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悪い知行地

2018年02月28日 22:32

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 00:04:07.42 ID:qMAVUeAk
福島正則の家臣で、野田忠介という侍は、知行五百石であったが、知行が水損し、毎年無作という
状況になったため、正則へ直訴した

「私に下された知行地は水損し、どうにも御奉公が出来難い状況です。どうか私に御暇を下されますよう。」

正則はこれを聞くと
「その方は大気者にて、終に只今まで私に直に訴訟を申したことは無かった。知行地が悪いのであれば
代わりの地を取らせよう。ただし、その上にても暇を貰うつもりか?」

忠介は申し上げた
「有難く存じ奉ります。そういう事ならば、いつまでも御奉公申し上げます。」

こうして忠介は知行地を所替えされ、さらに正則は、彼に今までの損米もつけるよう命じ、
損米の出た年数分の年貢、取れ高の6割5分が計算され残らず下された。これにより野田忠介は
殊の外富貴となった。

その後、日下部山三郎という者、これは二百五十石取の者であったが、彼も正則に申し上げた
「知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません。どうか替え地を下さるよう、申し上げます。」

これを聞いて正則は
「せがれが憎き事を申す!そもそも山三郎には過ぎた知行地であるというのに、我儘を申しおって!
切腹させよ!」

そう激怒し、日下部山三郎は切腹をした。

(福島太夫殿御事)



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 10:50:58.17 ID:df5jKhFM
>>557
>知行地が悪く、御役を勤めることが出来ません

また酔ってたかと思ったが、こんな言い方されたらシラフの市松でも怒るわな

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 14:53:15.22 ID:PMiJpjsl
>>557
昔話みたいw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 15:46:46.31 ID:AIbKzuOk
正直者と業突く張りな隣人のテンプレだよな
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九郎殿は御腹を召され

2018年02月28日 22:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/28(水) 02:13:22.65 ID:/FwJ4UQm
香西又六(元長)と薬師寺三郎左衛門(長忠)が天下を我等がままに振舞うところに、
やがて50日ほどあって、同(1507)8月1日に、

澄元(細川澄元)は三好筑前守之長の算段で、甲賀の谷の山中新左衛門を御頼みになり、
京へと切り上った。九郎殿(細川澄之)のいらっしゃる遊初軒へ攻め掛かると、

一宮兵庫助が門より外へ切り出て、手元へ進む兵を7,8騎切り伏せ大勢に手を負わせ、
東西へ追い散らし、そののち自身も討死したのであった。中昔の源判官殿の御内である
武蔵坊弁慶もこうであったのかと思い出される。

さて兵庫助討死の由は、波々伯部伯耆守が九郎殿の御前へ参り申し上げ、「早く早く、
御腹を召され候へ」と申すと、九郎殿は「もとより覚悟のことである。しかしながら、
九郎の父・関白殿(九条政基)と北の御方へ御文を参らせたい」と硯を御乞いなさり、

「このたび丹波にて物憂きことなどがあり、また御二人より先立ち、後生菩提逆さま
に弔われ申さんことの口惜しさよ」と言いなさって、奥に一首の歌を遊ばしなさる。

「あづさ弓 はりてこころはつよけれど 引手すくなき 身とぞ成ぬる」

このように書き留めなさると、鬢の髪を少しそえて涙とともに巻き込め、御自身の文
ながら、ひとしお名残惜しげに御覧になり、局の方へ御渡しになった。そののち伯耆
を御呼びになり、「我はいまだ腹の切りようを知らぬ」と仰ると、伯耆は答えて

「十方仏土とは申しますが、自害と申すものは、まず西へ向かって十念し、御腰の
物を抜いて左の脇に刺し立て、右手の脇へ引き回し、返す刀で御心元に刺し立てて、
袴の着際へ押し降ろします」

と申し、九郎殿は御了承されて御腹を召された。伯耆は涙とともに介錯申し上げて、
そののちに腹を切った。薬師寺三郎左衛門、香西兄弟は皆々討死して朝の露となった。
このたびの討死は170余人である。

さて、その時の有様を局は九条殿へ参って詳しく申され、父の関白殿と北の御方様は
「これは夢か現か。夢ならば覚めてくれ」と、しばし消沈なさった。

ややあって関白殿が仰せになり、「人間に限らず生を受けたものは皆その上々を望む。
鳥類・畜類さえこうであるのに、それに引き換え、我が子は細川の家に養われて家に
疵を作ったことよと朝暮これを思っていたが、このようなことが起こってしまった」

と、御文を胸に当て顔に当て嘆きなされば、その他の女房たちや仲居の人、侍たち、
上下に至るまで流涕し、焦がれなさった。

これがあの釈尊御入滅の折、十大御弟子・十六羅漢・五十二類に至るまで、御別れを
悲しんだのも、こうであったのかと思い知られつつ、他人の袂も涙に濡れた。

このように因果の回ることは、ただ車が庭の中を巡るようなものである。

――『細川両家記』


週間ブログ拍手ランキング【02/22~/28】

2018年02月28日 22:25

02/22~/28のブログ拍手ランキングです!


福島正則、散々に叱りつけ 16

木造長政の警護 15

広島での知行割、屋敷割 13
乗打騒動 13

細川幽齋覺書より、戦場での心得について 10
めいどには 能わか衆のありければ  10

細川幽齋覺書より、武士の心得のことなど 7
永正の錯乱 6


今週の1位はこちら!福島正則、散々に叱りつけです!
広島城普請で怒り心頭の福島正則、木造長政にも盛大に叱りつけるというお話。
いかに君臣とはいえ、武士が衆目のある中で叱りつけられては、面目が保てません
もうこれだけで謀反を決断してもおかしくないほどです。
フロイスの記録に、日本では主君は配下に怒気を見せない。なぜなら主君に害意が有ると知ると、配下は
先んじて主君を討つからである。というようなものがありました。
ここから見ると、この時の正則は主君としての資質に難あり、と言えるかもしれません。
ただ、ここで、同僚たちの説得もあったとはいえ、グッとがまんできるあたり、「近世の武士」に成りつつあったのだな、
とも感じてしまいます。

2位はこちら! 木造長政の警護です!
そういえば木造長政の享年は慶長9年(1604)で、福島正則が亡くなったのは寛永元年(1624)ですから、ずいぶんと
以前の話です。そこから考えると、ここに出てくる木造大膳は、このお話が事実とすると、長政の息子か親族かな、などと
想像します。福島家については詳しく知らないので、想像するしか無いのですがw
どこか福島家について、良い入門書はないものか。

今週管理人が気になった逸話はこちら!めいどには 能わか衆のありければ です!
この歌、本当に上手いこと言っていて、薬師寺元一の並々ならぬ歌才を感じてしまいます。流石京兆家被官。
彼だけでなく、室町期の三管領四職(あるいは二十一屋形)の被官は、行動が脳筋でも学識は並々ならぬ人たちが多くて
本当に油断がなりません。このあたりも、この時代の魅力ですね。

現在、月刊スピリッツでゆうきまさみ先生が、伊勢新九郎(北条早雲)を主人公としてこの時代を描いた『新九郎、奔る!』が
連載中です。現在2話までですが、戦国前夜の様相が実に丁寧に描かれ、僕も毎月の楽しみにしていますw
今後、細川政元も必ず出てくるでしょうし、皆さんにぜひぜひ読んでほしいマンガです!
https://www.shogakukan.co.jp/magazines/series/02400A



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってください!
(/・ω・)/

細川幽齋覺書より、武士の心得のことなど

2018年02月27日 21:10

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/27(火) 00:02:27.66 ID:1tgBBbFO
一、人には何であっても好きなことが有る。弓鉄砲、或いは馬、蹴鞠、兵法、料理、乱舞、歌、
  将棋や囲碁、鵜飼、鷹狩、数寄の道、武士の道。何れにしても、好きなことが有るのなら、
  自分の好きなことは積極的に人に話すべきものだ。また人が話すことの中にも、自分が
  好きな事があれば良く聞くものである。
  また人により、武道の話をいたし、人が話すのも面白がって聞いていれば、良き心がけの者と
  周りは思うだろう。
  大体において、人々の心中というのものは、普段の話の内容、或いは愛する友人を以って知ることが
  出来るのだと、松長(松永?)という名人が申されていたが、真に相違ないと思われる。
  とにかく、どんな諸芸も、自分の心に染まらぬことは、結局出来ないものだ。その心得が
  有るべきだろう。

一、常々物をよく喋っていても、戦場においてはほとんど喋らなくなるような者がいる。
  また敵との間が遠い時には何かと喋るが、敵が近くなると物を言わなく成る者がいる。
  そういった将は、常々どれだけ口を利き、物を良く申していても、役に立たないものだ。
  殊に、敵が遠いほど物を申し敵近くなり合戦前に萎れる体にていること、殊の外見苦しい事である。
  常には少しばかり無口でも、戦場においては諸人も聞き届けるように、物の埒を申し分けられる
  事は、常に物をよく喋ることより格段に良い事である。

(細川幽齋覺書)

ちょっと社会人の心得にも近いようなお話



675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/02(金) 17:37:22.15 ID:txA038IT
上杉景勝(俺が喋るとみんなビビる)

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/03(土) 18:49:45.62 ID:YECF6PdC
猿(よっしゃ真似したろ!)

広島での知行割、屋敷割

2018年02月26日 17:22

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/26(月) 10:42:22.53 ID:hL/wCX1y
福島正則は安芸備後両国の検地を命じ、石持ちを多く任じるため、50万石を8つに分け、
そのうち6つ5分を家中の知行とした。大豆小豆は米の五割で一石、麦は倍、ヒエは4倍と計算し
役を務めるものとされた。
侍が困窮しては主人の用に立たないものであり、夏は良き帷子、冬は木綿の着物、紙子にて暮らすよう
申し付け、侍分は皆その装束にて暮らした。

侍屋敷はおおかた二十間四方で、角屋敷は小身者には与えず、二十二、三間に地形を均させ、新屋敷には
二十石、角屋敷には二十五石づつ米を与え、普請の費用とするよう申し付けた。
また、昔の毛利殿の時代より有る屋敷には、石垣四尺あまりの塀が付けられていたが、正則はこれを見て、
石垣を崩し二尺づつに作り直すよう命じた。これは、もし取り籠め者があった時、石垣が高ければ
それが盾となり仕寄りが難しいためと申された。

(福島太夫殿御事)

正則が広島入部してからの仕置について


永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


乗打騒動

2018年02月24日 11:30

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 08:46:34.62 ID:ZPsYMZ55
伏見城の普請の時、福島正則の衆は過半が幟町より城へ参っていた。道が遠いため、何れも
馬にて通勤していたのだが、この時、越前三河守殿(結城秀康)が京より伏見へ向かっていた
先を、福島正則の家臣の侍が、馬にて通った。三河殿はこれを見て「乗打をしている者を捕らえよ!」
と命じ、家臣たちが追いかけたが、その者はそのまま乗り通ってしまい、後にいた挟箱持ちを捕え
「乗打した者は誰か、申せ!」と厳しく尋問した所、下者であったのですぐに申し上げた。

これにより、三河守殿より正則へ使いが送られた。
「御内である梶田八左衛門と申す者、乗打を致した故、我々に引き渡すよう仰せ付けられるように。」
使いはこれを非常に荒々しく要求したが、正則は
「御尤もです。いかにも詮索してこちらよりご返事申し上げましょう。」
そう申し、その後家中を詮索した所、梶田八左衛門

「当日、京より伏見へと向かいましたが、横合いには誰も見えませんでしたので、乘り通ったのです。」

このように申し上げた。これに正則も「それは乗打ではない。梶田は少しも気遣う必要はない。」
そう納得し、後日三河守殿へも「乗打の事について様々に詮索しましたが、我々の家中の者では
ありません。何者かが、嘘の名を証言したのでしょう。」と返事をした。

そして正則は「三河守殿は近頃になく不合点な人である」と、交流しなく成ったという。

(福島太夫殿御事)



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/24(土) 10:15:36.90 ID:JXhtM3Nn
まるで別人だな。同一人物の台詞とは思えん気配り…

木造長政の警護

2018年02月23日 19:35

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 19:23:08.02 ID:800FetQ9
福島正則が病死した時、その葬礼の場には、一町四方に木の柵を結い、四方に門を立て、
この警護には木造大膳(長政)、本多対馬両人の人数が当たった。
二町は木造の人数が受け持ち、彼の人数は長柄鑓をひしと立ち並べ、その次に控える
木造手前の侍たちは鑓を段々に飾り、その様子は殊の外見事であると、人々は褒め称えた。

残る二町は本多対馬の担当であったが、ここには長柄もなく、それぞれが自分の持ち鑓を装備し、
そのため長いもの短いものがバラバラであり、大変見苦しいと人々は悪しく申した。

日頃より木造大膳は、要らざる所に大気が過ぎ、そのため経済的に苦しく、御用の役には立たない、
などと謗られていたのだが、このことがあって以降、そういった悪口は止んだという、

(福島太夫殿御事)

正則から恥をかくほど叱られた木造長政さんですが、その正則の葬式にはこうして男を見せたというお話



福島正則、散々に叱りつけ

2018年02月22日 18:34

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:29:27.56 ID:7/fd5rz0
福島正則が安芸に入部して、広島城の普請のおり、正則は石垣の据え方が悪いと、近江坂本より雇った
穴太衆たちを叱りつけ、さらに石垣の普請を担当する、丹波、石見、久之丞といった者たちにも
「お前たち一人ひとりの首を切ってやるぞ!」(おのれら一々首を切くれん)と、散々に叱りつけた。

さらに気が治まらなかったのか、元織田秀信の家老であった木造大膳(長政)の持ち場へ行くと
「木造殿は岐阜中納言(秀信)をしたいままにあしらっていたというが、それは間違いだったようだ!」
そう罵り、散々に叱りつけ、それは朋輩たちに対しても恥ずかしくなるほどの叱り方で、木造大膳は
面目無く無念に思い、そのまま宿舎へ帰り

「只今このように主人より叱られた事、不覚である。もはや男として立つことも出来ない。
二万石の所領と軍役の人数をみな返納し、船にて上方へ退く所存である!」

そう言って支度を始めたところ、石見、丹波、久之丞その他組頭の衆がやってきて様々に異見し、
そうしてどうにか、留まることになったという。

(福島太夫殿御事)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 18:45:54.29 ID:cwMgupbs
市松はほんと人間としての器が小さいな

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 19:11:38.00 ID:8gtNielT
さては、一杯引っかけてたな

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/23(金) 14:28:14.95 ID:g1a5qSNi
のちの台風で石垣崩れたんでしょ、正則の一喝が無かったら天守崩落してたな

細川幽齋覺書より、戦場での心得について

2018年02月21日 20:24

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 21:22:39.27 ID:c3U9fY9D
一、戦場において、幟ほど大切なものはない。幟さえ崩れなければ、敵方より仕掛けられる
  事はない。逆に軍勢が多く揃えてあっても、幟が倒れれば、こちらは敗軍したと敵は見て、
  合戦を仕掛けてくるものなのだ。

  幟大将を致すほどの人物が、他の者が敵と手を合わせるのを羨ましく思い、自分もそのように
  しようとすれば、幟の役が立たなくなってしまう。たとえ他の人々が、どれほど敵と手合わせ
  していても、幟さえ倒さなければ、敵と手合わせした人の手柄と同然であり、またそのような
  理屈をしっかり理解していないと、出来ない役である。
  名将と呼ばれる人々も、そういった資質が無い人間には、幟大将は務まらないと申されていた。

一、武士には、信心が無くてはならないものだ。殊に愛宕八幡には、別して信仰が有るべきである。
  ただし、火の物絶ち(火を通した食べ物を摂らない事)は全く無用である。私は若い頃、火の物絶ち
  を致して懲りたものだ。とにかく、物を食わねば何事も成り難い。

一、男道はあまりに律儀な計りでも成らぬものだ。少々人を出し抜く用に心がけなければ、
  優れた手柄も成らない。ただし、他人の協力がなければ出来ない事もある。そういう時は
  状況次第である。

一、陣に立つ時、具足の綿かみに梅干しを付けて参るべきだ。のどが渇いても水のない時は
  どうしようもないが、そういった時梅干しのことを思い出せば、口に唾の貯まるものである。

一、巾着には、干飯でも米でも、何か食えるものを常に絶えぬよう入れておき、普段居住している所に
  掛け置きしておいて、草鞋、脚長一足につき巾着袋を一つ付けておくべきである。そして主君が
  鷹野、または狩りなどに出られる時、腰につけて参れば、何があっても対応できるのだ。
  とにかく、物を食わなくては手柄も成らないものなのだ。

一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、
  殊に常々の御奉公のさわりにもなる物である。こういったことは、常々より嗜んでおくべきである。

一、戦場にて、地面の塵やごみを蹴り立てると、煙のように空に上る。これを地煙と呼ぶ。
  この地煙が高く上るところは、馬上の武者が多いと心得、低いところは徒武者の居るところだと
  考えるべきである。ただし風など吹く時は、そういう心得も変えなければならない。

一、敵陣に物見に参る時、なんとも参る手立てのない時は、商人にまぎれて参るものだ。
  陣において備蓄が無い時は、敵味方が人数を立てあっている最中ですら、酒売商人など
  参るものである。当然、自分たちの方へもそういった者が参るわけで、少しも油断
  してはならない。

(細川幽齋覺書)

戦場での心得についていくつか



657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:40:37.28 ID:jlZaj6kt
>一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。陣中、又は忙しき時にはそうは出来ないし、

ワイ将、大腸過敏の長距離電車通勤組、毎日陣中(電車)で我慢

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 00:21:20.09 ID:yMVZx1uC
マニュアル作るの好きなんだなあって分かる

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 01:45:46.22 ID:UTaI4uHy
一、大小便を普段からゆるゆるとしていては癖になる。
幽斎でも大小便をするんだ…

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:03:49.36 ID:7XdmiP1b
フン!って力むから卒中するんだよな

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 02:48:38.93 ID:X2fLifG2
不識庵「なんやて」

662 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/21(水) 08:20:06.28 ID:u0yUUzj8
マニュアルかなぁ?
単に危機管理の為のノウハウの蓄積をしようとしてるだけとしか。

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 16:45:23.98 ID:lUc9Phna
マニュアル以前のメモ書きだよな。
ただそんなメモ書きでも書いておけば役に立つ。
食料や道具の準備について大分項目を割いているが、
それだけ何の準備もなく参陣する奴が多かったんだろうなぁ。

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 17:12:32.37 ID:i4qjyDOk
梅干しの話はまんま望梅止渴の故事からだろうけど実際効果の程はどうだったんだろう

めいどには 能わか衆のありければ

2018年02月21日 20:23

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/21(水) 03:39:28.52 ID:aA/6Utkz
そのようなところに、政元(細川政元)はあまりに物狂わしくおられたため、御内・外様の
人々は、「この分ではどうしようもない」と悲しみ合っていた。

その折に薬師寺与一(元一)はつくづく考え出して、赤沢宗益(朝経)という法師と相語らい、
「政元を誅し奉り、阿波の六郎澄元をその上に崇め申しようぞ!」と語ると、

かの宗益は同心した。しかし、ある文に“好事門を出でず 悪事千里を行く”というが、道理
ではないだろうか。包み隠してもこの事はわずかに表れてしまい、叶わずして宗益は伏見
竹田口へと切り上った。

頃は永正元年(1504)甲子9月初めに与一は淀城へ立て籠もった。そのため京や田舎
では仰天して物言い取り取りであった。

そうとはいえども政元の御内衆は与一の弟の与次(長忠)を初めとして御屋形様へと参り、
評議をなしてすぐに諸勢を催し、淀城へと押し寄せて川とも堀ともいわずに攻めなさった。

城中でもここを先途と戦ったが、まことに攻め手は国々の勢たちが一つになって新手を
入れ替え攻めていった。そうして城中ではここかしこで5人、10人ずつ討死していった。

そのようにばかりで、どうして堪えることができるだろうか。9月18日申刻、ついに城は
落ちてしまった。与一は今一度謀反を企てようと思い、川の畔の葦の中で弛んでいたが、
因果の道理に任せて生け捕りとなり、都へと上った。

船橋に一元院といって、与一が世にありし時に建立した寺があった。与一はそこへ移り、
色々の物語りをして一首の歌にかくばかり。

「めいどには 能わか衆(我が主)のありければ おもひ立ぬる 旅衣かな」
(あの世には良い主君がいるので、思い立って旅立つとしよう)
(あの世には良い若衆がいるから、お前も早く来るといいぞ)

このように親しき方へ文などを遣わし、最後の時の申し様は、

「皆々御存知のように我は一文字好みの薬師寺与一。名乗りも元一、この寺も一元院と
名付けた。されば腹をも一文字に切ってやろう!」

と言って腹一文字にかき切り、朝の露とぞ消えにける。上下万民押し並べて皆涙を流した。

さるほどに弟の与次は御感を蒙り、今回の恩賞に桐の薹の御紋を賜り、三郎左衛門と
改名なされ、兄の与一の跡を賜って摂津国上下守護代となり栄華に誇った。

昔も主君の仰せに従い、源義朝が父・為義の首を取りなさったのである。ましてや末世の
以下の侍であれば、主君の下知に従って兄の立て籠もる城を攻めるのは道理である。

――『細川両家記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/22(木) 11:34:46.20 ID:/G4E2NbT
死に様一つで見事にキャラがたった与一さん
なぜか万民が涙を流す

週間ブログ拍手ランキング【2/15~/21】

2018年02月21日 20:18

2/15~/21のブログ拍手ランキングです!


ついに富田長繁がピックアップされた小説が 20

過分の扶持 18

那須神社 御由緒 12
細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦 10
団右衛門を逃がす 9

両大将の御軍法 8
細川の流れが2つになってしまう原因 4
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事 4


今週の1位は、何とこちら!ついに富田長繁がピックアップされた小説がです!
まさかまさか、何とあの富田長繁が小説にピックアップされるなんて!僕はKindle版待ちで、そちらは23日からだそうなので
指をくわえて待っていますが、面白いという噂は聞こえてきます。楽しみ!
井伊直虎も大河に成りましたし、こうやって、わりと早くにいい悪いスレで掘り起こされていた戦国時代の人物が、
こうやって世間的に知られて、少しずつ大きな存在に成っていくというのは、なんだかうれしいです。
いい悪いまとめの中には、まだまだ魅力的なキャラがたくさんいますから、その中からまた新たにピックアップされる
人が出てくるのを、ワクワクして待っていますw

2位はこちら!過分の扶持
福島正則が、落ちぶれた老将を千石で召し抱えるお話。正則が評価したのが、かつて小城主をも任されていた、という
経験である点が面白いですね。そしてその経験を活かすには、小さな知行では不可能だ、という考え方も実に理論的で
実践的です。
勿論正則は、それだけでなく一種の宣伝効果も考えてこういった人事をしたのでしょう。、このような話を聞けば、
他の家の、不遇を感じる老勇士たちへのアピールにもなりますしね。
わりと脳筋扱いされがちですが、福島正則という人の優秀さも感じさせてくれる。そんな逸話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!両大将の御軍法です!
ここの信長秀吉の対比って、秀吉自身がそう思わせよとした信長像、秀吉像そのままですねw
これは実態を表しているというより、秀吉政権のプロパガンダをそのまま書き残した、と言うべきでしょうし、
細川幽斎にとってこう言ったという記録を残すことが、一種の保身と成り得た、と考えるべきなのでしょう。
そんな、発言の裏側を読む面白さの有る内容だな、と感じました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事

2018年02月19日 17:52

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 19:10:30.83 ID:Z9pD70Ir
越中魚津の蜃気楼 乾達婆城の事



永禄7年(1564年)5月下旬より6月半ばに至り、本庄繁長柿崎景家を魁首として、
上杉謙信公は越中国に在馬した。

この折節、魚津の海上において貝の城が出来たのを見るといって、
浜辺には市のように多くの老若男女が集まり垣根を巡らしたようであった。

暑熱の時に属して、蛤がたむろして靄気を立てていた。
中華の書物で言われている蜃気楼とはこれであろう。

故老の説に曰く、

「蜃(シャコ貝の一種)は蛤の大きいやつだ。よく気を吐いて楼台を作る。南北海に多い。
 支那登州の海濤は、春夏の間に水面を遠くから眺めると、これ気がある。
 人馬の往来が絶え間ない城郭や市を彷彿とさせる。地元では海市と呼んでいる。
 西域でもこれに似た事があると伝え聞く。

 朝日が出始める時、紅輝天に映して楼門宮闕を現して、ちかく官人の出入りを見る。
 日が高く昇ると消滅する。しかしながら、肉眼の及ぼす幻みたいなもので実在はしない。
 これを乾達婆城と名づく。全て乾坤の間象を含む者、
 陰陽の二気を感じて変化の成行を計り知ることは出来ないという」


両大将の御軍法

2018年02月18日 19:04

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:31:02.46 ID:dR3J4lSy
一、信長様の御軍法は、敵と成った者は、その子々孫々までも討ち果たし、その跡まで
  掘り返すほどに厳しくして、天下を治められた。内裏の修理など仰せ付けられ、王法の
  衰えたのもお取り立てされ、その後仔細あって、上京の騒ぎを払うとして、京の地子を
  御免になられた。万事において賞罰を正しく仰せ付けられた故に、万民に至るまで、
  その仰せを奉らないという事は無かった。
  ではあったが、一度敵対した者は、詫び言を申し上げ旗下に付いても、お心を許すこと無く、
  御憎み浅からず、故に謀反人が多く出た。こういう時は、強いだけではどうにもならないものだ。

  こういった事を太閤様(秀吉)はよくご覧になっており、敵対した者へは厳しく申し付け、
  これに対し詫び言申し上げ旗下と成れば、御譜代同然に懇ろに心を開かれた。是故に、昨日まで
  敵対していた者でも、身命を捨て忠節を致すべきと考え、故に謀反人も無く、早く天下を
  治められたのだ。

  両大将の御軍法はこのように裏腹に違う、この心持ちは、小身の召使の者にも心得あるべきである。

(細川幽齋覺書)



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 18:57:18.66 ID:cegVxge2
秀頼シフトを敷かなければ豊臣政権は続いたのだろうか?

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/19(月) 15:28:24.75 ID:TRb3+EFk
>>650
信長のほうが寝返りに甘い印象あるけどなー、細川の処世術かな

>>651
秀吉死後に秀次派と秀頼派で関ヶ原なりそう

653 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/19(月) 15:41:39.50 ID:jY3t1EHB
>>652
「信長と消えた家臣たち」って本を読むと細川幽斎の気持ちが少しわかるよ

細川幽齋覺書より、川を挟んだ合戦

2018年02月17日 09:55

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 00:09:50.53 ID:Qls51LFz
一、敵が川を前に軍勢を立てている時、その軍勢が厚く立てられている場合は、その川は浅いと
  心得るべきだ。逆に軍勢が薄い場合は、川が深いと心得るべきである。

一、敵方が川を渡ってきた場合、その川の三分の一ほど越えた時に、こちらは川端まで押し寄せ、
  鉄砲を撃って渡川を妨害しなければならない。川を渡られてしまうと、敵には勢いがつき、
  味方は勝利を失ってしまうものなのだ。

一、敵が川向うに居る時、此の方より川を渡す場合、少し川上から馬を乗り上げ、水の流れに
  つれて渡すようにすれば、早く渡れるものだ。少しでも早く、などと考え、川下から川上へ
  渡るような真似をすれば、結果遅くなってしまうものだ。

一、川を前に陣を取った場合、何よりも先ず筏を組める物を心にかけ、準備しておくことが大切である。
  とは言うものの、筏に組めるものが無く、また川を渡らなくてはどうにもならない、という状況に
  なった時は、「道具筏」といって、鑓などを組み合わせて、それに乗って渡る事もある。
  また「馬筏」といって、手綱を互いに取って組み、これにて川を渡すことも有る。このようにすれば
  弱き馬も強き馬にひかれ、造作なく渡れるように成る。
  「道具筏」「馬筏」とは、こういったもののことを言うのだ。

一、敵が川を渡ってくると予め解っている時は、此の方に柵を構築し、渡さないようにすべきである。

(細川幽齋覺書)

川を挟んだ合戦に関するお話



642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 15:41:22.33 ID:nC83Xr0m
>>641
>馬筏
男塾みたいなやりかたで草

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 18:31:41.07 ID:lPtSpuum
>>641
幽斎様なら馬を担いで渡れそう

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 22:09:49.78 ID:uHB/+4zH
上流で馬の集団を渡河させて、流れを弱めて、歩兵を渡したエピがあったと思うんだが、
新田義貞だっけ?

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/17(土) 23:32:00.13 ID:GZSKK4fO
シーザーがやった話なら知ってるが

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 07:35:51.26 ID:cjiShSU3
上流で糞尿を流して水の手から疫病を発生させたんだっけ

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 09:40:16.59 ID:xa+2aYDi
馬上で糞尿を垂れ流して焼き味噌と言い張った?

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 13:45:15.27 ID:8Qu9Piho
徳川軍の兵士が大井川上流で人間堤防を作って下流を渡渉する織田軍を接待した話もあったな

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/18(日) 14:59:17.72 ID:CtdKoPGM
男塾名物とかでありそうだな

団右衛門を逃がす

2018年02月16日 21:42

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 22:45:59.12 ID:iuGNdXUY
加藤左馬(嘉明)殿の家臣であった塙団右衛門(直之)と申す者を、福島正則が召し抱えた所、
左馬殿より『団右衛門の事は私が深く構い(奉公構)をした者であるので、御扶持は御放しと
されますよう』と申し来た。

正則は団右衛門を呼び、このように言った
「左馬殿より、お主がお構いされていることを申し来た。どうだ、私の肝煎りにて、加藤家に
帰参しないか?」

しかし団右衛門は
「有り難きことと存じます。ですが、どんな事があっても帰参するつもりはありません!」
そう、直に申した所、正則は
「そういう事なら、退去させよう。左馬殿よりの使者の者たちに馳走を出させ、待たせておくように。」
そしてこの間に急ぎ早舟を準備させ、これに団右衛門を乗せ早々に出船させた。

これを確認してから、正則は加藤嘉明の使者を呼び出し、直々に返答した
「塙団右衛門の事、お構いされていることを知らずに召し抱えてしまった。そのため早速、扶持を放した。」
これを聞くと使者たちは直ぐに帰っていった。
しかしこの時既に団右衛門は順風の中、大阪へとはしりぬけ、そこに隠れ住んだ。
加藤嘉明は使者の報告を聞くとすぐに、団右衛門への討手を四方へ派遣したが、ついに発見できなかった
という。

その後、大阪の合戦の時、豊臣秀頼が彼を召し抱え、その時松平安房守(蜂須賀至鎮)の陣所に
夜討ちに入り手柄を成し、明けて夏の陣にて討ち死にした。

(福島太夫殿御事)


那須神社 御由緒

2018年02月15日 15:51

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 18:08:08.77 ID:4cURkP3I
栃木県大田原市の那須神社に行ったら、こんな由緒書が掲示されていた。
地元の大田原市民にとっては大関高増は神への崇敬の厚い立派な殿様なんだろうな。
ttps://dotup.org/uploda/dotup.org1463195.jpg
1463195.jpg

那須神社 御由緒
第十六代仁徳天皇の御代下野国造奈良別命が国家鎮護のため金瓊(黄金の玉)を埋め塚を築き祠を建て
天照皇大神 日本武尊 春日大神を祀ったのが濫觴と伝えられています。
(中略)
中世那須氏がこの地に勢力を広げ那須氏代々の氏神とし崇敬厚く特に与一宗隆ゆかりの社で四国屋島において扇の的を射る時
当社八幡大神湯泉大神を中心に念じ名声を添加に博したので社殿を再建し神意を慰め祭った。
その後大関氏那須氏に代わってこの地を領する代々の城主大関家の氏神として尊崇殊の外深く中でも
大関高増清増始め累代の城主しばしば神殿を再建修繕して今日に至て居ります
現在の楼門並び本殿は寛永十七年大関高増社殿の大修繕に成るもので昭和三二年八月本殿並楼門外栃木県重要文化財に指定された貴重な建造物であります
(中略)

平成二一年九月吉日


過分の扶持

2018年02月14日 18:28

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 21:57:53.00 ID:tsCLngb4
小田孫兵衛という、元森家の武士が落ちぶれて、福島正則の家臣である梶尾出雲という者を頼り、
福島家の広間の御番であってもしたいとの望みを、梶尾より正則へ申し上げた。
梶尾は此のように言った

小田孫兵衛という人物は、森家の武士でありましたが、只今落ちぶれ、御広間の御番なりとも
いたしたいと、御家に仕えることを望んでおります。この者、かつては備中小田の城主でありまして、
少しばかり世間の覚えも有る者でした。また侍道の諸芸にも達している人物で、召し抱えて頂ければ
過分に存じ奉ります。」

正則はこれに答えた
「そういう者であれば抱えよう。追っ付けまみえ、五十人扶持を遣わそう。」

梶尾は驚いた
「さ、左様に過分に下されるような者ではありません!百五十石か二百石下されれば、過分に
存じ奉ります。」

「その方」正則は言った
「先ほど、彼は小城の主をも致した者だと申したのではなかったか!?そのような者に二百石や三百石
取らせても、後日主の役には立たぬものだ。」

そして小田孫兵衛にこう伝えられた、「千石の知行にて召し抱えられる」
孫兵衛は肝をつぶし、「一夜検校(急に金持ちになること)と成った!」と、それまでの
紙子の衣服を脱ぎ捨てて、天晴大名のような出で立ちとなった。
孫兵衛はこの時、72歳であった。
惣じて福島正則は、家中の者の跡目の事についても、親は子のために、一命を捨てて主の用に
立ったのだと、跡継ぎが少年であっても子供であっても、親の知行を相違なく継承させたという。

(福島太夫殿御事)



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:01:48.56 ID:3jtaZ7qU
>>634
ほんと、酒さえ飲まなければ

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 14:32:31.02 ID:vSXtVQp5
72歳に千石はさすがにどうなんだw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 15:01:04.96 ID:qAT1fi0C
広く人材を募るなら待遇を良くするのが正道だからね
先ず隗より始めよ、みたいな話じゃね

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:16:25.84 ID:G4VisRUK
その千石で兵士を養うんだから問題ない
戦巧者が育てりゃ強いだろ
千石の価値は出る

ついに富田長繁がピックアップされた小説が

2018年02月14日 18:27

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 23:52:31.83 ID:cTUphLAD
https://booklog.jp/users/kobunsha-bungei/archives/1/4334912087
ついに富田長繁がピックアップされた小説が出るぞ…主人公は射殺した小林吉隆
SnapCrab_No-0359.jpg



539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 11:00:59.59 ID:fxCgwsxT
>>538
タイトルがぴったりじゃねーか! w

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/14(水) 16:18:21.46 ID:G4VisRUK
なかなかマニアックなとこを題材にする作家だな

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 08:13:13.66 ID:Wykk0Was
くるい咲き(直球)

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 20:58:54.90 ID:ZutmD3mi
主君義景公や御三家の景鏡、景健、景恒なんかはどう描かれているのかな?

週間ブログ拍手ランキング【02/08~/14】

2018年02月14日 18:22

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細川幽齋覺書より、兵糧・食料のこと 23

殉死せぬこと 19

御最後の時、さぞかし私の事も 13
伊勢新九郎の伊豆討ち入り 11

細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話 10
細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方 10

天下に名ありし者ども 9
京都四条糸屋の事件 5


今週の1位はこちら!細川幽齋覺書より、兵糧・食料のことです!
細川幽齋覺書は、幽斎自筆の覚書が後世に伝わったもの、とされる書物ですが、淡々と描かれつつ、内容は実に生々しさを
感じますね。ここだと「食べ物の話をするのは恥ずかしい、などという考えは何の役にも立たない」という部分など、近世の
いわゆる「武士道」や、戦国期には既にあったらしい「武士は食わねど高楊枝」的な発想とは真逆の、現実を突きつけられている
気持ちになります。
今週は他にも、
細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話
細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方
と、細川幽齋覺書からのお話がありました。調べてみた所、この本は国立国会図書館デジタルコレクションで読むことが出来ますね
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302/68?tocOpened=1
気になる方は、よかったら原文の方にも、チャレンジしてみましょう!

2位はこちら!殉死せぬことです!
これを読むとどうしても知恵伊豆が頭に浮かんできちゃいますねwまあ松平信綱でなくても、この理路整然さは江戸期の武士かな
と感じます。
しかしかっこいいお話ですが、コメントの中でもそういった物がありましたが、嫌われることを恐れない発言でもありますね。
少なくとも好かれようとは全く考えていない。こう言ったタイプの人が堂々と生きていけるもの、江戸期ならではかな、
なんてことも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!京都四条糸屋の事件です!
信長公記に有る殺人事件のお話。その事件のディテールはわからないのですが、わからないだけに様々な想像が広がります。
小説や漫画をかく方は、この事件で短編を書いてみたらいいのに、なんて思うのです。僕は読みたいですしw
創作をされる方、是非是非!w



今週もたくさんの拍手を各逸話に頂きました。いつも本当に有難うございます!

ところで今日はバレンタインデーらしいですよ!ハッピーバレンタイン!
僕は何とチョコを頂けましたよ!チロルチョコを!
…本当に義理チョコでチロル配る人って居るんだなあと、変な感心をしましたよ。
は、ハッピーバレンタイン!
まあ毒とか入ってなかったからそれはそれでハッピーだったのでしょう。

そんなわけで、また気に入った逸話を見つけましたら、曽於の拍手ボタンを押してやってくださいね!(/・ω・)/クヤシクナンカナイゾ

細川幽齋覺書より、竹束に関連するお話

2018年02月13日 18:04

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/13(火) 11:45:47.06 ID:AnKMBnJ2
一、竹束を設置する時、敵より鉄砲を厳しく撃ってきて負傷者なども出た場合は、竹束を
  2,3も結合わせ、それを取り付けた盾を背負い、後ろ向きになって進み、敵に近づいた所で
  その陰から突き出すようにするのだ。

一、敵城に対して竹束にて仕寄りを作った時、本陣との間が道が悪いなどの理由で遠い場合は、
  城中より夜討ちなど行われることが有る。そういう危険の有る時は、10人でも20人でも、
  松明に火をつけて両手に持ち、本陣の方から竹束の裏まで幾度も往復するのだ。
  こうしておくと夜討ちは無い。これを「松明の心得」と云う。

一、竹束にて仕寄りし、敵の城を取り巻いた時に行う、「城はやし」というものがある。
  これは仕寄りのための井楼の上に二人三人も上がり、拍子木を打って音頭を取り、
  城に向かって「なふなふ明日は首をたもろふ えいえいわっ」と、竹束の裏に居る軍勢が
  一度に声を揃え鬨の声を作り、鉄砲をはたはたと撃ちかける、という物である。
  これを致すのは夜の五時(夜8時ころ)から夜明けにかけてである。
  何度もこれを行うと、城中に居る女子供たち、または籠城の経験の少ない者は殊の外
  騒ぎ慌てるものにて、それにより、20日保つ城も10日も保ちかね落城するものだ。

  また、「言葉戦い」と申す物もある。口の上手いものが井楼に上がり、的に向かって
  「御陣に申したきことがある!」と呼びかける。敵側から「何事にて候」と答えてくるので
  此の方よりこう言う「御籠城御大儀に候。ですが持ちこたえるのは中々成るまじき事故、
  御降参されるように。そうなさらないのなら、どうそ何方なりとも突き破りこちらを攻めに
  出て来られよ。あなた方の御首、はやく申し請けたいものです。  まあどちらにせよ、
  あなた方の御首を申し請けないと言うことにはならないでしょうが。」
  そのように敵の心にかかることを申すのだが、この時、慮外かましき(無礼で不躾な)事を
  言っては敵方からも悪口が返ってくるだけだ。なので敵が心のなかで心配に思っていることだけを
  言うべきなのである。

(細川幽齋覺書)

竹束に関連するお話

細川幽齋覺書より、取った頸の扱い方

2018年02月12日 18:15

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 21:54:07.70 ID:bA4eZOJj
一、合戦において頸を取った時、自身はその場に残り、頸は家臣などに持たせて主君へ遣わすのだ。

一、「頸をとっても捨てて、耳鼻だけ取るように」と大将より下知があった場合、鼻とともに
  唇を削いでおくべきだ。髭が無ければ女・童とまぎれてしまう。しかしながら若年の者は髭が
  無いので、その場合は何かその者の道具を取っておくと良い。

一、母衣武者の頸を取った場合は、その頸を母衣きぬにて包むのだ。通常の武者の場合は指物絹にて
  包むべし。ただし、こういったことも忙しいときには出来ない。そういう隙がないと判断される
  場合には、その討ち取った者の刀脇差しなどを取って、その頸に刺しておくとよい。

一、取った頸の耳に紐を通して持ち運ぶ者を見ることが有るが、それではおおかたちぎれ落ちてしまう。
  紐を口から顎に通して取り付け、これを馬の脇につけて運ぶのがよい。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、取った頸の扱い方について



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/12(月) 00:17:34.05 ID:3ZUmUOeV
庭師の首はどう扱えば良いんだろ?

天下に名ありし者ども

2018年02月11日 16:32

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 03:48:33.01 ID:kn27m74I
天下に名ありし者ども


関ヶ原の戦いの後は、功名がある浪人が多くいるようになった。
池田輝政公は播州へ御入国された後、"天下に功名を顕す者"と聞けば
禄の多少を選ばず、その人相応に召し抱えられていたので
我も我もと浪人が御当家を望んで来るようになった。

浪人の取次は若原右京に仰せ付けられていたので、表向きは若原が
勝手に奉公構の浪人などにも堪忍料を遣わしたことになっているが
実は輝政公の御意向からしたことであるという。

輝政公が御逝去された後、御葬儀の場で大勢の浪人たちが
「今世に希なる名将と別れたことは身の不幸である。最早世に望みなし」
と御霊柩を拝し、御儀式が終わると姫路城下から離散した。
このときの浪人の家が因幡(鳥取池田家)には多くあるが
これは忠継公忠雄公光仲公の御代に改めて召し出されたのである。

浪人を密かに扶持しておいたのは"天下に名ありし者ども"だからだろうと
古老が物語したのを國府内蔵之丞が聞き及んだので、話の由を聞いた。


――『因府夜話』



654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:42:30.03 ID:JSpUq3d3
>>630
忠継と忠雄は岡山時代に召しだして国替えの時にまんま鳥取に
移動したのか長吉(恒興三男で初代鳥取藩主)やその息子と
利隆や光政が召しだしたのが鳥取に土着していて国替えの時に
鳥取藩士として残ったのかそのあたりがよーわからん
少なからず忠継と忠雄が鳥取藩主として召しだしたというのは
まずあり得んのは確かだけどな

京都四条糸屋の事件

2018年02月11日 16:31

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:12:39.08 ID:gbjmgkWA
京都四条糸屋の事件


天正7年(1579年)、京都で前代未聞の事件が起こった。

下京四条小結町の糸屋の後家で、70になろうかという老人がいた。
娘が一緒に住んでいた。

4月24日夜、娘は良い酒を買ってきて、母親が充分だと言うのに、更に無理やり飲ませた。
酔い伏した母親を土蔵に担ぎ入れ、夜更けて人が寝静まってから刺殺した。

自分で死体を箱に入れ厳重に縛った。
家は法華宗であるのに浄土宗の誓願寺の僧侶を呼び、人に分からぬように
死体を寺へ運んだ。

この家には下女が一人いた。
娘は下女に美しい小袖を与え、
この夜のことは絶対に内密にするように言いつけた。

しかし下女は、後で発覚したときの恐ろしさを思い、
村井貞勝の役所へ駆け込み事件を告げた。

村井貞勝はすぐさま娘を逮捕して取り調べた。
4月28日、娘を上京一条の辻から車に乗せて市中を引き廻し、六条河原で処刑した。



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 19:26:01.19 ID:psbhjA/6
京の四条の糸屋の娘、母は七十で娘は十五♪
諸国大名は刀で殺す、糸屋娘は懐剣で殺す♪

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 21:51:51.95 ID:fhHkUYw7
>>531
姥捨て山とかあるし親殺しなんて珍しくなさそうな気がするけど前代未聞なのか。意外と平和…?

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:23:36.38 ID:udfaa2Lf
良家のお嬢様が母親を殺して完全犯罪をもくらんだって十分スキャンダラスな出来事じゃね?
戦国時代でもこんな事件はあるってことが驚き

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 22:56:49.20 ID:wOZAjPNf
なんか見たことある話だと思ったら信長公記だった

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/11(日) 00:02:53.76 ID:6HQtIGdn
このサスペンスみたいな展開、雲仙のお糸地獄を思い出す

http://livedoor.blogimg.jp/fukucyan_jp-part2/imgs/5/b/5b1948ab.jpg
5b1948ab.jpg

細川幽齋覺書より、兵糧・食料のこと

2018年02月10日 10:55

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 08:11:39.97 ID:NnOG2X3L
一、御陣のときは、下々のことは申すに及ばず、自身も一日一夜の兵糧米は腰につけ、馬のはみをも
  携帯しなければならない
一、陣頭において兵糧米のない時は、何で有ってもその時々の草木の実を食うものだ。私も青麦などを
  炙り揉んで喰って合戦し、敵と手を合わせたものだ。桑の実などは、殊の外旨き物であった。
一、旅陣の時は、侍も小物も中間も、小屋の材料、武具の輸送を行っているが、陣頭においては
  野菜の類、また水が必要であり、無くてはならぬものだ。こういったものは小屋の材料や武具に
  結い付けて持っていくのが良く、これを運ぶ者には言葉も懇ろにかけ、少しであっても遣わす物の
  内に、心付けがあるべきだ。
  人によっては、食物に関することを話すのは恥ずかしいことだ、などと言っている者もいるが、
  そういう考えは何の役にも立たないと心得ておくべきである。
一、敵の城を取り巻く時は、それが山城で有っても先ず水の手を専らに見立て、陣を取るのが良い。
  大将から持ち口を仰せ付けられたのなら是非もないが、一夜二夜の事であっても、水の手は肝要である。

(細川幽齋覺書)

細川幽斎の覚書より、戦場における兵糧、食料のことなどについて


御最後の時、さぞかし私の事も

2018年02月09日 21:04

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 08:31:11.41 ID:LuXzig//
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 14:30:50.66 ID:xivEyj3j
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 15:31:24.86 ID:7B7liXrt
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?

殉死せぬこと

2018年02月08日 18:00

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:24:07.71 ID:ja1k65Sr
主人への殉死をしなかったと言って、家中の多くが悪しく言う者があった。
この者、主人の忌日に家中の者惣じて寺へ参詣した所で、彼らに所用があると引き止め、
惣衆集まった時に申し出た

「私について、殉死すべきであると、この座中におられる方々の中にも御沙汰があると
承っております。そのような方々はきっと、私が殉死すべき仔細をご存知なのでしょう。

私自身は、私が殉死しする事が御奉公に成るという理由が見つけられません。
主人によって御取立いただいた者は、必ず殉死すべきであるというだけなのなら、私は全く
納得に及びません。故に、殉死いたしません。

ただし、今ここであっても、その道理をお聞かせ下さるのなら、御奉公のことである以上、
すぐに殉死いたします。」

この言葉に、座中は一言の返答にも及べなかった

彼は重ねて申し上げた
「このように理を尽くして申した所、とかくの仰せも無い様です。である以上、殉死のことは定めて
あなた方による御沙汰では無かったと考えて良いですね?
この上は、今後うしろにて殉死の批判をされる方は、侍の本意にもとる人物であります。
その心を得られたまわれ。」

そういって退出したという。
(士談)


伊勢新九郎の伊豆討ち入り

2018年02月07日 19:38

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 19:03:12.81 ID:p0mpqMFF
その頃、関東は上野を本拠とする山内上杉と、相模を本拠とする扇谷上杉の間が不和となり合戦に及び、
このため山内上杉の勢力下にあった伊豆の侍たちは皆、上野へと馳せ参じた。

この状況を察知した伊勢新九郎は、「願うに幸いである。これ天の与える所時を得たり」と、
自領の百姓どもを招き、この内武の用に立つべき者共を近づけて言った

「相模、上野両国に弓矢起こって、伊豆の侍たちは皆上野に参っており、今や百姓ばかりである。
私は、伊豆の国を切って取る。我に同心合力せよ。
その時はお前たちの忠恩に、必ず報いるであろう。」

百姓たちはこれを聞くと
「累年の御憐れみを忘れることは出来ません。御扶持人(在村給人)も我らも同意します。
我々は地頭殿を、一国の主に成し申さんと願い、たとえ命を捨てるとも微塵も惜しくはありません。
どうぞ、決断し実行されませ。」
そう、衆口一同に返答した。
新九郎はおおいに喜悦し、その上近隣他郷の者までも、この事を聞いて、新九郎殿に与力せんと参集した。

伊豆国北條には、堀越の御所成就院(足利茶々丸)という名高き人があった。
新九郎は「軍のはじめに、先ずこれを討ち滅ぼす!」と、延徳年中の秋、百姓たちを引き連れ夜中に
北條に押し寄せ御所の館を取り巻き鬨の声を上げ家屋へ火をかけ焼きたてた。御所は肝を消し、
防ぎ戦うべき事を忘れ、火炎を逃れ落ち行く所を追撃され、郎従共に皆討亡した。

新九郎が北條に旗を立てると、伊豆国の百姓たちはこれを見て「駿河の大将軍として、伊勢新九郎が
攻めてきた!」と、避難のため山嶺に逃げたが、新九郎はこのような高札を立てた

『伊豆国中の侍・百姓は、皆以って味方すべし。本知行は相違なく保護する。
ただし、もし出てこない場合は、作物を尽く刈り散らし、在家を放火する。』

これを見て百姓たちは我先にと馳せ来て「私はどこそこの百姓」「どこどこの郷の長」などと
申し上げると、彼らの地所相違なしとの印判を取らせ、皆々安堵した。

また、佐藤四郎兵衛という侍が一人、降人と成って新九郎の前に出た。
新九郎は「伊豆国中田方郡大見郷は、佐藤四郎兵衛先祖相伝の地であり、最初に味方したこと
神妙である。今度改めて地頭職を申し付ける。子々孫々永代に渡り、地の妨げは無い。
百姓らもこれを承知すべきで、あえて違失あるべからず。」
と、印判を出した。

上州に参じていた伊豆の侍たちはこのことを聞くと、急ぎ馳せ帰って降人となって出た。新九郎は、
本地皆領納すべき旨の印判を出した。そのため、伊豆の侍は一人残らず新九郎の被官となり、
30日の内に伊豆一国が治まった。

(北條五代記)

伊勢新九郎の伊豆討ち入りについて



624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 10:55:16.87 ID:ygpHBN7f
>>622
上野と伊豆が同心なら相模を挟めるのに上野に出向くとは阿呆の極み

週間ブログ拍手ランキング【02/01~/07】

2018年02月07日 19:37

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正しく、素直でなければ、 13

関八州に鉄砲始まること 12

次左衛門こそが 10

下知につかずば 9
どうして一張の弓をもって 9
北條五代記より、信長、秀吉について 9
長柄刀のこと 8


今週の1位はこちら!正しく、素直でなければ、です!
これは色々と面白い逸話だな、と感じます。本多忠勝自身が、武士に対する評価というものは、基本的に過大になりがちな
ものだと認識しており、だからこそ自己評価は自分をありのままに見ることが大切である、と考えていますが、
これはつまり、世間の評価に自分が飲み込まれてはならない、というような意味合いがあるのでしょう。
世間的に大きくなった虚像の自分を基準にしてしまえば、地に足の着いた働きが出来るとは思えませんからね。
このお話は現在でも、そのまま規範に出来るなあ。なんて思いました。

2位はこちら!関八州に鉄砲始まることです!
鉄砲伝来には諸説ありますね。そもそも、いわゆる『種子島鉄砲」以前、「てっぽう」は火薬を使った兵器全般を指して使われた
言葉だったようです。例の蒙古襲来絵詞の火薬が炸裂している場面(最近の研究では、アレは後世になって書き加えられた
可能性があるらしいですが)、あの火薬兵器のところにも「てつはう」と書かれていますね。
種子島以前にも中国製鉄砲は様々な形で日本に入ってきていたのは確かなようです。ただ、中国製のものは鋳造で、射撃の衝撃で
非常に割れやすいものだったそうです。そのため兵器としての実用性に乏しかったそうで。
一方で錬鉄を巻いて作った種子島鉄砲は、少々のことでは壊れず、なおかつ極端な話、筒に入るなら銃弾以外のものでも
どんどん発射できる一種の万能性があり、これが種子島以降、鉄砲が爆発的に普及した理由なのだとか。
そのあたりのkとも頭に入れつつ、この逸話を読むと、また違った感慨も感じるかな、なんて思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!北條五代記より、信長、秀吉についてです!
北条系の軍記ですから、秀吉に対して恨みつらみを感じるのは、ある意味仕方がないことだと思います。
ただ、信長への評価は面白いですね。ここからは、北条五代記の成立時点では既に、怒りっぽい、感情的な織田信長像というものが
既に成立していた事。にもかかわらず「冷静に戦歴調べたら、信長ってむしろ無理をしない人なんじゃない?」というy
意見があったこと。このあたり、昭和に形成された「革命児信長」像が、昨今の、信長を客観視した研究により訂正されていくことと
非常によく似ているな、なんて感じました。
織田信長への認識には、今も昔も、イメージと実態の相克があったのだなと、つくづくと感じさせてくれるおはなしだと
思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/