山下金之助

2017年02月28日 08:10

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:11:55.34 ID:KKvYoxvy
山下金之助

 幕府旗本の人々はいずれも旗本となった由縁がある
広く聞いたらさぞ名家が多いのだろう。

 林子(林述斎)は近頃、山下金之助と女子の結婚を仰せつけられた。
その家を林子に問うと、
その家の家紋は三頭の左巴、または井桁を用いる。
井桁の家紋は神祖から拝領して、殊に重用しているという。
 そのわけは、神祖が駿府にございました時、
御狩の御供をしていると、大猪が出てきて皆狼狽した。
そこへ山下は刀を持って猪に対面し、井桁に押し付けて仕留めた。
その後継を間近でご覧になられて、
御感賞のあまり着られていた紫縮緬御紋付の御陣羽織を脱がれて手ずから贈られ、
かつこの後に井桁を家紋とせよとの上意があったのでこれを用いたという。
その御陣羽織は今も家に秘蔵しているという。

元祖は綱義。弥蔵、または文十郎と称し、広忠公に奉仕し、安城で討ち死。
二代は義勝。弥蔵、または庄大夫と称し、神祖に奉仕し、関ケ原、大阪両陣をお供した。
三大は周勝。弥蔵と称し、父とともに両陣をお供した。
その後、駿府の御狩にお供した人である。
このひとから金之助は七世の孫という。

(甲子夜話)



684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 12:50:10.89 ID:SjJ0ReA5
井桁の家紋か
いいかもん
いいかもん

685 名前:人間七七四年[sagr] 投稿日:2017/02/27(月) 20:01:18.80 ID:B7XqD9oS
今じゃ!
>>684の頭上に熱々の糞尿をぶっ掛けるのじゃ!
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この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

流石長慶とも言える武将としての優美さ

2017年02月27日 18:30

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:04:36.36 ID:h109Njvy
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。

三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて

『古沼の 浅き方より 野と成りて』

と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は

「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」

そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。

最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。

これは浮説である。長慶の事こそ事実である。

その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。

伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。

(翁草)



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:53:31.13 ID:yHclo49x
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

今川義元。足みじかく。胴ながく

2017年02月27日 18:29

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』



618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

熱川温泉は猿が温泉に入っているのを

2017年02月27日 18:28

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 23:35:57.60 ID:lnr7vVWg
道灌公と猿
http://i.imgur.com/h8LjG3u.jpg
h8LjG3u.jpg

折檻された例のイタズラ猿かと思ったら、
熱川温泉は猿が温泉に入っているのを道灌公が見つけて開湯されたとの事。



682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 09:57:29.60 ID:3PJYeBvg
信長と若き日のラスボスでも通用しそうだな


.....なわけない

松平家信「若輩とは十二、三歳の事」

2017年02月26日 11:24

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 10:10:07.86 ID:78MbwluU
 家康公と秀吉の御合戦の時のことです。
秀吉方から天正十二年四月に三河へ攻め込もううとしていたので、
家康公は急いで小幡へ赴かれました。
この時松平紀伊守家忠もお供されていて、
彼の嫡子の七郎家信(後に紀伊守と号す)も、父に従って出陣したいと言った。
しかし、

「今、お前は若輩である。
三河が空くので、留守をよくせよ。」

と言ってお供は許さなかった。

「若輩とは十二、三歳の事です。
勇士の子が十六歳になっても軍役を勤めないのは古法に遅れています。
是非お供させてください。」

と願うが父は許さず留守に置きました。
 しかし家信は家来を二人を召し連れて後から出て家康公の御陣所へ行き、
本多弥八郎正信(後に佐渡守と号す)を頼って始終の事を言い上げました。
その話に正信は感じられてすぐに御前へ召し出されることなりました。

「武具を持っているか?」

と御尋ねがあると、

「ようやっと家来二人を召し連れまして体で、
その上父の家忠が深く制されましたので、
所領の形原を逃げ出しましたが武具は持っていません。」

と申し上げ、朱塗りの御鎧を下されたそうです。

 その後、既に先陣にいた大須賀康高の陣脇から家信が抜け駆けして名乗り、
秀次の物頭野呂孫太夫の大剛の兵に槍で突いて首を取り、
采配に添えて、家康公へ実検に入れました。
家康公はこの武勲に甚だ厚くて感じられ、家信は御感状をもらったそうです。


『武士としては』


羽織についての事

2017年02月26日 11:23

612 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:33.58 ID:ORS48Def
山名禅高があるとき、所々破れたいかにも古い、黒き羽織を着て御所に出たのを、大御所徳川家康が見て
「禅高、その羽織は?」と尋ねられた。禅高は袖をかき合わせて
「これは満松院殿(足利)義晴公より拝領したものです。」と申し上げた。
家康はこれを聞くと
「流石は山名殿である。返す返すも殊勝なり。」
そう御感賞された。

これは岩淵夜話に有る話であるが、有る人が言うには、羽織はことさら近年のものである。
初めは中元以上の者達が、ばさら事の伊達に、稀に着たものであったという。
それがこの頃に至っては、上下ともに礼服のように揃って着るように成り、公の場においての
時服拝領などでも、羽織が添えられるようになったが、それはここ百年ほどの事であるそうだ。

613 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/25(土) 22:54:53.32 ID:ORS48Def
私の記憶では、七十余年以前の私が幼かった頃までは、武家において子供に羽織を着せることはなかった。
ただし町家などでは振り袖の羽織を着せていて、私もこれを羨ましく思い、親にせがんだ所
「士の子は袴だけでよろしい」と、古風であった私の父母は、どちらもこれを許さなかった。

その当時の老人たちはこう言っていた
「我らの若き時分までは、羽織を持っている人は稀でれあったし、普段から着ている人もおらず、
花見遊山と言った時に着ていただけであった。今のように成ったのは常憲院殿(徳川綱吉)の御代よりの
風俗である。」

このように見ていけば、羽織という物が世に現れたのは全く近年のことと見えるが、またこの逸話の内容が
真実であると見た場合、二百余年以前より羽織という服は存在したが、民間には広まっていなかった、
そう考えるべきであろうか。

(翁草)

言外にすげー言いたいことを感じる翁草の記事



614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 00:15:40.67 ID:Lr6URigv
翁草の作者って割とこういう分析コメント好きだよな

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 04:34:54.64 ID:5ya2q+nv
褌みたいなもんか

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 08:11:04.60 ID:yHclo49x
庶民なんか普段は褌してなかったりするからな

居間に有る屏風を取り寄せよ

2017年02月25日 11:36

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 20:59:10.07 ID:qLdh8+pc
 駿府城の東北横内町御目付巡見場所、
御朱印二十一石余りの浄土宗来光寺(来迎院英長寺?)の庭には、
神祖自ら接ぎ換えた桃が有る。

 また宝物として神祖から拝領した屏風が有る。
絵は唐児遊、極採色は土佐の筆という。
これは昔神祖が御入のときに、碁を打たれていたが、
折りしも寒気が甚だしかったので、屏風を立てよとの御意見された。
しかし屏風が無いとのことを聞かれると、
すぐに御居間に有る屏風を取り寄せよと仰せられたという。
それから今でも待ち伝わっているのだとか。

(甲子夜話)


奈良かしや この天下殿二重取り

2017年02月24日 17:27

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/24(金) 00:20:47.23 ID:rjLhinUl
秀吉公の御時、「ならかし」と言う事があった。金を貸し出した金融業者は、元金を失った上に、
なお放埒な営業の罪が軽くないとして、罰金として再び黄金を提出させられた。
そこでこのような落首が出た

 奈良かしや この天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 (奈良貸しで秀吉公は黄金を二重取りされた。なんという狡猾な人であろうか)

  ※ねだれ人:色々な計略、策を用いて人に損害を与えようと他人を欺く人、狡猾な人【日葡辞書】
(醒睡笑)

この「ならかし」、はじまりはこういうものであった

『奈良中へは大納言殿(豊臣秀長)より金子一枚を代米四石ずつにして、一万石ばかり町々へ借用。
押してかくのごとし、金は来年の春に取るべきよしなり』
(奈良において豊臣秀長は金子一枚を代米四石とした上で、米一万石を奈良の町々に貸し付けた。
その利息を来年春に「金」で支払うようにとした。」
(多聞院日記天正十七年十月五日条)

つまり秀長が、奈良の金融業者を通じて人々に米を貸し付け、その利息を金で受け取っていた、
という事である。
しかしその結果、天正二〇年九月二日付「奈良惣中」より秀吉側近、木下半助(吉隆)、
山中橘内(長俊)にあてた直訴状の第四条によると

『一、大光院様(豊臣秀長)は御金五百枚あまりに利息をつけて奈良に御貸しなされました。
しかし、毎月利子を銀子にて、奈良奉行の井上源五殿は過分に徴収されました。
しかも井上源五殿は私的な金二百枚あまりも、これも大光院様の御金であるとして、奈良中に
貸し付けられ、ここからも過分の利息を取られました。』
(庁中漫録)

奈良においてはこの借金のため、殺人事件や一家心中が起こるなど、社会問題化していたという。
そしてこの直訴の結果は

『直訴のさまは、ことごとく地下人の勝ち』
(多聞院日記天正二〇年九月八日条)

となり、これにかかわる奈良の金商人(金融業者)が尽く牢に入れられた。
しかし訴訟した者達も一時的に牢に入れられ、また奈良奉行の井上源五には何の処分もなかった。

ところでこの「ならかし」で、何のために資金が集められたのか。
天正二〇年十月十日、豊臣秀吉より、豊臣秀次宛の朱印状にこうある

『一,今度奈良借について出だしそうろう金銀、これらをも右の船(安宅船)の用に入ること
そうらわば、あい渡すべきこと』
(今度の奈良借しで得られた金銀について、安宅船の建造に必要であればそちらに流用するように)

「ならかし」で集めた金銀を、秀吉の「唐入り」のための、軍船建造費に使うように、との内容である。
ここで「ならかし」が、秀吉の政権による施策であったことが判明するのである。
金融業者たちを牢に入れたのは、責任を彼らに転嫁するためであったのだろう。

以上、醒睡笑の「ならかし」の逸話と、それについて、河内将芳 著「落日の豊臣政権」のより、解説を抜粋。


伊東家による宮崎城攻め

2017年02月23日 10:18

668 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:37:40.04 ID:KEyHajol
当家(伊東家)が(西軍についた高橋家の飛び地の)宮崎城を攻めるという内容が島津家に届いた為、(島津領の)穆佐、倉岡、綾、木脇の諸将は会合して「もし本当であれば佐土原と申し合わせて宮崎城に援軍を出し、その勢いのまま(伊東家の)清武城を攻め取ろう」と佐土原に伝えた。

佐土原もまた同様に評議して軍を準備しているところに宮崎城が落城したという内容が届いたので途方に暮れる限りであった。

縣(延岡城)の高橋家でも家老の花田備後守が宮崎城での急を聞いて不安に思ったので加勢として士卒雑兵合わせて300人余りを向かわせた。

しかし穂北村に到着した夜、宮崎城が落城して城代の権藤父子を始め城兵が残らず討ち死にしたという報告を聞いたので肩をおとして空しく引き上げた。

669 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 23:38:12.24 ID:KEyHajol
掃部助(稲津重政、伊東家の家臣)が考えたように、陣立てに時間がかかり宮崎城が一日持ちこたえるようなことがあれば、敵の援軍が次々と競い集まり容易に攻め落とすことは難しかったはずである。

掃部助の用兵は雷風の速さのようで、神速で攻め寄せた為に狙い通り僅か子の上刻から卯の上刻(23時から5時)までの間に城を攻め落とす大功を成した。

特に夜襲であれば必ず同士討ちがおこるものなのに雑兵に至るまでその誤りが無かったのは、朝鮮の陣以来伊東祐兵公が士卒と辛苦を共にし、家中の士もまた今一度主君を一国の主にしようと各々勇を奮い立たせ一致団結した為に巧みな駆引をしてこのようになったのだ。

黒田如水の検使、宮川伴左衛門も
「掃部助の軍略は言うに及ばず家中の諸士の勇敢なる振る舞いは筑紫の立花家の家風によく似ている」
「島津は大敵といえども恐れるに足らず。この旨を帰国して如水様に申し上げなくてはならない」
と褒め称えること限りないこととなった。

(日向纂記)

関ヶ原の裏で起きた伊東家による宮崎城攻めとそれを如水の検使が評して


獄司所用の鑓之事

2017年02月23日 10:17

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/23(木) 07:41:29.69 ID:NtmEGZmh
獄司所用の鑓之事

 概して人へ刑罰をおこなうとき、獄司が用いる槍は柄が朱黒の段塗である。
予も引廻し晒し者に行きかかったときに度々見た。
宗耕が言うには、磔罪のときもこの槍で突くという。
 さて、この槍は初めは福島左衛門(正則)の家の槍であったが、
故あって何者かの物となり、それより獄司に転じたという。
その次第は聞いたが忘れた。
福島は違っていないはずだ。

(甲子夜話三篇)


森川重俊の殉死、それに纏る事ども

2017年02月22日 21:32

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 21:11:47.83 ID:CscOQyRT
森川出羽守重俊が、徳川秀忠の薨去に付き殉死する時、息子伊賀守重友以下、親類を招き集めて
庭訓した

「弓矢の臆れは少しでも大事になってしまうものだ。先年、大相国(秀忠)が独座されていた時、
ため息をされたのを御次の間にて承り、「これは天下の大事でも起こったのか」と胸騒ぎしたが、
その後御機嫌を伺った所、先のため息について「真田表のことは…」と仰られた。
あれ式の事さえ、相国様は御身の臆れのように思われていたのだ。

汝ら、構えて自余の事は愚かであっても、武士道の規範を外れ、軍法を破ることなどは、殊に
不忠の第一であるぞ!」

そう遺言して、秀忠の御供をした、

この時、徳川家光は側の者達に「出羽守はどうした?」と尋ねた。殉死した旨を申し上げると
「とても生きては居ないだろう。もし存えていればいいのだが。」と言った。

これを承った人々「これは興味深い御言葉である。どういう理由であのように言われたのだろう?」
そう不思議に思っていると、古くから仕える人が言った

「その事だが、かの出羽守は昔、新将軍(家光)が未だ幼少の頃、いたずら遊ばされた時に、
拳で殴りつけたことがあったのだ(拳の障りし事ありし)。その時家光公は
『これを覚えていろよ!』とのお言葉を発せられた。それは御幼少ながら甚だ鋭いものであった。
もしかすると、その事について言われたのではないだろうか。」
そう推測した。

(武野燭談)


不服秀吉異見条、間柄不快。

2017年02月22日 21:31

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 04:00:20.62 ID:LKwAbEd0
この年(天正2年)、近江国鎌刃の城主・堀次郎(秀村)と、同じく樋口(堀氏家臣)
が御改易となる。

その詳細は、木下筑前守秀吉と協力していたが、小谷落城以前の秀吉は5万石、
堀次郎は10万石の領主だったので、秀吉の意見に服さず、関係が悪かった。

近年、浅井へ内通した旨が秀吉より言上されたので、このような事になった。

(其子細木下筑前守秀吉同心たりしが、小谷落去以前は、秀吉は五万石、
堀二郎は十万石の領主たるに依て、不服秀吉異見条、間柄不快。近年浅井へ
内通仕候由、秀吉依言上如此)

――『当代記』



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/22(水) 09:46:36.86 ID:3POQtBKt
手取川の戦い(小声

週間ブログ拍手ランキング【02/16~/22】

2017年02月22日 21:22

02/16~/22のブログ拍手ランキングです!


鼻の色はかはりにけりな異な面に 42

思う事 一つ叶えば又二つ 17

これが武道の眼つよみ第一 15
井上正就、及びその父のこと 15
自身の大水牛の立物にも 13

あのようでも良きことがある 10
武であるのに嗜みをしないこと 10
家蔵、山科弓 9
かの国に我が軽便なる仮名文を 9

喜多見殿はいつから鼻付を 8
宇喜多秀家流罪に及びしこと 8
嘉隆の運命のほど 8
産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠 7


今週の1位はこちら!鼻の色はかはりにけりな異な面にです!
忠恒はの、中学生並みのイタズラと、侏儒どんの見事な切り返し。これに限らず徳田太兵衛の逸話には、
なんとも不思議な空気感が有りますねwかなり冷酷なイメージのある島津忠恒も、徳田太兵衛の前では
悪ガキに戻れる。そんな関係だったのかなあとも感じますね。
薩摩という土地は、良くも悪くも殺伐さが特徴的な面があるのですが、この侏儒どんの逸話は、そんな薩摩の
違った面を表してくれているように思います。

2位はこちら!思う事 一つ叶えば又二つです!
南龍公、徳川頼宣の逸話ですが、家康の子供の中でも、特に豪傑の感が強い人物であり、この逸話も
そんな豪傑性を強調しているのですが、そんな彼でも、このように「望みを果たそうとすると、きりがないものだ」なんて、
諦観めいた歌を口ずさむとは。その対比が面白い逸話だなあ。なんて感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!自身の大水牛の立物にもです!
細川忠興は「兜の立物はあえて壊れやすく作るものだ」なんて言っていましたが、こちらの黒田長政は真逆。
「抜け落ちないようにしっかり固定しろ」と言っています。
こんな事でも基本的な思考が違うのか!と、少々感動してしまいました。これは仲が悪くて当然ですねw
もう思想の方向性が噛み合わない。
黒田家と細川家が対立したのは、ある意味宿命だったのだなあ。そんな事まで感じさせてくれた逸話でしたw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

それから、左のカテゴリ、主家以外の家中をアイウエオ順に並び替えました!もうずっと増えるに任せて放置してきましたが
さすがに分かりにくすぎるということで、なんとか改善(?)してみました。
多少なりともこのブログが皆さんに使いやすく慣れば、幸いです。

これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。m(_ _)m

喜多見殿はいつから鼻付を

2017年02月21日 15:34

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 20:44:21.16 ID:irJFtKFm
煙草というものは、我朝には文禄の末頃渡ってきたという。これは火を使ってこれを吸うので、
火を玩ぶこと常である。煙草を好む者は火の元をも忘れがちなことを嫌われ、営中においては
これを禁じられ、その法度を犯す者は必ず罰せられる事となった。

さて、幕府老中であった堀田加賀守正盛が殿中を通る時、その後には彼の妹婿であり、当時目付けであった
喜多見久太夫(重勝)も同じように廊下を渡っていた。
ところが途中、御茶部屋において煙草を吸っている様子があった。

御茶部屋の者達は二人が近づくのに感づくと、慌てて戸を閉めたが、非常に煙らせた匂い、疑いなく
煙草の香りである。

喜多見久太夫は匂いをかいで、「これは正しく煙草である!」とつぶやき、それから堀田に聞かせるように、
繰り返し繰り返し「御法度の煙草の香り、心得がたし!」と言った。

御茶部屋をしばらく行き過ぎてから、堀田は振り返ると
「喜多見殿はいつから鼻付を仰せ付けられたのか?御目付とは、目を用いる御役ではないのですか?」
そう言って先に進んだという。

(武野燭談)



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/21(火) 09:32:13.71 ID:bZgvvneZ
堀田正盛もsmokerだったか?

これが武道の眼つよみ第一

2017年02月20日 15:54

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/20(月) 07:32:55.54 ID:T9Gd58Ub
 尾州大高の城に権現様がございました時に、
水野下野守方から、
今川義元が殺されましたので、早々に大高の城を御引取りください。」
と報告しに来ました。

しかし家康公は
「きっと義元の御生害が誠であるのだろうが、
敵方の下野守からの知らせで城を空けて退くのは、不行届で慌てた様である。
この城でこのまま難に遭うことになっても、それは是非ないことだ。
ここで踏み止まり確かな報を聞き届けて、
証が正しいと分かった時に引き退くべし。」

と仰せられ落ち着かれていました。
そのところに、岡崎の山田新右衛門方から、
書状で申し上げられたので、じっくりとお調べまして大高をお引き退きました。

これが武道の眼つよみ第一である。


『武士としては』


産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

2017年02月19日 13:55

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/19(日) 05:13:29.02 ID:DIV2tWCx
産湯八幡付産湯の井併井辺の大楠

あるとき田安殿の臣、山口某なる者が語った。

 神祖の御母の里で、松平太郎左衛門の祖が御男子が無いのを憂られ〔広忠公であろう〕、
三河峯の薬師へ祈願として籠られると、
その庭前で光明を発しその地を穿つこと五寸余り、そこに金像を獲た。
これから後、神祖が御生長されるとこの金像を産湯の八幡と称しその社を構えられたという。

また地を掘った穴かた清泉が湧出したので、すぐに御産湯に用いられた。
その処を指して産湯の井と呼び、いまなお在るとか。

 この井戸の辺りに楠の大木があった。
後に神祖がこれを伐られて、その材を用いて御船を造られた。
これが安宅丸(あたけまる)であると。
 
 この楠材の残片が有ったので、山口某が伝蔵していた。
それを黒羽侯〔きっと大関老侯(大関増業)であろう。老侯は殊に茶事を好んでいる。〕
が求めて茶器の棗とされた。
この器を制作されるときの切屑が存在して、
瘧を患った者に服させると瘧はたちどころに落ちたという。

以上、前後そろってない話だが、聞くままに記した。

(甲子夜話三篇)


自身の大水牛の立物にも

2017年02月18日 10:20

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 00:47:16.67 ID:whq5Nrg7
黒田長政が言った。
「立物、指物でも海老はねにして指すだけでは、
働く時や馬に乗り立てる時には抜け落ちる者である。
立物には穴をあけ、受筒にも穴をあけ、皮で結びつけるべきである。」

 したがって自身の大水牛の立物にも、ふすべ革で結びつけていたという。

(甲子夜話)


思う事 一つ叶えば又二つ

2017年02月18日 10:19

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 08:41:13.19 ID:ljycbWKM
寛文年中の事。紀伊大納言・徳川頼宣の乗る船が、遠江沖にて荒天に出会い、海上は
茶臼を回すごとく荒れた。

しかし頼宣は顔色も平生に変わらず、船に酔った近習の者達を自身で救うなどした。
この時常の心持ちなど、ふと口ずさまれていた。題知らず

 思う事 一つ叶えば又二つ 三つ四つ五つ 六つかしの世や

人生の願い、絶え間のない実情を詠まれていた、頼宣公は高貴公達の御身であったが、かくの如き
方であった。

(武野燭談)


あのようでも良きことがある

2017年02月17日 21:23

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 06:38:26.56 ID:9lZ0yPv4
彦左衛門(久松彦左衛門)は、大献院様(徳川家光)の時代に、奥の御門番を
仰せつけられた。寿林尼が下人を、夜中に急用があって御出しになったところ、

彦左衛門は、下人を出さなかった。下人が寿林尼のことをかう<かうハ頭カ>
に担いで言うと、彦左衛門は、「俺は寿林という奴を知らぬ」と、言った。

寿林尼はこの事を聞いて、御前で詳細を申し上げ、「あのような者が御番を
致しては、奥方に召し仕える者が急用の時に通路を通れません。近頃、
迷惑なことです」と、言った。

大献院様はこれに、「その方は久松に会ったか?」と、仰せられた。「いいえ」と
寿林尼が申し上げると、「それは仕合せだな。その方が会ったならば危うき目に
会ったことであろうよ」と、仰せになった。

寿林尼が、「左様な片意地者に、御門番を仰せ付けなさるのは、いかがなもの
でしょうか」と申し上げると、大献院様は「あれは、あのようでも良きことがある」
と、仰せになられたという。

――『武功雑記』


同じ名前のせいで、後年には大久保彦左の話になってしまったっぽい。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6626.html



659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 13:42:30.17 ID:WDo31VWI
>>655
三河武士なら誰が門番でも同じように通してくれない説

井上正就、及びその父のこと

2017年02月17日 21:22

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 20:56:20.04 ID:ytr5iFmx
幕府老中であった井上主計頭正就の父は、井上半右衛門(清秀)という、知行僅かに150石の子であると
されているが、実はそうではない。

井上半右衛門には長男があり、太左衛門といった。この太左衛門も母が身罷った後、故あって
阿部定吉の妾が懐妊していたのを、井上半右衛門の妻として、程なく出産したが、これが
井上正就であった。この妻は続いて筑後守政重を産んだ。
つまり正就と政重は、同腹別種の兄弟である。しかし正就は異父の苗字を称し、実父の阿部を
名乗らなかった。これには以下のような理由がある。

阿部定吉は徳川家における老功の人であり、松平清康に仕えていた。ところがその子・弥七郎(正豊)が
率爾の行動によって清康を殺してしまった。(森山崩れ)
しかしこの事に、父・定吉は全く関わっていなかったため、彼はその後も恙無く松平家に仕えた。

だが定吉は、我が子が主君を弑した逆罪を悔い嘆き、一生養子もせず、妊娠した妾すら、
他人に遣わし、清康・広忠・家康三代の老臣として、あえてその名字を断絶させたのである。

後に井上正就が半九郎と称していた時、大相国(徳川秀忠)が彼を召し出し、この仔細を
教えたという。

そして段々と登用され、奉書・連判の席に加わり、顕職の人となったが、彼は居間に
『井上半右衛門子半九郎』
と書き付け、朝暮れにこれを見るようにしており、この事を、心易い人にはこう言っていた

「私は(徳川の老臣・阿部定吉の子ではなく)150石の微臣である井上半右衛門の子、半九郎に過ぎない
ということを忘れないように心がけているのです。こうすることで御奉公にも、また
家の祈祷にもなると考えています。
かつて石田治部少輔は、そもそもが石田佐吉であったことを忘れ、諸侯に奢り、大志を志して滅びました。
我が願いはただただ、この御恩を無にせぬようにと、そういう心がけなのです。」

そんな彼であったが、寛永年中に殿中で豊島信満に討たれた。これもまた時の運であろうか。

(武野燭談)



604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 21:25:00.04 ID:op0NtBCx
>>603
オチが・・・・・・

宇喜多秀家流罪に及びしこと

2017年02月17日 21:21

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:53:42.57 ID:29qev1l+
宇喜多秀家流罪に及びしこと

 ある人が曰く、
宇喜多秀家は関ヶ原では毛利上杉佐竹と同じである。
他は皆今の領土となったが、
秀家ただ一人が遠流に処されたのは神祖に憎まれることがあったためだとか。
 秀家は法華宗を信仰していて、その時領していた備前備中備後から諸宗を追い立てて悉く日蓮宗の寺とした。
もちろん浄土宗の寺院も押し退けられており、そのため
浄土宗である神祖から憎み怒られていた。
関ヶ原後に、もはや極刑にもなるべきところを島津氏の御歎きから流罪となったという。
 またかの国の諸寺でもその事実を裏付けることを聞いたが、
皆忘れてしまったので、ここではそれを書くことができない。

(甲子夜話三篇)

なぜ島津が、それも家康に意見を言う立場で出てくるのか?



606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/17(金) 00:57:21.76 ID:7heINWbt
島津が宇喜多を匿っていて
家康に許された時にそれを申し出たから
島津の顔を立てるためでしょ

鼻の色はかはりにけりな異な面に

2017年02月16日 17:16

651 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/02/16(木) 00:02:05.81 ID:rG1cVaCH
ある日(島津)忠恒公が徳田大兵衛(侏儒どん)の宅へ御出でになるという仰せがあった、
そこで大兵衛は屋敷を清めるやら庭の掃除の下知をするやら忙しかった、
さて自分も湯に入って潔斎したのち、今か今かとご来駕を待っていた、けれども
仰せでになった時間までにいかなる御都合かして、御出でが無いので、
待ちくたびれて大兵衛は縁側へ寝入ってしまった。
その後程経てから殿様の乗り物がやっと徳田の屋敷に着いた。
すると大兵衛は心地よさげにすやすやと良く寝入っている始末であるから、
近侍の者共が大兵衛を起こそうとする、殿様は「しばらく待て」と制しながら
硯を取り出させ、筆にタップリ墨を含ませて、大兵衛の鼻へ一杯塗り付けさせられた
然る後ち近侍の者をして大兵衛を揺り起こさせられた、大兵衛が不覚の眠りを
詫びるのには耳を貸さずに殿様は
「大兵衛鏡を見ろ」との仰せである。何かは知らねどご上意のまま
自分の顔を鏡に映すと、鼻が真っ黒く塗られている。
殿様は笑いながら、「大兵衛どうじゃ、即座に一首仕れ」と言われると、
例の侏儒のことであるから、言下に次の歌を詠んだ。

鼻の色はかはりにけりな異な面に わが身湯に入り長寝せし間に

これは言うまでも無く、百人一首の中にある小野小町の和歌を詠みかえたのである。
(日当山侏儒戯言)


参考
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
小野小町




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 06:18:07.98 ID:vJ8/2DEi
>>651
何が起きるかドキドキした

家蔵、山科弓

2017年02月16日 17:15

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 00:32:44.51 ID:vKUbLtGx
家蔵、山科弓

 予(松浦静山)の家蔵に山科の弓と称するものがある。
祖先からの旧物である。
金泥七所藤にして弭(はず:弓の両端)の裏に平仮名で『やましな』と銘がある。
伝来の故は記文で知ることができる。

「山科弓   一張

村(弓を削って仕上げること)は吉田六左衛門入道雪荷がなしたという。
庚子の役では唐津城主寺沢志摩守(広高)は関東にいた。
敵徒が唐津を襲おうとしたので、城兵は松浦式部卿法印(鎮信)に援を乞うた。
法印は兵を率いて唐津に到った。敵徒はこれを聞いて退散した。
志摩守感謝の余りこの弓を贈った。」

「雪荷斎が村をした弓はしばしば人々は珍重されていますが、
このように銘を出したものは稀であります。
雪荷は得意ではなかったので銘は記さないと伝わっております。
官の御物である、迦陵賓と銘がある御弓も自銘だと聞き及んでいますが、
見ることができません。
ですので、この家蔵の雪荷村の弓は最上ともいうべきでしょうか。」
とその十一代の孫吉田元謙は評した。

 これについて思うと古人が大事に当たって、弓一張の謝礼では余りに粗末ではある。
しかしこのように贈ったということは、雪荷自銘の弓は世の宝物である故なのであろう。

「庚子の役とは慶長五年の関が原の御陣のことです。
『やましな』というのは、雪荷が前に故あって山科に退居したことがあるので、
その時の作なのであろうと思われます。
官物の迦陵賓とともに、天下二張の弓といえるでしょう。」
と元謙は言った。


(甲子夜話)



653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/16(木) 01:13:59.10 ID:YMQ6U+gQ
吉田雪荷って親父さんたちのように誰かに仕えたりはしなかったのね
しかし達人が手ずから弓を仕上げていたのか
山科が居住地からなら迦陵賓は迦陵頻伽を射落とせるような一張りってことなのかな?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 12:45:21.81 ID:oAPTRVJD
>>653
立花宗茂が所持していたという金溜地塗籠弓には吉田左近作って名が書かれてたな
吉田太蔵から宗茂に贈られたらしいが

嘉隆の運命のほど

2017年02月16日 17:14

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 20:08:35.82 ID:0fvy8vfu
慶長5年、関ヶ原の役において、九鬼長門守守隆は家康の会津征伐に従い、小山の陣に伺候していたが、
父大隅守嘉隆は、隠居の身として石田三成に与し、海賊を集めているという情報がもたらされた。

これにより「九鬼守隆を幽閉すべし」との声が上がったが、成瀬隼人正正成は反対した

「長門守が謀反を謀ることはありません。そもそも今回御供つかまつった上方衆のうち、
父子・兄弟別れているものは多くおります。その中で長門守一人を押込めるというのは
如何でありましょうか?

先ずは長門守に今度の旨を仰せ聞かせられ、その上で九鬼の領地に遣わし、彼の様子を
ご覧になった上で、必要な時は踏み潰す。そうしたほうが簡単であると存じます。」

そこで家康は守隆を召し、委細を聞かせ、「早々に志摩へ馳せ上がるべし。」と命じた。
守隆畏まって鳥羽へと赴いたが、考える所あって父。嘉隆とは対面せず、自分は関東に
御味方仕る旨を申し送った。

息子守隆が合流しないことで、嘉隆の勢力は広がらず籠城も難しくなり、伊勢神官の内に知人があり、
それを頼って城を開き退いた。ところが嘉隆の家臣である豊田五左衛門という男が、あえなく
主人嘉隆を害してしまった。

これを知った守隆の口惜しさは如何程であっただろうか。
流石に父に対しては敵し難いと考え、勿論関東に背く心もなかったため、直ぐには父子対面せず、
引き別れて立てた忠孝をどうにかして申し上げ、父の命を救うという計画が果たされるのは
目前であったのに、家臣豊田の大逆にて害されてしまった嘉隆の運命のほど。
是非もないことである。

(武野燭談)

かの国に我が軽便なる仮名文を

2017年02月15日 18:31

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 01:40:39.18 ID:4CNYhBVK
豊臣秀吉が朝鮮を征せんとして都を出発した時、ある人が秀吉に、

「かの国に渡るのに、漢文を得意とする者がいなくては、日本の恥辱
ともなりかねませんから、宜しく漢文を得意とする者を従えなさることが、
しかるべきでありましょう」

と言ったところ、秀吉が笑って言ったことには、

「我の此度の行動は、かの国の難渋な鳥跡の愚文を学ばんとするに
非ず。まさに、かの国に我が軽便なる仮名文を用いさせることにある」

とのことであった。その勇気、もっとも称えるべし。

――『常山紀談(異本に拠る)』



武であるのに嗜みをしないこと

2017年02月15日 18:29

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 03:25:36.87 ID:bVy+937X
 高井助十郎が尾州長久手の戦場で首を取れなく口惜しがっていることを、
権現様が聞かれました。そこで彼を召して

「助十郎は旧主の(今川)氏真をよく見届けたではないか。
このたびは首を取れなくても苦しくない。
すでに意地の者であるぞ。」

との上意があったそうです。
しかし助十郎は

「時に大将からこのような言葉を頂き、恐れながら至極の上意です。
ですが、新しく主を替えた身となっては、
昨日の働きを思わず、今日の稼ぎを行うことが本意です。
前の武辺に緩んで後の働きがないことは、
武であるのに嗜みをしないことです。」

と答えたとか。


『武士としては』

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7152.htmlの別バージョン。
地味に意地っ張りになっている。



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/15(水) 09:42:01.65 ID:Bp9fp+kj
きっと前の話は駿河ver.で、これは三河ver.なんだよ

週間ブログ拍手ランキング【02/09~/15】

2017年02月15日 18:24

02/09~/15のブログ拍手ランキングです!


人々は康政に 24

「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」 22

上野介、良く聞け。 17
時節相応に主とする所を、 16
中筋村の飢饉 ~妙玄寺縁起~ 15

猩々瓶 14
台徳院様が三河田原で御狩りをなさった時 12
本多忠勝、本丸の堀を腰の高さまで 11

子孫秋月氏と改称す。 10
伊達政宗、豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考 9
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来 8
「孕石の一番槍を見たぞ!」 8

金剛大夫の祖、朝鮮攻のとき彼地に渡りし話 5
長坂源五郎の事 5
この八十島は 5


今週の1位はこちら!人々は康政にです!
有名な、小牧長久手の時の榊原康政の立てた高札と、その後の秀吉の反応です。
井伊直政の逸話でもそうですが、こういう時に対比として石川数正が出されてきちゃうのは、ある意味お約束ですね。
そういえば余り知られていませんが、石川数正はその諱を、家康からの偏諱をもらった『康輝』に改名しており、であるのに出奔後、
秀吉のもとで大名になると、今度は秀吉の偏諱を得て『吉輝』に改名したとされます。
これが事実だとすると、それもまた「節操の無さ」として世間が印象したかもしれません。
榊原康政たち徳川武士の「節操」を語る時、絶好の比較対象であった。石川数正は意図せず、そういう存在になってしまった
のかもしれません。

2位はこちら!「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」です!
本多忠勝の具体的武勇を表した逸話ですね。河中に入れば、当然動きが制限されるのですから、心理的にも
そこから取って返すというのは、大変な勇気を必要とした行為だったことでしょう。それこそ、一度「背水の陣」を放棄して、
もう一回背水の陣に、しかも一人で成るということですものね。
小牧長久手での武勇もそうですが、本多忠勝には、「平然と自分自身を的に出来る」という面に強い印象を持たれていた、
というフシがあります。そういう姿を戦国時代の人たちも「かっこいいなあ」と感じたのでしょう。
『天下無双』と呼ばれるためには、能力とまた別個に、そういう度胸と運が必要であった、ということでもあるのでしょう。
これは現代でも同じようなものかもしれません。

今週管理人の気になった逸話はこちら!猩々瓶です!
非常に実証主義的な話でもあり、また残虐な暴君的逸話でもあり、のちの松平忠輝の運命を感じさせるような内容だと
思います。ただ、これを読んで、「織田信長の、このあたりの逸話に通じるものがあるな。」と感じました

織田信長、無辺を殺す

もしかしたら似た系統の逸話を検証することで、当時その人物が世間にどのように把握されていたか、見えてくるんじゃないか、
なんてことを考えました。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」

2017年02月14日 10:10

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 21:52:47.71 ID:X+1KO4ez
天正の初めの頃、甲斐武田家の部将、山県昌景が大軍を以て天龍川近くに進行してきた時、
この方面の徳川軍は少数であったので、天龍川を越えて退却した。
この時、本多平八郎忠勝が殿をし、ただ一騎、後から川に乗り入れ退却していた。

しかしここに、後ろより山県勢の先鋒百騎ばかりが追撃してきた。
忠勝はこれを確認すると同時に、河中より取って返し、これを攻撃した。
その勢い、まるで龍神が波を蹴り立てるような激しさであったという。

これに甲州兵たちは「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」と叫び、尽く逃げ去った。
追う者がいなくなったので、忠勝はまた河に入り、心静かに向こう岸へと渡った。

河の中流から引き返すというのは、成し難いことだと言われている。それを安々と
行った本多忠勝の働きというのは、筆舌の及ぶところではない。

(武野燭談)



尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

2017年02月14日 10:09

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 01:09:14.70 ID:BgQ72oq0
尼ヶ崎侯家紋九曜を用る由来

 大阪の乱のとき、塩賊は尼崎侯の葵紋がついた兵器や提燈を観て驚愕落胆した。
この尼崎の祖先は御当家松平の御同族で信定といい、三河国桜井城に住んでいた。
よってその子孫を桜井の松平家と称す。このためであろうか桜花を家紋としている。
しかし松平の族なので葵が元来の家紋である。

 しかし桜花の家紋には違う理由があるのだとか。
あるとき彼の祖先の誰かが、細川三斎〔忠興〕の宅に行って碁をしていたが、
その時に神君に招かれるということがあった。
すぐに赴こうとして、その者が三斎に

「今、それがしが今着ている服は殊に汚れている。
よろしかったら君の衣を借りて着たいのだが。」

と言うと三斎は喜んで彼の家の服を与えた。
よって今桜井の家は九曜星の紋を用いるのはこれから始まったという。
〔細川氏の家紋は、今も九曜星である〕

 また桜井の家は今はもっぱら九曜を用いているが、もとは葵葉が正式の家紋なので、
この家の者は皆は正式の時には葵紋を用いている。
葵紋を用いるのは変事に限らないという。

(甲子夜話三篇)
参照:桜井松平家『桜井桜』
桜井桜



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 02:16:00.22 ID:clIcZdKw
塩賊がわからん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:37:43.53 ID:+WvvCSyd
塩の密売人

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 07:42:04.94 ID:clIcZdKw
それとこれがどう関係するん?

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 08:06:11.49 ID:RoaBpj1c
大塩平八郎の一党の事じゃないの>塩賊

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 16:59:51.38 ID:8P63j5pE
超時空関羽のことだよ

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 20:20:51.66 ID:mYu93Acq
塩派とタレ派で騒動があったんだよきっと

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/14(火) 22:56:32.10 ID:4eHEPjx1
俺塩派