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「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は

2017年12月31日 19:16

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 22:38:38.22 ID:aGIvmbNZ
今川義元が、桶狭間で討死した時のことでした。
義元の臣松井五郎八郎(宗信)は、あまりのことに茫然として落ちのびてゆく途中、井伊信濃守(直盛)に遭いました。
「いずこに行かれる。」
と、松井宗信は声をかけました。
「本陣にまいり申す。」
「御無用でござろう。大将は討死でござるぞ。本陣もすでに総崩れでござる。拙者たしかに見届けてまいり申した。」
松井宗信の悲痛な声を井伊直盛は、にっこりうけて、
「お言葉ではござるが、拙者は兄肥後守(直親?)の命をうけて、本陣に見廻りに参るものでござる。味方総崩れと聞いて、このまま立ち帰っては、
兄にもうしわけござりませぬ。敗軍を見物して逃げ戻ったなどと言わるるも本意でござらぬ。」
こういいながら進むのでした。
「お待ちくだされ。」
松井宗信井伊直盛に追いすがりました。
「お言葉御もっともでござる。思えば拙者ここまで落ちのび申したが、武士として潔からぬことと思いつき申した。
この上は、ご一緒に引き返して、武士らしく、最後の一戦いたしとうござる。」
「拙者と同道なされるか。」
二人は、馬をならべて、本陣の方へ駆け出しました。蹄の音が、野面にかつかつと響きわたりました。
しかし、二人の健気な振る舞いも、大勢を覆すなんの役にも立ちません。
渦巻く硝煙のなかに、別れ別れになった二人はやがて後に、叢を染めた二つの死骸となっていたのでありました。
死場所を得ることは、武士の最後を飾るものであり、これあってこそ武士道が確立されるのであります。
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は、こうしていついかなるときもまもられるのであります。

『明良洪範』(良将言行録)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 02:30:08.57 ID:NdEwIQCr
葉隠の作者が言ってるのとはやや意味が違っている気がする>「武士道とは死ぬことなり」

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:29:45.16 ID:R8OCKHGT
明良洪範は元禄の頃(1688ー1704年)に書かれたもので、
葉隠は1716年頃のもので当時は一般的には受け入れられなかったからね

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:35:34.95 ID:mOqI3VfN
まとめの7007
「血気の勇であった」
だと、良将言行録では上の話の紹介の後

>井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
>しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
>終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
>これは五郎八郎の不孝である。
>
>初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
>でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

って書いてるな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:37:29.20 ID:mOqI3VfN
てよく見たらまとめと同じ良将言行録だった
活字化されたのが明良洪範だったのか

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 07:26:46.90 ID:e/F9/q5y
誰のエピソードだったか思い出せなくて、知ってる人居ないかな

単身で伝令役として敵の城に行った際、
逃げずに役目をちゃんと果たした事を証明出来るように、
鎧?を置いてったっていうエピソードなんだけど

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/01(月) 11:10:31.94 ID:d70Ojd9I
>>554
明良洪範と続編を再編集したのが良将言行録だったかな
要は異本だね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 22:31:44.45 ID:RsVfPdse
「良将言行録」は、真田増誉の著述にかかる。
慶長元和に始まり、徳川五代将軍綱吉の頃に至る、名将及び武士の言行事跡が挙げられている、
十巻にまとめてあるが、同じ著者の「明良洪範」四十巻中の抄出といわれる。
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速やかに誅し賜るべし

2017年12月30日 18:04

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 17:41:51.16 ID:EhiSMOPN
元亀四年八月、織田信長は越前を退治し、朝倉尽く敗北、朝倉配下の屈強の者共は、
討ち死にするか、あるいは生け捕られた。信長は朝倉より寝返った前波吉継、富田長繁を
召し出して、そういった人々の名字を尋ねた

この時、牧弥六左衛門が生け捕られ連れてこられた。
信長が「彼は何者か?」と聞いた。前波が「彼は牧と申す者です。」と答えると
「牧といえば聞き及びたる者ではないか。それほどの者がどのようにして捕えられたのか?」

これに牧が答えた
「御家臣の前田又左衛門(利家)、佐々内蔵助(成政)と名乗り懸り、刀禰山まで追い詰め、
勝負決しようという所で、膝口を強かに突かれ、進退窮まりて生け捕られました。」
そう聊かも気後れ無く語る姿に、信長は

「彼は勇姿である!死罪を宥して、今後は味方に参り、忠戦を尽くすように。」

牧はこれを承るも
「先程からの御恩言、忝なく存じます。しかしながら、私は譜代として朝倉の家に奉公の
身であり、ことに国中に奉行として知られた者でありますから、何の面目があって命を
生き長らえるでしょうか。ただ、速やかに誅し賜るべし。」

前波吉継はこれを聞くと
「信長様のお言葉に偽りはない。本領も更に別義なく安堵される。畏まって忝ないと申す
べきだ。」

牧は目を見開いて前波を睨みつけ、言った
「和殿は朝倉普代の者にて義景の厚恩を蒙りながら、己が不義だけでなく、人まで汚す気か!?
ただすぐに頸を刎ねられよ!」

信長も力及ばず、彼を河原に引き出して頸を刎ねた。
この時牧は、「侍品の者、打ち捨てにすることがある。だから先に腹を斬ろう。」
そう言って、脇差を乞うて腹を斬ったという。

(士談)



古びて見苦しいからと言って、

2017年12月29日 16:42

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:10:25.04 ID:/1erROHT
大津の代官である小野半之助が、酒井讃岐守忠勝に申し上げた。
「勢多は海道往来の橋であり、殊に古代よりの名橋でありますが、現在では殊の外古く、見苦しく
なっております。ここ2,3年のうちに架け変えられるべきであると考えます。」

忠勝はこれを聞くと
「その橋が破損して、往来の人々が怪我や事故の危険があるのなら、どうして2,3年など待とうか、
早速に架け直すべきである。しかし修復によって持ち怺えられるのならば、修復で済ませるべきだ。

総じて橋というものは、『御代静謐久しく、この橋は何代にわたって伝わっている。』などと
言われるものであってこそ、兵乱の無い、天下静謐の印となる。

古びて見苦しいからと言って、改め造るべきではない。」

(武野燭談)



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:28:05.56 ID:/LKuYwzf
>>544
毎年年度末になると大して痛んでもない道路を舗装して予算を消費する現代の政治家に見習って欲しい。

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:30:41.94 ID:LnqXQjAm
政治家はドカタのバイトでもしてるのか?

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 14:43:31.79 ID:QiWPbY9p
>>545
それは舗装が目的じゃなくて水道、ガス、下水などのメンテだ。

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 17:58:27.71 ID:hSRdluK6
>>545
電線を埋める工事もやってるぞ

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 21:05:12.09 ID:aDvRL7jL
勢多の橋というと織部の擬宝珠の話が思い出される

第一の善政

2017年12月28日 11:09

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 09:43:56.19 ID:SVRKQu46
品川・川崎の間を流れる川を六郷といい、その上流は玉川であり、江戸の南第一の大河である。
また江戸と本所との間に流れる川は隅田川の末にして、これも又城東の大河である。
みな要害第一の設と見える。であるが、この両川の往来、渡し船を待つ旅人、行客の
難儀を計り、酒井讃岐守忠勝は推して申し上げ、大橋を架けた。

「御用心向き如何か」
そう言う人があったのを、讃岐守は笑った

「天下の将軍は、人を以って城とし、人を以って垣とする。
その人を難儀させてしまっては、城にも垣にもならず、何の用にも立たない。
そもそも川を以って敵を防ぐような政道に成り下っては、江城は一日も守れないであろう。
ただ諸人が迷惑しないように仰せ付けられるこそ、第一の善政である。」

(武野燭談)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 11:16:09.20 ID:TGrYJby2
大井川はいいのか?

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/28(木) 16:14:17.67 ID:iZWLj2wC
江戸川も

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/29(金) 00:44:05.29 ID:rMgdWzCk
大井川に架橋って防衛目的もあったろうけど、技術的に大変そう
蓬莱橋なんか平成に入ってからも何度もぶっ壊れてるし

夜々互いに往来し、昼は終日の合戦

2017年12月27日 22:36

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 20:42:38.22 ID:0CHlz54H
佐竹義重蘆名盛隆との対陣の折、盛隆の弓矢を取っての器量のゆゆしさに、陣中にて
ひと目逢いたいと艶書を投じた。

実は盛隆も同じように思っており、彼は佐竹の陣中に、夜更け人静まってから参会に及んだ。

それからは、夜々互いに往来し、昼は終日の合戦をした。
しかしこの事は隠し通すことは出来ず、それぞれの老臣たちが互いに和議を入れ、無事となった。

(武野燭談)



週間ブログ拍手ランキング【12/21~/27】

2017年12月27日 22:34

12/21~/27のブログ拍手ランキングです!


敗走した後、残された兵卒はどうなったか? 27

彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず 15

武臣たる者の実義は汝にある 13
教え方というものがある 13
ホワイトな社風です。 13
多賀高忠の仕置 13

末の松山波もこさなん 11
正直も不律儀に移り 9
ドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命 9
何とぞ悪事災難に遭わせてたまわれ 9


今週の1位はこちら!敗走した後、残された兵卒はどうなったか?です!
要約すると「大友が攻めて来たから応戦しただけ。仙石勢の被害は不幸な事故であり我らとしても甚だ遺憾。
我々は悪くない。」という所でしょうかw
まあ戦国大名なんてみんなこんな感じで自己正当化しますし、武田信玄みたいな、これが可愛いレベルの正当化の鬼みたいな人も
居るわけで、そういう視点から見ると、これも素朴な言い訳ではあるのですが、やはり面白いですね~。いろんな想像が膨らみます。
島津が敗兵たちを保護して送還したというあたり、島津であってすら「本気で戦ってはやばい」という理性がそれでも働いていたのか、
しかしその程度のことで言い訳がきくと考えていたのか、等々、この時の島津家内の、硬軟それぞれの対応の「軟」の部分が
すけて見えるのがいいですね。
大変興味深く読ませていただいた、逸話でした。

2位はこちら!彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず です!
福島正則の配下といえば、正則が改易された時、皆が一廉の人材であったため他藩の争奪戦になった、なんて話があるくらい、
正則は人材を育てるのが非常に上手かったと言われます。
彼は配下に、権限をきちんと与え、仕事を大胆に任せたそうで、そういう中で、自分で判断できる人材が育っていったのでしょう。
対象的に加藤清正の方は、全て自分で指図するため、自己判断のできる人材が育たず、加藤家改易のときは、旧臣たちは
再就職に非常に苦労したとか。
同じような、秀吉の子飼いとして育った人物でも、そのありようは大きく違ってきたりするのだなと、不思議な感慨も持って
しまいます。
そういえば正則は、最近では秀吉の部将というより、三成などと同じような「文官」、「吏僚」と呼ぶべき人物だったのではないか、
なんて言われたりしますね。そういう部分も加味すると。、更に想像が広がるのでは、なんて感じます。

今週管理人が気になった逸話はこちら!多賀高忠の仕置です!
多賀高忠たがたかただタガタカタダ!たしかに声に出して読みたい名前ですねタガタカタダw
しかし「名前が面白い」が反応の中心に成るとは。まあこの逸話を読んだ方は、おそらく一生、多賀高忠の事を忘れないでしょうねw
名前というのも、時にそれだけで、数百年後でもなにがしか影響を与えられるんだなあ、なんてことをしみじみと感じました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!

そして、週間ランキングも今年はこれで最後ですね。今年も1年間、本スレの方々、この纏めを見てくれる皆さま、
皆々様に本当にお世話になりました。心から感謝、御礼申し上げます。
よろしければ来年も、どうぞよろしくお願いいたします。
来年が皆様の、良い御年となりますように。

まとめ管理人・拝

武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


教え方というものがある

2017年12月25日 16:31

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 09:42:05.44 ID:kXd3M8g5
三河において、壁書の条々を定められた時。百姓どもはこれを一向に用いなかった。
「如何したものか。」各々が対策を話し合った時、作左衛門重次はこのように言った

「土民はいろはですら、しっかりと知らない所に、硬い文言に古い言葉使いで高札を
立てたのだから、何を言われているのか解らないのだ。
教え方というものがある。私に任せられよ。」

そしていかにもまめに、いろはにて『何々のこと』と書き、『これを背くと作左が叱る』と
書き加えて出した。これ以降、国中の者達は法令を背かなくなったという。

(武野燭談)



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 10:12:44.36 ID:fy+bl4gg
内容についてはこちらを参照
作左三カ条(まとめの7735)

別バージョン
本多作左衛門重次、しかる・いい話(まとめの59)

そういえば昔「さ」「く」「ざ」「が」「し」「か」「る」「ぞ」
をみんなが一文字ずつ書いて完成
してたな

正直も不律儀に移り

2017年12月25日 16:29

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 12:51:46.80 ID:XbXTQwZe
正直も不律儀に移り


あるとき、浅野家の家老が参上して
「金奉行と扶持方奉行は相役を仰せ付けられるべきです」
と申したところ、浅野長政はそれを聞いて
「只今の通り、一人役では盗むと思ってこのように言うのだろうが
 我はかねがねその心得で、正直な人を選んで申し付けるようにしている。
 侍は己の勝手向きがどれだけ逼迫しようが盗みはしないものだが
 近世の侍は盗む侍もいるようだから、もしこの後相役を添えれば
 二人なら盗むと言う声が、いずれにせよ多くなるだけだろう」
 
「もっとも盗みをするのではないかと疑えば、この両役には限らないので
 この役も無心する、この人も覚束ないと言って相役にしていけば
 馬廻りの人数も次第に少なくなり、江戸詰に多く当たるようになれば
 馬廻りの侍が内心で"諸役人は楽でいい"と心得るだろう。そうなれば
 侍の志はきたなく、正直も不律儀に移り、どうにかして役人になれば
 差し当たって貧苦を逃れられるだろうと、正直を作り家老や出頭人に
 賄賂を贈るようになるだろう。このような風俗を心得ようとすることが
 国政仕置の要である」
と指図したという。


――『浅野考譜』


ドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命

2017年12月25日 16:28

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 10:05:27.94 ID:fy+bl4gg
ルシオ・デ・ソウザ「大航海時代の日本人奴隷」に書かれてた
支倉遣欧使節団のドン・トマス滝野嘉兵衛の数奇な運命

彼は山城国出身であるにも関わらずなぜか支倉使節に同行。
ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王との謁見の際には帯刀が許されていたが
スペイン史料には彼が「殉教者の息子」とあることから二十六聖人の縁者の可能性があり、特別視されていたと思われる。
1615年、支倉常長自身が(スペインの歓心を買うため?)フェリペ3世の宮廷で洗礼式を行いキリシタンとなった時には
ドン・トマスは剃髪し、フランシスコ修道会の修道士となった。
その後、ドン・トマスは支倉常長の帰国には同行せず、俗人に戻りディエゴ・ハラミーリョというスペイン人に仕えていたが、
奴隷のような待遇を受け、(日本人の奴隷化はスペイン王により禁じられていたにも関わらず)焼印まで押されてしまった。
そのため1622年、ドン・トマスは国王に対しインディアス枢機会議を通じて
「ドン・トマスは日本の大使とともに宮廷を訪問し、キリスト教に改宗した日本に武士であります。
陛下の父君にあたる当時の国王陛下(フェリペ3世)手ずから聖水を、陛下の姉君(仏妃アンヌ・ドートリッシュ)には聖油を授けられました。
ディエゴ・ハラミーリョなる者が、彼は奴隷ではないにも関わらず彼に仕えていることから焼印を押しました。
この不正行為に対し、厳正なる裁きを下していただくよう陛下にお願い致します。
どうか彼に自由を与え、日本への帰国許可を与えてください」
という嘆願が送られ、ドン・トマスに帰国許可がくだされた。
翌1623年のヌエバ・エスパーニャへ渡航する乗組員名簿には「ドン・トマス・フェリペ・ハポン」の名前が確認でき、
さらに彼はヌエバ・エスパーニャからフィリピンへの渡航許可を求めている。
ただ、1624年には江戸幕府はマニラとの通交を断っており、彼が日本までたどり着いた可能性は低い。


末の松山波もこさなん

2017年12月24日 18:14

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 17:33:05.05 ID:c//5mowE
扇谷上杉氏の家臣である難波田弾正(憲重)は、武州松山に居城していたが、天文6年7月、
扇谷上杉朝定が北条氏綱によって川越城を攻め落とされると、この松山城に入った。
難波田は熱心にこれを補佐した。

7月20日、北条氏綱は松山に押し寄せ強力にこれを攻めたが、難波田は固く守り落城を防いだため、
氏綱は近隣を放火して兵を小田原へ入れた。
この戦いの時、北条家の家臣、山中主膳という者、難波田と戦ったが、難波田は軽くあしらうと
早々に引いた。山中はこれを追いかけつつ歌を叫んだ

「あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田のくずれ行くらん」

難波田はこれを聞くと、古歌を以って返した

「君を置て あだし心を我もたば 末の松山波もこさなん」
(古今集。百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」の元歌とされる)

(士談)



535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 07:42:06.28 ID:Tmn6MQLZ
松山城歌合戦については、難波田城資料館が以下のように紹介している
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/TV-TOKYO20111231.html
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/files/nanbatajo-dayori49.pdf の3ページ目
末の松山

ホワイトな社風です。

2017年12月23日 10:39

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 19:13:54.68 ID:CKRcIiGB
徳川家康が上杉征伐のため小山まで出陣の時、御供の小身衆の内に、妻女が患ったとの
知らせが届いた。そしてその話は家康まで聞こえた。
家康はその者に「早々に罷り帰るように。」と命じた。
この時家康は

「小身者の妻子が患っては、その家滅亡の端である。しかし合戦は今に限ることではない。」

そう伝えたという。

(士談)

徳川家は家族の看護休暇も奨励するホワイトな社風です。



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:17:27.69 ID:gForfx/V
変な話、他全員も「ウチも奥さんが病気なんです。帰らせて下さい」って言い出したら家康ははたして「いいよ」と言っただろうか

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 23:53:05.73 ID:/EONut+W
申告が事実かどうか確かめるくらいはするだろ

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 10:36:41.81 ID:juvFA36B
神君様のことであるから上杉征伐は合戦にはいたらないと見切っての余裕の処遇であったのである

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/23(土) 14:06:23.06 ID:jQhcW3Gv
合戦こそ今に限る話だろうに、この場合は消化試合に近い余裕かね

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 15:41:46.13 ID:5U6+iqs7
普通に石田を誘うための高度な戦略でええやん

敗走した後、残された兵卒はどうなったか?

2017年12月22日 17:41

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 21:58:50.88 ID:JNQX2C1W
天正十五年正月十九日、島津修理大夫義久は戸次川合戦についての弁明および
秀吉への恭順の意を示す書状を豊臣秀長および石田三成に寄せた

先年冬、互いに使者を指し登せ友誼を定めようとしたところに
かくの如くも首尾(戸次川合戦)となってしまい
急使を得て追って飛脚を申し付けいたします

そもそも大友家が他邦と連合し、こちらに攻めてきたのは歴然たるゆえ
分国および日向の境まで発足いたし、防ぎ矢として軍勢を差し向けたところ
仙石殿・長宗我部殿が義統と一致をなされたため、両将に対し

「この度の御下りは関白殿下の御下知であろうが
 当家は大坂に対して毛頭も逆心を構え存ぜざる上は、何卒御引き取りを願いたい」

と申し上げたところ聞く耳を持たれず、我らに攻めかかってこられました
異議に及ばず一戦して勝利を得たものの
敗北した豊後勢が、仙石および長宗我部勢に紛れ区別できなくなり
結果的に数千騎を討ち果たす事になってしまいましたが
これはもとより本意ではありません
しかしながら、我らの間に疎隔が存じていないのは
合戦後、府内において、京・四州の士卒が難儀のところを
我が弟、中務少補家久が大船三・四艘程も調達し
彼らを送り出したことを持っても明白であり
これを証しとして、何卒秀吉公へのお取り成しをお願い申し上げます

(合伝流闘徴禄日本戦史)

軍監が供回りのみを連れて敗走した後、残された兵卒はどうなったか?
という疑問に対する答えが書かれた書状である
当時仙石家にいた後藤又兵衛や庄林一心もこの船で帰ってきたのかも知れませんね



418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 22:59:32.94 ID:7a3MXH0t
ちょっとイラッとしたから数千人ぶち殺したけど冷静になったらやべーわってことで船を何艘か用意したんで許してくれやってことか
さすが鬼島津無茶苦茶やんけ

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 23:14:18.95 ID:Q69eCTkr
何を普通だと思ってるのか知らんがどういう解釈だ

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 07:50:28.68 ID:PM/fY5US
鬼は鬼畜の意

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 08:34:01.60 ID:q+zFI8EU
お手紙でなんとかしてしまう引きこもり長男最強やん

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:46:11.23 ID:qpbVehiP
形に残るものでは相手をなだめるのが基本かと

多賀高忠の仕置

2017年12月21日 21:24

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 22:37:05.92 ID:uRA/RJOj
多賀豊後守高忠は元は近江の者で、京極の一族であった。
応仁文明の頃、京極持清は京都の所司であり、彼は多賀高忠を以って所司代とし、
京都のことを司とらしめ、公事訴訟に対処し、時の人は皆、彼の仕置を賞賛した。

ある時、召し捕えた者の中に、力量あってその人品必ず士たるべき者があった。
「この者には武勇の生まれ付きがある。」
高忠はそう言うと縄を解いて彼を赦した。しかしこの者はそれを喜ばなかった。
「このように縄目の恥辱に及んだ上は、早く斬罪されることころ本望に候。」
この言葉になお憐れんで、彼を赦した。

その後、この者がどうなったかは誰も知らなかったが、多賀高忠が身罷った後、
名も知れぬ者が彼の墓前にて殉死をした。
これを改めると、あの時赦した咎人であった。

(士談)



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 23:41:32.01 ID:ClbJXQZ1
声に出して読みたい武将名
多賀高忠

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 02:47:17.59 ID:iAHgmtDN
おおがこうちゅう

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 03:15:28.63 ID:fSmEqW7z
タカタカタッタカタ…

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/21(木) 10:44:59.30 ID:DnNNVYbu
>>524
もう「ジャパネットたかた」でいいよ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 09:13:13.30 ID:FpfjZlPw
滅びの言葉、バルス! ←短すぎ
滅びの言葉、たがたかだか、あれ、たがたかた、あれ、たががたがた ←滅びない滅びにくい!

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/22(金) 13:52:35.12 ID:eMHCf5nW
ただがたがた

何とぞ悪事災難に遭わせてたまわれ

2017年12月20日 18:58

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 05:23:10.68 ID:uRA/RJOj
岡本道加(清三郎)は元々、渡り奉公をしていた匹夫であった。この岡本はいつもこう言っていた

「私は常に神仏を神仏を信仰し、昼夜祈祷している。しかしその意趣は世間の者達とは
全く違える物だ。世の人々は皆、悪事災難に遭わぬよう、七難即滅七福即生の思いを成している。

私は、何とぞ悪事災難に遭わせてたまわれとだけ祈る。
何故なら、人の生死は限りあるものなのだから、悪事災難に遭って命を失ったとしてもそれは
定めである。
しかし命さえ全うするなら、悪事に遭い災難に遭って、心をもためし才も出して身のためとも致し、
武名をも挙げ功を顕すべ事である。

現在は天下静謐であるから、悪事災難を除いては何の働きをする場も無いではないか。」

(士談)


彼に使われる者、一人として強兵でない者はおらず

2017年12月20日 18:57

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/20(水) 06:07:04.23 ID:QZLUeOTl
福島正則が士を愛した話はすこぶる多い。家老の木造大膳(長政)が
病気の時、正則は毎日行水して裃を身に着け、天照大神へ祈願をかけ、

「大膳をいま五年御助けおき下されば、代々神楽を献上します」という
願書を納めて、数十日精進したのだといわれている。

その愛情の深さは、この一事でも知ることができよう。また正則の兵の
強さもつまるところ彼が士心を得た故である。

彼に使われる者は一人として強兵でない者はおらず、一人として忠臣
でない者はいないというのは、当時すでに世に認められたところである。
この一事は他の諸将で決して及ぶ者がいなかったという。

かの伊奈図書(昭綱)の首所望も、思うにこの心より出たのであろう。

――『福島正則伝』


週間ブログ拍手ランキング【12/14~/20】

2017年12月20日 18:53

12/14~/20のブログ拍手ランキングです!


其方の頸は私が 16

私は一体これから、何を目安に 14

人になれ人 人になせ人 11
心中では上野介をいかばかり 11
平野甚右衛門の墓の土 11
伊予日振島における戦後処理の逸話 11

御このミ候て可被下候 7
最早五十万石を領知する者は 7


今週の1位はこちら!其方の頸は私がです!
これも武士の有り様、ということなのでしょうね。普段から家を訪れ合うような、半ば親戚のような関係でも、敵味方となれば
頸を取り合う。そこに恨みや憎しみがあろうはずがなく、ただ武士とし、主君への忠義との誇りと面目によって戦う。
中世、武士を以って「犬畜生」と批判されたフシがありますが、戦場での行為だけでなく、こういう習性にもよるのだろうな、
なんて感じました。
こういう、武士の一種の獰猛性を大きくスポイルし、「紳士」かくあるべきとした武士道を成立させた江戸時代というのは、
やはり偉大だとも思うのです。

2位はこちら!私は一体これから、何を目安にです!
初代高安道善はおおよそ戦国初期ころの人物ですね。この時代でも、芸事における「ライバル」の存在の重要性を認識して
いたのかと、すこし驚きを感じました。
「同じくらいの高いレベルで競い合う存在」というものは確かに得にくく、現在でも「天才」と呼ばれる人の多くは孤独を
感じさせます。そんな貴重な存在をなくした高安道善の嘆きは、きっと過去から現在まで、洋の東西も問わず、普遍的に
存在したものなのでしょう。そんな気がします。

今週管理人が気になった逸話はこちら!御このミ候て可被下候です!
戦国期の鉄砲は、現在からは考えられないほど、様々なバリエーションが存在したと言われます。
構造として、ともかく火薬を詰めればなんでも発射できたので、弾丸の口径だけでなく、それこそ矢を発射させるようなものまで
あったそうです。ドラマなんかを見ると単一規格の量産製品のように感じてしまいがちな鉄砲も、「鉄砲隊」ですら、それぞれで
弾の口径から飛距離まで事なるそうとう雑多なものであったと考えたほうがいいようです。
「戦国の軍隊」というのは近代のように「規格化」を志向していたのは確かですが、それでも時代や状況による限界があり、
そういう部分も頭に入れておいたほうが良いな。なんて考えています。
そんな事をふと思い出させてくれた、そんな逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを推してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

私は一体これから、何を目安に

2017年12月19日 18:35

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/19(火) 13:51:42.25 ID:1v8x4pi4
高安道善(大鼓方高安流の祖)はその頃天下の太鼓の名人であり、大音を打ち出すこと、
並ぶものなかった。

一方、威徳という太鼓打ちは、三井寺の威徳かしらを打って天下に名を得た、氷を割るが如き
冴えた音を打つ者であった。

彼ら両人共に天下に名を得ていたが、威徳はやがて身罷った。

「然らば天下の太鼓打ちは道善一人に極まった。」

高安道善の門人たちは皆喜び、道善の宅へ祝いに訪れた所、彼は夜着のまま病人のように
臥せて、甚だ嘆息していた。門人たちが「これで天下一の太鼓打ちではありませんか」と語ると、
道善は言った

「お前たちは私の気持ちも知らず、ただ面前の事だけを言っているにすぎない。
世に太鼓の名人が亡くなってしまい、私は一体これから、何を目安に修行をすればよいのか。」

(士談)


御このミ候て可被下候

2017年12月18日 17:38

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 15:39:43.58 ID:+fdPV11u
慶長の役の時、日本軍が南原城を攻略した際、釜山にいた立花宗茂
毛利高政に戦勝の祝状を送ったのだが、その返書で高政から鉄砲の手配を頼まれた。
それに対して宗茂が送った書状が次のものである

於南原之御感状之御祝言申入候処、御懇報上戦状を承乃候、数度之御手柄弥以被聞召届、
近々御朱印可為御頂戴候、御大慶、御祝言重々可申承候、目出度存候、仍鉄砲之儀、
ゑなミや(堺の榎並屋か)所可被仰付之由、承乃候、一つ書候て申入候、
一 四文目丸 長さ其外様子は貴殿様御このミニまかセ申候、 壱ちやう
一 三文目丸 右同前 一ちやう
一 又壱ちやう、これハいかやうにも、貴殿様御分別ニて、御このミ候て可被下候、
何もやをミ流仕度存じ候、よくよくねんを入、あたりを専ニ仕度候、
何も明日京へのほセ候者を、それへ可進之候間、能々被仰付可給候、恐惶謹言、
十一月朔日(慶長二年)                                   立花親成
(佐伯 毛利高政文書)

この頃は好みに応じた鉄砲が作れるんだね



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 23:28:33.62 ID:xUCTczY0
>>511
清正も朝鮮出兵中に細々とスペックを指定して発注してたから
鉄砲鍛冶は注文に応じて作ってたんでしょうね。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 00:05:22.26 ID:Ni8MtvjF
朝鮮陣では短い鉄砲のが便利だったっつー話だろ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 12:22:04.46 ID:bqkgk5UT
発注受けて作ってたら数揃えられないだろ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 15:59:42.93 ID:Ii/PF++M
数打ちと特注はまた別やろ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 18:40:29.28 ID:ks1azkFx
毛利高政は津田監物を流祖とする津田流の砲術を学び
後に自ら伊勢守流を創始している鉄砲の名手で
閻魔王という大鉄砲を好んで使ってたようなんだけど、
小さめの鉄砲を特注で手配してもらってるのが興味深い

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/18(月) 19:03:22.99 ID:5mdMzvkZ
高政所用の閻魔王は佐伯市歴史資料館に所蔵されてるね

毛利高政所用大鉄砲 閻魔王
SnapCrab_No-0303.jpg
http://saiki-rekishi.com/main_exhibit

人になれ人 人になせ人

2017年12月17日 12:26

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/17(日) 11:33:38.32 ID:ucE4xaRX
将軍徳川家光が、久世大和守広之を、嫡子である家綱に付けるという時、家光は
久世を召して、この事を仰せ付けたものの、久世は一切お請け申し上げなかった。
家光の傍にあった堀田加賀守正盛は「早々御請あるべし」と勧めたが、久世は堀田に目を向け
「御辺の知る所に非ず!」と睨みつけた。その表情が普段と異なるのを、家光は見抜き、
不意に立ち上がった。
お傍の人々は「あわやご機嫌を損じたか」と驚き慌てたが、家光は筆を執ると短冊にこう書いた。

『人多き 人の中にも人はなし 人になれ人 人になせ人』

これは大神君(家康)の詠んだ歌であり、これを久世に与えた。
久世は「これならば」と、上意骨髄に徹し、有難く畏まって申し請けた。

(武野燭談)


心中では上野介をいかばかり

2017年12月16日 09:57

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 06:32:33.16 ID:X70udXRS
南葵文庫の蔵書によれば、福島正則は死ぬ7日前に刀・脇差・金銀の
目録を作って遺物の分配を定めた。

この事を取り扱ったのは上月文右衛門である。この人は広島で2千石を
領した物頭である。その目録の終わりに、

“右の公儀及び御旗本衆まで分配致すのも、市之丞(福島正利)のため
である。私めのためではない”とある。そのいかに子孫を思う情の厚き
人であるかと知ることができよう。

正則は遺書を記して分配品の目録を作ったが、その中に正則ともっとも
懇親の間柄だった本多上野介への遺物がない。本多の同役たる土井・
酒井・阿部などへはそれぞれ遺物がある。これは甚だもって不審である。

『健斎自言』に、正則の配流というものは、まったく本多上野介の姦計だ
との由が記される。上野介が友を売り、君を売り、もって自己のためを
謀る人物であること世説に定評がある。

よって、その事をよく調べると『福島没落記』という古写本がある。正則の
没落より79年目、宝永2年に肥前大村藩主・大村因幡守純長が筆記した
もので、老人の物語を聞き記したという奥書があるため、正則の没落を
見聞した老人の話に拠ったものであろう。それによれば、

“広島城が洪水で大破に及んだため、正則はかねてより昵懇の上野介へ
相談に及び、破損の場所を普請致したい由を上様へ言上頼み入る旨を
申し出た。

上野介が申すには少しの普請は言上に及ばず、内証にて致すべしとの
指図である。正則はなおも御目付・竹中采女(重義)へ、上野介はかよう
申されるが、しかし念のために他の老中へも

御話致したほうがよろしいかと尋ねた。采女は答えて、上野介御承知なら
他の御老中へ申すに及ばず、上野介は今御威勢至って良く、この御方の
申される事に誰が否と申すだろうか、と言った。

正則はこのため他の老中へは申さず普請致したところ、上野介は佞人で
正則は天下の御大法に背き、城普請仕り候と申し上げたため、御改易
となってしまったのである。

広島へ城を受け取りに参った衆中は「僅かな普請である。これ式の事で
両国を召し上げられることは、いたましいことだ」と申されたという。”

しかるに正則は御咎めを受けた折、流石は武士なれば上野介の指図にて
仕り候とは言わなかった。涙を呑んでそのまま御受け申し上げて大人しく
両国を差し上げたが、心中では上野介をいかばかり恨んでいたか計り難し。

――『福島正則伝』




412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 07:04:04.11 ID:Rz51mSaN
>>411
最後の思い出に一杯やったんかな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:43:40.61 ID:tVG1WpAW
>>411
実際は無届けで修理してたんだから正純にとってはとんだ風評被害だな。

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 09:55:14.70 ID:qlVFd2SG
>>413
葵三代だと、家光政権下で正純は干されかけてて、話を通してても意味が無かった、って解釈になってたな

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 10:21:27.09 ID:tVG1WpAW
>>414
さすがに古いから今の通説とは真逆の話(猪熊事件)とかもあるけど、あれは良い大河だった。
微妙な内容は視聴者に判断を委ねたり、何をやってもうさんくさく見える津川家康の名演とかね。

話を戻すと正純は家光が将軍になる前に失脚しとるので、秀忠の代の話ですな。
取次を務めてる大名は多かったけど、権勢は確かに土井利勝などの秀忠側近へと移ってますね。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/16(土) 21:48:10.32 ID:yZGRFt92
それなら本多派の福島を土井らが陥れたとも言えるな
土井らへの遺品分配は付け届けとも取れる

其方の頸は私が

2017年12月15日 18:36

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/15(金) 17:33:51.39 ID:ydNZ0fJp
天正の初めの頃、天下未だ戦国の時、九州では筑紫家と立花家の領分は入り混じっており、
双方の侍たちで里に住居する者たちは、家族のように朝夕参会していた。

立花家の侍に、中島右京という者があった。彼の所へ、筑紫家の家臣・帆足という者が来て
飲食酒宴の折に、突然の触れがあった

『明日、秋月筑紫の両家が一同に、立花の岩屋表に寄せくる』

立花家の中島も、筑紫家の帆足も驚き、不慮の思いを成したが

「明日は敵となり互いに相戦うこととなった。定めなき世の中にて、
筑紫と立花はまた、手切れと成ってしまった。」

そう言いつつ、連れ立って暇乞いをした。
この時中島は、戯れのように言った

「明日の合戦では、其方の頸は私が取るよ。」

帆足はこれに何も答えず、その日はこのまま別れた。
しかしその後、言葉のごとく中島は帆足を討ち取った。

(士談)


平野甚右衛門の墓の土

2017年12月14日 11:18

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:46:09.88 ID:20Bp96OO
平野甚右衛門というのは津島小法師の事で、織田信長の時代の勇士であった。

彼が死んで後、その墓の土を取って飲ませれば瘡疾必ず癒えると沙汰され、人々はみな
これを取って用いた。
ここに、平野の生前、いい交わした朋友が居たのだが、彼が平野の墓へ行くとこのようにつぶやいた

「かつて、あれほど名高き勇者であった其方が、百姓下々の洗米濁酒を墓に受けて、なんという
見苦しき有様になっているのか。」

それ意向、墓の土を用いても瘡疾が落ちるという事はなくなったという。
勇猛の士というものは、死しても性根が強いものだと言うべきなのだろう。

(士談)

この逸話の人ですね
→ちょっぽり甚右衛門


伊予日振島における戦後処理の逸話

2017年12月13日 19:35

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:36:08.43 ID:RImMcwen
戸次川合戦敗退後、長宗我部元親は伊予日振島に逃れ
桑名将監を使者として、合戦詳細を秀吉公に知らせた
秀吉公はじめてそのいくさの詳細を知り
さても仙石手に合わざる合戦し
信親を討たさつる事の不便さよと仰せられ涙を流された

また合戦の三日後にあたる十二月十五日
大友宗麟は慰問状を日振島の元親に使わし
その内容は以下の通りである

この度のいくさはご挨拶の仕様もないが
無事御渡海の段は安堵に存じます
(長宗我部殿の当方に対する)これまでの様々な件に御入魂の次第は
永々忘却してはならぬ事であります
勝敗については戦場の習いにて、お気になさることもないでしょう
また兼ねて戸次利光城(鶴ヶ城)に差し向けられた鉄砲衆ですが
昨夜全員無事にこちらに帰還いたしました
そちらにお送りしたいと存じますが、船を揃えるのに難儀しており
船便があり次第お送りいたします

天正十五年十二月十五日
                         休庵宗滴判
追伸
 御子息信親戦場の儀については、様々な風聞があり
 未だ実否は分明ならず、奇怪千万な次第です
 こちらで詳細がわかり次第、お知らせ申し上げます

(続く)

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:37:24.97 ID:RImMcwen
(続き)

信親遺骸返却について島津と交渉しつつ
合戦後十三日目には奥長門守を使者とし
宗麟がこもる丹生島城(臼杵城)へ鉄砲隊を派遣した
その際の書状の大意は以下の通り

この度敗戦の成り行き、都鄙において外聞を失い全く無念な次第です
されども今はお城を固守することが肝要であり
自分も加勢に馳せ、共に籠るべき所ですが
退陣口の仕合、覚悟に任せず困難なため
まずは有り合わせの鉄砲の人数を差し出しますのでお頼み申します

天正十五年十二月二十五日
                         長宮元親判

結局元親は土佐本国に帰ることはなく
敗軍を糾合し、丹生島城宗麟と連携を取りながら豊臣本軍を待ち
翌天正十五年三月の秀長軍到来をもってはじめて伊予日振島を出た

(土佐軍記その他)

長宗我部元親、伊予日振島における戦後処理の逸話である



504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 12:57:19.08 ID:b83ZmTWr
この頃は宗滴と号していたのか

最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

週間ブログ拍手ランキング【12/07~/13】

2017年12月13日 19:29

12/07~/13のブログ拍手ランキングです!


陶興房、我が子を殺害すること 19

大須賀康高には度量があり 16

信の勇士の理 11
こうすれば地下人共が立ち上がり 9
信長の度量 9

池田利隆、生母との逢瀬 7
世界周遊記の二十六聖人殉教について書かれている箇所 7


今週の1位はこちら!陶興房、我が子を殺害することです!
なんというか、変に生々しいお話ですね。
室町~戦国期というのは、現代においては、江戸期の「武士道」につながる武士倫理が発展していった時代だと言われています。
無論君臣関係は、その最も大切な倫理であり、特に譜代家臣にとって当然のものとされていました。
「謀反」や「下克上」が大きなトピックス足り得たのも、ベースに「そういうことはよくない」という常識が存在した故ですね。
名門大内家なら、そういった倫理は他よりも深化していたことでしょう。
とはいえ、倫理はあくまで倫理であり、人間の行動に対する一種のタガでしかないとも言えるわけで、そういうタガを外した
人というのも居るからこそ、謀反や下克上が現実に起こるわけなのですが、それにしても露骨に生々しい。
むしろこれは、大内家、陶家にこういう雰囲気があったからこそ、陶隆房(晴賢)のような存在と行動が成立したのだ、
そう読むべきなのかなあ、なんて思いました。

2位はこちら!大須賀康高には度量がありです!
こういう人は、本当に上司に欲しいですねw
大須賀康高というひとは今でこそマイナーで、地味な存在ではあるのでしょうが、実は徳川四天王にも匹敵するような武功の持ち主、
なんて話もあります。
徳川家というのはこの康高のように、地味ながらかなりの強者、という人たちが多く、そういう家は強いよなあ、なんて感じる
ことがあるます。ただし取扱は面倒くさいですけどねw
この大須賀康高も、実子がいるのにそれは出家させて榊原康政に嫁いだ娘の子に跡を継がせたり(結果として大須賀家は
榊原家に吸収される形になるのですが)、なかなか一筋縄ではいかない人格を感じさせます。
そういうことを想像するのも、歴史の面白さですね。

今週管理人が気になった逸話はこちら!こうすれば地下人共が立ち上がりです!
小早川秀秋に、「自分で成敗すると色々言われるから、地下人に殺させようよ」と提案したというお話ですが、不思議な
生々しさのある内容ですねw
小早川秀秋がわりと暗君気味(?)に描かれている感じもあり、彼に対する批判的イメージがそのベースにあるのでしょうが、
個人的に面白かったのは在々の者達、地下人たちへの理解です。
「落人からがぶんどり自由」とすれば、彼らが勝手に殺すと、当選のことのように言っていますね。
中世ではこれは常識に属する話で、民衆は「敗者」には容赦なく、だからこそ「落ち武者狩り」なんてものがあったわけですが、
足利義昭なんかも信長に京を追放された時、群衆に襲われ宝物を奪われたとか。
また軍事的敗北だけでなく、政治的敗北、つまり流罪などでも、その身の安全保障が剥奪されたと考えられ、
その道中を群衆たちが襲うこと多く、自身の力で自身を守らなければいけなかったそうです。「流罪」だからと言って
罪一等を減じた寛大な処置、というわけでは全然なかったということなのですねw
そういう感覚が、これの書かれた時代(江戸時代前記くらい)も生きていたのか。そんな感慨を持ちました。
逸話からは本当に、いろんなものを得ることが出来ますね。



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( ´ ▽ ` )ノ

こうすれば地下人共が立ち上がり

2017年12月12日 18:09

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:28:20.92 ID:I55SSOBF
豊臣(小早川)秀秋が関ヶ原の後、家老の歴々を成敗ありし後に、何某とかいう大身の者、
家を立ち退くことがあった。
白昼に、妻子を引き連れ弓鉄砲で前後を固め立ち退いた事に、秀秋は以ての外に怒った

「白昼に城下を、あのような体で引き払わせるとは武家の恥辱である!急ぎ討ち取れ!」

しかしこれを、家老の松野主馬が諌めた

「彼らのような僅かな人数が立ち退くのを成敗するのは、何より易きことです。
しかし殿は前々に、誰々を御成敗されましたが、これについて世では然るべからざる事だと
取り沙汰しています。であるのに又彼らを害せば、人々からの批判は止まらなくなるでしょう。
ただ、黙って捨て置くべきです。

ですが、どうしても害するべきであると言われるのなら、私は人数を持っていませんが、
申し付けて討ち取ります。」

秀秋は不思議に思った
「汝は彼らを打ち取る人数を持たぬのに、どうするというのだ?」

松野は申し上げた
「これより町人在々にこう触れ回します。

『落人あり。討ち取って衣装をはぎ道具を取れ。それらは全て下される。』

こうすれば地下人共が立ち上がり、即座に討ち取ることでしょう。
どうしても彼を討ち取ると決心されるのであれば、御手を下されずともこの謀にて討ち取れます。
結果として同じことですから、小さな違いは気になさらないべきです。」

これを聞いて秀秋も心和らぎ
「私の落ち度にならないということなら、かまわない。」
と許可した、結果松野の考えた通りとなった。

(士談)



406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:41:04.06 ID:0s4pVCV4
松野主馬って関が原の時に「裏切りなど恥である」って戦線離脱してそのまま立ち退いたのだと思ってた

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:53:27.12 ID:R8XTGHbK
>>405
許可するんかい!

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 22:24:45.14 ID:e+ZOOM01
>>405
金吾の小物っぷりっぽい逸話

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/12(火) 13:38:13.00 ID:2OqDdFQV
何?、元家臣が追い剥ぎや盗賊にあって殺害されただと!
きっと宇喜多の残党だよね、大義名分得たし討伐すっか

大須賀康高には度量があり

2017年12月11日 16:59

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 15:57:56.91 ID:I55SSOBF
大須賀五郎左衛門尉(康高)は、自分で手を下して功を立てることは無く、常に家来や
小姓の中から器量あるものを選んで取り立て、彼らを以って功を立てさせた。

武田勝頼が高天神城に兵を入れて遠州を窺う時、家康は横須賀城を建設し、大須賀にここを任せた。
横須賀は重要拠点のため名のある者が多く集められ、中でも久世三四郎、坂部三十郎、渥美源吾、
丹波弥三、駒岡太郎右衛門、曽根兵衛左衛門、丹羽金十郎、これを七人衆と言った。

大須賀には度量があり、こう言った人々をよく従え、つもりを外すこと無く、傍に仕立てた
者達も皆武功があったという。

また長久手の合戦において、先手が敗北した時、大須賀は「味方の長追いは必ず敗軍の相である」と
考え、あらかじめ準備をし、小高い場所に馬を立て纏を置いて敵の攻撃を踏みこたえた。
このため大きな敗北にならなかったという。

(士談)


陶興房、我が子を殺害すること

2017年12月10日 17:56

陶興房   
401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 10:58:48.78 ID:OPxf38VL
陶興房、我が子を殺害すること

大内義興・義隆の家老を務め軍事政治に活躍した陶興房には1人の麒麟児とも言うべき嫡男が居た。
名を次郎興昌。彼は器量骨柄に優れ、父興房をして
「次郎は武も文も全備し、そのほかの芸能の道から弓馬は達者だし乱舞にも堪能、詩歌・管弦に至るまで、
人間がたしなむべき道では何一つとして劣ったものが無い。今の乱世において希有な存在である」

と評されるほどであった。しかし次郎は常日頃から何れ自らの主人となる筈の義隆を見掛けると、
「隋の煬帝の詩に出そうな大将だ。坊主くずれか流浪の公家みたいな事ばかりして、こんな人を武士が主君と仰ぐものではない」

と影で馬鹿にしており父の興房も次郎のその様な言動を知ると、一抹の不安を覚えた。
ある日越前より幸若太夫が下向して来た折、義隆は太夫に烏帽子折を所望した。その舞を見た者は貴賎問わず感動し、涙に袖を濡らさぬ者は居ないほどであった。
興房が宿に戻り次郎を呼ぶと
「お前は何時も好んで舞を踊っているが、幸若の音曲も習ってみるか?」
と言うと次郎は
「私が幸若を真似るのは実にカラスがカラスの真似をするようなものですが、父の命であれば、似せて舞ってみましょう」
と扇を手に取り、手拍子を打って舞った。
次郎の舞は、先に見た幸若の舞よりもさらに趣深いものだった。
興房は我が子の才能に驚くと共に、これでは次郎は才を鼻にかけて益々主人の義隆様を侮る様になるのではないかと不安を高めていった。

またある日、大明国から義隆に書簡が送られた際のこと。義隆は香積寺・国清寺などの長老西堂を呼び集め、その書簡を訳させた。
その末座に陶次郎も列席していたので、興房は自宅へ帰ると、次郎を呼び寄せ
「お前は今日の書簡の内容を覚えているか?」
と問うと、次郎は
「末座で一度聞いたところで覚えられるわけがないでしょう。しかし推量で内容を当ててみましょう」
と言うと硯に墨をすり、聞いた内容を書き記して読み上げた所、その内容は一字一句違わぬ上に読み上げる口上も非常に立派なものであった。
その後も興房は注意を払って次郎を観察していたが、次郎の器用才芸にはさらに磨きがかかり、また主人義隆を軽んじるような考え方もやめなかった。
父の興房は、
「次郎は将来、義隆卿を侮って主従の礼を乱し、大内家の頭痛の種になるかもしれない。主君の御ためを思えば、わが子など取るに足らない」
と考え、ひそかに次郎に毒を飲ませた。
次郎は十五歳(墓の説明には二十五歳)になった春のころに、哀れにも亡くなってしまった。

その後陶興房は、問田紀伊守の嫡子を養子として、五郎隆房と名乗らせ跡を継がせた。
(陰徳記)

陶五郎隆房、後の陶晴賢である。



402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/10(日) 13:59:52.11 ID:TC+Z/ZXd
>>401
なんという皮肉w

403 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 14:37:48.38 ID:AbautfzL
陶さん家は興房の長兄である武護が在京中にいきなり摂津へ出奔して坊さんになって3年後に帰って来たかと思ったら次兄の興明を殺して家督を奪い、
当時筆頭家老の内藤弘矩を讒言で死に追いやった後讒訴がバレて義興から死を賜った末に興房が家督を継ぐと言う何か最近似た様なアレな事件が起きてたり何かもうアレよね…
義興義隆時代にまともに大内家に忠を尽くしたのが興房だけなんじゃねーか?って言う…

404 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/10(日) 15:03:34.26 ID:AbautfzL
て言うか、調べたら父親の陶弘護暗殺事件も色々闇が深そうだなぁ… 大内家の内情ェ…

信の勇士の理

2017年12月09日 16:05

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 09:23:29.50 ID:eSWp/XYE
天正18年、小田原の役における山中城攻めの際、木村常陸介(重茲)の家臣である鳥居源八という
勇士、先に立って城に取り付き名乗りを上げた。
そこへ、羽柴藤五郎(長谷川秀一)家臣、磯平三郎が続き来て、鳥居に言った

「源八よ、汝は既に”頸取り源八”と世に呼ばれている名高き勇者であるが、真実の武功を
知らぬな。田舎育ちの働き故に、ここでも名乗るべきではない所で名乗っている。
こういった場所では、諸人茫然として心もついていかず、気後れしているものであるのに、
ここで名乗っては、諸人はこのお陰で心付いて、我先にと進む。故に思いのままの一人高名が
出来なくなってしまうのだ。
物の訳を知らぬ故に、流石の頸取り源八もこのような時に名乗ってしまう事よ。」

これを聞いて源八は嘲笑って言った
「平三郎は心がけもある武士であると聞いていたが、さては信の勇士の理を知らぬと見た。
このように、諸人茫然たる時分は、一人声高に名乗って、人に気力を付け大勢に力を与え、
多くの人を用に足る者に成す事こそ、武士の義というものだ。
何事ぞ、我一人功名してそれを宜と言うのは。そんなものは甚だしい小技であり、言葉にする
価値すら無い。」

そう蔑んだという。

(士談)



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 11:59:31.12 ID:HwqEYabs
こういうのって戦の最中にやりあってんのかな
敵味方もどっちの口撃が勝つのか見守ってたりして

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/09(土) 12:56:49.36 ID:4iPqjqA6
二人とも弓鉄砲で倒されてたら笑う