人が功を争おうとするのは悪いことだ。

2016年12月31日 20:36

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:07:05.94 ID:n4CSvgAi
 阿部伊代守(正次?でも彼は備中守)の家中の下宮理右衛門という者が、
大坂陣の時に敵を組み伏せ、ついに首を取ろうという時に理右衛門の朋輩が来て
敵の足を刀で一度切りつけてから、
「理右衛門、相打ちだぞ」
と念のために言った。
理右衛門は
「心得た、この敵はお前に取らせよう」
と言って、そのまま敵中にかけ入ってかせぎ敵一人を突っ伏して首を取ったという。
智有り勇有り義が備わる理右衛門かな、と多くの人は感じたそうだ。

 高麗陣の時、小西摂津守(行長)がとりわけ乱取を制したのいうのももっともな事である。
乱取は討ち捨てだと定めた事もある。郡中の乱取りは互いに功名を争い、無益な働きも出てくるものだ。人が功を争おうとするのは悪いことだ。


『武士としては』



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予め慎む心得のある人は

2016年12月31日 20:35

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 14:18:50.97 ID:LohlZohC
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。

罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。

その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。

主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。

およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 15:57:49.61 ID:CTZiu4gC
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw

【ニュース】真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究

2016年12月31日 20:31

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:33:02.40 ID:T9EaeWR+
まじかー
https://twitter.com/kino_mayohitsu/status/814790483427762176
http://pbs.twimg.com/media/C063ndIVEAA7Ubi.jpg
C063ndIVEAA7Ubi.jpg

真田父子肖像 原画は別人? 上智大准教授が研究
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20161230/KT161227KQI090004000.php



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 20:56:44.53 ID:BImuGQqE
たびたびこういうの見かけるけど寺ってどんだけいい加減なんだ

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 21:39:30.18 ID:GyTo8wUi
親族だし
源頼朝→足利直義
足利尊氏→高師直
武田信玄→畠山義続
とかの説よりはマシな気が

池田輝政「もし槍先ならば」

2016年12月30日 18:19

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 22:43:08.83 ID:nt8Yb9I9
池田輝政「もし槍先ならば」

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-226.html
↑の話の詳しい版

輝政卿の親しい同輩の大名福島正則など二、三人が集まって物語りをしていたとき
輝政へ出入りする盲人がその場にいたので、輝政に申し上げさせるようにわざと
「三左衛門(輝政)は今大国を領しているといっても、畢竟は大御所の婿だからだろう
 我らは槍先で取った国だが、陰茎の先で取ったのは格別だ」
と言ったので、盲人が果たしてこのように告げると、輝政は笑われて
「『輝政が領する国は陰茎にて取ったが、もし槍先ならば天下を取ってしまうので
 槍を用いなかったのだ』と各々にこう申せ」
と仰せられたので、同輩の衆はその滑稽を笑われたのだという。

実際は岐阜城攻めのときに、(輝政は)正則と先を争い共に大功を立てたが
輝政は五十万石を賜ったのに対し、正則には四十九万石だったため
正則がかねがね不満に思っていたのを、輝政は知っておられ
当たらず触らず戯れ言を以って返事なされたのだとか。


――『藩鑑』



「おかしき事ぞ、と存ずる」

2016年12月30日 18:18

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 03:10:47.82 ID:doiyCYS4
酒井六郎左衛門は松平下総守(忠明か)に仕えて、2百石を領知した。

彼は前の主君に仕えていた大坂陣の時に功が多かった。故にその事を
申し出す人がいたが、六郎左衛門は、

「今の主君のもとで何の功もないのに、前の主君のもとでの働きを取り
出して自慢するのはおかしき事ぞ、と存ずる」

と、言ったという。

――『武功雑記』



477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 18:23:31.74 ID:nHnbXNwO
うーむ男らしい人だ

元均の人柄を見るに

2016年12月30日 18:17

元均   
479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 00:16:58.55 ID:vzqPZiwu
誤った文で送信してしまったので再投稿

唐入り戦間期の頃、李舜臣が失脚し元均が統制使(朝鮮水軍の司令官)になった時の話。

私(安邦俊)の叔父である東巌公の妻が元均の親族だったので
統制使となった元均が私の家を訪ねてきてこう言った。

「何がうれしいってをこの肩書になったことで栄華を極めたことなどではなく
李舜臣に対する恥辱を雪ぐことになったことが何より嬉しい」

これを聞いた東巌公はこう答えた。

「あなたが充分に忠節を尽くして敵を打ち破りその功績が李舜臣を上回った時こそ恥辱を雪いだと言える。
ただ李舜臣の肩書になり替わっただけで嬉しいとは…。恥を知れ!」


すると元均

「私が敵と戦う時は遠ければ片箭(弓)を使い近ければ長箭(槍か?)を使い
ぶつかり合う時は剣と気合を使うので勝てないわけがないだろう」

といった。

東巌公は笑って

「隊長なのに刀を振るわねばならないのか?」

と答えた。
元均が帰った後、東巌公が私に

元均の人柄を見るに将来は立身すると思っていたが間違っていた。
 元均は趙括や騎劫と言った古の武将と似たような男ではないだろうか」

としばらく嘆いたという。


(隠峰全書)



「私も子を不憫に思っていた」

2016年12月30日 18:16

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/30(金) 01:35:34.08 ID:n4CSvgAi
 大坂で井伊掃部(直孝)の先駆けを務めた庵原介右衛門の嫡子主税之介は、
一番乗りに進んで雌雄を争っていると敵に組み伏せられてしまった。
そこへ介右衛門が来たが、あえて子を救わなかった。
主税之介はやっとのことで勝利を得て敵の首を獲った。

 後で傍らの人がどうして子の難を救わなかったのかと尋ねると、
介右衛門は「私も子を不憫に思っていた」とだけ答えたという。

『武士としては』



成田氏のこと

2016年12月29日 16:21

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 19:53:58.91 ID:eJwcuXjh
 成田下総守藤原顕泰入道は清岳成安と名乗った時代に武州成田郷に来て居住した。
その子の親泰入道宗蓮の代に武州忍の大極氏国という者を討ち取って忍に来て住んだ。
その子の太郎五郎長泰は後に中務大輔と号した。
旗下に酒巻・中条・別府・玉井・渡柳・箱田・小河原・上中条がおり、
須賀入道も成田の旗下であった。

 成田親泰は公方足利成氏に軍配団扇を献上することがあった。
その団扇は上州利根川の辺りに張良の社というところの宝殿に張良の唐団扇といわれるものがあり、
明応四年乙卯(1495年)に親泰はかの団扇を模したものであった。
成氏公も同六年(1497年)九月に遺物として京都将軍足利義澄公へ献上された。

 成田は上杉輝虎に初め属していた。
しかし鶴岡で「成田は頭が高い!!」と輝虎は咎められたが、
成田は「私の家は将軍にも下馬の礼が無くてもよい家である。
これは嘉例なのでその礼に任すところを、故実を聞かずにいかつい仕方である!!」
と輝虎の属を離れて北条と入魂になった。

 輝虎方の木戸源介は忍の近所の皿尾に籠った。そこを成田長泰と子の下総守氏長は父子で攻めた。
その時、氏長は臣の豊島美作に父の長泰を駆り出した。これは永禄九年(1566年)八月十五日のことで、父を押し込んで隠居させた。
氏長の弟に長繁という者がいた。
彼は太田道灌の婿となっていて、小田氏を継いでいた長泰の弟(つまり氏長・長繁の叔父)を継いで介三郎、後に伊賀守と号した。
武州山の根の城(私市という)に住んでいて、そこは忍からは二里余りあった。

 忍の城は成田氏長が天正十八年(1590年)に没して後、文禄元年に松平下野守忠吉が領した。
元禄十二卯年(1699年)まで九十八年の慶長七寅年(1602年)に尾州へ下野守は所替となった。
慶長五年以後に御番城となっていて、高木筑後守(広正)が与力同心勤が守備についていた。
元禄十二年まで六十年程の寛永十年(1633年)に松平伊豆守信綱が領して、
同十六年(1639年)に阿部豊後守(忠秋)が領した。この年は元禄十二年まで六十一年である。

 下野烏山は成田左衛門尉(泰親)が領していた。
元和九年(1623年)から松平(松下?)石見守(重綱)が領した。


『武士としては』



『武士としては』について

2016年12月29日 16:20

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 19:59:46.11 ID:eJwcuXjh
※まとめで話題になっていたので『武士としては』の説明

 『武士としては』は武士としての修身を記した未刊の随筆です。
題名は序文が「武士としては…」の書き出しによるものです。
序文の末に"如山堂定シュウ(輯・揖の旁+戈)子"と記していて、かつ冒頭に傍書で「妬ト旧名ヲ改ル」とも記してあるので、
"妬山堂定シュウ子"と号した人が作者と推測できます。
また、末文に"盛正"とも載せているので、その名から『盛正記』ともいわれているそうです。
作者は上記のように成田氏や忍にやたら詳しいので、その関係者と思われます。
末文には作者が著作時に六十六歳だという記述もあります。
 また同様に元禄十二年を基準としているため、その年に書かれたように見えます。
しかし、他の条に徳川綱吉を諡号の常憲院と呼んでいたり、
『備前老人物語』『武備目睫』『東照宮御遺訓』を転用していたりするので、
もっと遅くのものだとも指摘されています。

以上の説明と『武士としては』の本文は
http://www.yuzankaku.co.jp/products/detail.php?product_id=7314

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946209
を参考にしました。



岩国の白蛇

2016年12月29日 16:19

472 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 05:25:12.47 ID:apC56xYr
吉川広家の姫様が城の近くで遊んでいると、一匹の白蛇が姿を現した。
白蛇の澄んだ瞳に惹かれた姫様は白蛇を大層可愛がっていたが、父広家の岩国転封の為共に米子を去って行った。
この時、姫様が可愛がっていた白蛇も引っ越して行く吉川様の一行に見え隠れしながら岩国へついて行き、錦川のほとりに住みついた。
その子孫は今も岩国の地に生きており、現在では国の天然記念物となっている。

(米子の伝説)

ただし、岩国の白蛇の最も古い文献記録は岩邑年代記によると1738年のことであると言う。

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/29(木) 07:27:09.50 ID:wiFOOTs2
ちなみに、岩国の伝説では、
吉川藩の米蔵の米を食べたネズミを食べた蛇が、米の白さで白くなったのが白蛇です。

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/29(木) 07:44:31.86 ID:apC56xYr
>>473
補足ありがとうございます



“骨食”

2016年12月28日 09:40

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/28(水) 01:48:32.30 ID:O/gQl5bU
同月28日(慶長20年6月)、秀頼所持の薬研藤四郎〈吉光〉の太刀
は“骨食”と号して、長さは1尺9寸5分である。

これを河内の農民が拾い得て、本阿弥又三郎に見せた。これにより、
本阿弥は即座にこれを大神君(徳川家康)に献上した。

御覧の後に、これを又三郎に返し下された。後日に秀忠公へ進上し、
御受納あって黄金5百両、白銀2千枚を本阿弥に賜った。

――『関難間記』



週間ブログ拍手ランキング【12/22~/28】

2016年12月28日 09:35

12/22~/28のブログ拍手ランキングです!


ある日、姫路城の池田輝政に手紙が届きますた・・・ 22

薩隅の戦国食べ物? ねったぼ 22

人で葺く 16
【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について 16
米子城の伝説 15

松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人 13
中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~ 13
大事の談合は昼に行うべし 12

結城秀康の死去/家康怒りの改葬 11
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事 11
本意に背く事はしないほうがいい 10
川通り餅の由来 10

士は終わる所に強い意地が 9
今川氏領地の事 7
愛宕に武運を 7
終に往く道をば誰も知りながら 7

真田左衛門佐幸村の妻女 6
淡路国をしてやったり 4
この両説は、確かには分からない。 4
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事 3


今週の1位はこちら!ある日、姫路城の池田輝政に手紙が届きますた・・・です!
ご存知の方も多い、姫路城の長壁姫(形部姫)伝説。江戸期を通して、姫路城の怪異として言い伝えられたお話ですね。
この長壁姫は人に怪異を成す妖怪、というだけではなく、年に一度姫路城主と対面し、その年の城の運命を伝える、なんてお話も
あったようです。日本では妖怪のたぐいと、わりと共存してしまいますねw
この長壁姫、現代も改修成った姫路城天守において、祀られてあります。

同表で同じく1位!薩隅の戦国食べ物? ねったぼです!
「侏儒どん」の最期について、こんなお話があったとは。
サツマイモも品種改良され続けた食べ物なので、当時のものと現代のものは相当違うのでしょうけど、やはり美味しそうですねw
ある意味、代表的な薩摩人である徳田太兵衛がこれを食べて亡くなったというのは、もしかするとその後に薩摩にサツマイモが
広まったことを、象徴するお話なのかもしれません。
「侏儒どんもこれを食べて~」なんて会話が、歴代の薩摩藩士の家庭でなされたのかも、なんて事を想像してしまいますね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人です
金春又右衛門がまさに感涙したという細川幽斎の太鼓。一体どんな演奏だったのでしょう。
幽斎は万能の人ですが、芸術関係においてはまさに当時の、天下の第一人者と見られていたという印象があります。
息子の忠興も顧みれないほど軍事に政治に奔走していたというのに、どこでこういうものを身に着けたのか。
天性の才能も大きかったのでしょうね。
そういえば、大河ドラマの真田丸は父子の物語でもありましたが、この細川幽斎・忠興父子も描いてほしかったな、
なんて事も思いましたw



今週もたくさんの拍手をいただきました。
そしてこれで今年最後の週間ランキングです。今年も1年、本当にありがとうございました!
来年もどうぞ、宜しくお願い致します!
ヾ( ´ ▽ ` )ノ


淡路国をしてやったり

2016年12月27日 19:10

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 16:00:30.58 ID:7PUV8B8k
淡路国をしてやったり


慶長15年2月、池田輝政は駿府で家康に謁し、淡路国六万六千石を加増された。
これは三男の忠雄殿(このとき9歳)が賜ったところである。

この時に浅野幸長も登城していたので、世上の風聞では
「今日、池田浅野両家のうちどちらかに淡路を賜うだろう」
と言われていたので、両家の伴人は皆耳をそばだてて待っていた。

輝政が玄関から出てこられ、お供の士の安藤牟三郎をお呼びになり
「お前はどこそこに行って『今日御前において淡路を我にお預けになった』
 と言ってくれ」
と仰せられたので安藤は承り走り出たので、呼び返しになられて
「お預かりと申せ、拝領とは申すな」
と命じられたが、其の頃の天下諸士は闊達であるのが流行っていたので
安藤が下馬の橋を走り出たのを、傍輩が立ちふさがって
「安藤いかにいかに」
と言葉をかけると、牟三郎は扇を開いて頭より上に高くあげ大音声で
「淡路国をしてやったり、してやったり」
と叫ぶと、池田の士が不覚にも一度にあっと声を出したので
下馬中の一同はどよめき声は静まらなかった。


――『池田家履歴略記』



この両説は、確かには分からない。

2016年12月27日 17:40

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 04:54:42.37 ID:M9KwdTmq
さきの土井大炊頭(利勝)は、

権現様(徳川家康)の御乳人の召使いに“松”という女がおり、これを
榊原の家来・土井氏と出合わせて持った子である。

一説には大方様(於大の方)の女房たちの子であるという。であれば、
水野下野守(信元)の落胤だろうか。

この両説は、確かには分からない。

――『武功雑記』



同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

2016年12月27日 17:37

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 00:19:18.76 ID:aNTRDRPX
同姓酒之丞が家例〔正月六日〕内称豆打之事

 予(松浦静山)と同姓の松浦酒之丞の家は同家伊勢守の分家であるが、
実の先祖は信辰といって、法印公(松浦鎮信)の御孫にして久信公の第三子である。

 今も酒之丞の家例には世でいう節分の夜には流俗のように鬼打豆を投擲し、
それからまた別の礼では、正月六日の夜に内称(内緒)豆といって家先から別に豆打ちをする。
されども世俗に憚り暗所で小投する。
人はその由縁を知らない。かの家もまたその由縁が伝わっていない。

 臣の某が考えるには、この事は久信公が朝鮮におわしたときの佳例を伝えたものであろうとのことだ。内称豆とは、もしかすると今では他を憚っての言い分であろうと。
曰く、平戸在住の者の中で中山氏や立石氏等は公の韓役に随った者の子孫である。
これらの家には、今も世で節分というのに拘らず年々正月六日の夜に節分と称して鬼打豆の事をする。
この始まりを聞くと
朝鮮在陣の年、年が暮れて春が来たが暦を知る者がいなかったので春冬の境を決めることができなかった。
上下は図って、しばらくその六日を節分とし各々が本国の佳儀を調えた。
よって酒之丞の家でも久信公在陣の佳例を用いた。
 わが臣の両氏のように、他の韓行きの子孫にはなおこのことがある。
佐賀公にも、正月六日には節分の儀式があるという。
これらもまたかの祖先勝茂の征韓在陣の故事によるのであろう。


(甲子夜話三篇)



466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/27(火) 09:57:35.79 ID:YyfEjHIw
???「ダレニモ ナイショダヨ」

大事の談合は昼に行うべし

2016年12月26日 16:05

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 13:57:01.93 ID:rz8P6Z61
松永霜台(久秀)曰く、

「人が談合分別をする時、夜に致すと合わずして悪しき
ものである。大事の談合は昼に行うべし」

と、言ったということである。予(山鹿素行)が案ずるに、
談合の事柄にもよるであろう。

――『山鹿素行先生精神訓』




人で葺く

2016年12月26日 16:03

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 20:41:55.00 ID:rz8P6Z61
名古屋城普請の時、諸大名が福島(正則)のところに集まって
饗応があったのだが、

ことのほか暴雨暴風で、小屋の屋根は持ちこたえられないほど
であったのに、少しの別儀もなかった。

さて、相仕が退去の時に屋根を見なさると、諸侍がことごとく
かっぱを着て、屋根の上に伏していた。人で葺いたのである。

小屋の上であるのに上がる音もせず、咳払いの音もしなかった
ということである。

浅野紀伊守(幸長)はこれを見て、家来の供の者に「これを見よ」
と、申されたということである。

――『山鹿素行先生精神訓』



462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/26(月) 10:32:15.16 ID:pDCciezT
人間屋根って、男塾に有りそうなエピソードやな

士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人

2016年12月25日 17:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/25(日) 10:58:33.36 ID:8tbksLrh
松永貞徳が見た幽斎、物の上手と名人


関白秀次の時代聚楽第で能があったとき《朝長》の懺法太鼓を
其の頃の"上手"である金春又右衛門という者が勤めた。

[金春又右衛門は織豊期の太鼓の名手で、細川幽斎とは兄弟弟子であった。]

日が暮れてから(又右衛門は)幽法公(細川幽斎)のところへ参り
「今日は(幽法公の)ご見物ゆえ胸が躍り手は震え、前後を忘れてしまう程でした。
どうだったでしょうか」
とおそれかしこまって申した。
幽法公は休まれていたが、対面すると今日の所作を褒められて一献下された。

宴もたけなわの頃に(幽法公は)
「くたびれているだろうが、一番太鼓を打ってくれないか」
と仰せられて、自分で小鼓をお打ちになられた。
大鼓は平野忠五郎、笛は小笛亦三郎、諷は勘七など
みな普段からの(幽法公の)御近習で《杜若》を囃した。
(又右衛門の)太鼓は能を聞きなれぬ者の耳にも変幻自在で
(聚楽第より)こちらで打った太鼓の方がひときわすぐれて聞こえた。

又右衛門は忠五郎に向かい両の手をついて
「もう一番。今生の思い出に(幽法公の)太鼓をお聞きしたい」
と申したので、(幽法公は)久しく打っておらず忘れてしまっているとしながらも
「夜更けに聞き手もいないだろうし、興に乗ってきたところなので」
と言ったので、《遊行柳》をクセから謡わせたが、太鼓に差し向かう様子や
御掛け声、御撥音なども並の者のしわざとは到底思われなかった。

屋敷中が神妙になり、皆息も継げない様子で(聞いていたので)
我らが易々と感嘆してしまったので不思議に思われたのだろうかと
又右衛門の顔をじっと見ていると、いつにない様子で
額を畳に擦り付けるようにして、声も漏らすことが出来ないようであった。
喉が塞がったような気持ちがして、(幽法公が)打ち終わりになられた。
(又右衛門は)ついていた手を膝に上げ、うつむいていた頭を振り仰いだので
その顔を見ると、両目から感涙が雨のようにこぼれていました。

物の上手と名人の変わり目はあるものだと、心に思い知ったものです。


――『戴恩記』



結城秀康の死去/家康怒りの改葬

2016年12月25日 17:11

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 14:37:00.84 ID:TsTbPz9n
結城秀康の死去/家康怒りの改葬


結城秀康は慶長12年には父家康により伏見城番に任じられたものの病が重くなり
3月1日に伏見から越前に帰国したものの、同年閏4月8日に34歳で死去した。
嫡男の忠直が江戸にいたため葬儀は大幅に遅れてしまい、わざわざ北庄まで
弔問にきた毛利輝元も痺れを切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。

秀康は結城家菩提所の曹洞宗の寺、福井孝顕寺(結城氏は代々禅宗だった)に葬送され
孝顕寺殿吹毛月珊大居士と称したものの、それを聞いた家康が
「我が家の者は浄土宗である、結城を名乗っているのならともかく
 既に復姓し松平となっているのに、このたび禅宗に改めるとは何事か!」
と激怒した為家康の意向により、知恩院から満誉大僧正を導師として下向させ
満誉を開基とした浄光院(のち運正寺)を同年中に建立し、浄土宗へ改葬させて、
法号も浄光院殿と改められたという(『知恩院古記録』)。


――『福井県史』など



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 16:11:14.91 ID:tyQB9IgX
増上寺は浄土宗だけど寛永寺は天台宗なんだが...

今川氏領地の事

2016年12月24日 09:54

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 05:42:05.24 ID:bDvjbosn
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)



ある日、姫路城の池田輝政に手紙が届きますた・・・

2016年12月24日 09:54

455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:09:06.06 ID:vAaOz2Je
池田輝政の死因

      ある日、姫路城の池田輝政
       手紙が届きますた・・・
          _____
         / ヽ____//
         /   /   /
        /   /   /
        /   /   /
       / 刑 /   /
       / 部 /   /
      /   /   /
       ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

         | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
         |                    |
         |   前略 池田輝政 様   |
       /    ̄ ̄ ̄ ̄     /____
       / 呪いを掛けました /ヽ__//
.     /        殺すぞ   /   /    /
.     / 死にたくなかったら/   /    /
    / 大八天神を祀れ___   ./   /    /
   /        刑部   /  ./    /
 /             /   /    /
  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/   /    /


スルーした池田輝政は徐々に体調がおかしくなり、慌てて言う通りにしましたが時すでにお寿司。そのまま悶死したそうな。めでたしめでたし。
      r ‐、
      | ○ |         r‐‐、     
     _,;ト - イ、      ∧l☆│∧  良い子の諸君!
   (⌒`    ⌒ヽ   /,、,,ト.-イ/,、 l  困った時の神頼み!
    |ヽ  ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 
   │ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /| とよく言うが、
   │  〉    |│  |`ー^ー― r' | 困った時に神頼みしても
   │ /───| |  |/ |  l  ト、 |  手遅れな場合もあるから気をつけるんだぞ!
   |  irー-、 ー ,} |    /     i      
   | /   `X´ ヽ    /   入  | 普段から神様祭事慶弔行事は大事にするんだぞ!


本当は怖い日本の城より

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 00:35:11.91 ID:vAaOz2Je
>姫路城の怪異と輝政の死・天守の五層目に、夜な夜な怪しい灯火がともされたり、真夜中に突然大きな太鼓の音とともに悪鬼が現れて人々をとり殺したり、
あるいは夜半に大勢の女子供の泣きわめく声が突如として、湧き起こったりした。さらに若い女中がさらわれたり、白昼傘をさしたまま侍が空中に吊り上げられるなど、
不気味な事件が昼夜の別なく城内のあちこちでありました。
ついに怪異は、輝政本人をも襲いました。輝政の枕元に現れた美しい上臈が、近日中に病気になるだろうと予言した。天守閣が完成した直後の慶長十四年には、実際に奇妙な書状が届けられた。
『播磨主大天神東禅坊・都の主千松』なる人物から輝政・督姫・輝政の母に宛てた文で、『此九月にもな、物にくるいつるおな、きつねよなとかつてん(合点)しつるかな、
これもとうとみのくに(遠江国)の天神そや、すなわちくわん(願)あかりてな、三りんほうが、はやはやよりんほうになりたるそや伝々』
と言う様な呪いの言葉が、書き連ねられていた。その要旨は、『遠江の四りん坊なる天神(天狗)が三りん坊なる天神を誘って姫路城の鬼門から侵入し、輝政らの命を奪おうとしている』
この呪いから逃れる為には、城の鬼門に『八天塔』すなわち『八天大塔護摩堂』を建立し、大八天神を祀って護摩の秘法で祈祷を納めなければならない。
と言う様な意味でした。この怪文書は、現在、小野市浄土寺と多可郡円満寺に所蔵されていると言います。
剛毅な輝政が打ち捨てていたところ、城内で怪異がつづき、とうとう輝政自身も病の床についた。さすがに気味悪く、輝政は八天堂を建立、
円満寺の僧を招いて悪魔調伏の護摩修法を行った。だが時すでに遅し、輝政は外出中、にわかに苦しみだし、急ぎ帰城する途中、輿にカラスが次々にぶち当たって来た。
この後、輝政は一時的に回復したが、病室の障子や壁に群れをなしたカラスが突き当たってはバタバタと、地上に落ちて死ぬなど不吉な現象が続き、慶長十八、ついに帰らぬ人となった。

おそらくは中気の再発だろうが、ただ、吐血して突然死を遂げた事から、毒殺の噂が立ちました。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1268371737

後、祥伝社文庫の『江戸の怪』中江克己 著
にも少し内容が異なるけど池田輝政怪死の話が載ってる模様




457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 07:18:59.17 ID:dgj9qo97
どうせなら鴉じゃなくて蝙蝠にすりゃええのに

458 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 08:23:15.36 ID:vAaOz2Je
>>457
    (\_/)
  /( (゚(M)゚) ハ 日中仕事するとか眠たい
 / | Y (゚Д゚)Y|
`| |  (ノミミミ|)||
 \(⌒Yミミミノ⌒)/
     ∪∪

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 08:36:03.66 ID:dgj9qo97
いや、石燕は蝙蝠と一緒に長壁姫を描いてるからさ

てか、知恵袋から引っ張ってきたのか

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 09:23:19.51 ID:aP1ZLklG
根岸鎮衛「知恵袋とは耳嚢(みみぶくろ)のようなものですか?」

461 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 09:27:49.94 ID:vAaOz2Je
>>459
知恵袋は書き込んだ後で見つけた。
祥伝社文庫の本に載ってるのとでまた若干細部が違うし、池田輝政 死因 呪い とか、姫路城 呪い でggってみるとよろしよ

462 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 11:47:20.54 ID:vAaOz2Je
>>460
左様ですな、現代に於ける様々な人々の言葉が詰まったさながら塵袋、芥袋と呼ぶに相応しき物かと存じます

愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



終に往く道をば誰も知りながら

2016年12月23日 21:09

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 01:02:42.42 ID:bjWOvYiP
 小日向の竜興寺は、高所で富嶽遠眺の勝地である。
寺に桜樹がある。神祖が御詠み短冊に書かれたのを収蔵しているという。
この地は初め桜野といって、桜樹が多くあった広い地である。
神祖が御遊覧のときの御詠を桜樹につけ置かれていて、
その辺に釈迦文院という真言の小院があって、御帰りのあとにその御詠を取り収めていた。
寺の開山玄門和尚が創建のときにここを見立てて暫く釈迦院に寓していて、
そこで御詠を請い受け、竜興営造のとき寺の鎮守として小祠をたてて御短冊を神体として祭ったという。
御詠は

終に往く道をば誰も知りながら 去年の桜に風を待ちつつ

〔竜興寺で聞いて記した〕

 このときの御成りに従った左右の中で、杉浦吉右衛門はこの御詠の御書き損じを拝領して伝襲している。この孫が、今杉浦備後守と称して御小姓である。竜興寺の檀家という。

〔近頃、日向国の拙堂和尚という者がこの寺に宿して賦した詩がある。
地の勝趣を知ることができるので、ここに記す、

下界人家天上雲、芙蓉八朶望中分、
尾侯第隔青松見、護国鐘蔵緑蔭聞、
万里清秋霽漂渺、一輪紅日暁氤?
結句は今忘れた。〕

(甲子夜話)



米子城の伝説

2016年12月23日 21:07

456 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 07:54:36.77 ID:a79PnZ+I
米子城の伝説

吉川広家中村一忠の築城で米子城の本丸が飯山から湊山へと移り変わった頃の事。
米子城に夜な夜な化け物が出ると噂が立った。
ある時村河与一衛門と言う勇気有る侍が化け物の正体を暴いてやろうと、夜の城を見回っていると、
本丸付近の鉄(くろがね)御門をくぐって石段を上に上がろうとしたその時、暗闇の中に突如灯りが立った。
よく見ると、白衣に緋袴を履いた女が灯りを持ち立っているのが見えた。与一衛門が
「怪しい奴、何者か!?」
と強く誰何すると女は
「私はこの城の主人である。我が城の見回り中じゃ」
と言って与一衛門を見向きもせず去ろうとした。
与一衛門は「この城の主人は殿様じゃ」
と刀を抜いて斬りかかり、女と暫し攻防が続いた。暫くして女は
「私の負けだ。私は飯山の主の大蛇でこの湊山に城が移って飯山は廃れてしまい、それを恨みに思って化けて出たのだ。
そなたは強い、今夜限りにもう姿を現わすのはやめにする。これはその証じゃ」
と言うと、与一衛門に二枚の皿を渡して大きな音と共に姿を消した。
明るくなって与一衛門が二枚の皿を確認すると、それは大きな蛇の鱗であったという。
村河家では代々その鱗を大事にした。



中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

2016年12月23日 21:06

450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:45:13.14 ID:uDiWfu+v
中村家廃絶の話 ~正室、於さめの方側室の子を嗣子と認めず~

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9105.html

にも少し書いてある話になるが、

中村一忠は11歳で家督を継ぎ、伯父で執政家老の横田内膳が政務を取り仕切っていた。独裁的であったようだが、米子城を完成し、新たに城下町をつくり、現在の米子の基礎固めを行っている。
重臣の安井清一郎や、茶道の師である天野宗把など、内膳のやりかたに不満のある者たちが、一忠にそろそろ政務をご自分の手に、とそそのかした。
これにのった一忠は、慶長八年(一六〇三)十一月十四日に、一忠と於さめ姫との許婚の儀が米子城で盛大に行われたあとで内膳にいきなり斬りつけた。
しかし、一忠は仕損じてしまい、次の間に控えていた家臣がようやく斬り伏せ殺害した。
直後、横田内膳の息子や柳生但馬守宗矩の兄、五郎右衛門らによる米子騒動が起き、隣国出雲月山富田城城主、
堀尾吉晴の助けもあって事態は一忠側の勝利で収集したものの幕府は、安井、天野の両人に切腹を命じた。
また江戸へ呼び出された一忠はさまざまに弁明したものの、品川宿で謹慎を命じられた後許されている。
一忠の叔父中村一栄(かずよし)は、家臣の梅里伯清の娘を一忠の側室にと推挙し慶長九年(一六〇四)、梅里の娘は十四歳で米子城へお国御前として上がる。
正室於さめ姫は江戸屋敷に常住した為お国御前は正室に次ぐ格があった。

一忠には京にも京屋敷があり、これは豊臣時代からの屋敷で一忠の生まれ育った所であった。

京屋敷の家老矢野正倫(まさとも)も京の側室を推挙した。庄屋の娘であったが、美人で物腰やわらかな、明るい娘であったようだ。

余談だが家康は大名たちの側室の人数について、大名は八人という目安をもうけている。一忠も江戸、京、米子と、上屋敷、下屋敷に八人くらいの側室はいたのかもしれない。

元服の際一忠は、松平の称号を許され、将軍秀忠の諱名を賜り、忠一と名乗りを改めた。

於さめ姫には、姫つきの女中があまた随ってきたが、それとは別に忠一付きの側女中が二人、どこからか配置されてきた。この二人はこまめに忠一の身の回りの世話をした。周囲の者に明かすことのできない、重要な任務を帯びて中村家に乗り込んできていた。

側女中の二人がきてより、忠一の体調はしだいに悪くなり、疲労感が色濃くなっていった。

江戸屋敷にいる於さめ姫は、忠一が江戸にあっても、別棟の御主殿にいて、昼間は忠一と会うことはなかったが、輝姫という女の子を産んでいる。ついで、京の側室も出産し、こちらは男子で小武と名づけられた。

慶長十四年(一六〇九)五月、江戸、京、とまわって米子へ帰国した忠一は、だれの目にもわかるほど衰弱していた。

旅の道中に例の側女中もつき従い、十二分に忠一の面倒をみたが、お国御前の側室が側女中をあやしんで、見張り役を派遣したが、確証は得られなかった。

川狩りに行くと気分もよく元気が出るような気がして、忠一は最後の川狩りに出かけた。だがほどなく帰ってきた忠一は、すぐ寝所に入った。近習がかけつけた時、忠一はすでに死んでいた。いまだ二十歳の若い藩主の死去であった。

忠一の顔には薄く斑点が浮き、それを消すためにか、側女中は顔や身体中をなでさすっていた。これをとがめられた側女中は逃げ出して再びその姿を見た者はいなかった。

この後藩主の亡くなった米子城に幕府の裁定が下り、中村家は子なき故断絶と決まった。

京の側室には、男子の小武がありながら、また米子の御国御前も当時忠一の子を妊娠していたのにである。
これは正室である於さめ姫が「おおかた、どこからか連れてきた子であろう。けしからぬことだ」
と、柳眉をさかだてた鶴の一声の為であり、この為十八万石の米子中村家は、お取り潰しになってしまった。
中村忠一の死後、妊娠していた米子の御国御前も隠棲して男子を産んだがこれらの子らのその後に関しては九州方面の大名の家臣となったり、京都で出家したり、
また中村一氏の正室は池田信輝の子で あった事から池田家と親籍となり、鳥取池田家に迎えられたと言う。
正室、於さめの方に関してはこの四年後の慶長十八年(1613年)に毛利秀元の継室(浄明院)として嫁いだとされる。

(因伯戦国時代の女性たち、鳥取県史より)

451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 19:58:11.05 ID:uDiWfu+v
>>450
追記として、米子騒動の横田内膳は既出の話にある通り藩主を蔑ろにした奸臣と言う風に中村記などの中村家側の資料に書かれているが、
実録が伝える村詮専横を忠臣が藩主とともに絶つという筋からは、到底こういう処分にはなるはずがない。幕府では実録が伝えるのとは、まったく違う見方をしていたのだった。
「徳川実紀」では、忠一(一忠ではない)15歳、その行いは凶暴であり、横田内膳(村詮)が何度も諌めたが、これに怒った忠一が宴にことよせて自ら殺害、
更に居城飯山に立て籠もった一党を隣国堀尾の軍勢を得て鎮圧した、と記すという。
新井白石の「藩翰譜」もほぼ同様であるといい、この騒動を聞いた家康は、幼弱な藩主一忠を諌めるべき家臣が、その責を果たさずに迎合し、騒動を引き起こしたことを厳しく咎め、安井らに腹を切らせたとされている。



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 20:56:32.91 ID:iLzbCdiU
自分が任命した補佐役の村詮を殺されたから家康は怒ったんでしょ?

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/23(金) 21:06:02.20 ID:TmvAbk2q
よくあることとはいえまるっきり話が違うw

454 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/23(金) 21:14:22.59 ID:uDiWfu+v
>>452
それも有るし、養女とは言え娘の婚礼の宴を利用して功臣の排斥行ったらそりゃあもう味噌様だって怒りが有頂天でしょうよ

465 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/24(土) 16:53:28.04 ID:+Oh64i4Z
>>454
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8378.html

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 19:43:17.14 ID:RwZ7R4NO
>>454
まてまて「怒りが有頂天」は無いだろう。
「怒り心頭」とか「怒髪天を衝く」がごっちゃになってるよ

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 20:17:22.79 ID:B+sxctzO
>>466
ネットスラングだよ。こういうスレで使うのもどうかと思うがw

468 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/25(日) 06:35:18.93 ID:DQ39pmTE
怒りが頂点に達した時に使用するネットスラング。

元ネタはブロントさんと呼ばれる2chネトゲ実況版に書き込みを行っていたユーザーの書き込みから。


75 名前:既にその名前は使われています投稿日:03/10/30 16:38 ID:QcBxXqoc
お前らは一級廃人のおれの足元にも及ばない貧弱一般人
その一般人どもが一級廃人のおれに対してナメタ言葉を使うことでおれの怒りが有頂天になった
この怒りはしばらくおさまる事を知らない


76 名前:既にその名前は使われています 投稿日:03/10/30 16:39 xu+t+yG6
有頂天になるんか。

http://d.hatena.ne.jp/keywordtouch/%B2%B6%A4%CE%C5%DC%A4%EA%A4%AC%CD%AD%C4%BA%C5%B7





ブロントさんが初めて使ってから13年か…
知らない人も出て来る時期なんだなぁ…

京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

2016年12月22日 17:16

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 03:19:20.72 ID:RpS+JZ5X
京都総検校の蔵、神祖拝領壺の事

 豊川勾当の話に、京の総検校の所に、かつて神祖から賜った御物が有るとのことである。

一つは色付きの大壺で〔色は忘れた〕葵の御紋がついている
この壺の由縁は、そのはじめ三宅検校〔称は忘れた、正さなければならない(※栄一とのこと)〕が賜ったものである。
そのとき検校は

「この壺の名は何と申すのでしょうか?」

と申し上げると、

「名は無い。今はこのように治平の世となったので、泰平の壺とでもいえばよい。」

とお答えになられた。

検校はかたじけなく拝領したそうである。それから今にその御名が伝わって、年首の行事には検校勾当の盲人が皆この御物は拝み、中に入っている酒を頂戴して礼飲するという。

 また鳴戸と名付けられた御琵琶も同じ検校が賜って今に伝わっている。
これも上意として

「戦争の際にはこのようなものは役に立たない。今治安となったので、平曲〔平家のことである〕のようなものも心安く聴けるだろう。」

と下されたという。今に至って総録所の伝宝となった。
盲人の坐までにも御手の届くこと、不思議なばかりである。
(甲子夜話)



真田左衛門佐幸村の妻女

2016年12月22日 17:15

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 00:23:23.28 ID:qpvz8I6l
同月(慶長20年5月)、真田左衛門佐幸村〈又云ふ信為〉の妻女が紀州
伊都郡に忍んでいたのを、浅野但馬守(長晟)の家人が召し捕って来た。

闕所(没収)の黄金57枚、並びに秀頼から真田に与えられた来国俊の
脇差を添えて進上した。件の2品は即座に但馬守へ下しなさったという。

――『関難間記』



週間ブログ拍手ランキング【12/15~/21】

2016年12月21日 18:21

12/15~/21のブログ拍手ランキングです!


福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊り 37

「門松をやる。」 34

切腹を御許しください 18
二本松家相伝の旗 13

ただ紙を漉かせる事はいらざること 12
羽柴秀吉朱傘 12

鏡石神社 11
首を晒される事は、武士の本意 11
松江大橋の人柱 10

吉川広家(中村一忠)と人柱 人柱久米と河童の怪 9
【雑談】井伊直虎関連の話について 9
堀内家娘の事 9

松江城のギリギリ井戸 8
四足門 7
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者 7
加藤清正と人柱2 7

尼子の家の先祖の祟り、外からの恨み 6
尼子経久と人柱 米原太鼓 6
笄の井戸 4



今週の1位はこちら!福島正則と人柱 八振りの剣と雨夜踊りです!
福島正則が、人柱をやめさせたお話。福島正則という人は主君、領主として、善政の側にも暴政・悪政の側にも、
両極端な逸話が多いな、と言う感想を持っています。こちらはその善政の側の逸話ということになるのですが、
こういうのは「公式的」な評価をすると、「悪政の側は改易した幕府がその決定を正当化するため広めた云々」と
なりがちなのですが、僕はあまりそういう見方をしたくありません。端的に、正則という人物に(限らないかもしれませんが)
その両面があった、というだけのことではないかなあと。ある面をある角度で取り出せば、そこが善政にも成り悪政にも成り。
歴史上の人物の評価ってそういうものじゃないかな、などと言うことを僕に思い起こさせた逸話でありました。

2位はこちら!「門松をやる。」です!
この逸話の面白いところは、ツイッターでもつぶやきましたが、安藤重信に自身が面倒に思っているのに、家康に対して
「わざと負ける」という考えがカケラもない所ですね。これぞ三河者!と手を叩いてしまいますw
コメ欄によると家康ではなく秀忠である、というばーじょんもあるようですが、それもまた秀忠の生真面目さなど、
色々想像が膨らみます。
どちらにせよ徳川家の主君と家臣の関係を感じさせてくれる、いい話だなと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!ただ紙を漉かせる事はいらざることです!
蜂須賀家政といえば、あの伊達政宗から『阿波の古狸』と評された、一筋縄でいかない人物です。
この逸話も、通り一遍の解釈で良いはずがありません。製紙業といえばこの時代貴重な産業の一つであり、大名たるもの
それを領国に導入したいと考えるのが当然です。それをあえてしなかったというのは、やはりは隣国である土佐との関係を
慮った、政治的判断がはたらいていたと見るのが自然ではないかな、なんて考えました。
ではその頃阿波と土佐とはどんな関係だったのか、この逸話からは具体的年代が見えてこないので、何とも言えませんが、
阿波と土佐の関係史を調べていくことで、もしかすると何か見えてくるかも知れず、そういう面も歴史の面白さじゃないかな、
なんて思ったりしました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見かけたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました