ただその時の運によって

2017年01月31日 15:48

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 03:03:28.01 ID:WEmD8M1O
武功のある人に軍法のことを問うたところ、「私にも分からない。ただその時の
運によって、勝ち負けは決まることであろう。

第一にその主君と将の心にある。主君と家臣が心をひとつにして、士卒の志が
一致したとすれば、勝つことは疑いない」と、言った。

また、「匹夫の志はどうだろうか?」と、問えば、「人並みと思えば、おくれること
であろう。念入りに身動きを決めて、ただ我が身ひとつの一大事と思い定めて、
進退するようにせよ」と、言った。

――『備前老人物語』



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清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

井伊家の付人連署して直政を諫めし事

2017年01月29日 12:37

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 03:08:15.06 ID:aPNAmi8U
井伊家の付人連署して直政を諫めし事

井伊直正は壮年の時鋭気が甚だしかったので、東照宮から付け置かれていた。
そこで...(抜落)以下が連署して諫書を捧げた。
その中に
「人には必ず目標を設けるのがよろしいと思われます。
私達臣下らが前の主君の事を申すのもいかがなものかと思われますが、
申し上げさせていただきます。
信玄が若い時から一つとして心から善事を行わなかった人ではありましたが、
常に越後の謙信を目標として謙信に優るように努め励まされていました。
なので信玄の一生の間、手を下した大事の合戦が五回に及びますが、
大きな敗北はされませんでした。
殿にも本多中務大輔忠勝を目標として、努めて劣らないように励みなさってください。
古から『進まず退かざる良将』と申しますが、それは中書(中務大輔の唐名)のことだと思われます。」
と書いてあったそうだ。

(常山紀談)

信玄に対してひどい言い様www
何かあるでしょ、信玄堤とか



558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 11:14:12.92 ID:Tc8KsaEm
上田原の戦いや戸石崩れは謙信と対立する前だからノーカンなのだろうか

【雑談】戦国時代展行って初めて知った事

2017年01月29日 12:35

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 12:27:02.63 ID:n0T35VGg
戦国時代展行って初めて知った事

応仁の乱で焼けてしまった清水寺再建の勧進に
日野富子が6本寄進(1本20貫)
他は大抵1本位のところ越前の朝倉孝景(先代)が25本
朝倉なんとかは50本寄進
そういえば清水寺に朝倉堂ってあったっけ

三郎氏秀が人質になる前に北条氏邦が人質に
行っていて三郎と交換した事。

地黄八幡の文字が善光寺の額みたいに鳥っぽくなっている事。

北条氏綱の銘が入った鞍を氏綱が自ら造った可能性があると
の解説...

信長が切り取った蘭奢待を勧修寺晴豊が少し分けてもらって
泉涌寺で行われた親父の法要で焼香に使った事



一備の将たる者は、

2017年01月28日 09:19

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 19:20:26.74 ID:KqZEt9y/
一、一備の将たる者は、並の武士の作法に準ずるべきではありません。能く柔と剛を兼ねなければ、
  将たる道には至りません。
  一鑓合いの武士は強勇を表として、主のために命を惜しまないことを名誉とします。
  しかし一備の将たる者は、命を全うし、諸卒を懐かせ、駆け引きの作法を示し、勝つべきを
  見て進み、勝てないのを見れば引き取って後の勝ちを得ることに専念する。これは将にとっての
  法です。この心を忘れず、老功の者達とも評議し、尤も妥当な判断に従うようすべきです。

一、其方は若輩ではありますが、甲信両国の武士を与力として預かる上は、どんな剛敵と言えども
  防戦を致し、越度を避けねばなりません。心に及ばぬ所は、石原、孕石、廣瀬といった老臣たちと
  相談し、進退に道理を以て、諸卒をそれぞれに差し遣わさねばなりません。

一、どんな諸芸も習わなくては知らぬものです。それが戦の道であればなおさらな事です。
  その作法、方便、謀、進退、そういった事を知らずに行う合戦は、危ういものです。
  私は国を争う戦を度々行いましたが、その一度一度の勝負についての経験から、知らねば
  持つことの出来ない道理を獲得しました。そういう思いもあって、其方には三人の武功の者、
  そして合戦の場数を踏んだ武士たちを与力として預けたのです。
  この者達に二六時中(当時は一日を十二支で分けている)戦の道を尋ね、極め、武の事を
  心から忘れないようにして下さい。

右の条々について、油断があっては成りません。如件。

 徳川家康在判

    井伊万千代(直政)殿

(松のさかへ)

「赤備え」を井伊直政に預ける事に関して、徳川家康が直政に送った書状。
ほとんど守ってないような気がするが。



福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

2017年01月28日 09:19

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 00:43:19.86 ID:fICDsbzp
福岡侯の軍鐘を銅鑼に代る起り

 黒田長政が朝鮮で明兵の銅鑼を分捕った。
銅鑼の音が行軍にはちょうどよく、
従来の鐘はわざわざ一人に持たせていたが銅鑼はその人自らが持つもののため、
持つ人、打つ人の二人を兼ね便利というので、
これから長政の軍はみな二器〔鐘鼓〕を鐘に代えた。
よって今でも福岡侯は軍用の二器にはすべて銅鑼を用いるという。

市川一学の話である。

(甲子夜話)

逆になぜ他では銅鑼が流行らなかったのだろう?



548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 21:54:09.34 ID:0gRhgwwT
>>546
ジャーンジャーンジャーン
三成「げぇっ内府!」

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 22:21:07.78 ID:n0T35VGg
銅鑼と言えば朝鮮戦争で義勇軍という名の共産党軍は、
銅鑼鳴らしながら攻撃してきてアメリカ軍を恐れさせたとかw

三国志かよw

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:26:14.26 ID:GDrmIVte
阿片戦争で女性用のおまる使って
砲弾の軌道をそらせようとした清軍よりはマシだな

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/29(日) 23:42:59.96 ID:1xKiVCOY
>>549
銅鑼に加えて死兵なら恐れるのは当然だな、天皇万歳w突撃を想起させる

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 00:06:47.70 ID:E/grpkJH
しかし義勇軍とは、よく名乗ったものだ

武道については、これ、御覧なされよ

2017年01月27日 16:37

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 02:22:29.29 ID:bVYcwTXE
鳥居金次郎は不調法者で、御鷹狩りの御供をも勤めかねるということで、
権現様(徳川家康)は度々御叱りになられた。

その金次郎が長久手で首を取り黙っていた時、権現様は「そちは如何か、
仕合せは?」と、仰せになった。

その時、彼は、「私のことは御尋ねには及びません。鷹野こそ不調法で
ございますが、武道については、これ、御覧なされよ」

と言って、首を上覧に入れた。

――『武功雑記』



547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/28(土) 09:28:00.75 ID:7uxGVJ5X
>>544
三河者のテンプレみたいな話w

惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い

2017年01月27日 16:35

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 23:44:09.77 ID:h+IZe1XV
 大坂陣で蜂須賀(至鎮)の者の稲田九郎兵衛(植次)が若年での働きがあった。
それを聞いた権現様は
「惜しいなあ、九郎兵衛とは名が古い。幼名にすればよいのになあ。」
と上意されたという。

 九郎兵衛とだけ聞いても、年若な者の働きとは分かり難い。
名もその時に相応のものにするべきものである。


『武士としては』



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 00:02:29.67 ID:IMLDCitB
てっきりおかしな名前を名付けた話かと思ったわ

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 08:50:18.71 ID:UQlJ97ei
http://iiwarui.blog90.fc2.com/?mode=m&no=6672
見覚えがあるとおもったら徳川実紀が出典で出ていた
徳川家康「名前はよく考えろ」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/27(金) 09:44:27.72 ID:0W/94KwA
幼名は梶之助か。

三条三光院殿が十六歳の御時

2017年01月26日 15:05

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 22:28:30.78 ID:cLGF5vuf
 三条三光院(三条西実枝)殿が十六歳の御時、
禁中の歌会で”懐旧”という題が出たことがあった。
「何とも詠みにくい」
と言われると、
『歌の達人である彼でも苦手なものがあるのか』
と一同は皆おもしろい顔をするだけで、
若い彼のために題を取り替えようと提案する人は誰もいなかった。
そこで、

程近きわが昔さへこひしきに 老いはいかなる涙なるらん
「年若い私さえ昔を恋しく思うのに老人には昔はどのような涙になるのであろうか」


(醒睡笑)
若者いじめにも屈せず、見事やりかえしたちょっといい話




膳も飯碗も

2017年01月25日 09:23

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:04:30.02 ID:LDvcfYRS
伏見城にて豊臣秀吉が諸大名と雑談するとき、料理の出る時間と成ると、
ここには茶の湯坊主が10人ばかり居たのであるが、そのうちの3人から5人くらいが
給仕をした。

この時、秀吉の膳は掛盤であった。そして徳川家康も同じ掛盤。飯の鉢も秀吉のものと
全く同じであった。その他の相伴衆は普通の鉢と平膳。前田利家も家康と同じ組の
咄の衆であったのに、平膳であった。

徳川家康の膳は秀吉のものと少しも違わず、雑談のときも「家康公」と呼んでいた。

(慶長年中卜斎記)

秀吉の、家康に対する待遇についてのお話。



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:09:26.68 ID:Uf4J9IDv
これはかなり興味深い話だね

秀頼の件を考えると、「ちょっといい話」とは言いがたい気がするけど

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 22:56:41.64 ID:mdUNMSiV
妹を家康の嫁にやって秀康を養子にして江を養女にして秀忠の嫁にして秀忠の娘と秀頼が婚約して、
遺言の事とかも考えると秀吉は家康というか徳川を自分の一門と思ってたんじゃないだろうか。

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:18:03.47 ID:UecvBDf4
>>538
忘れられがちだが信吉は木下勝俊の娘を娶ってる。

隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

2017年01月25日 09:22

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:37:54.21 ID:4iYdPd+f
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。

 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。


(甲子夜話続編)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 00:15:15.04 ID:oMhVRivl
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

この根本を三好は推し量り

2017年01月25日 09:21

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 04:00:28.67 ID:CHjahkZO
佐々木承禎(六角義賢)は、三好のことを憎んで、「四国から異な者が
上り居て、威を振るうことかな」と、終いには三好追討のことを

公方に勧め、時に東山へ勢を出した。この根本を三好は推し量り、
松永(久秀)を大将として、公方を弑逆した。

承禎は家来の後藤という者の娘が、公方に近侍しているのを縁として、
公方に親しかった。

松永は三好の乳母に密通し、これを縁として三好は松永に親しかった。

――『武功雑記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 11:53:48.33 ID:8SvKVSKd
さすがゴールドフィンガー霜台さんやで

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 18:09:13.59 ID:ivLwVkKw
黄素妙論(震え声

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 19:09:47.99 ID:6U7WMmld
黄素妙論は道三が松永に渡した本だが
松永が書いた、という意味でなければスマソ

週間ブログ拍手ランキング【01/19~/25】

2017年01月25日 09:07

01/19~/25のブログ拍手ランキングです!


謎の手紙 19

”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし 15

晴宗は大身であることに奢り 12
三成は亭主として 11

「又左衛門は、まったく只者にあらず」 9
仙石氏の家紋 8

水野勝成宛消息 7
今大路道三養生訣ならびに狂歌 7
真田幸村の智謀 7

しかしながら、忠輝卿は 6
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事 6
池田輝政"せいひく舞"を舞う 6

高麗宗五郎。付吾国高麗町之事 3
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌 3
忠輝卿幽閉 3


1位は伊達政宗から水野勝成への書状について謎の手紙です!
伊達政宗といえばそれはもう露骨に油断の成らない人ですが、水野勝成も有名な傾奇者であり一筋縄で行く人ではありません。
その二人の書状のやり取りにはどうしても注目したく成りますね。
どんなことを指して言っているのか、たいへん想像が膨らみます。
しかしこの二人、大阪夏の陣では、追撃戦においてかなりガチでやりあっていたのですが、そのわりに仲良さそうなのがまたw
きっと、気は合うんでしょうね。そんな感じしますw

2位はこちら!”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし玉縄北条氏といえばもちろん、あの”黄八幡”北条綱成に連なる北条一門の武の名門です。氏勝はその孫ですね。
彼はその黄に染まった八幡大菩薩の旗を掲げ入城したわけです。
そういえば武田勝頼について、実は長篠の後、少なくとも高天神城落城の頃までは、むしろ勢力の回復基調に
ありました。昨今の勝頼再評価は、そういう面も含まれていますね。信長も最後まで勝頼を非常に警戒していましたし、
当時の感覚としては、武田の滅亡は「頓死」に近い受け止められ方をしていたようです。

今週管理人が気になった逸話はこちら!三成は亭主としてです!
わりと「コミニュケーションが苦手」的な印象を持たれがちな石田三成ですが、ここでは実に堂々とした亭主っぷりを
発揮しています。三成自身も茶人でしたし、こういう事の嗜みが、十分以上にあったことが伺えます。
ただ、この逸話の中にも出てきましたが、実に「重々しい」。いくら家康からの遣いといっても、ちょっと重すぎないか、
と思わなくもありませんwこういうのをみると、良くも悪くも「過剰」な面があったんだろうな、なんて想像したりします。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(・∀・)

三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね

高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

2017年01月23日 15:49

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 22:24:29.98 ID:5wYdkQtS
高麗宗五郎。付吾国高麗町之事

 三月二十三日の御沙汰書に、
焼火の間に若年寄の方々が出席され、
小普請高力丹波守組高麗宗五郎を表御台所に仰せ付けられたというのを見た。
予はこれから、この人はきっと隣域の号を名乗っているのは何か理由があるのだろうと思った。

 ある人に問うと、
この人はもとは朝鮮から帰化した家で、名字も「カウライ」と呼ぶ。
先祖が高麗の地から出たことによる。
本姓は朴氏であろうか。代々御台所人の家で御目見以上に至る者もいる。
今は上の勤めをしているとのことだ。
 またその元は帰化の人が日本流庖丁の伝授を受けたときの誓約文が、
御台所人の磯貝某の家が所持しているという。

 これについて、我が法印公(松浦鎮信)が朝鮮在陣の間に俘虜とされた者を、
帰陣の御時多く率いて帰られ、諸士勤番の賄いを調える奴隷とされたことを思い出した。
彼らは軽んじられたのであろう。
 この徒を一所に住ませた。人呼んで高麗町と言う。
予が在城していた頃までかの党は旧に依っていたが、
しだいにその恥辱を厭い、我が国の人の類に入ることを願うようになり、
今となっては、高麗の本種とは変わって調食は皆この国の賎夫が勤めることになった。
高麗と称する旨は同じだが、その内実は異なっている。


(甲子夜話続編)



水野勝成宛消息

2017年01月22日 17:17

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 19:49:01.33 ID:k/8ijvKT
水野勝成宛消息

http://gallery-so.co.jp/artistwork/%E3%80%8C%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90%E5%AE%9B%E6%B6%88%E6%81%AF%E3%80%8D
datemasamune_nagainaokiyoshosoku-1.png

伊達政宗から勝成への手紙といえば、こんなのもあるらしいが
俺には読めない
だれか偉い人翻訳してくださいな



仙石氏の家紋

2017年01月22日 17:15

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 20:42:58.70 ID:WWUVYInV
仙石氏の家紋

 仙石氏の家紋に桜の落花を九曜の如くつけたものがある。

 仙石氏の祖先に猷廟(徳川家光)が御幼稚のときに勤めていた者がいた。
ある日、猷廟が花筏の紋の御襖障子を御戯れに引き破られなさり、
直接その紋をその祖先の者が賜ったことから、この家紋が始まったという。

(甲子夜話)

あれ、センゴクの家紋って「無」と「永楽通宝」しか知らないぞ…

参照『九曜桜紋』
design_img_f_1625652_s.png



530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 21:14:32.97 ID:h7vHhvVy
>>529
新訂寛政重修諸家譜によると「丸に無の字」「永楽銭」「五三桐」「九曜桜」があるそうな。

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 17:28:57.25 ID:fOXl2f80
センゴク権兵衛よりあとだし問題ない

蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌

2017年01月22日 17:12

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 12:54:16.62 ID:CfuXCaQx
蜂須賀至鎮の手紙、名古屋城普請のときのはやり歌


[前略]
(名古屋城普請をする自分の"身のあさましさ"を長歌などで綴っている)


 此の頃常時思いに違はぬことは
一薪の高さ      一真桑瓜 聞いていたものと違ってあしきもの
一美濃鮎 昔からいいと言われているが、思っていたよりめでたいもの
一名古屋の井戸の浅いこと、井戸の水がいいこと、兎角ない物は若衆で
 普請の隙には編笠をきて、小屋垣の隙を覗き歩いても、その方に似て
 いるようなものは一人もいません。路地に水を打ち掃除して、お客を
 待っている者を、口を切りすぐに近づいて、目利きだというので是に
 金を出して知人にもなりましたが、衆道の目利きとはまことではあり
 ませんでした。数寄道具と若衆のような目利きは和尚に直に聞くべき
 なのでしょうか。
 [中略]
 自分のところには執心の人はいませんが、夕べさる方から習ったので
 名古屋のはやり歌を書き付けておきましょう。

 <たれか思ふ人は名古屋にござる、長の留守すれやしんくてならぬ
  えいえい、えいさらえいさらと石を引き、えいえいえいといふて
  引く間は夢だんべえな、えいとえいとゆて引くは亡い子かのといふた>

 若きも老いも口ずさんでいるので、是がないと浮世にはならないそうです。
 [後略]


――『徴古雑抄』



しかしながら、忠輝卿は

2017年01月22日 17:11

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 02:28:04.25 ID:lYSVfIwg
またある時、紀伊頼宣卿(徳川頼宣)が忠輝卿(松平忠輝)を御招きになり、
饗応があった折、いかなる故にか忠輝卿はとにかく機嫌がよろしからず、

頼宣卿は心配なさって自ら盃を進めるなどしなさったが、忠輝卿は酒も飲み
なさらなかった。ところが、頼宣卿が用事あって、正木小源太という小姓を

呼び寄せなさると、忠輝卿はその小姓・小源太を御覧になられて、頼宣卿に
所望なさった。これに早速、頼宣卿の御承知があったので、それより

忠輝卿は大いに機嫌がよろしくなりなさり、興に乗じて、側に有り合わせた
大砂鉢を取り寄せ、酒をなみなみと注がせて、2度まで飲みなさったという。

この小源太は後年に忠輝卿が将軍家(徳川秀忠)の御不審を蒙り、条々の
御咎めがあった時に、忠輝卿に切腹を勧め奉ったのだが、

忠輝卿は仰せになり「命さえあれば身はいかようになり行くとも、また面白き
こともあるだろう」として、切腹仕りなさらなかった。

しかし、小源太は強く切腹を勧めて、「私が御先を供に仕らん!」と言って、
忠輝卿の眼前で切腹して相果てた。しかしながら、忠輝卿は切腹仕りなさら
なかったので、小源太は犬死になった。

――『明良洪範』



536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 05:52:52.32 ID:cyXxn47K
ひでぇw

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 10:15:10.59 ID:CwRxEV7E
オチがあるとはw

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/22(日) 16:53:29.04 ID:x1e3RZKr
犬死にww

”八幡大菩薩”の大旗を差しかざし

2017年01月21日 10:29

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 22:32:00.52 ID:KtL+lcuT
天正10(1582)年、伊豆方面で武田氏に対していた北条方では、戸倉城主・笠原政堯の寝返りや
笠原平左衛門(照重)の討ち死にもあって士気の低下が著しく
小田原での評定により、最前線である大平城の守備を玉縄城主・北条氏勝と交替させる事になった。


氏勝の軍勢が箱根を越えた頃、大平城から使者が来て
「おのおの方が城番としてやってくる事を敵が聞きつけ、三島の辺りに伏兵を潜ませたとの風聞があります
ここは軍勢を迂回させて城に入るのがよろしいでしょう。このまま進んでもし不意の合戦になっては交替もできなくなってしまいます」
と伝えた。

それを聞いた氏勝は
「もっともではあるが、敵をも見ずに迂回して城に入るようでは、戦う前からすでに相手は弱いと敵に知らせるようなものだ。
たとえ武田方が軍勢を配して待ち伏せしていたとしても、蹴散らして通るまでだ」
と答えて、”八幡大菩薩”と書いた大旗を差しかざしてまっすぐ大平城に向かい、やすやすと城兵の交替を済ませてしまった。

(小田原北条記)より


実際に伏兵がいたのかはさておき、兵書に言うところの
「正々の旗は邀(むか)うることなく、堂々の陣を撃つことなし」という感じの話



脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

2017年01月21日 10:28

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 00:58:12.25 ID:WWUVYInV
脇坂氏之先、裏切叛逆に非ざる事

 予は若年の頃は脇坂氏〔竜野侯〕の先祖が関ヶ原で裏切ったことは反逆ではないかと思っていた。
しかし中年の時にかの侯の画工外内(トノウチ)某と懇意になったおりに、
彼の口から
「侯の家には、関ヶ原の陣のときに予め神祖から裏切りを仰せられた御自筆の御書がありまして、
かの家では至重の物として、年々虫干しには出して主人から諸役人までもそれお拝見しておられます。」
との話がでた。
若年の頃に心得たことは違っていたのだとと、老後になって思い出した。
そこで諸書を引いてなお証拠とする。

 『藩翰譜』によると、
「安元〔淡路守〕の父〔中務少輔安治〕が代わりに軍勢を引率し奥州へ向かった。
上方に軍がまた起こり道路を塞いでいたので近江路から引き返し、
東国〔神祖の御坐所の小山〕に使いを送らせ、山岡道阿弥入道に取り次いでもらった。
父子共に西におり、そこで裏切りましょうと申したので、
神祖は御消息を与えてその志を感じられた。
関ヶ原の合戦の時父子共に敵を破って御陣に参り、また佐和山の城を攻め落とした。」

 『武家事紀〔山鹿素行著〕』によると
「安治は、朝鮮征伐のときも船手運送の自由を司り、後には加羅嶋の番船を乗っ取り、
秀吉から感書を貰った。
関ヶ原役に逆徒に与したが、後に藤堂高虎に取り次いでもらって裏切りのことを告げた。
これから本領を安堵した。」
この書の『戦略』の項には
藤堂高虎は脇坂や朽木等の裏切る気持ちがあるとかねて知っていたので、北国勢の方へ出向かった。〔中略〕
秀秋は〔これも裏切りである〕が大軍なのでこれを相手にはせず、
北国勢の軍と入れ替えながら戦い、京極高政以下の彼らと手向かっている味方を妨げていたところに、
脇坂小川赤座朽木が一同に裏切ったので北国勢は立足もできず敗北した。」

 『国史〔渋井孝徳著〕』には
「安治は会津の役では子の安元に軍を従わせたが、三成の謀反に出会い道が通れなかった。
大津侯に従って敦賀に行った。山岡景仲、藤堂高虎に書を遣わし、全く背叛するつもりはないと言った。
大谷吉継は秀秋が変を起こさないか疑い、
安治、朽木元綱、小川祐忠を松尾の東に移して秀秋に備えた。
しかし安治等の謀は知らなかったので秀秋は吉継に打って出た。
二戦二敗し安治等のためにすきをつかれ吉継は死んだ。
その勢いのまま大勢の軍を攻めた。それはまるで河口を絶つ板のようであった。
十年後に大洲に封を移した。明年、家を江戸に移した。」

これらの文によれば、今の鴻臚中書(寺社奉行・中務大輔/脇坂安董のこと)の
国家に媚びる体の寺政も、祖先の志を継ぐものであろう。

(甲子夜話三篇)



晴宗は大身であることに奢り

2017年01月20日 16:45

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 12:52:13.09 ID:Q8kJutz3
天文11年、伊達晴宗はその父・稙宗を西山城に幽閉した。晴宗はそれ以前の稙宗の行動に懲り、
彼を幽閉した座敷の廻りを厚い板で釘付けにし、食物を出す口ひとつだけを開け、番の兵士により
厳しく監視させた。

この状況に、懸田義宗などの一族衆は晴宗に対し申し上げた
「稙宗様との仲については、去年の遠征の時に晴宗様に御異見申し上げ、無事に取扱になったはずです。
であるのに、突然その約束を変じてこのような不義を成すとは、先の取扱に協力した相馬などへの
聞こえも宜しからずと存じます。」

そう言葉を尽くして異見したものの、晴宗は屈せず、「こうなった以上もはや変えられない」と
拒絶した。

一族衆は話し合い、懸田俊宗・義宗父子より相馬顕胤に、晴宗を説得してもらえるよう使者を遣わした。

相馬顕胤は自身で出馬し、14,5騎、上下70名ほどで晴宗の元に出向き、稙宗の幽閉を解くよう、
相馬方の老臣たちと伊達家の老臣たちとの間で議論を重ねたが、顕胤の訴えを晴宗は受け付けず、
晴宗からは顕胤にこう言った
「貴方から何度承っても、この事について従うことは出来ない。貴方が長々とここに滞在されるのも
無駄なことであるから、早々に帰館されるべきだ。」

顕胤はこう返答した
「御心底が変わるまで、この地に滞在し訴訟申す他ありません。」

しかし後には、伊達家の家臣たちすら顕胤からの遣いを受け付けることすら拒否するように成り、
申し出自体が不可能になった。
これに顕胤は老臣たちに

「晴宗は大身であることに奢り、去年の約を変ずるのみならず、父兄の礼を致しても取り合わない有様
である。この上は晴宗と運の勝負をするしかない。相馬の人数をあつめよ。」

そう下知したのである。

(奧相茶話記)

天文の乱(洞の乱)に至るお話



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/20(金) 23:45:05.76 ID:MPgyUaul
武田といい伊達といい、遺伝子に欠陥でもあるのか?

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 01:00:00.58 ID:eT8dTXut
親子喧嘩はたいていどこでもやっとる
命を取られんだけでも有難いじゃろ

今大路道三養生訣ならびに狂歌

2017年01月19日 18:24

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 22:22:44.68 ID:I6IZ9lVa
今大路道三養生訣ならびに狂歌

林氏(述斎)の話であえう。
猷廟(家光)の御時、名人と呼ばれた今大路道三に養生の訳を御尋ねになられた。
道三は即座に一首の狂歌を吟じた。

養生は無欲正直火湯(ヒユ)だらり 心のままに御屁めされよ

なるほど、飲食や男女の欲をはじめ、人身を損なうものは皆自分の欲から起こることが多い。
意を正直にすれば心労することはまったくない。
譎詐謀計は様々のことから自ずから思慮を悩ますものだ。
火は火に当ること、湯は入浴のことで、
強い火に当ってはならない、熱い湯に入浴してはならないということだそうだ。
だらりはその時の俗言であろう。

人々はよくこの歌を守ったら、養生の術は足りるはずである。

(甲子夜話続編)



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:14:56.29 ID:gYce28W1
>>524
今大路道三といえば秀忠の信頼厚い名医だけど、上洛中の秀忠、家光に従っていたところ、崇源院(江)の重篤の一報で
急遽江戸へ帰還するも、自分が病気になって到着前に死んじゃったんだよね。
死去した日は崇源院の数日後だから、元気でも間にあったかどうかわからないが。

状況的に、医者の不養生とはちょっと違うかな。

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




謎の手紙

2017年01月18日 10:11

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 20:20:58.62 ID:hCLw+O8A
謎の手紙

伊達政宗は、権力者に取り入るのが上手である
それは天下人だけではなく、天下人の取り巻きにも媚びを売るのが上手だからだ
ということで、政宗は、家康の取り巻きである水野勝成にも、いろいろと媚びを売っていたらしい。政宗から勝成へのお手紙が三通残っているとのこと。

・冬の陣の陣立てのときに、政宗が勝成に「そっちはいまどこですか、うちは枚方に明日つくかなってかんじです」という書状とか。

・平和な江戸時代にも、政宗は勝成に「鷹狩りいかない? だれか一緒つれてきてもいいし」というメールを送っている。

まぁ、これはいいのだが、不思議すぎるメールが一通ある

政宗文書番号1598
 慶長19年12月21日付
 ちなみに大坂冬の陣の和睦が、慶長19年12月20日。つまり、翌日、政宗から勝成に出されたお手紙。

かの牢人にお手紙を書いてくれてありがとう。なお重ねて様子を教えて。
いま岡山にいく途中なんだ。

意訳するとこんな感じらしい

かの牢人ってだれ?
勝成は大坂城内の牢人と連絡する手段を持っていたってこと?

空想が広がるお手紙である



518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:04:41.00 ID:/3OBSLpx
又兵衛じゃないの?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 22:16:37.51 ID:/3OBSLpx
宮本武蔵じゃね?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:50:36.50 ID:DYIdIhBH
岡山つながりで明石とか

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/18(水) 19:42:55.94 ID:gHO+4z/w
>>517
今回の、第11話『この想い届け☆八丈島にっ!』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
次週最終話『ひどくない?江戸幕府って修羅の道なんだよ?』もお楽しみに!!

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 21:50:48.88 ID:BFUgJEUg
>>522
まーくんは八丈島のあの人にも手紙書いてたのかw

池田輝政"せいひく舞"を舞う

2017年01月18日 10:09

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 09:25:57.67 ID:hBfDZdGf
池田輝政"せいひく舞"を舞う

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7820.html
↑の話の微妙に違うバージョン

輝政卿と同輩の大名が宴会の座にいるとき
輝政が矮人であることを笑うものがいたので、(輝政は)
「それならば自分は矮舞という新曲をやろうではないか」
と急に立ち上がって、自らせいひく舞を見さいなと打ち返し囃して
「播磨備前淡路の三カ国の主なので"せいひくし"とは思わない」
とうたいながら舞ったので、座中が興に入ったと言い伝わっている。


――『思ひ出草』



真田幸村の智謀

2017年01月18日 10:08

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 19:09:15.70 ID:qJMrCMga
真田幸村の智謀

上田籠城の時、織田、徳川、北条の三将、二十余万の大軍を以て百重千重に取り囲み、水も漏らさぬばかりに
ヒシヒシと取り詰め、哀れ上田城は粉々に踏み崩されんとしていた。
これには流石の真田昌幸も、城兵僅かにニ千余り、今は防御の術も尽き、如何にすべきかと思案し、苦慮して
いた所、倅の幸村、当年十四歳であったが、彼が『鶏卵煎り砂の謀計』を考えだした。

彼は鶏卵を二つに割り、中身を取り除いてこの中に煎り砂を入れて合わせ、水に浸した紙を割口に巻いた。
これを数万作り出し、それぞれの櫓に十籠、二十籠づつ取り備え、寄せ手を遅しと待ち構えた。

頃は天正十年三月二十五日の朝(ちなみに実際の第一次上田合戦は天正十三年閏八月である)、
織田徳川北条の軍勢はどっと鬨の声を作り押し寄せ、鉤縄打ち掛け勇みに勇んで攻め立てた。
城中よりは「時分はよし」と、件の鶏卵を合図とともに投げつけた。

兜面頬があっても、当たれば砕け、煎り砂は兵士の眼に入り、さしもの勇者たちも暗夜をたどるに
異ならぬ有様。城中よりはこれをみすまし、「時分は良きぞ」と、松本口の織田勢には真田源次郎(信之か)、
軽井沢口徳川勢には隠岐守信尹、笠ヶ城北条勢へは与三郎幸村、何れも三百余人を率いて鬨を作り
攻めかかれば、盲目に等しい寄せ手の面々は戦うことも出来ず、我も我もと敗走し、同士討ちするものも
あり、踏まれて死ぬものもあって、二十余万の大軍が、雪崩掛かって落とされたのは、たいへん見苦しい
有様であった。

この状況に信長は、如何にすべきかと思慮を巡らしたが、今だ良き工夫もつかぬ所に家康が現れ、
「鶏卵煎り砂の目潰しを防ぐためには、竹束を以て盾とし、鎧の袖を額にかざすより他、術がないでしょう」
そう献策した。
これにより夥しい竹束を用意し、またもや押し寄せた。

しかし幸村は「煎り砂に懲り果てた敵兵は、今度はこれを防ごうと竹束の盾を必ず用意してくるであろう。」
と推察しており、あらかじめ多くの投げ松明を用意していた。
果たして先手は竹束を束ね、、後ろに太い棒を取り付けた物をひっさげ、目潰しの鶏卵が今や降ってくるかと
待つ所に、城中は静まり返って音もせず、寄せ手充分に近づいた所で、一発の銃声が響くとともに、三方の
櫓より松明が投げつけられた。
すると油を注いだかのように、竹束はみるみるうちに燃え上がり、寄せ手の者達驚き騒ぎ、消そうとするも
うまく消火もできず、散々となって我先にと敗走した。

(芳譚)

何故か甲州征伐とごっちゃになっている上田合戦のお話



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:13.13 ID:n+P9kTbE
>>527
鶏卵数万w

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:11:38.99 ID:/3OBSLpx
幸村が活躍するなら、そんなことはどうでもいいんじゃないの
物語なんてそんなもんでしょw

忠輝卿幽閉

2017年01月18日 10:07

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:39:20.20 ID:3YTafbkP
越前少将忠輝卿(松平忠輝)は性質剛強にして武芸に達し、猛勇の大将であるが
思慮は浅く、大坂夏の陣の時に大和口の総大将に命ぜられながら、

軍場へも御出にならず、その他条々の御不審を蒙り、飛騨国へ配流されたのだが、
その後に信濃諏訪の高島城の南の丸へ移された。

この城は三方に湖水、一方には大沼があった。その中に縄手があって、左右には
柳があったため、“柳縄手”という。南の丸は本丸の下で、一方口であり湖水の端
である。館の外には塀があって塀の上には忍び返しを付け、その外に二重の柵を

付けて、柵の間は30間に1ヶ所ずつ番所を立て、昼夜番士を置きなさり、半時毎
に見回った。その厳重なことは、いかなる故にかと不審に思う人もいたという。

忠輝卿へは1ヶ年に金3百両、米3百人扶持が将軍家から御合力された。城主の
因幡守(諏訪頼水)からは、薪千駄ずつが差し上げられた。また参勤帰城や年頭
の礼として1ヶ年に2度、因幡守は南の丸に至って、御目通りがあった。

忠輝卿も1ヶ年に1度は、因幡守の館へ御出になったということである。忠輝卿は
御存生中、大坂の陣の御話しは1度もなさらなかったということである。

御預けの期間は50年余りになるから、御子も多く御出生したが、1人も柵から外
へ出さず、皆柵の内で相応に婚姻なさったということだ。忠輝卿は、御背丈は高く
もなかったが、眼は大きく御顔色は恐ろしく見え給うた。

――『明良洪範』



週間ブログ拍手ランキング【01/12~/18】

2017年01月18日 09:38

01/12~/18のブログ拍手ランキングです!


豊臣秀次の最期 26

日光一文字刀之拵注文 25

名人久太郎 13
秀次妻子の処刑 13
松阪城の歴代城主に服部一忠ってのが居た 12

高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事 8
一段の事である。そのまま夫婦にせよ 8
朝鮮攻の節、香蘇散の験 8

池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件 7
白熊の引きまわしなどでは、 6
快事 6

鎌倉光明寺勅額裏年号之事 3
鳥居家に似合わぬ軍法かな 2
門は、上総主が。家は松平筑前守が 2


今週の1位はこちら!豊臣秀次の最期です!
秀次の最期と言えば、昨今「勝手に切腹した説」なるものがあり、去年の大河「真田丸」でもその説を採用していましたが、
個人的にはあの説は納得出来ないと考えています。秀吉は秀次の切腹までに、秀次の重臣である白江備後守、熊谷大膳を
切腹させ、秀次を弁護した木村常陸介を斬首し、その首を秀次に送りつけています。何れも秀吉の強い怒りこそ感じますが、
秀次を助命しようなどという甘い考えは全く見えません。
この逸話の中で秀次は、実に堂々とした切腹をしていますね。この「石田軍記」は石田三成の陰謀を強調する軍記物なので、
その陰謀に陥れられた秀次を立派に描くのは、ある意味コントラストを際立たせる作劇上の演出ともいえるのでしょうが、
これに続く秀次妻子の処刑の話もそうですが、悲劇的な最期を迎えた人々の死に様を立派に描くことで、せめてもの供養と
しているのではないかな、なんて思いも抱いてしまいます。

2位はこちら!日光一文字刀之拵注文です
黒田家伝来の名刀、日光一文字、圧切長谷部、安宅切の拵えが同じ、というお話。黒田忠之はわりと変人っぽい感性を
感じさせることのある人ではありますが、この話は黒田家の刀剣を、黒田ブランドに統一しよう、みたいな思いをちょっと
感じさせてくれます。
そういえば某ゲームの衣装は、拵えのデザインが反映されているのですね。そういう所、やはり嬉しくなっちゃいますねw

今週管理人が気になった逸話はこちら!池田家臣伊木豊後と若原右京の衝突(未遂)事件です!
こういう事件に、戦国間もない世間の殺伐さ、というのを感じるものなのでしょうが、これ以前の室町期などの歴史を知っていると
「合戦に成らず丸く収まっている!」
ということに驚くかもしれませんw室町期にこんなことがあったら、主君がどうあろうと、双方が家の子郎党を集め武力衝突に
至ったと確信を持って言えます。その視点からすると、殺伐とした世相というよりも
「武士は戦国を経て文明的になったんだなあ」
という妙な感慨を持ってしまいます。そんなことを思った逸話でした。


今週も各逸話に、たくさんの拍手を頂きました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )