伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

2017年03月31日 21:46

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 19:05:48.04 ID:hBCsFRe+
慶長18年(1613〉、伊達政宗よりローマ法王に贈る書簡

『広大な世界における御親、五番目のパパ・パウロ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形・伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国において、サン・フランシスコの門派もバテレン、フライ、ルイス、ソテロらが
デウスの御法を広めに来られた時、私の所にも御見舞に来られた。その口より、キリシタンの様子、
また何れからもデウスの御法の事を承った。
それについて思案するほど、殊勝なる内容であり、まことの御定の道であると存じ奉り候。

それに従って、キリシタンに成りたいと存じながら、今のうちはは難しく、差し控えたい仔細があり、
未だその儀に至らず。さりながら私の分国中、おしなべて下々まで、キリシタンに罷り成り申すよう
勧めたいために、サン・フランシスコの御門派のうち、オブセレバンシャ(サン・フランシスコ派の一派)の
バテレン衆が渡来下さる事が、何にも増して殊勝大切に存じ候。

渡来される事成れば、そのバテレン衆に万事に付き宗教上の特権を許すだろう。そのバテレン衆に、私の方より
寺を建て、萬に付き御馳走申す。
我が国の内において、貴きデウスの御法を広めるために、然るべきと思う程の事は、みな定めたいと
考えている。そのため、別して大いなる司(大司教)をお一人定め、下してほしい。そうすれば皆々
必ずキリシタンに成ると存じ奉り候。

我々はどのようなことでも承るので、御合力については少しも気遣いはいらない。
これについて私が心中考えているほどのことは、このフライ、ルイス、ソテロが存じている。
貴老様御前にて申すことが叶うよう頼み入り、我々の使者と相定め派遣した。
その口上を聞いて頂きたい。

このフライ、ソテロに差し添えて、我等の家の侍一人、支倉六右衛門尉と申すものを、同じく使者として
派遣した。私の名代として、御従いの印、御足を吸い奉るために、ローマまで進上致す。

私の国とノヒスパーニャ(メキシコ)の間は近国であるので、今後イスパニヤの大皇帝ドン・フェリペ様とも
申し談じたい。その実現の調整のため下す。バテレン衆にはこの渡海が成功するためにも、頼み奉り候。
私は、貴きデウス天道の御前において、御内証に叶うよう頼み奉り候。
なお、この国において、いかようにも御用を申し付けていただきたい。随分に御奉公申し上げる。
また、これしきの事なれども、日本の物品を、恐れながら進上仕る。

なおバテレンのフライ、ルイス、ソテロと六右衛門尉が、口上にて申し上げるため、
その口上次第に成るだろう。早々恐れ入り候

恐誠謹啓曰
                伊達陸奥守(花押)

  慶長18年9月4日           政宗(印)』

(異国叢書)


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「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental world より、戦国時代の描写

2017年03月31日 21:45

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 20:44:20.54 ID:oD8J3lSn
「戦闘技術の歴史」5東洋編Fighting techniques of the oriental worldより
同シリーズは「1古代編」「2中世編」「3近世編」「4ナポレオンの時代編」「5東洋編」で構成されていて
戦国時代関連の記述見るといろいろおもしろい、以下内容を抜粋。
(原著の論旨を損なわない範囲で訳者が補訂しているため極端におかしな箇所はない)
・大名の家臣たちが提供すべき兵士の人数や装備は、田畑の生産高で評価される財産額に応じて決められていた。
単位は一人の人間が一年間に消費する米の量「石」である。
・日本では20種類以上の陣形(中国の陣形を取り入れたものもある)があり、代表的なものとしては
「鋒矢」「方円」「鶴翼」「雁行」「魚鱗」「衡軛」などがある。
・日本の軍隊には太鼓所役という専任の鼓手がいて、仲間が背負った太鼓を所定のリズムで叩いて戦闘を指示した。
・1561年の川中島の戦いでは武田軍は啄木鳥戦法を用いて挟み撃ちにしようとしたが(ry(出典:甲陽軍鑑)
・「雑兵物語」という兵学書によれば接近戦での刀の扱い方を説いた記述があり「兜を狙うがいい、ただお貸し刀がなまくらなら手足をねらえ」とある
・「箕輪軍記」という日本の軍記物語には100人の鉄砲足軽が一度の戦いで600~700人もの敵兵を倒したと記されている。
・信玄の騎馬隊は伝説として語り継がれた。16世紀中頃は騎兵が主流を占めたが武田軍の戦いの多くでは残存兵を一周するため下馬を余儀なくされ、
徒歩の従者が同行していたため進軍速度も上がらなかった。また、当時の日本の馬は、体高も体重も現代の馬の半分しかなかった。
・長篠の戦いで武田勝頼は3万3千の兵のうち2万7千以上は騎馬武者とその従者であったが、馬防柵と3000丁の火縄銃の集団斉射により敗れてしまった。
(この戦いでは小火器の役割が誇張されがち、とも書かれている)こうして日本では騎兵時代はほとんど始まりもしないうちに、終わってしまった。
・三成は小早川が裏切ることを懸念してか戦況に影響がないように自軍の右翼に据えた。これは実戦経験の少ない武将の誤算であった。
・三成は地の利を活かし、盆地を見下ろす高台に軍を配し、三方から敵を攻撃できるようにした。
・家康は17歳の小早川秀秋が寝返らないためしびれをきらし、火縄銃兵隊(マッチロック式マスケット銃で武装)に、斉射させた。小早川軍は大谷軍に襲いかかった。
・島津義弘は関ヶ原で行動しなかったが、これは夜襲の提案を一蹴されたからである。
・島津義弘の甥は義弘と兜を交換し、獲物をあさる赤鬼(井伊直政)に立ち向かい、追撃を十分に遅らせるが、討ち取られ、他の多くの首級とともに晒された。
・忍者の軍事行動に関しては伝説化され誇張された物が多いが、たとえば1600年の関ヶ原の戦いにおいて、島津軍の忍者は死体に扮した狙撃者を残し、
本隊が退却した後に起き上がり標的を向かって狙撃した。高名な井伊直政もこの時銃撃を受けて重傷を負ったという。
・李舜臣は優れた指揮能力により朝鮮を救ったが、その後日本軍への攻撃命令を拒んだことから国王の不興を買う。
李舜臣は攻撃命令が、日本側の密偵からの偽情報に基づくものだとわかっていたのだ。
・大坂の陣において、秀頼は真田幸村という強力な味方を得た。彼は城を守る名人であり、彼にちなんだ真田丸に、徳川軍をおびき寄せて一斉射撃で撃退した。
などなど、「東洋編」にしては図説のある20の戦争中8つが日本関係で(川中島、長篠、文永の役、弘安の役、閑山島海戦、関ヶ原、大坂の陣、晋州)



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 23:36:12.16 ID:ruAHZZqv
馬の速度は時速15kmらしい
それに対して人のは12kmだそうだ

今西春房と娘の大蔵姫

2017年03月31日 21:45

森忠政   
708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 22:04:28.35 ID:Tm99nypP
今西春房と娘の大蔵姫


摂津今西氏は元を辿れば春日大社の社家出身で摂津国垂水西牧に下向し
現地において荘園経営を行った荘官である。
代々従五位下に叙され室町時代には「南郷目代」と称されたとする。
戦国時代になると周辺の有力国人が台頭して荘園を
脅かすようになったため、今西氏の屋敷の回りの約216m四方は
内外二重の堀で囲まれ、内堀は約2mの深さがあったという。

荘園を守るため姻戚関係を結ぼうと、社家36代目の今西春房
明智光秀の娘・美津を正室にする。
長女の大蔵姫をはじめ子に恵まれたが、本能寺の変が起きてしまう。
山崎の戦いでは弟の春光が明智方で参戦したが敗戦。
当然秀吉の怒りを買い荘園を没収され、目代としての実権を失ってしまった。
以降は医者や神主として家を続けていくことになる。

一方光秀の孫娘にあたる大蔵姫はというと、最初は多田の豪族
山問左近将監に嫁いでいたが、山問氏が没落したため
娘二人を連れて実家に戻っていたらしい。
どういう訳か大蔵姫はその後中川秀成の養女となり、森忠政に再嫁した。
その縁で弟たちの浅田宗英は2700石、今西道春は1500石で召し抱えられ
他の一族からもその後何人も森家に仕えることとなった。

大蔵姫は元和9年9月13日に亡くなったが、忠政に遺言をして自分の衣装と
愛玩の手道具、自身の肖像画を今西氏に送らせたという。
大阪府豊中市にある今西氏の屋敷は現在は国指定の史跡となっており
その西南にある松林寺の墓地には大蔵姫の五輪塔がある。

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以上の話は、主に今西家に伝わる史料(『今西家文書』)から見た話で
森家の史料とは少々食い違っている部分がある。
『森家先代実録』では、大蔵姫は森忠政に嫁いだとは記されていない。
大坂夏の陣で森軍の渡河で活躍した宗英・道春兄弟の姉として紹介されるが
”中川清秀の従弟山問の妻” ”女中頭を務め御内所まで申し上げることが出来た”
という記述があるのみで、表記も大蔵卿となっている。
加えて大蔵姫の肖像画の記述を見ると忠政が従三位とされていたり
遺体が葬られたとする津山の寺がどこか分からないなど不明な部分が多い。
おぉこれは……という訳で悪い話スレに。


薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

2017年03月31日 21:44

710 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/31(金) 13:20:31.22 ID:9PH8Y6mL
薩隅の戦国お菓子 これもち(これがし)

鹿児島で「これもち」(一部地域では「これがし」)と呼ばれるお菓子は、小豆餡と米粉をこね合わせた蒸し菓子(棹物菓子)で
漢字では「高麗餅」(高麗菓子)と書き、その名が示す通り朝鮮から伝来したものである。
鹿児島に伝わったのは、慶長三年(1598年)朝鮮の役により、豊臣秀吉の命を受けて出兵した島津義弘が、
李朝の陶工たちを南原(ナモン)から連れ帰った折に陶工から伝えられたとされている。

義弘に連れてこられた陶工たちのうち、四十数人が串木野の島平に窯を開いた。
しかし生活苦や周囲との折り合いの悪さから、五年後には島平から苗代川(日置市東市来町美山)に移住した。
この地に移住した人々は、毎年春秋には周囲で最も高い舞楽岡に登り、遥か遠く海上に浮かぶ甑島の島影を通し故郷を偲び、
望郷の心を慰めていた。在る夜、海の彼方より大きな火の玉が飛来し、蜂巣ヶ谷の大石の上に落ちた。それ以来大石は鳴動し、
夜毎赫々と異光を放ち乍ら宙天に上った。これを見た村人は恐れおののき、筮者にトして貰ったところ、
朝鮮宗廟の神「檀君」が村人を保護するために来国したということであった。
そこで、この自然石を御神体として檀君を祀る神社を創建し(玉山神社)、玉山宮とも高麗神とも称した。

玉山神社では祭事や行事の際に高麗餅を奉納し「高麗餅返し」の儀式を行っていた。
「高麗餅返し」の儀式は祝子(はふり)が執り行い、美山の各家庭で作った蒸し器(セロ)に入ったままのこれもちを
祝詞を唱えながら回し竹籠(バラ)にひっくり返す。バラに近づき、一回転してこれもちの表面が上なら吉、
一度で表にならないと縁起が悪いとされている。
これもちの真ん中を神刃(シンカル)で方形に切り、御幣と柴の小枝を立て、お神酒・新米・刺身とともに高杯に乗せて供える。

玉山神社は今の社殿になるまでは、朝鮮様式で建立されていて、祭事や行事の際の服や言葉や祭器すべて朝鮮様式
で取り揃えていたが、数十年前に最後の伝承者が亡くなると「高麗餅返し」をふくむすべての儀式が途絶えてしまいました。
(「かごしま文庫 鹿児島の伝統製法食品」、美山での史料展示(昭和四十二年頃の写真あり)など)

※鹿屋市笠之原にも「高麗餅返し」があり、美山に移り住んだ陶工の一部の人が、時を経て笠之原に移住している。
ここには陶土がなく陶芸文化は廃れたが、望郷の為に「玉山宮」を建立し、高麗餅を作って儀式を伝えたことが推察される。
笠之原では、高麗餅を「シロ」と呼び、地域の玉山宮では祭事や行事の際に高麗餅「シロ」を奉納し「餅返し」の儀式を行っていた。

※ 小豆をふんだんに用いて餅とサンドイッチ状に仕上げた韓国のお菓子「シルットク」は、祝いや祈願の折に用いられてきました。
古くは五穀豊穣を祈り、現在では転居の際に新居の安全を祈って供えられています。京都や名古屋で製造されている「村雨」や、
鹿児島の「高麗餅(これもち)」の原型が、このシルットクであるといわれています。

参照 高麗餅(これもち)


시루떡(シルットク)
https://namu.wiki/w/%EC%8B%9C%EB%A3%A8%EB%96%A1



傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家

2017年03月31日 21:39

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 17:32:24.73 ID:GXvuqNGc
戦国時代の北伊勢の国人衆、「HKS48」こと、北勢四十八家はご存知でしょうか?
このHKS48、実際には五十三家の国人がいたそうで、そこから選抜された国人だけが四十八家を名乗れたという。

という戯言はさておき、北伊勢のネタ?が少ないようなので、ちょっと発掘してみました。

近江六角勢による北伊勢侵攻「神戸城攻防戦」

弘治三年(1557)、近江の佐々木六角承禎(義賢)は、小倉三河守実隆(蒲生定秀三男)に命じ、伊勢国三重郡にある柿城(現朝日町)を攻略させた。
柿城主・沢木(佐脇)宗喜は神戸(かんべ)氏に救援を求め、当主下総守利盛は自ら一千余騎を率いて出陣した。
ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である、岸岡城主・佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、本拠、神戸城を略奪、利盛の妻子を追い出すや、近江勢、小倉実隆を城に引き入れたのである。
急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣、古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。
当時、神戸氏は宗家たる関氏と険悪な関係であったため、これを頼ることが出来ず、利盛は母方の長野輝伯(藤定)を頼ることとなった。
長野氏は同心し岸岡城に援軍を出すと、神戸・長野連合軍はただちに神戸城へと押し寄せた。
小倉実隆も防戦するが、地の利を知る神戸勢は勇戦、城を包囲するや諸方より攻め立てる。
やがて小倉勢は破れて千種城に引いた。利盛はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。
主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は城を逃れて十宮村に引潜んだが、利盛はこれを許すといって招いた。
佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。
昔、佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。
「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。
そのあと2,3回これをけった。
するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

(勢州軍記)

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家のお話。


今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

木原屋鋪の事

2017年03月29日 19:13

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 02:36:22.29 ID:aw1EkiG2
木原屋鋪の事

 木原屋敷とは木原氏が神祖御入国の時に賜った屋敷地のことである。
屋敷の外の田地は木原氏の領地である。
神祖が未だ三河におられました時この木原氏の祖は代々大工の棟梁であった。
鎌倉足利の屋形造り式法を家に伝えて探求していたが、その頃の大工は堀櫓等の普請ばかりを大事にし、
屋形造りのことなどに執着する人もない時節であったので、誰も彼を用いる者がなく諸国を流浪していた。
 ふと三河に着たとき神祖はそのことをお聴きに入れられ、度々召されてお尋ねなどもされた。
そして直に召し抱えられ、段々と御贔屓を被り岡崎城外に大きな屋敷地を下された。
御入国のときには、その代わりとして新井宿の地を賜った。
 江戸の御城を建設するときや御殿向かいを建て増す時になったときに、
武将の故実にかなうように御間取などをできたのは皆この木原の功であると聞く。
それを三河に御座いましたときから、早くに召し抱えられ置いた御深慮遠識申すにも恐れ多いことですが敬感せねばならない。

 猷廟(家光)の日光山御創立の時も、木原が御作事奉行となって木工頭と叙爵し司った。
今の日光御宮の雛形はその屋敷の林木の中に安置してある。
扉を開放しておりその中には神体は無い。心ある設け方である。

(甲子夜話)


勝茂さまが御家老たちに、

2017年03月29日 19:12

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 17:29:22.71 ID:pKxeS1VR
勝茂さまが御家老たちに、

「訴訟事を裁くときには、どうか死罪にならぬようにと思いながら、
話を聞くようにせよと、つねづね直茂さまは仰せになっていた。
この言葉は今でも忘れることがないので、皆にも伝えておきたい。
また、大切なことのある場合には酒を飲んではならない。
だいたいにおいて、酒は好ましくないものである。
これも直茂さまが御注意されたことだ」

と仰せられたとのこと 【葉隠】



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 18:21:11.91 ID:lhXZwzZY
本多忠朝「酒に呑まれるやつが悪いのだ」

治部大輔義龍は悪逆不孝で

2017年03月29日 19:12

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 04:42:14.15 ID:URGMF49B
道三の男子は数多あり。嫡男・治部大輔義龍は悪逆不孝で父子の仲は悪かったため、
道三は庶子の喜平次、同孫四郎の2人を愛した。

義龍は深く恨み、大いに憤って去る弘治2年の春、道三が鷹狩りに出た留守を狙って、
日根野備中守弘就という勇士に命じ、喜平次・孫四郎兄弟を刺し殺した。

父の道三はこれを聞いて大いに怒り、義龍を討たんと企てた。義龍は無類の大悪人で、
美濃一国の人数を催し、逆寄せに道三の居城・稲葉山へ押し来たり父を攻めた。

道三は出向かい尾張へも告げ越されて、信長公も御加勢を御遣わしになった。同年
4月20日、ついに美濃鷺山というところで道三・義龍父子は敵味方に相分かれて散々
に合戦した。

義龍方の大垣城主・竹腰入道道鎮という者は先手の大将をして一番に切って掛かって、
それを道三自身が長刀を振り持ってなんなく道鎮を切って落とし、首を切先に貫いて
差し上げ、喜びなさっていたところを、

義龍の後陣の多勢が隙間なく押し寄せて切って掛かったので、味方は敗軍して道三は
ここで討死しなさった。小牧源太がその首を取ったのであった。義龍方の

勇士・奥田七郎五郎という者は、道三方の道家孫八郎という者を組み留め、生きながら
首を引き抜いた。これを初め敗軍の者どもを数多討ち取り、義龍は喜悦の眉を開いた。

今は争う者もおらず義龍自ら美濃の守護となって悪人ながらも威勢があったが、ためし
少なき大罪人の報いであろうか、幾程なく永禄4年に義龍は忽ち悪病を患い死去した。

義龍の嫡子・右兵衛大夫龍興は家督を相続して美濃を治めたが、武道は弱く、かつまた
悪人の子孫であるから、諸士諸民は爪弾きにしてこれを疎み、威勢は次第に軽くなって
危うい様子に見えたが、信長公はかの悪党を滅ぼして、ついに美濃を治めなさった。

――『織田軍記(総見記)』


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2017年03月29日 19:08

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猿楽の日の論争 16

戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図 16

アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。 14
敵を射伏ば自軍の利。後まで苦しめるは不仁の業 13

之を以て、予が為した所を批判せよ。 11
とにかく大砲を早くよこせ 10
小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌 9

春日周防の徒党の磔 6
文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡 5
後悔すること無かれ。 5

夫死して妻を取り殺す事 4
後に剃髪して道三入道 3
秀頼藪之事 3


今週の1位はこちら!猿楽の日の論争です!
池田輝政の論争禁止のお話。このような論争禁止というのは、いわゆる「喧嘩停止」として、戦国期以来、大名が非常に重視した
政策の一つかと思います。とにかく騒ぎを起こすな、何かあったら大名権力に訴えてその判断に任せよ。というのが戦国大名の
基本姿勢のようなもので、これがいわゆる「喧嘩両成敗」法を生むわけですが、これは当時の喧嘩、論争が、即武力を伴った
衝突に至るものであった、という事が大きかったようです。大げさでなく、喧嘩させないことが「安全保障」だったのですね。
で、こちらのお話は、その論争禁止に対して、いざ騒ぎが起こった時の「下の側の対応」を感じさせるお話ですね。
禁止されても喧嘩論争は起こる時は起こってしまうもので、それは発覚すれば処罰を免れるためあの手この手でごまかしたで
あろう事、容易に想像できると思います。その「一例」(?)を記録した、という感想を抱くお話だと思いました。

2位はこちら!戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図です!
僕もツイッターでこれが作られる過程を見ていまして、凄いものだと感心しておりました。
このレベルの勢力図が教育で使われれば、一般の人の戦国期に関する認識も、大げさでなく大きく変わるだろうなと
感じました。
また、この地図について、レスやコメントの中でも幾つかして気が出されていますが、気がついた所があれば、地図の
製作者である世戸口政親 @Fransisco1530 さんに、この期間この地域はこうであると、できるだけ具体的に指摘が有れば
世戸口さんのご参考にし易いと思いますので、思う所有る方はぜひ、そのようにお願い致します。

今週管理人が気になった逸話はこちら!之を以て、予が為した所を批判せよ。です!
いろいろな情報が読み取れる書状だなと感じました。その反論からキリシタン追放令やサン=フェリペ号事件についての批判が、
秀吉にちゃんと伝わっていた、というのが非常に興味深く感じました。
しかしこの時期の秀吉の外交文書というのはどうも、相手に対する把握が非常に雑、という気がします。
言葉風俗の同じ日本の大名に対しての外交文書と一緒にしてはいけないとは解るのですが、天下統一の過程での
交渉相手に対しての非常に細やかな把握と比べて、やはり大雑把にすぎるという感覚を持ってしまいます。
これが外交に関してだけなのか、内政においても似た傾向があったのか、そういった部分を考えると、後期豊臣政権の
姿が、又少し違った形で見えてくるかもしれません。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図

2017年03月28日 12:49

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/27(月) 15:57:21.92 ID:Z6LKh7Gq
戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名戦力図
https://togetter.com/li/1094236
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg
C72fznIVsAALp0U.jpg


これすごいなあ頑張ったなあと思うんだけど、山形県の部分の山形氏や山上氏っていうのは最上氏のこと?


続・戦国クラスタが作る!永禄3年(1560年)の全国戦国大名勢力図
https://togetter.com/li/1095832


【桶狭間合戦期の戦国大名勢力図(修正・分割版)】
東北
東北
関東甲信越
関東北陸
近畿中四国
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九州
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https://twitter.com/Fransisco1530/status/847302593143463936


754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:08.80 ID:DmAvzf48
>>753
誤植
指摘を受けてその後上げてる高解像度版では直ってたはず
※原寸サイズ
https://pbs.twimg.com/media/C72fznIVsAALp0U.jpg:orig

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 18:40:54.06 ID:DmAvzf48
ああ最上は当時山形と名乗ってたという事らしいよ。
まとめの…どの辺に書いてあったか忘れたけど

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 19:36:27.85 ID:vTm+z0yV
庄内や由利を手に入れてから最上を名乗ったらしい
史料上では慶長6年8月以降に最上という表記が現れていて、それ以前は山形殿と呼ばれていたようだね

だから最上表記の関ヶ原の降伏文書はおかしいんじゃないかという話もないわけじゃない

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 21:11:48.83 ID:hYqdRVYI
上杉がでっち上げしたってことか

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:08:33.22 ID:cZXYVInZ
>>756
あの書状は「上杉家御年譜」にしかないし、史実と整合性のない記載もあるので偽作説の方が優位ですね。
元になる書状があったとしても、そうとうな改竄が加わってる可能性があるでしょう。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 06:50:36.02 ID:U2RCoFLe
ああ、例の鉄棒も山形出羽守だもんな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 07:10:44.69 ID:senKG/uw
小手森合戦後に政宗が義光に宛てた女・童や犬までも撫で斬りにしたって自慢気に書いてるあの有名な書状も宛名は山形殿になってるよね

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/03/28(火) 20:17:18.58 ID:xdwJ3xCi
山形県だけじゃなくて東北地方はそれぞれ問題あるな

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 21:27:22.44 ID:3Px6KGjl
>>761
そう思うなら突っ込んだら?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:06:12.76 ID:YV5qdMqk
一度議論されてるポイントかもしれないので確認したらいいかも

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 00:10:32.05 ID:pBqy3wtk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8907.html
ついでに前に出ていた疑惑の降伏文書ネタ

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/29(水) 06:42:42.38 ID:uKygiPLF
この当時(1560年)の南出羽の白鳥長久はまだ台頭中で、寒河江大江氏の影響下。
最上義光も1546年生まれだから天正最上の乱で義守と争う前。
延沢満延も天童八楯の一翼で天童氏の影響下。
鮭延氏も仙北の小野寺氏の客将扱いだったり。(この後大宝寺氏に攻められ幼子の鮭延秀綱は庄内に連れ去られる)
上山氏は上山を束ねる里見党の総領が地域名を名乗ったもの。

夫死して妻を取り殺す事

2017年03月28日 12:45

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 13:50:11.67 ID:uFMed9Vq
夫死して妻を取り殺す事

 摂州榎並村友淵村の善兵衛の嫁は中村の源兵衛の娘であった。
善兵衛は三十三歳で死にその時に嫁は十六歳であった。
夫が死んだ後、女は親の源兵衛の所へ呼び返された。
 さる程に夫の精魂が火と成って、
蹴鞠の如く地面から一尺程高く上がって毎夜来て村際で消えた。
源兵衛の家は家中騒がしくなり、娘が目に見えて恐ろしいものが来たと髪を抜くこと折々である。
娘は父母に向かって、恐ろしいものが来たと言って恐れ伏した。
遂には髪の毛は皆抜き尽くしてしまい、三十日中に取り殺してしまった。
寛永十年の事である。

(片仮名本・因果物語)


後に剃髪して道三入道

2017年03月28日 12:44

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』


之を以て、予が為した所を批判せよ。

2017年03月27日 12:11

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/27(月) 10:39:21.78 ID:xkF4eQ/h
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉よりフィリピン諸島長官に贈りし書簡

『卿が遠方より派遣した大使は、多くの艱難を経て予を訪問した。卿はこれに託し。卿の肖像を
予に贈り、卿に代わって予に敬意を表したため、陸雲海および波が我らの間にあり、我らは実際に
数千レグワを隔てているにも拘らず、予にとっては眼前にあり、予は親しく卿の言葉を聞いているようである。

天と地と分かれて世界が始まって以来、この日本国は神、また君としてシントー(Xinto 神道)を崇敬
している。これはシン(Xin 神)の徳により、太陽及び月はその運行をなし、また1年四季の差別も、この
神より生ずる。これと同じく風および雲が発生し散布し、雨および霧が生じ、地球が回転し、鳥が飛行し、
動物が運動し、草木その他一切のものが成長して賛美すべきものと成るのも、またこの神より出る。
人間も又、これによって君臣の別を生じ、老人と少年の別および夫婦の結合も同一の原因により生ずる。

一切のものはこれより始まり、結局これに終わり、また分解する。

かくの如くであるというのに、数年前パードレ数人が当国に来て、外国の悪魔の教えを説き、当国の
賤しき人民、男子並びに女子の宗旨を乱し、その国の風俗を輸入して人民の心を惑わし、当諸国の
政治を破壊した。これによって予は厳しくこの教を禁じ、完全に防止することを命じた。

これだけではない。その国より来た宣教師たちはその地に帰らず、町および村を巡って密かに賤しき人民、
従僕、および奴隷に外国の教を説いた。予はこれを聞いて忍ぶこと能わず、すぐに彼らを殺すことを命じた。
何故ならその国においては、布教は外国を征服する策略、または欺瞞であることを聞いたからだ。

もし、日本の国より日本人の宗教者もしくは俗人が、卿の国に渡って神道の教を説き、人民を惑わし
道を惑わせたならば、その国の領主である卿はこれを喜ぶだろうか?絶対にそうではない。
之を以て、予が為した所を批判せよ。

予は思うに、卿がこの方法を用いてその国(ルソン)の古来の君主を追い出し、ついに自ら新しき君主と
なったように、卿はまた貴国の教を以て我が教を破壊し、日本の国を占領せんと企画したのだろう。

これ故に予は、前に述べた所に対して憤り、怒りを抑えていた時、海上において破壊された船が
土佐国に現れ、波上に漂った。
予はその船に積まれた財貨を集め、これを散ぜずまた分配すること無く、これを卿に還付せんと
決心していたが、卿の部下が我が法律に背いた故に、この財貨を悉く没収した。
卿は今、予がこれを還付する義務があると思っているだろう。
ならば、古来の交流を継続するため、卿は甚だ遠くより、防風および激浪の艱難を経て予が許に大使を
派遣し、日本と結合し、交誼を政道に導くためにも、今後人を遣わして外国の虚偽の教を説かしむことなかれ。

このようにすれば永久にこの日本国と商品を貿易することを得、その地より来る商船が、予が印を押した
免許状を持参すれば、海においても陸においても少しも害を加えられることはない。
当国よりその地に往来する日本人等が、もし貴国の人民を擾乱せしめ、その地の法律を守らない時は、
これを捕えて獄に下し、事件を審理して刑に処すことを得るだろう。

昨年船数隻を出してかの船の乗組員をその地に帰らせた。船中の水夫その他の人を殺さなかったのは、
我等の間の古来の交誼に背かないためである。

卿が予に贈ったものは目録に掲げてあった通り。悉く受領した。特に黒象は予にとって珍奇であった。
昨年の秋の末、支那の大使数人が当国に来たが、彼らは白象一頭を予に贈ることを約束した。
であるが、予がこの象を予に贈ったのを大いに喜ぶのは、遠方より来た新奇の品を珍重するのが、
昔から今に至るまでの習慣だからである。

予が卿に贈る品は別紙に記した。その品はわずかでは有るが、好意の証としてこれを卿に贈る。
昨冬、当地に来た水夫等の家族に悲嘆に同情し、また卿は彼らの領主であるので、彼らを
憐れんでいると考えたことにより、悉く貴国に帰らせた。

之を以て終わる。』
(異国叢書)

秀吉が、キリシタン追放令やサン=フェリペ号事件について述べた書簡である。


秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


春日周防の徒党の磔

2017年03月25日 20:44

森忠政   
698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 00:05:44.43 ID:Ko4xD5Gw
春日周防の徒党の磔


ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-357.html
↑の記事の2つ目の話の詳しい版になります。

天正壬午の乱のときに森長可を裏切ってひどい目にあった春日周防
(参照 ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5950.html)
慶長5年3月に弟の忠政が海津城に入った頃には病死していたので
(葬儀で)親類が一か所に集まっており磔に懸けることになった。

そのとき彼の地の風説では、信州は人がいない国なので
徒党の者を残らず成敗してしまっては亡所になるだろう。
ならば(忠政が)見回りに来る前に、磔に懸けてご覧に入れ
御成敗したと判断してお通りした後で悉く命を助けようと
下劣の者共が(春日周防の徒党に)申し做した。

そういうことならば一日磔に懸けられているのもどうかと
日用を雇って名代として磔に懸かってもらうことにした。
米壱石で懸かる者が多く、あるいは七、八斗で懸かる者もいたが
少しの内なのだからと値切る者がいたり、壱石出すくらいなら
自分で懸かろうという者が、金持ちの中にもいたそうだ。

海津城はその頃松城といったが、乾の方角にある鳥居坂から
なしか池まで二十町ばかりに磔を懸け並べた。
そこに先走りの者が、忠政様の追付きお通りと参るやいなや
大身の槍を持って片っ端から突いて通った。
そのとき磔木の上から口々に日用なりと断る声があったという。
百々瀬加兵衛、三溝三右衛門[両人共に信州のあのあたりの地侍の家
だったが森家へ召し出された]がこの話を度々承ったそうだ。

そのときの罪人の内6才の子供を一人、名は又右衛門と申す者を
お竹様(忠政側室・香々美殿)が引き取り養われた。
後に大膳重政様(忠政庶長子・母お竹)の草履取りとして仕えたが
元和4年に大膳様が御逝去の後、作州久米南条郡中嶋村へ引っ込んだ。
百姓をしていたそうだが、同郡北村の者と公事取詰になり
寛永16年6月3日、46才で一家残らず長法寺河原で御成敗に逢ったのは
天罪奇妙な事なのでここにこのことを記す。


――『森家伝記』


702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 22:47:30.61 ID:gmJK76VS
>>698
この「松代物語」でも春日皆殺しについて触れられてるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4100.html
ところで高坂信達(春日周防)って病死って書いてるけど、真田昌幸のせいで上杉裏切ろうとして殺されたんじゃ
(真田丸では調略がバレたのをなぜか昌幸の策略にして主人公側を悪どく書いてたな)

文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

2017年03月25日 17:34

700 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:29:14.49 ID:w3PsfF11
1592年(文禄元年)、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡

『カスチリヤ、レオン、アラゴン、両シチリア、エルサレム、ポルトガル、ナバラ、グラナダ、サルジニヤ、
コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガルベス、アルヘシラ、ジブラルタル、東西インド、
大洋中の諸島及び大陸の王、アウストリヤの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミランの公爵、
ハプスブルク、フランデル、ブレターニュ及びチロル等の伯爵なる我らの君、ドン・フェリペ二世王のため、
当大群島の諸島および西部地方の長官兼司令官たるサンチアゴの騎士、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤス、
高貴にして強大なる君主関白に当然の敬礼を致し、健康と恒久の幸運とを祈る。

御家臣にてキリスト教徒たる日本人、原田孫七郎(Faranda Mangoschiro)は当地に着し、貴王の一身に関する
報告をなし、その内容に私は甚だ喜び、天の神が貴王に授けられた勇気・思慮・および勢力に対し大いなる好意を表す。

原田は数日前、私に一つの書簡を与えた。その形式の整っていることと、文体の壮重なるにおいては、
大いなる君主の書簡と見えたが、それを届けた使者が、これを派遣する人、及びその使いする先の
人の格、そして使命の重大さについて必要とする材幹および資格を備えない、甚だ卑しくまた貧しい人物
であり、しかも食料その他の商品を搭載してこの地に来る普通の商船にて渡来し、航程甚だ遅れたるが故に、
この書簡は、この原田なる人物が当地において一層の尊敬を受けたいという私的な目的のため、自分、もしくは
他人の手によって作ったものではないかと疑った。

また私は、当地に日本語とイスパニヤ語を解する信頼すべき通訳を持っておらず、彼自らが書簡の内容、及び
使命を説明したため、書簡の言葉の真実の意味を疑いった、
もし日本国王より私に書簡を贈る時は、その地に耶蘇会のパードレその他イスパニヤ人が存在するので、
彼らを用いて、少なくともこれを私の国語に翻訳したものを送られると考えたのだ。

これ故に、私は未だこの原田という人物のもたらした書簡を読まず、その使命を明らかにしてはいない。
彼が貴王、及び私に欺瞞を計っているのではないかと疑い、その実否の判断を保留している。
しかし貴書、および貴使節らしい所がある一点を思い、礼儀を守ってこの書簡を書き、原田が私のために
作った翻訳により、わずかに知り得た所に対し、貴書に答える。

私は、徳高く慈悲深き長老代野パードレ、フライ・フワン・コボを派遣する。彼は当諸島において
最も尊敬され、その思慮及び勇気あるがため、私が最も重要なることを告げ、その意見を求める人である。

彼は私の名において、貴大王に当然の敬意を表すだろう。そして使節の言う所が真実であれば、私は
貴手に接吻し、今も、また将来も交友たることを明言し、世界において最も偉大なる我が主君たる
国王の名を以て、貴王の幸福を喜び、不幸を悲しみ、天の王がこれを除かれることを祈る。

701 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:30:04.48 ID:w3PsfF11
東インド及び当地方より日本に赴く我が国王の臣民たるイスマニヤ人が、貴王の手より受ける厚遇及び
恩恵に対して、我が君なる国王の名を以て、親交を希望し、当地においても、貴王の臣民に対し同一の
愛情を以て、及ぶ限りの厚遇をするだろう。

私はこの人のもたらした使命の真実か否かの報知を得るの恩恵を希望する。
もし真実であるのなら、我が君である国王に対する決意及び義務に背反しない限り、この如く偉大なる君主に
相当する友情を以て答え、我が国王にはすぐにこれを報告し、その命を仰ぐだろう。

私は、我が国王及び日本国王の如く、偉大なる両君主の間には、満足なる結末を見るだろうと信じる。
真実なる友情及び同盟が存在することは、世界の平和と一般の満足とをもたらし、また諸王の王である
全能の神の栄光と成るべきを期待する。

日本より私が大いに珍重する物を贈られたことを以て、私も又返礼として、イスマニヤの珍奇なるものを
贈ろうと欲するが、武士の間で最も珍重するのは武器であるが故に、剣および短剣1ダースを贈る。
これは当地において用いる、最も精巧な品である。
これを贈る者の好意を思い、友情の証として貴王の幸福及び強盛を望む我が手より受納されることを請う。

本書感を携える者は、前に述べたることの実否を知ろうとするためにのみ赴く者であるので、
その地において知りたいと思う事は、彼に聞いてほしい、

我らの主が貴王の身を護り、多くの幸福を与え給わんことを。

我らの主にして救主たるイエス・キリスト生誕の1592年6月11日(文禄元年5月2日)
マニラより。』

(異国叢書)

>>696の書状に対するフィリピン総督の返信。どうも原田さん、非常に適当なことを言ったようである。


猿楽の日の論争

2017年03月24日 16:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 12:18:57.67 ID:EesewEeL
猿楽の日の論争


三河での話だろうか、(池田輝政が)あるとき御祝の猿楽を設けられた。
そのとき、今日は誰でも大きな音を出して踏み歩くのは構わないが
もし論争などする者があれば弁明させずに処罰するべしと命じられた。

自らも猿楽をなさっていたとき、拝見している者の中で口論が起こり
既につかみ合いになっていたため八田八蔵、梶浦太郎兵衛などが
走っていって取り鎮め双方を預け置いた。

御前に戻ると(輝政が)
「さっきは騒がしかったが何事だ?」
と尋ねられたので太郎兵衛は
「あれは山椒にむせていた者を傍に居た者が介抱していたのです。
 遠くから見ると誠に喧嘩のように見えました」
と申したので、国清公(池田輝政)は承知なさって
「それではもうよくなったか、汝が見て帰れ」
と仰せられたので、太郎兵衛は参り
「もうよくなりました」
と申した。

晩に件の両人が御前に伺候すると
「今日の山椒は"出来事"だったな」
と仰せられたという。


――『池田家履歴略記』



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 09:45:10.89 ID:5MyGKhHW
山椒でむせるのが戦国なのか
七味でむせるのが江戸
コショーでむせるのが昭和

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 15:28:12.93 ID:UDgSMzCB
後の山椒大夫である

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:29:23.26 ID:G7jiN6nF
江戸時代、うどんの薬味として七味が発明される以前は、
胡椒をうどんにかけていたそうな。
この胡椒がいわゆるブラックペッパーの事かどうかは知らん。

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:37:47.41 ID:CqLihekp
山椒大夫というか安寿と厨子王は江戸時代より前だろう

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 16:54:11.56 ID:6BVBn8UD
九州の方じゃ唐辛子を胡椒と呼ぶらしいが

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:07:22.55 ID:BUdxZnGN
「胡椒」は唐辛子を意味する古語[1]。九州一部では方言として残り、ここでは一般的な「コショウ」ではなく「唐辛子」の事を指している。なお、「コショウ」は「洋胡椒」と呼んで区別する。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:22:10.84 ID:/jAVy11V
胡椒が日本に伝わったのは唐辛子よりはるかに前

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 17:32:07.07 ID:cp3xw1UF
落語の「くっしゃみ講釈」
(ある講釈師に恨みを持つ男がその講釈をくしゃみでめちゃくちゃにしてやろうと
最前列で胡椒を燻べようとするが、八百屋で売り切れていたため唐辛子を燻べる、て話)
のオチが九州ではできないな

男「この講釈師、いかさま師、おたまじゃくし
お前のくしゃみを聴きに来たわけじゃないわい」
講釈師「はっくしょん、あんた、私になにか故障(不満)がおありか?」
男「胡椒がないから唐辛子を燻べたんじゃ」

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 20:13:42.58 ID:3QnhJZkp
山椒にむせてたとか信じている馬鹿はいないよねコレ(´・ω・`)

後悔すること無かれ。

2017年03月24日 16:01

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 00:17:52.08 ID:Sxykn2tM
天正19年(1591年)豊臣秀吉、フィリピン諸島に入貢を促したる書

『予が国は恐ろしい戦争が100年余り行われ、諸人甚だしく背馳し、交通並びに書状に統一が
なかったが、この時、この世界を治め嘆賞すべき和合に導くため、予の大いなる誕生が有った。

予は年少の頃より国務に任じ、10年を経ずしてこの小国(日本)を尽く服従せしめ、三韓琉球、
及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して頁を納めている。

予は、今支那に対し戦をなさんとしている。しかしこれは予の力に因って行うものではない。
天が予に与えたものである。

其方の国は未だ予と親交を有せず、よって予は行きてその地を取ろうと欲したが、原田孫七郎が
予の寵臣に告げるには、商人の船舶がその地に往返し、彼自らもまたその国に赴いたことがあって、
諸事に通じていると言うので、故に彼を派遣してこの事を報じさせる。
これは100レグワを隔てても、諸事を探求し実相を明らかにすることを得るためである。
こういったことは、古人の一人の言葉にあり、価値を持つ。

これ故に、原田は身分卑しき者では有るが、予はこれに聴き、暫く時を与え、諸将を派遣し
大いなる軍隊を率いて高低尽く平坦にするための命を下さなかった。

今は旗を倒して、誠に予に服従すべき時である。
もし服従することを遅延すれば、予は速やかに罰を加えるだろう。後悔すること無かれ。
この他告げる要は無い。


天正19年9月19日

日本国の関白』

(異国叢書)

マニラのフィリピン諸島長官、ゴメス・ペレス・ダス・マリニヤスに宛た、豊臣秀吉よりの服従勧告である。

その返書↓
文禄元年、フィリピン諸島長官ゴメス・ペレス・ダマ・マリニヤスより豊臣秀吉に贈りし書簡




697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/24(金) 11:25:08.55 ID:njXTdQT1
元寇でのフビライ・ハーンの手紙に似てるな

とにかく大砲を早くよこせ

2017年03月23日 18:12

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/23(木) 13:14:43.44 ID:lIeg49m7
1568年(永禄11年)、豊後の王よりニセアの司教ドン・ベルショール・カルネイロに贈りし書簡

『私はジョゴ・バズ・ダラガンより貴方が支那に渡来されたこと、並びに貴方の病気について聞き、
甚だこれを悲しんでいる。そして更に悲しみが強くなるのは。このために貴方が日本に来ることが
不可能に成ってしまうと思ってしまう故である。

私は貴方がいかなる人かを聞き、また貴方の請求により総督が大砲(espera)を私に贈られたことを
聞きたるにより、貴方が私の領国に来ることを大いに希望していた。
この大砲はマラッカよりの船中にて(船の沈没により)失われたことは私の不運ではあるが、
安全に到着したのと等しくこれを感謝し、貴方に恩を負うと考えている。

私は大砲を得ることの希望を捨てていない。
私が(ポルトガル)国王の僕にして、またその友人であることは、デウスの事について、また私の領国に在る
キリシタン等、及びポルトガル人一同に対し庇護を加え、好遇を与えることで示し、またデウスが私に
生命を与え給う間は、常にこれを継続し、また貴方の要求されることをなすべきを以て、貴方が総督に
書簡を送り、私が大砲の贈与を受ける資格の有ることを通知されることを希望する。

私が再び大砲を求めるのは、私が海岸に住み、敵と境を接し、私の防御のためこれを必要とする事
大なるが為である。

私がもし領国を防衛し、これを繁栄ならしむ時は、領内のデウスの会堂、パードレ及びキリシタンたち、
並びに当地に来るポルトガル人一同もまた同様に繁栄するだろう。

先年、私はポルトガル王妃の書簡を接受したが、大いにこれを尊重し、宝物としてこれを首から下げている。
当地には王妃の如き方に贈るべき物は無いと雖も、私の領国に有るものは喜んで殿下に献ずるだろう。

この他述べたいことは多いが、長きに失するがゆえにこれを書簡に綴らない。
ジョゴ・バズ・ダラガンがその地に赴いた時に陳述するであろう。

1568年9月13日(永禄11年8月22日)』

(異国叢書)


とにかく大砲を早くよこせ、という大友宗麟の書簡である。



699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 11:19:30.51 ID:B6+kOeJd
>>695
時期的に対毛利で欲しかったんだろうな大砲w

小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

2017年03月22日 10:40

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 22:02:38.95 ID:c2T4aYH7
小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

 公鑑(林述斎)が語った。

 我が国に幕府が開く以前は天下で兵乱が打ち続き、
儒教文籍が地を払って絶えていた。
この時に小早川隆景は筑前の名島で学校を設立したという。
珍しいことである。

 また太田道灌の『慕景集』には釈菜の歌がある。
二月の釈菜を金沢文庫で行うと三好日向守勝之のもとから申しこしてきたので、
「隣家梅花」という題を、聖人への供物に添えて送るとて

はな(る)なれやよよ友垣の近きには 遠きもなるる梅の下風

と詠ったという。
これは『論語』の首章である、
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」

の意をいっているのだろう。

(甲子夜話)


敵を射伏ば自軍の利。後まで苦しめるは不仁の業

2017年03月22日 10:39

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 03:35:29.81 ID:OMqm+fgI
同じ頃(甲斐領地直後)、東照宮(徳川家康)が武田家の士・横田甚右衛門(尹松)らを
召して、信玄の事を物語りさせて聞きなさった時、

「御坊の時は火縄はどのようにしたのか」と、御尋ねになった。

すると、「柿の渋に石灰を入れて火縄を染めますと、年を経ても使えます」と答え申した。
東照宮は横田、または城意庵などに信玄のことを“御坊”と仰せになったという。

また、武田家において鏃をゆるく詰めたのは、敵の肉の中に鏃を残すためであると申す
のを聞きなさり、東照宮は、

「士がいくさに臨むのは皆その主君のためであるのだよ。敵を射伏せば自軍の利となる
であろう。けれども、後まで人を苦しめるのは不仁の業である。今日から我が家の士は
鏃を堅く詰めよ」

と、仰せ出したのであった。

――『常山紀談』



740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 07:03:58.34 ID:95mxgnAJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1963.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5892.html
前にも出てたけど出典はなかったか

アフォンソ・バズという人物一人を殺してしまった。

2017年03月22日 10:38

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:56:50.71 ID:3jA4Kuzq
1562年(永禄4年)、鹿児島の王(島津貴久)よりインド総督に贈りし書簡

『コンパニヤのイルマン2人が、昨年私の鹿児島の領国に来たり、私の領内を巡って説教をしたが、
私は一つの戦役のため救援の準備に従事していた故に、私の希望のように彼らが当然受けるべき境遇を
与えることができなかった。

また、私の領国の一港であるマンゴー(Mangoo)にポルトガル人の船一艘が来ていたが、上記の戦役に
巡り合わせた故に、彼らに相当なる礼遇を与えることが出来なかっただけでなく、国内に外国より
略奪のために来た剽盗があったために、ポルトガル人が来ているのを知らず、彼らを剽盗と誤認し戦ってしまい、
アフォンソ・バズ(Affonso Vaz)という人物一人を殺してしまった。
私はこれを遺憾とする。

私は毎年書簡を送るべきである故に、閣下がもし書簡を送ってくれば私はこれを大いなる名誉と思うだろう。
ポルトガル人、又はパードレ等を当地に派遣しようとする時、閣下の書簡、又は口上を持参すれば、私は彼らに
相当する、一切の歓待礼遇を与えるであろう。

(永禄)四年薩摩より』

(異国叢書)

島津貴久による「合戦騒ぎでついうっかりポルトガル人殺しちゃったわテヘペロ」という書簡である



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 21:58:52.95 ID:Kls3i0zw
お詫びに軍旗に大きく十字を書けば許してくれただろうな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:18:06.25 ID:XIT09IlA
戦国も後半になると海外と外交したり秀吉のゴマすったり中間管理職めいて大変だな
毛利元就くらいがいいな。領国内で成り上がって国人衆を統一して自国領を広げてハッピーエンドみたいな

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 11:29:14.25 ID:nTvcLbOj
守護大名がか?

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 12:46:46.90 ID:mQ1Lf/Wi
元就は元就で苦労の連続じゃん

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:39:46.44 ID:fDcqyXCX
元就は書状で愚痴りまくりの戦国苦労人。しっかり苦労人の血を受け継いじゃった長男。そしてなぜか孫がアレ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 22:52:19.62 ID:tvp724bG
あれ呼ばわりされてるが大友家一条家朝倉家のアレ等よりよっぽどマシだろう

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/22(水) 23:52:54.86 ID:qPwsY8gI
結構アレな息子は多いな、今川とか。黒田もそうか。

週間ブログ拍手ランキング【03/16~/22】

2017年03月22日 10:34

03/16~/22のブログ拍手ランキングです!


今は、天下創業の御政務である。 16

用来の用、不用の用、明勝の用 11

明主の賢慮は推量し難い 10
「法度は改め変える事なかれ。年貢は少なく取ろう」 10

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡 9
平手政秀は優美な男であった 9
糞瓶の運上まで取っていく 8

これよりしてこそ、信長公の名誉は  7
サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで 5
「さざえ”あわびのかみ”になられたのだ。」 5
秀吉公は神明を仰がれられて 2


今週の1位はこちら!今は、天下創業の御政務である。です!
江戸幕府初期の幕僚の思いを、土井利勝が語る逸話です。
実際に江戸幕府は創業の時代を「武断政治」と定義していて、まあ要は「社会の安定を脅かしそうなモノは何でも容赦なく
潰すぞ」みたいな発想です。秀忠、家光期に外様譜代の区別なく大名の改易が多かったのは、そういう考えがベースに
あったようです。
ただそういう乱暴な政治は長続きしない、という考えも江戸幕府は同時に持っていて、社会の安定を一定のレベルで達成したと
判断された家綱、綱吉期に、「文治政治」に転換されます。
「平和で安定した社会」は、当時の日本人が誰も経験したことのないものであり、初期江戸幕府というのはそれを、かなり自覚的に
定着させようとしています。その目標に向かっての幕府の高級スタッフの矜持とはかくなるものであった、というものを
感じさせる逸話だと思いました。

2位はこちら!用来の用、不用の用、明勝の用です!
徳川家康の、家中の人々の用い方についてのお話。
やはり面白いのは、「役立たずでも捨てるべきではない」という部分でしょうか。そこから「賢い子供が生まれてくるかもしれない」
という発送は、実に封建時代的ですが、「イエ」と言うもの自体、一族血族が全体としてフォローし合いイエ共同体を維持発展
させる、という発想の在るものですから、そういう「イエの原理」を認めたものと考えていいかもしれませんね。
あるいは「主君にバカが出ても忠誠を強要されるんだから、家臣にバカが出ても許されるべき」という考えかもしれませんw
色んな意味で、近世の家中というものの発想を表している逸話じゃないかな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!平手政秀は優美な男であったです!
平手政秀の優美なその行動。平手政秀といえば「若い頃の信長に右往左往する爺」といったイメージが、やはり強いかと
思いますが、こういう逸話を見ると、非常に水際立つ武士だったと感じさせますね。
平手さんもそうですが、歴史上の人物の世間的なイメージと実態って、相当別物です。歴史を学ぶ面白さの一つに、
「この人、こんな人だったのか!」という発見があると思います。そこから、同じ歴史上の事象でも、それに対する解釈が、
自分の中でどんどん変化したりもします。
この逸話も、そういう取っ掛かりをくれるものじゃないかな、なんて思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

糞瓶の運上まで取っていく

2017年03月21日 21:06

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 02:13:37.54 ID:ii+BI2aW
糞瓶の運上まで取っていく


石丸令歸とその弟の雲徹は播州にて召し出され[兄弟ともに御噺の衆という]
国清公(池田輝政)の御在国のときは姫路に居て
関東に下られるときには京都に住んでいた。
雲徹は五百石を賜わり、とりわけ気に入られていた。

ある年、雲徹が京より下り御前に伺候していたとき国清公が
我のことを京では何といっているかと尋ねられたことがあった。
雲徹が承って
「『三左殿、大して取るものがないので糞瓶の運上まで取っていく』と
 沙汰しているそうですよ」
と申すと、国清公は予想外に目をいからせ、座を立って奥に入っていかれた。
雲徹は萎縮して宿所に帰った。

明くる日(輝政は)雲徹を呼び出されたので、死を賜うか放逐されるか
いずれにせよ何もないことはないだろうと思いながら行くと
意外にも(輝政の)怒りは晴れていて
「昨日はよく我が知らないことを申したので(後から確認したところ)
 確かに薄田左馬が申し付けて運上を取っていたと聞いた。
 この先は必ず止めよと命ずる。幾度でもためになることは申すのだぞ」
と仰せられた。


――『池田家履歴略記』



737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 21:53:51.13 ID:rftHM3d0
権現様「糞瓶の運上が払えないなら焼き味噌を払えば良いじゃない」

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで

2017年03月21日 21:06

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 12:45:26.50 ID:ajCmN+xp
家光が最後に上洛した時の事かな
http://i.imgur.com/8N6tupL.jpg
8N6tupL.jpg

サウジの国王が来日で混乱どころの話じゃないレベルで迷惑だなw



685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 18:42:19.69 ID:ccqVKeS4
>>684
示威とはいえ、かなりの金がかかったんだろうなあ

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 23:36:41.03 ID:Xngeiluy
鎌倉もそうだが遠国に本拠地があると天皇権威が復活するよね

1567年(永禄10年)、豊後の王よりの書簡

2017年03月20日 12:43

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 19:39:01.77 ID:ZMAWX+2P
1567年(永禄10年)、豊後の王(大友宗麟)より支那滞在中のニセア司教ドン・ベルショー・カルネイロに送りし書簡

『最も尊敬すべき君

我らは貴方が本年、当地に来られることを大いに期待している。そして貴方の渡海を妨げる原因が小さくないことを
憂いているが、近く相まみえる事の希望を失っていない。

私が常に耶蘇教を庇護したいと欲していることは、既に貴方の耳に達していると信ずる。
私が山口の王(毛利氏)に対して勝利を望むのは、第一に彼の地にパードレ等を帰住せしめ、彼らが受けていたよりも
大いなる庇護を与える為である。
そして、我が希望を実現するため貴方の援助を必要とするのは、日本に硝石の来ることを一切禁止し、
ただ我が領国防御のため、カピタン・モール(官船の司令官)をして毎年品質良好な硝石ニ百斤をもたらす事である。

私はこれに対し百タイス(銀一貫目)、又は貴方の命ずるところの額を支払うであろう。
この方法によれば、山口の暴君は領国を失い、私の元にある正当なる領主(大内輝弘)がその国に入ること
可能になるだろう。私は貴方の手に接吻しよう。

本日陰暦第九月の十五日』

(異国叢書)

大友宗麟が、宣教師に硝石の禁輸を持ちかけていた書状である。



683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/20(月) 01:39:50.91 ID:dH4ZvUEi
>>682
この頃から毛利の九州への再侵攻に備えて輝弘を山口に送る計画してたんだな
対毛利戦の時はほんと色んな手を打ってて有能なんだけどな宗麟

これよりしてこそ、信長公の名誉は

2017年03月19日 15:44

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/19(日) 03:49:08.21 ID:WspcWOTG
今川義元の討死により、)残る敵どもはどうして少しでも溜まることであろうか、総軍一度に敗北して、
四角八方へ崩れ立ち、後から逃げる味方をも敵が追ってくるぞと見損じて逃げ散るところを、

ここに押し詰め、あそこに追い詰め、思うままに討ち取った。さてもこの合戦の場“桶狭間”というところ
は山の狭間、深田の辺りで高み低みも打ち茂り、足場はどこも難所なので、逃げ行く者どもはいっそうに
途方を失い、ことごとく討ち取られた。

味方の若者ども(織田勢)は追いつき追いつき、首を2つ3つずつ討ち取って、信長公の御前へ参った
ところ、首はみな清洲で御実検なさるとして義元の首だけを御一覧なさり、御馬の先にその首をもたせ、
勝鬨を作り、これより敵を追い捨てて、早々にその日の申の刻に清洲を目指して御凱陣なさった。

山田新右衛門という者は本国駿河の者で、義元懇志の侍であるが、はるばる後陣にいたところで義元の
討死と聞き、馬を速めて桶狭間に馳せ来たり、「まことに命は義によって軽し!」と言い捨てて、義元の
討死の跡で一足も引かずに討死した。

この他、遠江二俣の城主・松井五郎八郎宗信を始め一党2百余人、伊井肥後守、笠原等が一所で討死
した。三河勢は松平善兵衛が棒山で討死した。松平摂津守、同兵部、同次右衛門は所々での討死である。
松平上野介は大高の城から元康の使いに来て本陣にいたが、義元と一所で討死した。

駿河勢には、江馬左京助、由比美作、石河新左衛門、関口越中、斎藤掃部、庵原右近、同勝次郎、
朝比奈主計、西江、内藤、富塚修理進、温井蔵人、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門、伊井信濃を
始めとして、駿遠参州の兵どもは数を尽くして討死した。

清洲の城で首帳が記されたところ、その数は2千5百であったということである。また3千ともいう説もある。
これよりしてこそ、信長公の名誉は天下に聞こえたのである。

――『織田軍記(総見記)』

用来の用、不用の用、明勝の用

2017年03月18日 18:33

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 18:13:18.57 ID:L9oFZyyh
東照宮の上意に
「天下国家を治めるのに、用来の用、不用の用、明勝の用といって、3つの用事がある。

用来の用というのは、我が家は姓は源にて、氏は新田、別名は徳川である。
従臣には、酒井、大久保、井伊、本多、榊原、安部、奥平、大須賀、水野、平岩、鳥居、菅沼、石川、
安藤、内藤、大井、土井、青山、高力、天野、板倉、阿部、牧野、西尾、久松、
その他一統一統の氏があり、この氏人の子孫、従類は、皆当家の譜代随一である。

そこで、彼らの子孫の内、親たちより生まれつき優れているのは言うまでもなく、親に等しくその用を
勤めるのを、用来の用と言う。

また、その家、その子が、親たちの器量からは殊の外劣っていても、家督を相違なく立て置くのを、
不用の用と言う。
これについて、その家の太郎(嫡男)は用いるに足らずといえども、その家名は捨て難いものであり、
賢くない者の子に、能き者の生まれるのは、和漢ともにその例多い。
我が家の得失というものは、自分自身では計り難いものであるから、賢臣と事を取り計らなければならない。

また明勝(時来の意)の用というのは、来用の用の内にあり、その職責を任せられる人物の無い時は、
埋もれている小身の内なりとも、抽り出して、その者の器量の備わっているのを見て、大身に取り立て、
これを用いることを言う。

ただし、自己を高ぶらず、人を侮らず、一人で威を振るわず、能き事を同役へ譲り、末を考えて、
偽り飾ることをせず、諸人をむらなく愛してこそ、誠に天下・国家の家老というべきである。

家の惣領の子に付けるような者は、別してこの心得第一に選ぶべきである。
惣領の子であっても、その家の風紀に無理に当てはめようとしては、なかなか育てられるものではない。
慈仁を第一にして、それ以外は時に応じ、その器に従って教育していけば、自ずから根の強い、
能き人になるものだ。」

そう仰ったという。

(武野燭談)


733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 20:58:25.89 ID:NOKRHnIw
長安事件がなければ
酒井、榊原、井伊、本多、大久保
で徳川四天王だったのかな

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/18(土) 21:16:05.47 ID:/96KH+RV
>>733
森武蔵が呼んどるで

明主の賢慮は推量し難い

2017年03月17日 07:47

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/16(木) 23:45:21.45 ID:vrpWz8g8
徳川家康がある時仰せに成った
「右兵衛督(徳川義直)、常陸介(徳川頼宣)の両人に、近日武具着初めをさせるので、
あらかじめ準備しておくように。」

御武具方はこれを承り。黒糸縅の甲冑、ならびに弓矢、陣太刀、鞭、采配、軍配扇など、
注文通りに揃えた。

その頃、この武具着初めについて下々からは
「現在、右兵衛督殿の御爺などと称せられている平岩主計頭親吉は、それほど高名は聞こえないが、
上の御覚え他に異なり、また常陸介殿に付けられている安藤帯刀は、武勇冥加の侍であるから、
きっと両殿の御武具は、この両人が召させるのであろう。

尤も平岩は戦場に勇ある人物ではあるが、安藤と比べては、なかなか同日に論ずることができる者ではない。
そもそも公達などの御武具御召初めは、勇功あって武の冥加ある侍にあやからせ給うようにと、
専らそういう人を選ぶものだ。安藤は一日の内に二人の大将の首を獲た武勇の人であるから、言うに及ばず。
一方の平岩は、上意ではあったが、かつて一家の主親たる水野下野らを討ち、また三郎信康殿の
御母堂築山殿御生害の事を取り計らうなど、あまり吉兆のある人ではない。そういう人に若君などの
御武具召させ初めるというのは、いかがなものか。」

そのように言い合っていたが、当日に至ると、義直、頼宣の武具を、父である徳川家康が自ら
召させるとの上意にて、兄弟は同日御前にて召させられた。下々の予想は全く間違えていたのである。

しかし岡崎三郎殿以降の公達は数多居たと言うのに、家康自ら武具を召させる事は無かった。
それが今度このように計られた神慮は計り難い。兎にも角にも、優れて御愛子ということだろうか。
何れにしても、明主の賢慮を下々は推量し難いということだ。

(武野燭談)