妻子を引き取る

2017年07月31日 12:09

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:23:38.85 ID:zeMg4GZe
穴山梅雪は駿河国江尻に、曽根内匠と共に番手にあり、徳川家康に対し内通を申し出ていたが、
梅雪の妻子は人質として甲府にあり、これを引き払うことは難しく、殊にその頃は武田勝頼も梅雪を疑い始めていた。

そこで梅雪は密かに、徳川家康に内通を打診して、『返り忠仕るべし』との書状を持つ使節が来たのを、たちまちに誅殺した。
そしてその書状、並びにその頸を勝頼に見せた。
勝頼はこの計略に謀れ、梅雪を疑う心を和らげた。これにより梅雪は、妻子を引き取ることが可能になったという。

(士談)



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:27:55.27 ID:kaq0+LQg
妻子のために家康の使者を殺しておきながら家康に降るのか
のちに梅雪だけ死ぬのも仕方ないな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 08:54:53.00 ID:RR+3UwN9
曽根内匠といえば信玄の両眼の1人だけど
こっちは内通してなかったんだろうか

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/31(月) 11:02:37.61 ID:9PztAVDP
>>26
義信派だったらしいし徳川に無抵抗で降りてるから内通あったっぽい
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武士の作法

2017年07月30日 19:08

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/30(日) 16:42:29.39 ID:GEqodZar
武田信玄の時代、武田家の武士の常々の慣習として、、道において、一人は騎馬、もしくは足駄(雨天用の
高下駄)履いていて、もう一人が歩行で行き会う場合、その両人がたとえ仲が悪くても、歩行の者が
物陰に隠れるのが当然とされた。そして騎馬、もしくは足駄の者は遠くで地面に降りて時候の挨拶をする。

先に歩行の者が物陰に隠れたのは、馬から降ろないでおこうという思いやりであり、武士としての
礼儀である。このように人が礼をしたというのに、これに挨拶を返さないのは非義というものである。
また用心のためにも、騎馬のものは降り足駄を履いていれば脱ぐのは、良き武士の作法である。

しかし馬に乗ったまま通るのなら、降ろすことは無用である。それは相手が武士の作法を知らぬ女侍なのだ。
逆に徒歩の者が傲慢で「降りよ!」などと言い掛けて来るのなら、それは降りる必要はない。
降りるくらいなら相手を討ち果たすべきだ。

もし又、親兄弟の敵のある者が徒歩で通る時、狙われる人が騎馬で行き会った場合、
狙われている者は「御使に参る!御免候へ!」と、嘘を慇懃に言って乗り通れ。
こうすれば狙う人も討たないことが不覚にならず、騎馬のまま退けば追いつかれることもない。

(士談)



主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


日本国に歌道が流行れば

2017年07月28日 16:10

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 00:45:57.36 ID:5+Yov4kP
日本国に歌道が流行れば


細川幽斎の弟子松永貞徳の『戴恩記』に出て来る幽斎の思い出話。

あるとき(幽斎が)丸(貞徳の自称)の数寄の程が
あはれであると仰せられた時だったか
「日本国に歌道が流行ればそこも人に知られるでしょうにね」
と仰せられたので、丸が気が済むまで
「丸はこれが流行らぬのは幸せだと存じています。もし流行れば
 大名高家の人が我先に(幽斎の)御意を得られるでしょう。
 そうなればいつわたくし如きの者が御前に出られるでしょうか」
と申すと、尤もですねとお褒めになられた。

またあるとき、(幽斎が)
「禅定殿下(九条稙通)から源氏物語を御相伝されていれば
 御身とは弟子兄弟になっていましたね」
と冗談を言われたので、丸が思い切り
「よき御兄弟を持たれることは、誠に御果報並々ならぬ事ですね!」
と申し上げれば、一層機嫌よく笑われていた。


乍去十五年おそく候

2017年07月28日 16:09

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 03:42:04.31 ID:GkcDtqOG
大坂より御帰陣の時のこと、権現様(徳川家康)は、その日は三嶋に御一宿の
はずが、ただちに小田原へ御越しになられ、大久保五郎左衛門(康忠か)を

召し出されて今回の御軍功を御吹聴なされた。大久保は御答えして「殿はよき
御巡り合せでしたね。でも15年遅かったですね」と申し上げた。

(殿は能御仕合にて候。乍去十五年おそく候と申上候。)

権現様は御勝軍に御喜びのあまりに、「その方にも2万石を取らせようぞ!」と
仰せ遊ばされた。すると大久保は御答えして、「殿は唐までも欲しいのですね。
私は2万石でも嫌です、欲しくないです」と、達て辞退申し上げたという。

(大久保御請に。殿は唐迄もほしく候べし。私は弐万石もいやにて候とて。)

だが実は不足の心であったという。五郎右衛門は七郎右衛門の兄の子である。
また新八(康任か)の祖父である。

――『武功雑記』



21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 03:35:02.37 ID:3N0XHs1a
>>19
権現様は後にこれを聞き、「不足なのはもちろん知っていた。だが大久保の者は面倒くさい故、
あえて取らせなかったのだ」と語った。

――『俺の想像』

近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で

2017年07月27日 10:45

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 10:41:11.98 ID:BmOTs3V3
近衛信尹、関ヶ原後の家康への歳賀で


関ヶ原の戦いが終わり初めての慶長6年の歳賀は、家康の体調不良により
諸大名は1月15日、公家衆は29日に秀頼と家康にそれぞれ賀す形で行われた。

近衛信尹は自身の日記で、そのときの愚痴を書き留めている。

正月二十九日、(大坂城)西の丸の内府(家康)へ御礼、此時内府は病気で
中納言殿(秀忠)が名代をした。中納言殿へと父子への礼で太刀代二つだ。
(家康父子の)取次は池田三左衛門(輝政)一人だった。秀頼であるならば
三左衛門でもいいが、ここでは本多榊原大久保などであるべきではないのか。
――『三藐院記』

輝政は去る18日には秀頼の名代として朝廷に歳賀をしているが
前後から推測するにどうも信尹は、輝政は名目上は豊臣家臣なのに
まるで徳川家の直臣のようにして出てくるのは不適切だと思ったらしい。



20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/28(金) 06:43:40.19 ID:Io2U+32W
>>18
解釈は逆だと思うなぁ
近衛信尹は秀吉のせいでエライ目にあってばかりだし

人を見立てる時は

2017年07月27日 10:37

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/27(木) 00:26:25.47 ID:FnnnmptH
ある時、徳川家康公の上意にこのようなものがあった

「人を見立てる時、自分を基準にするべきではない。自分のかしましい心を曲尺と定めて
人を選ぶ時、自分より勝る人間を選んで薦めるだろうか?

また、その自分にまさる良き者は、自分に対して追従をすることはないだろう。
自分に付き従う輩にばかり、目をつけるのは不忠というものだ。」

(武野燭談.)


右馬允の意見

2017年07月26日 23:00

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 23:39:11.79 ID:4l9ckoea
小田原征伐において山中城が陥落した時、こぼれ者共(牢人たちか)は多く松平周防守(康重)の手に
加わっており、彼らは頸百四、五十を得た。彼らはこれらの頸を道にかけて通ろうと思い、周防守はこれを
牧野右馬允(康成)に相談した。しかし牧野は

「はかばかしい頸を取ったわけでもない。雑人に頸をかけ置くなどというのは要らぬことだ。
結果的に見苦しくもなるだろう。ただ頸の数だけど書き付けて披露するのが良いだろう。」

周防守はこの意見に従った。

ところが、後で周防守の家来たちは
「右馬允にだしぬかれた!頸を一つづつ道にかけておけば、太閤秀吉が通った折、大いに御感にも
あっただろうし、諸軍勢の勇にもなっただろう。全く要らぬことを意見しおって!」
そう、牧野の意見を批判したという。

しかし牧野は彼らを偽ったわけではない。ただその時の状況の判断が薄かったので、
このような批判を受けたのであろう。

(士談)


週間ブログ拍手ランキング【07/20~/26】

2017年07月26日 22:58

07/20~/26のブログ拍手ランキングです!


蜂屋を加えておけば、 17

首の臍 14
児玉は何故語らなかったのか 14

前足か後ろ足か 9
基広謀反と広継夫妻の自殺 7
『天上天下唯我独尊』の旗 7

信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に 6
石川五右衛門偽上使の伝説 5
丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代) 2


今週の1位はこちら!蜂屋を加えておけば、です!
このお話の面白いのは、信長の人事を平然と拒絶する柴田・坂井と、それに対して粘り強く、しかも丁寧に説明してなんとか
同意を取り付ける信長という、創作物などからイメージされる信長とは全く違う姿が描かれていることですね。
個人的には、実際の信長はこうい細やかな気遣いをした人だったでしょうし、信長の配下は信長に必ずしも
従順ではなかった、と考えています。信長が柴田勝家に宛てた、有名な「決して私に足を向けるな」という書状も、
実際に家臣から足を向けられている、という意識がないと書かないことだと思うのですよ。
秀吉なんて信長の命令に逆らうことばかりしていますしね。手取川の前に勝手に撤退したり信長が絶対殺せって言ってる
宇喜多直家と勝手に同盟組んだり。
そのあたりを見ても、信長というのは必ずしも独裁的な人間ではなかった、と考えていいと思っています。
そういうことを考えさせてくれる逸話だなと思いました。

2位はこちら!首の臍です!
こちらの面白いのは、池田と佐々の武功の譲り合いが「美しすぎて」信長がイラつく、という所でしょうねw
わりと良い光景なのに、そういう事に偽善や白々しさを感じてしまうということでしょうか。こういう感性も面白いものです。
そしてこういう場での「道化役」というもののありがたさも感じる逸話ですね。
こんな、わりと険悪な空気の中、「その頸、きっと自然に落ちたんですよ!」なんて事を平然と言えるのは、確かに
只者ではありません。また信長の小姓たちも、この空気を完全に無視した発言に、笑ってしまったのでしょうし、
信長自身も、自分の作った空気を破ってもらって、ある意味救われたと言っていいでしょう。
眼前で繰り広げられてる光景自体は「美しい」ものであり、それを怒るのは、決して良いことではないわけですからね。
そういう意味でも、実はわりと深いことを語っている気のする逸話だなと感じました。

同票でもうひとつ!児玉は何故語らなかったのかです!
このお話からは「武士は相身互い」という言葉を感じさせますね。
現在でも、同じ場所で同じことを経験してすら、それについて語る内容がまるで違う、なんてこともよくある話です。
しかもこれは、世間で有名と成った一騎打ちについての当事者の言葉であり、それに相違が有れば、それについて
様々に言われるであろうこと、想像できますね。
ここで児玉さんは、現在はその武功と関係なく家中で相応の地位を保っており、それゆえにこの時の話をことさら
語ることで藪内匠に無駄に批判を受けるような立場に立たせる必要はない。という事なのでしょう。
武士の「やさしさ」とは、こういう意識なのかな。などと思ったりしました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

2017年07月25日 21:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/25(火) 05:04:18.56 ID:k9GLkaDF
・丈巌岩(岐阜県鶴岡村田代)

元和元年大坂落城の時、城を逃れ出た浪士で、近江大吉寺で法師になり
丈巌院弟慶と称した者がいた。

この者は徳川方の捜査の厳しさに、ついには寺を逃れて鶴岡の地に至り、
家を構えて付近を開拓し、世を避けて隠れ住んだ。

ところが、またもや探知されて捕手の人数が押し寄せた。丈巌院は山上の
大岩に上り、釜を被って兜に擬し、太刀を打ち振るって法螺貝を

吹き鳴らした。その凄まじい勢いに恐れをなした捕手の者共は、ついには
引き返したのだという。この岩を名付けて“丈巌岩”というのである。

――『恵那郡史』


首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


前足か後ろ足か

2017年07月23日 15:30

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:03:46.98 ID:1Pz0svPG
蒲生氏郷が、その頃の伯楽(馬を見分ける名人)である”こつひら”という者に尋ねた

「早い馬というのは、前足の地面を蹴る力の故に早いのだろうか、それとも後ろ足の捌きが良い故に
早いのだろうか?」

こちひらは申し上げた
「馬は、後ろ足の捌きが良い物が早いと存じます。」

これに氏郷
「私は幼若の頃より織田信長卿の傍に昵近して、目にも見、耳にも聞いたこと多い。
弓矢のことは、先を追い立てられた場合、二の手を以って持ち返すのは非常に難しく、
ただ先を第一とするのが肝要なのだと、信長卿は常に仰っていた。
ここを以って考えれば、前足のよく効いた馬の方が早いのではないかと、私は思ったのだ。」

こつひら、謹んで申し上げた
「私はいやしき業の者ですから、左様な高きわざの事は存じません。ですが、私は元西国の出身なのですが、
船の往来を見た時、前櫓よりは後ろのとも櫓に上手な水夫を立てて押したほうが、船は早くなります。
前櫓が良くても、とも櫓の押し手の能力が低いと、船は満足に動かないものなのだと見えました。
船も馬も、遅速のことわりは同一の物であると考え、ご返答したのです。」

(士談)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:10:18.68 ID:UWC8+0GP
新庄「バッティングで大事なのは腕ですか?腰ですか?」

野村監督「どっちもや」

を思い出した

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 12:27:22.34 ID:NJfbG9iN
こういうのを拗らせると、拍子を打った時に音が鳴るのは右手か?左手か?みたいな話になっていくんだな

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 14:36:31.16 ID:5Vt6clig
マキバオーのマスタング走法

蜂屋を加えておけば、

2017年07月22日 18:50

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/22(土) 18:44:44.31 ID:q3SVQupX
織田信長の初めの頃、柴田勝家と坂井右近(政尚)の二人が軍奉行を担当し、織田家の弓矢のことは
全てこの二人が指引した。信長はここに「蜂屋兵庫頭(頼隆)をこの両人に加えるように」と命じた。
蜂屋は武功抜群の者であった。

ところが柴田と坂井は、信長に対し
「蜂屋を加えられるのであれば、我々は軍奉行の役儀を返上します。」と、強い拒絶を表明した。

信長はこれを聞いて、
「こういったことは両人も進んで同意すべきなのに、そうしないのは不審である」と、
再び使いを以て命じたが、両人は猶以て役儀の辞退に及んだ。

信長はやむを得ず、両人に対し何故蜂屋を加えるのかを、直に説明した。

「蜂屋については、お前たち両人と同じ武功の者であるとは考えていない。だが彼は
諸事口才のある者である。合戦の最中、戦場から両人のうち一人帰って報告を行わなければ
いけない事もあるだろう。またこちらから両人の一致した判断に疑問を持つこともある。
そういう時、蜂屋を加えておけば、私の元に使いとして送るときも、また判断について
問い合わせるのにも便利ではないか。」

柴田、坂井はこの理に納得し、反対を取り下げたという。

(士談)



108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/23(日) 02:08:28.81 ID:4+4ziU7k
始めの頃っちゃまだ尾張の頃かな?

基広謀反と広継夫妻の自殺

2017年07月21日 10:24

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 05:51:12.75 ID:kjoRx6NM
蠣崎季広の時代、一族の基広は謀叛を企てて家督を奪おうとし、季広が
帰依する賢蔵坊という者を誘って季広を呪詛させたが効果が無かった。

天文17年3月、季広が上国に行くのを機会とした基広は、賢蔵坊に季広
を討たせようとするも、彼は心を翻してその企てを季広に告げた。

季広はすぐに長門藤六広益を遣わし、基広を誅殺させ、南条越中広継に
上国を守らせた。広継の妻は季広の長女であった。

彼女は婦女の身ゆえに家督を継げないことを憤り、ついには謀叛を図り、
父・季広の近臣を誘い、弟の舜広と元広に毒を与えた。このために二弟
は病んで毒害され、陰謀は発覚して広継夫妻は自殺した。

――『北海道史』


児玉は何故語らなかったのか

2017年07月21日 10:08

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 10:03:56.50 ID:WpG9uMxK
天正13年、羽柴秀吉による四国征伐の折、伊予金子城の籠城戦において、長宗我部方の藪内匠と、
毛利家の士、児玉三郎左衛門との槍合わせは、世の人が大変に話題にした出来事であった。

後に、本多佐渡守正信が児玉を招いて、その時の働きの様子を詳しく尋ねた事があった。
しかし児玉は「前後の次第を忘却してしまいました。」と言って、終に語らなかった。

その後、ある人が児玉に、何故語らなかったのかを尋ねた。児玉は

「藪内匠は、今ではその名が世上に流布している有名人である。彼が話した内容のとおりに
私も語れば、相違なく然るべしであろうが、もし私の言う所と創意があれば、人から褒貶もあり
よろしからぬ。

私は現在、武功を主張せねばならないような立場で江戸に来たわけではない。忘却したと言っても
失うものはない。また内匠について悪しざまな評判が立つのも本意ではない。」

正信もこれを後で聞いて、その志を深く感じたという。

(士談)


106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/21(金) 13:34:57.53 ID:T5B68rgu
ヤブタクミ?

『天上天下唯我独尊』の旗

2017年07月20日 21:25

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 23:02:45.18 ID:UmjAh2kJ
武田信玄の軍旗は6つあり、その一つに書して曰く

『疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山』

この旗は川中島の戦いの時に初めて用いられたと言われる。
後に、三方ヶ原の戦いで大勝を得、新たに加えられた旗には

『天上天下唯我独尊』

の八文字が描かれたという。
凡その物、未だ満ちて欠けない物はない。これは聖人の明戒である。
信玄が加えたこの八文字は、満もまた極まっている、これ覆亡の兆しならずや。
天正元年3月、さらにこの旗を立てて野田城を攻め、たまたま銃弾に傷つき、4月、ついに没した。

(随意録)


信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に

2017年07月20日 21:24

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 11:40:47.67 ID:K/Okvhdd
>>6
信玄は釈迦を超えることを決意しているが故に、この新たな反キリスト者は比叡山を再建するため都に来るのであり、
都のキリシタンがはなはだ懸念しているように我らは今後の迫害に備えておく必要がある。
ただ、もしデウスが我らに見方し給うならば、
神の恩寵と御助力によりこの悪魔の怒りがほとばしるのを予期するのはたやすいことであろう。
信玄が遠江と三河の国に来襲する前、面白い事があった。
それは彼が信長に書状をしたためた時、まったくの傲慢さから己の名を高めようと、書状の封筒に己が名を次のように記したことであった。
すなわち、テンダイノ・ザスシャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と。
これは天台宗の教えの家の最高位者にして修道者なる信玄を意味する。
これに対して信長は、ダイロク・テンノマオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、すなわち諸宗派に反対する悪魔の王と答えた。
というのも、ダイバ(提婆)が釈迦の宣教を妨げたように、信長もまた今まで日本の全ての偶像に対する崇敬を妨げたからである。
それ故、私は彼が我らの主なるデウスの正義の鞭のように当地の諸宗派の悪しき迷信を罰するため、
かつての繁栄を取り戻すことを神の御慈悲において信じている。
しかして今や異教徒たちは、彼の勝利がこの度かくも急転したのは
比叡山や観音に捧げられた寺院を焼き払うという無謀な所行に対する神仏の罰以外の何ものでもないと言ってはばからない。
だが、信長はこれをことごとく一笑に付し、日本においては彼自身が生きた神仏であり、石や木は神仏ではないと言っている。


1573年4月20日付ルイス・フロイス書簡より



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 17:38:21.91 ID:raQOLju8
提婆達多の提婆(デーヴァ、神)と
ゾロアスター教の悪神ダエーワと
ラテン語のデウスは同語源
デウスが提婆達多と同様、仏教打倒という魔の所業をしても不思議ではないな

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:23:30.87 ID:XOH91jah
にしても、信玄はやっぱり上洛の意図があり、実現の可能性は高いと思われていたのか。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/20(木) 19:51:10.51 ID:e2dWouAG
>>9
そう宣伝してたってこととそういう噂が流れてたってことは事実だろうね
ただしこの時フロイスが記した包囲網側侵攻の噂は義昭以外全部ハッタリだったけど

石川五右衛門偽上使の伝説

2017年07月19日 22:01

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 05:54:26.93 ID:cQO9i7mY
岩村城には石川五右衛門偽上使の伝説がある。豊臣の天下の時、岩村城主
の田村中務大輔(直昌)には嫡庶の二子があった。

やがて中務大輔が病にかかって瀕死の状態となった時、この二子を中心に
御家騒動が起こった。しかし庶子である次男は、実は佞奸な家老の

倉元甚五右衛門の姦通の子で、倉元は庶子に家督を継がせて主家の横領を
企てたのである。これを推知した中務大輔は腹心の小姓・金森林念に、

家督相続の遺言状を託して間もなく世を去った。忠臣の金森は思案の上で
騒動の顛末を関白・豊臣秀次に注進したので、秀次は使者・福原団七郎を
岩村城に乗り込ませて一切を解決させることにした。

これを探り知った石川五右衛門は、「良き機会ぞ」と、すぐに団七郎の家臣を
手に入れ、途中<十三峠辺りであろう。また岩村城下玄吾坂下ともいう>で
待ち伏せて団七郎を殺し、自分はすっかり使者に化け込んで、

行列厳しく岩村へ到着した。偽使者をすぐに訪れたのは奸物・倉元だった。
彼が多分の金子を賄賂にして帰ると、まもなく小姓・金森は密かに訪れて、

倉元の悪計の一部始終を訴えた。さてその翌日、五右衛門はいよいよ城入を
なし、倉元を利用して散々腹を肥やしてから、

彼の悪事数々を満座の中で弁じ立てた。その後、家督は無事に長男へ譲られ、
倉元は死刑にされて騒動は落着したという。これは五右衛門一代を通じての
大義賊伝として講談などにも読み込まれている。

――『恵那郡史』



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 06:48:10.45 ID:pTcGI5g6
>>100
この岩村城ってのは美濃の岩村城でいいのかな?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:11:21.70 ID:aF6T985F
福原さんかわいそう

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 07:13:57.71 ID:SMPelxR4
義賊()

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/19(水) 09:25:43.91 ID:PTyFtPRC
美濃岩村なら関ヶ原で改易された田丸中務大輔直昌のことなのかな

週間ブログ拍手ランキング【07/13~/19】

2017年07月19日 21:59

07/13~/19のブログ拍手ランキングです!


「見るべき所を見ている」 21

秀吉の才用は、かくこそ 14

夢のお告げの大石を 8
許可しなかった理由 6
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない 
6

右衛門佐 頂くものが二つある 5
鎌倉杉 4


今週の1位はこちら!「見るべき所を見ている」です!
蒲生氏郷が蒲生四郎兵衛の報告を褒めたお話ですが、なるほど、ただ単に「敵はいない」では、あまり意味のない
報告なのですね。当然「罠かもしれない」と考えられるからです。であるので、なるべく多角的な情報がほしい。
そこに蒲生四郎兵衛は、さすが戦略眼を持って観察し、10日以上前に敵が撤退したと推測しました。
こういう技能が、部将クラスの高級将校に求められたのだな、とも感じます。
色々と興味深い逸話だと思いました。

2位はこちら!秀吉の才用は、かくこそです!
ホントかどうかわからないが、という注釈付きの逸話ですが、たしかに秀吉には、この手の「人を制する」才能を持っていた
印象がありますね。有名な、上洛した徳川家康の宿舎に忍んで来訪し、自分に平伏することを頼み込んだという逸話がありますが、
それと似た印象です。
本当に、事実かどうかは別として、秀吉という人はそういう印象を持たれていた、ということは言えるのでしょう。

今週管理人が気になった逸話はこちら!右衛門佐 頂くものが二つあるです!
応仁記の、畠山義就の逸話ですが、義就と言えば大ヒットした中公新書の「応仁の乱」でも、とにかく強い武将として
登場していますし、TV番組ではシン・ゴジラに例えられたりしていましたねw
そんな彼も朝敵とされ逼塞を余儀なくされていたのが、山名宗全などの工作で復権し、上洛まで果たしました。
この落書は、それを京雀たちは皮肉ったものということなのでしょうが、この「応仁記」は、細川京兆家に近い人物による、
応仁の乱当時の京兆家の行動を正当化するため書かれた書物、と考えられており、そこを見ると、この落書を紹介することで、
「畠山義就や山名宗全は、京の市民の支持を得ていなかった」という印象を与えたかったのかもしれません。
歴史のおもしろさは、様々な角度から物事を見ることだと思っていますが、このお話からも、そういった趣を感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

鎌倉杉

2017年07月18日 18:27

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/18(火) 01:00:20.98 ID:5xL/Eti2
・鎌倉杉(岐阜県大井町)

大井武並神社の祠の後ろに一大の古杉がある。これを“鎌倉杉”という。
別名に“太閤杉”ともいう。その別名には次のような伝説が絡んでいる。

豊臣秀吉は朝鮮征伐の際に船檣を求めて、ついにこの地で東西二株を
倒し、さらに中央の一株に斧を加えたところ、

切る者はたちまち血を吐いて倒れ、杉の切り口からは鮮血が湧き出た。

奉行の各務兵庫(元正)はなおも人夫を促し励まして、切り進ませたが、
またまた血を吐いて死亡するに到ったため、ついにその計画を中止した。

その杉には、今なお斧痕をとどめている。

――『恵那郡史』


右衛門佐 頂くものが二つある

2017年07月17日 18:06

3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/17(月) 10:20:06.97 ID:PQvx1qrF
朝敵として幕府の討伐を受けていた畠山右衛門佐義就であったが、寛正4年11月に赦免を受けると、寛正6年12月、山名宗全などの援助を受け、
ついに河内より上洛を果たす。一騎当千の士卒五千余期にて千本の地蔵院に着陣した。すると彼はそこから、直に山名宗全入道の許に行き、謝礼を述べた

「今度、私が出仕できたのは、御芳志によるものです。」

宗全も
「佐殿の上洛のこと、ただ一身の大慶なり」と賀し、通夜酒宴の興を催した。

翌朝、義就が宿舎とする地蔵院の門の扉に、何者かが落首をしていた

『右衛門佐 頂くものが二つある 山名の足と御所の盃』

(応仁記)

義就が、畠山家の家督としての復帰を認めるという意味での、御所(将軍)の盃を頂くために、山名宗全の足元にひれ伏した、という意味ですかね


夢のお告げの大石を

2017年07月16日 17:23

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/16(日) 14:47:54.59 ID:+Kef9Q/f
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)


秀吉の才用は、かくこそ

2017年07月15日 11:25

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/15(土) 08:38:23.91 ID:NrgiGGBk
清州会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まる中、勝家の家臣・毛受荘助(勝照)が請い受けて
秀吉への遣いとして向かった。これは、秀吉のこれまでの動向は心得がたいものであり、
対面すれば押して刺し違えんと考えたのである。

こうして毛受が到着すると、秀吉は察した
「あの毛受は心早く勝れた勇士である。今度の使節としての来訪も、何らかの心持ちがあるのだろう。」

彼は毛受を招き入れ、毛受が出て来るや、脇差も差さず色代まで不意に現れ

「遠方よりのこの度の使節、浅からぬ思いであるぞ。」

そう言って毛受の手を取り、限りなく懇ろに連れ立って奥の席に招き、先ず勝家の安否、
そして今の互いの考えなどを語り、それから料理を出して饗した。

毛受は秀吉と刺し違えることを決心していたのだが、不意に傍に引き添えられ、様々な懇情を受けたため、
先ずはそれへの謝礼に及んだ。
そしてその後、再び秀吉が近づいてくる事を待っていたのだが、以降秀吉が近づくことは全く無く、
毛受は本意を失って帰っていったという。

この話は事実かどうかは解らないが、秀吉の才用は、かくこそと思われる。

(士談)


許可しなかった理由

2017年07月14日 21:24

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/14(金) 21:21:52.34 ID:cbMwyOMP
小田原の陣の時、秀吉が三島に陣を据えていた折、堀尾帯刀(吉晴)が、山中城の出丸を乗っ取りたいとの
望みを申し上げたが、秀吉は許可しなかった。それでも堀尾は是非にと申し立てたが、やはり許さなかった。

秀吉が堀尾に許可しなかったのは、たとえ出丸を取ったとしても、結局は本丸を直に攻めなければ山中城を
攻略できないと見きったためであり、またもし許したとしても、堀尾が出丸の攻略に失敗すれば、それは
秀吉の構想が狂うことに成る故であった、という。

(士談)


わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


「見るべき所を見ている」

2017年07月12日 18:13

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/12(水) 16:08:52.56 ID:7chqTk7M
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐の時、豊前の岩石城に熊谷越中という者が、多くの人数とともに立て籠もった。
この方面の先手の大将は堀左衛門督(秀政)であり
「岩石は良き城なれば攻め損じては後に影響を与える」と、蒲生氏郷をこの城の押さえとし、
秀吉は秋月へと向かった。

この時、蒲生氏郷は岩石城の様子を詳しく見届けるために、斥候の侍として、吉田兵助、周防長丞の二人を
派遣した。二人は岩石城の状態、また麓の様子などを見て回ったが、そこにはひと一人無く、食を食べた
跡もあったが、飯粒は乾いていた。
これを見届け、その通りに報告した。

次に氏郷は、布施二郎右衛門、土田久助の二名を岩石城に遣わした。
二人が帰って報告する話も、前の報告と特に違いはなく、また先の飯粒の他に、一体いつ退去したのかを
知れる証拠も無かった。

その後さらに、蒲生四郎兵衛に「見てくるように」と斥候に出した。
四郎兵衛は見て帰り

「岩石城の者たちは10日以上前に退去しました」

と報告した。

「その仔細は?」

「このあたりでは10日ほど前に雨が降りましたが、その後降っていません。
また、道道には足跡が見つかりませんでした。雨の降った後まで居たのであれば、必ず足跡が
残っているはずです。」

この報告に氏郷は「見るべき所を見ている」と、褒美を与えたという。

(士談)


週間ブログ拍手ランキング【07/06~/12】

2017年07月12日 18:12

07/06~/12のブログ拍手ランキングです!


祁答院河内守良重、妻に殺されること 15

歯を白く、髪も美しく 15

ここに松を植えたので 11

ラスボスから茶々への愛の見舞状 10
花澤城の鯨波の声 9
「今迄の鼻は、ここにてかむべき為であった。」 9

鳥取籠城のこと 8
此度の功によって我が疑いは晴れた 7
何宗であっても松を立てよ 7
於萬様は宮部に養育されていた 7

伊賀伊賀守のことなど 6
山口重政は申し触れて廻った 5
この国の殿は 4

「竹村を討たんならば忽ち民部殿を打落とさん」 4
長顕、軍に従えないことを憤って 4
父・吉政に不義の行いあったので 3


今週の1いはこちら!祁答院河内守良重、妻に殺されることです!
レスやコメントなど見ると、祁答院良重という人物は、非常に興味深いですね。良くも悪くも当時の島津家において大きな力を
持っており、そこから「実は粛清されたのだ」という発想が出てきてもおかしくなさそうです。
島津家の記録というのも、基本的には政治的な思惑が入るものですし。
そういった意味でも、祁答院良重という人物の掘り起こしというものも、戦国期島津家を見る上で、また新しい角度から
光が当てられるような感じがしますね。

同票で1位はもう一つ!歯を白く、髪も美しくです!
徳川家康と上田宗箇の、良き討ち死にのための気遣いのお話です。
討ち死にとは死ぬことですから、勿論悲劇と面もあるのですが、それ以上に武士にとって「最高の名誉」であるのも
確かなのですね。合戦がほぼなくなった近世初期の武士の記録を見ると、とにかく「君の面前で討ち死にできない」事を
非常な不満としていますね。そういう鬱憤が溜まりに溜まった挙句が、大阪の陣の(幕府方、大阪方双方に見える)
死にたがりの続出、という現象だったと思います。
葉隠は「武士道とは死ぬことと見つけたり」なんて書き残しましたが、それはシュチュエーションを整えた上でなら
まったくもって真実なのですね。むしろ、討ち死に後の家族一族の利点(家系の名誉が高くなり所領も保全される)を
考えると、現実的、利己的なな望みだとすらいえますw
そういう「名誉」に傷をつけない配慮をするべきだというのは、これも将として配下に伝えるべき事だったのでしょう。
そんなことをふと、思いました。

3位はこちら!ここに松を植えたのでです!
田中吉政の統治についての内容です。
吉政という人は、秀吉や家康から重要な政務や拠点を任され、当時の人材の中でも相当優秀だったこと間違いないのですが、
歴史的には関ヶ原で「友人だった」石田三成を捕えて家康に差し出した人物といった、少々小物のな印象を持たれており
そこは非常に残念だと思っていました。
この逸話を見ても、近世大名の政策をほぼほぼ先取りしたような先進的な統治で、非常に感心させられます。
コメントにも「この人の作った町はどこも美しい」とありましたが、本当にそう思います。
この人も再評価の待たれる人物だなと、感じた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

山口重政は申し触れて廻った

2017年07月11日 17:39

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw

花澤城の鯨波の声

2017年07月10日 17:40

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/10(月) 13:41:31.93 ID:FFhxfwX+
永禄13年、駿河花澤城を武田信玄が攻めた時、武田方の落合治部が討ち死にした。
その頸を敵は取ろうとし、一方治部の弟である左平次は兄の死骸を戦場から退けようとして、
このため敵味方入り乱れての競り合いとなった。

この時、信玄の旗本衆は高台よりこの様子を見て、旗本の総攻めのように、一斉に鯨波の声を上げた。
これを聞いて敵の兵は皆、旗本衆の攻撃があると考え城に入り、左平次は無事、兄の死骸を
退けたという。

(士談)



89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:44:28.37 ID:3R43EUyZ
>>87
前にも「鬨の声と言えば」ていうので出典不明で出ていた

ついでにこの漫画ではなぜか上杉との戦いってことになってる
ttp://i.imgur.com/yLfJKkM.jpg
yLfJKkM.jpg

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:10:38.34 ID:3vZPBYkw
>>89
この頃の民明書房の真実味は異常

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:23:03.03 ID:/jTE09E/
真田信幸も岩櫃城に家族と避難するときに鬨の声をあげて
盗賊や乱波たちを追っ払ってたっけ
加沢記だから信憑性怪しいだろうけど

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 23:29:38.91 ID:oXS0/r1j
信長は稲生で林の手勢に囲まれたときに、大声でわめいて相手を追い散らしたね

この国の殿は

2017年07月09日 10:47

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 01:30:12.47 ID:2VY1cRSN
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1-4)