたが、沼田の町は伊豆守の行方がわからぬと
大騒ぎに成っていた。この様子に左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」と安房守に
申したが、安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」と叱りつけ、その後は昼夜の境無く
上田へと急いだ。

この伊豆守内儀とは、本多中務(忠勝)の娘である。

(慶長年中卜斎記)

有名な逸話ですが、この慶長年中卜斎記だと真田信繁は何故か、
沼田に火をかけたくてしょうがなかったようですね。



268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 23:09:10.75 ID:PVC4EiTg
>左衛門佐は腹を立て、「沼田の町に火をかけましょう!」
>安房守は「そういう事は時と場合による!たわけた事を!」

草刈昌幸と堺幸村で見たかったなこのやりとり
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よって行方知らずとなった。

2016年10月31日 09:37

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 04:31:00.45 ID:n0UEobMf
 宝台院前通の、常慶町教覚寺の話である。


権現様へ常慶と申す仏工が常に御懇意を蒙りいつも御前へ召されていた。
彼には御自像を彫らせ、その寺へ御安置もしたりした。
居間もその御像があるという。


 常慶は碁を嗜んでおり権現様は時々御相手されていた。
あるとき常慶がある提案をした。


「私が勝ちましたら、御頭を叩いてもよいですか」


「そのほうが負けたらどうするのか」


「私が負けましたら、再び御前に仕えません。」


結局勝負することとなったが、常慶が負けてしまった。
よって行方知らずとなった。
これからおいおい御尋があったがついに居場所が分からなくなった。


と寺では言い伝わっている。
(甲子夜話)



267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/31(月) 07:56:12.11 ID:0R+9GM9r
仕えているのが嫌になったんだな

見れば明日も生きていけるって思うCMです。

2016年10月30日 20:58

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 16:10:43.00 ID:zMfwUGF6
ちょっといい話でも何でもないけど見れば明日も生きていけるって思うCMです。

https://www.youtube.com/watch?v=37Fy8w5aNpI

大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



かかる心を 武田とや云

2016年10月30日 20:57

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 01:47:03.42 ID:jR8hTmlP
また先年、(武田信玄は)嫡男の武田太郎義信をも生害しなさった。

その理由は、義信が父を討って家督を取ろうという陰謀をしたところ、
これが信玄の耳に入り、さえぎって義信を牢者とし、しまいに義信は
毒物により相果てなさった。

さては、父を追い出し子を殺して、甥の氏真の国を奪い取ったので、
大悪行を為したと思ったのだろうか、何者の仕業なのか次のような
落書があった。

「子を殺し 親に添てそ 追出す かかる心を 武田とや云」

――『当代記』



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/30(日) 02:33:47.44 ID:+J0gnCcp
猛だってこと?

黒田如水公式設定

2016年10月29日 12:31

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 22:25:21.46 ID:hT+bzspg
黒田勘解由次官孝高は、黒田職隆の嫡子である。母は明石氏、天文15年孝高を播州姫路に産んだ。
この時雪が降って、その家を覆った、これは英雄の生まれる奇瑞であった。また家門繁栄の
前兆でもあったのだろう。

孝高は天性聡明、鋭敏にして才知たくましく、武芸も人に優れていた、彼ほど勇猛、英武な事も、
また世に少なかった。古の和漢の良将といえども、彼を越えることはないだろう。
まさしく天が下した英材であり、本朝においてこの右に立てる人は殆ど居ないと言える。

秀吉が播州に初めて来た時から、これを助け、遂に天下を平らげたのも、ひとえに孝高の功である。
黒田孝高を知る人は、孝高はよく秀吉を助け、天下を平らげたと思っている。
黒田孝高を知らない人は、秀吉が孝高を取り立てたと思っている。
例えれば、漢の張良が高祖を助け、明の劉基が太祖を補佐した事に似ているが、その功は
それらを越えているのだ。

(黒田家譜)

これが黒田家譜の、黒田如水公式設定である。



257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 22:50:02.34 ID:a0vwWu8v
黒田家譜だししゃーない

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 23:03:20.81 ID:JnJrWcR6
作者はキリシタンなんだろうな

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 23:15:53.53 ID:0wqTwghO
貝原益軒はキリシタンだったのかφ(..)メモメモ

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:31:26.90 ID:qpXB4M5+
中国の王朝開祖のテンプレートみたい

我が先、朝鮮在陣の笑談

2016年10月29日 12:30

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 00:42:43.87 ID:lvkvkyyI
我が先、朝鮮在陣の笑談

 雨の中聴く者は外に一人もいないまま、宗耕〔軍講者〕としばらくの間話をしていた中で
朝鮮攻めのことに及んだ。
 耕がその話を言い出した。
「御家にはさぞかしかの国の御獲物があるのでしょう。」
そこで予は言った。


「なるほど、いろいろな所にその時の物もあるでしょうが、
どうにも私の家には一品といえる物が無いといえます。
しかし法印(鎮信)がその役に用いた兜は伝わっているが、
甚だしく粗末な物でなかなか大将が着るべき物ではない。」


予の話を聞いて耕は以下の話をした。


「ごもっともだと承ります。
黒田家でかの役に〔長政であろう〕着られたという御具足を見ましたが、
胴着にしても、俗間に鳶や仕事師が裸に着ている腹懸というもののようで、
前後に革を合わせて首の所に襷にように何か黒く粗末な塗りをし、
破れた所には何か革でふせをして綴りつけていました。
しかし、父公の具足として御子の右衛門佐(忠之)の時に、
その内を金梨子地で塗られて、表は往時のままにされていました。」


 予は思うに、内を新しくしたのは惜しいことである。
それを聞いて、法印公の御兜は昔の時のままなので、
当時の有様を思い知ることができる。


(甲子夜話三篇)


当時はまだ実用品だったと思われるので、
忠之が後に文化財改悪といわれるようなことをしたのも致し方ないようにも思える



真田家の幸村は

2016年10月28日 14:04

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/28(金) 04:45:28.23 ID:pe8bkluQ
 この九月初旬に、真田豆州が訪ねられて四方山話をされた。
その中で、耳底に留まった話のいくつかを記しておく。


一、真田家の幸村は薩摩に行ったと思われる。
かの国の言い方にも時々それと思われることがある。
彼は先ごろかの国に問い合わせた文通がある。近日見せてくれるとのことだ。


 これ世上の説にあるが、諸書で言うところと異なっている。
どうして秀頼の墓が薩州にあるのかというのは、豆州の言葉の通りなのだろう。
そうであっても神祖の御深仁御厚徳を察することができる。




一、大助生害とのことだが、これも大阪で死んだという話の通りだとは思われないそうだ。
高野山の蓮華定院は昔からの家の代々の菩提所であるが、
その過去帳に大助の戒名があり、没年七十いくつかとかある。
ならば老死である。
御旗本衆の中に八木氏がおり、この家は母のつづきゆえ、
彼は猷廟(家光)の御時にこの家で召し出されたと聞いた。
今更ながら子孫の口から八木氏に問うのもいかがと思われ、まだ確かめてないと。


 こうであるなら、幸村が高野山に退去したというのも、この蓮華定院だろう。
八木氏は今の大番頭丹波守〔四千石〕の家か。


(甲子夜話続編)

青屋に肩衣を着せるような

2016年10月28日 14:03

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 20:39:37.87 ID:lY6dUZwu
昔、阿波国勝端の町に青屋太郎右衛門という者が居た。彼は米持ちであり、持明院の旦那になるほどであった。

その頃、勝端の南にたたつ修理という侍が在った。彼は青屋太郎右衛門の娘に米百石の持参金を付けると
いうのを息子の嫁にとったが、息子は間もなく死んでしまった。この事で、「たたつ修理は米百石で子を売った」
と言われ、物笑いに成った。

三好長治の小姓に山井図書という者があったが、彼は大酒飲みで一日に酒を一斗(約18リットル)も二斗も
飲んでも、痛くも痒くもないという人物であり、その飲みっぷりから三好長治の御意を一段と良くし、
長治は彼とともに昼夜酒盛りを行い、酔っ払って正体のない有様であった。

その頃、米持ちである青屋太郎右衛門に肩衣を着せた(侍身分にした)が、この事について人々は、
「酒の故だ」とは言わなかった。
「青屋に肩衣を着せるような真似をする人物だから、ああなのだ。」と申しふらした。

(三好記)




あかほりかうつけのむすめのかたへ

2016年10月27日 17:59

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/26(水) 17:11:00.91 ID:zAjQwwv/
無能扱いされてる関東管領、上杉憲政の河越合戦後の書状
討ち死にした赤堀上野介の娘に対して「男児がいないため、女児であるお前に家督を継ぐことを許す」
とわざわざ仮名で書くという気遣いを見せているが、その文面

「あかほりかうつけのかみむすめ のり政
かたへ
返々みやうたい(名代)の事、まかせおき候、
こんとかわこえにおゐて、をやかうつけのかみうちしに、ちうしんのいたりニ候、
しからはおふなこの事に候とも、みやうたいしきの事、あいはかるへく候、
ここもととりしつめ、ちうしやうもあてをこなふへく候、あなかしく

四月廿七日 のり政
あかほりかうつけのむすめのかたへ」

上野守(かうつけのかみ)、と書いてるけど上野って親王任国では


252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/26(水) 17:32:18.28 ID:zAjQwwv/
ttp://www.city.saitama.jp.cache.yimg.jp/004/005/006/001/017/012/002/p000183_d/img/001.jpg
001[1]

画像があった。
かうつけの、の下が「かみ」になってるか、読める方がいれば読んでほしい



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/26(水) 20:35:53.07 ID:biprH1Xg
赤堀か、うつけの神娘に見えた

この事について、台徳院様が

2016年10月27日 17:57

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/27(木) 02:00:58.95 ID:TnWOS/cS
(大坂夏の陣の時、)玉造で源君(徳川家康)は、杖をおつきになり、
諸大名に御言葉をかけなさって、のさのさと御通りになられた。

台徳院様(徳川秀忠)は御駕から御出になられ、御腰をかがめなさり、
諸大名へ御挨拶なされて、御通りになられた。

この事について、台徳院様が敵方からの矢玉を御避けになっていた
ように取り沙汰し仕ったとのことである。

――『武功雑記』



滝川雄利は安治を謀って

2016年10月26日 10:12

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 22:59:30.30 ID:9xpVU5sN
天正12年、織田信長の二男、信雄の家臣である滝川雄利の子を、羽柴秀吉は人質に取り、
脇坂安治に預けた。この後、織田信勝と秀吉は交戦を始めた。滝川雄利は安治を謀って
人質を取り返そうと、偽って『あの子の母が重病に陥りました。どうか対面させてやりたいのです。』と
少しの間、暇を頂くことを願った。

安治はこれを偽りと思わず、親子の愛を憐れみ、私的に暇を許してしまった。
すると滝川雄利父子は伊賀国に逃走し、上野城に籠った。
秀吉は滝川雄利が伊賀上野城に入ったと聞いて、安治に人質のことを尋ねた。
安治は、人質を取られた有様を、ありのままに答えた。

これを聞いて秀吉は激怒した。安治は鬱憤を抱え
「私が伊賀に赴き、滝川父子が籠っている上野城を攻めて、そこで討ち死にいたします!」
そう申し上げた。
しかし秀吉はなおも腹を立てて

「お前のような小身が、滝川父子を攻め取れるものか!さては滝川に一味し、私に謀反を
するつもりか!?」

これを聞いて安治は涙を流し
「主君の厚恩を忘れ、叛逆した滝川に与する事などありましょうか!」と、自らの母親を人質として
残し、主従20騎にて笠木より伊賀に入った。そして伊賀国の兵に触れ回った

『羽柴秀吉の使にて滝川父子を討ち取る。味方を仕り、軍忠ある者には本領を安堵し、城中の人質も
返還しよう。』

こう云って国侍たちを一味させ、夜中、密かに上野城を取り巻き、その夜のうちに攻め立てこれを取った。
滝川父子は伊勢へと逐電した。

この旨を秀吉に注進すると、秀吉は御機嫌にて、はじめに山岡美濃守を使いとしてその戦功を労り、
後に増田長盛を使いとして、「国の事、堅固に仕るべし」と伝えた。

(脇坂記)

脇坂安治が、伊賀上野城を攻め落としたお話。




“地ずりの晴眼”

2016年10月26日 10:11

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/26(水) 02:31:41.89 ID:kweATJqC
東国で1人の浪人が“地ずりの晴眼”という太刀を覚え、「これに勝てる者はおるまい」
と思い、伊藤一刀斎に会って、

「この地ずりの晴眼の止め様でもありましたら、御相伝くだされ」と、望んだ。一刀斎は
「なるほど、伝えよう」と請け合いながらも、それを伝えずにまた他国へ行こうとした。

浪人は心に、「一刀斎でもこの太刀を止めることができないからだ」と思って、彼の
途次に出向かい、「日頃望んだ地ずりの晴眼の止め様を御伝授されないとは、遺恨
である。只今、御相伝くだされるべし!」と、言うままに、

刀を抜いてかの地ずりの晴眼で、するすると一刀斎に仕掛けた。その時、一刀斎が
抜き打ちに切ったと見えると、かの浪人は2つになって倒れ伏した。

世間はこれを、「地ずりの晴眼の止め様を伝授したのに、そのまま息絶えてしまって
残念である。これを“真金江の土産(冥土の土産)”とでも言うべきだろう」と評し合った。

一刀斎一代の行跡には、このような事なども多かったという。

――『撃剣叢談』




週間ブログ拍手ランキング【10/20~/26】

2016年10月26日 08:51

10/20~/26のブログ拍手ランキングです!



義光は笑った 24

【話題】最上義光・義姫兄妹がヒストリアに 17

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引 16
【雑談】そういや五郎左さんの織田家の序列って 14

秀吉はその深き志に感じ入り 11
江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され 10

秀吉の験の付いた大石を 9
大内勢、味方を討って手柄を得る 7
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。 6


道可公恩自書之写 4

是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし 4

嶋原の賊矢文 3



今週の1位はこちら!義光は笑ったです!
「最上は 国の真秀(まほ)ろば ~」、いい歌ですねw上杉の大軍と対峙しての、一種の高揚感も感じられます。この頃義光はまだ、
最上ではなく「山形義光」と名乗っていたようなのですが、「最上」が一つの家を超えて、地域を統合するナショナリズムを呼びかける
地域名であったのかな、なんて事も想像してしまいます。慶長出羽合戦は最上にとって正しく、大敵から郷里を守る戦いでしたからね。
義光がそういうことを考えながらこの幟を許可したのか。色々想像できるおはなしだと思いました。

2位はこちら!【話題】最上義光・義姫兄妹がヒストリアにです!
12月9日のNHKヒストリアに、最上義光・義姫兄妹が登場するそうです。
まあヒストリアという番組に関しては、個人的には言いたいことが沢山ありますw「お前の史料の定義はどうなってるんだよ」と
何度突っ込んだことか。しかし一方で、取り上げられた人物の知名度・認知度を格段に上げてくれることも確かです。
井伊直虎なんかもこの番組で「NHKに取り上げられた」ということで、認知が広がったように感じます。
今度の番組で最上兄妹がどのように取り上げられるか、楽しみと不安を抱えつつ待ち望みたいと思います
(だいたい想像付くとか言わないw)

今週管理人が気になった逸話はこちら!松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引です!
松浦隆信に毛利元就が接触していたというお話。元就の晩年というのは西に大友東に尼子を受けて、大友を牽制してくれそうな
勢力なら藁をも掴みたい状況でした。ですから遠い平戸の松浦氏と関係を持とうとしたというのもわりと理解できる話です。
遠交近攻策ですね。
これがいつ頃の話なのか、推定は出来てもハッキリとは解りません。ですが九州・大友方面の外交活動は毛利隆元が
担当していたフシがあり、だとするとこの松浦隆信との接触も、隆元が主体として行っていたのかも、なんて想像したりしました。
非常に想像の膨らむ、いいお話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話を読まれたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

嶋原の賊矢文

2016年10月25日 21:22

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/25(火) 05:15:08.44 ID:dsNNs2EC
嶋原の賊矢文


薩州の支、佐土原侯〔島津筑後守〕の臣の某が持ち伝えている、
寛永中の耶蘇一揆のときに、原の城中から寄せ手に射遺した矢文として、
伝写したものを見た。
本書は今なおかの臣の家にあるという。
その文は憎むべきものだ。
これがまさに彼らが賊徒であるゆえんである。


「矢文


『一、当城之土民、宗門ノ為メニ尸ヲ山ニ捨て、名ヲ後代ニ留メント欲ス。
之ニ加ルニ忝モ上使板倉内膳正ヲ討チ奉リ、生前死後之本望、之ニ過グベカラズ候。
冀クハ近日一戦遂、万死ヲ顧ズ、尽ク相果ン。
且又余慢有ルニ依テ、狂歌ヲ綴リ軍中ニ放ツ者乎。一笑セヨ。』


一戦功成テ古城ヲ鎖ス、 三軍ガ死ヲ望テ責レドモ成シ難シ、
九州ノ大勢十余万、   一冬立チ尽シテ花ノリヲ待ツ。


島原や有馬の城を責かねて 心づくしに見ゆる上使衆


肥後守いかに心は細川や なかながし日をあかし暮らして


物数寄は越中流とききければ 敵にあふてはならぬ物数寄


有吉や頼むかひなき先手にて 敵をばうたで味方をぞうつ


信濃路や敵に心をかけ橋の かいがい敷もあぐるせい楼


立花や袖の香ふれし昔より 猶かふばしき武士の道


有馬山すそのの桜咲みだれ 軍は華を散す古城


寛永十五年寅三月日」


(甲子夜話)



【雑談】そういや五郎左さんの織田家の序列って

2016年10月24日 18:25

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 09:06:27.85 ID:ufTBOjVK
大将向きじゃなかったんだろ
補佐役のイメージがある
突出した武功があったわけでもないしね
野心もなさそう

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 10:27:48.70 ID:A54ceQ90
織田家臣団は一国持ちまでというサラリーキャップ制を取ってて
近江攻めまでに抜群の功績上げて最初に一国持ちになったのが過小評価の元。
織田が巨大勢力になった後なら一国でも大国をポンともらえたが、まだ小国やるのがせいぜいの時だったからね

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 11:18:42.06 ID:RyTlRMNM
五郎左はショウカみたいな存在だったんだろうね。織田幕府ができていれば一番評価されてたんじゃなかろうか。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 15:19:40.86 ID:ngDmiDsL
自身は信広の娘を(信長の養女として)嫁に貰いその息子の長重は信長の娘を嫁に貰ってるんだから
能力の評価はともかくとして信長からすれば一番信頼してる存在なんじゃないか

是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし

2016年10月24日 18:23

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/24(月) 17:30:40.07 ID:spJRet+N
羽柴秀吉による播磨国三木城別所長治攻めの時、同国の神吉城主、神吉民部は別所と心を合わせ、
三木に加勢したため、秀吉は軍勢を割いてこの神吉城を取り巻き、攻めかかった。

この軍勢に加わっていた脇坂安治は、真っ先に大手の木戸口まで攻め寄せたが、壁下にて鉄砲に
兜を撃たれ、立ちどころに目が眩んで地に倒れた。

これを見た同僚の宇野伝十郎(後に因幡守と号す)は倒れた安治を引き起こし、彼を助けて退こうとした。
ところが、安治にわかに起き上がり、叫んだ

「この程度の手傷で退くのはものすごく口惜しい!」(是程の手にてしりそかん事糸口惜かるへし)

そして暫く休んで、一番に大手の口より乗り入った。宇野伝十郎も安治に続いて乗り込んだ。
これを始めとして多勢が一気に押し破り、遂に神吉城も攻め落とされた。(安治二十五歳)

(脇坂記)



秀吉の験の付いた大石を

2016年10月23日 15:52

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 15:48:23.69 ID:Wm6PdRyD
天正4年、織田信長が近江国安土山に築城する時、この普請を丹羽長秀に仰せ付け、長秀は正月17日に
安土山に入った。諸国の織田家の大名も同じく安土に至り、四方より石垣のための石を採取し夜に日をついで
急ぎ輸送した。

この時、脇坂安治は羽柴秀吉の使いとして、下僕一人を従えただけで書状を持って安土に向かっていたが、
この途中、丹羽家の郎党たちが、秀吉の験の付いた大石を、人足数多に運ばせているのを発見した。
安治は怒鳴りつけた

「その石をどこから取ってきたか!?」

そう押し止めると刀にて石に結ばれた縄を切り石を落とした。怒った石運びの奉行の郎党たちは安治に
襲い掛かってきたが、逆に追い散らし、奉行も人質に捕らえた。

秀吉はこの安治の所業を聴くと激怒した
「かかる目出度い普請の砌に、このような騒動を起こすとは曲事である!安治を折檻せよ!」
ところが丹羽長秀が帰宅の途中、秀吉の屋敷に立ち寄り、安治の忠節を褒め、彼に様々に理があると言った。

これにより安治は許され、その年、知行百五十石を与えられた。

(脇坂記)



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/23(日) 23:34:18.48 ID:0wNx8Ksp
安定の五郎左さんだが、そういや五郎左さんの織田家の序列って
どんなもんなんだっけ?

小説とかでは、佐久間追放後は織田家ナンバー2扱いだけど、
織田家四天王に入っている割には、石高が圧倒的に下で、軍団長にも
任命されずじまい。(好意的な視点では信孝の副将=実質的な総大将だけどさ)

信長末期時での立場とか考えると、光秀・勝家よりは下で、「信長の古参中の古参」
ということで、秀吉や一益よりは上(ただし絶対的な差はない)あたりかねえ。

道可公恩自書之写

2016年10月22日 17:17

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 20:16:13.55 ID:rAcw/9qK
道可公、朝鮮へ御潜行 并商估板屋某所伝道可公恩自書之写

 法印殿(松浦 鎮信)が朝鮮国の軍に従った、七年間の武功は人が皆知るところである。
その七年、道可殿(松浦隆信)は領地に静かに留まられて、
兵具糧食の事をうまく処理なされていたので欠けることが無かった
という話は世人で知る者はいない。
漢の蕭何は治平の後、第一の功で?(サ)侯に封ぜられたというが、
まことに我が家では道可殿を以って比べることできよう。

 この頃、平戸の者の話で、
平戸の商人の板屋某の所伝に道可殿の御自筆があり、
その旨は
『朝鮮国に永く御陣しているので、法印公の御具足が損じている。
よって威を換えるべきだと思われるが、それには金子が御入用であるので借用を申し上げたい。』
との御文であったという。
この文からも、道可殿の仕事の有様と、道可公が遠所で労苦されている様を察することができる。
当時の状を見るがようだ。

 また今先手の鉄砲を預け置いてる頭の山本某の家は、
宇喜多家がまだ貴くなかったときに辞めて浪人して後
道可殿に随い、朝鮮攻めの時でも仕えていた者が先祖である。
今も言い伝わっているものに、
そのころの文と思われる絖(ぬめ、絹の一種)のような絹を引き裂いたものに文を書いたものがある。
その文には

『大御所様にも、御滞りなく今日釜山浦へ御着き遊ばれ、恐悦申し候。
只今御船帰り候故、この旨申進候。』

という趣旨が書いてある。思うに従行した者が遺し置いた家人へ贈る文で、慌しいときにこのようなものを認めたのであろう。
〔軍に赴かれたのは、法印殿なのは論をまたない。
御子肥州殿(松浦久信)も従い行かれたので、大御所と申す者は道可殿でなくて誰であろうか。〕

 しかし道可殿の朝鮮の軍に赴かれたのは、よその人はもとよりわからないとして、
わが邦の人もかつて知る者がいない。ならばこの文を見るに、秘かに渡海があったことを知れる。
ならば戦功のためではなく、完全に軍糧と兵具等の点検のため、潜行して行かれたのであろう。
豊臣公といえども知らないのももっともである。

〔聞く。この絖書の文、今は無くしたと。
その理由は、一旦山本の家が嗣絶し、婦女子ばかりいたとき、
持仏堂の下に大切な旧物を置くべしと、祖先の訓戒があり
婦女のことゆえ戒めは固く守ったが、皆朽腐して今はその痕さえないという。
今の砲頭は義子であるという。〕

(甲子夜話三篇)

日本の蕭何、松浦隆信!



大内勢、味方を討って手柄を得る

2016年10月22日 17:14

237 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/21(金) 23:20:13.71 ID:wTftajrD
大内勢、味方を討って手柄を得る
>>216続き
こうしたところに、陶の入道の老母が危篤だという知らせが舞い込んできたので、
陶入道は取るものもとりあえず山口へと戻っていってしまった。
代わりとして、義長から内藤下野守興盛、陶からは江良丹後守(房栄)に六千余騎を差し添えて、
備後へと軍勢が送られてきた。

江田の端城の祝(高杉)の城を切り崩すため、元就父子三人を大将として、
宍戸・平賀(広相)・熊谷・天野・三須・香川・遠藤・入江・山田・飯田など六千余騎が、
七月二十三日に、一気に攻め破ろうと、鬨の声を上げて攻め上がった。
城の尾首は吉川衆、左は吉田衆、右は平賀・宍戸(隆家)・熊谷・天野などが一勢ずつ攻め口に進み、毛利勢は勇将粟屋弥七郎就が戦死したものの、
その活躍に吉川勢と仏像の様な金ピカの鎧に身を包んだ平賀の奮闘もあって城主の祝甲斐守と祝治部大輔を吉川勢が討ち取り、城兵750のうち600までが安芸の国人衆に首を取られた。

内藤・江良は備後の国人に手勢を加えた一万余騎で、
尼子勢への押さえとして送られてきていたというのに、
祝の城へ馳せ向かわなかったので何一つ手柄を立てることができなかった。
それが山口に報告されるとまずいと思ったのか、
味方の三吉の者たちをそ知らぬ顔で取り囲み、「敵だ」といって討ち取ると、
山口へは「尼子勢を討ち取った」と注進した。

こうして元就と内藤・江良の勢合わせて一万六千余騎は、
伊山に陣を構え、同年の十一月まで対陣していた。
江田は堪りかねて、同十三日に旗返の城を空け、山内へと退却していった。
旗返の城には、すぐに江良丹後守が入った。

尼子晴久は江田が城を去ったので仕方なく山内を引き払い、出雲へと兵を引き上げていった。
元就も吉田へと帰陣した。
内藤興盛も吉田へ寄るとしばらく逗留し、同十二月初旬に山口へと下っていった。

しかし、この時元就の意向に反して旗返の城に江良丹後守が入ったことは陶に対する元就の反感を高め、後の厳島合戦の遠因となったのである。
(陰徳記)



238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/22(土) 10:59:08.35 ID:4DeVsb5M
粟屋弥七郎(就俊)

松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

2016年10月21日 09:26

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 00:37:34.28 ID:rAcw/9qK
松浦肥前入道殿、毛利元就の亭に誘引

 長村内蔵助が生きていたときに茶堂慈斎に語ったというのを、
人が聞き伝えて予に告げた。
さて慈斎もまた没して十余年、予もまた長村が話が耳に残っており、今顧念してみる。
 

 あるとき平戸の隣邑の唐津から商人が来て、その人がもたらした中に、古文書の廃紙が多かった。
長村はその中を取り調べると、
毛利元就の亭に茶会があったとき、松浦肥前入道(隆信)も参られ同伴致された』
『毛利の一族某の人に、誘引すべし』
といった書簡があった。
そんなものを長村が計らずすも獲たことは、誠に千載の奇遇であったと。

 道可公(松浦隆信)はその頃はわずかに小島の宰で、
元就は十州太守であり彼と比すれば、小大甚だしく異なっている。
それなのにかく大家の衆会に招かれなさたことは、
いかにも御武運高徳、下に伏しなされる輩ではないことを知っていたのだろう。

との話をしたそうだ。
長村の言葉を今思うと、この文書はどこにいったのであろうか。非常に惜しまれることだ。

(甲子夜話三篇)

さすが、元就
抜け目ないですね




義光は笑った

2016年10月21日 09:24

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/21(金) 02:00:56.12 ID:ZIiyZKTJ
義光は笑った

慶長5(1600)年9月半ば、直江兼続率いる上杉の大軍が山形盆地を臨む菅沢丘へと布陣した

最上軍の将の氏家左近(氏家光氏)は「(富神山奥の)西黒森で上杉の荷駄道を撹乱し、後方を掻き回したい」と軍議で申し出た

この提案に小勢ではすぐに消耗し、あたら兵を失うと諸将の反対はあったが、左近の手勢60人程での作戦が認められた

兵には命知らずで足の早い者が集められた

これを耳にした延沢遠江(延沢光昌)も沼木方面への遠見の役を申し出た

最上義光は延沢の重臣有路但馬、笹原石見、糟谷延元らに軽挙あるべからずと念を押した

その日の夕刻延沢勢の進出した沼木の西、須川の東岸に大量の最上方の幟旗が立ち気勢が上がり
横目衆から義光に「この様な立て札が至る所に立っております。いかがいたしましょう?」と問い合わせがあった

立て札には「最上は 国の真秀(まほ)ろば 畳(たた)なづく 青垣 山篭れる 最上し 美(うる)はし」と書かれていた

義光は立て札を元に戻す様に命じて声を立てて笑い、非常に嬉しそうであったとされる

「山形合戦」等



秀吉はその深き志に感じ入り

2016年10月20日 17:49

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 05:24:45.76 ID:MdW3IFWi
元亀元年、織田信長は摂津国野田・福島に立て籠もる三好勢を退治するため、数万騎を率いて
8月20日に出陣した。29日、野田・福島へ寄せ詰め、今攻めるという所で、大阪の本願寺が心変わりし
信長への反抗を始めた。

この頃木下秀吉は近江国北野郡にて、浅井長政の小谷城の押さえのために横山城に逗留していたが、
摂津国に一揆が蜂起したと聞いて、近江から多くの兵を揃えて急ぎ京へ上ることとなった。
この時、児小姓や若き者は横山城に残し置く、と命じた。

脇坂安治はこの時17歳であったが、召し連れてもらえないことを無念に思い、御供の直訴をしようと
考えていた所、秀吉の船を長浜から直に大津に廻すと聞いて、密かにその船に忍び込み隠れた。
船奉行はそうとも知らず、その日のうちに大津に船が到着すると、安治は船より走り出て松本の
傍まで行き、道脇に伺候して秀吉の馬が来るのを待った。

秀吉は馬上より安治を見ると、以ての外に立腹し
「我が命に背き、隠れ来る事曲事である!しかし若輩なる者の志有ることは感じられる。
今夜は側に召し使うが、夜が明ければまた船にて長浜に返すべし。」

そう命ぜられ、安治はこれに「畏まり候」と答えた。

しかしその夜、また大津を忍び出て京都へ馳せ上がり、三条の橋の傍にて夜を明かし、また道脇に伺候して
御馬を待った。

秀吉は馬上より再び安治の姿を見て言葉も発せず、重ねてここまで来ること、いよいよ曲事だとは思ったが、
その深き志に感じ入り、それより乗り換えの馬を安治に貸し与え、供をさせた。

(脇坂記)



【話題】最上義光・義姫兄妹がヒストリアに

2016年10月20日 17:47

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 11:30:53.75 ID:4lT/gcTv
【話題】最上義光義姫兄妹がヒストリアに

ツイッターから

最上義光義姫が「歴史秘話ヒストリア」に登場!

12月9日(金)20:00NHK総合テレビ「歴史秘話ヒストリア」で、「(仮題)もう一つの真田丸戦国を生き抜いた兄妹」が放送されるとい情報が!

野望と謀略が渦巻く戦国乱世を力を合わせて生き抜いた兄妹、最上義光義姫の実像を伝える内容で、最上義光が単独の番組としてフィーチャーされるのは、恐らく史上初めてと思われる

(´・ω・`)NHK…ヒストリアというのに一抹の不安が残る



262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:15:57.17 ID:DlX9p96e
随分と先の番宣をするんだな

刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

2016年10月20日 17:46

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:36:45.82 ID:TbdQOix0
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

高麗陣にて、加藤清正の軍兵たちが敵を斬りあぐねていた時、清正が
忠告して、「馬上で何人を斬り倒したのだ? 数えてみよ」と言ったところ、

刀がまっすぐであれば当たりが弱く、敵は倒れなかった。反っていれば、
切れないといえども、倒れない者はいなかった。

(刀の直なるにては。あたりよはくて。敵たをれず。そりたるにては
切れずと。いへども倒れぬはなし)

――『武功雑記』



江戸御旗本・尾張・紀伊は“御三人”と称され

2016年10月19日 16:24

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 01:36:00.64 ID:Kwj3E/7X
東照宮(徳川家康)の御子達多き中で、紀伊頼宣君は、その御器量天才
にして、只の尋常の御性質ではあられず、

そのところを東照宮は御覧になられて御寵愛は浅からず、尾張の義直卿
と紀伊頼宣卿とは、「天下左右の固めであると思し召されるように」と、

堅く御遺言なさったことにより、江戸御旗本(徳川将軍家)・尾張・紀伊は
“御三人”と称され、三家一体の御高家であった。

――『南竜言行録』

水戸家ェ…



226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 02:18:39.13 ID:M/r/pRYO
当初は水戸の立ち位置が不確かだったような
今ではそんな水戸の血筋が宗家だけど

227 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/19(水) 04:25:34.69 ID:gmsZuxDH
>>225
元々そうでしょ
悪い話でもなんでもない。
途中から将軍家除いて水戸を加えた方がいい話だか悪い話だかになるんじゃないのかな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 15:21:25.87 ID:2lnbE035
そりゃ水戸家は紀州家の分家扱いだったって言われるぐらいの格下だしな
まったくのフィクションだと分かっていても水戸黄門でじーさんが紀州に乗りこんで偉そうにしているの見て、哀れに見えたわ

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 20:04:17.78 ID:vD6BiNk0
>>226
今の徳川当主は会津松平家だけどな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:00:20.81 ID:qTJ2VxIA
男系血統的には水戸徳川→高須松平→会津松平→徳川宗家という流れ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 21:26:49.25 ID:qTJ2VxIA
尾張徳川は鍋島血統の堀田が継ぎ
紀伊徳川は断絶の危機
水戸徳川は現在も男系血統が続き、宗家も含め各連枝にも水戸血統が多い

どうしてこうなった

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/19(水) 22:39:27.14 ID:eiQrfX7O
>>232
だいたい烈公斉昭のせい

この人も公私に渡ってDQN四天王に次ぐアレさ…

週間ブログ拍手ランキング【10/13~/19】

2016年10月19日 10:14

10/13~/19のブログ拍手ランキングです!



元就、軍議の席次を巡って争う 22

後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのは 21

長篠に後詰のため出陣すべきや否や 17
7歳の女城主誕生 14
庵原朝昌の帰還 14

それがしは家康公へ庭先のハシゴを差し上げたが 13
子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるもの 12
森武州の具足駿府では全て町頭という。 10

『心掛けた武辺は、おのずからの武辺に優っている』 9
観世大夫、神祖拝領御肩衣の事 9
呼坂という名は 9

徳守神社と森忠政の奉納鉄盾 6
情け無いことであると申さぬ者はいなかった。 6
以ての外なる行跡である。 5
いつのまにか、同族になってしまった加藤s 5
人が伝える話も時々違うものだ。 2



今週の1位はこちら!元就、軍議の席次を巡って争うです!
あの時代の武士とは面目、メンツのためなが死んでも滅びても構わない人種であり、席次争いというのはたとえ冷静な
武将であっても、珍しくないものですね。むしろそれをやらないと舐められる場面も有ったようです。
席次ではありませんが、あの徳川家康も秀吉が「天下に俺にかなう武将は居ない」と言ったとき、
「殿下は小牧長久手を忘れられたか!」と自分の優位を主張した、なんて話があります。これなんかもそれを今更主張するのは
家康に得はないんじゃないかと思うのですが、そういう首長をするのが当然、という考えから、そういう逸話が残ったのでしょうね。
しかし陰徳記の考証の雑さwまあこのあたり、甲陽軍鑑もそうなのですが、むしろ時代が近いからこその雑さ、という部分は
あったのかもしれません。記録より記憶の優先、みたいな意識が有ったのだろうなと思います。現代でも、近い時代のほうが
認識の勘違いって多いように思えますしね。

2位はこちら!後藤又兵衛の陣羽織を拾ったのはです!
水野勝成がこんな所にw長政にムカついての出奔劇といい、黒田家に対してもろくなことしていませんねw
徳川の有力譜代大名に成って帰ってきた勝成をみて、長政や後藤又兵衛はどんなふうに思ったのか。記録はありませんが、
いろいろ想像したく成ります。そういう思いを喚起してくれる、良い逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!徳守神社と森忠政の奉納鉄盾です!
よく日本の武士は西洋騎士と違って盾を持っていない、という話をする向きがありますが、源平期の大鎧などは、
腰回りにつける「佩楯」という言葉を見ても解るように、むしろ盾を体中に貼り付けたもの、といってもいいでしょう。
あと甲冑の軽装化がはじまった南北朝や戦国期には、「手盾」という、片手で持てる盾も文献などに出てきますね。
有名なのは小田原の陣で、井伊直政が鉄の手盾を持って惣構の中に乗り込んだという話があります。
そして反抗を意味する「楯突く」と云う言葉が、本来敵の矢の攻撃を防御するため、盾を揃えて据えた状態を表した言葉
だったことからも解るように、防御の姿勢を取ることはそれだけで、非常に戦闘的なことであると考えられていたようです。
そんな日本の「盾」の歴史の、おそらく最末期を飾るこの鉄盾。色々と感慨深いものだなと感じました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
又気に入った逸話を見つけたら、どうぞそこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

徳守神社と森忠政の奉納鉄盾

2016年10月18日 18:39

森忠政   
252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:17:10.34 ID:aUAL/OcM
徳守神社と森忠政の奉納鉄盾


現在、大阪歴史博物館で行われている特別展『真田丸』に展示されている"鉄盾"は
森忠政が大坂の陣後に徳守神社に奉納したとされ、津山市の重要文化財に指定されている。

ttp://stat.ameba.jp/user_images/20160920/19/tokumorijinjya/7a/b5/j/o2336175213753264122.jpg
o2336175213753264122[1]


盾一つの大きさは縦91cm横44cmで15kgの重さがあり、一対で30kg。
ところどころに深さの異なるくぼみや、銃弾が当たって割れたような跡がある。

森家の記録には直接この鉄盾の記載はないものの、
『駿府記』等には大坂の陣のときに家康が備後から鍛冶を呼んで鉄盾を作らせ
城内からの銃撃を竹束で防いでいた諸大名に10張ずつ配ったという記述があり
そのときに使った物ではないかと推定されている。

徳守神社では津山城完成400周年を記念し、この鉄盾のレプリカを作成する。
10月23日に行われる徳守大祭には忠政が徳守神社を造営したときの時代背景を伝えるため
今年から従来の神事に加え津山城鉄砲隊と備州岡山城鉄砲隊の発砲演武などを行い
鉄盾のレプリカもその際に使用される予定。



253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:35:55.52 ID:PWWTSBp7
>>252
一応防げたのか

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 17:39:34.54 ID:gq55S696
鬼武蔵の眉間よりは頑丈だったということか

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 20:23:28.97 ID:YdJlLrny
古田織部のハゲ頭と組み合わせればこうかはばつぐんだ!

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/18(火) 21:51:26.62 ID:9mEXkEVr
ソーラレイ+重装甲か

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

2016年10月18日 18:34

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 21:00:40.31 ID:zpQa4NRC
>>218の続き

永正7年、伊東尹祐が家臣・垂水又六より奪った、福永伊豆守祐炳の娘が懐妊した。
尹祐は重臣である長倉若狭守祐正と垂水但馬守の両名を召して言った
「今度産まれてくる子が万一男子であれば、嫡子に定める。」
これに両人は反対した

「先年、申し上げたことがあります。天に二つの日はなく、国に二人の主はありません。
既に桐壷様(中村氏娘)が産まれた若君様に嫡男としての御祝いを上げています。
であるのに今更福永腹の若君を立てられることは良いとは思えません。」

これに尹祐は腹を立てた。この頃、長倉若狭守は綾という地の地頭であったが、尹祐の
寵臣である稲津越前守重頼がかねてよりこの職を望んでおり、稲津は尹祐の感情が悪化している
のを幸いに、二人を様々に讒言した。尹祐もこれに煽られ怒り甚だしく、長倉と垂水は
身の危険を感じ、同年九月朔日、綾城に立て籠もった。これに対し尹祐は宮原まで自身出馬し、
綾城を攻め立て、十月十七日、二人は遂に切腹して果てた(綾の乱)

この乱の最中の九月十三日、福永娘は男児を産んだ。幼名を虎乗丸。後の伊東祐充である。
尹祐はこの子を寵愛し家督を譲るつもりであったので、常々桐壺の産んだ子を悪み、殺害する
心があった。

その後、永正十四年十一月十四日、桐壷の子が尹祐の御前に出た時、尹祐は怒り出し
彼を追いかけた。まだ子供である桐壺の子は声を上げて泣き出し、庭前に走って逃げた。
近習の士である上別府某と弓削摂津介がこの子に走り寄って抱きかかえた。
尹祐は縁側に出て命じた「それを殺せ!」
弓削摂津介はこの命を奉り、彼を殺害した。この時この桐壺の子は、十四歳であったという。
(日向記では十二歳という)

情け無いことであると申さぬ者はいなかった。

(日向纂記)



人が伝える話も時々違うものだ。

2016年10月18日 18:32

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/17(月) 23:58:55.58 ID:GuZsnBMu
能役者の古事

 人が伝える話も時々違うものだ。

 予が若年の頃、能役者笛吹の清甚兵衛が語ったことは以下のようなものであった。
「私どもはそもそも、奈良春日の神職の中からでました。
大夫、脇師の如きも同じです。」
と聞いていたが、この五月観世の宅に能見物に行ったとき、その弟四郎に、
『同職の今春大夫は奈良の神職か?』と問うたが、
そうではないという旨が返ってきた。
ならば『年々奈良の神事に赴くのか?』と問うたら、
「私の家の如きも以前はかの神事に同じく行っていましたが、
神祖の仰せで、『観世は行くに及ばず』、とのことが有りましたので今は赴きません。」
との答えであった。

 また大阪茶臼山の御陣所にも観世は御供していた。
そのときいつもは暇なので、こよりを多く持っており、
それを使って戦士の甲冑の毛ぎれ、あるいは損じたものにつぎ合せていたら、
人々はそれを重宝がり、こよりを観世から請い求めたという。
 予がかつて聞いたことに、道成寺の能の鐘の内には面の紐無かったので、
一時的に紙をよって面につけたことから起きたと。
この話とは異説である。しかし正しく子孫の伝なので用いるべきであろう。

 予はまたかの御陣中には何の御用を為したのかと尋ねると
「謡を度々命ぜられ、折には御囃子もあったと書き伝えております。」
との答えが返ってきた。
なので御陣中とても、今の治世に想っているものとは全く違うものだ。

 また、大夫[左衛門]の話では、
神祖の頃には、御出陣に謡うには必ず弓矢の立合と決まっていたそうだ。
[今では正三の夜に、御謡初として御前で謡うものである]
また御出船のときには船の立合を謡うもという。
この謡は今の乱曲の中に見えるが、多くの人は知らないものだ。

 かつて或る人の話に、
太閤名護屋在陣のとき、慰めに狂言をされた。折節”止動方角”の狂言をすることとなった。
神祖に太閤は「何の役をやりたいか」と問うと
神祖は御答として「某は何でもいいです。しいて言えば馬になりたい。」
と仰って馬となりなさった。
そこでは鷺仁右衛門の祖は太郎冠者として、恐れ多くも神祖に乗ったという。
今では鷺の家ではこの狂言は憚ってやらないと聞いた。
 しかし近頃今の仁右衛門がこの止動の狂言をしたので、
ある鼓の者に頼って鷺に以上の話をしても、今までそんな話は伝えていないとの返事であった。

ならばこの説は誤伝であろうか。
(甲子夜話)

諸説入り乱れる能役者逸話集