誠の忠臣と言うものは

2017年04月30日 21:04

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 21:30:59.16 ID:D4Uk5VwP
上杉謙信が小姓より引き立てた侍の内、河田豊前守長親という人物は、元近江国守山の、地侍の子であった。
永禄四年三月、謙信は上洛し将軍足利義輝に謁見したが、この時清水において、この河田が、当時14歳であったが
これを召し連れ越後に帰国し、後には四十万石の知行を与えた。
これは男色の寵が類無かった故である。

ある時、謙信は河田を叱責し、刀を抜いて今にも成敗せんとしたが、河田はその場を退かなかった。
謙信は刀をおさめて言った

「私が河田をこれ程秘蔵に思っているのに、これを成敗すると言い出せば、『私が身代わりに成ります!』と
言って出て来る者があるべきなのに、誠の忠臣と言うものは居ないものだ。」

そこに一人出て「某を誅されよ!」と、頸を差し出して出た。謙信はこれを赦免したという。

(士談)


759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 10:30:34.60 ID:baWek3vu
実際にはどれ位の知行だったんだろ河田?

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 14:50:03.20 ID:JI8gJ8Gs
>>758
謙信が女犯を退けて男色を愛したのは、全き美談なれど、
後から忠信面をして頸を差し出す家来の話は嫌らしいな。
よって、ここに入れられたのか。
して『士談』の何巻に此の話は入っているのぢやろう?
包まづ教えて下さらぬかのう。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/10(水) 15:13:07.23 ID:Cwe02d0j
貞観政要 巻五 誠信第十七
貞観の初め、太宗(李世民)にある者が「佞臣を見分ける方法をお教えします」と上申してきた。
太宗「朕が任命しているものは皆賢臣と思い任じているのだが、お前は誰が佞臣かわかるのか?」
ある者「陛下がわざとお怒りになった時、あえて直言・諫言してくるものがあればそれは賢臣で、
阿諛追従するものがあれば佞人です」
太宗は側近に「君主が自ら偽れば臣下もそのようにするだろう、源泉が濁れば下流の水も濁る、道理に合わない。
朕はかねてから魏武(曹操)を詭弁の多い者だと嫌っている」と話し、
「朕は天下に信頼が行き渡ることを望み詭弁は行わない、お前の言葉は善といえども実行することはできぬ」と書いて送った。

謙信も李世民を見習うべき

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 15:26:15.88 ID:JI8gJ8Gs
謙信は敢えて作り怒りを演じたのでは無かろうて。

疎漏なる言は相成らぬぞよ。

よいな。
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嘆きの中の喜びとはこのことです

2017年04月29日 16:44

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 15:51:31.95 ID:HmLp52Lk
嘆きの中の喜びとはこのことです


一部既出だが(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5244.html)
秀吉が小牧長久手で池田恒興・元助親子が討死した後に
天正12年4月11日付けで恒興母の養徳院にあてた手紙

 今度の勝入(池田恒興)親子のことは、簡単に申せることではありませんが
 其れ様が御力を落とし御愁嘆されているのは推量申し上げます。
 我々もこちらに出向き、敵にあって十町、十五町とやりあっていたところに
 親子の人の不慮があり私も力を落としたこと、数限りもございません。

一三左衛門殿(輝政)、藤三郎(長吉)殿、両人が何事もなかったことは私の
 嘆きの中の喜びとはこのことです。両人はせめて取り立ててこそ
 勝入の御奉仕に報いることになり、心に叶うことだと思います。
 
一其れ様が途方に暮れておられるだろうと存じていましたので、こればかり
 案じていましたが、ぜひとも賀を御致しになって御嘆きを止められ
 両人のことをお世話されれば、勝入親子の弔いにもなることですから
 是非とも頼みますので、御女房衆(恒興妻)にも力をおつけなさって下さい。

一そのほか残った宿老衆は、三左衛門殿につけるように致したいので
 その御覚悟をなされ御愁嘆を止めるようになさって下さい。

一勝入を見るように、筑前(秀吉)をご覧になって下さい。何様にでも
 馳走申し上げます。物参りもなされるように致します。
 心のままに物などを召し上がり、身を完調になさって下さい。

一浅野彌兵衛(長政)に申し含め御見舞いに行かせます。私もそちらへ
 参りたいのですが、只今は手前のことで参上することが出来ません。
 ここもとの暇が空いたら御見舞いに参り、そのとき勝入親子と
 親しくしていた話でもせめて物語り致したいと思います。
 何かにつけて其れ様の御心の内を推量し、御気の毒に思います。
 返す返す御女房衆にもこのことを申したく思います。
 孫七郎(三好信吉、のちの秀次)ですが、そこもとの配下が動揺していると知り
 (行きたいと言ったので)御城(大垣城)の留守居に遣わして参らせます。
 孫七郎めも命を助かったのですが、せめて三左弟兄[兄弟のこと]の為にと
 声を上げて騒いでいるのだと嬉しく思いました。
 詳しくは彌兵衛に申して下さい。


――『侯爵池田宣政氏文書』 



868 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/30(日) 17:02:42.31 ID:srdj1iUc
武将なのに1人で突っ込んじゃうのは
組織の力発揮できなくてイクナイ的な
すぐ自分でやっちゃう上司に言いやすい金言ってありませんか?

徳川四天王のだと、文字数多い気がする。

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 17:14:40.67 ID:4wr/3SC2
>>867
今の軍隊の上司も部下が死んだら手紙書くんだろうか、書くとしてもここまでかけなさそう。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/30(日) 18:08:47.19 ID:1GrJCw1u
ぺリリューて漫画では死んだ部下の家族宛の手紙を書くのも上官の仕事だって書いてたな

生きて五鼎に食まずんば、死して即ち五鼎に烹られん!

2017年04月29日 15:00

名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 02:52:33.56 ID:piYyeD9Z
荒木村重は俵藤太秀郷の末葉・宇治次郎義定の9代の後胤である。曽祖父・安芸守は、
大永7年の桂川合戦(桂川原の戦い)で道永(細川高国)の陣に従って戦死した。

その子・荒木大蔵大輔は丹波国に住んだが、摂津へと越えて豊島郡坂根というところに
居住した。その子は信濃守義村と称し、その頃、当国の六人衆の中で随一の人だった。

ところが信濃守は中年に及んでも子がいないので、これをいたく憂いて夫婦一緒に同国
中山の観音へ参籠して、12の灯火を掲げて28品の経を転読し、

「哀れ願わくは1人の男子を授けなさり、その子が成人の後には、天下に威名を振るう
弓取りとなしてください!」と肝胆を砕き、心根を投げて祈祷した。

すると不思議なことに、7日に満ずる暁(七日参籠)に至って、義村は12の灯火の光の
中から明珠が飛んで来て、彼の女房の懐中に入るという夢を見て目を覚ました。

夫婦は大願成就したと喜びの眉を開いて帰ったところ、女房はやがて妊娠し、それから
15ヶ月目というのに子が出生した。その子は世に優れて大きく逞しい赤子であった。

夫婦はたいへん喜んで、12の灯火の光から出た玉の男子であるからとして“十二郎”
と名付けた。後に弥介と称し、また信濃守と改め、しまいには攝津守と称した。

十二郎は幼少の時、その身長は年齢よりもはるかに伸びて力強く、常に弓馬の芸術を
好み、槍や太刀の勝負を試みていた。しかし、この子は世にも優る大食であったので、

父・義村は彼に向かい、「汝は食を費やすことについては、甚だ余人以上だ。その益は
何かあるのだろうか?」と、問うた。村重はこれを聞き、「武将たる者は筋力無くては

叶いますまい! 槍を突いたり、太刀を打つにしても、余人以上の兵具を持てばどうして
勝てないということがありましょう!」と言い、その場をズンと立ち、

側の碁盤を掻い掴んで引き寄せると、義村をその上に乗せて盤の小角を取り、座敷の
隅の柱どもを3遍数えて廻りつつ、もとの座に置いたので、父は大いに感心し、

「汝は中山の観音に祈ってもうけた子なれば、ひとえに千手の力を受けたのである。
『好堅地底に萌し、芽百囲を生ず』と言われている。今年12歳でこのような大力で

あれば、これからは項羽の山を抜き、樊カイが門を押す力をも得ることであろう。大食
するのも道理であるな」と、微笑して喜んだ。すると村重は、

「大食多力だけで、どうして益ありと申せましょう。“貞松は巌嶺に産す”と言われています。
いま乱世に生まれたことこそ幸いです。悪逆の国賊を誅し、数カ国を領してのちにこそ、

我が大力の益を現すでしょう。生きて五鼎に食まずんば、死して即ち五鼎に烹られん!」
と言ったので、父はますます歓喜し、寵愛は日頃に増益した。

――『陰徳太平記』



865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 08:21:02.75 ID:QYwFUQZ/
後に道糞となるとは思いもしない頃の話である

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 08:27:52.93 ID:XoVJM2Bt
一瞬、荒木大輔がなにゆえ戦国時代に?と思ってしまったのは内緒

「功者の料理人」

2017年04月28日 18:08

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/28(金) 02:41:06.00 ID:TMuztBgN
肥後(細川家)の志水伯耆は島原で攻め口の先頭から、にわかに指物を取り
に人を小屋へ遣した。この際、留守に居た料理人がその理由を尋ねた。

使いに来た者はこうこうだからと言い、指物を取って行った。すると料理人は
その使いを追い掛けて、やむなく指物を奪って帰った。

その仔細は、いま急に攻め口に臨んで乗り入ろうという時に、これから指物を
持って行けば、「伯耆は遅れたのだろうか」と、人々に言われるであろうとの

深い配慮であった。そのため、料理人は「功者の料理人」と、言われたという。
この者は老人であったという。

――『武功雑記』


島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは

2017年04月27日 18:00

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 17:55:42.21 ID:aWpfotaT
島津豊久が関ヶ原にて討ち死にしたのは、彼が討ち死にせねば島津の総勢が撤退すること困難だったためで、
彼とその配下500ばかりが一ヶ所において討たれた。忠死というべきであろう。これによって島津の兵は
事故無く引き取れたのである。
ただし大勢が、豊久が討たれたその場で腹を切って死んだ、と云うのは嘘である(大勢その場にて腹を切て
死せしと云は嘘也)。

(士談)

豊久が死んだその場で薩摩軍集団割腹、という話も当時あったらしい。



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:33:32.53 ID:cU26TiUR
そら豊久は異世界のエルフのとこ行っちゃったからな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 18:43:28.30 ID:MbjlmIMI
>>859
足止め役なのに全員切腹したら意味ないしなw

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 22:04:33.99 ID:UdAgxPiJ
明治になるまで薩摩ってこんな顔の奴ばかりだったんだろ
http://i.imgur.com/S4Y3T.jpg

間宮林蔵は良く潜入出来たな

頂いた白瓜は

2017年04月26日 14:31

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 20:25:41.03 ID:Lm1RqhQh
 京都五条松原の東洞院にある角屋敷で境界をめぐる争いが起きた。
 京都所司代の板倉勝重はその境界争いをしていた者の一方と知り合いであり、
その者は4月初めに見事な白瓜を勝重のところへ贈った。それに対し、板倉勝重
「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
おもむいてじっくりと調査した。
 町中の人たちは境界争いの判決がどうなるか固唾をのんで見守っていると、勝重は
白瓜を贈ってきた男に対して丁重にお礼を述べた後で、「さて、よく調べてみたところ、
この土地は隣家のものであるのは明らかなので、いただいた瓜は後でお返ししよう」と
言い渡して帰っていった。見物していた町の人々は「実に明快な裁きだ」と感嘆しあった。



856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 17:48:53.51 ID:66AtvZvX
一度は賄賂を受け取ったってことになるんじゃないの

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 02:45:46.63 ID:J5Q2jqxA
賄賂に左右されなかったいい話ってことじゃないの

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/27(木) 04:48:59.25 ID:qNUzUGzh
グレーゾーンなら貰っていただろうな

891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 21:04:01.22 ID:kTD+hc0m
>>856-858
そんなもの受け取れるか‼って直ぐに返したら賄賂送ったから沙汰に影響と思われるからじゃない?

>「近日中に境界の様子を見に行く」と答え、しばらく日が経ってから争いの現場へ
>おもむいてじっくりと調査した。
この間に密かに信用できる者に下見させ、結果を知った上で見に行き
周りに人がいる前で賄賂渡したから怒った訳でもなく真に公平で裁きましたと

苦辛城(くららじょう)

2017年04月26日 08:39

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH
灰寺城

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet
http://i.imgur.com/lkzhYhv.jpg
lkzhYhv.jpg

週間ブログ拍手ランキング【04/20~/26】

2017年04月26日 08:36

04/20~/26のブログ拍手ランキングです!


上田宗箇の剛勇 20

岡本加介の討ち死に 14

雑談・楠葉西忍について 10
蘆名盛隆の悪い癖で 7

名ある勇士である上は 5
この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある  5
案の定、長野を討ち取り申した 5

この両人を以て優れた勇者と 4
遠吠えしてぞ 返る犬山 4
乗するかごしま担うぼうのつ 4


今週の1位はこちら!上田宗箇の剛勇です!
上田宗箇といえば、大阪夏の陣では樫井の戦いでの活躍が有名ですが、彼の「武名」のはじめが、火事騒ぎでの
指揮であった、という指摘は面白いですね。火事も合戦も、人の生き死にのかかる緊急時での指導、統率力が問われますから、
そういう部分で評価されるものだったのかもしれません。
その一方で、矢弾の飛んでくる中で大筒の上に乗るというのは、実に豪傑的です。
指導力と豪傑姓、二つ併せ持ってこそ「勇者」というのが、当時の感覚であったのか。そんなことをふと感じました。

2位はこちら!岡本加介の討ち死にです!
小牧長久手でも名を成したという、戦場のベテランと言っていい人の大阪の陣。
この時代の、個人的武功と組織的な利益がどう知り合わされていたか、なんとなく見えてくるような逸話です。
それにしても岡本さんがその最期、考えた通り後藤又兵衛の間近にあって討ち死にしたのも、彼の栄誉と言えるのでしょう。
武士という存在の凄まじさも、確かに感じさせてくれる、そんな逸話だと思いました。

今週管理人が気になったお話はこちら!雑談・楠葉西忍についてです
楠葉西忍といえばその出自の不思議さもあって、あの時代を取り上げる歴史小説、伝奇小説では、時代の怪異性の強調要素として
非常に便利扱いされる人でもありますw
しかし、呉座勇一先生の「応仁の乱」にも出てきましたが実態は、有能な人なのは確かであったのでしょうが、当時の
公的機関にも食い込んでいる典型的な商人、という感じですね。「設定」だけを見て人物を判断してはいけないなあ、
と思わせてくれる人物の一人でもあります。
そして日本にイスラーム教徒が来ていなかったのか、というお話ですが、元寇の時のモンゴル兵の内、何人かは
イスラム教徒であったのだろうな、とは想像出来ますね。それ以外にも、個人的にイスラーム教徒であった人物は、
特に中国南方から日本に渡来していたと思います。だとしたら何故、日本にキリスト教以上に、イスラームが根付かなかったのか、
これは「解らない」としか言いようがないですね。
もしかすると、中国におけるイスラームは元の時代に広まったこともあり、元寇の記憶から、イスラームも親元勢力として警戒された、
ということがあったのかもしれません。ちょうど近世初期にスペイン・ポルトガル勢力とカトリックが同一視されたのと似たような話で。
もちろん文献にそう記されているわけではありませんが、そういう想像も有りうるかなと思っています。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

名ある勇士である上は

2017年04月25日 18:40

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 05:13:46.15 ID:+SgLkxQo
蒲生氏郷が伊勢国松島在城の時、蒲生主計栗生美濃との間に口論があった。
ふと気づくと、蒲生主計の後ろには山中大運が、栗生美濃の後ろには倅の東が小脇差を持って
つめかけ、この二人が刀を抜けば、即座に突き掛かろうとの風情であった。
これに主計も美濃も、冬であるというのに大汗を流したという。

この時の評に、主計も美濃も大汗を流すほどに思っていたが、両人ともに相手を討ち果たせば
この場で多くの人が損ずると思って、そのようにならなかったのだ、という。
どちらも特別な勇士どもであり、いずれにも越度という物はない。
「両人ともに後ろ詰めに迷惑して汗を流した」と言うべきだが、その頃の評も殊勝である。

加藤清正、加藤嘉明、福島正則といった人々も、1年に2,3度づつは口論問答があったが、
それによって争いごとに成るということは聊かも無かった。
名ある勇士である上は、そうあるべき事である。

(士談)


この両人を以て優れた勇者と

2017年04月24日 17:17

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/24(月) 09:01:54.06 ID:l5bkCo34
大阪冬の陣、塙団右衛門直之の夜討ちの時、大阪方にて勇猛の働きあったのは木村喜左衛門であった。
木村は誰よりも先に出て、蜂須賀の陣より出て来る者たちを叩き伏せた。
しかし股を突き抜かれたが、その攻撃をした相手も突き殺した。
これは蜂須賀家の中村右近であったと言われる。
木村はその負傷が元で、城中に帰った後死した。

また冬の陣の今福の戦いで見事な振る舞いがあって負傷したのは大井可右衛門であった。
彼も、誰も続くものがないほど先駆けし、その戦闘の負傷により城に帰って死した。

冬の陣の大阪方では、この両人を以て優れた勇者とされる、

大井可右衛門は牢人にて京にあったのを、冬の陣前に池田家に招かれたのだが、大野修理が
秀頼の命であると行って、入城させたという。

(士談)


この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある

2017年04月23日 16:54

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 02:16:34.28 ID:rgVM3E7M
同年(天文18年)2月下旬より、備後守殿(織田信秀)は疫病を患いなさった。
療治祈祷の効果もなく、同3月3日夜、ついに末森の城で病死なさった。

行年42歳。上下万民は愁嘆追悼し合った。法名を桃巌居士と号す。曹洞家
の禅宗である。備後守殿は存命の時に一宇を建立し、これを萬松寺という。

すなわち、この寺で信長公より、たくさんの施行を引き、関東上下の会下僧
3百人余を集めなさり、美々しき法事を行いなさった。

嫡男なるが故に、信長公は今年16歳なれども、すなわち家督を継ぎなさった。
右の法事の時、萬松寺へ参詣され、林、平手、内藤、青山が御供に参った。

次男・勘十郎信行は武蔵守と号す。これも同じく参詣なさり、御供には家臣の
柴田権六(勝家)、佐久間大学(盛重)、佐久間次右衛門、山田弥右衛門、
長谷川宗兵衛らがいた。また聴聞見物のために貴賎上下が群がり集まった。

信長公は焼香に出なさった。その出で立ちは甚だ異形であり長柄の刀と脇差
をみご縄に巻いて差し、袴も着なさらず髪は茶筅に巻き立てて結いなさった。

仏前へ出でなさると、信長公は抹香をくわっと取り掴み、仏前へ投げ掛けて
帰りなさった。勘十郎殿は折り目高の袴に肩衣で、あるべき体の装束だった。

見物の諸人らは皆、信長を指差して、「これはまた例のうつけ者よ」と言って、
とりどりに批判した。しかし、その中に筑紫往来の客僧が1人いて、

「何と見ていたのだろうか。この人にこそ、必ず国郡を保つべき威がある」と、
相し申したということである。

さて、信長公は末森の城を勘十郎信行へ進ぜなさり、柴田、佐久間以下歴々
の臣下を付け置きなさった。また信長は自ら改名して上総介と名乗りなさった。

――『織田軍記(総見記)』



750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:15:38.30 ID:p+EnUnNt
上総守に改名したんじゃないのか

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/23(日) 07:16:17.37 ID:p+EnUnNt
改名じゃなかった、名乗ったんじゃなかったのか

蘆名盛隆の悪い癖で

2017年04月22日 17:04

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 16:59:17.93 ID:hu64FrmF
会津の蘆名盛隆に、三左衛門(大庭三左衛門)という小姓があった。
彼は18歳までに3度、敵と鑓を合わせたことから、三左衛門と号した。

はじめは二本松家に仕えていたが、蘆名盛隆が気に入り、これを所望した。
二本松側は「心を見届けて居ない者であり、如何かとも思いましたが、たっての御所望ですので
遣わします。」と、会津に彼を遣わした。

会津において彼は盛隆に寵愛された。しかし、後になるとその寵愛も衰えた。

蘆名盛隆の悪い癖で、彼は初めに寵愛した小姓も、成長のあとは必ず悪く云い、噂も色々と言い立て、
嘲弄することを好んだ。
三左衛門もこの仕打ちを受け、深く憤った。

ある朝、盛隆が鷹を手に据えて居た所に出てきた三左衛門に対し、彼を侮り嘲った。
三左衛門、一刀にて主人を殺し、逃走を図った。

蘆名家の家老たちはその座に居ながら、呆然として三左衛門を仕留めることはできなかった。
その次の間まで切って出たときも、ここに居た24,5人の番人たちは仕留められず、彼は
そこから駆け出た。しかし蘆名家の者たちも追々集まり、遂に打ち留めたという。

(士談)


上田宗箇の剛勇

2017年04月21日 10:19

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 08:55:27.66 ID:uFvNYzkl
上田主水(宗箇)は初め丹羽長秀に仕え、小姓奉公などしていたが、本能寺の変後、明智光秀への関与を
疑われた織田七兵衛尉信澄が大阪城(石山城)の本丸に居たのを、長秀の軍勢で取り巻き、信澄が自害に
及ぶ時、上田主水(当時16,7ほどであった)が城内に飛び入ると、信澄は既に自害しており、
そこでその頸を受け取って退出したという。あくまで剛勇の生まれ付きの者であった。
後に太閤秀吉に1万石で仕えたが、関ヶ原の時三成に属した科を以て、本領を没収された。

ここで、浅野紀伊守(幸長)はかねてより彼を知る好であったので、徳川家康に対し「茶友達」との事で
身柄を引き受けたいと要望した。
上田は三成に属しただけで、事の顕れた悪事もなかったため、家康は免許した。
以後、浅野家に属し1万石を領した。

実は上田は、その頃までさして名を得た功は無かったのだが、浅野の屋敷の近隣にあった
中村式部少輔(一氏)の屋敷に火事が出た時、破風口に一人出て延焼を防ぎ止めた振る舞いは、
只者とは見えず、当時の人達はこれを大いに賞賛した。
また、大阪の陣において柏の井で一番に鑓を合わせた。
以上の人に知られた働き2度のうち、一度は火事の覚悟であったといえる。

大阪冬の陣の時、浅野但馬守(長晟)の仕寄の場所に大筒を設置したが、但馬守の足軽が竹束の間から
外を覗いたところを、大阪城内より鉄砲にて難なく撃ち殺された。
その直後、上田宗箇は大筒に乗り掛かり、顔を出して四方を見回した。

彼をめがけて城中より鉄砲が雨のごとく降り注いだが、彼はまじろぎもしなかった。
類まれな勇者であったといえる。

(士談)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 10:06:23.60 ID:Y9xTky+j
戦が少なくなると武士が名を上げるには火事の対応とか無意味に躰を危険に晒すとかぐらいしか無いって、淡く切ないお話しですね

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:33:14.29 ID:pNPhOchv
へうげものの武闘派上田宗箇を思い出したけど
大坂冬の陣でこの場面あったっけ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 16:45:51.95 ID:5HHheB3O
敵がくれの茶杓作った位しか出てない

雑談・楠葉西忍について

2017年04月21日 10:16

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:14:41.31 ID:TiEVwH//
教科書的には日本にキリスト教が伝わったのは1549年という事になってるけど、景教として遣隋使か遣唐使が持ち込んでるんだっけ

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:37:40.76 ID:t9KytjzS
イスラムは入ってこなかったんかねえ
宋か明くらいには入ってきてるはずだけど日本には来なかったんだろうか

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 00:50:33.39 ID:uFvNYzkl
>>741
室町時代の商人・楠葉西忍(幼名ムスル)の父である「天竺人ヒジリ」がイスラム教徒だったという説が在る

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 01:33:19.92 ID:pNPhOchv
朝松健の一休伝奇ものに西忍が出ていたのを思い出す
後は「聚楽第 太閤の錬金窟」でギヨーム・ポステルが日本に来たことにしている
宇月原 晴明の「黎明に叛くもの」て小説でも大乗院寺社奇事記のムスルの話を引用してた。
(果心(カシム)居士や松永久秀や斎藤道三がアサシン教団員だったという話)

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 02:10:55.19 ID:pNPhOchv
訂正
史実の西忍についての話が載ってるのは「大乗院寺社雑事記」で
上の小説で引用していた「大乗院寺社奇事記」はそれをもとにしたフィクションだった。

本当の「大乗院寺社雑事記」の西忍記事は文明18年2月15日の死亡についての記事が一番まとまってるので
国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155249
の217コマ目を参照してほしい。
(93歳で死んだとか、父親が天竺人だとか、幼名がムスルとか書かれている)

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 07:15:42.95 ID:5HHheB3O
パルクールを駆使して稲葉山城に潜入する道三なんて想像してオラわくわくすっぞ

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 17:19:32.99 ID:dooTgSY+
こんなの見つけた

京都の西本願寺といえば、親鸞<1172~1262>が開いた浄土真宗の本山です。
その宝物中には親鸞もよんでいたという<世尊布施論>があります。
これはじつは仏教の経典ではありません。
中国で7世紀に景教徒によって漢語に訳された景教の経典なのです。
それが日本にも持ち込まれていたのです。
この<世尊>は釈迦ではなく、イエスなのです。
内容も、イエスの<山の上の垂訓>(マタイの福音書5~7章)に始まり、
イエスの生涯、教え、基督教の救いなどについて述べています。

http://www.asobine.com/article_blog.php?shopid=409&blogmode=new&story=BL0000003355

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/21(金) 19:26:09.88 ID:T+yycnAH
空海は新訳聖書を、最澄は旧訳聖書を持ち帰っているとどっかに書いてあったなあ
眉唾なのだと聖徳太子の傍には景教徒がいたってのもある

ここでも馴染みのある松浦静山は群馬の多胡碑にJNRIと刻まれた石槨と十字架が見つかったと甲子夜話に記しているらしいね

岡本加介の討ち死に

2017年04月20日 21:18

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 22:57:07.47 ID:NUslccIW
豊臣秀次の家臣であった岡本加介は、長久手合戦でも功のあった人物で、
後に松倉豊後守(重政)に属した。

大阪冬の陣の折、大阪城中より鉄砲をつるべ撃ちすることがあり、幕府軍の先手が騒ぐ時、
岡本は一番に進んで城際まで付くと、さらに先に人が居たので追いかけてみると、
それは同じ家中の奥田三郎右衛門であった。

このつるべ撃ちは、敵の攻勢などにつながるものではないと判断し、両人連れ立って帰ったが、
松倉隊は備えを丸く立て臨戦態勢を取っていた。そこで両名が帰って報告し、備えを立てるまでもない
状況だと解った。

この奥田と岡本は、夏の陣では松平下総守(忠明)の陣を借り前線に出て、6日の早朝にそろって討ち死にした。

岡本加介は、後藤又兵衛を必ず討ち取ると言っていた。その故を人から尋ねられた時
「後藤はいつも一番に先に出る者であるから、私は魁してこれと打ち合うのだ。」
と答えたという。

果たして岡本は、後藤が討ち死にした場所から6,7間(約10~12メートル)ほどの近接した場所で、
鉄砲にあたり討ち死にを遂げた。

遠吠えしてぞ 返る犬山

2017年04月20日 21:17

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/20(木) 01:51:53.36 ID:70+44rP6
備後守殿信秀は古渡の城を破却して、末森というところに山城を築き移り居なさった。

信長公を名古野に置きなさり、また守山というところに要害を構えて、舎弟・孫三郎
(信光)を差し置きなさった。

天文18年1月17日、上の郡犬山、楽田より人数が出されて、春日井原を駆け通し、
龍泉寺の下、柏井口へ相働き、所々を放火して煙を上げた。

即時に備後守は軍兵を率いて末森より駆け付けなさり、一戦に及び切り崩し、数十人
を討ち取りなさった。犬山楽田の衆は春日井原を逃げ崩れて、ことごとく敗軍した。

その時に落首があった。

「鑓縄を 引き摺りながら 広き野を 遠吠えしてぞ 返る犬山」

――『織田軍記(総見記)』


案の定、長野を討ち取り申した

2017年04月19日 17:42

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 00:58:15.82 ID:wYPUMJsa
信長公が伊賀へ御働きの時、伊賀者の平岡道一兵衛は、

『長野を討った者はこれ程の褒美を、新藤を討った者はこれ程の褒美を、
その他誰々を討った者には褒美幾つ』

との書付を見ると、一番の長野を平岡は討つとして点をかけた。人は皆、
「何事を申したるぞ」と疑い申したので、道一兵衛は、

「道理がなければ、斯様のことは申されぬものぞ。それがしの達者は人に
優っておろう。鉄砲の腕は人に負けまい。然れば良きところに待ち受けて

長野を撃てば、真っ甲を2つに打ち破ることだろう。すぐさま首を取って
帰ろう。敵が馬上で追ってきたら、馬足の叶い難い山へ向かって退こう」

と言って案の定、長野を討ち取り申した。のち、道一兵衛は松平下総守
(忠明)のところに有り付いた。道一兵衛は首を17取ったという。

――『武功雑記』



835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 16:50:12.05 ID:iZ3hMjIN
長野、進藤というのは北畠と六角の旧臣かの

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 19:32:34.53 ID:CyHQba5b
長野ってあんまり北畠傘下ってイメージがしない

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 19:37:16.66 ID:iZ3hMjIN
長野貝藤も知らんのか

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 19:38:53.22 ID:iZ3hMjIN
具藤やったわw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 19:57:27.63 ID:onsu3qCE
具勝

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 20:11:57.99 ID:CyHQba5b
知っとるけど、たかだか20年くらいじゃん?
それまでの手を組んだり戦ったりしてたイメージのほうが強いってことだよ?

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/19(水) 21:50:19.30 ID:fIe5ns6u
それは全て信長が悪い

乗するかごしま担うぼうのつ

2017年04月19日 17:41

昔近衛殿(近衛信尹)が何の理由のよるものか、
秀吉公の御時に薩摩の坊津へ御流しになられた。
配所の鹿児島へ移られときに

大臣の車にはあらであはれにも 乗するかご(駕籠)しま担うぼう(棒)のつ

(昨日は今日の物語)


週間ブログ拍手ランキング【04/13~/19】

2017年04月19日 17:35

04/13~/19のブログ拍手ランキングです!


自分の手で頸をもたげ 16

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論 13
岐阜城攻めのくじ取り 13

人間無骨の槍 12
ギョーム・ポステルの日本観 11
金森長近の質素 11

「太平記」とよばれる歴史物語 10
「『ちゃんきのもんき』、とは何だ?」 10
これ故に先立って戦死を遂げる 7
よむいろは教ゆる指の下を見よ 7

杉江勘兵衛を討ち取ったのは 6
三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱 6
龍造寺隆信「塚崎の湯」 5
軍令違反者には御宥恕がなかった 4



今週の1位はこちら!自分の手で頸をもたげです!
北条家の武士、勝田八左衛門さんのすさまじい生存劇。まあ「半ば斬られた」などは流石に文飾が入っているのでしょうが、
もう助からないと思われた重傷でも、自分で生存をアピールしたその生命力には感嘆の念をいだきます。
こういう話を見ると、少なくとも関東では、武士とは生命力、という気がしてきますね。
最悪の戦場に放り込まれても行きて帰ってくるのが良き武士、なんて思えてきますし、それは当時の認識から
そう離れては居ないのだろうなと。
そんな事を思わせてくれる逸話でした。

2位はこちら!岐阜城攻めと城受け取りの時の争論です!
岐阜城攻めとその受取で、福島正則が我を通したお話ですが、このあたりはどうも、後に正則が改易されたことから逆算して、
関ヶ原当時から協調性がなく反抗的だった、というように想像されたというフシが有り、どうも実際には大きな摩擦は
無かったんじゃないか、なんて言われたりしています。福島正則も流石に、東軍の協調を乱すのはどういうことかを解っていた
はずですからね。じゃあ伊奈昭綱の切腹はどうなのか、というと、アレは家中の統率が関わるのと、敵が消滅した以上
家康は良くも悪くも豊臣家筆頭家老の地位に「戻る」と考えた意識の齟齬かなあ、とも。
わりと有名ですが、色々考えされてくれる逸話だと思います。

同票で2位はこちら!岐阜城攻めのくじ取りです!
こちらも岐阜城攻めのお話ですが、多くの諸将が大手攻めを望んで、搦手を嫌がった、と言うのは面白いですね。
合戦において大手がメインストリート、搦手は裏路地、という意識があった、ということでしょうか。
ただ、どうも城において「大手」「搦手」をことさら分けて考えるのは近世かららしく、戦国期はあまり区別しなかった、
ぶっちゃけ「どうでもよかった」という説もあります。
こういう事を考えると、大手か搦手かで争ったというのは、見栄の問題ではなく戦術上の問題に起因する可能性があり、
そういうところを見ながらこの逸話を読むと、新たな発見があるかも、なんて思いました。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
又気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

「太平記」とよばれる歴史物語

2017年04月18日 18:23

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 21:37:32.59 ID:MsDcnCUQ
ジョアン・ロドリゲスは過去にも何度かスレに出てきたポルトガル出身のイエズス会宣教師で
10代後半を日本で過ごし耳川の戦いにも参戦し、日本語に関する「日本大文典」「日本小文典」を書き、
明の軍事顧問をした人物だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8123.html
集英社のシリーズ<本と日本史>④「宣教師と『太平記』」の日埜博司編訳ジョアン・ロドリゲス『日本小文典』から孫引き

まさしく日本語でものされているというふさわしい書物で、生徒たちに講じてやってもよいものを、
クラス別に分けてみるとつぎのようになる。
第一のもっとも低いクラスには「舞」および「草子」がくる。
第二のクラスには「撰集抄」「発心集」というものがはいる。
第三のクラスには、歴史物語を意味する「物語」という名の書物がはいる。
たとえば「平家物語」「保元平治物語」がそれ。これらはこのジャンルに属するもののうちでは
ひときわ優れたものであり、いちだんと優雅な文体からなるものである。
第四のクラスには、「太平記」とよばれる歴史物語がはいる。
これは日本にあるもののうちもっとも荘重で高尚な文体のものである。

「宣教師と『太平記』」では、太平記を平家物語の上位に置くという考えをロドリゲス特異のものでなく
戦国日本の評価をある程度反映したもの、と論じているが、興味深かったのでロドリゲスに関する話として


人間無骨の槍

2017年04月18日 18:22

森長可   
831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 23:11:23.85 ID:K6rQcq2l
人間無骨の槍

かの武州(森長可)が戦で持っていた人間無骨という槍のことは、
今でも町の中にいる軍書よみという者どもの口からも普く出ている。
先年美濃守(森忠賛)と同席した時に話し合ったなかで、
濃州が話してくれた。

「正しく今でも伝わっています。すなわち出入に見られる玄関に掛けてあるものがそうですよ。」

と答えたので注意して見ると、成程殊に大きな十文字槍である。
立ち寄って見たけれど、さすがに勤番士が並み居る前なので憚って、
濃州に頼んでその図を写してもらった。
今思い出して図を出して見ると、直刃がけら首から鋒までは一尺二寸二分、
横手刃端の見渡しが一尺一寸であった。
直刃のところに血漕が一筋あった。横刃には二筋で表裏で違っていた。
四分の所に、表に人間と彫り、裏に無骨と彫ってある。
茎には和泉守兼定と銘じてある。

また濃州の話か、もしや馬谷〔軍書よみの名〕の話か、今は分明でないが、
武州が戦争のとき首を獲って、この槍鋒に貫き槍を立てて一突きすれば、
首が槍柄を貫いて槍の下に至ったという。
剛者の所為といえども、これはこの刃が鋭いためであると聞いたことがある。

(甲子夜話)

蜻蛉ではなく生首とは…


832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/18(火) 19:58:13.20 ID:Aio4r9/e
和泉守兼定
あまりに切れ味がいいので手にすると無性に人が斬りたくなるのである。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/18(火) 23:53:22.49 ID:DRuzF2OV
三斎様「うん、しょうがないよね」

杉江勘兵衛を討ち取ったのは

2017年04月17日 11:34

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 08:55:19.10 ID:8+na5zsz
田中筑前守(吉政)の家臣の内、関ヶ原の役、合渡川合戦において石田三成の家臣で武勇を知られた
杉江勘兵衛と鑓を合わせ討止めたという者が3名あった。
西脇五右衛門松原五右衛門尉辻勘兵衛の3人である。

実際には、西脇が杉江と鑓を合わせて突き合いをしていたが負傷した所へ、田中吉政自身も駆けつけ
声をかけ、西脇がさらに奮戦していた所、松原が来て突き倒し頸を挙げたのだ。
辻勘兵衛は通りざまに鑓を合わせただけであった。

しかしてその後、西脇と松原はこの時の功を争って止まなかった。
吉政が筑後拝領した初め、磯野伯耆守の所で吉政は、両人が未だに絶交状態であると聴き、
両人を呼び遣わし、その間に、杉江を討ち取った事についての、全く同じ文章の感状を二通したためた。
両人へこれを渡して、仲直りをさせたのである。

辻勘兵衛はこの合戦の時、他の敵と組み討ちの功があり、別途その功についての感状を与えられた。

田中家改易の後、松原五右衛門尉は三千石あまりにて越前へ、西脇は七百石にて肥後へ、辻は肥前と称し、
浅野但馬守の所へ参った。

(士談)


龍造寺隆信「塚崎の湯」

2017年04月16日 17:57

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 19:13:30.20 ID:GzosjAB6
なんか可愛いなと思ったので
我らが五州二島の太守、隆信公が弟長信に宛てた二通の書状をご紹介

─御書面被見せしめ、其心を得候、随って塚崎の湯の儀申し入れ候、一日成り共、早々しく参り候様御用意寛容たるべく候、恐々謹言

─先日塚崎湯の儀申し入れ候処、整え給い候、祝着候、何様是を持って快気たるべく候

前者は天正三─五年頃隆信が長信に武雄温泉の入湯の世話を督促した物で、後者は同じ頃と推定される書状の中に記された一節

隆信さんの湯船に浸かってちょっと気持ちのいい話



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 11:54:51.92 ID:u9FIza9O
慶次「なんと風呂に入りたいとな?」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 12:01:30.70 ID:i78KihVc
家定「同姓の誼で是非それがしに馳走くだされ」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 14:05:55.15 ID:F47w/3EZ
>>817
山全体を要塞化したら2万人位守備兵が必要だな
長篠城とか上田城みたいに小さくても守る場所が限定
出来て少人数で大軍を撃退出来る城こそ名城といえる

三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱

2017年04月16日 17:56

825 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/16(日) 15:54:11.51 ID:cYLpXntL
山名豊国の話

「豊国大坂御陣の供奉にありしとき、旗の紋三引なりしを、三浦とわかたんがため、
山の字をくはふ。
 東照宮これを台覧あり、三引の下に山の字を加ふときは、さんざんの唱あれば旗の紋
をあらたむべきむね仰により、二引両に山の字を用ふ。
これよりして家紋も二引両にあらたむ。」
「出典 寛政重修諸家譜」


ギョーム・ポステルの日本観

2017年04月16日 17:56

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 20:11:15.64 ID:5urH6aPk
ウィリアム・J・ブースマ「ギヨーム・ポステル 異貌のルネサンス人の生涯と思想」より、ギヨーム・ポステルについて

西欧の言語はもちろん、ヘブライ語、アラビア語など様々な言語を習得し、
すべての言語はヘブライ語に由来するといった本を記述し、比較言語学の創設者の一人とされ、
フランス王フランソワ1世に数学や言語学を教授し、
イエズス会に入り、自分が翻訳した聖書で世界中をカトリックに改宗させようとし、
カバラ思想によってプロテスタント的な千年王国思想を広めようとし、
ある女性を「新しいエバ」、彼女によって生まれ変わった自分を「第二のカイン」、とみなし、
なんだかんだで異端審問にかけられ、「狂気」の判決を受ける、
という波乱万丈の人生を送ったギョーム・ポステルであったが、その日本観。

日本は自然理性の一種のユートピアであり、
・日本人は3つの偶像を崇めているが、それは三位一体を認めたためである。
・神の前でとりなしてくれる処女なる母(脇から出産した摩耶夫人?)を崇拝し、彼女の息子釈迦の伝説を守り伝えている。
・日本人は一神教徒でもあり、賞罰を伴う死後の生を信じている。
・共同生活に基づいた一種の修道院制度を実践し、断食、祈祷、説教をする。
・長子相続制と君主による宗教的共同体の統率の有効性を堅く信じている。
そのため、日本人が現に行っていることをイエスの名においてなしさえすれば、彼らは「世界でもっとも完全な人間」となる。
こうして神は東方を善行のうちにとどめ、東方以上に完全な生き方はない。
かたやキリスト教という至高の教義が今に至るまで支配してきた西方には、キリスト教徒としての完全さや純粋さはほとんどど残っていない。

 西欧批判のためにユートピアとして持ち上げられているとはいえ、日本仏教とキリスト教の類似点の指摘や
 長子相続制と君主の権威主義という、エマニュエル・トッドがドイツと日本の共通点として挙げている指摘が見えて面白い
 ツッコミどころ満載なので悪いスレに投稿



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/20(木) 19:47:40.19 ID:UFErlbpi
>>735のポステルの詳しい内容が彌永信美「幻想の東洋」オリエンタリズムの系譜、にあった
・東方の三人の王はユダヤ人よりも前に主イエスの誕生をお知りになった。けだし西方のことどもは優れたる東方のまぼろしにすぎない。
(この後>>735の日本人が現に行っていることを~、という文章が来る)
・ザビエルの弟子のヤジロウの報告書によれば、日本人はすべて唯一の神を知り、それを彼らの言語で「ダイニチ」と呼び、
一身にして三頭を具えた形で描く。ただこの三頭について彼らはいかなる説明もできない。われわれには三位一体由来なのは明らかである。
日本人は頭や腕が多いほど大いなる利益の力を持つと信じ、ついには百の腕を具えた像まで作ったのである。
これは高僧らの無知と過誤に由来することで、彼らは民衆がキリスト教の正しい教理から偶像崇拝に立ち戻ることを許してしまった。
もともと東方の三人の王が日本人を改宗させ、聖トマス(インドで布教したと伝えられる)によって教えが確認されたにも関わらず、
彼らは徐々にイエスについての真実を次に語られるシャカの物語に改変してしまった。
シャカの父親は浄飯大王(Iambondaino)、母親を摩耶夫人(Magabonin)というが、これがヨセフ(Iosef)とマリア(Marie)をもとにしたことは
最初の文字が「I」「M」であることから明らかである。
この王は夢で子供のかたちをしたものから「我、汝の妻より生まれ出ずることを欲す」と言われたとされるが、これは天使による受胎告知である。
王は后に触れぬことに決め、后は処女のまま身ごもった、とされる。このようにイエス誕生の物語が改変されて伝わっている。
后は産後死に、后の妹がシャカを養育したが、二匹の蛇が近づいてきて、彼に大いに水を灌ぎかけた(灌仏会では九匹の竜)。
これは洗礼についての記録であり、日本人はすべて洗礼を受ける。また蛇はサタンの記憶の混同である。
シャカは三ヶ月目には真っすぐ立って「我は天と地における唯一の帝王なり」と述べた。
これは「我は天にても地にても一切の権を与えられたり」との主イエスの言葉そのままである。
彼は19歳の時、人の世の悲惨を感じて山に出向いたが、これは山上の垂訓にみるとおり主イエスのことである。
こうして八千人の弟子を集めたシャカは隣接する人々を改宗させ、偶像を破壊し、崇められていた寺院や聖地を躊躇なく壊したのである。
シャカの弟子達は日本にも到来し、そこでも偶像を破壊した。それゆえ今日でも日本では偶像の破片などが見られることがある。
このシャカはすべてのものを想像した唯一の神の存在を教え、その姿を一身三頭に描かせた。
彼はまた人々に5つの掟を与えた。「他人を殺すなかれ(いわんや自分自身を)」「盗むなかれ」「姦淫するなかれ」「思い悩むことなかれ」「罪人を許すべし」
これらの掟を与えられるのは主イエスをおいてほかにないのだから、シャカが主イエスを元にしたのは明らかである。

ヤジロウの仏教観はおそらく戦国日本一般の仏教観とほぼ同じと思われるが、
イエズス会が当初、仏教の用語を利用して日本人を改宗していたのって、親近感を得るために仏教の仮面をあえてかぶったんじゃなくて
本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/20(木) 23:43:28.11 ID:MLRX6GjQ
>本気で仏教をキリスト教の反映と考えていたのだろうか

2008年ノーベル物理学賞の
南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3人が
東方の三博士になぞらえられていたのを思い出した

岐阜城攻めと城受け取りの時の争論

2017年04月15日 18:59

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:19:54.21 ID:84ycGhCm
岐阜城攻めと城受け取りの時の争論


岐阜城攻めの日にあたり、大手の主将(福島)左衛門大夫正則を初め
細川越中守忠興、加藤左馬助嘉明、生駒讃岐守一正、寺沢志摩守広高
蜂須賀長門守至鎮、京極侍従高知、井伊兵部直政が萩原の渡りを越え
敵地の家屋に放火して太郎堤に陣した。

搦手の主将は池田輝政で浅野幸長、山内対馬守一豊、有馬豊氏
一柳監物直盛などは河田川岸を臨む所にいたのだが
岐阜城からは百々越前守(綱家)が三千ばかりの人数で新加納に出張して
川端へ備えを出して持ちこたえようとしてきた。

一柳直盛は(尾張国)黒田城主なので、川口の渡り瀬を心得ており一番に
川へ乗り入れ、その配下が瀬を渡っていくのを見てから、輝政は先手に
伊木清兵衛を初め家中一同を上の瀬に渡らせた。
したがって浅野、堀尾などその他の軍勢も各々川を渡り向こう岸へ馳せ上る。

(岐阜方の)兵が弓鉄炮を持って防ぐのだが、大軍が一度に押しかければ
悉く崩れてしまい引き返していった。
また飯沼小勘平(長資)を池田備中守長吉(輝政弟)自身がこれを討ち取った。
城方の主力は新加納に控えて防戦しようとしたが叶わず城中へ引いた。
搦手へ向かう途中新加納での競り合いでは敵の首級を七百余り討ち取り
そのことを輝政が江戸と太郎堤(大手側)にも知らせた。

すると正則は大手の諸将達に向かって
「各々はどう思われるか、搦手へ向かった面々は新加納で首尾よく
 逢えたそうだが、こちらは敵勢が出てこなかったので逢えなかった。
 ただそれだけのことではあるが、明朝の城攻めのとき千万に一つも
 搦手の面々に先を越されてはどうにもならないのだから
 今夜中に岐阜の城下まで人数を押し詰めるのがよいと思う」
と申されたので、みなこれに同意して急ぎ支度を調えて、酉の下刻から
戌の上刻までに繰り出して、岐阜の町はずれ近くまで押し詰めた。

夜が明けるのを待って段々と攻め上っていくところに、搦手も主将輝政を
初めとして着陣し攻め上ってきた。
そこに正則は大手方の諸勢を押し上げるため、大橋茂右衛門、吉村又右衛門に
申し付けてそのまま左右にある家に火をつけて焼いてしまった。
それで煙が山下へと吹きかかるので、池田を初め搦手の軍勢はここから
攻めることが出来なくなったので、輝政は大いに怒って軍勢を引き返させ
長良川のあたりにまわって水の手より攻め上った。

大手口では木造百々津田などが突いて出て坂中で防戦するので
寄せ手は大軍だったが直ちに攻めることはできなかった。
搦手からは城兵が出てこなかったので瑞龍寺の砦まで進んだ。
この砦には石田方から加勢として樫原彦右衛門、川瀬左馬助を主将として
二千人余りで守っていたが、浅野左京太夫幸長の家中の者共が一番に
攻めかけたのを見て、搦手の軍勢は一同に攻め寄せ急に乗り入った。
城兵がこれを防ぎかねている所、さらに大手勢が次々に攻め入ったので程なく
出丸は落ちて、樫原彦右衛門を浅野幸長の家人の岸九兵衛尉が討ち取った。
川瀬左馬助は二の丸に行った後本丸にこもったという。

(中略)

さて大手搦手の軍勢が悉く攻め上り、城兵が余りにも多く
討ち取られてしまったので敵は二三の曲輪を捨て本丸へとこもったが
池田家の旗奉行は武功の者だったので城内へ手早く旗を入れた。
したがって岐阜城は輝政が一番乗りしたように見えた。

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:20:30.78 ID:84ycGhCm
(織田)秀信の家老の木造左衛門が正則方に降参し、主人の秀信の助命があれば
本丸を明け渡すことを伝えると、正則は差し支えないと返答した。
家人の可児才蔵に使番の侍共を添えて味方に矢留めのことを触れ回らせた。

その後寄せ手の諸将が集まったとき、秀信を助命するのはどうかという話になり
左衛門太夫が
「秀信は自身の不了簡で内府(家康)へ敵対されたが、信長公の嫡孫であることは
 間違いなく、味方の中には信長の厚恩に預かった筋目の方もいるので
 この正則の計らいをよもや悪くは思わないだろう。我は織田を贔屓する
 筋目ではないが助命を承り、左様に心得て返答に及んだことなので
 今更変えようとは思わない。秀信の助命のことが内府卿の心に
 叶わなかったら、我の今度の骨折りを無にしてもらうまでのことだ」
と申されたので、その後あれこれと申す人はいなかった。
秀信は正則の世話で芋洗という所に逗留された後
関ヶ原御合戦後は紀州高野に登山して程なく病死したという。

秀信が出城した後、城受け取りのことについて正則と輝政とで争論があった。
正則は城主秀信から助命があれば城を明け渡すと申してきたので、願いの通り
助命するから城を空けるようにと返答した上は我らが受け取るほかないという。
輝政はそのことはもっともだが、我らの旗を一番に城内に入れたのは間違いなく
弓矢の古法に照らして、城を我らが受け取れないことがあるだろうかという。
大手搦手の諸将はみな並んでおられたが、面々には関係のないことである上
難しき争論の話なので、みな口を閉じ仲裁する人もいなかった。

井伊直政と本多忠勝が二人の間へと入られ、正則に向かって
「先程よりここで聞いていましたが、御双方ともに根拠があることですから
 御両人の御家来を立ち会わせて受け取るのはどうでしょうか」
と申されたが、正則は
「それは普段、人がいる城などを受け渡しする時のことで
 攻め落とした敵の城を受け取るときは、左様にはしない」
と申されて埒が明かなかった。

そのとき本多中務(忠勝)は一柳監物の側に寄り、何事か小声で申した。
輝政は近い所にいたので監物に
「中務はそこもとに何を申されたのか」
と尋ねられたので、監物は
「『今度の逆徒追討で各々命を投げ打たれ
  内府へ合力して下さる以上は、少々の不足があっても
  内府の為によきようにしたいと思って下さるのだと考えていた』
 と申されました。もっともだと拙者なども思います」
輝政はそれを聞かれて
「本当に中務の申されることはもっともだ。内府の為に
 不足を取るべきなのはそれがしより他にはいないのだから
 正則が城を受け取るのがもっともだ」
と言われ事が済んだという。

そのとき正則は
「最初に両人の衆(井伊・本多)が申された通り、両家の立ち会いで
 受け取るので輝政の家人も出されるように」
と申されたが、輝政は
「我らの家来を出すには及ばない。時が過ぎてしまったので
 早々に城受け取りの片をつけた方がよい」
と申されたという。

岐阜城攻めのときの正則と輝政の争論と世に知られているのはこのことだと
一柳助之進(直良)が語ったのを聞いて書き留めた。
きっと親父の監物殿が雑談されたことがあったのではないかと思う。


――『落穂集』



817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 15:25:04.56 ID:WMM//8tO
岐阜城は見た目は堅城そうなのに
あっさり陥落し過ぎだよな
http://i.imgur.com/4PTFNsx.jpg
ぎふ

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 16:51:46.84 ID:2QxKWdjF
常真さんでも落とせる岐阜城

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:04:45.57 ID:RKT7CIGM
後詰めなけりゃ落ちるわ

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 18:51:08.08 ID:VwHS4dM6
岐阜城は水源が少なくて大勢で籠城するとあっという間に干上がる、と聞いたことがある。

これ故に先立って戦死を遂げる

2017年04月15日 18:56

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 21:38:46.57 ID:6vo126Lp
木村常陸介(重茲)の家臣に、岡田藤十郎という者があった。

16歳の時、秀吉の小田原役における八王子城攻めにおいて、頸取源八という者が頸を引き下げて
出てきて、「一番首なり!」と高らかに宣言した。
ここに岡田が来て
「源八ははや頸を得たのか。さては面白くもないことだが。」
そう言いながら城の方へ行き、そこで朱具足の者と突き合い、難なく突き倒して頸を取ろうとした、
が、考えを変えそのまま先に行き、また他の敵と突き合ってその頸を得て帰った。

「初めの頸を何故棄てたのか?」そう問われると岡田は
「兜の下を見ると法師武者であった。だから棄てたのだ。」と言った。(高齢の武者だったから、
という意味であろう。)
常識はずれの勇士である。

この岡田藤十郎、朝鮮征伐の年、18歳にて高麗に渡り、優れた働き多かった。
しかし木村常陸介の定めた軍法を破って先に出ること度重なったため、常陸介は大いに怒り
「重ねて左様なことあらば、具足を剥いで陣を払え!」と言い付けた。

岡田はこの事を本意無く思い、その翌日、白き羽織をこしらえ、墨にて紋を書き出し、
唐人の陣の方へ一番に進んだ。

この節、長谷川藤五郎(秀一)などが、敵陣への大物見に出ていたのだが、その先の松の木の
ある所に白羽織の者が見えた。敵か味方かと観察したが解らない。しかし日本軍の方に向くこと無く
敵方へ一文字に進む。

この松のある所は、敵陣に近すぎてなかなか近寄ることも出来ない場所であったが、彼は松の木の
脇まで行き、そこで敵の猛攻撃を請けて速やかに討ち死にした。

「あれは何者か?」
長谷川が尋ねると、「木村常陸介内、岡田藤十郎である」と解った。
彼の死を惜しまない者は居なかった。

岡田は書き置きをしていた。しかし前夜はその素振りも見せず、朋輩たちと語り合い、そして翌日討ち死にした。
その書き置きにはこう書かれていた

『常陸介殿は、具足を剥いで陣を払えと言われた。人の国に参り、この陣を払われては、
私は一体どこで戦場を務められるだろうか。これ故に先立って戦死を遂げる。』

そう残した筆のすさみに、人々は惜しみあった。
この藤十郎、16,7の頃より勇士の兆し現れ、只人ではないと世間で言われていた。

(士談)


岐阜城攻めのくじ取り

2017年04月14日 16:35

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:11:05.49 ID:87GdGGbi
岐阜城攻めのくじ取り


岐阜城攻めのとき、(福島)正則と(池田)輝政とで大手搦手の争論があり
井伊直政、本多忠勝が輝政に異見を申したので収まったという様に
旧記等には見られるが、左様ではなかった。

なぜなら大身小身に係わらず敵地へ近いところの領主を
先手と致すのが日本の古来からの武家の定法であるので
尾州清須の城主である正則を一の先手、それに続いて
三州吉田の城主である輝政を二の先手ということにしたのだ。

格別なことなので両人には小山の御陣所で、内府公が
直に仰せ渡したので両人の争論などはなかったのだが
その他の大身小身共には大手七曲り口に向かうことを好み
搦手の寄せ手を嫌うものがいた。

大手、搦手と犬山城の押さえは必要だというのは各々の相談で
決まったのだが、人数割りをどうするかは埒が明かなかったので
井伊本多両人の衆は御列座の衆を二つに分けてくじ取りをさせ
誰は大手、誰は搦手、誰々は犬山の押さえと決めたので
人数割りが差し障りなく済んだという。

この説は旧記とは違うのだが大猷院様(徳川家光)の御代に旗本へ
召し出された大道寺内蔵助[若い時は遠山長右衛門と名乗っていた]は
岐阜城攻めの時は福島正則方にいて大手口で働きなどしていて
老後になってこのくじ取りの物語をしたので書留めた。


――『落穂集』



811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 17:22:29.50 ID:6dYoS0ds
苦労してるな

よむいろは教ゆる指の下を見よ

2017年04月14日 16:34

宗祇   
812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 21:41:57.13 ID:MEA4RoHP
宗祇が宗長と連れ立って浦を夕方に出かけられたとき、
漁師の網に藻が引き上げられた。
「これはなんという名であるか」
と問われると
「『め』とも申し、『も』とも申します」
と答えがきた。
そのとき祇公は「やれ、これはよい前句だ」と

めともいうなりもともいうなり

と詠んだ。
宗長に「これに付けられよ」と命じると、
宗長は

引連れて野飼の牛の帰るさに

と詠んだ。
牝牛は『うんめ』と鳴き、牡牛は『うんも』と鳴く。
祇公はこの句に感心された。

宗長も「一句沙汰あれ」と求めてきたので、

よむいろは教ゆる指の下を見よ

と詠んだ。
『ゆ』の下は『め』である、『ひ』の下は『も』である。

(醒睡笑)


金森長近の質素

2017年04月14日 16:33

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/14(金) 14:44:24.06 ID:cf+vthNL
金森長近の質素


金森法印(長近)は在所から東照宮(家康)に鮭を献じるときは
藁の苞に包んでいた。

ある時息子の出雲守(可重)があまりにも質素だとして
竹簀で包み替えて捧げられた。

東照宮がご覧になって
「これは父が元々このように包んできたのか
 それとも包み替えたのか」
とお尋ねになると、出雲守はかしこまって
「父が元々藁苞で差し上げようとしたのを
 あまりに見苦しかったので包み替えたのです」
と申したが、公(家康)の仰せに
「汝が父の遅れを取らされるものではないのだから
 一切親のすることは咎めないものだぞ」
とあったのに、上世の淳風を見ることが出来る。


――『野翁物語』



814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 13:41:59.22 ID:UBkMLfjt
(´・ω・`)「重要なのは包みが質素かどうかでなく鮭の良し悪しでしょ」