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関白鶴ヶ岡参詣の事

2018年05月31日 17:27

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/30(水) 20:10:48.97 ID:m3QtbrAB
関白鶴ヶ岡参詣の事
秀吉鎌倉の鶴ヶ岡を詣でて、八幡宮の戸を開かせ頼朝の像を見られしが、背中を打叩き、
微賤より出て、日本を掌に握る事我と御辺と二人なり。然れども頼義父子鎮守府将軍とし
て東国の者共久しく親み多かりき。蛭が小島より兵を起こされしに、関東の靡き従えるも
謂われ無きに非ず。我は土民の中より斯く日本を思いの儘にすれば、功尚高し、と言われ
けり。                               (常山紀談)

 秀吉の感じが悪い話。この時点で、かなり調子に乗っていたのだな。ラスボス感が。
 そういえば、息子の世代で絶えたという点でも、秀吉と頼朝って、いっしょだな。どち
らも、一族や譜代の欠如が、弱点だったのかね。


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上様日和という事

2018年05月30日 19:56

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:38:44.80 ID:m3QtbrAB
上様日和という事
同時九鬼大隅守嘉隆日本丸といふ大船を乗廻し南の海上を取巻けり、此所は荒海にて、東
風吹く時は波浪山岳を倒しかくるが如し、船をかけ並ぶる事思いも寄らぬ所なるに、秀吉
城を囲まれし間五十余日風静に波穏かなり。是よりして小田原海辺風無き日を上様日和と
言慣しけり。
                            (常山紀談)

 秀吉が小田原城を包囲する間、天気がよかった話。
 北条氏は、天運にも見離されていたのか。まあ、海が荒れて、海上からの包囲に穴があ
いても、味方してくれる勢力が一つもない状況だったわけだが。豊臣方の海上輸送も阻害
されただろうから、包囲が続けられなかったかな。



965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 23:47:37.61 ID:2DJug1SZ
上様日和って吉宗が屋敷に来て慌てる悪代官を想像してしまう

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/31(木) 11:53:15.30 ID:1OLpxP+u
そういえば富岳三十六景の神奈川沖浪裏もこのへんの海域か
あれも「波浪山岳を倒しかくるが如」くだもんな

白井百人衆謀討

2018年05月30日 19:55

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:08:50.93 ID:Q6o9fFY/
天正12年正月上旬の頃のこと
当時、白井長尾の家中には百人衆と言う、歩行の武士集団があった。
正月に、沼田衆の林太郎左衛門、吉野太郎右衛門、吾妻衆の井上金太夫は、私曲あって
沼田の真田家から立ち退き、白井に属し、この百人衆の一員となった。

ところが程なく真田家への忠信を立てて故郷に帰りたいと思うようになり、3人は談合して
この事を真田家の高橋右馬允へ申した。右馬允がこれを金子美濃に相談すると、
「その方、上田へ参りこれを注進せよ」という事になり、高橋は丸山土佐守、木村戸右衛門を
通して真田昌幸にこれを申し上げると、昌幸は非常に喜び

「神妙の事である。卒爾無きように計るべし!」

そう仰せになった。そこで高橋はお暇を乞い戸鹿野へと帰った。
かの3人の者たちは、指示に従い百人衆の朋輩たちをたぶらかした
「沼田の鹿野には有徳(裕福)の者が多い。夜討ちして金銭を奪い取ろうではないか。」
そうして130人が申し合わせ、林、吉野、井上が案内して戸鹿野へと忍び入った。

しかし、かねての計画通りであり、彼らが侵入した所で橋を外し、四方より取り巻いて
襲撃した。このためまたたく間に120人余が討たれ、水練の達者であった5,6人のみが
助かり、白井に帰ることが出来た。

この忠節により、高橋右馬允は昌幸より知行を賜った。

(加澤平次左衛門覺書)



828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 19:42:23.53 ID:m3QtbrAB
うーん、敵方をほいほい受け入れてはいけないのだな。120人討死って、大損害じゃないの。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 21:50:14.33 ID:8830ayA8
>>828
この場合の120人て小者は無しだろうから
いきなり侍大将120はキツすぎると思う

週間ブログ拍手ランキング【05/24~/30】

2018年05月30日 19:50

05/24~/30のブログ拍手ランキングです!


我が孫に似合いたる申し付け様なり 13

鬼武蔵、神蛇を喰う 10

山田の怨霊 9
【ニュース】小田氏治がNHKの歴史番組で取り上げられます 8
瀬田橋乗打 8
戸次道雪勢の宗像攻め 8

仙千代奪出 7
片岡新助の事 5


今週の1位はこちら! 我が孫に似合いたる申し付け様なり です!
言い訳にも武略が有る。そんな事を考えさせてくれる逸話ですね。家康や幕府としては、ぶっちゃけどっちが正しいとか間違ったとか、
あまり関心がなく、どう事態を収拾するのが全体の戦略にとって最も齟齬が少ないか、を考えているのでしょう。
ここで田宮対馬は、幕府方の全体の戦略に沿った形で、しかも概ね自分ひとりが責任を受け持つ形で弁明をつくり、
これにより例え話がこじれても、ほぼ田宮対馬だけが責任を取れば良い形にしています。
家康が褒めたのはそういう所だろうなと、そう感じます。
組織の弁明というものについても、考えさせてくれる逸話だと思いました。

2位はこちら! 鬼武蔵、神蛇を喰う です!
いい悪いスレに鬼武蔵の話があると、やはり華やぎますねw
それにしても粗暴、乱暴で、さすが鬼武蔵としか言いようがありませんw
しかし「兼山記」というのは、基本的に森家、長可を称揚するのが目的の軍記であり、このお話も「森長可の凄さ」
を描いているのですね。後世の我々は「うん、たしかに凄いけど…」と若干引きながら読んでいるわけですが、
そういう感覚の差も、逸話を読む上での面白さなんだろうな、と思います。
ただこれに限らず森家関連の軍記物は、当時の基準から言っても「自慢しようとする所」が変、という若干の気持ちは
有るんですけどねw

今週管理人が気になったお話は、やはりこちらでしょう、【ニュース】小田氏治がNHKの歴史番組で取り上げられます です!
このニュース、ツイッターでも(局地的に)盛り上がりましたね!まさかヒストリアで、しかも天庵様単体で取り上げられるとは。
今ある天庵様の人気(?)というものも、やはりほかのどこでもなく。戦国板での盛り上がりの中から生まれたものだと思うので、
個人的にも謎の身内感があります。
ヒストリアで天庵様がどのように描かれるか、6月13日を楽しみにしたいと思います!
http://www4.nhk.or.jp/historia/


今週も各逸話にたくさんの拍手をいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

鬼武蔵、神蛇を喰う

2018年05月29日 09:49

森長可   
819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:19:24.48 ID:G3/hr0Wa
小牧長久手の陣において、羽黒合戦で若干の味方を討たれた森武蔵守(長可)は、
備の編成を変えるため移動し、小牧山の東北、二ノ宮の森の麓に陣を取った。
そこには朱の玉垣の花表(鳥居)があり、武蔵守も「いかなる神の社か」と思っていた所、
神主が現れ、武蔵守の御前に参り、このように申し入れた

「この神は深く穢を忌まれます。精進潔斎無ければ、花表の内に入ってはいけません。
殊に不浄の人馬を入れるなど、誠に勿体無い事です。諸人が木の枝を折ることすら
神慮計り難いのです。御陣場を速やかに改められるべきです。」

武蔵守はこれを聞いて激怒した
「悪しき神主の申しざまかな!異議があるなら鉄砲で討ち殺す!
(悪敷神主ノ申様也、及異議ハ鉄砲ニテ可打殺)
私は大義を思い立ったのだ、全く私の利益のためではない。それは神慮も鑑みるだろう!」

そう言っているところ、社壇の上に、長さ一丈(約3メートル)ばかりの蛇が現れ、
軍勢の方に向かい声高く鳴いた。
神主これを見て叫んだ

「御覧有るべし!あれこそ当社の御神体です!」

軍勢の者たちも驚いた。しかし武蔵守は

「この蛇を飼い置いて、土民共を迷わし金銀を取っておるのか!
井原はおらぬか!?あのような有様であるぞ!」

これを井原小市郎承り、腰刀を抜いて蛇を寸々に斬った。
そして武蔵守は

「そういえばここでは精進しろと言っていたな。」
そう言って切られた蛇を二口三口食い、残りは社壇に捨てた。
神主は身の毛もよだち、立ち退いた。

※この後兼山記の作者がこれだけでは鬼武蔵がやべー奴と思われると考えたのか、鬼武蔵とは
全然関係ない甲斐に現れた巨大鱸を漁師が獲って切り刻で神なんてものは人間が信仰するかどうかの
問題で云々とか書いてるけど割愛
(兼山記)



820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:39:29.27 ID:DVaPyOBu
この後、亡くなったんだよね…

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 22:42:30.80 ID:homQuwcC
生蛇はだめなんじゃないか・・・

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 23:46:26.00 ID:T+OMRWOR
捕まえたマムシをその場で皮剥いで心臓を食った爺さん見たことあるから大丈夫なんじゃ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 02:10:04.73 ID:8lE87rYa
寄生虫やばいよ

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 02:59:40.77 ID:IFix9tXT
蛇やカエルは絶対に火を通さないとだめ。

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 05:38:33.97 ID:nZWjCmsu
ヒャッハーすぎるぞ武蔵守

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 12:18:31.80 ID:/SpPBZVC
迷信打破って西門豹みたいなつもりなんだろうけどやり方が短絡的過ぎる

【ニュース】小田氏治がNHKの歴史番組で取り上げられます

2018年05月28日 19:47

955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/27(日) 21:10:54.20 ID:DN4fvMPd
小田氏治がNHKの歴史番組で取り上げられます
NHK総合の番組「歴史秘話ヒストリア」で、小田氏治が取り上げられます。
小田氏治の肖像画(法雲寺所蔵、当館寄託、茨城県指定文化財)などが、番組内で紹介されます。
当館では、この放映に合わせて、「小田氏治像」「小田治久像」「小田天庵公一百五十年忌祭録」を7月15日(日曜日)まで展示します。この機会に、ぜひご覧ください。

【放映日時】6月13日(水曜日)午後10時25分から11時10分まで
http://www.city.tsuchiura.lg.jp/page/page011080.html

マジか、ついに天庵様が



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 21:53:13.74 ID:2DMcxkmq
ネタ枠がついにここまで来たかw

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 21:58:25.37 ID:hrR0WwC7
前にも立花宗茂と今川氏真とセットで取り上げられてはいたようだ
それにしても「知恵泉」のサイトのURLが
http://www4.nhk.or.jp/chieizu/2/
でまるで信綱のような

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 22:07:23.92 ID:JvE4goeo
天庵様が明日の番組でNHKデビュー

先人たちの底力 知恵泉 年末SP「負けたのによく生き残った!戦国武将特集」

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/29(火) 01:42:58.86 ID:0tvEr/AT
小田家関連がNHKで放映されると聞いて飛んできました
やったぜ天庵さま

仙千代奪出

2018年05月28日 17:28

森長可   
958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 09:59:11.73 ID:G3/hr0Wa
本能寺の後、信州より居城兼山に帰ってきた森長可は言った
「弟である乱丸、坊丸、力丸は討ち死にしたという事だ。信長公も御生害なされ、
この上は京に上っても意味がない。
岐阜の城にいる、残る弟の仙千代(森忠政)を奪い取ろう。
しかし人数多くては無理であろうから、井戸宇右衛門一人供をしろ。」

宇右衛門畏まり、加えて下人少々召し連れ、主従6人にて岐阜城に忍び入った。
日暮れまで静かに待ち、人質を置かれている家に、長可一人忍び入った。
傅役として付けられた各務長助13歳、仙千代14歳、二人共に手を取り家より引き出し、
城の下十丈ばかり(約30メートル)の谷底に大きな布団が用意してあり、
井戸宇右衛門その他が待っていた。

長可は二人をその布団の上に飛び降ろさせ、下に落ちると馬に乗せ、豆渡りの渡に向かい、
浅瀬に馬を入れて難なく川を越え尾張の地に入った所で夜が明けた。
そこから馬を早め、その日の内に兼山へ入った。

兼山で待っていた御母公は、「七世の孫に逢ったような心地です」と、喜ぶこと限りなかった。

(兼山記)



959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:07:42.11 ID:kUWGZNYS
30mと言うとマンションの10階位の高さか...
こわっ!!

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 12:38:40.87 ID:DVaPyOBu
布団でなんとかなる高さなのか・・・
かなり、高さは盛ってある感が。でも、岐阜城だと、山の上だしなあ。

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/28(月) 18:46:24.88 ID:homQuwcC
布団にまいて落としてなかったっか?

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/30(水) 22:48:48.01 ID:8830ayA8
>>960
すまんけど、ちょっと布団持って行ってやって来てくれよ
報告よろ

瀬田橋乗打

2018年05月27日 16:40

森長可   
804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 09:42:07.54 ID:Y4V4mLfi
織田信長が天下を掌握した頃、内裏修理のため伏見に滞在し、またこの普請のため
国々の大名残らず上洛した。ここで信長は、瀬田の橋に関を設け、家中実名を尋ねた上で
通過させるようにと命じた。

このような中、森勝蔵が家中の面々を引き連れ瀬田の橋へと指し懸った。
関守の侍たちが出てきて「上意であります。下馬をして家名実名を名乗り通って下さい。」
そう声をかけたが、勝蔵は

「それは許してもらおう。私は濃州住人森勝蔵と申す者である。御帳に書いておけ。」

そういい捨てて通ろうとした。関守の侍たちは驚いて馬の口にすがり
「そんな事で通せるものか!その上乗打など以ての外!」そう叫んで、鑓長刀などを
番所から出してきて色めき、絶対に通さない姿勢を示した。

勝蔵はこの様子を見ると
「なんと心得のない者達だ!乗打だと!?公方の御前ならばともかく、汝らごとき
侍分の為にこの勝蔵に下馬をしろと!?推参である!」
(元来心得ス者共也、乗打トハ何事ソヤ、公方之御前ニテアラハコソ汝等如キ侍之為す分ト
此勝蔵ニ下馬トヤ推参ナリ)

そういって太刀を抜き、2,3人の首を落とし諸鐙をかけて橋を走り通った、
関守の侍たちはこれを大勢で追いかけ、大津膳所の町口の木戸を早く閉じるよう
呼びかけた。町人たちは二ヶ所の木戸を閉じようとした。しかしこれを見た森勝蔵が

「ものども!火を懸けよ!」

と叫んだため、町人たちは驚き木戸を開いた。ここから勝蔵は急ぎ伏見の信長のもとへ向かい、
御前に罷り出でると瀬田のことを詳細に申し上げ、「切腹つかまつる覚悟」を伝えた。

これを聞いた信長は笑いだした
「昔五条の橋にて人を討ったのは武蔵坊だとか。汝も今より武蔵と名を改めよ。」
そう、非常に機嫌よく仰せに成った。
万座の人々は「実に忠ある武士の例かな。」と羨ましく思った。

勝蔵はその年の内に侍従の位に上り、森武蔵守長可と名乗った。

(兼山記)

鬼武蔵には自分の命令を違反されても自分が命じた関守を殺されても嬉しそうな信長公



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 12:15:38.40 ID:hpLrEv3C
史実だと武蔵守を名乗るのは信長死後の話だけど
いかにも鬼武蔵らしい逸話だな

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 14:15:52.36 ID:YRLqfHWA
字が書けなかったからだろ
記帳させたらバレるもんな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/27(日) 15:44:17.34 ID:XRtYoX8J
あの有名な妻宛の長可の遺言状は自筆だぞ

片岡新助の事

2018年05月26日 21:18

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 00:04:52.15 ID:JTn93BHt
大和国葛上郡片岡という所に、片岡新助という人物が居た。この人はもともと小身であったが、
和州における代表的な武功の人であり、筒井順慶の姪聟となり、徐々に身代も増え、八千石ほどを
得た。

ところが、筒井順慶が松永久秀に敗れ宇陀郡にて牢々した。この時は国侍から筒井一門の
歴々まで久秀に随臣したのであるが、片岡新助ただ一人は久秀に従わず彼の敵と成った。
そこで久秀は2度に渡り片岡に攻め寄せた。

久秀の居城である信貴山城からわずか三里ほどの場所に河合という砂河があり、通常は歩いて
渡れるが、水の出る時には船で越す必要があった。
片岡勢はこの河端まで、山伝いに打ち出た。そして松永勢が半分ほどこの河を渡った所で
横合いの木立より急襲したため、松永勢は持ちこたえることが出来ず敗軍。この時松永勢の
能き者達多く討ち死にしたという。

その後、再び攻め寄せてきた時は、片岡新助は城を出ず、城下まで敵が押し寄せたとき、城の西北
より人数を突撃させたところ、寄せ手は敗軍に及び首級多く片岡に取られたという。
その後は松永勢が片岡を攻めること難しく、龍田方面に抑えの城を造り番勢を入れ置いた。

ところがそんな中、片岡新助が35,6歳という若さで急死した。彼には弥太郎という子があったが、
これは若輩で、しかも病弱であったため、満足な戦働きも出来ず、武勇も新助ほどの才能は無かった。
そのため、程なく松永勢は片倉に攻め寄せ、難なく城を乗っ取った。弥太郎は落ち延び、在々にて
牢々した。

その後、大阪の陣の時に譜代の者たちを召し連れ豊臣方として籠城をし、大阪落城後は
法体となり雲巴と号し大和に居住した。近年に成って亡くなられたという。

(大和軍記)



799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 11:34:56.24 ID:J33s2xgX
大和の国侍って、大坂の陣で没落した連中が多いなあ。
一族の大黒柱を失って、一気に勢力が解体した話か。最初の二戦の大勝で、おおすごいと思ったら。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 14:12:01.83 ID:CDR2q/8a
大和の国衆はなんだかんだで興福寺が中核だったけど、信長の頃から国主を別に定めた事で
より結束を失ってバラバラになって行った感じ

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 16:36:09.08 ID:w7NzEW19
松永が謀反するからダメなんだ
筒井の台頭を許した

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 19:39:17.29 ID:3YltmG36
仮に松永が大人しくしていたら、もっとはやく大和周辺の寺社勢力の弱体化ができたのかな

我が孫に似合いたる申し付け様なり

2018年05月25日 20:08

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 14:41:32.99 ID:xEuNUbXd
我が孫に似合いたる申し付け様なり


尼崎城は池田家の縁者で幼少の建部三十郎(政長)が城主だったため
慶長19年5月21日、家康は池田利隆の家臣池田重利を摂津尼崎代官とした。

10月27日、家康は池田利隆を呼んで
「尼崎は西国往来の要路で兵糧運送の喉である。これを大坂に取らせては
 ならないので、早く播州に帰り多くの士卒を尼崎城に入れて守るように」
と指示したので、利隆は家臣の田宮対馬(長勝)*らを送っていた。

ところが大坂の陣が始まると、尼崎城では進軍用の小舟を借りにきた
片桐且元を疑い取り合わなかったので、城の周りの片桐の兵が大野修理亮に
多数討ち取られて、茨木城に帰っていく事態となった。

大いに怒った片桐は使者を板倉伊賀守に送り、板倉が関東に伝えると
大君(家康)も大いにお怒りになり
「武蔵守(利隆)の者共が尼崎にありながら
 どうして片桐の兵を見殺しにしたのか糺明せよ」
と板倉に仰せ付けた。

板倉が西宮に陣取っていた利隆公のところに来てそのことを申したので
利隆公も大いに驚いて
「私はそのことを知りませんでした。尼崎の者共に訳を聞きます」
と言って尼崎に使者をやり穿鑿させた。

尼崎の者共が"そもそも片桐を助けたくても無勢なので助けられなかった"と
返答しようとしたので、田宮が進み出て
「その返答はよくない。ここは要路なので多勢をもって固めるようにとの
 直接の上意だったのに、城中が無勢だったとは申すべきではないだろう。
 それがしが申し分を考えよう」
と言ったので、使者には田宮が考えた以下の申し分を返答した。

片桐の兵が討たれているとき、尼崎城中では助けようとしたが田宮対馬と
申す者が出てきて"お助け無用"と止めてきた。田宮に理由を聞くと
「城をよく固めよとの上意で武蔵守殿が我々を配置したのだし、尼崎は
 海陸に道があるので一方より誘き出され、搦手の納戸のような所から
 攻め落とされたらひとたまりもない。天下の大事に比べれば片桐の者共を
 助けないことは落ち度ではない。この西国咽頭の要害を敵に取られる方が
 主君の弓矢の落ち度になり、天下の大事になってしまうのだ。」

「迂闊に城を出て、敵に足元を掬われたらどうする。ここの難波口木津表で
 中入りによって原田備中(塙直政)は討死し、それで信長公は災難に遭われた。
 勝入公が長久手で敗軍したのも、中入りの手立てが不調に終わったからだ。
 一人も助けに出てはいけない。大体片桐の兵のようではあるが、万が一つ
 我々を誘き寄せる為の大坂の偽兵かもしれないのだぞ」
と田宮が申したので、城兵で相談して片桐勢をわざと見殺しにしました。

使者からこの返答を聞いた利隆公は、この趣を一書にしたためて板倉方に渡した。
大君がこの一書を御覧になって
「輝政は日頃矢に念を入れていたから、下の者もその風を忘れずにいたのだな。
 今度の仕方は、我が孫に似合いたる申し付け様なり。
 尼崎城外で何があろうと出合いはせずよく城を守るように」
と仰せになり事が済んだという。


――『池田氏家譜集成』

* 池田利隆の家臣。のちに家康の命により徳川頼宣の家臣として800石で仕える。
 居合を主とした剣術「田宮流」の2代目とされる。



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 18:29:45.98 ID:4ko1/ESr
抜刀田宮か
修羅の刻で見たような記憶が

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 20:21:58.17 ID:Lm1qhWqo
充分に兵力を入れていなかったのを、いい抜けた話か。

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/25(金) 23:54:44.12 ID:cMVWVWaf
片桐の兵共々鉄砲で追い払えば良かったのに

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/26(土) 18:48:06.81 ID:HOWgnCDb
そんなことできるのは伊達さんだけ

戸次道雪勢の宗像攻め

2018年05月24日 20:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 19:58:03.65 ID:TakCX18k
筑前国糟屋郡立花の城主は、大友宗麟の股肱の臣、戸次入道道雪であった。
この道雪は、智仁勇の三徳を兼ねた人であるので、筑前に召し置かれ、原田、秋月、千葉、
千手、筑紫、高橋らを攻めて豊後の屋形の幕下となし、肥前の龍造寺隆信をも攻め従え、
薩摩の島津との九州支配をかけた争いの時に備えた。

しかし宗像の大宮司は、大内殿の頃より山口に参勤して幕下となり、陶晴賢が亡びた後は
毛利元就に属して大友に従わなかった。

これについて道雪は考えた。
『先ず、宗像を攻め従えれば、龍ヶ岡の城主・杉十郎貫並も、烟ノ城主・香月七郎経孝も、
山鹿城、花尾城、剣嶽城までも、残らず手に入れることができる。

幸いにも近年宗像氏貞は、城普請に財を費やし。家中に十分の一の役料をかけ、民百姓にも
課役をかけて、領内衰微し粮も乏しい。
その上、名のある老臣、武勇の士は山田の怨霊によって取り殺され、氏貞自身も博多津の
聖福禅寺の玄蘇和尚を招き、禅法を学び詩歌ばかり成し、家中もその風に靡いて武事を
怠っているという。

この虚に乗じて、宗像を攻め滅ぼすべし!』

こうして、大山対馬守、小野和泉守、由布美作守、薦野三河守、安部、十時、森、原田、吉弘
を始めとして軍勢を集め、永禄十年九月に立花を出立して飯盛山に陣を取った。

宗像氏貞はこれを聞いて、急ぎ飯盛打ち越して追い払うべしと、吉田伯耆守重致、許斐安芸守氏鏡、
占部右馬之助氏時、石松但馬守、米多比修理進貞兼、畔口伊予守益勝、吉田左近貞延を始めとして
都合二百余騎の軍勢にて飯盛山に押し寄せた。

その頃、敵は先ず許斐の城を攻めてその後維ヶ嶽に攻め寄せんと支度をし、飯盛山にて諸卒兵粮を
つかわしめんと、野陣をしたばかりであったため、この宗像勢の急襲に慌てふためいた。

宗像勢より黒糸縅の鎧を着て栗毛の馬に銀幅輪の鞍を置いて打ち乗った武者、一騎駆け出して
「吉田勘解由左衛門致晴である!」と名乗り真っ直ぐに進んで

「日頃、立花の人々は、『宗像大宮司の長袖烏帽子のヘロヘロ矢、何程の事があろうか。』
などと嘲弄されていると承る。神職の者の射る矢が立つか立たぬか受けてみよ!これ神通の
鏑矢なり!」

そう弓を引き絞って射放った。その矢は、正面に居た立花方、原田源五郎の胸板を貫き、
その後ろに控えていた、原田源助の草摺の端まで射通した。

これを合戦の始まりとして、互いに揉み合って戦ったが、既に日暮れに及び、この立花勢を
率いていた小野和泉守は
「日が暮れて他領に陣する事は不覚である。急ぎ引き取れ!」
と撤退を指示し、莚内新原方面に退き、立花城に帰城した。この時宗像勢の討ち取った首
百七十三は、のちに立花に送り届けられた。

この後、立花勢と宗像勢は小規模な衝突を繰り返したが、元亀元年、両家の家臣たちの計らいにより、
宗像氏貞の妹を立花に嫁がせ、双方講和を結んだ。

(宗像軍記)

宗像と戸次道雪との合戦についての逸話。合戦のきっかけが「怨霊で弱ってるからチャンス」というのも珍しい


山田の怨霊


947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 20:32:06.26 ID:4Xit32je
ヘロヘロ矢
こう言う擬音使うんだね
なんか和むわ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:17:08.94 ID:JBrXXdXb
怨霊などと苦しい言い訳だな

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 23:21:14.32 ID:3MSEcnfi
まあ、後継者問題で家中がゆれてたんだろうな。その隙を狙われたけど、撃退に成功したわけだ。

山田の怨霊

2018年05月23日 18:01

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:33:48.62 ID:9bph0DTt
天文二十三年三月二十四日、前日の二十三日に故宗像氏男の後室と娘を殺した吉田飛騨守と峰玄蕃は、
家老である石松和泉守の宅へ行き、
「陶全羨(晴賢)の命により昨夜後室、姫君を殺し申したり。この旨を大将である宗像氏貞様へ
言上いたしたく、これについて、和泉守殿も同道して頂きたい。」と申し入れると、和泉守も
「尤もである」と同じて、3人で御前に罷り出て申し上げた

「全羨より仰せ付けられた趣を以て、氏男の後室姫君を殺しました。これも大将の御為の忠義と
存ずる故であります。」

実は氏男の後室は氏貞の腹違いの姉であり、彼はこの事を非常に嘆き悲しんだが、全羨入道の
指図ということであればどうにも出来なかった。

後室、姫君の遺骸は石松、許斐、占部、吉田といった家臣たちにより、増福禅寺に葬られた。
後室を栄林院妙周、姫君を心源院妙安と号した。
作法通りに法事が執行され、墓を築いて翌朝これを見ると、母娘の二つの墓は、四つに破れていた。

これを知った吉田飛騨守は大いに驚き、鎮国寺の僧侶である法念という者を招いてこの事を告げ、
祈念するよう求めた所、法念は「我に秘法あり、怨霊をして畜生道に堕在させれば祟をなすこと
できなくなります。」と、巨大な釜を鋳させて墓を覆い、その上に糞土を覆いかけ、邪術を
行った。ところが、その術がいまだ終わらぬ前に、身の丈ほどの髪をうち靡かでた女性が現れ、
覆っていた釜はたちまち砕き割れ、法念はこの破片に当たり即死した。彼の胸のあたりには、
3つの穴が空いていた。

その夜、吉田飛騨守も法念と同じ頃に、胸に穴ができ心身悩乱して
「今我山田の怨霊のために突き殺される!たすけよ!たすけよ!」と絶叫して死んだ。
飛騨守の妻も狂乱し「胸痛や!」と叫び苦しんでいたが、そのうちに

『我は氏男の後室であるが、汝が男に胸を刺された苦しみ、今思い知らせよう!』

そう罵り叫び、心身悩乱し、十余日過ぎてこれも胸に穴出来て狂い死にをした。その他吉田の一族、
峰氏の一類、同じ日に十七人まで胸痛に悩乱して死んだ。

弘治元年正月二十三日、山田の怨霊は野中勘解由に祟った。野中は「私は吉田飛騨守と断金の
友である故に、後室姫君を殺せと談じた罪逃れがたい!今、我が生命が召し取られる!
ああ、胸が苦しい!」
そう叫んで忽ち死んだ。

同年十月二十三日の夜、陶全羨の夢に、婦人が幼女を連れ、侍女四人を従え全羨の枕元に立った。
『我は宗像氏男の妻である。我に何の罪があったか。讒者の実否をも正さず殺害した、その怨み
深い。汝を殺してその家を滅ぼすべし。』

果たして十一月朔日、毛利元就に攻められ陶全羨は自害した。

弘治二年三月二十三日、宗像氏貞の十五歳になる妹が俄に狂病に罹り群臣に向かって罵り叫んだ
『大逆非道の者共かな!我が胸を見よ、この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば
力なし。怨むる所は家臣共に有り!』
そう喚いて二十三日の夜半に忽ち死んだ。氏貞は大いに驚き、弘治三年の春、「妙周妙安の
御霊を祭るべし」と田島の坤ノ山に一宇の社を建立して氏八幡と号して神事をなし、
かつ毎月二十三日かた二十四日までは増福禅寺の本尊地蔵菩薩の御前にて衆僧を集め法華経を
読誦させた。

幸いにも、殺害されたのは二十三日の五更(午前三~五時)であった事より、月待の二十三夜の三夜供養にあわせ、
妙周妙安が地蔵菩薩の化身であると、様々な事を成して怨霊を宥めた事で、亡魂もそれなりに嬉しく思ったのか、
氏八幡の巫女に宣託し
『今は氏八幡として祭られ、本地は地蔵菩薩となりぬること嬉けれ。荒れる霊も治まるべし。』
と聞こえたという。
末世とはいえ、不思議なる事共である。

(宗像軍記)


山田事件



941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:41:13.82 ID:L8aloBMb
>>940
怖い話になっとるw

>この苦しみ氏貞へと思えども、大神宮の神職なれば力なし。
妙にリアルだな(´・ω・`)

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 15:56:16.03 ID:VkStT/Ab
怨霊を鎮めるのではなくて地獄に堕とすとか駄目なやつだよね

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 19:01:51.36 ID:tYfyA9ZY
20人以上呪い殺すとか、歴史に残るレベルの怨霊じゃね・・・

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/23(水) 20:32:18.64 ID:vVQTpGDO
>>940
全然いい話じゃない orz

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/24(木) 03:17:46.36 ID:kjZ5Tp+r
早良親王「なにそれ怖い」

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2018年05月23日 16:19

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水谷蟠龍斎、家重代の刀剣を売る 30

山中行軍での用心 13

雨月物語 菊花の約 11
宗像大宮司より見た大寧寺の変 9
【雑談】葬送について 9

殿は不思議なるお生まれ 8
家の宝を焼いたこと 6
【web記事】古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨 6
寛永2年6月17日の。肥後地震被害について 6

宗像氏男跡目の事 5
山田事件 3


今週の1位はこちら! 水谷蟠龍斎、家重代の刀剣を売るです!
これは本当にいいお話ですね。戦国期の領主にとって譜代家臣と領民、この二つが双輪であることをよく表していると思います。
いくら家重代の宝が有っても、この双輪のどちらかが潰れれば領主としても武将としても成り立たない。そういうことを、この
水谷さんはわずか20歳(!)にて悟っていたのでしょう。
また百姓たちの反応も本当に良いですね、豊作になったから水谷さんの売った刀を自分たちで買い戻すとは。
このあたり、ただ恩を受けるだけの存在ではない、この時期の百姓衆の自立や自負を感じます。
総じてみんなかっこいい、そんな素敵な逸話だと思いました。

2位はこちら!山中行軍での用心です!
これも本当に、何よりも合理主義が大好きな家康らしいお話ですね。家康の凄い所は、彼自身も行動もそうですが、
それがかっこ悪く見えてもまるで気にしない所だと思います。何より大切なのは目的を達成するための合理的方法であり、
それが出来れば形は気にしません。人間、ある程度偉くなるとどうしても無駄に格好をつけたがるものなのですが、生涯そういう
感覚が見えない所なども、家康も常人ではないなあ、なんて感じます。また部下がそういう、不細工でも合理的な事を考えた時、
それを積極的にフォローしてくれるのも心強いですね。
惣じて、家康は良い上司だったのだろうな、と感じさせてくれる逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!山田事件です!
非常にエグい逸話で、ここに出てくる吉田飛騨守は自分の保身しか考えていないように見えます。
しかしこういう事が、宗像家のみならず、当時の大大名に従属していた中小国衆が多かれ少なかれ味わった悲哀なのでしょう。
従属し、保護を受けることの代償が、こういった家中への介入となり、そこに様々な摩擦や悲劇が生まれたこと、想像に難く
ありません。
戦国大名に従った国衆の家の多くに、様々な形の「山田事件」があった。そんな事も感じさせてくれる逸話だとも思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話に頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

山田事件

2018年05月22日 21:21

785 名前:1/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:01.30 ID:yNjh7yJS
天文23年2月下旬、宗像家の家臣の中に、陶全羨(晴賢)き媚びへつらうものあり、
周防国に使いを立て讒言を行った
宗像氏男の後室は山田の邑に有り、旧好の臣達に密かに命じて、息女を豊後大友の方へ
遣わし、宗麟の子息のうち何れなりとも婿として宗像の家督を譲り、全羨様より遣わされた
氏貞様を攻め殺そうと議されております。ご油断なきように。』

これに全羨は大いに怒り、
「後室息女は先だって、男子を殺した時藍島に流すべしと申し渡したはずなのに、山田の邑に
召し置いているとは心得がたい!そういう事なら、宗像家の男子を殺したというのも偽りであろう。
この男子成人の上は彼に家を継がせるつもりなのだ。今は天下争乱の時であるから、この入道の
威を借りて暫くは当家に従う色を見せ、氏貞は私が宗像に遣わしたから、已むを得ず仮の主君として
頂いているのだろう。

急ぎ氏男の後室および二人の子供を殺し、その首を持ってくること無ければ、大軍で押し渡り
白山城を攻め破り、一人残らず妻子共に串刺しにすべし!」

そう、江良源左衛門賢盛を使いとして宗像家中に命じた。
これを受けて宗像の群臣は、石松和泉守の宿所に集まり詮議を行った。意見はまちまちであったが、
許斐氏鏡、占部貞安進み出て
「これはおそらく、家中に讒者があり全羨に悪しく申したものと考えます。あのように申せば
全羨が立腹するのも当然でしょう。ですが、後室息女共に何も知らず、明け暮れ山田の草庵にて
氏男様の菩提を弔い、また殺害された男児国丸様が、今も吉田飛騨守の元で養育されていると信じ、
毎日法華経を読誦し、その無事を祈られています。そのような方々を無下に殺すなど出来るでしょうか!?
遠賀の高倉に移し隠し置いて、全羨には事の仔細をありのままに申しましょう。
男子は先だって殺したことは事実です。また後室の陰謀ばるものは跡形もない虚言ですと申せば、
女子の事ですから、何事が有るでしょうか。ただ、後室母娘を高倉に遣わすべきです!」

そう申した所、吉田飛騨守が進み出た
「私は国丸様を預かりますと後室に嘘を言って殺害しました。しかし陶全羨は私が助け置いていると
疑われ、山口に召喚して殺すとの事です。またこの事が後室のお耳び入れば、私が今まで後室を
騙し奉り、3年前に国丸様を殺した罪は逃れがたいものとなります。
あなた方はいか様にも道を立てられよ。この飛騨においては、全羨の命に従い氏貞様を主君と
奉る上は別の主君など持ちません。後室息女を殺し全羨に首を見せ、3年前に国丸様を手に掛けた
ことも正直に申せば、我が身の科を免れ、また宗像社務七十九代の後栄ともなるでしょう。」
そう、言葉荒く申し、辺りを払うがごとく見えた。

占部日向守が進み出て「この上は誰に憚ることもない。氏貞様は年若いが我らの大将である。
明日、この事を申し上げて、氏貞様のお計らい次第に従うとしよう。」と申すと、各々も
最もであると同意し、この日、三月二十三日の評定はこれにて終了し、それぞれ宿所へと
帰った。

しかし吉田飛騨守は妻の弟である峰玄蕃を呼び
「今日の石松和泉守宿所での詮議では、占部、許斐の一族は道理を立てるような者が多く、老臣である
石松和泉守の言葉も出ぬ前から何かと申し立てたこと心得難い。あれでは明日氏貞様へどのように申す
だろうか。そうなれば我らの身の上にも大事となるだろう。
そこで、今夜の内に山田の邑に行き、後室息女を殺すのだ。お前も来い。」

玄蕃は驚き止めた
「これは大事の思い立ちです。しかしやはり、明日の御詮議次第とすべきではないでしょうか。」

786 名前:2/2[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 00:07:35.16 ID:yNjh7yJS
ところが彼の姉である飛騨守の妻が説得した
「既に歳五十となる飛騨守の申される事に従わないとは何という若輩者でしょう。私達はあなたの
行く末を思えばこそ、代々の主君の妻子を殺すと申しているのです。飛騨殿のお供をして山田へ行き、
殺してくるよう、偏に頼み申します。」

そして飛騨守は
「ならば、私の存分ばかり聞いた所で納得しないだろう。中山勘解由左衛門は私の知古の友であり、
また石松和泉守は此の家の大老でも有る。この二人に相談いたせ」という。

玄蕃は先ず野中に相談すると、似るを以て友というが、彼もまた大悪人であり飛騨の意見が
尤もであると同意した。その足にて石松和泉守と談じたが、彼は既に七十あまりの年齢で、
老いぼれとなり人の言うことに従うだけで、もはや善悪の判断もできなくなっていたため、
「いかにも飛騨の申されること理り至極」と言うばかりであった。

そうして飛騨守は「今はこれまでぞ、明日まで引き伸ばせば何が起こるか解らない。」と、
玄蕃を同道して山田の邑に参り、後室の侍女に申し上げた

「実は俄に藍島に朝鮮よりの流船が来たため、我らはその見聞に遣わされる事となり、
その御暇乞いのためまかり出ました。」

これに対応した花見の少将と申す女房は
「今夜は二十三夜の御月待のため、今御行水をされております。暫くお待ち下さい。この事を
申し上げてきます。」
と申し、暫く待っていた所、後室は浴室より出て、姫君と共に窓前に座した。
少将が「吉田飛騨守、峰玄蕃が明日藍島への御用にて渡海すると、先刻より御暇乞のためとして
罷り出、お待ちされております。」と報告すると、後室は
「ならば待ちかねているだろう。ここへ」と飛騨を召され、玄蕃もそれに相従った。

飛騨守に向かって後室は言った
「この頃、うち続いて夢見が悪く、気にかかることが多いのです。どうでしょう、国丸殿には
何事も無いでしょうか?久しく見ることもなく、懐かしさだけが募ります。どうか良く良く、
養育をして下さい。」

そう言い終わらぬ内に、飛騨守は後室の御前に駆け寄り懐中より氷の如き短剣を抜き胸のあたりを
刺し貫いた。彼女は「あっ…」との言葉だけを最期に、そのまま空しくなった。
同時に峰玄蕃は姫君を刺殺した。
侍女である小少将、花見の少将、小萩、月白の四人は混乱し、「これはいかなる事か!?」と
両人に取り付いたが、彼らは二刀づつ刺し通し、四人共に斃れた。あはれと言うも愚かである。

(宗像軍記)

宗像家における「山田事件」についての記述である。


宗像氏男跡目の事

山田の怨霊



787 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/22(火) 07:48:43.97 ID:m1d/dBwZ
うーむ、えぐい。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 14:54:20.06 ID:hFRPbsPL
>>786
>うち続いて夢見が悪く
カーチャン…

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/22(火) 15:10:48.60 ID:fU0KShZ6
国丸って氏隆のことか?96まで生きてたよな

雨月物語 菊花の約

2018年05月21日 17:21

931 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:15:50.96 ID:IVDC596W
播磨国、加古の宿に丈部左門と言う儒学者が年老いた母と暮らしていた。
左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
万事簡素に暮らしていた。
左門の母も賢母ではたを織る事を仕事として左門の志を助けていた。左門には妹が1人いたが、同じ里の裕福な家へ嫁いでおり、
妹婿一族は左門親子の性格を慕って何かにつけ生活の援助をしようとしたか、左門はそれを断り、母に孝行し、質素な暮らしを続けていた。
ある日、左門は知人の家で病に苦しむ旅の武士に出会った。
知人が言うにはこの武士に宿を求められ、貸した所その晩から病に倒れ、3-4日が経ち困っていると言う。
左門は看病を申し出たが、知人は流行病だから左門に罹ってもいかぬと止めたが、左門はそれを押し切り懸命に武士を看病した。
その甲斐あって武士は快復し、左門に礼を述べ素性を語った。
武士は赤穴宗右衛門と言い、出雲の富田城で城主の塩谷掃部介に招かれた軍学者であったが、密使として出雲の国主を務める近江の佐々木氏綱の元へ遣わされていた時、
出雲では塩谷掃部介が尼子経久に城を乗っ取られて討ち取られ、宗右衛門は佐々木氏綱に塩谷の仇を討つ事を申し出たが氏綱は動こうとしないどころか、
宗右衛門を近江へ押し留め、何とか抜け出して出雲へ帰ろうとした所、この加古の宿で病に倒れたとの事だった。
2人は意気投合し、親交を深め遂には歳上の宗右衛門を兄、左門を弟として義兄弟の契りを結ぶに至った。
宗右衛門は左門の家に逗留し左門の母にもよく尽くした。左門の母も息子に良き義兄ができたことを喜んだ。
3人の生活が始まってから春から初夏に差し掛かった頃、宗右衛門は一度元の目的地であった出雲へ帰る事を左門に告げた。そして出雲の様子を見届けたらまた必ず帰って来ると。
左門の何時戻るかと言う問いに、宗右衛門は九月九日、重陽の節句を約束の日と固く決め、2人は再会の約を定め宗右衛門は出雲へ旅立った。

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:22:08.19 ID:IVDC596W
月日が経ち約束の重陽の節句の日が訪れると、
左門は家を掃き清めて菊の花を飾り、酒肴を用意して宗右衛門の到着を待った。
しかし、夕刻になっても宗右衛門は姿を見せない。左門の母も遠方のことだからと慰めたが、
左門は夜になっても外で宗右衛門の到着を待った。
そして深夜、左門が諦めかけた時、生温かな風と共に一人の人影が左門の前に現れた。それはまさしく宗右衛門であった。
左門は嬉々として義兄を招き入れ、酒肴の席につかせたがその義兄は義弟の顔を見てもどこか暗く、
消沈した様子で左門が出した酒肴に対しても顔を背け左門が母を起こしてこようと言うと、首を横に振り漸くその口を開いた。

出雲に帰った宗右衛門だが、もはや出雲の国人どもは皆尼子経久に靡いてしまい誰も塩谷の恩を顧みる物は居らず、
従兄弟の赤穴丹治が富田の城にいるので訊ねたが、丹治は宗右衛門を経久に仕えさせようとした。
仮にその言葉を受け入れて、よくよく経久の所業を見申したが、万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。
暇を請い左門と菊花の契りがあることを話し去ろうとすると、経久は丹治に命じ宗右衛門を城に幽閉したのだという。

そして幽閉されたまま、ついに今日という日が来たが左門との約を違える事を苦に思った宗右衛門は、自らの命を絶ち、
魂魄と成って百里の道を越えて左門との約束を守る為来たのだと語った。
そして、宗右衛門は左門と眠っている左門の母に永遠の別れを告げるとふっと姿を消した。

左門は慟哭し、その声に目を覚ました母に今あったことを告げると、
当初は信じなかった母も息子の様子に只ならぬものを感じ、共に泣いた。

左門は宗右衛門の弔いをする為、妹婿一家へ母を預けると出雲へ旅に出、
義兄の死の一因となった赤穴丹治に面会すると、丹治の行いを非難し一刀のもとに丹治を斬り殺すと姿をくらました。
大騒ぎとなったが尼子経久はこのことを伝え聞くと、兄弟の信義の篤さを哀れに思い、
あえて左門の跡を追わせなかったと言う。

雨月物語 菊花の約

元々は中国の逸話だけど、尼子経久がディスられてる逸話だったので



933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:24:58.41 ID:6DQdr9AC
>>左門は志高く、清貧に甘んじ、日夜親しむ書物の他は身の回りの諸道具類など煩わしいと、
>>万事簡素に暮らしていた。

情熱大陸とかプロフェッショナル仕事の流儀に出てそう

934 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:30:47.27 ID:TZDOqU9w
しかし戦国の時代にあって儒学者ってどうやって食い繋いでたんだろう?

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 23:35:10.66 ID:clAtfEj5
最後の追わせなかったあたり、尼子経久が情を分かる人間扱いだったのではなかろうか。

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/20(日) 23:52:25.79 ID:IVDC596W
>>935
長いので略したけど、一応経久さんがこの兄弟の行いを美しいと感じ入り、
また自分の行いを反省して追っ手を出さなかったという事になってます。

後、冒頭と最後に軽薄な人と友情を交わすものではないという趣旨の文が入ってます。
これでもかなり端折りましたので菊花の約(契)でググると全文の現代訳を載せたサイトがいくつか出てくるので、
そちらを読むこともお勧めします。現代的に言うとBL的な話にもなるそうなんですが・・・

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/21(月) 00:31:06.56 ID:qWRQBKFt
ひょっとして>>932の
>万人にも当たる勇気に優れよく兵士を訓練するとも言えど、
>智者に疑い深い心を持っており、主君と心を一つにし手足となって働くような家臣もいない。


これを知っていたからこそ尼子経久は天性無欲の人と言われるくらい何かある度に家臣に自分の物を分け与えて、心を繋ぎ留めようとしたのかも…
後世の創作話だから必ずしもその当時の実情と一致はしないかも知れないが

宗像氏男跡目の事

2018年05月21日 17:17

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 10:14:49.21 ID:14KKaOvu
宗像大宮司氏男が長門国にて大寧寺の変に巻き込まれ自害したことが告げられると、
筑前国白山の城に残っていた家臣の石松加賀守、吉田飛騨守、占部貞安、許斐氏鏡といった
重臣たちは、氏男の先々代の大宮司である宗像氏続入道良喜(氏男の叔父、もしくは大叔父)を
呼び相談した。
「氏男様には七歳の女子、そして今年三歳になる男子がおられます。宗像の家督はまだ、
どちらも継げる状況ではありません。二人の君達が御成長されるまで、良喜様が再び白山に
入られ、大内の御下知を承って宗像の家督に付いていただけないでしょうか。」

しかし良喜は
「私はもう齢70であり、そんな明日をも知れぬ身で大勢の人を扶持しこの乱世に幼い子供の
後見をするなど無理である。その上神宮の祭事なども誰が勤めるべきか。
ここは陶入道全羨(晴賢)の元に使いを出し、大内殿の末葉の人を申し請け、女子に娶らせ
宗像の家督と定めるべきであろう。」

そう申され、家臣団もこれに同意して、占部越後守賢安、大和治部丞秀政を両使として山口に
派遣し、全羨に訴えた所

「その事なら宗像の家に縁のあるものを差し遣わす。ここに黒川形部少輔隆像の子に、鍋寿丸という
十五歳の男子が有る。彼は宗像氏男の妻の、腹違いの弟である。また私にとっては姪の産んだ
子でも有れば、いよいよ鍋寿丸に過ぎたる者はない。彼を元服させ、左衛門尉氏貞と名乗らせ
これを宗像の家督とし大宮司職に任じよう」

と有り、これに良喜入道も家臣団も同意し、「ならば迎えを遣わすべし」と決定した。

ところが、この左衛門尉氏貞がまさに筑前に向かおうとした時、いかなる野心の者がいたのか、
陶全羨にこのように告げた

「宗像の家臣の中には、氏貞を主君とするのは不道であり、幼いながらも氏男の男児があり
これを守り立てようという者たちが多く、この方針に決定し、氏貞を呼び寄せ鴆毒を薦め
殺そうと、相謀っているのだと取り沙汰されています。」

これを聞いて全羨は激怒し、宗像家中に対して使いを出して命じた
『急ぎ、氏男の後室、および女子は藍島に流すべし。三歳の男子は刺し殺すべし。
この義に背くならば白山の城を攻め破り家臣残らず討ち殺す。』
これを再三に渡り伝えられたため、宗像の家臣たちは全羨の威を恐れこの義に従い、
しかし後室、女子を藍島に流すまではないと、山田の邑に隠し置くべきとして、城を追い出し
侍女3,4人を付けて、小さな草庵を結いここに入れ置いた。

三歳の男子は吉田飛騨守が預かって養育するという事になったが、飛騨守は彼の領地である
鞍手郡吉川にこの男子を置き奉ると欺き、乳母に抱かせてそこに向かう途中の山口という場所で
これを刺殺した。
乳母はこの時、慌てふためいて刀に取り付き抵抗したため、彼女も共に刺殺した。
この飛騨守の不道を憎まぬものは居なかった。その後、この男子、乳母の怨霊が祟をなしたため、
一宇の社を建て山口の今宮と号して祭り奉った。

(宗像軍記)


宗像大宮司より見た大寧寺の変

山田事件



782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 14:09:08.85 ID:YPbJw9WL
陶さんは、そうやって周囲のうらみを買っていったんですな・・・

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 14:15:11.11 ID:/F7cGq/K
文治派憎しで公家殺しまくるというわけわかなことやらかしたしなぁ。アホだよ、陶晴賢は。

毛利云々は置いといても、大寧寺の変の直接的な結果として、北九州はまんま大友にくれてやっちゃうことになるし。

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 20:18:50.18 ID:b2R4vdiQ
いやいや北九州を捨てて大友と結んだのは良い選択だと思うよ
後顧の憂いを無くすのは常道でしょ

宗像大宮司より見た大寧寺の変

2018年05月20日 17:51

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 17:45:33.12 ID:YeJdzbDA
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男香月隆光大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変


宗像氏男跡目の事


家の宝を焼いたこと

2018年05月19日 10:30

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 22:39:50.44 ID:xeERsPD+
天文21年のこと。水谷蟠龍斎(正村)の居城の台所に火事が起き、危うく焼け落ちる所を、
家中の者達走り来てどうにか消火をした。

この事より、火事への対策として、城の東の藪の中に五間の蔵を建て、そのうち二間は
番所とし、残りの三間の中に、先祖代々の功名の感状数通、そして所領加増の書付などを
はじめとして、家重代の諸道具、その他高値の諸道具などをここに籠め置いた。
そして家臣の根岸兵庫、河上勘解由の両人を頭として足軽20人を付け、昼夜番をさせた。
殊に火を用いること、固く禁止させた。

そうするうちに、かの番頭両人はこのように話し合った
「この番所は、人の通わぬ場所にある。であれば、実に良き博打打ち所ではないか!」
そして忍び忍びに相手を誘い、昼夜を分かたず博打を打った。

その時はみな博打に打ち疲れ、さらに酒に酔い寝てしまった。この隙に火鉢より火事が起きた。
かの者達は、「火事だ!火事だ!」と叫んで逃げた。
家中の者達かけつけ、蔵の中の物を取り出そうとしたが、10のうち1つも出すこと成らず、
殆どが焼失した。

その後、家老たちはこの番頭2名を探し出し、死罪にすべきであると水谷蟠龍斎に申し上げた。
しかし蟠龍斎はこう言った

「家の宝を焼いて損をした上に、大切な譜代の臣二人を殺すというのは、重ね重ねの
費えである。
前に台所の家事があった故、その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
早々に召し返し、元のように仕えさせよ。

彼らは心こそ阿呆なのであろうが、臆病ではない。
万一の時、役に立つのは譜代である。
さあさあ、早く召し返せ。」

そう仰せ付けられたのである。

(水谷蟠龍記)

正直めちゃめちゃ甘いとは思いますが、確かにいいお殿様ですね。



916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 23:53:55.92 ID:yTxT8aCv
重要書類だの、非常用の高価な品々を焼失させて、許すって、心広すぎる。
しかし、これ、許してもらっても針の筵だろ。同僚からの冷たい目にどれだけ耐えられるか。

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 00:15:53.43 ID:D+THEoGj
水谷さん名君だな。ちと甘いかもしれんが。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 08:44:45.92 ID:shzG6qdW
>>915
地方だから緩いのかと思ったら陸奥じゃあブラック893がいるし品格なんだろうな

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 14:17:51.34 ID:lbvMQOtY
>>915
>その予防のため随分念を入れたのに焼失したという事は、
>もはやそういう運命の時節であったのだろう。全く彼らの咎ではない。
悟ってる…

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 19:46:37.70 ID:DLAIiPg8
>>915
甘いというより徹底した合理主義な印象を受けた。
戦国の世では書状や感状より忠臣が何より価値ありという判断力よ。

殿は不思議なるお生まれ

2018年05月18日 21:18

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 20:08:26.40 ID:l4//1zVI
天文21年の正月のこと。
この頃、水谷蟠龍斎(正村)の領内では、正月に村々の百姓の大人衆が城へ御礼に上がることが
嘉例であった。彼らには供餅一重、並びに酒食が出され、終日の御馳走であった。

この時、百姓たちがこのように言った
「今年は餅が、一回り小さいようですな。」

これを聞いた蟠龍斎は
「餅の大小はお前達次第だ。年貢さえ多く上がってきたならば、餅を富士の山ほどにして
取らせるぞ。」

百姓たちはこれに
「我らは下郎ですから、上を恐れずむさ苦しい事を申してしまいます。それを怒っても当然なのに、
殿は狂を散じる御意をなされ、却ってご機嫌よろしくされています。殿は不思議なるお生まれ
ですな。」

そう申すと、お互い大いに笑ったとのことである。

(水谷蟠龍記)

「場をわきまえないでこんなぶっちゃけたこと言っても怒らず、それに乗っかってきてニコニコしてるなんて、お殿様変わった人だねえ」
みたいな感じでしょうか



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 20:55:26.16 ID:Hj+5d5xo
人間ができてるなぁw

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 21:17:37.60 ID:UpvLuhWb
これ、いい話かなあw
収入の多寡で、供応の内容が変わるって、けっこう露骨だと思うが。

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:16:53.97 ID:phZG3KKg
>>905
ちゃんと読んでるかい?
百姓に負けてるよ

【雑談】葬送について

2018年05月18日 21:17

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 22:12:53.29 ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 22:35:56.88 ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 12:51:36.94 ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:16:12.68 ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 13:17:34.43 ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:22:47.97 ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:52:18.28 ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと~、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 14:20:48.56 ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 18:54:48.85 ID:+2o5eVMZ
モブ武将は鳥葬だったんだろうな

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 19:01:03.56 ID:5UwhWejb
土民による落ち武者刈りで死体漁るわけだけど、火葬して埋葬して塚作るぐらいのことはするんじゃない?

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 21:20:02.73 ID:UpvLuhWb
そういえば、平安時代の京都は、庶民の遺体は放置して、犬に喰われたりしていたんだよなあ。庶民がまともに埋葬されるようになったのって、いつごろからなんだろ。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:12:06.96 ID:kF9DI9BX
>>770
庶民といっても京都と農村部で違いそうだな。
都市部だと土葬場所の確保も穴掘り人も確保しずらいだろうが、農村部なら普段の農作業の延長にあるから比較的墓場や穴掘り人の確保がしやすい印象がある。

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 23:00:06.07 ID:QSNvN+n7
昭和の頃は墓掘り人夫って脅し文句になってたな

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 00:10:03.55 ID:tk8eyJAB
地獄の墓堀人

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 05:20:15.81 ID:XgdJGW5s
平安時代の庶民って鳥辺山で鳥葬じゃないの?

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 06:46:18.32 ID:sHzbvCKD
>>774
他に紫野や化野など、三大風葬地がある。
僧や貴族、皇族は平安時代から火葬してた。

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:29:14.98 ID:yTxT8aCv
病気になった使用人を屋敷外にたたき出すとか、やってたらしい。疫病のときは街路に死体が溢れるとか。

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:48:02.10 ID:sHzbvCKD
>>776
きちんと埋葬していれば、疫病が蔓延するのをある程度抑えられただろうに…。

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 15:05:41.63 ID:XgdJGW5s
それやるな、と指示が出るのは徳川綱吉の時代のことなので

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 19:23:13.98 ID:nrppEGCY
羅生門にあるように肉はご馳走なのだ

山中行軍での用心

2018年05月17日 17:55

902 名前:人間七七四年[mage] 投稿日:2018/05/17(木) 14:36:46.05 ID:K//rCD5n
山中行軍での用心

ある時、家康公が山中を行軍されていた際、鐙に足をかけない者たちをお見かけになった。
家康公は丹沢久助を呼んで訳をお尋ねになった。
丹沢は「馬が暴れたとき、ころりと落馬すれば人も馬も大して手負いしないものです。
しかし、馬にしがみつけば人は引きずられ、或いは踏みつけられ、馬はますます狂乱して手がつけられなくなります。
ましてこのような山道では小勢(の攻撃)でも(そのようなことになりやすく、そうなれば)お味方に与える損害は大きなものになります。
そのため鐙に足をかけさせないのです」と答えた。
家康公は「これこそ用心というべきものだ」とお褒めになり、
「鐙用いぬ者の落馬を笑ってはならない」とおっしゃった。



907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 22:17:46.33 ID:mMO4sL5q
>>902
とても良い話だ
俺も馬乗り始めた時、鎧なしで乗せられて内股が筋肉痛になって歩けなくなったが
そんな事を戦国時代にやってるとは思わんかった
目から鱗だわ

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 08:25:07.72 ID:w7pC9Y0m
>>907
なんのために鐙なしだったの?
転んだとき引きずられるから?

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 09:22:32.94 ID:XgdJGW5s
踏ん張らずに素直に落ちろってことだろ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 10:39:18.36 ID:OhIEcNTF
馬は太腿で挟んで乗るもの、鐙や鞍はあくまでも補助。とか言われて座布団だけ乗っけた馬に乗せられてたな

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 17:49:39.47 ID:tk8eyJAB
清水某「両足でギュッとしめたら愛馬が死んじゃったでござる」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:11:27.40 ID:g/ZshpEs
>>909
人馬一体になるためっていきなり鐙は使うなと言われて手綱は持たず両手は水平に伸ばして
内股だけで馬にしがみつくような感じ
鞍だけはつけてくれたw
一日中(10時間位)乗って降りてから駅まで帰る時に普通に歩けなかった

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/18(金) 20:34:33.85 ID:KnvGSCC7
>>913
バイクでいうニーグリップだけでバランスを取る感じ?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 04:00:31.20 ID:49RyciQl
>>914
ニーグリップってのが分からないが
馬の腹を内股で挟んで上半身は腹を凹ませ胸をこれ以上無理って所まで張って保持
馬の動きに合わせてセックルの女性上位みたいな感じでずっと動くのだけど
その時も又力のみで上半身は張り詰めまくってしがみつく感じ
上半身のバランスを崩したら多分振り落とされる
馬に乗ると姿勢が良くなるってのはおそらくここら辺から来てるのだと思う
ちな、鬼籍に入ったけど母は北海道の出身で裸馬平気な人で鞍も手綱も不必要な人だった
鞍を付けたらもう既に人馬一体な感じで
往年は大井競馬場に犬の散歩がてら行って非開催日に犬も上げて馬に乗ってたw
長文すまん、いつも誰かが載っけた話に勝手に評価してみんなに迷惑かけて済まぬと思ってる
あまりにも良い話に出会ってしまって興奮してしまった
水谷さん大名になってたら立花宗茂並にすげー人だったんだろうなと思いながら眠ります

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:07:35.46 ID:3JuLBCgO
>>902
これは酷い怪我をしないように心がけているのが偉いんじゃなくて、不意の急襲の際に味方へ被害を与えないようにしている心がけが立派ってことなんだろうね。

ところで、家康はなぜ丹沢という人を呼んだんだろう?馬術がうまかったのかな?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/19(土) 21:17:46.12 ID:prsFsTPU
久助は大事な喧嘩友達

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/21(月) 17:08:42.13 ID:BQWXmI/o
>>929
鐙使ってない侍が彼の家来だったんじゃない?
旗指物でわかるでしょ。

水谷蟠龍斎、家重代の刀剣を売る

2018年05月16日 21:36

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/15(火) 22:13:41.40 ID:bS8mkxlx
水谷蟠龍斎(正村)が二十歳の年(天文11年)、領内の作柄が非常に悪かった。
この事を聞いた蟠龍斎は、「今年の年貢は通年の三分の一にせよ」と命じた。

家老たちはこれを聞いて猛反対した「それでは家中の者達の生活が成り立ちません。」
すると蟠龍斎は、家重代の刀六腰を取り出し
「これを質に置け」と仰せになった。

そこでこの事を徳者(裕福な町人)に相談すると、彼は
「惣じて質の物は、直に買い取る価格の半分が相場です。ですのでこれらを質に入れても
大した額には成らないでしょう」と言う。

すると蟠龍斎は即座に言った「では買い切りに致せ。」

家老たちは強く諫言した
「お家の、重代永代たる刀を失う事を、一体いかなる分別にて行うのでしょうか?」

蟠龍斎は答えた
「刀千腰にも代えがたいのが譜代の者達である。その彼らを助ける目的なのだから、
何も問題はない。
例えば、私が刀を千腰挿して敵に向かっても、一人ではどうにも出来ない。
しかし、例え少人数であっても家中上下の心を合わせれば、敵を抑えることが出来る。
であれば、家中こそが我家の重代ではないか。」

この言葉に家老たちも一言もなく、蟠龍斎は刀を売ってその代金を家中上下に配った。

次の年は大変な豊作であった。
蟠龍斎領内の百姓たちは一同に心を合わせ、前年に売られた水谷家重代の刀を買い戻し、
これを蟠龍斎に差し上げた。

この事に、蟠龍斎は涙を流して言った
「君に明有れば臣に忠有りと言うが、古人のこの言葉を今心得ることが出来た。
私が欲心から離れて家重代の刀を売り民を助けたのは、君の心明らかという事に、
少しは似ていたのだろう。また賤しき百姓とはいいながら、その恩を知り、今年少しばかり
耕作が良かったからと言って買い戻し、私に献上するというのは、臣下の忠心という
ものではないか。誠に聖人の言葉に偽りは無いものだ。」

そして

「今年度の年貢のうち、三分の一を免除するように。」と命じた。

百姓たちは驚き、一同に登城して「そのようなつもりで献上したのでは有りません」と、
様々にこれを撤回するよう説得したが、「君子に二言はない」と、終に免除となった。
このあまりの忝なさに、百姓たちも涙を流して城より退出したという。

(水谷蟠龍記)



890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/15(火) 22:25:10.59 ID:Br8B8qxA
イイハナシダナー

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/15(火) 22:58:52.10 ID:WTVGDZaX
豊作=米価下落って思ってしまうのは現代人の感覚なのかな

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/15(火) 23:35:36.79 ID:PG1AXGp+
米を作る=通貨を作るみたいな時代だしね

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 00:21:44.95 ID:DdjCXKqO
日本昔ばなしにこの話があっても違和感ないレベル

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 01:08:38.87 ID:G8KIY6Xp
せっかく買い戻してくれた百姓たちを賤しきって言っちゃうのはちょっと失礼な気が

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 03:08:08.98 ID:s7+ZKaJ9
>>899
>>898でどこがいい話なんだよと書き込みたかったが
続き読んで伏線かよと

いい話でした
ありがとうございます

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 03:09:56.78 ID:s7+ZKaJ9
>>894
今の時代の賤しきとは違う意味だと思う
我が家でも代々「お百姓さん」とは言わず「百姓が作った米は喋らずによく味わって噛み締めて食べよ」と言われてて
あくまでも百姓は百姓と言う感覚
今の時代は皆、平民になってお百姓さんになってしまったが

897 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 05:52:09.82 ID:+o1rA7gK
>>895
>>898,>>899に期待

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 07:07:56.71 ID:MlSBrpYu
>>894
ここは「一般には賤しき百姓などと言われているが」程度の意味でいいと思う

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 10:37:35.98 ID:l3hhkPYC
カーストかよ

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 11:08:37.71 ID:7w2utxgu
これ、商人の方も、資金の融通をしたつもりで転売しなかったのだろうな。

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 13:20:03.03 ID:ZK9AFFT7
>>889
イイハナシダナー(´;ω;`)

>水谷蟠龍斎(正村)が二十歳の年
!?( ゚Д゚)

【web記事】古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨

2018年05月16日 21:35

755 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 17:18:18.01 ID:u9u3Mv61
山中鹿之介の最期と埋葬地について記事があったのだが、どうやら未出の様なので貼っておく
記事はかなり長いので各自読んで見られたし

古墳の石棺から出てきた山中鹿介の首なし遺骨
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4952




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 22:12:53.29 ID:7w2utxgu
>>755
荼毘に付したとされているのに、原型をとどめた遺骨がでてきてるのおかしくね。
実は、弥生時代の人骨なんじゃ?

761 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/16(水) 22:35:56.88 ID:riG18fly
>>760
現代だと密閉した火葬炉が有って重油などの燃料を使った火葬が一般的だけど、戦国当時は野焼きの方が一般的だったみたいだから遺体の焼き上がり方や炭化の度合にも差が出たとか?

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 12:51:36.94 ID:Hj+5d5xo
あの時代に火葬なんてしたの?

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:16:12.68 ID:ck0GM2gO
>>762
平安時代以降、貴族ですら普通に火葬してる。
貴族の場合、火葬した場所に火葬塚作る。

764 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 13:17:34.43 ID:vJ5I+qQ+
>>762
鎌倉室町で火葬が一般に普及して明治の廃仏毀釈の際、一時的に土葬になったらしい

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:22:47.97 ID:C9wJF8gd
後の時代からすれば土葬が色々細かいことが分かって助かるんだけどねえ
疫病と土地の関係で生きてる人間の都合からすれば火葬一択なんだけど

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/17(木) 13:52:18.28 ID:Hj+5d5xo
>>763-764
ありがと~、時代劇なんかだと桶に遺体入れてたから土葬のイメージだったわ。

767 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/17(木) 14:20:48.56 ID:h59oOBe5
>>765
そう言えば秀忠は土葬だったから戦傷とかで、実は前線での戦闘経験もある武人肌の大将だと分かったんだっけ

寛永2年6月17日の。肥後地震被害について

2018年05月16日 21:34

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 19:06:21.10 ID:7w2utxgu
肥後へ御使に被遣御鉄砲衆両人、今日罷もとり候、御書之返事御座候、御文箱を則 を以、
上ケ申候事
肥後に先月十七日の夜、大なえゆり、殿主其外城中の家、から木立斗残り、かわらひき物
も皆々おちくづれ、城中に人五十人ほと死申候、塩硝倉ともずりに火出候て、跡もなくふ
きちらし、あたり五町八町之間の家無残ふきちらし、ゑんせう八万斤の上有之つる故に、
倉の下の石かき何もやねかわら六り五りほとふきちらし申候、斉藤伊豆守殿・防庵の家も損、少しつつ作事被仕候
 (細川家文書 万覚書寛永二(1625)年七月二十一日条)


 寛永2年6月17日の地震被害について、一月後に肥後を訪問した使者が報告している。豊
後時代の執務日誌から。


 50トン近くの火薬を貯蔵していた煙硝蔵が爆発。周囲500から800メートル四方ほどが吹
き飛び、瓦礫が3から4キロの範囲に飛散したという。黒色火薬とはいえ、50トンもあれば、
それだけの被害がでるかな。
 痕跡が残っていそうなものだが。今度の震災復旧で、見つからないだろうか。


 最初の方、「ひき物」というのが、よく分からないけど、建物が柱ばっかりになったと
いうことだろうか。「城中」の死者についても、煙硝蔵の爆発の死者がこれだけなのか、
本丸の建物被害で死者がこれだけでたのか、細かいところでよく分からない。


 地震被害の話なので、当然こっちに。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/16(水) 20:27:04.77 ID:xYUxUbly
>かわらひき物

瓦葺き物かな?

週間ブログ拍手ランキング【05/10~/16】

2018年05月16日 21:27

05/10~/16のブログ拍手ランキングです!


蘆名盛隆と美麗な小姓 11

柴田などに騙されるものか 11

少之御普請も御堪忍、御尤候事 10
中々あふなき事にて候事 10
義太夫が心剛であり 10

不届者ハかたはしよりなて切りニ 9
水谷蟠龍斎は生まれる前からすごかった 8
汝が心を見んとして 7
神戸の関家への使い 4


今週の1位はこちら!蘆名盛隆と美麗な小姓です!
戦国好きにはわりと有名な逸話ではありますが、こちらは蘆名盛隆に近侍していた医者が悪い噂を広めたという
話になっていて、こういう細部が描かれていると、またいっそう逸話が立体的に見えてきますね。
蘆名盛隆が殺害された事件は当時としてもよほど印象的なものだったようで、様々な所でこの逸話が収録
されています。実際これ以降、蘆名家は下り坂を転げ落ちるような衰運となるわけで、蘆名家衰退の画期とも
考えられていたのでしょう。
また現代の私達からしても、非常にインパクトの強いお話ですね。武家の衆道にははっきりと、「武士道」ともいうべき
感覚が強く染み付いていると思います。いろいろな角度から見ること尾でいる逸話だな、なんて思います。

今週は同票でもう一つ!柴田などに騙されるものかです!
滝川一益が秀吉を足止めする策を考え、それを秀吉が看破する、と言うお話です。ところでここで、軍師の代表として
張良と楠木正成が出てきましたが、戦国当時のことを考えると、秀吉はその両名を確実に知っているはずです。
何故かと言えば、戦国後期から近世初期にかけては、「太平記」の一大ムーブメントが起こっていた時代であり、
世間には「太平記読み」といって、太平記を語ることで金銭や食料を得る人たちもいたのです。
太平記は庶民層まで含めて当時の基礎教養ともいっていいものであり、当然ながら秀吉も、楠木正成を知っています。
そして太平記は「描写に困ると中国の故事を入れる」なんて評もありますがwその中に張良も活躍もしっかり描写
されており、これまた当然、秀吉も張良が何者か解っていたはずなのです。
ついでに言うと太平記の中には「源平交代論」というべき思想も描かれていまして、これまた武士だけでなく世間一般に
共有された考え方であったと言っていいでしょう。
戦国期に最も大きな影響を与えた本は、太平記だと言い切っていいと思います。
そんな事をふと思い出した逸話でも有りましたw

今週管理人が気になった逸話はこちら!水谷蟠龍斎は生まれる前からすごかったです!
水谷蟠龍斎と言う人、名前だけはなんとなく知っている、という方も多いでしょう。かく言う僕もそういう一人ですw
しかし独立した大名でもないのに、その出生譚がこれだけ様々に彩られているとは、これは、同時代、或いは
近い時代の人たちにとって、よほど強烈なインパクトの有った人だったということなのでしょう。
逸話、伝説が語り継がれるためには、やはりその本人にパワーがなければ、難しいものですね。
そうでなければ後世の人達も「語りたい」という思いがわきません。
そうかんがえると、生まれたところだけですら、これだけ強烈に「語りたい」と思わせた、水谷蟠龍斎という人物が、
実に興味深く思えてきます。
今後僕も勉強したいと思います。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

蘆名盛隆と美麗な小姓

2018年05月15日 21:02

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/14(月) 19:27:57.57 ID:l7ZwV+IQ
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、盛隆はこれを貰い受けたいと
伝えた所、義継は「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、悪しき所もあり、やめたほうが良いと
思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんでそのよう事を言うのだと思い、不満を漏らした。
しかし義継としては、惜しむような気持ちは一切なかったので、「そこまで思われているのなら」と、
かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが、次第に疎となり、またこの小姓の噂を、近侍の医者に
色々と申し聞かせ、この医者がさらにこの事を様々に語った。
これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、近くの者たちにこれを見せていた所、
かの小姓が通りかかった。盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。
小姓は「心得候」と返事をするや、刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。
この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を
討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに、噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、門番が不審に思い
彼を止めた。そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雜談)




754 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/14(月) 20:39:11.24 ID:u5qrCqxx
小姓「衆道とは修羅道と見つけたり」

水谷蟠龍斎は生まれる前からすごかった

2018年05月14日 17:25

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 19:15:43.74 ID:+8Eg9vkp
常陸国久下田の城主、水谷蟠龍斎(正村)は、その誕生前より不思議の有った人であった。
大永3年正月17日の子の刻に、御老母の夢に80あまりの老僧が、額より光を放ちながら現れ
『汝に宝を授ける』
と、口の中に玉を入れた。この玉は次第に腹中へと落ち、腹の中で膨れる感覚を覚えた所で
夢から覚めた。この月より御懐妊され、翌年正月17日の子の刻に御誕生あった。
月も日も時も、あの夢と同じであり、誠に希有なる事であった。
以上、胎内に13ヶ月宿られていた。

そして左の目に、瞳が2つ有った。これは御老母が常々千手観音を信仰し、毎月17日の早朝に
身を清め精進し、不問品を三十返づつ読誦されており、これ故に定めて観音の御利生の御子で
あるのだろうと、人はみな申した。

彼は誕生以後、赤子のうちに終に泣くことは無く、7歳より好んで弓馬兵法を習い、
8歳で師匠に劣らぬほどになった、
9歳にて法華を習い、毎日一巻づつ読誦した。
10歳にて万事の理非を弁じられたことは、尋常の人に優れたものであった。
11歳(天文元年)の時、中間二人が頻りと口論しているのを聞き、御裁許なされた。これは
中々年寄衆も及ばないものであった。
12歳より馬を習い、13,4,5の時分には師匠より優れた腕前になっていた。
惣じて、何によらず諸芸に器用であった。

(水谷蟠龍記)

結城四天王の一人、水谷蟠龍斎は生まれる前からすごかった、というお話。


少之御普請も御堪忍、御尤候事

2018年05月13日 17:22

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 11:57:27.51 ID:hgZsim4a
寛永十一年(1634)八月晦日 細川忠利書状案

御門わき石垣、はば五六間程くみ申候由、如元可被仰付哉与被仰越候、中々御無用にて御
座候、道へ崩れかかり候はば、人の通候道御座候程にお引のけ候而、少しも少しも石垣御
築直之儀御無用に而御座候、城之見苦事は何方も同前儀候、不被得御意候而は、少之御普
請も御堪忍、御尤候事

 ここでは、父・祖父よりも影が薄い忠利さんを、ダイマ。
 有馬直純から、城の修復について相談を受けたときのお返事。城の修理はくれぐれも慎
重に。ちゃんと幕府の許可を得よう。城のメンテナンスが行届いていないのは、どこも同
じだから気にすんなだって。
 関ヶ原以前に築かれた近世城郭が、数十年を経て、いっせいにメンテナンスが必要な状
況になってきたそうだ。ついでに、この年は家光の上洛で、この種の事務も滞っていたの
だろうな。
 しかし、道を塞いだら、人が通るところだけ石をよけて、あとはそのままにしとけって…




748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/13(日) 12:19:44.01 ID:mMOiDVzU
>>747
寛永11年なら戦国も終わって太平の世真っ盛りだしなぁ… もうちょっとしたら天草の乱が有るけれど。
しかし、届出してやるにしても金はかかるは幕府に睨まれかねないは、やらなきゃやらなかったでお咎め食らいそうだわ… しかし、平山城も草生えたり木が伸びて道が荒れる事もあるし、お手入れはどうしてたんだろうなぁ
外様大名は辛いわねぇ…

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/13(日) 14:23:41.11 ID:VWNosI8F
草刈りと木の手入れは副産物貰って帰る条件で
むらかた、町方に。
草は家畜の餌とか肥料になるし木は焚き木に使える。

神戸の関家への使い

2018年05月12日 17:44

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/12(土) 13:05:39.89 ID:QTv4/s/v
永正7年8月、大和国、筒井某より、伊勢国河曲郡神戸の関家に、2名の使いが送られた。
彼らは商人の姿となり、連雀(物を背負うのに用いる背負子(しょいこ))を肩に担いで
通行していたが、その途中、伊賀国において、服部家が支配する荒木の関所において、
「怪しい奴らだ」と咎め立てられた。

このように疑いをかけられ、両名のうち、一人はとにかく無言でいたが、もう一人は
自分たちは怪しいものではないと様々に弁解したものの、関所の者達は信じようと
しなかった。
このため終に口論に及ぶと、この者も気が早かったので、火打ち石を打ち、
連雀の中に入れてあった紙包みなどを焼き捨て、その上で関所の者と刺し違えて死んだ。

残った一人は、「これといったことも言わなかったが、もはや逃れまじき」と思い切り、
良き相手と思しき者に飛びかかり、引き組んで刺し違えて死んだ。

この事件は伊勢にも聞こえ、自分たちに送られた使者が殺されたことを、関家も遺恨と思った。

実はこの頃、近江六角氏はかねてからこの、伊賀服部家と不和であり、服部を斬り従える
機会を伺っていた。ここに関家より修好を持ちかけた所、六角にとっても願う所であったため、
一味同心して伊賀国を攻め取らんと、お互いが積極的に定めたのである。

(關岡家始末記)



柴田などに騙されるものか

2018年05月11日 08:05

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/10(木) 22:17:36.88 ID:ZZ5c1Vdw
清須会議の後、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は徐々に悪化したが、この秀吉と勝家の間を
和睦させたいと、滝川一益より織田信孝へ申したてられた。

これを受けて、信孝も勝家へ異見をし、これにより勝家は、自分の馬廻り二名と、秀吉に縁のある
故信長の馬廻り二人を秀吉のもとに遣わし、浅野弥兵衛(長政)を通して存念を申し入れた。

秀吉はこの使いの四人を召し出し、彼らから直に話を聞いた。彼らは
「現在はお互いに用に立たぬことを申し立て、話し合いも出来ない状況です。ですので和睦を
すべきです。」
と申し上げた。これに秀吉は答えた。

「あなた方が仰ったこと、尤もである。あなた達の異見に従おう。」

「御心良く我らの異見を了解くださったこと、大いに喜ばしく思っております。
それではこの事に対し、墨付を下されますでしょうか?」

「墨付は、飛脚を以って直接勝家殿に届けよう。各々はここから帰る前に、大徳寺に参詣して
信長公へ焼香を致すように。」と言った。
このため使者たちは大徳寺に参詣して越前へと帰っていった。

それを確認すると秀吉は五畿衆を呼び寄せ、こう言った
「今度越前よりの口上を聞いたが、これは雪中では出馬が難しい所からの策謀である。
きっと滝川一益の考えた策謀であろう。
唐においては張良、日本においては楠などの策謀であるなら私も騙されるかも知れないが、
柴田などに騙されるものか。」

これを聞いた者達、何れも感じ入ったという。

(志津ケ嶽合戰小須賀九兵衛話)