利太が変通を知ること

2017年08月31日 16:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 04:04:36.60 ID:UEGnf68d
前田利太(慶次郎利益)が高徳公(前田利家)に従って京都にいた時、
関白・秀吉は利太が奇人であると聞いて謁見を望み、

務めて異様を表して出仕するように命じた。すると利太は髻を耳上に
作り、皐比(虎皮)の肩衣を身に付け、異様な袴を穿いて出仕した。

利太は謁見するに到り頭をそばだてて拝謁し、髻はまっすぐになった。

秀吉は大笑いして良馬一頭をお与えになり、「再謁してわしの面前で
この馬を受け取れ」と、言った。これは利太が更に異様な装いで出仕
することを推量しての心中であった。

利太は退くと服を改めて髻を正し、進見して賜物を拝領した。表情は
正しく、容姿も厳粛であり、進退も規律があった。

秀吉は感嘆して、利太が変通を知ることを称えた。

――『加賀藩史稿』



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 06:34:26.82 ID:sFrl8ECp
大人ひとりじゃ持てないような脇差は持ってなかったのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:43:01.79 ID:tjcfsPmD
花の慶次の見せ場にあったな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 11:59:21.66 ID:DQ47Luus
>>193
これが元ネタか、懐かしい。
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信親忠死の跡なれば

2017年08月31日 16:58

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 14:48:51.99 ID:D/ZmCpnd
去る程に豊後の軍、仙石権兵衛が無法ゆえに寄手大きに打ち負け
十河・田宮を始め、軍兵どもあえなく討たれ、仙石・大友は豊前国へ逃げゆき
弥三郎(信親)は討ち死にし、宮内少輔(元親)は生死知らざる事が
追々都へ聞こえて来たので、秀吉公大いに怒りて仰せつけられるには

「権兵衛は元来強気無法の者であれば
 敵を侮るな、一人駆けはするな
 衆議一同の上進退せよと再三かたく示したのにその議を用いず
 宮内少輔の諫言を聞かず、我意に任せる事は上を軽侮し
同僚を軽慢するのと同じであり、曲言の専一である。
 察するに彼は、先年宮内少輔に手痛く当たられた事を深く心意にはさみ
 この度公議を借りて讐を返し、元親に恥辱を与えんとして
 かえって己に及んだのであろう。これは武士の本意ではない
 一方弥三郎は同列の罪逃れざるを知って潔く討死した。不便というにも余りある
 我、彼が不快を知らず、相将に列した事は甚だもって落ち度であった
 今更悔やむに益はなし、しかしながら元親がもし討死となれば
 土佐国の一揆供がその弊に乗って狼藉する事もあるだろう」

そうして信親忠死の跡なればとして
土佐国政の事を仰せつけられ
増田長盛、藤堂高虎を上使として土佐国へ差し下し
長宗我部家に慰問をなし、例え元親親子相果てたとしても
領地は安堵して次男香川五郎二郎に遣わすべしとの御朱印を下された。

(土佐物語)



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:50:37.09 ID:tjcfsPmD
十河家.....。

その死期に望んで

2017年08月30日 11:41

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 09:52:36.49 ID:QcrXrpWd
神子田半左衛門(正治)は常にこう言っていた
「人間のならい、何事にて失命するか計り難い。その死期に望んで、一言『神子田半左衛門なり』
と話して死ぬのが、一期の思い出、日頃の嗜みと言うべきだろう。」

豊臣秀吉によって彼が成敗される時、彼は残された人々のため、多くの書状をしたためた。
下人が「時間が遅れます」と注意すると、「今ひとつ残っている」と、心静かにこれをしたため、
行水し、立ち腹を切った。
ところが、介錯の者が切りそこない、頸を落とせなかった。
神子田はよろよろと膝を折り、左手にて顎を押して、首を切らせたという。

(士談)



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 13:39:32.46 ID:x7PIFI9f
立ち腹って立った状態で切腹したってことか?

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 16:05:17.49 ID:pDb7X0ma
鈴木主水の立腹は立ったまま切腹だった

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 19:04:45.99 ID:wVyiwil1
鎧の人は腹切ったまま屋敷に戻って文書の隠滅を図ったとかなんとか

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/30(水) 21:41:01.68 ID:QmuPPF5I
立腹とは

古代中国、宋から来日した禅僧の蘭渓道隆が建長寺で披露した
腹で茶を立てる茶礼のこと

民明書房刊「茶の歴史」より

週間ブログ拍手ランキング【08/24~/30】

2017年08月30日 09:51

08/24~/30のブログ拍手ランキングです!


戸次川合戦讃岐勢の最期 12

【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見 11
下人などは、このようにして殺すものだ 11
近江にての事であると、 11

君の為にして自ら為にせざるときは 10
灰を集めて 8
豊後勢から見た戸次川合戦渡河 8

東照宮御奇瑞記 7
「その方、先に下に降りろ」 4


今週の1位はこちら!戸次川合戦讃岐勢の最期です!
戸次川合戦では、その主力である四国勢の、十河存保も長宗我部元親も、散々な目にあいます。
ただ、こんな無理な戦いを強行した仙石秀久が無能だったのか、というと、それだけの問題でも無いようで、そもそもこの合戦は、
島津に攻められた豊後鶴ヶ城の救援が目的でした。この際、仙石率いる豊臣軍は、大友義統の軍と合流してこの作戦を
行う予定だったのが、何故か大友軍が合流せず、しかし仙石秀久としては、九州での豊臣軍の信頼をつなぎとめるためにも、
鶴ヶ城救援のための戦いをせざるを得ず、結果としてこの戦いを強行せざるを得なかった、なんて説があるようです。
この説だと悪いのは「また大友義統か」って事になってしまいますねwまあこの説でも、十河、長宗我部が恨むのは、そんな
「豊臣のメンツ」のために無謀な合戦を強行した直接の上官である秀久であることに変わりはないでしょうけどw
見る角度によって様相がだいぶ異なってくるお話の一つだな、なんて思います。

2位はこちら!【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見です!
なんと、逸話が事実であったらしい、というお話で、実に興味深いニュースです。
立花宗茂に、本当に逸話で語られるような性格があったのかと思うと、彼のことが更に身近に感じちゃいますね。
戦国期の遺物としても非常に貴重な発見ですが、人間としての宗茂を把握する上でも、とてもワクワクするニュースだと思います。

同票でもう一つ!下人などは、このようにして殺すものだです!
「羽柴四天王」とも言われる、神子田正治さんの「放し打ち」に関するお話ですが、コメントなどもにありましたが、立花宗茂の
逸話とはえらく違いますねw非常にドライというか「形式さえ整っていればいいでしょ」という精神を感じますw
こういう話を読むと「仕事のできる人だったのだろうな」とも思うし、また「上司からはあまりいい目で見られないだろうな」なんて
気持ちも出てきますw
歴史ファンには有名な神子田さんですが、彼の性格の一端を伺える、貴重な逸話だと思いました。

さらにもう一つ!近江にての事であると、
近江の「水争論」での、「軍師」的な浪人のお話ですが、この浪人、いずれ名のある武士だったことを感じさせますね。
興味深いのは、この浪人の戦術が当時の合戦で一般的な手法である、最初に遠距離武器で敵の行動を封じ、そこから
槍兵による突撃を行う、という流れがここでもきちんと描かれている事ですね。逆に敵側は考えなしの数を頼んだ「平攻め」で、
ここに合戦の玄人と素人の戦いという構図が鮮明に描かれています。
そんな象徴性を持つ、とてもいい逸話ですね。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
( ´ ▽ ` )

【ニュース】 立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」発見

2017年08月29日 21:07

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:38:00.68 ID:XAKbPvrn
立花宗茂のものとみられる甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」が立花家臣の子孫の家から見つかった
柳川藩には、朝鮮出兵時の1593年、邪魔な袖を切り落として戦っていた小野成幸という家臣に
「袖がない具足は見苦しい」と宗茂が自らの鎧の袖を成幸に与えた逸話があるという。
その逸話の袖と思われるものが、2016年に小野成幸の子孫から柳川市に寄贈された。
袖は一対で安土桃山様式。長さ29センチ、幅23~27センチ、重さ720グラム。
鉄の小札に金箔を貼り、透明の漆で仕上げたもので、小札をつなぐ威は紫、紅、白の3色の糸が
交互に使われている。大友宗麟の重臣だった義父の立花道雪または宗茂自身が
大友家から与えられたものとみられ、杏葉紋の金物が付けられている。
(今月の25日に柳川市が発表したらしい)

記事(西日本新聞)
初代柳川藩主・立花宗茂 甲冑の袖発見 「家臣に与えた」逸話証明
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/353603/

立花宗茂の甲冑の袖「金白檀塗色々威壺袖」
201708260003_000.jpg



184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 19:59:22.89 ID:ciSXwA0A
>>183
400年も残ってたとは凄いな、子孫GJ

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 21:49:02.14 ID:yeu/2L19
>>183
なんとなく宗茂らしいエピソード

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:49:13.72 ID:XAKbPvrn
今日の知恵泉でもこの袖が紹介されたね

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 22:53:43.76 ID:ZaU8nUoY
やってたな
家臣がわざと取った袖を宗茂が勘違いして与えてしまって
それを見てた別の家臣がさらに宗茂に袖を献上したっつー

微笑ましいなぁ

下人などは、このようにして殺すものだ

2017年08月28日 18:27

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 15:06:36.58 ID:cFxc+vWP
神子田半左衛門(正治)が家中の者を手打ちにするという時、縁側において爪を切っていたが、
その爪を切るための小刀が下に落ちた。そこでその咎人を呼び

「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」

と命じた。
そこでこの者が縁の下に入った所を、縁の上からそのまま刺殺した。
そして人を呼び、死骸を取り出させた。

神子田は言った
「放し打ちだからと言って、確実さのない成敗を好むべきではない。下人などは、このようにして
殺すものだ。」

(士談)



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:33:42.03 ID:X7RjkNXz
>>176
いい話…?

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 16:49:35.76 ID:IAXy0+oW
効率のいい話なんだろ

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 19:08:56.72 ID:4Ke1VAXr
現代日本人は命ならなんでも大切だと思ってるから困る

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 21:38:11.37 ID:OraP3Sqx
>>179
誰が困るんだよw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 23:24:41.70 ID:r7dpqF/e
        _,,:-ー''" ̄ ̄ ̄ `ヽ、
     ,r'"           `ヽ.
 __,,::r'7" ::.              ヽ_
 ゙l  |  ::              ゙) 7
  | ヽ`l ::              /ノ )
 .| ヾミ,l _;;-==ェ;、   ,,,,,,,,,,,,,,,_ ヒ-彡|
  〉"l,_l "-ー:ェェヮ;::)  f';;_-ェェ-ニ ゙レr-{   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
  | ヽ"::::''   ̄´.::;i,  i `'' ̄    r';' }   | 久々にワロタ 
 . ゙N l ::.  ....:;イ;:'  l 、     ,l,フ ノ   | こういう成敗が好まれた
 . |_i"ヽ;:...:::/ ゙'''=-='''´`ヽ.  /i l"  < のが昔の武士なんだよな 今の新参は昔の
   .| ::゙l  ::´~===' '===''` ,il" .|'".    | 武門の心得を知らないから困る
    .{  ::| 、 :: `::=====::" , il   |     \________
   /ト、 :|. ゙l;:        ,i' ,l' ノト、
 / .| \ゝ、゙l;:      ,,/;;,ノ;r'" :| \
'"   |   `''-、`'ー--─'";;-'''"   ,|   \_

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/29(火) 09:01:19.68 ID:8ssQuzbj
>>180
更生の見込みが乏しい元懲役囚のそばに住んでる人とか

「その方、先に下に降りろ」

2017年08月27日 22:57

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/27(日) 22:52:38.35 ID:d6s6yIK8
茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。

佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。

この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)

人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)


85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 00:23:20.76 ID:tb33UCMO
下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 03:07:52.48 ID:IAXy0+oW
これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか

戸次川合戦讃岐勢の最期

2017年08月26日 13:22

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:21:18.15 ID:7I3kQIYN
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:22:48.65 ID:7I3kQIYN
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:19:54.39 ID:kEYXRfFo
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:21:09.45 ID:l1s1q4Vz
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:48:49.94 ID:2DOcTq0a
次男三男死なずにすんだかもな

東照宮御奇瑞記

2017年08月26日 13:21

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 04:29:53.80 ID:SRqGYAZ3
一、東照宮(徳川家康)薨御の前日、元和2年4月16日のこと。

榊原大内記(照久。久能山東照宮祭主)を御前へ召されて、御他界遊ばされた
ならば御遺骸を久能山へ葬り奉るようにと、御廟の地まで委細を仰せ付けられ、

「其の方は新肴初物などを常々献上しており、その志を深く思う。我の他界以後
もますます久能にあって、神主役を奉公仕るように。

東国の状況については、いずれも被官の大名であるから、逆心の者も生じまい。
しかし一方で、後々まで西国については心許なく思っている。

西国の乱逆が生じないよう守りをなすので、宝塔を西向きに建てて衆徒4人を
差し置き、知行は50名(石の誤り?)ずつ遣わして、神前の勤行を致すように」

との旨を、仰せ付けられた。

一、権現様(徳川家康)御在世中の御秘蔵の御馬は、御宮近くに御厩を建てて
そこに入れ置いた。その馬は数度そこを離れ出ても、直に御宝塔の方へと参り、

前足を折って嘆く様子に相見えたが御他界の御年の7月、また御厩を離れ出て
御宝塔の裏道の石垣際まで参り、前膝を曲げて死んだ。

一、島原一揆の元旦、御拝殿(久能山東照宮)に1桶ほどの量の血があった。

一、同じ朝に、御神前の御装いの御鏡(鏡餅)が1飾りなくなった。

一、同年、禰宜頭の高津権左衛門が番所で臥し申しておったところ、

夜半に(東照大権現が)御鎧を御着なされて、御馬にお乗りになられ、御瑞垣の
内をお廻りになられた。「油断して寝申しておる!」と、御叱り遊ばされ、

御馬の足音が聞こえた。その後に御宝塔の方で馬のいななきを聞いたとの由を
権左衛門は確かに申した。

一、この以前は禰宜の番所は御瑞垣の内にあった。番所にて当番の者が大声
で物語り仕ると御内陣より、「やかましい!」と御叱り遊ばれたと、その時の当番
の者たちが確かに申したとの由である。

――『東照宮御奇瑞記(久能山の社僧等がもてる書)』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 12:10:41.97 ID:B+cFrsO4
>>173
一、同年、馬の鞍に1握りほどの味噌があった。

近江にての事であると、

2017年08月25日 18:09

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:22:03.98 ID:EExyBIJe
近江にての事であると、ある人の語った事である。

旱魃の年に惣村の間で水論があり、一方が堤を作って水をせき止めた。
一方はこの堤を切るとし、一方は切らせまじきと、双方の間で合戦騒ぎとなった。

しかし堤を破壊しに来る方が大勢であり、堤を守る方は小勢にて、如何にすべきかと考えていた時、
その在所に浪人がいたためこれに相談すると、この浪人は才の有る人物で、地下の者たちを集め、
老人を集め一組に、そして若者を集めて一組とし、堤の傍につぶてと成るような石を多く集めさせ、
この脇に老人の組を置き、若者たちには竹槍を持たせ、彼らの組を川の下に置いて合図を待たせた。

さて、敵方の百姓たちが堤に集結すると、老人たちが大勢集まって居る所を攻撃目標と定め押し掛った。
浪人は彼らを矢ごろまで引きつけると、一斉に石つぶてを投げさせた。
これに打たれて敵方が辟易した所で合図を出すと、若者の組が竹槍で突撃した。
これによりこの村は大いに勝利したという。

(士談)



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 13:28:47.54 ID:bNHBOouS
いいね

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 19:54:02.96 ID:+kmqCcoW
シリアとイスラエルなんて国家ぐるみで近代兵器使って同じようなことやってるしな

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:35:43.11 ID:XoXk+W8B
>>166
諫早湾かな?

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:41:15.45 ID:1HZw0XdN
>>171
>近江にての事であると、ある人の語った事である。

灰を集めて

2017年08月24日 09:48

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:29:06.47 ID:I2+9Smnk
多賀谷氏と宇都宮氏が関東において合戦していた頃、ある時多賀谷は灰を夥しく城下に集め置き、
敵をあしらい引き寄せ、風上に備えを立てて、足軽のせり合いの前に、小者雑人を出して灰を空中に
撒き散らした。

ここで足軽はこの灰を追いかける形で、煙に紛れて敵に突きかかり、大いに戦果を得たという事が
あったそうだ。

(士談)



164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:40:17.18 ID:cH4DxRBM
>>163
民家に雑兵が押し入らてガクブルの農民が「へ?灰ですか?」ってなってるとこを想像すると笑える

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/24(木) 08:51:15.28 ID:N8EUZHXM
そして周辺の木々は何故か桜が満開になったとめでたしめでたし

君の為にして自ら為にせざるときは

2017年08月23日 18:23

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 03:06:48.06 ID:0sMZAtSc
秀吉が朝鮮を征伐した時、池田三左衛門尉輝政は船奉行の中村九郎兵衛に命じて兵糧を
肥前名護屋に船で運ばせた。中村は提灯2,3百と太鼓3,4十を買って名護屋へと到った。

時間は巳の刻で潮の状態も良かった。しかし中村は玄海ヶ島に船を止めてわざと日暮れを
待ち、亥の刻になって船を漕ぎ入れた。そして2,3百の提灯に火をともして連れ、3,4
十人が太鼓を打ち立てると、火の光が海中に写り、太鼓の音は城の上に広く響いた。

秀吉が使者を遣わして、「何者ぞ?」とお尋ねになったところ、「輝政の家来・中村九郎兵衛
が兵糧を漕いで来た船である」と答えた。秀吉は元来華美を好んだので中村の迎合は甚だ
秀吉の心に適い、すぐに秀吉は中村を朝鮮に渡海させなさった。

中村が朝鮮に到ると合戦はすでに無くなっていた。(中村朝鮮に到れば軍すでに解けぬ。)
その時、兵糧はまさに尽きるというところだったので、諸将は大いに喜んだ。

これは誠に中村に才略があったとはいえ、虚名であって実際の功ではない。しかし、主君の
ためであって、自分のためにするわけではない時は、少しは認めるべきであろう。

(是誠に中村才略ありと云へども虚名也、実功にあらず。君の為にして自ら為にせざるとき
は少しくゆるすべし。)

――『武将感状記』


豊後勢から見た戸次川合戦渡河

2017年08月23日 18:22

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:25:11.58 ID:anEy0bRv
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:27:15.55 ID:anEy0bRv
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:50:58.54 ID:9wzzu0EL
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:00:30.68 ID:mYgG+7Q6
お家芸の釣り野伏ですね

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:07:35.32 ID:1E7jkg3i
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 22:47:42.19 ID:Cz0GgWje
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 23:31:57.49 ID:EQZ+wj9p
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

週間ブログ拍手ランキング【08/17~/23】

2017年08月23日 18:12

08/17~/23のブログ拍手ランキングです!


細川幽斎「武家に仕える者は」 15

彼は既に死人同然 13
父子の間であっても、武士の道とは 13

すると敵は驚き気圧され 11
総じて武士の殉死には 9

茶がどうして人よりも 8
あなたも相手に塩を 8

戸次川合戦における讃岐勢の悲哀 7
岩村落城の伝説 7
後顧の憂い残してはならぬと 6
軍監の命なれば是非に及ばず 6


今週の1位はこちら!細川幽斎「武家に仕える者は」です!
人によっていろいろな感想を持たれるタイプの逸話だと思いますが、「侍の子は事有れば必ず死に直面するのだから」好きに
させるのだ、という考え方に、当時の刹那主義的な空気を感じさせますね。無論「だからこそ身を律する」という志向もあったの
でしょうが、だから自由にさせるというこの幽斎の考え方は、少年たちの多くが永らえること無く死ぬのだ、という残酷な
諦観の上とは言え、確かに「優しさ」なのでしょう。
一見、細川幽斎という人を称揚するための逸話に読めますが、そこからもいろいろなものを感じ取れる内容だと思いました。

2位はこちら!彼は既に死人同然です!
非常に象徴的な構図が見えてくる逸話ですね。この時、大野治長は秀頼を生かすために必死であった事でしょう。
しかし「勝者」たる徳川方の人達にすれば、彼の姿は死人同然に写っていたという。
同じ空間の中に、生者の世界と死者の世界が現れていた、というといかにも神話的ですが、歴史は時に、そういう残酷な空間を
作りますね。大阪の陣もまた、その一つであったのでしょう。そんなことを感じさせてくれる逸話だと思います。

同じく2位でこちら!父子の間であっても、武士の道とはです!
こちらは、武士というものについて非常に考えさせてくれる逸話ですね。
名こそ惜しまん、というのが武士の基本的な思考の一つであると思います。ただしこの場合の「名」とは、例えば正々堂々とか
正直とか、約束を守る、裏切らない、といった、あるいみ近代的な倫理観を守るというよりも、少なくとも近世以前は、
卑怯だろうが裏切ろうが、とにかく「強く頼もしい」という「名」を守ることであると解釈しています。
この逸話も、だからこそ「父に助けられた」というレッテルは、彼の「頼もしさ」を損なうものであり、だからこそ息子であっても
助けなかった、と捉えるべきなのでしょう。逆に言えば、そういう意味の「名」を保持できない者は、武士として生きていても
仕方がない、と言えるのでしょうね。
こういった意識は近世に成ると徐々に洗練され倫理的・観念的なものとなり、やがて近代以降、新渡戸稲造が著したような
『武士道』へと修練されますが、そういう観念化するまえの「武士の道」を感じさせてくれる、そんな逸話だと思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )

茶がどうして人よりも

2017年08月22日 18:02

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 04:40:38.86 ID:lvwuulW2
宇治から幕府に茶を献上する時、その運搬途上は人々がこれを避けるのが
例であった。ある時に大久保忠教(彦左衛門)は、これの運搬中に出くわして
わざと避けなかった。

役人が忠教を叱ったところ、忠教は知らぬ振りをして「汝等は何する者ぞ?」
と問うので、役人は、「これはお上の茶である。よって道をあけねばならない」
と言った。

これに忠教は、「茶がどうして人より貴いものか。まして私は役人ではないか。
よって、汝等の方から私のために道をあけたほうがよい」と、答えた。

――『学生の漢文(近世叢語)』



158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:35:10.02 ID:+wZ6x60J
彦左…

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 12:52:18.34 ID:q3gY/N3F
>>157
答えた後どうなったのかってのが知りたいw
普通このテの話って「流石は○○よ」とかそんな感じ

後顧の憂い残してはならぬと

2017年08月22日 18:01

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 11:36:57.78 ID:W9FCLw1N
大友義統率いる豊後勢が戸次川へと出立した際
その部将足達図書は遅れてやって来た。
義統がなぜ遅れて来たのかと問うと
「今日の合戦は当家浮沈の極まる一戦です。万が一敗北の暁には討ち死にはもとより覚悟の上
 後顧の憂い残してはならぬと立ち帰り、妻子を殺し、家に火を掛けて来たのでございます」
これを聞き、義統を始め皆涙を流さぬものはなかった。

「豊後全史」

その結果は悲惨であったが、この時点ではギリギリ良い話(?)なので



161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:37:05.55 ID:HRLKmaln
>>159
戸次統常とおんなじやん
統常は弟妹だったけど

軍監の命なれば是非に及ばず

2017年08月22日 17:59

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:34:50.20 ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部存保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:28.43 ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 06:48:59.75 ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:33:00.57 ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 08:02:52.86 ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

2017年08月22日 17:58

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 09:21:39.91 ID:W9FCLw1N
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 10:45:11.73 ID:bjVqcGPk
ブラック戦国武将

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:32:15.47 ID:dLLmZWq5
そらそう書くしかないわなw

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 20:52:44.68 ID:Sxe+xW1C
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 22:49:09.44 ID:dGIwlC76
仙石無能

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 23:27:17.91 ID:fvB7DkEz
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

すると敵は驚き気圧され

2017年08月21日 18:38

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/21(月) 16:59:46.80 ID:uGfwiSOk
立花道雪が筑後にての合戦で、敵が山上の道雪の軍に敗退し、道雪軍はこれを追撃した。

敵がすでに下山した時、道雪は味方に下知して進軍を止め、先に斥候を出した所、
案の定敵は山の下に降り立ち、それぞれに備えを固め道雪の軍を待ち構えていた。

そこで道雪は合図を定め、静かに備えを山下に下ろし、ゆっくりと敵に接近した。
そして槍が届くほどの間近と成った時、合図とともに一斉に鬨の声を発し槍をばっと持ち上げた。

すると敵は驚き気圧され、容易く敗北したという。

(士談)


あなたも相手に塩を

2017年08月20日 12:01

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 10:20:48.38 ID:1Gif5vGX
大阪の陣でのこと。堀尾山城守(忠晴)の寄口に、幕府使番渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)が訪れ
尋ねた

「この仕寄場より堀際まで如何程の距離があるか?将軍家よりお尋ねの時のため記しおきたい。」

しかし堀尾
「存じません。それを知りたければどうぞここから縄を打って測ってください。」

そこで渡辺は寄口より出て距離を測った。」

この話を横田尹松が聞いて、彼にこう言った
「失礼ながら御辺は今少し不巧者であるな。そういう時は、堀尾山城守も一緒に連れて出るものだ。
こちらに塩をつけるのなら、あなたも相手に塩を付けて良いのだ。」

(士談)



56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 21:06:40.38 ID:EppBfuOJ
一休宗純「私が縄を打ちますから渡辺図書助(宗綱・渡辺守綱次男)様は綱を打って下さい」

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/20(日) 21:18:25.81 ID:yzDBFuw+
城の堀辺まで綱を渡す
渡辺守綱と堀尾山城
なにか狂歌ができそうな

彼は既に死人同然

2017年08月19日 21:02

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/19(土) 21:00:53.48 ID:vEh+t7Iu
大阪夏の陣の5月7日、大阪城より「秀頼生害の事、御免あるように」との使いに、大野修理(治長)が出て
本多上野介(正純)にこの旨を伝えていた時、田代大膳という者が側に居たが、彼は大野が地に座って
発言している時、後ろで刀のこじりを上げていた。

これに気がついていた正純は、後で田代に「なんと荒気な事を」と戒めたが、田代は

「彼(大野)は既に死人同然なのです。聊かも油断すべきではありません。」

と申したという。
彼は後に駿河大納言(徳川忠長)に仕えた人物であり、この事は、ある人が語ったものである。

(士談)


岩村落城の伝説

2017年08月18日 13:55

48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 05:15:48.04 ID:OmakkWrJ
○ 大将塚(旧岩村町)

伝に曰く、織田信忠が秋山晴近(虎繁)夫妻及び大島・座光寺らをここで磔にしたという。

その後、城主はあるいは難に遇いあるいは夭折した。時の人はこれをもって、その霊の
祟りと見なした。丹羽氏が城主になると寺を建て5人の魂を祭り、その名を東照山五仏寺
といった。(『巖邑府誌』)

なおこれに関して信濃の地はまた面白い伝説を持っている。すなわち掲げて参考とする。
ひとつは駒ヶ根村の姫淵の伝説、ひとつは諏訪のおまん殿の伝説である。

○ 姫ヶ淵(木曽旧駒ヶ根村)

天正3年4月、信長は武田氏を長篠に破り、大兵で岩村を囲んだ。11月、城中の兵糧は
尽きて城を出て降伏した。織田の兵はこれら2千人を殺し、城主の秋山を長良川で磔にし、
信長自らその姑<おば>を斬った。

姑の侍臣らは驚いて遠山氏の少女を拉して逃れ去った。やがて亡命の遺臣らは主家の
遺児を奉じて木曽に入り、小川村に隠れた。小川の民が織田と称するのは、この因縁に
基づくという。

同地方倉本立町荻原東野などの口碑によれば、少女らは美濃路より来て立町で木曽川
を越え、諸原小野谷を経て小川村に入ったという。

やがて少女は成長して見目麗しくなり、山家には似合わぬ美しく気品ある姿であったから、
宿の妻にと望む者が多かった。中でも諸原某という郷侍は、

「我こそ婿になる」と、日夜言い寄った。遠山氏の娘は厭わしさに、遂に水に身を投げて
死んだ。それより、諸原の辺りでは年々疫病が流行し、土民は恐れて祠を建てて、斎き
祀ったという。(『西筑摩郡誌』)

○ おまん殿(信州諏訪地方)

諏訪の昔話に曰く、天正10年のこと、織田信長は信州に侵入し、法華寺というところで
兵糧を使っているところへ、色々の小袖を着た女房が1人入って来た。

この女房は信長の前へ出ると、懐中していた錦の袋から茶入を出して、信長に見せた。
すると信長はにわかに激高して刀を抜き、この女房を一打ちに斬って捨てた。

この女房はすなわちおまん殿(おつやの方)で、もとは岩村の城主・遠山氏の妻、信長の
伯母である。岩村城が武田氏の手に帰するや、その将・秋山伯耆(虎繁)が入り守った。

遠山氏の後家・おまん殿は秋山の妻となり恥じる色も無く仕えていたから、信長は怒りに
堪えずこの始末に及んだのであった。

されば、おまん殿の恨みが消えないで遊魂は今でも彷徨って、夜な夜な小袖姿で茶入を
捧げて諏訪明神に詣でるのだという。(中里介山『大菩薩峠』)

――『恵那郡史』



49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:13:59.79 ID:eiHQW3Ef
>小川の民が織田と称するのは、この因縁に基づくという。

スケーターは本当はこういうところの子孫だったりするんじゃないかな
系図を買ったんじゃなければだけど

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 21:55:39.37 ID:iAs5+xUD
戦国時代の日本人がいい加減に系図作ってたのに
現代の日本人がそれを信じつつも現代日本人の系図にケチをつけるのは興味深い現象だ

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:07:18.91 ID:eiHQW3Ef
つうかさ
俺は買ったって言ってもいいと思うけどね
ぶっちゃけ系図なんてそんなもんでしょ?

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:32:55.08 ID:QTgOSbH6
家康みたいに系図買えなかったので、怪しげな伝説捏造して源氏になった例も

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/18(金) 22:37:30.90 ID:hBePV6uS
家康の安城松平に関しては、少なくとも祖父清康の時代から、おそらくは初代親忠の時代から新田源氏を名乗っていた模様

細川幽斎「武家に仕える者は」

2017年08月17日 17:14

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 21:55:42.25 ID:18h3KstQ
細川幽斎「武家に仕える者は」


(幽斎の)御座の間の近くでたくさんの小姓衆がどんなに騒ぎ暴れていても
(幽斎は)少しも叱ることはなかった。

賄いの恩斎と申す者が時々(小姓衆を)叱るようなことがあると
幽斎公は
「武家に仕える者は、事が起こってしまえば今すぐにでも命を失う物だ。
 可哀想だから、子供は暴れていても制してはいけないよ」
と仰せられていたので
召し仕えている衆は自分の親よりも(幽斎のことを)
深くありがたく思い、例え大名になるとしてもこの御家を出て
別の主君を頼みにしようと思う者はいなかっただろう。
だからこそ小勢で不慮に籠城をなされたのに(※1)
多勢の寄手が容易く攻めることが出来なかったのだ。

この幽斎公の御俗名は犬打つ童まで(※2)も知っている細川兵部大輔藤孝公と申す。
若き時より弓馬は言うに及ばず、和歌、連歌、鞠、包丁、打ち囃子の道までも
心得られて、その道の極みに至るまで情趣を解することによって
人に劣るような芸は持たない人である。


――『戴恩記』

(※1)田辺城の戦いのこと。
(※2)犬を追いかけ回す三歳の児童でも知っている、という意味。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:22.30 ID:KCxrewke
細川だと進士流なのかな?

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/16(水) 22:27:49.97 ID:KCxrewke
ああ、包丁道のことね

総じて武士の殉死には

2017年08月17日 17:13

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/17(木) 04:15:30.84 ID:fm2rTd/F
ある老人の話によれば、「総じて武士の殉死には様々あって、義腹・論腹・商腹がある。

君は礼をもってし、臣は忠をもってす。主君のために心を尽くし、軍陣では主君の危機
を救い、太平の時は賞禄を目に掛けず無二の奉公を致し、もし主人の死去あらば二世
の供を致す、これが義腹なり。

昔、相馬長門守利胤の家士の金澤備中と申す者は相馬家代々の忠臣で、すでに備中
まで11代が戦場で討死したのであった。その子・忠兵衛という者は、将門より26代目
の大膳太夫義胤(中村藩第2代藩主・相馬義胤)が病死なさった時に申して、

「私めの先祖より亡父・備中まで11代は、いずれも御馬前で討死致した。ところが今は
天下太平なので、そのような御用にも立ち申さず。せめて二世の御供でも致し君臣先祖
の忠孝に備えるとしよう」

と、相馬の城下中村で殉死した。「これこそ誠の義士と言うべきだ」と、諸人は誉めた。

また、同格の傍輩が殉死するのを見て、「我も劣るまじ」として腹を切るのを論腹という。
また、さしたる恩もなく、死なずとも済むはずのものを、「我が命を捨てれば子孫の後栄
にもなるだろう」として腹を切るのを商腹という。

また、いつもは「主君に万一のことがあれば一番に命を捨てる!」と罵りながらその期に
臨んではとやかく言ってその場を外す者もいる。これは論ずるに足らず」

――『明良洪範』


父子の間であっても、武士の道とは

2017年08月16日 11:27

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 20:22:03.87 ID:gU50rwyN
大阪の陣において、井伊直孝家臣・庵原助右衛門の子・主税が、敵と組討をし、組み伏せた所に、
敵の家来たちが出てきて主税を斬りつけた。そこに主税の郎党たちら集まってこれを仕留め、
主税はついに敵の頸を取った。

この様子を、彼の父である助右衛門は見ていながら、助けに行こうとしなかった。
合戦後、人々は助右衛門に対し「あまりにひどい」と非難した。しかし助右衛門は

「私は、主税が非常に不憫に思った故に助けなかったのだ。
もしあの時、私が行って敵を除けば、人はみな、主税は私に助けられたのだと言われてしまうだろう。
運は天にあり、死は定まれり。
私に助けられたという名が残るのが不憫である故に、助けなかったのだ。」

父子の間であっても、武士の道とはかくあるべきである。

(士談)



144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/15(火) 22:32:45.21 ID:1v4Ror0J
又兵衛「俺が敵と組み合って川に落ちた長政を助けなかった理由と同じだな」

週間ブログ拍手ランキング【08/10~/16】

2017年08月16日 11:26

08/10~/16のブログ拍手ランキングです


それ故弾が力なく 13

留守は要らない 12

どうして昼寝などしていたのですか? 7
こんな道の付け方が 6
ともかくも仰せには 5

○ 源斎窟(旧坂本村千旦林) 2
○ 安造穴(旧福岡町高山) 2


今週の1位はこちら! それ故弾が力なくです!
「合戦が始まった時」をこういう所で判断したのか、というお話。
なるほど当時の鉄砲は一発づつ弾薬を詰めていたわけですから、敵が近づいてきて焦れば、よほどの熟練者以外は
その作業もぞんざいになり充分な威力のない弾丸も、多く出たことでしょう。弓ほどではなくても、やはり腕前の差は
出たのでしょう。このあたり、雷汞や金属薬莢が発明され、銃弾の威力が威力が均一化、規格化した近代の戦争とは
全く違いますね。
こういった現象も経験則として、当時は知られていたのでしょう。そしてそれが戦場の様子を把握する要素にも成っていた。
近現代の常識とは別の常識が当時存在したことを教えてくれる、良い逸話だと思います。

2位はこちら留守は要らないです!
昨今の関ヶ原理解の主流になりつつある、「小早川秀秋は合戦以前から裏切っていた」「あらかじめ東軍だった」という解釈に
近い内容ですね。そしてここで現れる秀秋像は、創作物などでよくある気弱で優柔不断なものとは全く違う、かなり
果敢な決断力に富む性格の人物として描かれています。後世に軍記物で問い鉄砲の話が広まる以前の、小早川秀秋の
世間での印象の一端が現れているのかな、などと感じてしまいますね。
こちらも実に興味深い内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!こんな道の付け方がです!
上杉家中が堀尾家の戦の仕方を批判したお話ですが、これも実は、様々に解釈できる内容だなと思いました。
端的に言えば、ただ単に、堀尾家の合戦知識の衰退という話ではなく、実際に堀尾家の経験してきた機内西国の合戦と、
上杉家が経験してきた東国の合戦のあり方が相当違ったのではないか、という事です。
大阪の陣という、全国各地の大名を大阪という一点に集めた中で、そういった合戦の「文化摩擦」が、あらためて出てきて、
それが、やはり「東国大名」であった徳川政権化で、東国大名の発想のほうを正しいとする形でこのように逸話とされた
のではないか、という解釈です。
逸話の意図的には無論、「合戦知識を保持出来ていなかった家が、知識を保持していた家から笑われる(だから武家は
合戦の知識を守りた保たなければればならない)」ということでしょうが、元をたどるとそういうこともあったのではないかな、
なんてことを考えました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
又気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してくださいね!
( ´ ▽ ` )

どうして昼寝などしていたのですか?

2017年08月15日 18:55

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 22:01:40.61 ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ



46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/15(火) 05:24:52.89 ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊~
昼~は寝床でぐーぐーぐー

こんな道の付け方が

2017年08月14日 16:44

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/13(日) 23:30:22.10 ID:xXH2oUX+
大阪の陣において、堀尾山城守(忠晴)の寄せ口の備えを、上杉景勝の家臣である杉原常陸介(水原親憲)が
見て

「堀尾の備えは後ろから崩れるだろう。裏崩れというやつだ。」

そう言ったが、果たしで後ろのほうが騒ぎ立てた。
これは、杉原が堀尾の備えにおいて、馬を近くに引き付けていたのを見て、もし馬に鉄砲が当たれば
馬は必ず跳ね合う事から、これで騒ぎが広がり裏崩れに成る、と見て摂ったのである。

その後、堀尾の持ち口を上杉景勝に渡して陣替えをするように、との将軍からの命があった。
この時、景勝方より軍使を以て、堀尾方に「道を作って陣地を渡すように」との申し入れがあった。
これによって堀尾方は道を作って陣地を明け渡したが、景勝の軍勢はこれを見て罵倒した

「上方衆は、弓矢の事に巧無き者達だ!こんな道の付け方があるものか!」

そう声高に言い放ったが、堀尾の衆にこれについて返答をするものは居なかった。
これは、堀尾の者たちは通常のように、往来しやすいよう道を作ったのであるが、
景勝方の人々にとってこの場合の道とは、敵の攻撃から身を守り、負傷者が出ないように
作られるもの、だったからである。

(士談)



42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 01:04:03.19 ID:vlaYX3eR
家康も嘆いていたけど、たった15年戦がなかっただけで
その辺のノウハウはボロボロになるもんなんだなぁ…

44 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/14(月) 21:02:50.32 ID:TDVqvO2W
>>41
我ら上方の者に取って織田家に仕えし頃より道は攻め、武功を挙げるために造る物でござる。
謙信公の頃より武門の誉れ高き上杉家において道は敵やその矢弾より身を守り命を惜しむ為に造る物であったとは知りませなんだ。
此度は越後の軍法を学ぶ良い勉強になり申した。子々孫々までこの軍法の違いを伝え奉らん。


位言い返せる古参の兵は居らんかったのかね…

○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

2017年08月14日 16:42

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 14:19:58.49 ID:O+XKGCMe
○ 源斎窟(旧坂本村千旦林)

吉村源斎の居た址で、木曽川の碧潭に臨んでいる。

天然の巌窟をなし、方9尺余り、その後方に更に一大の巖が河上に突出している。
そこは平坦で方5間余りある。現今もなお、焼米および陶器の破片等を掘り出す。

伝えに曰く、源斎は初めの名を吉村太郎左衛門氏勝といい、智謀優れ、かつ頗る
剛力の人であった。源斎はこの地に住んで付近の原野を開拓し、糧食を蓄えて
ひとえに時世を窺っていた。

武田信玄はその名を聞いて源斎を招いたが、源斎は応じなかった。そこで信玄は
兵を寄こしてその居を焼き、源斎を殺したという。

――『恵那郡史』


それ故弾が力なく

2017年08月12日 18:18

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/12(土) 18:15:34.81 ID:P5a+mbW7
関ヶ原の時、大道寺(直次か?)は黒田家の陣にいた。9月15日に先に出て様子を見ていた所、
西軍の陣より鉄砲がひたひたと打ちかけられ、これにより討ち死にも多く出た。
このような所に黒兜の武車が出て、敵方の様子をじっくりと観察していた。
彼は馬に手綱をゆらゆらと打ち掛け、いかにも心静かに周りを見ていた。
その様子が大変見事であったので、大道寺は彼のそばに寄って居た。

すると彼は、「只今戦は始まった」と独り言を言った。
大道寺はこれを聞いて「何ゆえに左様に見られるか?」と尋ねた。
武者は

「鉄砲の弾が足元に落ちたが、その落ちようが、力なくころころとしていた。
これは敵との間合いが近くなり、急ぐ事で筒の中に弾薬がろくに入らないまま発射し、
それ故弾が力なく落ちるのだ。」

そう説明した。

ある話によると、この武者は斥候に出た井伊直政であるとの事である。

(士談)