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次左衛門こそが

2018年01月31日 21:46

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 21:15:51.95 ID:7P22KCkA
野木の次左衛門という者、元は美濃斎藤家の侍であり、芋がら畠の鑓合いの時、澤の喜蔵
一番に鑓を合わせたという事があったが、この時喜蔵は

「一番は次左衛門である。私ではない。」

そう言って否定した。そのため次左衛門を呼び出し、この軍功の詮議が行われたが、
次左衛門の方は

「一番は紛れもなく喜蔵である」

という。ここで澤の喜蔵は申し上げた
「確かに、鑓は私のほうが早く仕りました。しかしそれは、次左衛門が母衣を締め直していたのを見て、
私が先に乗り込んだのです。ですので実際は、次左衛門こそが一番なのです。」

喜蔵の答えを、人々はみな美談であると讃えた。

(士談)



608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/01(木) 11:43:34.46 ID:GfisAjrZ
めんどくせえなあ
じゃあ俺が!って言ったら睨むのやめてくれないか
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週間ブログ拍手ランキング【01/25~/31】

2018年01月31日 21:43

01/25~/31のブログ拍手ランキングです!


一つ提灯 16

坂井久蔵の頸 14
首を取り返す程なら 14

氏康傷 12
一番乗りの軍功 11
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解 11

上下の間の作法を申し付けぬ人 9
つまり大澤は信というものを 3


今週の1位はこちら!一つ提灯です!
北条家の勇士のお話ですね。「提灯の指物」にこう言った意味があるとは。近代の戦争で、戦闘機のエースパイロットが機体に
撃墜数を描く、というようなことがありますが、それと同じような感覚だったのでしょうね。
その人がどういう勇者であるか、見れば解る。という。
だからこそ三好孫太郎は、「なんかかっこいいから」程度で提灯を指物にした山下に我慢がならなかったでしょうし、
山下は言われたことで、ならばと直ぐに、自身の提灯も軍功の証に仕立て直しました。
実に戦国時代らしいエピソードだと思います。
こういう話を知っていると、「小田原提灯」というモノの見方も、少し変わってきますね。

2位はこちら!坂井久蔵の頸です!
姉川の戦いが1570年、そして豊臣秀次が聚楽に住むようになったのが1591年から。その間20年以上。
その間、おそらくは曖昧であった坂井久蔵頸を取った人物について、何故にはっきりさせる必要があったのか?
ここには描かれていませんが、たまたまその二人が秀次の家臣となったことや、秀次が関白となり、天下の主催者として
家臣にも相応の格式を求められた、という事など、色々と推察させてくれます。
こう言った想像をふくらませることで、一遍の小説も描けそうですね。そんな、読み手の想像力を大きく膨らませtくれる逸話だな、と
感じました。

2位は同表でもう一つ!首を取り返す程ならです!
さすが森家(;´Д`)
味方打であっても、「戦死」というものは、生き残った者にとって最も利益になる形で活用されるべきである、という、
揺るぎない信念を感じます。そしてそれは、戦国期の武士の思想として完全に正しいのでしょう。
また「取り返すくらいなら相手を殺せ」というのも、中世の武士というイキモノの習性を、実によく顕していると思います。
そして逆に考えると、頸を取り返した「子供」たちは、若いがゆえに、軍隊・組織の秩序を第一に考える、近世的な発想に
馴染んでおり、故にこういう行為になったのかも、なんて想像しちゃいました。
本当にいろいろと考えさせてくれる、良い逸話だと思います。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

一番乗りの軍功

2018年01月30日 18:06

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:01:56.39 ID:Oi0Wy28c
秀吉の九州征伐における、豊前岩石城攻めにおいて、蒲生氏郷の家臣、蒲生小番(のち源左衛門と称す)
が、秀吉より一番乗りの軍功の褒美として、御腰の物を賜る折、小番は申し上げた

「岩石城への一番乗りは、栗生美濃と申す者でしたが、彼は黒い吹貫の指物であった故に、御前の
御目に立たなかったのだと思います。
私は白い吹抜を指していたため、遠くより目立ったのでしょう。だからこそこの御褒美に預かったのだと
思います。

一番乗りの御褒美ということであれば、栗生にこそと存じます。
また、そうではなく私自身の働きに対して御褒美ということであれば、もちろん拝領仕ります。」

秀吉は彼の正しさに感じ入り、腰の物は栗生美濃に与え、蒲生小番には、別のご褒美を下した、
とのことである。

(士談)



603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:15:47.26 ID:VG1Khv5j
ガモウコバンでええの?

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 05:44:12.20 ID:7JuNmf3l
警固の大番、近侍の小番からでしょう
だから"こばん"でいいんじゃないのかな

605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 14:25:48.01 ID:8oUjZAlC
<家格>「小番太刀」由来

http://www.ito-ke.server-shared.com/kobantati.htm

「薩摩藩の職制表」の解説には、「小番」(こばん)とは「一所持(宗家子孫の私領持ち)または家老を務めた家の子孫」とある。

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 11:08:35.78 ID:gVpdezjR
誰かと思ったら蒲生郷成のことか

上下の間の作法を申し付けぬ人

2018年01月30日 18:04

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:02:00.17 ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 11:39:32.08 ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 12:26:31.16 ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 21:43:00.66 ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:03:56.08 ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:35:45.02 ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 08:35:08.35 ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解

2018年01月29日 17:20

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/29(月) 16:03:18.94 ID:lZRCvsBb
黒田家の後藤又兵衛に対する公式見解


以下は黒田長政が大坂の陣で豊臣側についた後藤又兵衛について釈明した書状。
長いので抜粋&意訳。

 後藤又兵衛のことについて上様(秀忠)に申し上げ条々のこと。

一又兵衛の親が小寺に従って死んだとき、幼少だったので如水が養育しました。
 成人した後、又兵衛の伯父が如水に対し謀反を企んだので追放しました。
 このことで又兵衛の一族にも立ち退くように申し付けました。
 如水は召し返しましたが、側で召し仕えはさせないよう申したところ
 栗山備後に預けて知行百石をつかわした上で、段々と取り立てたため
 又兵衛は家老同然に召し仕えるようになり、領地も豊前(細川家の領地)との
 境目である小隈という城を預けることになりました。そうしたところ
 他家の方々と書状をやり取りするようになり、特に豊前と通じるように
 なったので停止するよう誓紙を取り交わしたのに、やめませんでした。
 このことで黒田家の事情が漏れてしまうので当惑しました。
 また羽柴三左衛門殿(池田輝政)とも内緒で懇意にしていたようです。

一又兵衛とその家来が立ち退いた後、どこに住んだかかはよく分からないのですが
 一、二年した後、羽柴三左衛門殿はとりわけ浪人の為に扶持を与えていたので
 扶持をもらうため故郷の播州に帰ったことを知ったので、幕府の旗本である
 村越茂助、鵜殿兵庫頭の両人をもって、再三奉公構の届けをしたのですが
 ついに同心されず、特に申し分もされなかったので遺恨に存じています。
 三左衛門殿へ拙者(長政)が直接訪ねるのは憚られたので、慶長16年に
 大御所(家康)が(二条城会見の為に)上洛されたとき、村越茂助を通して
 又兵衛のことを追放するよう理をもって申し入れたところ、(家康も)
 御受け合いされたので、三左衛門殿にも訪問を申し入れました。
 しかし去年の夏も、播州から又兵衛が立ち退いた様子はありませんでした。
 (輝政が亡くなった後なので)松平武蔵守殿(池田利隆)に先年の筋目のことを
 申し入れたところ、すぐに又兵衛を追放されました。

一この後池田家臣の滝川豊前、三好丹後に帰参の訴訟をしたところ、ことごとく
 納得されて両人も返事をされたのに、表裏のことを言い出したので又兵衛の
 帰参は叶いませんでした。このことは成瀬隼人、安藤帯刀も存じられています。

 (又兵衛の親類の居所などについて四条あるが省略)

一今度の大坂の不慮で又兵衛が籠城しましたが、勿論意図したことではありません。
 又兵衛の親類は、拙者の下にはおりませんから命令を申し付けることは
 出来ませんでした。これらの趣を上様に申し上げてくださればありがたく思います。
 以上。

卯月八日  黒田筑前守(長政)   
本多佐渡守殿(正信)


又兵衛は池田家にいたとき、池田家臣の三浦氏の娘を妻に迎えていて
大坂の陣のとき2才だった遺児の為勝がのちに鳥取池田家の家臣になっている。


坂井久蔵の頸

2018年01月28日 16:47

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 10:55:41.38 ID:tXZo+VwF
坂井久蔵(尚恒・織田信長の家臣で高名な勇士)が姉川の合戦で討ち死にした時、彼の頸を
取ったのは、今井角右衛門生瀬半兵衛右衛門の二人だとされていた。

両名ともに、後に豊臣秀次に仕えたのだが、秀次はある時このように奉行たちに命じた
「一人の首を二人で取るというのは不可能である。一人は虚説なのであろう。お前たちはこれを取り調べよ。」

そして詮議の結果、今井角右衛門こそが虚説を語っていたと結論され、刀を没収の上
鷹小屋に押し込められた。さらに侍への見せしめとして、切腹か斬首かと議論されていた
所に、今井が申し上げた

「常のことと違い、武士が他人の骨を盗んで罪科に逢うと言う事は、子孫において屍の上の
恥辱であり、何事がこれに過ぎるでしょうか。
全く命を惜しむということではありませんし、このような証人にするのは気の毒だとも思いますが、
願わくば浅見藤右衛門を召し出され、彼の申す所をお聞き召した上で、御成敗を仰せ付けられるように。」

この浅見は、今井と交流がなく、普段会話をしたこともなかった。
浅見はこの頃安土に居たが、秀次は「彼を召して、いよいよ正しく改め、武義の虚説を
言うものを成敗仕るように。」と命じた。

浅見は安土より呼ばれた。
彼は元々、生瀬とは無二の親友であったため、人々は
「沙汰にも及ばない。今井の非分ということに決まっている。今井は何を血迷って
浅見を証人に呼んだのか。」
専ら、そう取り沙汰した。その夜は浅見の友人たちが集まり、酒宴など行われた。

そして翌日、聚楽の大広間に諸侍集まり、この詮議を聞くべしとそれぞれ固唾をのんだ。
奉行が出仕して浅見を召し出し、篠部淡路守を通して坂井の件を尋ねが、この時奉行たちは

「定めて別の申し様も無いであろうし、今まで言われていた通りであろう。浅見の申し分一通りで
今井の罪科に決まるのだから、速やかにその旨を申し上げるように。」

そう、彼に促した。しかし浅見
「今井は、ここ三十年私と交流のない人物です。対して生瀬は日頃から別して親交のある友人です。
お尋ねのように、有り様に申し上げては、天下に私の外聞を失うことに成ります。これまで
長生きをしてこのようなお尋ねに逢い申す事、迷惑ここに極まるものです。
願わくば他の者を召し出し、よくよくご穿鑿を加えられますように。」

奉行衆はこれを聞くと
「今井と交流のない浅見であるから、今井の非分を申し上げにくいというのは仕方がないだろう。
しかしはるばると安土より呼び寄せ、秀次公も其方の証言を証拠に致すと仰っているのだから、
申し上げるように。」

そう説得したが、浅見はそれでも辞退を押し通した。篠部は一応、この事を秀次に言上すると、
秀次は重ねて証言をするようにと命じた。これに浅見は

「このように進退が極まったことは今までありません。生瀬は多年の友人、今井は多年の不通。
何れに付いて何と申しても、人々の誹謗は逃れがたいでしょう。しかし武義についての御詮議の
事ですから、有り体に申し上げなくては本意無い事ですので、申し上げます。

坂井久蔵の頸は、間違いなく今井が討ち取りました。

比類なき手柄であり、この事は私に限らず、大勢がその場のことについて見聞きしております。
生瀬については多年の友人であり、この件については彼の身を捨てるような事になりますが、
坂井の頸の事について、全く存じよりもありません。これは何かと勘違いをして、あのように
申し上げたのではないでしょうか。」

座中、興を醒まし、言葉もなかった。
しかし「この上は今井別儀あるべからず」と、別途賞せられることとなった。
生瀬は罪科に及ぶべきであった所を、秀次が惜しんで処罰に及ばず、その後に病死したという。
(士談)



512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:02:12.10 ID:t0jRki3R
>>511
なんで何十年もたってから言い出すんだw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 12:33:51.88 ID:oyeAe0TI
昔話を聞くのは若侍のつとめ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/28(日) 22:19:17.83 ID:+FUSGADB
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1450461.jpg
なおなぜかセンゴクでは坂井久蔵を山崎新平が討ち取って、
親友の仙石秀久がその仇を討つという展開だった模様
1450461.jpg

首を取り返す程なら

2018年01月27日 15:41

森忠政   
502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 03:05:35.16 ID:sDG9Imzt
首を取り返す程なら


大坂夏の陣でのこと。
森家家臣の石田惣右衛門が、佐竹衆から味方討ちにあったので
惣右衛門の子供二人が追いついて首を取り返すということがあった。

そのころの評判で
「知らないふりをしておけば、親はよく奉公したことになり
 佐竹衆も手柄に出来ただろう。首を取り返す程ならその者を討って
 親の首と一緒に持って帰ればよかったのに。二人とも弱いことだ」
といわれたという。


――『森家先代実録』



503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 09:44:51.58 ID:VA82doJi
お、おう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 10:43:16.03 ID:MG3bVX6b
情け容赦がねえな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 15:18:35.40 ID:oJeOzHbl
夏の陣でも戦国の気風は残ってたんだなw

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 16:23:19.87 ID:jh7qn4rj
まさむね「知らないふりをしておけばいいものを神保が…」

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 18:26:15.97 ID:h5bGR4Hh
この場合、惣右衛門さんの扱いはどうなるんだ?
事故死?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 20:58:26.45 ID:S3i1cgJH
たぶん討たれ損なんだろうね
だからこそ、黙ってれば戦闘中の討ち死にですんだんだろうし
武士としての面目を考えるなら、やはり敵を討ち取ってくるべきだったと思う

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 22:45:01.93 ID:CmJGJAHL
中途半端が一番悪いというのがよくわかる事例

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/27(土) 23:42:10.35 ID:VA82doJi
秋田佐竹は遅参で居ないからどこの佐竹衆だろう

つまり大澤は信というものを

2018年01月26日 16:43

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:05:07.82 ID:Grb8o8m1
美濃国宇留間の城主・大澤二郎左衛門は、木下秀吉の謀を以って織田信長に属した。
秀吉は大澤を引き連れ信長のもとに参り、清須において信長へ御礼を申させた。

その夜、信長は密かに秀吉を招いて命じた
「大澤は名のある勇士である。もし志を変じては、重ねて退治するのも大儀であれば、
夜中に彼を誅するように。」

秀吉はこれを諌めた
「大澤大敵なりと雖も、我らを信用したくれた故に、降参を遂げたのです。
今これを殺すことは、約を変じ信を失い、ただ一時快くするだけの話であり、
今後重ねて、所々の剛敵が降伏しなく成るでしょう。」

そう説得したが、信長は得心しなかった。

秀吉は急ぎ大澤の元に行くと、信長の命を残らず説明し
「こういった事となったが、あなたは私を人質として、急ぎ退去するのだ。」

これを聞いて大澤は大いに喜び、秀吉を人質に取って帰城した。

後に秀吉はこの時のことをこう語った
「私が大澤に信を示した所、大澤は私を以って人質とし、小刀を抜いて私に指し当てて退いたが、
つまり大澤は信というものを知らなかったのだ。」

(士談)


氏康傷

2018年01月25日 11:34

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

一つ提灯

2018年01月24日 18:36

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 05:54:22.06 ID:oHBascNf
北条左衛門大夫(綱成)家中に、相州甘縄の住人、三好孫太郎という勇士があり、彼は指物に
提灯七つを付けており、「孫太郎が七つ提灯」と言って、隠れない物であった。

そのころ松山肥後守寄騎に山下民部左衛門尉という者がいたが、彼の指物は六つの提灯であった。

天正十三年の秋、北条氏直佐竹義宣が下野において対陣を張り戦ったが、この時、
三好孫太郎山下民部の六提灯の指物を見て馬を寄せ、尋ねた

「其方の指物に、何か仔細はあるのか?」

「提灯に何の仔細があるものか。我の好みだ。」

これを聞くと孫太郎は憤った
「武功を積まずして六ッ提灯は指して良いものではない!あれは天文十五年頃、上杉と
北条氏康公が武州において合戦した時、私は一番槍の誉れあり、氏康公より褒美の感状があり、
その時私は、一つ提灯を指物として頂いた。その後また忠ありて、二つ提灯を指す。三度功ありて
三つ、四度五度六度七度忠勤を抜きん出て、重ね重ねの功により、この七つ提灯を授かったのだ。
故に、孫太郎が七つ提灯と名が付けられ、関八州に隠れないものとなったのだ!」

馬上にてこのような問答となった。

その日の競り合い戦に、佐竹方に大石八郎という者、釣り鐘の指物を指すていたが、彼は名乗りを
上げると

「諸人に先立ち、我と思わん者あらば組んで腰部を決せよ!」

そう言って長刀にて斬って回る所に、山下民部馳せ合わせ、馬上から組んで双方落馬した。
民部は大力であったので、八郎を組み伏せ首を取った。

この時、ふと気が付き、自らの指物のうち、提灯五つを切り捨て、一つ提灯にして指した。
人々はこれを見て、「民部左衛門は問答してから時を移さず誉れを顕し、一つ提灯を指すこと、
かつて聞いた孫太郎の武勇にも劣らない!」
そう賞賛したという

(北條五代記)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 23:37:21.30 ID:ztqaLHlA
ちょっとカッコいい話だな

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 00:34:38.71 ID:kYpqHmCq
山下(あっこれ面倒くさい人だ、次にアピールしとかないとなあ)

賞賛してるのが人々で、三好さんの評価が無いのも気になる

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2018年01月24日 18:32

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頸の周りをよく拭くように 16

時移り世変じて 11

人の所為に非ず 10
調略を討ち果たす 10

この自慢の赤松家 9
給人衆頭の討ち死に 8
大将がこのように傾いては 2


今週の1位はこちら!頸の周りをよく拭くようにです!
信繁と、彼を説得に来た叔父信尹」のお話。この内容とは違っていましたが、対面自体は一昨年の大河「真田丸」でも
印象的なシーンとして描かれていましたね。
このお話などは「サムライ、かく有るべし」と言いたくなる内容で、信繁が後々まで、多くの人に愛された理由が
良く見えてきます。

ところで明日、1月25日21時からは、BS日テレの「片岡愛之助の解明!歴史捜査」にて、なんと真田信尹特集です!
http://www.bs4.jp/hsi/onair/100.html
テレビ番組で真田信尹が単体で特集されるなんて、本当に空前絶後の事だと思いますw
視聴できる方は、是非ご覧に成ることをお薦めします!

2位はこちら!時移り世変じてです!
人生の分かれ道、についてのお話なのでしょうね。水野信元謀殺の時点では、そりゃあ明らかに、家康より信雄に仕えたほうが
ステイタスも将来性も上なのですよ。信元が殺されたのは天正三年一月で、長篠の戦いも未だであり、今にも武田に
すり潰されそうな有様でしたからね。
それがまさに「時移り世変じて」、元々同じような評価だった二人が、徳川に仕えた方は譜代の大名格となり、信雄に
仕えた方は没落大名の家臣と成る。有為転変は世の習いと言いますが、こういうことに成るとは、誰にとっても予想も
出来なかったでしょう。
行間のドラマを覗いて見たく成る。そんなお話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!この自慢の赤松家です!
赤松氏というと南北朝期に現れた武士団で、出自のない悪党と長らく言われていましたが、昨今では楠木正成などと同じように、
どうも正規の鎌倉幕府御家人であったらしい、とされていますね。
そして室町期には、赤松氏は周防大内氏と並んで、室町将軍の親衛軍事力であった、なんて説もあります。
そんな歴史あり地位もあった赤松氏の「自慢」は、さすがに生半可なものではありませんね。こういったものがダイレクトに「誇り」に
繋がるのも解る気がします。
そして赤松氏というのは、ひつ筋縄で行かない歴史を綴る室町期の有力守護の中でも、殊更に色んな意味でジェットコースター
的な 紆余曲折をたどるわけですが、そういう家にして、こういう意識を持っていたことに、色々と想像が膨らむなあ、なんて
思ったりもしました。



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大将がこのように傾いては

2018年01月23日 17:09

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 00:13:15.55 ID:XYFiAA4T
関ヶ原の役、西軍による伏見城攻めの時、惣郭はたやすく破れたが、本丸において激しい抵抗が
行われた。ここで小早川秀秋重臣の松野主馬が、一人立って下知をし、そこに向かって城より矢弾が
雨のように降り注いだ。

瀧権右衛門という者、主馬の振る舞いがあまりに傾き、猛々しいと、両手で主馬を
押し据えた
「大将がこのように傾いては、諸卒にも手負いが多く出ます!」

ところがこの時、主馬を押さえつけていた瀧の両手に銃弾が当たり負傷した。
しかし主馬に当たることは無かった。

(士談)



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:36:00.58 ID:yWfCI47D
>>587
これはどっちか言うと悪い話のような…

いつの時代も上司が妙に張り切りすぎると部下が割をくうんだなあ

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 07:51:42.48 ID:5r6YpFWm
蒲生氏郷「せやな」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/23(火) 17:07:51.52 ID:jffKaeJ3
かぶくのを悪く言う奴にはバチが当たるいい例

人の所為に非ず

2018年01月22日 16:44

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/21(日) 23:29:21.82 ID:QAKBjbLf
小田原城が開城し、北条氏政、氏直、氏照などは下城し、医師安栖の邸宅に居した。
ここにおいて氏政、氏照は切腹したのだが、氏政はこの時、このように言った

「今度小田原城より下城し、早雲以来の五代の興行も、私において断絶する、
きっと、世が静謐になった後には、氏政氏直の籠城の仕様に対して、善悪の評判が起こるだろう。
しかし存亡は皆、天の命にして人の所為に非ず。当家滅亡の時が至ったからこそ、数代の家老である
松田の逆心もあったのだろう。
この一つの出来事を見ても知るべきだ。天命の致すところである。そう思うべきなのだ。」

そう語って、切腹したのだという。

(士談)



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 10:54:40.16 ID:6+wsPjF9
天下人に頭を下げれないからそうなる
信長であっても臣従しなかったろ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 12:25:47.34 ID:cpmBsmlg
この期に及んでまだ天のせいとか言ってんのか
お前のせいだろ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:25:55.31 ID:YGHa10Qu
項羽の最期に通じるものがある

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:46:37.28 ID:IOqdOmQR
まあ人事は尽くしてないかな・・・降伏する機会は何度もあったわけだし。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 19:14:37.82 ID:9tAUH3DO
だって儒教系の史料だし
北条は善性しいてたってことになってんだからそれが滅んだからには天のせいってことにしなけりゃアカンだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 01:40:01.65 ID:kYpqHmCq
まだ項羽みたいに綺麗に締められれば伝説なんだけどなあ

調略を討ち果たす

2018年01月21日 17:40

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 20:36:47.37 ID:0TMGCboN
大阪冬の陣の折、幕府の軍勢が大阪城を包囲している最中、幕府方によって捕縛された
吉河瀬兵衛と言う者が、豊臣秀頼から藤堂高虎への書状を持参していた。

それはすぐに徳川家康の元へ届けられたが、その書状にはこのように書いてあった

『最前より約束のごとく、東(幕府方)人数引き出し候事、秀頼公御感に思し召し候。
いよいよ、後ろぎり(裏切り)の手立て肝要に候。御褒美の儀は、望み次第たるべきと
おおせ遊ばせ候。』

これを読んだ家康は言った

「良き臣下を討ち果たさせるための、昔からこういった調略は、大唐にも日本にもあった。
和泉(高虎)の心は、昔からよく知っている。別心などあるわけがない。ただ一筋に、
我らのためを考えてくれている。
従ってこれは、討ち果たすべき調略である。」

そう考え
「かの瀬兵衛を和泉に引き渡しこう言え、彼の十本の指をすべて切り、額に秀頼と書いた
焼印を当てて、城中に追い返すように、と。」

吉河瀬兵衛を引き渡された高虎は、家康に言われたとおりにせよと命じ、瀬兵衛は
大野主馬の持ち口であるせんばの門前へ送り遣わされた。

(藤堂家覚書)



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:48:33.65 ID:RKYI0gsk
裏切りが真実ならこうするぞ!という脅しか

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/20(土) 21:54:13.27 ID:x2e4wzOq
葵でもそのようなくだりがあったな

そして、高虎さんは夏の陣で無茶をするんだよな…

時移り世変じて

2018年01月20日 18:02

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 22:03:19.61 ID:o+2SsETU
高木主水正正次は殊なる勇士であり、元は水野下野守(信元)の家臣として、戦功隠れ無かった。
また同じく水野の家臣であった神谷金七も、家中において高木と並び称される勇士であった。

水野信元が謀殺された後、その家臣は散り散りとなったが、高木、神谷は勇士の聞こえあり、
徳川家康より召し出したいとの通知があった。

高木はこれに応じ家康の家臣となった。
しかし神谷はこれを断り、織田信雄に仕えた。その頃は織田信長が天下の権を握っており、
その息子で北畠を継いだ信雄には、天下の士は皆、これに仕えることを望んだものであった。

その後、時移り世変じて、徳川家康は遂に天下の主となり、織田信雄は次第次第に漂泊した。
神谷金七はそんな漂泊した信雄家にて没し、その子の左馬助は、かつて父が家康より召された
由緒により、徳川に仕えることになった。

(士談)

ちなみに高木正次は、元和九年に一万石ながら大名になっていますね。


頸の周りをよく拭くように

2018年01月19日 17:30

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 20:07:18.19 ID:kApnLLZB
真田安房守昌幸の次男、左衛門佐が大阪城に入城した。
幕府は安房守の弟である真田隠岐守信尹を以って、冬の陣和睦の後こう伝えた

『達って我らの方に参るように。然らば大禄が下されるであろう。』

左衛門佐は申した
「最前、高野山にて蟄居の間、私は様々に御家への仕官を望みましたが、御許容有りませんでした。
今回秀頼公に頼まれ、ここに参り籠城したのも、本意ではありません。
また大阪の籠城が、最後には利があると見込んでいるわけでもありません。

しかし、一旦武士が約束仕ったことを違変するのも本意ではありません。
ですので幾度仰せになられても、同心することは出来ません。
もし不義をかまえ、無道を致して降参してしまえば、そんな私に微官微録であっても
下されるのは、そちらにとって益のないことです。
大録を下されると言うのも、私がこの義を守っている故でしょう。」

後に、信尹が左衛門佐を呼び寄せこの事について談じたが、重ねては兎角の返答もなく
「義のある所には、天下にまた天下を添えて賜るとしても、それで心が動かされることではないのです。」
そして
「暑くて汗が出るのです」と、大肌を脱いで小姓に汗を拭かせたが、この時
「頸の周りをよく拭くように。やがて頸となって、家康公に対面するのだからな。」
そう笑いながら言ったという。

(士談)


この自慢の赤松家

2018年01月18日 17:26

485 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/17(水) 23:56:55.25 ID:NgrWvH92
信長の野望シリーズで唯一、永正の錯乱や船岡山の合戦を扱っている蒼天録PKには「自家自慢」というコマンドが存在した。(何分古いことなので効果等は覚えていない。)

この作品にも登場している赤松義村は、盛大な自家自慢を後世の我々にも仕掛けてきている。
彼は自著『秘事枕』に次のように記しているのだ。


「天盃を賜るということは一大事であるが、当家の政則はいただかれた。
また、塗り込めの輿を許され、幼稚のころから乗っておられた。京都屋敷も重厚な造りである。

さらに禁中より「雲井の松」を頂戴し、公方より「御所桜」を下されている。
「雲井の松」とは五階の松で相生になっており、高さ3尺5寸ほどのものである。薬師寺次郎左衛門という者に守られ、おしほ(置塩)屋形に移された。
「御所桜」は高さ4尺で、橋本源之允が警備した。
それらの木は前払いの雑色左右10人ずつ、素袍左右5人ずつ、刀帯左右5人ずつ、跡備一行立、弓10挺、矢固め2荷、長鑓10筋、左右刀帯5人ずつ、長刀、両鑓2人共馬上にて美々しく下ってきたそうで、「雲上拝受雲井松、御所拝領桜樹」という札を立てた。

他にも内室を御方と称し、国名の使用、鳳桐の御紋の使用を御免下され、屋敷を屋形というなど、当家の規模はとても測れるようなものではない。
政則の三品(三位)叙位ももったいないことである。幼稚の頃には規模など無に等しかったというのに。」

この自慢の赤松家と自分の身が、後々ああいうことになろうとは・・・。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/18(木) 23:41:03.49 ID:XxdQT9o1
赤松って嘉吉の変で取り潰されてるよね
この松と桜はなんで貰えたの?
三種の神器を取り戻したからかな

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 01:35:32.10 ID:szW9i48Q
>>486
嘉吉の乱の後、再興した政則の代でいろいろ賜った、って話なんだから、そうじゃね?

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/19(金) 08:34:43.54 ID:Jl20+8tX
赤松氏もその後に復興して応仁の乱にも絡んでいるのよ

復興のくだりは「後南朝」「禁闕の変」「長禄の変」で検索すれば

週間ブログ拍手ランキング【01/11~01/17】

2018年01月17日 19:03

01/11~01/17のブログ拍手ランキングです!


小田原城中に入りたいのです 30

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」 17

秀吉の甥としての覚悟 12
成る程、気をつけねば 11
腰は抜けても、先ず今日は 10

事が多聞に漏れては大功成りがたし 9
主人を裏切った天罰でしょう 9
故太閤の遠忌 6



今週の1位はこちら!小田原城中に入りたいのですです!
小田原の陣において、秀吉勢に囲まれながらも、そこに入ろうとした山岸主税介さんと、彼を捕えた榊原康政家中のお話。
ここでなにげに、「まあ一人くらいいいだろう」と小田原入城を許しちゃう家康も面白いというか、こういう所が「大将の器量」
というものなのでしょう。自分の所に無駄に引き止めないのも含めて、家康らしさも感じます。
コメント欄で石高の話が出ていましたが、200石というと、江戸末期ではもう充分に藩の上級クラスの石高ですね。
大河で「西郷どん」が始まりましたが、今あそこに出ている人物たちの多くは、何石どころか「何人扶持」という所得
ですからね。あの大河では西郷家などの貧乏や身分の低さが強調されていますし、実際に貧乏だったのは確かなようですが、
それでも西郷家は薩摩藩の中でも、上位10%には入る身分だったのです。だからこそ島津斉彬からの抜擢も受けたのですが。
この逸話は近世初期ですが、近世もはじめと終わりで、石高の意味もそのくらい異なったのだなあ、なんて事にもふと、
思い至りました。

2位はこちら!福島正則「石一個に対し米一俵差出候」です!
福島正則と言えば、秀吉子飼い中では長らく「武闘派」「猛将」の代表格、のように言われていましたが、昨今では武人というよりも
石田三成ら奉行衆と同じようなグループで、吏僚的側面が強かったのではないか、なんて言われたりもします。
そう見ると、この逸話も軍略というより、吏僚的な、功利的知恵を発揮したお話、という感じしますね。
石田三成に全く同じ逸話があったとしても、特に違和感を感じないと思います。(三成の葦に運上税をかけて1万石の軍役をはたす、
という逸話も本質的な部分で似たものを感じます)
現在広く伝わる福島正則像とはまた違う姿を、この逸話は伝えているんじゃないか、
なんてことを思わせてくれる逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!秀吉の甥としての覚悟です!
これもまあ、色々解釈の有る書状では有るのですが、そもそも天正12年の段階だと、秀次は未だ16歳ですね。
当時としてはもう子供扱いする年齢ではない、と雖も、やはりようやく元服という年頃ですから、未熟なのは
むしろ当然といっていいでしょう。また「三好信吉」であったのが、2年前に羽柴家に復帰して「羽柴信吉」と変わった
わけで、立場も変わり「天下人」秀吉親族としての振る舞いを求められることへ、そういった訓練や教育を受けて
育てられていない以上、戸惑いも大きかったでしょうね。
僕は秀次無能説も、またその反動としての秀次有能説も、どちらも極端だなと思っている方で、秀次に関しては
秀吉の方から求める事が、状況状況でコロコロと変わりすぎ、秀次自体の抱えるものが、主に秀吉の意向で大きくなっていく中、
最終的にどうにも身動きが取れなくなった、という形に考えています。
秀吉は非常に軍陣的、システマチックな人物ですから、城でもなんでも必要なら全力で築き、不要になれば容赦なく破却します。
「親族」に対しても同じように対応したのだろう。そんな風に思います。
こんなことを、ちょっと考えさせてくれた逸話でした。


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給人衆頭の討ち死に

2018年01月17日 16:18

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 03:14:57.92 ID:eUuC9HcM
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 07:20:49.18 ID:cwSBNEqI
大人になったな、政宗

成る程、気をつけねば

2018年01月16日 20:55

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/16(火) 20:16:16.91 ID:MbHaaBOA
父勝重の後を継いで京都所司代となった、板倉周防守(重宗)の元に、茶屋の長吉
(初代茶屋四郎次郎清延三男)が伺候した時、こんな事を聞いた

「私の事を悪し様に言う批判が有れば聞かせてほしい。心得に成ることなのだから。」

すると長吉
「そういう事でしたら、公事判断の時、非分と考えられる方を、周防守様は
お叱りに成ります。そのため非分は益々立場が無くなり、自分の側の理屈すら
申し上げることができなくなる。世間でそう沙汰しているとのことです。」

「そうだったのか。よくぞ申してくれた。聴所に出て公事を裁配する時、非分を申してくる
者の面差しが、益々以って憎くなり、叱り怒ってしまうのが私の癖だ。
成る程、私の威に恐れて、自分の弁護を言えなくなる者もあるだろう。よく気をつけねばいけない。」

それ以降は、聴所に茶臼を置いて、訴訟人の顔を見ず、茶を引きながら気を静めて
公事を進めるようになったという。

(武野燭談)



584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 10:18:28.01 ID:9wVfMS0p
まさかの茶臼登場

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 13:21:21.15 ID:x+gMFrdA
きっとおヒマだったのだろう

故太閤の遠忌

2018年01月15日 11:25

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/15(月) 10:20:40.41 ID:vdZ764Ap
或る年、京都において故太閤秀吉の遠忌を、彼の側室であった松の丸殿(京極竜子)という人が
それまで存えていて、ある寺にて法会修行を行ったが、京都所司代である板倉重勝は、これを聞くと
直ぐに、武士を遣わして法席を破らせ、参詣の男女を追い散らした。

人々は、板倉がなぜそのような行為に出たのか聞くことも出来ず、例の京童たちは口さがなく、
彼の行為を批判した。

そんな中、ある人がこう評した
「幕府にとって秀頼公については敵対したため憚りが有るが、故太閤については仔細は無い。
だからこそ、その位牌は高台寺に置かれており、その菩提を法令するのを、伊賀守(勝重)は無法に
制することはしていないし、忍びて修行している分には、これを聞いてもそのまま差し置いている。

しかし今回は「松の丸殿が故太閤の遠忌を修行する」と宣伝し、参詣の人々が群衆したため、
所司代を軽んじたと憎んだのだろう。また宣伝しての作善は、関東の聞こえ悪しき事でも有る。
その上松の丸殿というのは、元若狭国。武田元明の妻であった。しかし秀吉がその容色を
聞き及び、元明を殺してこれを奪い取り、妾としたのである(古くからある誤伝)。
貞節なる女人ならば、秀吉を恨みこそすれ、これを慕うべきではないだろう。」

(武野燭談)


腰は抜けても、先ず今日は

2018年01月14日 21:14

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:13:32.92 ID:C3mIsWFd
大阪夏の陣の時、家康の軍勢が京より出陣する朝、各々行粧を調え、御先手より段々に
押し出す所、板倉伊賀守(勝重)は長袴の裾を繰り上げ、家康の乗馬の、轡の水付きを取って
「今日の御出陣は、是非に思し召し止まらせ給え」
と、引き止めた。

これに家康は甚だ機嫌を悪くし

「臆れ者、それを放せ!」

そう叱りつけたが、板倉は重ねて
「なるほど、臆れ申しました。腰は抜けていても、先ず今日は御滞留遊ばすべし!」
そうしきりに引き止め、遂に家康も出馬を思いとどまった。

その日、京都所司代は京市内で、火付けをしようとするなどした大阪与力の党類を、
多く召し捕った。

これを伝えられ、家康の機嫌は直ったという。

(武野燭談)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 23:43:52.36 ID:69AohDFt
ゲヒ殿の手のもの?それとも別口かな

福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

2018年01月13日 21:10

473 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/12(金) 22:20:42.25 ID:gD8tCq/c
福島正則「石一個に対し米一俵差出候」

関ヶ原の戦いの後、安芸と備後を与えられた福島正則が広島城を中心として国内の要地に多くの支城を築いたのは二つの逸話で既に語られているが、その一つで西の毛利に備えて築いた小方城(亀居城)の築城にまつわるお話。

1603年、福島正則は周防との国境付近の小方(広島県大竹市)にある海に面した標高88メートルの山に築城を開始した。
城の石垣を作るため、福島正則

「石一個に対し米一俵差出候」

との御触れを出したところ、小方の海に石をどっさりと積んだ船が現れた。しばらくは石と交換で米を振舞って居た福島正則だったが、
ある程度石と米を交換したのを見計らうと、
「もう石は余るほどになったので持ち帰ってくれ」
と言って、石と米の交換を止めてしまいました。

約束が違うと腹を立てた船頭は、小方の入江に、石を投げ捨てて帰って行きました。

船が去ったのを見届けた福島正則
「さぁ、石を陸揚げして城の石垣を築け」
と命じ、捨てられた石を人夫に拾わせ小方城の石垣を組ませ、その後五年の歳月をかけて完成した小方城は亀の形をしていたため、亀居城とも呼ばれ、
11の郭(「本丸」・「二の丸」・「三の丸」・「有の丸」・「なしの丸」・「詰めの丸」・「松の丸」・「名古屋丸」・「捨ての丸」・有りの丸の南に「鐘の丸」・亀の頭に当たる海に突き出ているのが「妙見丸」)を持ち、
西側は山陽道(西国街道)苦の坂峠、北は懸崖の山が人を寄せ付けず、南は海に面した港を持ち、更に石垣で囲み上げた城壁を加えて、まさに難攻不落の城として完成した。
だが、この難攻不落の小方城は既に語られている通り諸事情により完成より僅か3年で破却される事となったのである。
現在では1977年に調査発掘と整備が行われ、1000本の桜が咲き誇る桜の名所、亀居公園として近隣住民に親しまれている。

http://otake-history.halfmoon.jp/localhistory/ogata/亀居城/



474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/13(土) 06:31:29.20 ID:8l3z3ru4
せこい

475 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/13(土) 08:34:23.34 ID:Id8JCoMt
>>474
リンク先に
>いつの日か、旅の僧侶が小方の里に入り「この町には異様なものが漂っている。昔お城を築いたとき、たくさんの犠牲者が出ているが、今日まで誰も弔っていない。
だから霊が浮かばれておらず、この町は栄えないのだ。この大事な犠牲者を弔うものはいないのか」と言い残して立ち去ったといいます。


と有るので市松さん、供養費もケチった可能性が…
広島城近くの堤防を作った時は人柱の代わりに自分の剣を8本埋めさせて、更に金出して年一で祭りをやらせて参加者には参加費として、
堤防を補修する為の石を持って来させて、堤防の上で躍らせて堤防を踏み固めさせたと言う逸話もあるんですけどね

事が多聞に漏れては大功成りがたし

2018年01月12日 17:31

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/12(金) 16:25:20.74 ID:/jyzK9dg
宮部善祥坊(継潤)は、元々近江国宮部の者であった。この宮部は比叡山領だった所であり、
でおよそ三千石、当時この善祥坊を含め3人が領していた。堀氏もその一人であった。

善祥坊は浅井氏にに仕え、堀などと共に織田信長への押さえとして置かれていたのだが、
心変わりして信長に通じた。

しかし、宮部は前々から浅井より疑われており、信長に通じたことを知られれば、浅井によって
妻子尽く殺される事確実であり、家臣の友田左近右衛門を遣わし、早々に宮部より引き取らせるよう
命じた。

この時友田は「御証文を遣わさねば、ご家族は同心して頂けないでしょう」と申し上げると、
善祥坊「そういう事ならば、かねて合言葉が決めてある。この合言葉を言って聞かせよ」
そう言い付けた。

友田は急ぎ宮部に向い、善祥坊の家族をここより引き取ることを伝えたが、案の定
同心してもらえなかった。そこで合言葉を出すとたちまち同心し、妻子を問題なく引き取った。

この時、友田は父の家の前を通ったのだが、行く時も帰る時も父に告げることはなかった。
行きに告げなかったのは、大事の使いの故であり、帰りには知らせようと思ったのだが
事が多聞に漏れては大功成りがたしと考え直し、知らせることを止めた。

その翌日、小谷より未だ浅井の軍勢の向かわない内に、織田家の軍勢が宮部村を接収したため、
宮部の人々には別状無かったという。

(士談)



580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/12(金) 18:29:27.36 ID:jf5269Wz
>>579
合言葉が気になるじゃねーか!

小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


秀吉の甥としての覚悟

2018年01月11日 19:00

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:36:09.44 ID:cYyfG16o
秀吉の甥としての覚悟


一今日から秀吉の甥としての覚悟をするように。人に慮外の沙汰を下して
 甥としての振る舞いが出来ずとも、みな秀吉の甥と思って崇めようとするのだ
 という覚悟を持つこと。

一これ以後は秀吉がこのようなことはあってはならないと思ったり、不都合だと
 思うことがあっても、(秀次が)この一書を思い出し書き付けて心を改めて
 人にも立派な人と呼ばれるのなら、右のほかに進退のことを取り上げません。

一今年木下助左衛門、同勘解由を(秀次に)つけたところ、両人が討死したのは
 不憫なことでした。両人の者を殺してしまったことに対して(秀吉の)戸惑いを
 考えてくれてもよいのに、一柳市助に津田監物とやらを欲しいと申させましたが
 仮に秀吉がどの者を預けたとしても、今度預けた者も一人も残らず討死させ
 (秀次が)生き残ってしまえば、外聞が悪くなることも分からないのですか。
 申させた者はもちろん、取り次いだ者も無分別の大たわけと思い、市助めを
 手打にしたいとも思ったくらいですが、今まで腹の中に折り込んで遠慮を
 していたので言葉にはしませんでした。
 よくよく分別をして、諸事に嗜み、流石秀吉の甥と呼ばれるようになれば
 何よりの満足であるので、右の一書を心がけて下さい。

一覚悟を改めればどの国でも預けるつもりですが、只今の如く無分別のうつけ者では
 命を助けてやりたいと思っても、秀吉の甥の沙汰で、秀吉が面目を失うことは
 あってはならないのですから、手討にするしかありません。
 人を斬ることは秀吉は嫌いですが、その方を他国に移すのは恥の恥になる
 だけですから、人手には懸けられないことです。

一胸中は誰にもいわなかったのですが、秀吉の代理も出来るだろうと思っていた
 御次(秀勝、秀吉養子、実信長四男)が病身なので、天道が秀吉の名字を残さない
 ようにしているのだろうか、是非に及ばずと悟ったように振る舞っていましたが
 その方が器用に物を申し付け武者を致していると見えるようになり、このように
 覚悟を持たれるのなら、悔やみもありません。
 
右の五箇条の通り、これ以後分別をもって慎むことがなければ、八幡大菩薩に誓って
人手には懸けさせません。委細は善浄房(宮部継潤)、蜂須賀彦右衛門尉(正勝)の
両人にも申し含めておきました。せがれでもあるので、その心得を持つように、以上

(天正十二年)九月廿三日                秀吉(花押)


――『松雲公採集遺編類纂』


主人を裏切った天罰でしょう

2018年01月10日 18:14

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 09:24:14.09 ID:dL0PHSS6
伊達政宗が会津を速やかに制することが出来たのは、会津代々の家老、平田、松本、佐世、
富田といった、世に蘆名四天王と呼ばれる人々を始めとして、多くの重臣たちが謀反した
ためであった。

中でも安積郡の押さえとして猪苗代という城があり、ここに猪苗代弾正(盛国)といって、
蘆名数代の臣下があったが、欲に心を奪われ代々の主人に逆意して、政宗を引き込み
彼を猪苗代城に入れた事が、蘆名滅亡に直接つながったという。

かくして政宗は会津を存分とし、知行割をして功臣を賞した。
この時猪苗代盛国は伊達安房守成実を通して申し上げた

「かねがね会津別心の時、三ヶ条の望みとして申し上げていました通り、北方の半分を
下されますように。」

政宗は尋ねた
「弾正は北方にどれほどの所領を持っているのか?そなたに半分与えるとは聞いていないが…」

「私は北方には、領分少しもありません。恥じ入ることですが、譜代の主人に逆意仕ったのも
身のためであります。」

そして盛国の家臣である薄源兵衛と申す者が発言した。
「それがしが、その書付を書きました。”半”の字が無ければ切腹いたします!」

そこで政宗がその書付を取り寄せると、そこには『北方分』とだけ書かれており、『半』の
文字は無かった。

盛国は驚愕し
「主人を裏切った天罰でしょう」
そう言って猪苗代へと帰った。

しかし彼が伊達勢を引き入れなければ、会津はこのように速やかに奪うことできなかったと、
政宗は北方において五百貫の加増を盛国に与えたという。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 22:14:30.48 ID:RtY44ibW
>>470
で薄原は切腹したの?

週間ブログ拍手ランキング【01/04~01/10】

2018年01月10日 18:10

01/04~01/10のブログ拍手ランキングです!


形は人であるが、心は畜生である 18

浅井久政切腹と鶴松太夫 12

花も久しく出来るのならば 10
浅井の御娘は秀忠に 10
真に必死と志さなければ 10

三好家落人の島 7
これは東照宮以来の御定なれば 4


今週の1位はこちら!形は人であるが、心は畜生であるです!
小谷落城の折、信長が浅井長政、及びその重臣を侮辱したという内容です。武田勝頼のときといい、信長の逸話には、
敗者に容赦がない、というものが結構有りますね。それが世間一般の信長像にもなっているのですが、本当にそうかというと
やはりだいぶ違っていたと思います。
もちろん、信長が浅井長政を裏切り者として強く憎んでいたことについては、当時の書状や髑髏杯の話からも確かだと思うのですが、
それでも武士たる者の最期について、この話のように感情に任せた行為を行う人ではありません。彼は自分の行為が
「外聞」にどう評価されるかを非常に気にする人でもありますから、徒に自分の評価を下げるような事には強い自己抑制が
はたらきます。
で、この手のお話、おそらくは長政のあとに入った領主、すなわち秀吉が統治する中で出来てきたお話かな、と
考えています。「信長はかくも非道かったがそれに比べて秀吉公は寛容で」みたいに語られたのでしょう。
他に武田勝頼亡き後の甲斐においては、「信長は勝頼の頸に暴言を吐いたがそれに比べて家康公は」と、
徳川家中で語られたのでしょうね。良い悪いではなく、権力というのはきっとそういうものなのだろうと思います。
そんな事を考えさせてくれた逸話でした。

2位はこちら!浅井久政切腹と鶴松太夫です!
息子長政に比べて久政の最期は語られること少ないと思うのですが、このお話を読むと、すこし久政の人間味まで感じますね。
昨今では、久政は息子長政の「クーデター」で、強制隠居させられた、などと言われます(これだけでなく、浅井長政という人は
むしろ梟雄と呼んだほうが良い人物に、昨今では捉えられていますね)。そういう事を知った上でこの逸話を読むと、そういう、
息子に権力を奪われてもなお、本来その必要のない人まで共に死す魅力を持つ人物であった、なんて想像も出来るかと
思います。
こういう逸話を知ると、自分の中の戦国の風景が、また豊かになるな。なんて感じます。
そしてこの逸話、11111番めのエントリーなのです。めでたい!w

今週管理人が気になった逸話はこちら!三好家落人の島です!
瀬戸内で落人というとほぼほぼ「平家」なのですが、ここでは三好なのが、とても地域性なども出ていて興味深いですねー。
この島における風習が、本当に三好残党の歴史からくるものなのか、それとも先に対立があって後付の理由として
これが出来たのか、今なら未だ調べられるのではないかなあ。
このての伝承が瀬戸内にどのくらいあるかも含めて、様々に興味深いお話だなと感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを推してやってくださいね!
( ´ ▽ ` )ノ

これは東照宮以来の御定なれば

2018年01月09日 17:58

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/09(火) 14:11:41.34 ID:sMBoiIZ+
元禄3年5月4日、将軍綱吉の御前にて、水戸宰相光圀は中納言に、その養子であり世子である
水戸少将綱條は中将に、それぞれ昇進された。その座でのこと。
綱吉の側用人である牧野備後守(成貞)がこのように発言した

「今後中将殿には、今までのように、旗本の諸士を召し寄せられる事はいかがかと」

中将ほどの位の者が、幕府の旗本と軽々しく近づきになるのはどうかと、釘を差したのである。
光圀はこれを聞くと

「備後守は、我が家風を存じまい。御前ではあるがついでなれば申すぞ、
水戸家は御旗本の代将軍を承っている!何事か起こったときは、将軍家の御名代として
采配を許されているのだ。然らば諸旗本に平生から参会して、その器量を見知るのが
御奉公である。

これは東照宮以来の御定なれば、今中将が家督を継いだ後も、この事は違うべからず!」

そう苦々しく申したという。
(武野燭談)

>これは東照宮以来の御定なれば
家康「マジかよ」



469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 06:06:26.05 ID:JjetV4kA
家康が亡くなった時は頼房って13歳か?
頼房が徳川を貰うのは壮年だし家康から疎まれてたとも言われてるから黄門さまがはったりかましたんか

花も久しく出来るのならば

2018年01月08日 11:50

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 09:57:48.58 ID:bdvzPBDu
或る年のこと。紀州大納言徳川頼宣は、朝顔の花で午の刻(正午ごろ)まで美しく咲いているのを
見つけると、これを母である養珠院の御目にかけようと遣いを出した
「朝日を待つ間の花と言われていますが、このように盛ん久しく咲いております。」

養珠院はこれへの返答に
「珍しき槿花の事が書かれていましたが、花も養い方次第で、このように久しく咲かせることが
出来るのなら、あなたの御身も養生次第で長生あるべき事でしょう。
あなたは若き人ですから、壮年の頃より養生されれば、きっと長命を得るでしょう。
家中を養うのも、花の手置と異なることがあるでしょうか?
ついでながら申し入れました。」
そのように教訓された。

この事を後年、頼宣はいつも語っていたという。

(武野燭談)



576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 15:23:13.38 ID:5cwNbSx6
正直ウザい母親だと思ったw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/08(月) 16:18:41.27 ID:MXGBOqy6
自分から報告しに行って何言ってやがる