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山科本願寺陥落

2018年03月31日 20:16

証如   
644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 21:38:25.49 ID:RkTmXovu
享禄五年八月、改元があり天文となった。
この年、一揆が起こり、細川晴元の衆と本願寺門徒たちとの関係が悪化し、
同年八月四日、晴元衆及び木澤左京亮長政方へ、一揆方より街道にて喧嘩が仕掛けられ
合戦に及ぼうとした。

これによりその日、晴元衆は堺の東、浅香の道場という本願寺門徒の寺とその近郷に放火した。
門徒衆は激怒し、大和、河内、和泉、摂津にて一揆を語らい、一斉に蜂起し、明けて五日には
堺に押し寄せ晴元を攻めた。
しかしこれに木澤長政は「何ほどの事があるか!」と、自身で斬って出て

「狼藉なり雑人ばら!一人も逃すまじ!」

そう防戦し、散々に蹴散らしたため、一揆勢は打ち負け、蜘蛛の子を散らすようにバラバラに
逃げ散った。
直接に戦った相手に打ち勝って、木澤は気分良く帰っていった。
しかしあちらこちらで一揆は蜂起し、晴元は窮地に陥った。

同日、摂津に一揆が起こり池田の城へ攻めかかったが、これを落とすことが出来ず講話して
帰陣した。

このような中、近江の六角定頼は晴元の舅であったので、彼に味方し門徒の本拠である
山科本願寺へ押し寄せ攻めかかった。長原太郎左衛門、進藤山城守、馬渕源左衛門、横山と
いった者たちが先陣にて進み、一方の門徒たちも、諸檀那と共に、命を弥陀の名号にかけ、
ここを先途と防ぎ戦った。

このような時に、常に本願寺門徒と関係の悪かった法華衆廿一箇寺、並びに諸檀那が合同で
決起し、本圀寺、本能寺、妙願寺以下残らず軍勢を催し寄せ手に加わり、山科本願寺へ
新手を入れ替え入れ替え切り込んだ。

こうして、同八月二十四日、山科本願寺は遂に陥落し、一宇も残らず焼き払われた。
この寺は久しく門徒の渇仰していた場所であったから、財宝も山のごとく満々とあったが、
富貴の下に久しく居ることは出来ず、いまや一時の煙と成って燃え上がった。
そして寺に有った僧尼も尽く討たれた、真に無残な事どもであった。

上人(本願寺証如)は命からがら落ち延びた。
(足利季世記)

山科本願寺陥落について


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天下が破れるということは、すべて

2018年03月31日 20:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 05:15:28.72 ID:T7g+hrGD
さて、阿波国よりの御上洛を年々御願望であったが、澄元(細川澄元)は御他界なさった。三好父子も
他界なさり月日を送っていた折、京の高国(細川高国)は42歳の御時、大永5年(1525)乙酉4月

に御出家なさって法名は道永と申し、御家督を御子の六郎殿(細川稙国)に御譲りになった。そんな喜ば
しいという時に、六郎殿は御歓楽で御他界された。

「御曹司のことは道理の善し悪しでは考えられない。道永の御運の末ぞ」と人々が申した中、高国は
御家来の香西四郎左衛門(元盛)に敵心ありとして、大永6年丙戊7月13日に香西を屋形に召され、

是非なく生害させなさった。香西の兄・波多野(稙通。秀治の祖父)と同じく弟の柳本(賢治)は遺恨に
思い、阿波国(細川晴元方)と申し合わせて大兵乱を起こした。さて、香西四郎左衛門が生害させられた

由来はどういうことか尋ねると、典厩尹賢(細川尹賢)と香西四郎左衛門は仲が悪く、尹賢は連々と讒言
を申されて香西を亡き者にしようと企てていた。そんな時に香西の家来の物書・矢野宗好という者がいた。

香西は文盲の方で、常に半紙を10枚から20枚宗好に渡して置いて書札を調えていたのだが、折しも
宗好は公事ではないことを取沙汰し仕ったため面目を失い、牢人となった。宗好は諸々の詫言を申したが、

香西はしばらく懲らしめるためにそのままにしていた。その時、尹賢は宗好を頼んで「内々に過分の知行
を遣わすぞ」などと約束して、かの半紙少々の残りを使い、澄元やその他方々へ謀反を企てた作状を調え、

密かに高国へ御目にかけられた。高国は「香西四郎左衛門はそのような者ではあるまい」と不審に思し
召したが、判形がはっきりしている以上は生害させなさると内談された。とはいえども、なおも不審に
思し召したので、直に御尋ねになるとして小姓2人に仰せ付けられ、

「『直に御不審を御尋ねしたきことがあるので、道具(武具)を持ち出して御前へ罷り出てください』
と申して、道具を持ち出したならば召し連れて参るように。もしも香西が何かと申して、道具を持ち
出さなければ、生害させよ」

と命じなさった。両人が仰せの通りに香西に申し聞かせると、香西は是非に及ばず番所で道具を持ち出し、
御使者両人とともに参った。その後、座敷と通路の間で、尹賢が「(高国が)遅いと仰せられておる!」

と申された。これに両人が「すでにこちらへ召し連れて参りました」と申すと、尹賢は両人の耳元に寄り、
「生害が遅いと仰せられておるのだ!」と切り切り申された。

高国は両人に直に御尋ねになると仰せ付けられたので不審に思いながらも、いずれも若い方だったので、
わけもわからずに香西を討ち申されたのであった。尹賢の内存は、このように直に御尋ねになられては
自分の讒言が表れてしまうため、座敷と通路の間に待機して切り切り申されたのである。

高国の御内存は「道具を持ち出さなかったから生害させたのだな」と思し召して、是非に及ばれずに
手前を打ち過ぎたのであった。連々と尹賢が仕られるように御耳に入れたとはいえ、すでに生害した
以上はどうしようもないことである。

天下が破れるということは、すべて人々の讒言によって起こるのである。香西もかの半紙を宗好の方に
残しているとは思いも寄らず、かつこのようなことも文盲故であると世間に聞こえたのである。

――『細川両家記』


足利義明と止められなかった逸見忠次、里見義堯

2018年03月30日 18:04

634 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/29(木) 18:38:44.55 ID:Stb2uth1
1538年、10月。現在の千葉県松戸市にあたる地で、江戸川を挟み対峙する二つの軍勢があった。
片方の軍を率いるのは鎌倉を制して勢いに乗る北条氏綱
もう片方の軍を率いるのは武田氏・里見氏を従属させ力を増しつつあった小弓公方足利義明であった。
世に言う第一次国府台合戦である。

里見や正木、酒井、土岐といった房総の諸将を従えたとは言え足利軍の総力は一万程度。
一方の北条率いる軍勢はは二万とその差は大きかった。
数の上での不利を補うべく、義明に従う里見義堯が進言した。

「敵の数は多けれど、太日川(江戸川)は流れも早いので渡河は困難。先手が川を渡りきる前に矢衾を作り、続く敵を討てば勝機も見えますぞ」

ところがこれを聞いた足利義明は大笑いした。

「儂は小弓公方義明ぞ。北条の雑兵共が儂に弓など向けられるものか。
 北条軍が川を渡り終えたところで氏綱の首級を取ってみせるわ」

自らの武勇と威光に自信満々の義明と対照的に、慌てたのは義明の重臣、逸見忠次たち。

「公方様、いけませぬ。敵はおよそ我らの倍、地の利を活かさねば活路はございません」

しかし義明はこれを聞き入れない。忠次の必死の説得も空しく、結局房総連合軍は北条の渡河を待ってから攻撃をかけることとなった。
すると里見義堯が再び進言した。

「公方様、敵はその数に物を言わせ市川方面から別動隊を繰り出す可能性がございます。
 公方様が敵の主力を叩く間、某が邪魔者を追い払って参りましょうぞ」

これに対し義明、

「頼もしい限りよ!」

と義堯を前線から外してしまい、義明率いる軍勢は更に少なくなってしまった。

やがて北条勢が次々に江戸川を渡ってきた。しかし足利軍は動かない。
とうとう渡河が終わったところで、ようやく両軍は激突した。
義明はその自信に違わぬ武勇で敵兵を蹴散らすものの、所詮は多勢に無勢。
次第に押され始めた義明軍は、義明の嫡男義純までもが討たれた。

「おのれ、北条め!」

激怒し刀を振るう義明に対し

「公方様、ここはお退き下さい!某殿となり、公方様の御命をお守りいたす!」

義明に懸命に訴える忠次だが、またしても義明は聞き入れない。

「かくなる上は氏綱と刺し違えてくれるわ!」

義明は北条軍へ突撃し、呆気なく射殺されてしまった。
それを見た忠次、自軍の将兵達に大音声で呼ばわった。

「者共は義純様(義明次男)を守り、義堯殿を頼って安房へ落ちのびよ!」

殿となった忠次は奮戦するものの、山中修理亮に討たれ義明の後を追うこととなった。
一方北条の挟撃に備えると称して戦場から離れていた里見義堯は、義明戦死の報を聞くとすぐさま本拠地の安房へと引き返す。
そして軍勢を整え、味方のはずの旧小弓公方領を火事場泥棒的に次々と攻略し、小弓公方に代わる勢力となったのは皆様ご存知の通り。

足利義明の暴走を止められなかった(止めなかった?)逸見忠次里見義堯、二人の対照的なお話(『房總里見軍記』より)。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 19:19:32.36 ID:YqWh7fXG
義堯にしてみれば、我が儘な義明にうんざりしてたんじゃないかな
義明方に誘ってきた真里谷武田との仲も芳しくなくなっていたし、国府台での義明戦死はもっけの幸いだったろうね
事実、義明を助けるそぶりすら見せないで退いたし

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:32:21.21 ID:1MeYh122
そもそも義堯が懇意だった北条と手を切る原因になったのが義明の真理谷家(武田家)への介入だからね
目の上の瘤な上に無茶をする義明には遅かれ早かれ見切りをつけるつもりだったのかも知れん
で、思いの外簡単に上総に進出できたから北条と戦い続けることにした、と

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:36:11.78 ID:irORd9HY
>>635
小笠原長時をさらに弱くした感じ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 01:12:21.44 ID:Z/Xh5N+q
小田氏治「忠臣の進言無視は敗北フラグだぞ」

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 14:25:56.13 ID:r8DQgxnY
譜代の逸見君と違って足利家臣でもない足利の旗に集まった地方領主の里見君を比較しちゃだめだよ
見限って退却するのは当然の判断、それに倣ったのが真田昌幸な

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 15:07:43.43 ID:D15gAl9j
逸見も姓からして元真理谷武田家臣じゃないの?
と言うか小弓公方に譜代家臣なんかロクにいないんじゃ…

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:00:08.19 ID:xOGpPgXm
>>640
逸見は甲斐武田か真里谷の一族とされてる
ただ古河から移ってきた家臣もいたはず

642 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/30(金) 19:10:02.92 ID:UvmHsxPi
逸見と書いてへんみと読むらしいな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:39:50.61 ID:DJSp8WgA
>>637
小笠原長時は戦いに冠しては評価がわりと高い
人心掌握がへた

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 01:17:23.11 ID:baFuhFEn
>>642
読みでいつみの方が認知度高いのは故政孝の関係だな
若狭にもいた同族のおかげで戦国時代はへんみでいける

今をさかりの みよしのの花

2018年03月29日 20:45

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 05:12:19.77 ID:fjPerZTv
(細川澄之討伐後)

さて、京都は静謐の様子となり、澄元(細川澄元)も近江より上洛された。京都の成敗は
万事につけて三好(之長)が務めた。そのため次のような落書が作られた。

「はけしかりし 嵐の風は 音たへて 今をさかりの みよしのの花」

(吉野山に咲き誇る花の如く、三好の権勢は絶大なものとなった。今や之長に刃向かう者
など、誰一人として存在しないのである)

――『瓦林正頼記』


晴元は、浅謀である

2018年03月29日 16:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 14:47:11.06 ID:578kb+n9
大物崩れによる細川高国滅亡により、京兆家の家督は細川晴元に一統し、もはや混乱はないと
諸人喜びの思いでいたが、天魔の所業であろうか、晴元の出頭衆である可竹斎(三好宗三)、
三好神五郎、木澤左京亮(長政)と、三好筑前守元長との間が不快となり、出頭衆は
晴元に元長のことを様々に讒言したが、細川讃岐守殿(持隆)は、三好を無二の忠臣であると
考えており、晴元へ色々と仰せわけられ、御勘気を許されていた。

このような中、木沢長政は晴元に属し、旧主である畠山総州(義堯)に背き、事々に
無礼の事多かったため、畠山義堯は無念に思い、木澤の居城である飯盛を攻めた。
これに三好元長も、三好遠江守を派遣し合力した。

木澤は追い詰められ、腹を切ろうとしたが、晴元に注進が届き、晴元は三好宗三などと評定して、
この年の八月二十日、飯盛山救援のために軍勢を摂津国中島三宝寺まで進めた。
そして即座に畠山衆を攻め、畠山勢は攻め破られ散々となり、三好遠江守の軍勢も百人ばかり
討たれた。

しかし、この畠山義堯細川晴元の姉聟であり、三好は数代忠功の旧臣なのだ。
このような人々から、新参の出頭人である木澤に思い替えた晴元の心のほどは、浅謀であると
言えるだろう。

(足利季世記)


九里信隆謀殺

2018年03月28日 21:43

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 22:41:02.59 ID:6zrOuqmt
その頃、近江の国衆に久里備前守、山中新左衛門という人があった。彼らは三好と一味し、
ややもすれば公方足利義稙を保護していた、近江守護である六角氏の下知にも背いた。

しかし山中新左衛門は討ち死にをしたのだが、久里備前守は猶残り、しかもその勢力は大きく、
六角家にとって邪魔な存在ではあったが、自分たちに被害なく滅ぼす方法は見つからず、
六角高頼も、どうにも出来ないと彼に手を出すことをためらっていた。

しかしこの度、六角家を継いだ六角定頼は船岡山の戦いで抜群の大忠があり、従四位下に
補せられた。この期に久里を誅すべきと、密かに公方へ申し上げ、加勢の約束を得た。

さて、ある日突然、六角定頼は「伊勢へ参拝する。久里も供をせよ!」と、近臣である
種村三河守、狛修理亮、田中、二階堂といった者たちを供に、久里の館に入った。

久里は驚いたものの、様々に彼らをもてなし、数献の酒のうちに、御供衆も定頼も
沈酔し、定頼は久里の膝を枕にして空寝入りをした。

その時、多賀豊後守、吉田、永原といった者たちが、公方よりの御加勢二千騎を率いて
久里の館を取り巻き鬨の声を上げた。
これに定頼は驚いた風情にて「こはいかに!?」と飛び起き、即座に太刀を取って久里を討ち取った。

こうして六角は年来の本意を達し、近江の国衆はようやく定頼に従った。

(足利季世記)



735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 02:00:08.46 ID:Pp4K4QKT
これはいい話だすげー

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 10:07:45.07 ID:E9PDWkxa
嘘臭い
謀殺するならまず阿呆の演技が必要だろ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 03:09:26.49 ID:83nH2xdI
これは正にポルナレフAAな出来事だな

週間ブログ拍手ランキング【03/22~/28】

2018年03月28日 21:42

03/22~/28のブログ拍手ランキングです!


よく人を見立ててから 15

三好之長切腹 12

河内帰還 11
後陣も雲霞のごとく 10

私は元々出家ですので、刀を 8
薬師寺元一の乱 8

わか世のはての 近きうれしさ 6
およそ目を驚かせるその風情は 5
平瀬落城 3


今週の1位はこちら!よく人を見立ててからです!
森忠政による、所領を与える際の心構えについてのお話です。同じ石高でも、切米(サラリー】のほうがコストが高い、
というのはちょっと面白いお話だとおもいました。
そういえば、江戸期、武士はどんどん所領制度から切米に変わっていくのですが、それでも所領を持っている方が、
たとえその維持のためにコストが掛かっていても、より誇りあるものだったようです。
そのあたり、「一所懸命」の精神が残っていたということなのでしょうね。
あと、ここで言われる、実際に所領を与えるか否かというのは、現在で言うと役職を与えるかどうか、ということなのかなと
ちょっと感じました。

2位はこちら!三好之長切腹です!
三好という名は、機内では応仁の乱のあたりから見え始めるのですが、そこから見えてくる姿は、
機内周辺の荒くれ者を組織した、かなり凶悪な集団の頭目であり、もうはっきりと「反社会的勢力」の趣があります。
三好之長もそういった人であって、強くてももう、はっきり嫌われている観があり、彼の滅亡はかなり歓迎されていた
フシがあります。
それでも三好勢力が機内で生き残りつづけ、やがて三好長慶という「プレ天下人」を生み出すまでに至るのは、
当時の機内における三好的な存在の「社会的需要」の高さを感じてしまいます。
そんなことを考えた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!薬師寺元一の乱です!
ここで注目したいのはやはり、細川政元の

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。


この部分でしょうねw
すでに空中浮遊の魔法を使える段階にまで至っていた半将軍!しかもどんどんわけわからないことを言っている。
そんな危険な存在は早く滅ぼさないととんでもないことに成る、と周りの人達が考えたとして、一体誰がそれを
批判できるでしょうか?w
創作などではよく、本能寺は信長の権力の暴動を止めようとして云々、なんて話がありますが、細川政元の場合は
まさにそれで、何でもっと政元に世間は注目しないのかと、謎の義憤すら感じます。
魔法半将軍の創作、もっと出ていいのですよ!w



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

私は元々出家ですので、刀を

2018年03月27日 20:13

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:20:53.03 ID:0L5g/Ngu
江州両佐々木と申すは、六角は惣領であり、近江国人は彼の下知に従った。
京極は庶流であったが、佐々木道誉判官が足利尊氏への忠功莫大であったため、
公方より寵愛され、現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より、京極は細川勝元と一味し、六角は山名宗全に一味して、互いに敵となった。
応仁の乱で山名方が敗北した後も、六角一人京に従わなかったため、公方の御動座(遠征)も
度々行われた。

ではあったが、永正の乱の後は、公方からも細川高国からも頻りに六角高頼を頼るようになり、
六角は足利義稙の味方と成った。
六角高頼は既に老人であり、一男亀樹丸に家を譲った。亀樹丸は後に氏綱と名乗った。

しかし彼は片足短く、立居も不自由であり、現在のような大事の時には立て難いとされ、
次男が吉侍者といい、禅僧として相国寺にあったのだが、彼には武勇の器量があるとの事で、
重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中四郎兵衛尉らが相談して公方に申し上げ、
還俗して高頼の名代として公方に預けられ、定頼と号した。
公方はこれを喜び、佐々木弾正少弼に任じた。

六角定頼は木刀を腰に挿して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」
と尋ねると
「私は元々出家ですので、刀を持っていないのです」
そう申し上げた。

公方はこれに笑いだし、国行の太刀を与えたという。
(足利季世記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:32:17.36 ID:8tO6Yj5w
>>731
まるで無能のような印象の氏綱だけど、実際には10年ほど父の名代あるいは当主として積極的に活動していたみたいだね

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:36:42.67 ID:cVbL3AHp
毛利隆元に通じるものがある

わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


およそ目を驚かせるその風情は

2018年03月25日 15:29

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:51:56.60 ID:Ckif7DNX
近頃のことであろうか、摂津下郡の内に1人の大名(瓦林正頼)がいた。

当国の太守・細川右京大夫高国にとっては外戚なので、無縁ではないとはいえ代々忠節
を尽くした家臣である。およそこの頃は当国に限らず諸国は乱れて攻め合ったので、

かの戦国の七雄の昔と変わらず、ただ朝夕寄せつ寄せられつ攻め戦う、闘諍堅固の時節
となったのは哀しきことである。

(中略)

その後(船岡山合戦後)、色々の調停などもあって播磨と京は和睦になったとはいえど、
心の底では油断無き状態であり、その他に四国も大概は(高国方の)御敵となった。

摂津にしかるべき城が無くては叶わないと、国守(細川高国)は上郡芥川の北に当たる
場所に相応しい大山があったので、ここに城郭(芥川山城)を構えなさった。昼夜朝暮、
5百人から3百人の人夫が普請を続け、少しも止む時がなかった。

正頼もまた鷹尾城を構え、またその東に1里隔てて西宮より8町北に小清水という小山
があったものを家城に拵えて(越水城)、日夜ただこの営みばかりを行った。

毎日50人から百人で堀を掘って壁を塗り、土塁や櫓を設けたので鍛冶・番匠・壁塗・
大鋸引はまったく暇こそ無かった。これに加えて正頼は透間に連歌を興行し、月次連歌

も行われた。夜々には古文を学んで道を尋ねたので、実に文武二道を嗜む人であった。
ことに連歌は長所で、近頃の宗祇法師が撰んだ『新選菟玖波集』の作者にも入った。

かの鷹尾城には与力の鈴木与次郎を城掛として、その他しかるべき士卒がこの城を守り、
小清水の戴く本城には軒を並べ作って広げ、正頼の普段の居所とした。

外城には子息の六郎四郎春綱を初めとして、同名・与力・被官が棟を並べて居住した。
その他の住居に余る家人たちは大概が西宮に居住した。

およそ目を驚かせるその風情は、当国には並び少なき大名であった。

――『瓦林正頼記』

両細川の乱で一貫して高国に属し、勇戦を繰り返して栄華を誇った瓦林正頼だったが、
1520年、高国に謀反を疑われて自害させられたという。


薬師寺元一の乱

2018年03月24日 21:13

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 20:47:41.65 ID:bBDupAtw
京の管領である細川右京太夫政元は、40歳の頃まで女人禁制にて、魔法飯綱の法、
愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如く、ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、
見る人身の毛もよだつものであった。

このようであったので、御家相続の子もなく、御内外様の面々より、色々と諌め申し上げた。
その頃、公方足利義澄の母は柳原大納言隆光卿の娘であり、今の九条摂政太政大臣政基の
北の方と姉妹で、九条殿の子と義澄は従兄弟であったので、公家も武家も九条殿の子を
尊崇していた。
そこで九条政基の末の子を政元の養子とし、元服の際、公方様によって加冠され、一字を与えられて
細川源九郎澄之と名乗った。彼はやんごとなき公達であったので、諸大名から公家衆まで、
皆彼に従い、これにて細川家はさらに繁栄すると見えた。そして細川家の所領である
丹波国に参られ彼の国に入部した。

一方で、細川の被官であり摂津守護代であった薬師寺与一元一という人があった。
その弟は与二(長忠)といい、兄弟ともに無双の勇者であった。淀城に居住して数度の手柄を
表した。彼は一文字不通(文字の読み書きができない)の愚人であったが、天性正直にて
理非のはっきりした人物であったので、細川家の人々は皆、彼を尊敬していた。

また過去に政元が病気を患ったとき、細川家の人々は評定して阿波国守護細川之勝(義春)の
子息が器量の人体であったため、これを政元の養子と定め、この事は薬師寺を通して契約された。
彼も公方より一字を頂き、細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

この様では何とも良くないと、薬師寺与一は赤澤宗益(朝経)と相談し、六郎澄元を取り立て
家督を相続させ、政元は隠居せしめんとした。これにより謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に
立てこもり、赤澤は二百余騎にて伏見竹田口へ攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、与一の弟である薬師寺与二は兄に同意せず、彼が大将となって
淀城を攻めた、与二が案内者であったので、淀城は不日に攻め落とされ、与一は自害も出来ず
生け捕りにされ、京へと輸送された。

かねて薬師寺与一は、一元寺という寺を船橋に建てたのだが、与二は其の寺において、兄与一を
切腹させた。与二には今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り、摂津守護代に補任された。
かつて源義朝が、父である為義を討って任官したが、それすらこれには勝らないと、批判する
人もあった。また赤澤は様々に陳謝したため一命を助けられた。

(足利季世記)

主君が魔法使いな事を不安に思って挙兵した、薬師寺元一の乱について



625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/25(日) 22:01:23.60 ID:IKpyqQxE
>>623
>この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
> 後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:42:43.20 ID:WS7TdV3k
>>623
なお、童貞のことを魔法使いと呼ぶようになったのはこの故事に由来する
(民明書房刊「戦国魔法使い大全」より)

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:10:33.93 ID:uQ7lCX9E
民明書房版ウィキペディア
の「魔法使い」の関連項目には細川政元がすでに入ってるのだった

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:23:53.40 ID:4d9A1EEK
でも男はやってたわけやん?
童貞というんか?

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 08:11:22.19 ID:6zrOuqmt
男色はノーカンであると弘法大師も言っている

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 16:04:08.23 ID:p77ZQlKn
管領という要職にありながら宗教にはまって妻帯せず
複数養子をとったせいで後継者争いは血で血を洗う始末
家臣もしょっちゅう謀反を起こすし
ほんとひどい奴だよな

上杉謙信

後陣も雲霞のごとく

2018年03月24日 21:13

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 01:52:20.88 ID:W5c89APP
後陣も雲霞のごとく


(明智光秀が謀反した後)秀吉は姫路から出陣してきたので
信輝(池田恒興)は兵庫で秀吉を出迎えた。
先公(信長)の不慮の傷害に互いに涙をこらえられずにいたが
力を合わせて光秀を討つことを決め、秀吉と昵懇の間柄となるために
秀次を信輝の婿にし、次男の輝政は秀吉の養子にすることを約束した。

秀吉が尼崎へ着陣すると、池田父子、中川(清秀)、高山(右近)、
惟住(丹羽長秀)らで軍評議があった。信輝は秀吉と共に剃髪し勝入と号し
「さて一番合戦は勝入仕るべし」
と言うのを秀吉が聞いて
「先公がいらっしゃらずとも、先公の御法に任せられよ」
と言ったので、勝入はそれに従い"どのようにでも"と申された。
そういう訳で高山と中川が一番を争い、同士討ちのようになったところで
秀吉が仲裁をして、高山が一番合戦、中川が二番合戦となった。

天神馬場まで軍勢を押し詰めて、すぐ合戦しようという話にもなったが
御弔合戦ということで信孝を待つことになった。翌日、信孝の手勢が
見えたので秀吉と池田で出迎え、互いに涙を流した。

段々軍勢を山崎表へ押し出し、中筋正面は高山、堀久太郎。
南の方の川端は池田勝入父子。天王山の手は堀尾茂助、木下小一郎(秀長)、
同勘解由、黒田官兵衛、神子田半左衛門(正治)、前野新右衛門(長康)。
それより後陣も雲霞のごとく連なった。


――『池田氏家譜集成』


河内帰還

2018年03月23日 16:50

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 21:19:31.86 ID:Go8PNewW
明応の政変によって畠山尾州(政長)が自害し、その嫡子である尚慶(尚順)は大和の奥郡に隠れた。

畠山家の侍である木澤という者、尾州生害の後、いかにもして主の本意を達し、尚順をもう一度、
その本拠である河内へ返さねばと、骨髄に徹して思っていた。

その志が天に通じたのだろうか、彼は和泉の堺は落ち行き、商人として日を送っていたが、
ある時大雪が降った。彼は「名屋」という商人の邸宅の門の前を通っていたが、夜も相当に更け、
体の前にも後ろにも雪がついていたので、名屋の小門の板(看板?)にてたたき落とした所、
内より戸が開き、何者かが彼の袖を引いた。

木澤は怪しいと思ったが、無言のままこれに引かれて奥に入ると、屏風の中に引き入れられた後、
女房二人が火を灯し持ってきて、この木澤を見た途端、驚き呆れた表情になった。
これは、名屋という商人が高麗へ商売に渡っている留守の間、夜な夜な他の男が名屋の
妻の元に通う、いわゆる忍男があり、その忍男が門を叩いたと思って、間違って木澤を
引き入れてしまったのだ。

木澤はこの有様を見てそれを悟り、言った
「私はこの屋の主と知人である。彼が高麗より帰れば、この事を伝える。」

これに主の妻は手を合わせて詫び嘆き、金銀を持ってきていろいろと宥めてきたが、
彼は金銀を取らず、床にあった笛を密かに取って帰っていった。

程なくして名屋が高麗より帰国することが先立って知らされた。そのため邸宅の中を掃除した所、
名屋秘蔵の笛が見つからず、妻も不思議に思いかれこれ尋ねた所、有る女房が
「いつぞやの夜の男が、笛を懐中に入れたのではないでしょうか?」
と申し上げたため、かの男を詳しく尋ねると、やはり木澤のもとに笛があった。

木澤は尋ねてきた相手にこう申した
「私は必ずあの夜のことを名屋に申す。笛はその証拠とする。」

名屋の妻の父である紅屋という者がこれを知らされ、木澤の元に行き、訴えた
「どうか我が娘の命を助けてほしい。笛を返してほしい。」
そう嘆いて申した所

「ならば、我が望む所を達してくれるなら笛を返そう。」

紅屋は誓った
「どのような事でも、決して背きません。」

「では言おう。私は故畠山尾州守の家人である。主の本意を達すること計る心を、今も持っている。
現在、河内の平野には桃井兵庫が有るが、これを討とうと考えている。しかしその時、兵糧が
なくては叶わない。我々が挙兵するとき、必ずそれを頼む。」
そう伝えて、笛を紅屋に返した。

その後、杉原、斉藤、丹下、貴志、宮崎、安見、木澤、そして遊佐河内守をはじめとした
畠山尾州家の牢人たちを紅屋の元に集めた。
そして地の利を詳しく知っている彼らは、平野に夜討ちをして桃井、一色といった者たちを
討ち取り、畠山尚順は本意を達し河内へ帰還した。
そして河内の高屋は安閑天皇の墳墓であったが、要害が良いためここに城を築いた。
(足利季世記)



719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 23:38:13.64 ID:R6aFemdC
全くいい話に見えないな

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 02:28:05.90 ID:aZ7j2nv1
明応の政変って戦国時代か?

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 07:04:51.85 ID:qpZjEP8O
享徳の乱以後は戦国時代でおk

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 07:42:36.08 ID:s940ZZCm
古い話も新鮮でよいけどな

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 18:13:24.89 ID:E6lAAeej
主家復活のため手段を選ばない男が人の浮気をネタに恐喝して得た資金で目的を達成ってどっちかって言えばいい話に読めるけどな

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 19:49:43.26 ID:Uvw5N+xj
まあ武略の類いでいいんじゃないかなあ
木澤って長政のじいさんとかなのかね

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/24(土) 21:10:18.02 ID:VcxbanMs
主の本意を達成させた普通にいい話だよなあ
脅したっていっても別に悪意を持って陥れたって訳でもないし
嫁さんとその父親が身銭を切らされるのは自業自得

平瀬落城

2018年03月23日 16:48

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 00:27:11.74 ID:JOeEPDaN
長時公(小笠原長時)が林城を御退きになられてのち、晴信公(武田信玄)は林城を破却して深志の万西に
居城を取立て普請なさり、馬場民部少(信春)を城代にして御置きになった。長時公は領地を御支配されず

といえど、犬甘と平瀬が城に籠っていた。そのようなところに馬場民部は犬甘・平瀬へ計略を入れ、互いに
融和があった。しかしながら、いまだ仲裁も済まぬうちに、長時公の御本意を遂げなさるため、村上(義清)
が深志へ御発向との由が申し来たため、犬甘と平瀬は勢い強く、ますます甲斐には従い申さなかった。

同年(1549)11月初めに、村上の軍勢が会田に陣取り申したとの由が深志へ申し来たので、馬場民部
とその他の者ら深志にいた晴信の軍勢たち20騎余りが、11月初めのまだ夜の暗いうちに、刈谷原崎まで
物見に出て行った。ところが村上衆は1人も参らなかったので、物見の人々は帰ることにした。

一方、犬甘大炊助は自城に軍勢を置いて、手廻り10騎ほどで自身は“あかきり栗毛”と申す名馬に乗り、
長時公御迎えのために出て行った。岡田町という宿に到着した一行は、帰るところだった馬場民部ら

20余騎を見かけると、村上衆だと見て犬甘の方から使者を遣した。使者は申して「こちらに御越しの者は
村上衆と御見受けします。長時公の本意のために、ここまでかたじけなく存じております。深志へ先駆けを
仕るべく、犬甘がここまで参りました」と述べた。

馬場民部は「犬甘が罷り出たので謀って討ち申そう」と談合致し、犬甘への返答に、「長時の本意のため、
村上はここまで罷り出ました。深志への先駆けになられたいとの由、もっともなことです」と返事仕り、

犬甘を調子よく騙し含め申すと、犬甘は見切りも早々に退き申した。その後、深志よりの人々が出合い、
犬甘に切り掛かり申したため、犬甘は犬甘城に移ることができずに同城を右に見つつ、

青島と申すところで掛け馬をも乗り放し、ただ1人になって西牧まで退き、二木豊後(重高)のところへ
参られた。豊後は犬甘をうまく隠し置き、後に西牧殿と相談致して飛騨を通り、美濃のかくちょうへ

犬甘大炊助を送り申された。犬甘城は馬場民部少輔が大将となって、甲州衆と信州降参衆が一つになって
攻め落とし、それより平瀬城をも攻め落とし申した。平瀬城で討死致した人は多かった。長時公の御味方
は強く抵抗致したのでこのようになったのである。

――『二木寿斎記(二木家記)』


よく人を見立ててから

2018年03月22日 18:39

森忠政   
717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 14:38:32.21 ID:Ml9sJDFQ
よく人を見立ててから


あるとき、森忠政君に近習の者が
「中小姓の扶持方に切米で勘定するのは、百石の物成より多くなりますから
 (中小姓に)所付*されて下さい」
と申し上げれば、(忠政は)
「折紙は本阿弥の札のごとく大切な物である。切米を貰っている者が
 他の国へ行っても大したことにはならないが、所付は他国でその者が
 放言すれば『あんな馬鹿者に知行を取らせたのか』と俺が笑われることに
 なるのだから、よく人を見立ててから所付はするものだ」
と仰せられたという。


――『森家先代実録』

* 具体的に知行所(領地)を付けること。


三好之長切腹

2018年03月21日 11:58

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/21(水) 04:18:50.68 ID:MTdHNTUu
さて、同年(1520)2月27日に難波より三好筑前守之長が京へ上りなさり、都での威勢は
申しようもなかった。同3月16日、神咒寺より澄元(細川澄元)は伊丹城へ御入りになった。

「この分ならば千年万年」と諸人は思い申していたところに、また高国(細川高国)が近江国の
両佐々木殿(六角定頼・京極高清)を御頼みになって同5月3日に京東山白川表へ上りなさった。

この由を三好筑前守之長は聞きなさり、二条・三条・四条・高倉表へ陣取って心は猛く、樊カイ
の勇みをなされたが、敵は猛勢3万余騎、味方は5千に満たなかった。殊に頼みの香川・安富・

久米・川村は高国へ降参致したので、三好之長は叶わないと5月5日に賀茂の祭りを見捨てつつ
方々へ落ち行きなさった。そうして三好之長父子3人は曇華院殿へ忍び申されたのである。

澄元(細川澄元)は摂津伊丹城で御歓楽されていたが、京の合戦のことを聞こし召し、他を差し
置いて同7日早朝より生瀬口へ落ち行きなさったところ、瓦林対馬守(正頼)は堺津にいたが、

早くも船を拵えて渡海し、逃げなさる御跡を追っ掛けて雑兵以下2百人ほどを討ち取った。しかし
ながら澄元は支障なく播磨へ御退きになった。瓦林方より数々の首が京へ上げられ高国の御感あり。

さて三好之長父子3人は運が尽きてしまったのだろう、その夜の内にどこへも落ち行きなさらず
曇華院殿に忍びなさることは隠れなく、この寺を二重三重に取り巻かれたため、之長父子3人は

腹を切らんとなされたが、「今一度命を長らえねば」と思いなさり、高国へ御詫言を申されて、
誠に儚きことだが降参に参られた。子息・芥川次郎(長光)と同じく弟の孫四郎(三好長則)が

まず寺を出て同10日に高国へ御対面なさり、上京安達の宿所へ入りなさる。同11日に高国は
之長と三好新四郎(新五郎)も御許しになるとして、両人は曇華院殿を出なさった。

しかし、淡路彦四郎殿(細川彦四郎。父は淡路守護の細川尚春で前年5月11日に之長によって
殺害された)が「まぎれもない親の仇だから」と申し乞いなさり、之長は上京の百万遍(知恩寺)

で腹を切りなさった。三好新四郎がその介錯をして、御自身も腹を切った。淡路守殿(尚春)の
迎えり月(一周忌?)にこのようになったため、「ただ人間の因果が巡るのは早きものかな」と

人々は申したのである。同じく子息の次郎と孫四郎のことも、彦四郎殿より高国へ色々と申され、
「降参人を殺すのはいかがなものか」と高国は思し召されたが「それならば生害させなされよ」

と御返事があったので、彦四郎殿の御家来衆はかの兄弟の宿所へ同12日に押し寄せて「御親父
の之長は昨日百万遍で腹を切りなさった! 方々も只今腹を切りなされ!」と申したところ、

兄弟は親のことを聞いて涙を流して、「同じ腹を切るならば一緒に死んだというのに」と嘆き、
ややあって申して「人々よ、しばらく御待ちくだされ。国へ文を送りたいのです」として硯を
乞うと、2人は思い思いに書き留めてある人の方へ渡された。

その有様は、古の早離・即離兄弟が海岸波濤にいた時(南伝大蔵経の説話)もこうだったのかと
思い出されて、一段と哀しみも大きなものであった。そうしてまずは孫四郎が腹を切りなさり、

次郎が介錯をなさった。その後に御自身も腹を切られ、次郎が「侍はお互い様、誰でも介錯なさ
ってくだされ」と申されると、しばらくして槍長刀でその首を取った。

見た人が皆々涙した出来事や、かりそめながら人が死んだ出来事はこれまで七千余(大蔵経)に
記されている。もしこれを御覧なさった人は念仏の一遍も御唱えして供養なさって頂きたい。

あなかしこあなかしこ。

――『細川両家記』



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/22(木) 04:46:27.17 ID:pTCzHqK1
>>620
息子たちの別れの手紙はちゃんと届けられたのかな?
硯を渡すくらいだから届けたとは思うけど

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2018年03月21日 11:54

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畠山政長の最後 14

荒木は思わず計らず、信長の敵と 12

諍いの原因は、「男色のもつれ」 11
長時公は強き御大将であり我儘気随で遊ばされるゆえに 11

南総の友情 9
今も誠に賢い人がいるので 9
高国近江落ち 9
越水城の戦い 9

弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべき 8
桶狭間の戦い 8
小笠原長時の没落 7
1,300人が招かれた空前の花見 7

阿房丸 5
神田将監の存分 5


今週の1位はこちら!畠山政長の最後です!
「応仁の乱」は様々な要因が複雑に重なったものですが、間違いなくその中の中心的要因が、この畠山政長ですね。
彼が「御霊合戦」を起こさず、失脚した大守護の慣例通りに、地方へと没落していれば、応仁の乱は起きなかったと言われます。
そしてこの政長が倒される「明応の政変」が起こることで、学説的に「戦国の始まり」と見られるのもまた面白いですね。
本人が意図したかどうかにかかわらず、まさしく時代のキーマンであったと言えるのでしょう。
いわゆる室町末期戦国初期は、細川京兆家の存在感が強いのですが、時代を引っ張ったのは畠山家の尾州家、総州家への
分裂と抗争であったと言えるかも知れません。
そんな事も考えた逸話でした。

2位はこちら!荒木は思わず計らず、信長の敵とです!
荒木村重が中川清秀の諫言によって、織田信長に敵対することに成るというお話ですが、面白いのは基本的に、
摂津国衆は高山右近を除いて、信長に反抗することを支持する、と描写されている所ですね。
天野忠幸先生の研究によると、実は荒木村重の乱が討滅された後も、摂津国衆や惣村は信長との戦いを継続しており、
それは信長が戦争をし続けている所から来る、過度の軍役への強い反発があったとしており、荒木村重もそういう地域の
領主として、「領民」たちの不満を無視することが出来ず、信長に反抗せざるを得なかった、とありました。
これは村重に限らず、信長が多くの謀反を起こされた理由の一つとして、納得できるものだと思います。
この逸話からもそういう一面が見て取れるな、なんて感じました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきです!
立入左京亮入道隆佐記を書いた立入宗継は、朝廷の禁裏御蔵職であったそうです。そういった人が明智光秀を
高く評価しているのは面白いですね。光秀は最近では、信長政権後期において、「近畿管領」と呼ぶべき役割を
任されていたと言われます。それほど、織田政権の中で京・畿内における代表的責任者と、自他ともに認識されていた
ということなのでしょう。こう言った評価も、だからこそ、という面があるのでしょうね。
逆に言えばそれだけ畿内において強い権限と高い権威を持っていたからこそ、本能寺を意図してしまったのかなあ、
などとも感じます。
そんな事もふと考えた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/




弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべき

2018年03月20日 18:19

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/20(火) 17:17:15.85 ID:Hwko5hvB
丹波国は惟任日向守(明智光秀)が、織田信長の御朱印を以って一国を下された。
これはこの時の理にかなった申し付けであった。

光秀は前代未聞の大将であり、坂本城主にて滋賀郡の領主であった。
信長に敵対した多喜郡高城の波多野兄弟(波多野秀治、秀尚)が扱いにより安土に送られた時、
光秀は彼らをその路中で絡め取り、安土まで馬上に縛り付け、筒を差し、そこに手足を結び、
波多野兄弟を磔の姿にした。前代未聞である。その姿で天正7年6月10日、京都を通過した。

光秀は美濃国住人で、土岐氏の随分衆であり、明智十兵衛尉と名乗っていたが、その後
上様(信長)の仰せにより、惟任日向守となった名誉の大将である。
弓取りほどの者は、彼の行いを煎じて飲むべきである。

(立入左京亮入道隆佐記)

なんだか光秀の評価が恐ろしく高い立入宗継の記録である


小笠原長時の没落

2018年03月19日 17:30

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 00:20:42.28 ID:9EDGobDw
それがしが20歳の時(著者・二木重吉。1549年)の4月末に晴信公(武田信玄)は御働きになり、
村井に陣を御取りなされ、長時公(小笠原長時)も御出陣して合戦し、その日の合戦は村井・林の間で

敵を切り崩したものの味方も崩れ申し、その後は互いに本陣で追いつ返しつ入り乱れて合戦と相なった。
その合戦で草間肥前と泉石見が討死仕った。泉石見は長棟公の御代より数度の合戦を仕った精兵の強弓

の射手で“土射ず”と皆々は申した。勝負の矢は申すに及ばず、諸々の鳥を射ち申しても外すことが
ないので、あずちを射ち申さずとして皆々このように申したのである。石見はもとは沢清右衛門と申し、

泉小四郎の子孫なので長棟公の仰せにより泉石見と名乗り申した。このような者が討死仕ったために、
林勢は弱くなり、その他にも御味方は多く討たれ申したので長時公は林城へ御引き籠りなされた。

その時に長時公を背いて晴信方となった衆は山家・洗馬の三村・赤沢・深菅・万西・鳥立・西牧の各々
であり、長時公の御家中で5千貫や3千貫を取った大身であった。長時公の御味方で大身の衆は犬甘・
平瀬・刈谷原・小見、その他に御旗本衆ばかりである。

長時公は御家の良き者は討死して、家老の者は逆心仕ったために叶い難く、林城を御開けなされようと
思し召されたが、どこへも道は塞がれて出口もないところに、桐原だけが御味方致し、深志城(松本城)
の城主・万西は桐原の伯父だったため、かの万西は桐原に申して、

「長時公の味方を致すよりも、長時を討ち申して晴信へ忠節を仕れ」と意見したが、桐原は少しも同心
仕らずに強いて御味方致し、長時公に申し上げて、

「いずれも御家中の家老や譜代の者が御敵と罷りなり、私の伯父・万西までも逆心仕り、挙句に拙者にも
逆心を企てよと意見仕りました。ですから少しでも早く塩田へ御退きになられて、村上殿(村上義清)を
御頼み遊ばされませ」と、桐原の妻子を長時公へ人質に出して居城の深志城に引き取り申した。

それより長時公は村上殿を御頼みになられ、村上殿は如才なく存ぜられて、「長時公の御本意を遂げさせ、
林へ御帰し致しましょう」と仰せられ、清野(信秀)と申す侍に仰せ付けられて長時公を御馳走申された。

――『二木寿斎記(二木家記)』


阿房丸

2018年03月19日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:27:53.64 ID:1KNxa5v1
阿房丸


慶長年中、池田輝政が大船*を高砂川で作ったものの
その船を出すことがなかったので、朽ちるままになっていた。
福島(正則)殿がこれを笑って、その船を阿房丸と名付け天下の嘲弄とした。

(その後大坂の陣が起こったので)輝政の智謀は測りがたいと言われたという。


――『翁物語』

* 『池田家履歴略記』によると長さ三十三尋、横十三尋の大船と一緒に
  千石余りの大船を数百艘作ったとされる。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 22:55:47.57 ID:EcVepkc3
正則も「ああ輝政のように船を用意しなかったばっかりに
むざむざ大坂の福島屋敷の兵糧を秀頼公の籠る大坂城に運び入れられてしまうとは」

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 11:52:44.73 ID:uRoEdMkP
幕府の許可もなく大船を持つとはけしからん内地に国替えさせよう

南総の友情

2018年03月19日 17:27

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/19(月) 15:09:10.97 ID:pGLzIasn
有名な話だけどまとめサイトの方に地元の話題があまりなかったので。
初投稿なので作法がなっていないかも知れません。ご容赦ください。

南総の友情

天文二年(1533)、一人の若き僧が安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。

やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。

古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でもそれだけは受け入れられぬ」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。

月日は流れ天正二年(1574)六月一日。その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。

隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん

二人の眺めた光とは房総の安寧か尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は「関東無双の大将」と述懐したという。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:34:31.80 ID:3GoBRh6O
古の義舜って佐竹義舜のことか?
また里見らしい中途半端な目標だなw

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:42:38.16 ID:dxw5TKgB
「堯舜の治世」の間違いじゃないの?

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 16:38:47.11 ID:DgvlYfoX
>>708
いや君の洞察力もなかなか中途半端w

荒木は思わず計らず、信長の敵と

2018年03月18日 19:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 20:24:38.14 ID:3TbVHzKY
天正6年の秋の頃より、摂津国有岡方面では雑説が流れ、しきりにこの方面の者達が
織田信長の敵に成るとの風聞が聞こえた。それはあってはならないことであると、
信長より織田政権の歴々が差し下され調査が行われるということで、荒木信濃守(村重)にも
雑説があったため、彼は茨木城まで移動し、そこから安土へと向かおうとしたところ、
茨木城の守備を担当していた中川瀬兵衛(清秀)がこのように諫言をした

「絶対に安土に行くべきではありません。安土に置いて切腹させられるよりも、摂津国表へ
軍勢を引き請けるべきです。合戦に及んだとしても、手に溜めず切り崩せるのに、安土に置いて
犬死するなど、沙汰の限りです。」

もう申し留めたため、荒木は有岡に立ち返り、思わず計らず、信長の敵となってしまった。

この時荒木は、国中の年寄共を集めて談合に及んだのだが、皆も中川瀬兵衛が申す所に
同心した。
その中で、高槻城守であり、高山飛騨守の息子である高山右近だけは
「言語道断である!荒木摂津守の普段の覚悟と相違した、曲事の仔細である!
信長の御芳志のかたじけなさを、たった今忘れ去り御敵申し上げるなど、
沙汰の限りである!」

そう、一人反対したが、彼以外は尽く中川の意見に同心し、高山の意見には同意しなかった。
ために是非に及ばず、高山も最後には摂津国衆の総意に同心した。

(立入左京亮入道隆佐記)

ちなみに荒木村重、「信濃守」は自称(受領名)で、「摂津守」は正式な任官ですね



611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 21:04:41.19 ID:jtiZDeeJ
このあと、清秀は右近に説得されて荒木を裏切るんだよね

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 00:21:49.38 ID:yFZe1MKP
そもそも荒木が翻身しようとしたきっかけも中川が原因なんだよな
早死にしても仕方ないわなこのオッサン

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 05:58:38.93 ID:jdyuLToD
でも賤ヶ岳だと…よく分からない人ですよね…

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 07:38:22.99 ID:4WKc0lBa
人望はあったらしい

諍いの原因は、「男色のもつれ」

2018年03月18日 19:08

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:23:05.91 ID:T43lWMTR
「信長記」首巻によれば、織田信長は父信秀から那古野城を譲られた際、四人の家老を付けられたという。
その筆頭は林秀貞(通勝)、次席に平手政秀、三番が青山与三右衛門、末席が内藤勝介
林・平手の二人がよく知られているのに対し、青山・内藤の知名度は低い。青山などは信長元服前に戦死
したのではないかとも言われ、内藤も家老と呼べる程の分限であったか疑わしい、などとされている。

信長が桶狭間の戦いで今川義元を討ち、三河の徳川家康と同盟を結び、美濃攻略のため、本拠を清洲から
小牧山に移そうかという永禄六年(1563年)のこと。
既に廃城となっていた古渡城付近の松原で一つの事件が起きた。青山与三右衛門の嫡男虎と内藤勝介
嫡男小三郎の二人が織田因幡守家臣桜木隼人助を襲撃したのである。といっても、虎と小三郎の二人で
襲撃したのではない。青山・内藤両勢合わせて八十六人!対する桜木も三十人を揃えていたというから、
これはちょっとした合戦である。戦いの結果、双方合わせて四十二人の死人が出て、桜木隼人助は青山の
家臣に弓で射殺されたという。虎と小三郎はそのまま織田家を退転、揃って三河に逃げて家康を頼ったと
いわれる。


諍いの原因は、「男色のもつれ」。


息子の不始末ゆえ、内藤勝介の立場が弱くなり、既に冥途へと旅立ち現世で活躍できなかった青山とともに
影の薄ーい存在とならざるを得なかったのかも知れない。

それにしても、男色のもつれで五十人近くが死ぬとは… すごく 濃い世界です…


以上、和田裕弘「織田信長の家臣団」からの受け売り。
名古屋の鶴舞中央図書館にある「津島十一党家伝記及牛頭天皇社記」に書かれているそうな。
誤読あったらごめんm(__)m。



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 12:56:52.98 ID:5nKM9M85
秀忠「こっちの傅役の青山・内藤はかなりの知名度なのに
地名になるほど」

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 21:19:39.10 ID:xl9vsyvP
徳川に使えたのが正解だったようですね

桶狭間の戦い

2018年03月17日 18:18

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 19:40:54.30 ID:FA5jxJkX
ここに織田弾正正信長と申す人、父に少年にて死別したが、少しもその跡を敵に侵入
させなかった。

そのような中、駿河国の今川義元は、三河遠江駿河伊豆四ヶ国の軍勢を率い、三河と尾張の間の、
信長方の城である大高、沓掛二ヶ所の取手(砦)を一刻に攻め取り、永禄三年五月十八日の晩、
桶狭間と申す所に今川義元は陣をとった。

一方、尾張清州城では、林、平手を始めとした信長の重臣たちが揃って、
「清須は日本一の名城なれば、籠城こそ最善です」
と申し上げたが、信長はこれを聞くと拒絶した
「昔より籠城して運の開けたことはない。明日は未明に鳴海方面へ打ち出て、義元の首を
刎ねるか、私が討ち死にするかである。」

信長が日頃から心をかけていた侍である、森三左衛門(可成)、柴田権六(勝家)といった者達は、
「快き仰せである。我らは御馬の先に立ち、討ち死にを致しましょう!」
と申し出、その他何れも、信長の方針こそ然るべしと申し上げ、座敷を立った。

十八日の夜半過ぎ、信長は広間へ出て、”さい”という女房に「今は何時か」と尋ねた。
「夜半過ぎです」と申し上げると
「馬に鞍を置かせよ!湯漬けを用意せよ!」と命じ、御前に昆布、勝栗を持って参らせた。
そして床几腰を掛け、小鼓を取り寄せ、東向きになり

「人生五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の間なり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」

そう、三度舞われて、城の内より、小姓七、八騎を引き連れただけで出立した。
既に大手の口にて、森三左衛門、柴田権六、その他三百ばかりが控えていた。信長は森、柴田へ
「両人早し!早し!」と声をかけた。

熱田源太夫殿の宮の前にて、千七、八百となった。星崎方面に控えていた佐々下野守(政次)は
その手勢三百あまりにて今川軍六万を抑える役割を仰せつかり、信長の前に出ると

「それがし、一人であっても今川と組み合い、討ち死にしようと考えていたところ、
さても妙なるお出でです。それがしが命を捨てる以上、今日の合戦に御勝ちすること
必定です。今日の戦いこそ、天下分け目の合戦です。殿が天下を治められた時、
弟の内蔵助(成政)、また私の倅を、お見捨てなされませんように。

我々は東向きに、今川の旗本へ乱れ入ります。殿は脇鑓に向かわれ、鉄砲弓も打ち捨て、
ただひたむきに打ってかかって下さい。」

そう伝えて攻撃へと向かった。

今川義元は油断していた所に、織田軍三百五十ばかりが突然攻撃をしてきた事で、「本陣で
喧嘩が起きた」と、六万余騎の者達騒ぎ立てた所へ、信長が二千あまりにて
「一人も逃さじ!」
とわめき叫んで大音を上げて切ってかかった。

これに今川勢は一支えも出来ずたちまちに敗軍し、義元の頸は毛利新助が取った。
この時、大風、あられが降り、大高、沓掛では大木が吹き倒れたという。

五月十九日巳の刻(午前十時ころ)、首数五千ばかり討ち取り、大利を得た。
この時織田信長、二十七歳であった。

(道家祖看記)



703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 07:59:50.97 ID:q6+MveO/
柴田勝家は桶狭間に参加してないと思うけどね

今も誠に賢い人がいるので

2018年03月17日 18:16

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 02:11:23.44 ID:f/6o7Uou
今も誠に賢い人がいるので


室町時代の公卿・一条兼良は応仁の乱後の混迷した状況の中で
将軍足利義尚に政道の指南と共に足軽の停止を唱えた『樵談治要』を
贈ったことで有名だが、その前にも義尚の母の日野富子に源氏物語を
講義した際、教養書の作成を依頼され富子宛に『小夜のねさめ』を書いている。

その中で女人政治に関する項がある。

「少し女房のことを言いますと、女というものは若いときは父に従い
 大人になれば夫に従い老いては子に従う者なので、自分の身を立てる必要が
 ないように言われていますが、大人しくなよなよとしているのがよい訳
 ではありません。大体この国は和国と言って女性が治めてもよい国でした。
 (中略。北条政子や女帝の例を挙げている)
 今も誠に賢い人がいるので、世のまつりごとをなさるべきでしょう」

"誠に賢い人"は当然日野富子のことである。
富子は兼良のパトロンと言っていい存在なので持ち上げられるのは当たり前だが
まだ生きているのに存在をスルーされている某八代将軍さんのちょっと悪い話。



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 10:08:04.55 ID:MyuSZ3ut
>>607
「樵談治要」にも「小夜のねさめ」の女人政治への意見とほぼ同じことが書かれてるな
先祖九条家の慈円「愚管抄」の「日本国は女人入眼の国」とかも踏まえてるんだろうか

樵談治要
一簾中より政務ををこなはるゝ事。
此日本國をば?氏國といひ又倭王國と名付て。女のおさむべき國といへり。
されば天照太神は始祖の陰神也。神功皇后は中興の女主たり。此皇后と申は八幡大菩薩の御母にて有しが。
新羅百濟などをせめなびかして足原國をおこし給へり。目出かりし事ども也。又
推古三十四代天皇も女にて。朝のまつり事を行ひ給ひし時。聖德太子は攝政し給て。十七ケ條の憲法などさだめさせ給へり。
其後皇極三十六代持統四十一代元明四十三代元正四十四代孝謙四十六代の五代も皆女にて位に付。政をおさめ給へり。
もろこしには呂太后と申は漢の高祖の后惠帝の母にて政をつかさどり侍り。唐の世には則天皇后と申は高宗の后中宗の母にて年久敷世をたもち侍り。
宋朝に宣仁皇后と申侍りしは哲宗皇帝の母にて。簾中ながら天下の政道ををこなひ給へり。これを垂簾の政とは申侍る也。
ちかくは鎌倉の右大將の北の方尼二位政子と申しは北條の四郞平の時政がむすめにて二代將軍の母なり。大將のあやまりあることをも此二位の敎訓し侍し也。
大將の後は一向に鎌倉を管領せられていみじき成敗ども有しかば。承久のみだれの時も二位殿の仰とて義時も諸大名共に廻文をまはし下知し侍りけり。
貞觀政要と云書十卷をば菅家の爲長卿といひし人に和字にかゝせて天下の政のたすけとし侍りしも此二位尼のしわざ也。
かくて光明峯寺道家の關白の末子を鎌倉へよび下し猶子にし侍りて將軍の宣旨を申なし侍り。
七條の將軍賴經と申は是也。此將軍の代貞永元年に五十一ケ條の式目をさだめ侍て。今にいたるまで武家のかゞみとなれるにや。
されば男女によらず天下の道理にくらからずば。政道の事。輔佐の力を合をこなひ給はん事。さらにわづらひ有ベからずと 覺侍り。

小夜のねさめ
大かた此日本國は和國とて女のおさめ侍るべき國なり。天照太神も女躰にてわたらせ給ふうへ。神功皇后と申侍りしは八幡大菩薩の御母にてわたらせ給しぞかし。
新羅百濟をせめなびかして。此あしはらの國をおこし給ひき。
ちかくは鎌倉の右大將の北のかた尼二位政子殿は二代賴家實朝將軍の母にて。大將ののちはひとへに鎌倉を管領せられ。いみじく成敗ありしかば。
承久順德のみだれの時も。此二位殿の仰とてこそ義時ももろもろの大名には下知せられしか。
されば女とてあなづり申べきにあらず。むかしは女躰のみかどのかしこくわたらせ給ふのみぞおほく侍しか。
今もまことにかしこからん人のあらんは。世をもまつりごち給ふベき事也。



615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/18(日) 10:14:02.14 ID:5nKM9M85
>>609
愚管抄同様、頼経の鎌倉下向を賞賛してる
玉葉もそうだけど著者の中では九条家の評価が高かったんだな

神田将監の存分

2018年03月17日 18:15

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/17(土) 05:18:29.71 ID:KXMpkOSs
神田将監が7月の初めに出仕した時、征矢野甚助・惣社久太郎・万西次郎・大池右馬之助・桐原と
同道仕り、照りに照った日坂を上ろうと股立を高く取って小飛び掛かりに坂を上った。

若き衆は申して「将監はどうしてこの暑いのに飛んで上がり申されるのか」と申されれば、将監は、
「暑くはない。秋の露ばかりで身体が濡れるので、露を払って上り申しておる」と申した。

若き衆はますます笑って申し「将監殿は気違い申したのか。これほど埃が立って日照りで汗に濡れ
て困るというのに、身体に露と仰せられるのは可笑しく存ずる」と笑った。

将監は申されて「呉越の戦の折、呉王・夫差の臣下・伍子胥が申したことを存ぜぬのか。それを
思い出したのだよ。長時公(小笠原長時)は我儘でいらしゃるので、両郡の武士には不満が多い。

それゆえにこれよりこの城は後に晴信(武田信玄)の仕置きになり、城や家は破却されるであろう。
その時は鹿の臥すところとなって(野に伏すことになって)残念なことである。されば露に濡れる
ことを思い、飛んで通って股立も高く取り申しておるのだ」と申された。

その後、若き衆の落書を将監は立てた。神田将監の存分は面白きものである。

「小笠原の 御家をたをす ものとては 昔は絲竹 今は水竹」
(昔から遊興が御家を滅ぼしてきたが、今は佞臣の水竹が小笠原家を滅ぼそうとしている)

――『二木寿斎記(二木家記)』


高国近江落ち

2018年03月16日 15:59

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 04:26:55.72 ID:l34Vc7iF
このため高国(細川高国)は丹波・山城・摂津国に触れを出しなさり、同年(1519)11月21日、
都を出立され、同12月2日に池田城へ御着きになった。越水城の御詰のために小屋野間九十九町・

高木・河原林・武庫・寺部・水堂・浜田・大島・新田・武庫川の方面に上から下まで陣を取り続けて、
折々合戦なさったのである。年は暮れて永正17年(1520)庚辰になり、1月10日に高国より

諸陣へ触れを出しなさり、2万余騎で打ち出た。諸口では合戦が終日あり、高国方の丹波守護代・内藤
備前守(貞正)は火花を散らして合戦され、切り負けて2百人ほどが討たれて退却した。阿波衆も百人
ほどが討死し、双方手負いは数を知れない。また高国方の摂津国の住人・伊丹兵庫助国扶は中村口へ

攻め掛かり、木戸や逆茂木を切り落として内へ込み入って申の刻から酉の終わりまで合戦し、伊丹衆は
打ち勝って阿波衆の首50余を討ち取り、勝鬨を作って制圧した。また同日に城中より、正門の木戸を
開いて2人の者が「我ら当国大島の住人、雀部与一郎!」「同しく弟の次郎太郎!」と名乗り、

「高国のため、また家のために命は惜しくない! 敵方は誰でも寄り合いなされ!」と、大声で叫ぶと、
澄元方の田井蔵人が名乗り寄せて切り合ったのである。雀部は切り勝って蔵人の首を討ち取ったが、

雀部兄弟も痛手を負って城中へ入り、それから4,5日して死去したのだった。対馬守(瓦林正頼)を
始めとして上下ともに惜しまぬ人はいなかった。城中では月日を送るにつれて気力を失い、

同2月3日の夜半に対馬守は安部の蔵人と談合して、城を開けなさった。この時、若槻伊豆守は老体で
あったため「どこまで」と思い切り、腹を十文字に切って死去した。

これにより後詰勢の衆は地田・伊丹・久々知・長例・尼崎へ引き籠った。そのため澄元方の三好筑前守
之長は難波へ陣取りなさる。他に澄元方は小屋・富松・生島・七松・浜田・新田へ陣取り、同16日に

1万7千余騎で尼崎・長洲へ攻め掛かり合戦となった。大物北の横堤には、高国方の香西与四郎が打ち
出て、三好孫四郎(長則)と渡りあって太刀打ちし、双方名を上げなさった。その日は暮れて雨も降る
ので両方は互いに退いた。このため高国は叶わないと思し召し、城々へ仰せ合わせられて、その夜中に

高国方は一同に京へ上りなさった。このような成り行きは「1月10日は西宮の御狩神事の日である。
“居籠”といって人音もしない日だというのに、攻め掛かけなさった御罰である」と人々は申した。

されば落武者の哀しさよ、高国は京にもいらっしゃらずに近江国へ落ち行きなさった。今度は公方様
(足利義稙)は澄元に一味して京におられた。さて伊丹城の中では伊丹但馬守と野間豊前守の2人が

申して「当城はこの数十年の間、諸侍や土民以下の者たちが苦労して拵えたというのに、その甲斐も
なく逃れては口惜しいことよ。我ら2人はこの城の中で腹を切ろう」と、四方の城戸を閉ざして家々
へ火をかけ、天守で腹を切った。これまた剛なる人かなと感心しない人はいなかったのである。

――『細川両家記』


越水城の戦い

2018年03月15日 21:30

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 05:11:26.73 ID:0dI25yIH
時に永正16年(1519)己卯歳、秋の頃より澄元(細川澄元)は四国と播磨の勢を催して切り
上らんとの御談合をなされた。御家中の摂津の住人・池田前筑後守(貞正。細川高国方と戦い討死)

の子息・三郎五郎(信正)が申されて「今度、御上洛されるならば、摂津国口の先陣はそれがしが
仕ります!」と申し受けし、摂津有馬郡田中というところへ上って軍勢を揃えていると、高国方の

瓦林対馬守正頼、池田民部丞、塩川孫太郎が相談して、かの田中へ同10月22日夜半に夜討した。
ところが田中の勢へ通じた者がいたため、田中の勢は整えて待って戦ったので、攻め手は案内も

分からず、20日あまりのことなのでとても暗く、雨は降り、さんざんに切り散らされて塩川衆も
瓦林衆も身を変えられぬ人たちが数多討たれて、やっとのことで退却した。池田三郎五郎は首30
あまりを討ち取り、すなわち阿波国へ注進申された。

これにより澄元の御感あって三郎五郎に豊島郡一色を御与えになり、弾正忠になされ申したという
ことである。さて澄元は四国や淡路・播磨の勢を催し、三好筑前守之長の御供で兵庫浦へ着いて、

灘へ上りなさった。高国方の瓦林対馬守(正頼)は今度は越水城に立て籠り、澄元は「まずこの城
を攻めよ!」と、1万余騎で城を取り巻きなさる。澄元は神咒寺の南の鐘の尾山という山に陣取り

なさり、三好・海部・久米・川村・香川・安富は広田・中村・西宮・蓮華畑に陣取って、毎日合戦
なさった。城中には究意の弓ども(弓を極めた者たち)あり。中でも一宮三郎は比類なく聞こえた

者である。それゆえ三郎が矢を十放すれば7,8人に射当ててみせた。攻め手の人々はこれを見て、
例えば異国の養由基、我が国の源頼政や那須与一などの化身ではないかと、

この矢に恐れて月日を送った。そのため一宮三郎は一張の弓の威徳により、長らく御勘当を蒙って
いたのだが今回御許しを受けて、丹波国の本領は申すに及ばず、重ねて御領を賜ったのである。

――『細川両家記』



700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/15(木) 09:54:18.87 ID:Ea6WYNfJ
何気に越水城を検索したら見聞が広がった

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 03:47:30.01 ID:8Nb7SmTw
???「弓を極めたのなら合戦中で最初の警告と最後に残った矢を門に打ち込んだ以外はすべて命中させて一矢で3~4人射抜くくらいできるよな?」

畠山政長の最後

2018年03月15日 21:29

604 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/14(水) 22:27:07.05 ID:MY/3Tvpu
文明一統(応仁の乱の終結)以来、畠山義就も逝去し、細川勝元も山名宗全も逝去し、
応仁の乱の中心人物の中では、畠山尾張守政長だけが残った。
政長は元より一方の棟梁であり、位も従三位に叙し、再び管領にも就任したため、
三管領四職から御供衆に至るまで、彼の風下に立ち、政長による書状の文面は、
四職に対してはまるで被官に下すような書礼であった。

このような状況に、赤松一色山名といった人々、様々にこの不当を訴え、政長への恨みを
つのらせた。

この頃、畠山総州義豊(義就流畠山総州家)は、河内国誉田に在城して、政長と対立していたが、
さらに上意にも背くこと有り、公方足利義材は政長に心を寄せ、正覚寺に御動座あって、義豊を
退治しに向かった。

しかし、細川右京太夫政元も畠山政長に恨みがあった。
そのため彼は義豊方に加勢した。
すると、桃井、京極、山名、一色といった人々も皆義豊方に加わり、逆に正覚寺へと攻め寄せた。

政長方では、遊佐、斉藤、杉原、貴志といった人々が、ここを先途と防いだが、敵は四万余騎、
見方は二千余人という絶望的な状況であった。
そのため、先ずは公方義材を夜に紛れ、馬を召して、大和国筒井の城へと落とした。
そして夜が明けると、敵は徐々に四方より取り巻き、落ちのびる道もない状況となった。
正覚寺に籠もる者達は皆、自害せんと心を沈めていたが、政長は平某を召して、御児丸殿といって
この時13歳になる若君、彼は三才の時、常徳院殿(足利義尚)より一字を賜り尚慶と申したが、
これを呼び出し平に

「この君を汝に預ける。いかなる謀をも廻らせて彼を落とし、再びの当家再興の時を待て。」

そう命じたが平は

「私は最期のお供をすると決心しています。私の一族の、平ノ三郎左衛門に仰せ付けください。」

そのため三郎左衛門に命じたが、彼も最期のお供をしたいと申し出た。これに政長は大いに怒り

「汝は不覚を申しようだ!死を一時定めるのは却って易い、若君を落としそれに付き従うのは
大事である!」

こう言われて、平三郎左衛門も泣く泣く座敷を立ち、この時正覚寺の中には、公方様への
御慰みとして歌舞などを行う桂の遊女たちが居たのだが、その装束を借り、若君に着させ、
若君を桂の遊女に扮装させ、女たちの中に紛れさせ、自分は桂遊女に従う男の風情となり、
馬の腹帯の類に装束などを包み入れ、畠山重代の長刀(粟田口藤右馬則國が作)を竹の筒に
入れて背負い、敵陣の前を通った。
敵方にも、この桂の遊女たちを見知っている者達が居たので、問題なく通行が許可された。
敵陣を通過すると、若君を馬に乗せ、鞭を進めて大和国奥郡へと落とした。

明応二年四月九日の夜に入り、政長は心安しと、葉室大納言以下籠城の人々と最期の盃をし、
真っ先に腹を切った。しかしこの時、政長は藤四郎の刀にて三度まで腹を切りつけたが
全く切れず、そのため投げ捨てた所、側にあった薬研に当たり、その薬研を真っ二つに切り裂いた。
このためこの脇差は、薬研藤四郎とも申す。

「さては重代の刀にて、主を惜しみけるか、いかがすべきか。」

そう困惑する政長に、家臣の丹下備後守、かむり落としの信国の刀を抜いて、己の腿を二つ、
突き通し
「いかにも、良く切れます」
と、政長に奉った。政長はこれを逆手に取って、腹を十文字に掻っ切り、そのままその刀を
葉室大納言光忠卿へと渡した。その後、みな順次腹を切り、二百余人、一人も残らず自害し、
城に火をかけた。

(足利季世記)



605 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/16(金) 01:53:33.13 ID:XPawPm2/
長文起こしてくれる人ありがとう

長時公は強き御大将であり我儘気随で遊ばされるゆえに

2018年03月14日 22:21

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/13(火) 20:57:56.89 ID:7YYZ2okD
その合戦の後、2,3年の間たびたび合戦があり、神田将監は寝込にあって討死仕った。
その時も良き者が多く討死仕った。神田将監は強弓の精兵で長時公(小笠原長時)の

御家中で一騎当千の兵(つわもの)であり、長時公も惜しく思し召された者であった。
“寝込”とは夜討のことである。出水石見と神田将監は長宗公(長棟。長時の父)も

良く思し召して御使いになった者たちである。長時公に御代を渡された時も、その由緒
を仰せられて2人を御渡しになった。信貞公(信定。長時の弟)へは木下惣蔵と

溝口刑部を渡され、下伊那の鈴木城(鈴岡城?)へ御在城させた。信貞により木下惣蔵
は多科城へ差し置かれ、すなわち多科惣蔵と申して一騎当千の者だった。惣蔵は長宗公
が御取立てした者である。

神田将監が常に申されたことには「私めは長宗公が御取立てなさった者なり。『どんな
ことがあろうとも長時公へよく御奉公仕るように』と、私めは後室様に仰せ付けられた。

信貞へは木下惣蔵を御渡しになり、長時公へは拙者を御渡しになったのである。それ故、
私めはいかようにも御奉公仕る覚悟である。しかしながら、長時公は強き御大将であり、

我儘気随で遊ばされるゆえに、両郡の大身の侍衆は皆不満に存じておられる。ある時、
西牧、瀬馬、三村殿ら両三人の衆が御用あって出仕申されたが、長時公の気随によって
出仕はならず、それゆえに帰り申されたことがあった。

またある時には万西、赤沢、鎌田兵衛尉が出仕したが、これも気随ゆえに御会いになら
なかったのである。また山家が出仕した時も同じであった。かようのことが度々あった
ので、両郡の武士たちは不満に存じておられる。

これは水竹と申す者が出頭(寵愛を受けて出世すること)仕るようになって、長時公へ
申し上げることがあったゆえ、このようになったのである」とのことであった。

――『二木寿斎記(二木家記)』