「この度、奇特の死をした」

2016年11月30日 17:27

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 01:50:51.23 ID:qUu/M8Tn
下旬(慶長15年5月)に、建部内匠(光重)が死去した。当月18日から患って
いたという。

この内匠は大坂の秀頼公の近習である。刀や脇差すべての金物の目利き
だった。江戸や駿河の若き衆に、弟子が8百人余りいたという。

この内匠の小姓・長吉は、内匠が死去して8日目に追腹を切った。当時の人に
これを誉めない者はいなかった。

去る3月に内匠が駿府に逗留していた時、長吉は傍輩とともに逐電し、三河国
吉田で押し止められた。傍輩の侍2人は成敗となるも、この長吉は別状なく前々
のように使われたが、「この度、奇特の死をした」として人々はこれを誉めた。

――『当代記』



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連歌その心自然に顕るる事

2016年11月30日 17:27

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:23:34.64 ID:OIDdaizr
連歌その心自然に顕るる事

 古い物語であろうか、または人の作り話であろうか、それは分からないが、
信長、秀吉と、恐れながら神君が御参会の時、
四月だというのにまだほととぎすの鳴き声を聞かないとのお話が出たので、

信長は 鳴ずんば殺して仕まへ時鳥 とあり
秀吉は 鳴ずとも鳴せて聞ふ時鳥  とあり
      なかぬから鳴時聞ふ時鳥  と詠まれたのは神君であったという。

 これらからその御徳によって感化される程に温順であられたり、
また残忍であったり度量が広かったりすることが自然とわかり、本性を顕している。 
 紹巴もその席にいて、

    鳴かぬなら鳴ぬのもよし郭公

と吟じたという。

(耳袋)


歴代の発句

 夜話のときある人が話したことである。
人が仮託して出た者であるが、その人の情実がよくあてはまっている。

郭公を贈ってきた人がいた。しかし鳴かなかったので、

なかぬなら殺してしまえ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大権現様

このあとに二首が添えてある。
これは憚る所あるうえに、もとより仮託のことであるので作家は記していない。

なかぬなら鳥屋へやれよほととぎす
なかぬなら貰て置けよほととぎす

(甲子夜話)


有名な三句に続きがあるとは知らなかった
甲子夜話の匿名の二句は、戦国三傑と対比して
当時の大名の拝金さを揶揄したものか、不甲斐なさを嘆いたものか…




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 19:24:59.91 ID:S9zniyzk
鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす 織田信成

織田信成のセンスは里村紹巴並であったか

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 09:46:10.75 ID:Buw+pmGC
ホトトギスがいつのまにかカッコウに...。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/30(水) 10:44:40.18 ID:3XLWPfr6
鳴け聞こう我が領分のホトトギス 加藤清正
なんてのもあったな

週間ブログ拍手ランキング【11/24~/30】

2016年11月30日 17:20

11/24~/30のブログ拍手ランキングです!


隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事 23

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事 21

そこに一人の山伏が現れた。 15
秀頼は毎度、惣構を巡って、 13

垣築地騒動 12
果して、宗茂公は二十年振りに 12
伏見馬揃えの事 11

豊臣関白北條征伐出陣の事 9
伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に 8
六間堀神明、雁披の事 6
亀ヶ谷山結成寺の墓 6

小倉侯数具足の由来 5
旗奉行は武功の者を撰ぶ 5
秀頼の御袋は武具を着けて番所を改めなさり 5
駿府城本丸女房局に火をつたるの間 2
三宅辰介親子3人を生害なさった。 2



今週の1位、2位はこちら!
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事
この一連の逸話です!
「抜け駆け」に厳しく対処しようとする毛利隆元と、それを許容してしまっている吉川元春、毛利元就。
なんというか、大将の悩みですね。
軍隊の理想としては、隆元の対処があるべき姿でしょう。しかし現実的には、当時まだまだ国衆連合にすぎない毛利家にとって、
自分の軍隊であったとしてもそこまでの統制は出来ない。
どちらがいい悪いの話ではなく、一種の役割分担なのではないか、と感じました。
まあその意味であったとしても隆元は、周りから嫌われる、そんな役割を担ってしまっているわけですがw
なんというかそういうのが、嫡男の責任、なのかなあと思いました。そして、隆元がそういう役割ができる人物だったからこそ、
彼の死に、元就を始めとした毛利家の人々が大きく動揺したのではないか。
そんな事まで想像してしまいました。
色々と考えさせてくれる、いい逸話だと思います。

今週管理人が気になった逸話はこちら!伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次にです!
秀吉の「隠居城」である伏見城建築にあたり、秀吉は東海地域以外の大名はすべて、この伏見に集合させたというお話ですが、
その「権力」を露骨に可視化するものであり、それこそ「関白は譲っても家督を譲った覚えはない」という秀吉の意思が強烈に
表れたものといえるでしょう。
やはり対照的だな、と思うのは、徳川家康がその「隠居城」である駿府には、藤堂高虎を除いて、大名が屋敷を建設することを
許さなかった、という話です。「德川の城下」はあくまで、秀忠が統治する江戸だけであり、それに従う諸大名は、江戸に屋敷を
作ることを要請されました。
家康のこの態度は、もしかすると秀吉のこう云った姿勢を反面教師として学んだものかもしれませんが、だとすると家康は
秀吉のこういった政策を批判的に見ていたということに成り、色々と想像が膨らむ話だな、と感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました!いつも有難うございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

豊臣関白北條征伐出陣の事

2016年11月29日 09:07

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 22:58:38.33 ID:GUK5L/Vi
豊臣関白北條征伐出陣の事

 秀吉が北条を討たれに行った時、諸将は浮島が原で並び居て秀吉を待っていた。
秀吉は糸緋威の物具を着て、唐冠の胄をかぶり黄金をちりばめた太刀を帯び、
大きな土俵空穂に征矢を一筋指し、仙石権兵衛が持ってきた朱の滋藤の弓を持って、
七寸ある馬に金の瓔珞の馬甲をかけ、静かに歩かせて打通られた。
東照宮が信雄と共に出迎えられたのを見て馬から降り、

「いかに、二心あると聞いたぞ。いざ一太刀で参らん」

と太刀の柄に手を懸けられた。東照宮は左右の人に目を向けられて、

「戦始めに太刀に手を懸けられとは、めでたいことですな。」

と高らかに仰せられると、秀吉は何も言わずにまた馬に打ち乗って通られた。
(常山紀談)



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 23:05:09.17 ID:HNq+lJTq
権兵衛、許された直後なのに出張ってるな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 00:01:06.99 ID:BqHMB20x
いや、時系列おかしいだろ。

伏見馬揃えの事

2016年11月29日 09:05

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 21:25:08.51 ID:TtoGbpWs
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。

朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。

徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。

秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。

そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。

この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。

地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。

(慶長年中卜斎記)



357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 18:57:27.86 ID:69pTnGMp
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw

伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に

2016年11月28日 18:29

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 08:45:22.81 ID:TtoGbpWs
文禄3年(1594)、豊臣秀吉は山城国伏見の指月に城の建設を進め、日を追うごとに石垣や天守が
造られていった。
すると秀吉は、伊勢から駿河までの城主は、聚楽の豊臣秀次に遣わし、その他の東国北国西国の大名たちは、
皆伏見に移った。このため家造りは夥しいものであった。

(慶長年中卜斎記)

指月伏見城建設の時点で、秀次は東海道だけの存在になっていたのですね。



垣築地騒動

2016年11月27日 08:26

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 19:56:41.38 ID:rZZPmzCC
石田三成と、徳川家康の屋敷は、道を隔てて隣に面していた。
徳川屋敷で垣築地を築いた時、石田屋敷との境目の普請をしていると、三成の下々の者4,50人ほど
出てきて、徳川方の垣築地を築く者達と諍いを起こし、治部少の下々の者は叩き出され逃げた。
この時、築地の普請をしている者たちは500人だったという。

その後、三成方より徳川家の阿部善右衛門(正勝)の所に、『迷惑を仕ったので、今回の騒動に
関わった者を処分してほしい。』と要請された。
阿部善右衛門は徳川家康にこの事を申し上げた所、家康は「如何様にもそなた次第に申し付けよ」
と言ったため、善右衛門はそれを三成方に伝えた。

すると三成方より「普請奉行に対して処分を行ってほしい」と要求された。しかし善右衛門は
これに「普請奉行は十余人おります。何れの者を処分するのか、指示して下さい」と返事をした。

善右衛門は、石田三成の要求をハッキリと拒否するのは難しいと判断し、当時騒動のあった場の
責任者の奉行は普請場に出さず宿に居させて、その他の者に普請奉行を命じ現場に出させた。

このため石田家の者たちは、普請場で当時の普請奉行を見つけることが出来ず、またその奉行の名も
知らなかったため、以降何も言ってこなかった。

(慶長年中卜斎記)



六間堀神明、雁披の事

2016年11月27日 08:24

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/27(日) 01:15:15.71 ID:erM4z9uc
六間堀神明、雁披の事

 或る人が言うには、六間堀の神明はその鎮座の初めは詳しくわかっていない。
文禄元年九月十五日、その辺に台廟(秀忠)が御鷹狩りでの御成りがあった。
その日は「オビシヤ」といって、新米をウブスナへ供え村長やその他の者どもがうち寄って酒などを飲む日だった。
うち寄った者どもが筵上で肴も無く酒を飲んでいるのを、台廟が御覧になられて
御拳の雁を『肴にせよ』と下された。
また領国繁盛のめでたい祝いであると、
社に昇られ、御懐から三条院御宸筆の天照大神とある紙片を取り出されて、
御自らほこらの中に納められた。
今も神体としてあがめ奉っているという。


 『江戸砂子補』に云う。
「葛飾郡西葛西領、深川六間堀。
大川のすこし東、川幅およそ六間ばかり。
神明宮が六間堀にある。別当は猿江の泉養寺が兼帯している。
慶長年中、泉養寺開山の秀順法印があらたなる神異があって鎮座させた。」
『砂子補』では慶長を鎮座の年としている。
しかし既に文禄の始めにこの祠があることと見てきた。
ならば『砂子』の説は再び神異があったのをこのようにいったのか。

 「オビシヤ」は宴のようなことである。
今も蝦夷では、このように集まって飲むことを「オムシヤ」というとか。
きっと同じ言葉であろう。

 『武家事紀』及び『豊臣譜』を案ずると、この頃は朝鮮の役が既に起こり、
秀吉は東照神君と共に肥前名護屋に着いていた。
後に大政所の病により秀吉はすぐに京へ帰り、神君は秀吉の命に従って肥州に在留された。
また『武事紀』には、台廟はこのとき、大政所逝去の弔問として八月に上洛になった。
秀吉は喜び権中納言に昇らせた。
これから十月〔文禄元年〕上旬に江戸に帰られたと見える。
なので台廟の御帰りは九月より後になるので、この事はどうであろうか。
しかし『武事紀』の伝本は誤写が多い。
この十月というは、もしくは九月の誤りだろうというのも知ることができない。


(甲子夜話続編)



小倉侯数具足の由来

2016年11月26日 16:34

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 00:03:56.94 ID:XVutE/OC
小倉侯数具足の由来

 当年(天保五年、1834年)二月の火災で、両国橋向こうの小倉侯の別荘で具足のいくつかが焚亡した。
この具足というのは、往年の福島氏が改易されたときかの家の物が散逸していたのを、
小倉侯の収めていたものだという。
よってその具足はみな福島の家紋があったという。

 福島は豊太閤の初めから神祖御成業のときまで、
剛勇武功の人で皆知るところである。
その遺物がこのように亡んだのは、誠に痛感に堪える。


(甲子夜話三篇)


なぜ小笠原さんが正則のものを?



駿府城本丸女房局に火をつたるの間

2016年11月26日 16:32

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:23:43.02 ID:OzW44tgt
>>310
当代記巻五
(慶長十四年)六月小朔日(辛亥)
駿府城本丸の女房が局に火を付け、炎上してしまったが鎮火させた。
この女の仕業として、下女を二人火あぶりにした、
また局の女房衆二人を遠島に処した。

「駿府城本丸女房局に火をつたるの間、焼上処、
されとももみけしける、是女人の態成とて、下女を二人あぶり被害、
局女房衆二人可被遠流と也」

たしかに「我(家康)はどこにも行っていない」けど

関連
我はどこにも行っていない


356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/26(土) 11:38:39.95 ID:eOyRqtsW
暗殺未遂か

果して、宗茂公は二十年振りに

2016年11月25日 08:19

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:33:07.38 ID:DqhLpzHV
柳川の日吉神社の太郎稲荷大明神由来に似た話があったな

戸次道雪は、稲荷明神の信仰が厚く出陣には、護軍の神として御幣を奉じ毎戦勝利の加護を受けられた。
藩祖立花宗茂公は、慶長五年九月大津城を攻め破り、武勲をたてられたが、
関ヶ原で西軍は敗れ危険な道を切り抜けはるばる西下された。
暗夜、筑後川の岸神代の広い芦原で道に迷われた時、一条幽光が先導したので浅瀬がわかり無事柳川城に入られた。
宗茂公の室誾干代姫は、父道雪公の志を受けついで稲荷明神を守り神と信奉された。
姫は、肥後腹赤村で明神が「夫君守護の為、しばらく姫のそばから離れるのだ」と告げられる夢を見て宗茂公は
必ず帰国されるを確信された。
果して、宗茂公は二十年振りに奥州棚倉藩主から柳川に帰国された。
入城後、直ちに肥後に居た僧金剛院誉を召し帰国して城濠の中の島に稲荷大明神を勧請しお城の守護神とされた。




亀ヶ谷山結成寺の墓

2016年11月25日 08:18

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:49:36.04 ID:vINaWRIA
 安部川の向府中より一里、内巻村というところに亀ヶ谷山結成寺がある。
工藤左衛門祐経の開基で、その村に工藤屋敷というものもあるという。

 神君が御在世のとき、大岩臨済寺の弟子智岳観公という人が、時々お召しがあり仕えていた。
殊にお気に入りで、度々御狩等の時もその寺にお越しになられた。
あるとき

「其の方が死んだら墓所を建ててやる。もし我が先に死んだら、其の方が我を葬れ」

との上意があった。
その時和尚は

「それがしが生きている間に墓所を建てたい」

と申し上げ、願いの通り建てられた。
その墓は三尺で四方に石で棟を建て祠のようであり、前には石の唐戸がある。
その中に塔があり、銘には従一位源朝臣とあるという。
脇には五輪の塔がある。工藤左衛門の墓であるという。

 また寺の中には古の狩の槍という六尺ばかりの柄の槍が一本、外にも同じく一本ある。
その村の農夫に、昔池で投網をしていた人がいた。
御狩の時に御預かりした槍を私宅に置くことを憚って、かの寺に納めたという。
寺門の脇に、工藤の胸当八幡というものがある。
長さ四寸、幅六七寸ばかり、厚さ二三分ばかりの板金である。
この地は工藤祐経が、富士の巻狩の前に、しばらくこの村に閉居した所と言い伝えられている。

(甲子夜話)



三宅辰介親子3人を生害なさった。

2016年11月25日 08:15

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 03:24:07.43 ID:TdsZYUS0
(慶長13年12月)三河国足助山家代官・三宅辰介親子3人を生害なさった。

知行の年貢の使い込みがあったことにより、さる夏中から押し込めなさった
のだが、いまこのようなことになった。

嫡男は近年、大御所(徳川家康)の小姓をした近習であった。美男であり、
とりわけ心を選んで神妙な者であった。上下の輩とも、彼を惜しんだ。

――『当代記』



349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/25(金) 08:13:50.14 ID:MC95tTf0
寵童どもの争い

秀頼は毎度、惣構を巡って、

2016年11月24日 14:37

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 03:17:03.16 ID:vSSs2BW6
今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。

――『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 08:46:31.68 ID:h78xrH/D
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:06:12.48 ID:GifEEbwp
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。

そこに一人の山伏が現れた。

2016年11月24日 14:36

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:47:03.80 ID:GifEEbwp
島津兵庫頭(義弘)は関が原の合戦に負け、伊勢路を通り、伊賀国を経て和泉国に出、住吉の浦より
船に乗り、白地に黒十文字の旗を立て尼崎の方へ向かった。

この時、立花左近(宗茂)も西軍敗戦により大阪から船にて国元へと下っていた。すると横より
十文字の旗を立てた船が来るのを見て、宗茂は「加藤左馬介(嘉明)の船か、と思ったが、
その船より、『島津兵庫頭が合戦に負けたため国に下る船であること。同道いたしたい』との
使いが参ったため、同道して筑後国の国境まで同道した。

その先の肥前国は、当時の情勢として通過するのが非常に難しい国であったため、立花左近は兵庫頭に、
薩摩に行くのを諦め、一旦筑後に留まるようにと様々に説得したが、兵庫頭は謝絶し、薩摩へと
向かうことに成った。

しかし肥前と筑後の間には大河があり、しかも船がなく、どうやって船を求め川を越えようかと
思い悩んでいた所、そこに一人の山伏が現れた。

山伏は言った「この河は歩いて渡ることが出来ます。瀬を教えましょう。」
そうして兵庫頭一行を案内したが、その言葉に相違なく、無事大河を歩いて越えることが出来た。

兵庫頭は河を超えた所で山伏を呼んだが、山伏の姿は見えなくなっていた。
そのあたりの住民に山伏について色々と尋ねたが、彼らは一様に「そもそもこのあたりに
山伏はいません。」と答えた。
その後も島津兵庫頭、立花左近は様々に尋ねたが、ついに山伏は見つからなかった。

これは後年、立花殿が語ったことである。

(慶長年中卜斎記)



346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 10:30:52.61 ID:1sU8tIY/
パーフェクト伝説がまた増えたか

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 13:44:40.94 ID:3l/VneXT
薩摩まで船でいけないんだな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 19:48:30.13 ID:8D69oZrn
>>345
山伏じゃなくてモーゼだったか

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:19:13.59 ID:R0KKCQ/z
>>345
なんで筑後方面に行ったんだろ?

豊後水道通って日向から薩摩に行ったほうが良いような?
勝手にそのルートだと思ってたんだが違ったのか。

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 21:49:07.97 ID:8D69oZrn
黒田や伊東が東軍だからじゃないかな?

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 22:19:18.84 ID:DqhLpzHV
義弘と宗茂は9月26日に周防国の大島で対面するまでは同行してたようだけど
その翌日に豊後水道を北と南に別れて、義弘は日向の佐土原に行ってから薩摩に帰ったみたい

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 23:06:03.85 ID:7ZS6/8Wc
まぁ実際は義弘の船は筑後方面には行ってないよね

だから黒田勢と別府湾あたりで海戦に及んでるし、日向の細島湊から上陸した際は、
島津方の村尾重侯らが伊東勢と合戦に及びながら義弘を迎えに来ている

隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

2016年11月24日 14:35

345 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/24(木) 14:09:02.66 ID:BJS/7tYa
隆元と元春(2) 抜け駆け禁止令違反者の処分の事

>>332-333の軍令違反者による合戦は毛利方に大勢の手負いを出したものの、二宮・粟屋らの奮戦により敵方も城主、菅田一族の者が討死するなど両軍とも進退極まり兵を収めた。
普段ならば隆元や元春が士卒の功を称し、負傷した者の元を訪れ涙ながらに傷を撫でてくれるのであるが、今回は固く定めた軍法を破ったが為、労いの使者すら送られてこなかった。
一方、元春は隆元の元へ宮庄次郎三郎元正を使者として遣わし、この度の軍令違反者についてこう述べさせた。
「今回、我が手の者どもが軍法を破り、一戦を遂げました。
これにより味方は九十六人も手負いが出て、
そのうちの綿貫兵庫助と申す者が討ち死にしました。
このくだらない合戦を仕掛け、味方に多数の負傷者を出したのは、
粟屋・二宮の責任が大きいので、即刻首を刎ねなければなりません。
しかし、一歩引いて愚案を巡らせるに今回は陶と一味して初の戦となります。陶にその証を立てる為にも一戦交えるのが良かったのではないでしょうか?
そのうえ、元就公のご出馬がなく、隆元公と元春の二人が出てきています。
若い隆元公に私のような者がお供して、大将を名乗って打って出ていますので、
一戦しないのもいかがかと思います。
ですから今回は、どうかお許し願えないでしょうか」と再三申し入れた。
しかし隆元は
「そのように聞くと、確かにそのとおりだと心を緩めたくもなる。
だが固く制定した軍法に背いたのだから、これからの諸卒への見せしめのためにも、許すことはできない」と返答した。
これもまた道理なので、元春もどうにもできず、その後は何も言わなかった。

また、隆元と元春は武永四郎兵衛尉を父元就の元へ遣わしこの日の戦を報告させた。
元就は武永と対面すると、「詳しく様子を報告してくれ」と言い、武永は粟屋・二宮の鑓働きの様子やそのほかの諸卒の働きを細々と語った。
元就はすっかり上機嫌になって「お前たちはその戦場には行かなかったのか」と尋ねると、
武永は「私も及ばずながらそこに駆けつけ、鑓の者の脇で弓を使って補佐していましたが、
軍法を破る行為でしたので、隆元様・元春様のご機嫌を損ねてしまいました」と答えた。
元就様は愉快そうに笑うと、「軍法を破ったことは不義の至りだが今回は陶に一味してから初めての出陣だ。
陶との同盟の証拠として一合戦しなければならないところだ。
その若者たちは、よくそこに気がついて一戦してくれた。
粟屋の怪我は深いのか。二宮はどうだ」などと詳しく尋ね聞き、
武永にも盃を与えて褒美を取らせた。
元春への返事にも「今回は陶に一味した証拠に、それらしい合戦をしなければならかなった。
そこに御手の衆が比類なき働きをしてくれたのは、
今に始まったことではないとはいえ神妙の至りである。
戦功の軽重をただし、勧賞を行ってやりなさい」と送った。
これで、昨日合戦をしでかした者たちも胸を撫で下ろしたということだ。

この時、総大将の隆元が何を思ったかは誰も知らない。

続き
槌山城降伏の事 平賀隆保切腹の様子


346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:14:06.21 ID:8D69oZrn
自殺したくもなるね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 14:52:23.92 ID:sw+eGJaZ
>>345
元春と元就の言い分が全く同じとか、お兄ちゃんの立つ瀬がねえw

隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事

2016年11月23日 14:08

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:51:29.00 ID:RkWuuHXG
隆元と元春(1) 槌山攻めにて隆元激怒の事


天文20年(1551年)、陶隆房が大内義隆に謀反し大寧寺の変が勃発。安芸の国では陶の依頼を受けた毛利元就が義隆派の平賀隆保が籠る頭崎城を落とし、更に隆保が逃げ込んだ菅田氏の槌山城を息子の隆元と吉川元春率いる4000の軍に攻めさせた。
隆元は抜け駆け禁止令を出し、これを破る者は例え抜群の戦功を上げても厳罰に処すと固く命じた。
隆元麾下の吉田勢はこれを守り抜け駆けをする者は居なかったのだが、元春率いる新庄勢の若者達はこっそり抜け出すと敵城の切岸を登り矢戦を始めた。
敵も応じて矢を散々に射かけ、新庄勢は怪我人が続出して寄手はたちまち劣勢となる。
隆元は坂新五左衛門を元春の元へ遣わし、
「お前の兵が抜け駆け禁止令を破って戦を始めている。まったくどうしようもない。
残らず捕らえて首を刎ねよ」と殊の外に激怒した。
元春は新庄勢に「早く引き上げるように」と何度も下知したが、
新庄勢は敵と真っ向から取り結んでいるので、引き返しようがなかった。

333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 08:55:15.20 ID:RkWuuHXG
この時、元春は陶から贈られた近江黒と言う馬に跨り矢戦を見物していたが、戦気に当てられたか、近江黒が逸るので二宮杢助(俊実)に近江黒の口を抑えさせていた。
元春は二宮杢助に「お前行って味方を引き上げさせて来い」と命じ、二宮は「かしこまりました」と、鑓を持った小者一人連れ駆け出して行くと、途中60ほどの兵と率いた味方の安国紀伊守とすれ違った。安国は
「これは二宮殿。我らも一競り合いしたく思って駆けつけましたが、
敵が猛勢で合戦を待ち望んで待ち受けておりますので、この少人数で不利な戦を仕掛け、
敵に利するよりはと、引き退いておりました。
二宮殿も小勢のようですな。早々にお引き取りください」と言った。
二宮はこれを聞いて、
「吉川の手の者は、敵が大勢であっても引き返すことはありません。
好機を見計らって一合戦してきます」
と言い捨てて味方のもとに駆けつけていった。
二宮は味方を引き上げさせることなど念頭にはなく、逆に
「皆よく狙って鑓の者の脇を射抜け。一合戦してやろう」と味方を勇気付けて、
後に続く勢を今か今かと待ち受けた。
すると藪の中から粟屋弥七郎がつっと走り出てきて、
「来たな杢助。私も先ほどから一競り合いしようと味方が続いてくるのを待っていたのだ。
よく来てくれた。嬉しいぞ。
さあ、勇気を出して心を合わせ、一合戦しよう」と言う。
二宮も「それがいい」と、真っ先に立って攻め上った。
そこへ抜け駆け禁止令を守っていた吉田勢から楢崎市允・波多野源兵衛尉・尾崎新五兵衛尉・赤川源左衛門・桂善左衛門・福原左京などがこっそりと駆けつけてきて、後に続いた。
忽ち乱戦となり、二宮・粟屋ら抜け駆け毛利勢は奮闘の末に傷付きながらも城方の菅田三郎左衛門を討死させる功を上げる。


なお、この矢戦では槌山城は落ちず、隆元の怒りは止まなかった。



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:20:45.99 ID:l4Jdq11w
お兄ちゃんの面子丸潰れ

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:38:14.04 ID:TQklu1C2
抜け駆けはギャンブルだからね~成否が士気にかかわるのよ

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 14:33:01.39 ID:h9ZIC5Bw
受け流せればいいけど隆元のストレスが凄そうだ

337 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 15:17:04.05 ID:88DTlVBL
>>336
先にバラしておくと、この抜け駆け禁止令違反者の処分で意外なところから追い打ちが来る

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:51:33.76 ID:crbvyM3Z
てか、大内攻めじゃん
お兄ちゃんのストレスはそれだけでヤバイだろ

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 15:56:49.00 ID:4exxIwvo
ボスの鶴の一声でフィニッシュ

340 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 19:41:46.65 ID:88DTlVBL
>>338
ひょっとすると、隆元は無理攻めせずに降伏させて助命する気だったのかもね
入れ違いだけど平賀隆保はYSTK様の寵童仲間だし

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 22:10:29.64 ID:gNTnZHYo
またホモか…

342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/23(水) 22:26:26.85 ID:88DTlVBL
>>341
そりゃあもう、中国北九州界隈で義隆の元に人質でいた上に名前に隆の字貰ってる辺りの武将は大体…

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:09:07.43 ID:gNTnZHYo
大崎義隆 蘆名盛隆 「俺たちはセーフだな!」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 23:46:02.15 ID:fRWdHM4A
そりゃそうだろとしか

旗奉行は武功の者を撰ぶ

2016年11月23日 14:05

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 21:06:11.66 ID:90REVHuF
旗奉行は武功の者を撰ぶ


 旗奉行は武辺功者の人を選ぶものだという。
黒田長政の臣、竹森石見(次貞)という旗奉行が豊前紀伊谷という所の合戦で、
黒田の先手が乱れて逃げ帰るのを、石見自身が旗竿を横に持って士卒をせき留め、
『かかれ!、かかれ!』と言ったので、その軍も盛り返してついに勝利したという。
(甲子夜話)



341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 10:32:50.87 ID:TQklu1C2
>>339
実際は負け戦だったろ

秀頼の御袋は武具を着けて番所を改めなさり

2016年11月23日 14:04

淀殿   
340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/23(水) 02:37:23.98 ID:tdgiVhfs
28日(慶長19年10月)、大坂の城中から出た者が二条に召し寄され質問された。

かの者が申し上げるには、秀頼の御袋(淀殿)は武具を着けて番所を改めなさり、
これに従う女性3,4人も武具を着けていたという。

また、大坂に籠城の勢は3万余り(但し雑兵共に)という。兵糧・薪・塩・味噌は形式
どおりに蓄えていたという。

――『当代記』




週間ブログ拍手ランキング【11/17~/23】

2016年11月23日 14:00

11/17~/23のブログ拍手ランキングです!


天吹(テンプク) 28

東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事 11

城地革変甲冑論 10
甲州伝目つぶし之法?活薬 9
家康が茂助を遣わしたのは 8

我々両名はここを抜け出し 7
吾中、治五平の天草陣物語 7
そして今もまだ生きていると聞いている。 7

三原城石垣の紋 5
「飢饉の兆しである」 5
北野天神の奇特 4

この春、小人島の者であるとして 3
藤堂和泉守を敵味方惡之歟 3
「薩琉軍記」について 3



今週の1位はこちら!天吹(テンプク)です!
薩摩の武士、北原嘉門助と縦笛”天吹(”の物語。かなり「いい話」の構図だと言うのに、悲劇的だったり身も蓋もなかったり、
そういう結末を迎えているところが、諸行無常といいましょうか、逆にリアルさを醸し出している気がします。
よく「歴史ロマン」なんて言いますが、個人的には、歴史というものはたいてい、身も蓋もないものであり、そこにロマンの要素など
カケラ程度しか存在しない。なんて思っています。それが現実だと思うのです。だからこそ、ロマンがそこに存在した時、それはより
強調されてしまうのでしょうけど。
と、いうようなことをふと思ってしまったお話でした。

2位はこちら!東照宮聚樂にて秀吉公に御対面の事です!
有名な秀吉と家康の対面のお話。実際にこういう、芝居じみたセレモニーがあったかどうかはわかりませんが、
後年の人たちは、「きっとこんな感じだっただろう」と思ったのでしょう。
実際にも、秀吉の政権における徳川家康の重量というのは、やはり思った以上に重たいものだったようです。
宣教師なんかの同時期の記録だと、外来者らしくストレートに、家康のことを「日本最強の大名」なんて言っていたり
しますから。
そういった客観的な事実と、後世の歴史を知った上での視線がまじわって、このような逸話が形成されていったのではないかなあ。
なんて思ったりしました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!我々両名はここを抜け出しです!
正重と政重、もうこれだけで実にややこしいw
まーこの頃、正木左兵衛こと本多政重は宇喜多家にいたりするんですが。すなわち関ヶ原も当然西軍です。
なので叔父と甥とはいえ、この時期にこう云った会話がかわされたかというと、ちょっと疑問ですね。
ただ、正重も政重も(ああややこしい)「徳川普代」の中での勇者ですから、こういうふうであってほしかった、
なんて気持ちが、この逸話の形成に働いたのかもしれません。
そんなことを思ったお話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました!いつも有難うございます。
又気に入った逸話を見つけられましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

家康が茂助を遣わしたのは

2016年11月22日 09:34

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 21:26:40.39 ID:vJTZkj8O
慶長5年8月末、美濃まで進出した東軍の先手は、徳川家康の軍勢が江戸から出立しないことに苛立ち、
特に福島正則は殊の外立腹、池田輝政と口論となり、その場に在った本多忠勝井伊直政がどうにか
宥める有様であった。

その翌日、村越茂助が家康の使者として参着した。福島正則は茂助に対し「家康公はどうして出立
されないのか!?」と詰問すると、茂助は

「ご出立されないわけではありません。ですがあなた方が敵に対して手出しをなさらないため、
ご出馬が無いのです。手出しさえ有れば、即急に御出馬されるでしょう。」

これを聞いて正則は、扇を広げ茂助の顔を2,3度仰ぎ
「尤もな事だ。すぐに敵を攻撃し、それそ注進していただこう!」
そう答えた。

本多忠勝井伊直政は、正則と輝政が口論をした翌日であったので、このやり取りに手に汗握り、
茂助の言った事も非常にぶしつけではないかと諸人も思った。

茂助は事前に、忠勝、直政に使いの内容を一言も喋らなかった。家康がこの大事の使いに茂助を遣わしたのは、
茂助が自分の言った内容を有り体に伝えると、よく見知っての事であった。
日本国中の心ある武士たちは、この事について有り難き積りであると語り合った。

9月朔日、家康は出馬した。

(慶長年中卜斎記)



この春、小人島の者であるとして

2016年11月22日 09:33

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 02:53:22.29 ID:eiEjYzgS
この春(慶長13年)、小人島の者であるとして、京都にて
鼠戸を結び(見世物小屋)、代金を取って人に見せていた。

たとえば日本人であれば、5,6歳の童ほどの身長だった。

――『当代記』



我々両名はここを抜け出し

2016年11月21日 17:33

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 18:48:03.06 ID:xqceRrEW
慶長4年正月19日の夕方、徳川家康の屋敷に、石田三成が大将となって攻めかかってくるとの沙汰があった。
徳川屋敷では俄な事でも有り、屋敷の角々に材木、石、棒などによって縄からけの櫓を掛け、敵が
攻めてくるのは今か今かと待ち構えていた。

この時、本多大和守(政重)と本多三弥(正重)は、こう話し合った
「屋敷のうちでどれだけの働きをしても、家に火をかけられ、煙の下で果てるのは口惜しい事だ。。
敵の軍勢が来て屋敷に火をかけてくれば、我々両名はここを抜け出し、その時治部少輔は城の大手広庭に
腰を掛けて下知をしているだろうから、そこに『家康内の者、降参人』と名乗り出よう。
そうすれば、屋敷の様子を聴くために、呼び出されるであろうから、その時二人のうち一人でも、飛びかかって
治部を刺し殺そう。」

このように言い定めたが、その夜、軍勢が攻めかかってくることもなく、翌日から世の中も、
普段と変わりない様子であった。

(慶長年中卜斎記)



335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 09:29:13.20 ID:hkhrhd0c
>>333
本多政重はこの時期どの家中よ?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 20:47:42.74 ID:177qegiu
例のやらかしで徳川家出奔中なんだけど、この時期だと大谷なんだか宇喜多なんだか

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/22(火) 16:12:52.35 ID:JNcF8IPW
>>336
宇喜多騒動は何月だっけ?

慶長年中卜斎記もそういうところは研究ってされてるのかね

三原城石垣の紋

2016年11月21日 17:33

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 00:43:23.79 ID:UCg95lBi
三原城石垣の紋

 備後の三原城の外郭、石垣にはいろいろな紋が刻みつけてある。
升形、瓢箪、円形、短冊等である。
その故は
織田右府が毛利氏を討たれた時、豊閤がすぐにこの城を築き諸方から普請の助役があり、
その助役に出たものを区別する印であるという。
京の大仏殿前の石垣も、献備した諸大名の紋を刻んだのと同じ事だという話だ。
三原城は今芸侯の臣浅野甲斐が守っている。

〔城の中は至って広大だ、と城内へ入った者が語った。
海手の方に行くと広くなり、山の方に行くと狭くなる。
これから扇城という。
今往来の道は直接城櫓の下を通る。
ここを扇の要という。
以前船で行っており、度々海上からこの城を見たが、成る程、海手からは櫓など数多く見えた。〕
(甲子夜話)


秀吉が築いたことになってる?



「飢饉の兆しである」

2016年11月21日 17:32

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/21(月) 02:57:40.45 ID:BF3y+tQK
この夏(慶長13年)、麦は豊年だった。ただし、関東の麦は凶年だった。

奥州南部に金があるということで、金掘りたちが、その山に佐渡国から下って来た。
初めは際限無く金が出たのだが、そのうちに出なくなった。

再び金堀りたちは松前に下った。松前の主(松前慶広)は、かの地は兵糧が乏しい
ため、それ以来「飢饉の兆しである」として、「(金掘りは)許容できない」としたという。

――『当代記』



城地革変甲冑論

2016年11月20日 17:37

林述斎   
326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 00:16:12.28 ID:u73Z9G9W
城地革変甲冑論


 林子(述斎)曰く、
城地はその時代により移り行くものなので、作り替えねばならぬ物であるという。
山城などは水地と違い地勢もかわらないが、その時の敵のある所で用不用がある。
例えば、照祖(家康)が三遠におわしました時は、
金谷駅の上にある諏訪原(牧野原とも言う)の城は真の要害であった。
これは甲州の押さえの為であった。
甲州が亡んだ後はこの城は用が無くなったので廃城となった。
世人はこのような訳も知らず、深い考えもなく、
「あの所の古城跡は天険の地なのに、なぜ廃したのか?」などと言い出すのは笑ってしまいそうだ。

 また慶長中、伏見の城を淀に移されたのは、その頃淀川の水道が今と違い、
城からの川の水位は低く、水車で城内へ水を汲み入れていた。
百余年を経て川床が高くなり、水車は景色ばかりとなって実用すること無くなり、
出水ごとに、淀城はいつも氾濫の患を被らないことはなかった。
これは河道の変化によるもので、城築の時の地勢によるものではない。

 古今の変化に通じなくて、城の利不利などを評する人が往々にしている。嘆くべきことだ。
その他に海を要害にした城だったが、今は海があせていつのまにか田となったものもある。
また、城門の前の間地も、後に間近くに家を建て列ねているものも多い。
これらは事に臨むときに身を滅ぼす元ととして成る程便利であろう、と林子は言われた。
西方への旅行の時、諸国の城地を目撃して意中に心得がたいことが多かったのだろう。

 そもそも城のみでなく、着具なども同じことである。
先祖の具足と貴び所蔵するのはいい。
それを自分も着るものだと思う輩がまた多い。
そもそも人に大小肥痩があるので、今に当たって自分が用いる乳縄(※胴の乳の辺りの寸尺)
で製作しなかったものは用に立たないものだ。

 私は若いときは痩せて、中年から肥えた。年少の時の乳縄は今とはかなり違う。
一人のものでさえこのようなのだ。
これらは分かりきっていることなのに心にも付かず、着具を作り変えることも知らないまま、
いたずらに月日を過ぎる武家は実に太平の余沢に豊かに過ごしているといえよう。
(甲子夜話)


こういう「当時と地形が全然違うだろ」って突っ込みが頭の中にあるから
あんまり古城めぐりには乗り気ではないんですよね



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 09:56:03.54 ID:sN07tgQU
郷里で再会した同窓生の嫁をみて、伴侶とした理由を聞くようなものですねw

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/20(日) 14:25:06.85 ID:FttclQe/
>>326
クラウドファンディング「そんな貴殿にVR、当時の地形も再現致しますぞ」

吾中、治五平の天草陣物語

2016年11月19日 14:30

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 22:49:26.22 ID:YqyP66QO
吾中、治五平の天草陣物語


 高崎侯の臣(市川)一学が語るには、昔我が藩の臣に治五平という長寿の人がいたそうだ。
九十余で天草陣のことを覚えていて話したという。
その話の中に我が藩のある者の事もあった。

 天草陣で松浦家で物頭を勤めていた某という者がいた。

「今宵城中から夜討がきっとあるだろう。
そのときは必ず立ち騒ぐべからず。
いずれも我が陣のところの垣ぎわで後ろをむき、敵方を背にして座すべし。
たとえ敵が来てもこれに向かうべからず。
また刀の鋒を三、四寸程を残して、その他を木綿などでよく包み置くべし。
敵が来たらこのようにせよ。」

と言い教えて待って居るとやはり敵が夜討をしてきた。
我らの兵はその体ゆえ後ろへ近寄り、切りかけられても具足なのでかちかちというのみで通らない。
兵卒共は構え持っていた刀を肩に担いで、鋒に敵をひっかけ、負い投げにして前へはねた。
夜のことなので敵はこの事が分からない。幾人も来てはこのようにして、来る毎にはねていた。
敵は寄せ来る、自分は座して動かない。
このようにして数十人を打ち取った。
味方も夜のことなのでその手際が見えず分からないので、
松浦の手の者は人礫を擲ったと沙汰されたという。

 これは伝聞の実説であるが、予は初めて聞いた。
治五平というのは誰の先祖であろうか。
先祖の武功は他人より聞くという俳句は、まさにこのことであろう。

(甲子夜話)



そして今もまだ生きていると聞いている。

2016年11月19日 14:24

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r
宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、
後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。

八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の
城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。

この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で
巻き返して上京出来たのである。

この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、
前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。

但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため
人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。
そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して
高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。

八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。
しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて
この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。

これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。

(老人雑話)

宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、
当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに
なっていたのでしょうね。



318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:03:28.64 ID:865MJPbR
>>317
どこのアーサー王だw

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:06:53.08 ID:Limq/1QQ
さっきまでやっていたヒストリアが「戦国一のワル」の回だった
このタイトルで松永や宇喜多じゃなく、最上義光回だったけど
目新しいネタはなかったな

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 21:58:59.29 ID:gql9sLLB
>>317
泳いで参った!の伝説もあったんだろうか

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 23:33:46.68 ID:Ad/x7wny
2ch発祥ネタじゃねえか

藤堂和泉守を敵味方惡之歟

2016年11月19日 14:23

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 00:10:42.32 ID:QQzb0Sra
(慶長19年12月、大坂冬の陣の時、)14日卯辰刻より、また雨。晩から
風は激しく、寒さは甚だしかった。

藤堂和泉守(高虎)を敵も味方も憎んだのであろうか。色々な悪口をある時
は言い掛け、ある時は矢文を射ていた。件の矢文は他の陣に来たとしても、
藤堂の陣へとこれを送ったという。

(藤堂和泉守を敵味方惡之歟、色々の惡口を或時呼、或時矢文を射ける、
件矢文餘陣に来とも、藤堂陣に送之と云々)

――『当代記』



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 04:38:09.49 ID:EgHEZ3Hh
裏切りものだからかな?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 17:54:19.84 ID:Qu1Fqqy3
>件の矢文は他の陣に来たとしても、藤堂の陣へとこれを送ったという。

ちょw

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/19(土) 18:22:16.97 ID:yU1LQAy1
>>322
冬の陣の時で藤堂家の付近の陣だと伊達家と松平忠直かな

天吹(テンプク)

2016年11月18日 16:46

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/11/18(金) 00:02:23.28 ID:gKlDuncp
天吹(テンプク)という薩摩で伝承された縦笛があり、薩摩の武士の間で大いに愛され、吹かれていた。
名称の由来は、大祓いの祝詞「天の八重雲吹き放つことの如く」からきているとも言われている。
一番盛んだったのは、戦国の頃といわれ、戦国ちょっといい話・悪い話まとめ にも
島津の退き口と北原掃部 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5053.html
天吹についての話が載っております。今回は細部が少し違うバージョンを紹介します。

関ヶ原の合戦に島津方として参加した武士に北原嘉門助という者がいた。
島津の退き口の際に、家に代々伝わる天吹を陣中に置いてきた事に気付き、
「このまま置いていっては先祖に申し訳がたたぬ」と彼は天吹を取りに戻りますが、
東軍の兵に捕らえられてしまいます。
「何故、戻ってきたのか?」と問われ「笛を取りに戻ってきた」と答えると
「薩摩にもお主のような軟弱な者がおるのか」などといわれ、首をはねられることと
なってしまいましたが、
「この笛を取りに戻ってこのようなことになったのだ、せめて最後に一曲吹かせて欲しい」と言い
天吹を吹くと、その音色と北原嘉門助の堂々とした態度に東軍の者たちは感嘆し、
首を刎ねる事もあるまいとの意見が出てきました。
このことを知った徳川家康の側近の山口直友は「このような者を死なせるには惜しい、薩摩に戻して
やってもいいのでは」と考え、家康に進言しその結果、北原嘉門助は薩摩に戻ることが出来、
彼の命を救った天吹は「助命器」と銘打たれて大切に保管されたという。

・・・これで話が終われば好かったのだが、薩摩に戻った北原嘉門助は
「自分は首を刎ねられるはずだったから」と切腹して果ててしまいました。
一方「助命器」の方は江戸末期までは大切に保管されていましたが、明治になり北原家に
嫁いで来た若奥さんが、ごみと間違え燃やしてしまうという悲しいことになっていました。

※鹿児島市の城山にある西郷隆盛像と忠犬ハチ公像(初代)を手がけた安藤照氏の母方の実家が
北原家になります。(忠犬ハチ公像(2代目)を手がけたのは息子の安藤士氏)

(「明治維新150周年まであと2年!薩摩アフタヌーンティーパーティ」というイベント内で
あった「薩摩の楽器「天吹」700年で知る島津の歴史シンポジウム」での話より)



314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 09:14:27.63 ID:JKeteUbK
>>312
なんというまさにちょっと悪い話
やっぱお宝というものはものものしい器に収めとかないと駄目ってことね

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/18(金) 17:02:34.45 ID:865MJPbR
>>312
せっかく拾った命を捨てた過ちを燃やして浄化されたのだ