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天井に血の足痕、急成長する松、飛び出る屏風

2018年07月31日 19:54

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 18:56:09.83 ID:8q4xI7wn
天正5年の夏の頃、大友宗麟は体調を崩し、心地例成らざる状態であった。
この時、宗麟は天井に血がついているのを見つけた。それはよく見ると、巨大な人間の足の痕であった。
しかし宗麟は元来、そのような事に驚く人ではなく、少しも臆する景色無く
「これは私の病が平復し、却って盛んとなる印であろう!」
そう言って聊かも心に掛けなかった。

また或る時、座敷の庭より小松が生え出たように見えた所、俄に大木となって枝を垂れ葉を並べた。
番の者達あまりの不思議さに目も離さず警戒して居ると、この松次第に細くなり、幻のごとく消え失せた。
これこそ稀代の珍事と思っている所に、或る夜宗麟の座している畳の間より、6,7尺ばかりの屏風が出て
消えた。

これだけでなく色々と不思議のこと多かったため、人々不屈の前兆ではないかと怪しみ、何か事が起こる
予感をしていた。

(豐薩軍記)

これだけ色々あって特に動じない宗麟も相当な大物の気がしてきた。


985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 20:38:20.77 ID:hhf0OESO
>>984
キチガイは心霊スポット平気って笑い話思い出した。

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 22:46:01.24 ID:0jRcZv1l
池田輝政も怪異に動じない人だったよね
そういう人じゃないと大名は務まらないのではないのか

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/31(火) 23:52:35.83 ID:7ScV7NvP
心中どうであっても、こんな流言飛語に惑わされるようでは政治家は務まらないでしょ

989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 10:59:09.65 ID:iwh3xFfI
平穏に家督が継げなかった人ほど肝が座ってたりする

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 14:16:56.79 ID:dRV0UO46
父親に殺されかけたら生きてる人間が一番怖いってなるわなw

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:09:50.79 ID:WxT6Ig3O
>>985
どちらかというと確固とした信仰心の賜物じゃね?
「これは悪魔が私の信仰心を脅かそうとしているのである」

992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/01(水) 19:16:49.06 ID:ShI8x7u0
>>990
信玄「せやせや」
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されば流言とは

2018年07月30日 18:16

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/30(月) 16:47:23.05 ID:W5bsNJ4y
天正3年、臼杵の浦に明船が着岸し、このとき猛虎四匹、大像一匹、孔雀、鸚鵡、麝香、そのほか
書巻の名筆、あるいは絵讃、並びに綾羅綿繍伽羅猩々緋の皮二十間つづき、以下種々の珍宝が渡された。

天正4年の夏、南蛮国より大いなる石火矢が到来した。肥後国より修羅を以て、豊後臼杵丹生の島に
引き上げた。大友宗麟は大いに喜び、この大石火矢を『国崩』と号した。

然るに、誰言うと無くこの大石火矢を国崩と号したこと、大いに不可であると沙汰された。
また、それに続いての流言には、前に渡ってきた四匹の虎も不吉であり、日取りを以てこれを見るに、
その文字に違いが有ると言っても四匹の虎は滅ぶ日であり、これを不吉の相であるという。
またある人が言うには、尚書に珍禽奇獣国に育たわずと伝わり、これを育てるのは然るべからずと申した。

されば流言とは、根のない言葉が水のように流れ、世間に至る。これを流言とも残言とも言う。
天に口無く人をして言わしむとはこれであると、諸人密かに言い合った。
しかし宗麟はこれを聞いて、「一人虚を伝えれば万人実と伝う。一犬吠える真似をすれば万犬声を上げて
吠えるという事もある。」そう言ってこれらの話を気にかけようとしなかった。

(豐薩軍記)



南條兄弟寝返り

2018年07月29日 18:20

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 17:51:46.57 ID:Zeq2Dxw0
毛利家臣である南條伯耆守元続は、尼子氏の牢人である福山次郎左衛門(茲正)という者より、織田方への
寝返り工作を受けていた
「信長卿は武威日々に盛んにして、もはや肩を並べるものおりません。毛利家とても終には信長卿のために
滅亡するでしょう。そうなった時、毛利に属する輩は根は絶たれ葉を枯らすこと疑いありません。
早々に毛利一味の志を変じ、信長卿幕下に属されるべきです。」

このように利を責めて言うと、元続も尤もだとこれに同意し、兄弟である小嶋左衛門尉元清、そのほか
南條備前守、同九郎左衛門、山田越中守、以下家の子郎党を集め「この事如何か」と意見を聞いた所
何れも「この義、宜しいと思います。」と同意した。
そこで信長卿へ、「幕下に属し御馳走を遂げる」と、羽柴秀吉まで云い送った。

しかし、吉川元春はこの情報を察知し大いに怒り、南條家重臣である山田出雲守(重直)を芸州に呼び寄せた
「南條が心変わりしたこと疑いない!汝は知らぬのか!?」
これを聞いて山田は驚き、この事を些かも存しない旨、天神地祇を驚かせたと、起請を書いて差し上げた。

「然らば、南條兄弟に諫言を加え、この工作をした福山次郎左衛門を討ち取れ。」

元春のこの命に応じ、急ぎ伯耆に立ち帰ったところ、山田が安芸より急遽戻ってきたことを
福山次郎左衛門は心もとなく思った。そこで山田の館を訪ねてきた所を、出雲守は常よりも昵懇に
もてなし、過去のことについて物語などする中、傍に控えていた家臣の山田十右衛門へ目配せした。

十右衛門は打者の達者であった。彼は即座に抜き手で福山を切りつけた。
その刀を引かぬうちに、出雲守嫡子である蔵之介が続いて切りつけ、さしもの福山もやみやみと討たれた。

しかし、これを知った南條兄弟は山田出雲守の館に押しかけて来た。この時山田側には軍勢無かったため
戦うこと出来ず、一方の囲みを打ち破って芸州へと退いた。

(安西軍策)

天正4年に起こったとされる、南條兄弟寝返りについてのお話。


【雑談】海外でも軍記物丸写しで

2018年07月28日 19:15

969 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/28(土) 11:42:48.49 ID:/VZEAqYq
そういや、民間歴史研究家が軍記物を信奉してて困ったもんだどうのっての
海外だと、日本でもイラスト入り歴史本で知られてるオスプレイ社の書籍、
これの東アジア物で多くの著作のあるスティーブン・タンブル氏は、
軍記物丸写しで書きまくってますね
東洋軍事史の権威扱いだから、英語圏ではそのままの内容で日本理解が


著作の記述内容からするとタンブル氏、漢字読めないっぽいんだよねえ



970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 17:13:45.52 ID:INIGIatg
誰かが良い悪いスレを英語訳したブログ作れば正しい認識が広まる

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 18:31:46.60 ID:EAl/UXA2
外人なんて日本と中国の区別もつかないだろうししゃーない。

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 19:17:15.86 ID:BOvohA2H
>>970
伝説の流布はNG

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 19:19:25.65 ID:SuqhbH8/
「あれはお宅らのとこのアーサー王伝説みたいなものですよ」と言っとけばいいんじゃないかな。

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 20:37:29.13 ID:ZZDuyEET
日本人同士でマウンティング取り合ってるうちに海外では取り返しのつかないことになってるわけか
そしてそれは対岸の火事であると

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 22:16:54.76 ID:mFdaN6FB
>>970
このスレにいるような人達でさえよく知らないであろう細かな内容を
膨大な記事でアップしてある戦国時代のサイトがあるんだけど
そのサイトを一言一句残さず丸パクリして韓国語で書き写してるサイトならある
源○○の三男の××から枝分かれした△△地方を領した□□を祖に持ち~みたいな
内容で細かく書かれてるんだけどそんな記事に対して韓国人もそこそこコメント付けてる

978 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 04:30:37.97 ID:bzv4ryB1
どうでもいい

979 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 06:40:55.42 ID:e4AWKg7W
タンブルの引用してる軍記物とは、甲陽軍鑑、武功夜話ってレベルどころか、江戸時代の講談本も入ってるからね?
びっくりするぞw

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:36:28.15 ID:1qFerzx5
まあ普通の日本人も三国志演義と正史の区別曖昧だし多少はね。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 17:08:55.71 ID:x/iTMvCE
まあ外人がどう思おうが関係ないところだけれどもね
ということは例の明智さんとかが画策してることも同じく関係ないはずだ
普段の生活に何の影響もないし

大徳寺総見院での信長の葬儀

2018年07月28日 19:08

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/28(土) 03:07:31.13 ID:NB6t5LP1
大徳寺総見院での信長の葬儀


惟任は長年将軍(信長)の御厚恩によりその身を立て、何度も栄華に誇り
遊楽をほしいままにしてきたので、(信長の)長久を希うべきなのに
故なく相公(信長)を討ち奉って、どうして天罰がないことがあるだろうか。
六月二日に害し奉れば、同十三日には自身の首を刎ねられた。
因果歴然なり。恐るべし恐るべし。

(中略)

秀吉の所生は、元来高貴ではなかった。しかしながら相公は五男の
御次丸(秀勝)を養子として下された。この上は秀吉も同胞合体の侍である。
御葬礼がないなどあってはならない。されども(織田家)歴々の年寄衆は
とりわけ御連枝が多いので、一旦(秀吉は御連枝に)憚って
六月より冬の十月に至るまで、少しの法事も行わないまま過ぎてしまった。
昨日の友は今日の怨讐、昨日の花は今日の塵埃といえど、誰が予期しただろう。
誠に下賤下劣の貧士貧女でさえも、その跡を弔う習いがあるのに
どうして人民の君主にそれがないのだろうか。
今法事をしなくては、千変万化の世間の行く末は測り難い。
よって十月初めより、龍宝山大徳寺でのべ十七日の法会を催した。

(中略)

十五日目の御葬礼の作法は諸人が目を驚かせるばかりであった。
まず棺を金紗金襴で包み、軒の瓔珞、欄干の擬宝珠はみな金銀を集め
八角の柱は丹青を施し、八面の間は紋桐を彩色していた。
沈香(香木の一種)から仏像を彫り出し、棺の中へ納め奉った。
蓮台野(火葬場)は縦横広大に作られており、四門の幕は白綾白緞子
方百二十間の中火屋があり、法経堂のような造りだった。
総廻に埒を結い*1、羽柴小一郎長秀(秀長)が警固大将として
大徳寺より千五百丈の間を、弓矢槍鉄砲を持った警固の武士三万ばかりが
路の左右を守護した。葬礼場には、秀吉分国の人々は言うに及ばず
合体の侍を悉く馳せ集め、そのほか見物の貴賤は雲霞のようだった。

(棺の)御輿の前轅は池田古新(輝政)*2、後轅は羽柴御次丸がこれを担いだ。
御位牌は相公の八男御長丸(信吉)、御太刀は秀吉が不動国行*3を持った。
両脇に連れた三千余りの人は、みな烏帽子藤衣を着用していた。

(中略)

秀吉は御次丸と共に焼香し、十月十五日巳刻に無常の煙となってしまった。
誠にこれが一生の別離の悲しみである。これを嘆かない人がいるだろうか。
特に秀吉は目も開けられない程で、涙を留められなかった。


――『総見院殿追善記』



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 10:46:53.44 ID:txEyc0Bx
猿は演出家やなぁ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 11:37:09.99 ID:GLoZA45F
何となく、諸君らが愛してくれだカルマは死んだ!何故だ!?
を思い出しました、ジークジオン

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 15:39:06.51 ID:iCMkgUqJ
それは因果応報だからだよ

*1 馬場の周囲に囲いを巡らすこと。
*2 輝政はこの頃秀吉の養子となっており、織田家所縁かつ養子の二人に
信長の棺を担がせる政治的な意図があったとされる。
*3 信長遺愛の太刀。本能寺の変後に明智秀満が安土城から持ち去ったが
敗死ののちに秀吉所有となったとされる。

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/29(日) 19:50:44.01 ID:OOqoj3kL
サスロ兄爆死で世論操作やな

111 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/29(日) 20:16:49.81 ID:ufzNrPWL
秀吉に旧主の信長を悼む気持ちが無かったとは思わないけど、やはり後々の事を思うと某SF傘アニメの国葬よろしく政治工作と言うか政治利用だよなぁ

宇喜多直家は言葉巧みに

2018年07月27日 10:01

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 00:03:21.50 ID:nvc+W+Pq
備中国の住人、三村修理亮家親の子、元親、実親という兄弟があった。父家親は1年前に
宇喜多和泉守直家の為に殺され、その後この兄弟2人は芸州毛利家へ使いを下した

『親である家親は御味方に参り、ひたすら忠勤を成しました。しかし宇喜多直家に欺かれ、
益無く討たれたのです。父の敵である直家を何としてでも滅ぼしその恨みを晴らしたいと
考えていますが、我ら兄弟の力だけではいささか難し相手であり、御太刀影(助太刀)を
お頼みしたいのです。宇喜多を滅ぼし父が死んだ恨みを散らし、我ら生前の鬱屈を晴らしたいのです。
家親の忠志を思し召し、お忘れでないのなら、御憐憫を給われば、我ら二人もいよいよ御手に属し、
忠節を励まします!』

これを吉川元春に対して嘆き申し上げた。

ところが、宇喜多直家は三村兄弟が毛利へ訴えを行ったことを知るや、毛利を敵に回してはかなわないと
考え、洲波隼人入道如慶という者を小早川隆景の元に参らせ、また安国寺恵瓊を深く頼み
『三村浦上を退治し、備中一国を尽く輝元公に差し上げるでしょう。』と訴え申し上げた。

この時毛利元就は既に老病の中にあり、元春、隆景に対し「能くはからえ」と言うだけであった。
元春は「三村は父家親の時代より当家馳走の者である。宇喜多は一旦言葉巧みに、良きように
言ってきても、それを彼ら三村氏と取り替えるなど考えもできない。その上宇喜多は表裏の者である。」
そう再三に渡り主張したが、宇喜多は安国寺恵瓊などを通して様々に小早川隆景に哀訴し、ついには隆景も
「人質などを出す上は別儀無いであろう。」と、宇喜多の望みを叶えた。
小早川勢は南方(山陽)の担当であったため、山陽の勢力のことについては、隆景の判断に
任されていたのである。

その後、三村はついに宇喜多によって討たれたという。
(安西軍策)

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 01:45:54.66 ID:GayH9LlL
宇喜多に対するため織田と結んだ三村
織田に押されて織田に降った宇喜多

小早川は先を見る目がないな



955 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 05:07:03.62 ID:G0Ciaoxc
この数年後に毛利は播磨で織田と戦う事になるけど、背後の岡山は宇喜多家の元で漸く安定しかけてたところだったから、
1575年に元春の言を容れて三村攻めずに宇喜多攻めてたら完全に叩けてたかは分からないし、下手したら織田の中国侵攻はより早いものになってたんじゃない?
隆景に先を見る目がなかったとは思わないけど

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 05:39:13.12 ID:DXVfv2KC
神の視点ではなんとでもいえる。最終的に維新を成し遂げたのは長州だしな。

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 09:53:30.89 ID:ZiRbSX6d
小早川は長州じゃないwww

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:27:07.00 ID:LPTjxN7n
揚げ足とり子猿

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 10:33:56.52 ID:LPTjxN7n
小早川家は最終的に毛利家から養子もらってんだけど

960 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 12:43:23.48 ID:IaLFv6CX
長州「うるせー、やんのかコラ」

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 12:59:24.32 ID:p3aDYfYw
>>960
橋本はもう居ないんだ…

962 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 18:11:46.66 ID:MkEPw/Kf
結局宇喜多のが良いコネ持ってたってだけの話だな
その良いコネを掴むのも実力のうち

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 18:29:19.50 ID:UiD44MF2
>>953
別に毛利家は義理人情に厚いわけじゃないし(むしろ…)三村と宇喜多でどっち選ぶかといったらねぇ。

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 19:12:48.21 ID:N/22wCO0
とはいえ相手に恩義を感じさせれば裏切らない駒が出来るわけで
わざわざ恨みを買って敵に回すのはアホのやること

965 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 19:27:59.40 ID:vgKHLEqs
元春さんは情と付き合い(と宇喜多直家の腹黒さ)を重視して三村氏を
隆景さんは現実的と言うか実利的に判断したって感じかな?

後々も対秀吉で意見が食い違うこの兄弟だけど、2人の将としての資質や思想の違いも垣間見えた逸話な気がする。

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 20:24:45.44 ID:z/aV9ADT
鶴田もマサ斎藤もいない…。それどころか、三澤や冬木もいない…。
なのに、猪木はまだいる。

967 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/27(金) 20:36:55.33 ID:yleoGLak
>>966
天龍「俺は?」

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/27(金) 21:16:31.42 ID:N/22wCO0
>>963
当時の勢力図を念頭に入れてから発言したほうがいいな
余りにもバカ過ぎる発言だ
それに三村を討ったのは毛利だし宇喜多が毛利と結ぶようになったのは天正に入ってからだろう

出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃか

2018年07月26日 20:05

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 17:11:37.47 ID:DAZzVT8a
尼子勝久の尼子再興軍が出雲に入って以来、城をかすめ取ること15城、その軍勢は六千余騎に及んだ。
そこに赤松の浪人たちも馳せ集まり、伯耆国岩倉の城を攻め取り、美作の蘆田、三浦、市といった一族も
これに一味した。毛利方は伯耆国の高田城には香川美作守、長左衛門大夫を去年から入れ置いていたが、
敵方に攻め囲まれ、日々攻め合いが止むことなかった。

また毛利家臣の福屋隆包は石見国に入ると、石見、その他所々で敵が蜂起したとの情報を得て、
長門国の下関、及び筑前国の立花に、この旨を日々注進した。これによって吉川元春小早川隆景
先ず出雲伯耆の城を落とすべきであると、米原平内兵衛を、高瀬城を堅固に守るようにと三百余騎を付けて
出雲へと向かわせた。彼らは石見の浜田に5日滞留し、「却って尼子に一味すべきである」と内通した。

また南條伯耆、山田出雲は下関勝山に在ったが、敵が羽衣石を囲むとの注進があったためこの両人を向かわせた。
南条は急ぎ羽衣石に入り、山田出雲は岩倉へ押し寄せ攻め落とし、敵63人を討ち取った。しかし山田家の家人も、
梶屋藤兵衛、林甚四郎、同又兵衛、長安神左衛門、谷川久充、その他中間8人が討ち死にした。

また福屋隆包が石見から帰ってきたが、その理由を聞くと、森脇市郎右衛門が立花より上がり石見に
到着すると三子山に立て籠もり、隆包の出した廻文を持たせ廻らせていた出家を見つけ出し搦め捕えて
獄門にかけたのだという。

筑前立花城攻めの陣中では、出雲伯耆はみな尼子に与したと聞こえ、多くの兵卒を出雲方面へ向かわせた。
この頃立花城攻めの兵もやや減ったため、一刻も早くこの城を攻め落とすべきと、一時攻めに
攻め寄せた。この勢いによって敵兵も防ぎかねている所に、「城を明け渡せば一命を助ける」と申し送ると、
城兵たちもその意に任せ城を明け渡した。彼らは全員一命を助けられ、士卒残らず大友の陣へと送られた。

(安西軍策)

永禄12年ころの、出雲方面と九州方面でしっちゃかめっちゃかになっている毛利の様子。


その心持ちがないのは不孝だ

2018年07月25日 21:38

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。


天野隆重の方便

2018年07月25日 21:37

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:01:39.02 ID:EyEJGJF5
永禄12年、尼子勝久、山中鹿介らによる尼子再興軍が出雲に乱入した時、富田城は天野紀伊守隆重が、
わずか300余りの兵で守っている状況であった。
天野は尼子と一戦すべしと思っていたが、尼子軍6000余りに対して自分たちは300であり、
思いに任せて合戦し、損じてしまっては口惜しく、しかし一戦しなければ武辺が拙い事を誤魔化したのだと
言われてしまうと考えた。そこで、尼子方の秋上伊織に使者を出して申し述べた

『尼子勝久が当国へ入られ、諸人皆御味方へと参る中、我一人が当城を守るなど、蟷螂の斧の如きものである。
然らば、尼子による毛利家御退治の後、我が本領に加え五万貫の所領をあてがうことを約束していただければ、
明日にでも城を明け渡すであろう。

しかしながら、無碍に城を明け渡せば我が武名は長く廃れ、芸州の妻子達は全員頸をはねられるであろう、
それも口惜しいことである。

そこで明朝、そちらの軍勢が切岸まで寄せてほしい。そこで我らは防ぎかねたる体にて本丸に引き退き、
和平を仕って城を明け渡し芸州へ帰り、そこで尼子軍の芸州への御発向を待って旗を揚げるであろう。』

これを秋上伊織が山中鹿介へ報告すると、鹿介「これは勝久様が御運開かせ給う瑞相である!」と
急ぎ勝久に披露し、すぐさま秋上伊織を大将と定め、疋田、遠藤、岸、池田、相良、有村以下二千余騎にて
富田城へ押し寄せ、七曲を一息に駆け上がり切岸へと到着した。そこでかねての約束を信じ油断して
待ち受けていた所、この様子を見た天野隆重は「方便にかかった」と喜び、矢狭間を開け、射手を揃えて
想いのままに射させた所、敵はこの予想外の攻撃に慌て、早くも多くの死傷者が出て、引き色が見えた
所で、隆重は「時分良し!」と彼の三百あまりの人数を朝霧の中から突撃させた。
これを敵は一支えも出来ず、大勢が討ち取られ、我先にと逃げ退いた。

山中鹿介らは、天野隆重に謀られ諸方の笑い者とになったこと口惜しいと大変に怒ったという。

(安西軍策)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 07:58:35.02 ID:YKRKfBFg
>>945
これ、小説だと、秋上が功にはやって受け入れる、山中は怪しいと止めるエピになってるよね。
秋上がその後裏切るのはこの時の不面目を引きずったからとか。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/25(水) 21:35:10.44 ID:BEZvxerT
俺が30年以上前に見た山中の伝記じゃ秋山が看破で山中が騙されるだった
それ以降秋山は尼子復興は無理と判断し吉川に降る

950 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/26(木) 07:02:23.83 ID:P8oD2fN8
天野隆重「かかったな!アホが!」

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/26(木) 12:44:58.47 ID:9WnOU9Er
フフ…火薬入りの茶釜は…痛かろう

週間ブログ拍手ランキング【07/17~/25】

2018年07月25日 21:36

07/17~/25のブログ拍手ランキングです!


三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス 29

伊勢新九郎盛時という者があった 20

高遠城の"化物" 16
【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 11
目黒新右衛門の切腹 10

小出吉政ノ内通 8
吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契 7
毛利隆元と芸豊和平 4


今週の1位はこちら!三成元忠ノ遺臣ヲ宥スです!
石田三成が伏見城における鳥居元忠の奮戦とその忠義に感動した、という話は様々に伝わっていて、これもその
一つなのですが、少なくとも同時代やその後の徳川家や鳥居家において、三成はそういう人だという印象が伝わっていた、
ということなのでしょう。ここからは「鳥居元忠の忠義は敵の大将すら認めるものだ」という主張とともに、石田三成という人物が、
敵であってもその忠義と奮闘を認め、称えるだけの器量を持っていたという事も、伝えていると考えます。
江戸期の、特に後年の関ヶ原に関連する軍記では確かに、石田三成は奸佞な讒臣という描き方が多く見られます。
しかし「ただそれだけの人物ではない」という事も、こういう逸話は伝えていると思うのです。
こちらを読みつつ、そんな事を考えました。

2位はこちら!伊勢新九郎盛時という者があったです!
北条氏研究でも有名な中世史家である黒田基樹先生の『【図説】戦国北条氏と合戦』の中で、北条早雲(伊勢宗瑞)研究は、
江戸初期に成立した「伊勢系図」の記載に、100年近くかけてその記述の正しさにたどり着いた、というような事を
書かれていました。
この應仁後記の記述も、それに当たるものなのでしょう。
しかしこれも、歴史研究の面白さだと思うのです。七転八倒した挙げ句その根本に立ち戻り、そこから再び、それまでの知見を
踏まえて研究を積み重ねていく、それが歴史(に限らないとも思いますが)を研究する営みというものなのだと思います。
そういう部分も含めて、非常に興味深い内容だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!目黒新右衛門の切腹です!
非常に悪いタイミングに当たってしまったがゆえに切腹してしまった目黒新右衛門さん。現代人の目から見れば
「これは切腹どころか何らかの責任すら取る必要のない事案ではないだろうか」と思う内容です。
ただこれ、おそらく同時代の人たちも、正直「これで切腹するの!?」と驚いたんだと思うのです。
基本的に「常識的なこと」は、逸話にはならないものです。目黒さんのような、正直「無名の士」であればなおさらです。
当時の人達からしてもあまりに驚くべき行動だったからこそ、こうして記憶・記録され、逸話として今に残った、そう見るべきだと
思うのですよ。
それだけ凄まじい行動だった。目黒さんの切腹は、そんなふうに捉えたほうが良い。そう感じる逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも有難うございます!
また気に入った逸話が在りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

毛利隆元と芸豊和平

2018年07月24日 17:54

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:51:59.22 ID:lDBGrq6m
永禄6年、大友宗麟毛利元就とは昔日は和睦していたのだが、大内義長切腹の後不和となった。
元就は考えた、「大友宗麟は無双の弓取りである。その上防長両国には大内義長に好の有る者達も
多い。彼らは何か有れば、志を変じ大友に靡き従う可能性もある。」
そこで元就は長男隆元を両国の押さえとして周防に下し、岩国の永興寺に在陣した。

このような所に、大友宗麟はこの年の2月中旬、豊前国神田の松山城を2万余騎もいぇ取り囲み
攻め破ろうとしたが、ここを守る天野紀伊守が能く城を守り、非常に堅固であったため。大友は
遠攻めへと戦術を切り替えた。

しかしこの事は、九州の高橋、長野といった国衆達が元より毛利に志深かったため、毛利隆元
飛脚を以って知らされた。隆元は即座に「後詰めの軍勢を出す!」と彼自身が防府まで進み防長の
軍勢を集結させた。

ここで、京の将軍である光源院(足利)義輝公より、毛利には聖護院、大友へは久我大納言殿が
使いとして派遣された

『近年諸国兵乱の事、これらは偏に、上を蔑ろにするが如き所業である。然らば、大友毛利は
速やかに和睦し、中国九州を静謐にする事こそ肝要である。』

こう言った旨が仰せ下され、両家は大樹の高命に従い和平を成した。

これによって九州表は無為となったが、隆元は「今なら大友も強く反発しない」と判断し、
門司、下関の城に兵卒を入れその支配を固めた。
その上で周防を出立し出雲へと向かったが、途中の芸州佐々部の宿にて急病を患い、8月14日、
享年41にて終に逝去されたのである。

(安西軍策)

毛利隆元が、将軍による大友との和平を利用して関門海峡を確保していたというお話。しかし直後…。



102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 20:58:21.15 ID:UveR13y3
隆元といい義信、信康といい長男早死にの呪いでもかけられてたんか??

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 22:49:38.07 ID:ADf4FCYr
>>102
真田信之「ですよねー」

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 04:18:49.02 ID:009fkQrR
>>102
義信じゃなくて義興だろ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 05:33:19.95 ID:RtqkchvC
>>102
武田信繁「せやろか?」

三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

2018年07月23日 18:27

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 06:24:23.95 ID:7+1YOzxD
三成元忠ノ遺臣ヲ宥ス

元忠(鳥居元忠)の茶道(茶坊主)に神崎竹谷という者がいた。すでに伏見城は破れて元忠
最期の時、竹谷は敵の大勢の中に駆け入り散々に切って廻ったが、敵兵は折り重なって

ついに竹谷を生け捕り、石田(三成)に注進した。石田は竹谷を召し出して伏見城の始終を
つぶさに問い、元忠の忠信類なきを聞いて、はなはだこれを感じた。石田は竹谷に向かって、

「新太郎忠政は父の戦死の有様がさぞかし気がかりであろう。汝は急ぎ関東に下って合戦の
次第を忠政に語るのだ」と言うと竹谷の命を助け、あまつさえ伝馬に乗せて東国に送った。

忠政は竹谷の物語りを聞いて亡父の忠死の潔きを知り、討死した家士らの妻子もみな最期の
様子を聞くことができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(鳥居家中興譜)』


目黒新右衛門の切腹

2018年07月22日 16:32

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 13:33:33.51 ID:6O0Iyn2X
備後神辺城は尼子方である山名氏の重臣、杉原氏がこれを守っていたが、大内方の圧迫に耐えきれず、
天文19年10月13日、ついに城を明け渡し、出雲へと撤退をした。

ところが、丁度その頃、尼子晴久は家臣の目黒新右衛門に、兵500を付けて命じた
「神辺へ向かい、杉原を救援するのだ。」
目黒はこの命に感激し、畏まりて

「御家人多き中に私に仰せ付けられたこと、この御厚恩何を以て報いるべきでしょうか。今回
城を助けることが出来なければ、私は二度と当国の土を踏みません!」

そう誓言して出発したが、その途中で、撤退中の杉原の一行に出会った。
目黒は驚き「これは如何に?」と問いただすと、杉原は開城したことを説明した。
目黒も尼子晴久より救援の命を受けた旨を説明したが、「今は軍勢を率いて馳向かっても無益である」と、
軍兵達は杉原に付けて出雲に下らせ、自身は一人で神辺へと向かった。

そして城へ付くと、神辺城を接収した大内方の平賀氏へ検使を出すことを要請した。
「主君との一言の約によって、臣が百年の齢を誤る。」
そう言って腹を十文字に掻っ切って頸を伸ばして待ち、平賀よりの検使である坂新左衛門が首を打ち落とた。

その後、頸は出雲へと送られた。

この目黒新右衛門には二人の息子があったが、尼子晴久は「目黒家は小身であるから」と、目加田の家を
継がせた。この目加田采女、弾右衛門尉兄弟は、父にも劣らぬ勇者として聞こえたという。

(安西軍策)

ええ…、これで腹を切るのか…。



937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/22(日) 13:40:21.31 ID:m/v//j6z
武士のメンツを意地でもたてるいい話やないすか

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 18:21:32.24 ID:LdInRxkq
>>936
気がくるっとる(^p^)

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/22(日) 21:53:41.33 ID:EZ86dxyM
狂ってるも何もこれが武士やろ

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/23(月) 11:07:49.30 ID:TwFnC8JM
武士がこうするのにも理由と言うものがあってな

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:08:39.46 ID:Y77Y/Kca
本人のせいでないのに負け戦巻き込まれを回避しつつ面目躍如で子孫も安泰
変に突っ込んで討ち死にせずに敵の保証までつくという計算高さも素晴らしい

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 14:17:37.42 ID:Oug0IF5q
面子>>>>>>>>命だから、命を捨てても面子が立つのなら、それでOKだからなぁ。

吉川元春と陶隆房の兄弟の昵契

2018年07月21日 18:14

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/21(土) 17:06:40.52 ID:t7W75aUO
天文18年8月3日、毛利元就、隆元、吉川元春小早川隆景の父子四人は山口へ下向した。
熊谷伊豆守、香川左衛門尉、飯田越中守、山県筑後守、山田の一族である羽仁己斐以下の者達も
これに従って下向した。大内義隆はこれを大いに喜び、毛利に随従してきた者達には安芸への帰国を許し、
毛利父子四人は山口に逗留させた。この時、大内義隆は家臣である内藤氏の娘を養女とし、毛利隆元との
婚姻を望み、婚約を調えた。

また吉川元春と陶隆房に兄弟の昵契を結ばせた。
この時吉川元春からは吉光の脇差が引き出物として出され、陶隆房からは、天下無双の名馬である「近江黒」が
出された。この馬は近江の六角氏より将軍足利義晴へ奉られ、柳営より大内義隆に下されたのを、陶隆房が
給わり、この度元春に進められたのだ、と聞き及んでいる。

(安西軍策)

陶隆房と吉川元春が義兄弟とされた時のお話


伊勢新九郎盛時という者があった

2018年07月20日 12:31

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 22:04:00.97 ID:VToEx01u
その頃、駿州興国寺の城主に伊勢新九郎盛時という者があった。後には北条氏長と改名し、剃髪した後は
早雲寺宗瑞居士と言った。

彼は文武二道に達し、才知抜群の士であった。京都にあった伊勢貞国の外叔父の甥にあたる。
彼の先祖である伊勢伊賀守盛綱は、建武年中等持院殿(足利尊氏)による天下草創の時手越河原の戦いで
討ち死にした。以来代々、京都公方家の御供衆であり、また一族であったので代々伊勢守家伊勢氏と
相親しんでいた。

新九郎盛時は先年、今出川殿(足利義視)のお供をし伊勢に下ったのだが、関東兵乱の久しきを鑑みて、
時運に乗じて我家を興起せんと思ったのか、京には帰らず、駿河国府中の城主である今川義忠という人が、
駿河一国の守護にて盛時の姉聟であったので、これを頼んで新九郎は駿州へ下った。

その頃、隣国との合戦があって義忠は討ち死にし、その家督である五郎氏親はようやく7歳の幼児であり、
国政に関われるはずもなく一族老臣たちが我意に任せ威を争い、様々に分かれて合戦に及んだ。
このような中、新九郎は氏親を助け様々に和議を以てこの騒乱を集収し、終には駿河を平和に治め氏親の
世と成した。氏親はこの忠義に感じ入り、同国興国寺の城に富士郡を副えて新九郎に与えたのである。

(應仁後記)

現在の研究に照らし合わせて、「盛時」の諱なども含めて、相当正しく伊勢新九郎盛時の履歴を描いている應仁後記の記事。


小出吉政ノ内通

2018年07月19日 17:56

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:28:39.69 ID:byt+X2Jt
小出吉政ノ内通

7月26日(1600年)、忠興君は(細川忠興)“ふき”という宿に御泊りになった。
同27に上蓑<一本ニ上美濃>の方へ赴きなさったところ、向こうから来た者が下馬した。

「誰の御衆で候か。乗り通られよ」と御使者を遣わされたところ、「小出大和守吉政より
家康公へ使者に下り申した。その途上にて(忠興に)御目にかかって次第を申し上げよと

吉政が申し付けました」とその者は申した。「もしや敵方の者が関東の様子を窺おうとの
術ではないか」と忠興君は思し召し、玄蕃殿(細川興元)は吉政と常に睦まじい間柄で

あったので御見知りであろうとして、その旨を仰せ渡された。興元主は在家に入ってその
者と対面なさると、かねてより御存じの者であった。さてその口上は、

「今回心ならず丹後の攻衆に加わり申した。御城中への御用がありましたら大和守の手へ
人を御遣しください。通路を用意仕ります。また大坂の御屋敷は7月17日戌の刻ほどに

火にかかり、御簾中(細川ガラシャ)は御自害されました。忠隆公(細川忠隆)の御奥様
は乗物三挺でこちらの御屋敷の前を御通りになり、前田肥前守殿(利長)の屋敷へ御入り

になったのを見申した」とのことだった。これに玄蕃殿を始め御前様(忠興)は御義心を
感じ、各々落涙された。忠興君もいっそう石田(三成)の無道を御怒りになり、

「すぐにも三成を滅ぼして復讐を果たす!」と、ますます恨み深く思し召されたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


【話題】織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光

2018年07月18日 17:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 17:16:20.74 ID:HBQe+2EB
https://newsphere.jp/culture/20180714-1/
織田信長に仕えた黒人侍「弥助」が世界で脚光 ハリウッド映画化も


映画化か、面白そうだけど、まさか白人がノブ役するんじゃないだろな



82 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/17(火) 20:53:55.29 ID:pQPinb+R
欧米からすると衆道はどうなのかな??ウィーン少年合唱団みたいなもんか…

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 22:45:35.41 ID:H5KjFGzu
古代ギリシャから中世修道院にいたるまでやってることだから違和感ないんじゃない

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/17(火) 23:37:05.03 ID:IibntZeN
弥助とホモだちだったの?
特に関係なきゃスルーでしょ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:24:12.40 ID:uXyvS12w
キリスト教宣教師からは強く非難されたらしいけど。 主に、大内義隆が。

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 08:40:54.03 ID:0wRJjWz4
どうしてすぐ衆道と結びつけたがるのか

高遠城の"化物"

2018年07月18日 17:14

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 13:14:41.83 ID:HI2wwpjF
高遠城の"化物"


森武蔵守(長可)殿の家来に大塚主膳という者がいた。
(跡を継いだ)美作守(忠政)殿が川中島を領知していたとき
主膳の親(丹後守)は高遠城を預かり、在城していた。

主膳は近習として小室(小諸)城にいたが、所用で高遠城へ行った。
高遠城は山城なので、植え込みが山へと続いている。
その夜(主膳が)「囲のくさの間に寝る」と言うと、児小姓共が
「その部屋には化物がいて、寝る者を必ずたぶらかすのです」とささやいた。
主膳は若き者なので「どうして戯言を言うのか」と聞かない。
年老いた者も「入らないで下さい」と再三諫言したが(主膳は)
「左様なことがあるだろうか」と言って、(その部屋で)起きていた。

その夜主膳が横になっていると、得体の知れないものが体に上ってきて
一晩中そのままだったので、息も絶えるような心地になった。
東雲のころ(夜明けごろ)になってから探したが、どこに行ったか分からない。
主膳は無念に思ったがやりようがなく、その日には帰る約束だったが
とにかく他の理由にかこつけて城に留まった。

先の夜と同じく抜身の中脇差を小夜着の下に隠し、小夜着の裾を足に纏い
蹴ってはげるようにして、少しも寝ないで待ち構えた。
子の半刻になる頃には、眠くて仕方がない。
主膳は「化物は間違いなく今来るはずだ」と思うようにして
気を静めて少しも眠らず待ち構えていると、村雨が夥しく振り
風が吹き渡って、木々の梢をひどく鳴らした。

そのとき何かが縁側に上る足音がしたかと思うと、腰障子の掛金を
自力で外し(障子を)さらりと開け、主膳の上にぱっと上った。
そのとき主膳は小夜着を蹴ってはぎ、すぐ(化物を)切った。

(主膳は)化物が飛び退るより早く飛び起きて、障子を閉め掛金を掛け
次の間にいる小姓を起こし「蝋燭を持って来い」と言ったところ
(主膳の)親がその声を聞いて、十文字槍の鞘を抜き手燭を持って来た。
「何物かは分かりませんが、傷を負わせました。先に手燭を入れて下さい」
と主膳が言ったので(親は)障子を細めに開け、手燭を入れてから入った。

脇差に血は付いていたものの、(部屋には)付いていなかったので
この部屋より外には出ていないだろうと探したが、一向に見つからない。
思いがけずあちこち見ていると、見回す者の後ろに猿のような影が
壁に写っていたので、気づかなかった体で取って返し押さえた。

見れば狸であった。
切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
(この狸が)来るときに村雨が夥しく降ったが、どこにもその様子はなく
飛び石も濡れてはいなかったので、不審千万であったらしい。
(狸は)台所に繋ぎ、四、五日人に見せた後に殺したという。

誠に勢い強く心が強ければ功は成るが、勢いが弱ければ功を遂げにくい。
だからこそ武士は、勇猛の心を日夜朝暮にひたすら願い求めるべきなのだ。


――『功名咄』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 14:57:40.88 ID:P7fNmpSG
>>87
>切られた前足を口にくわえ血を吸い、血を下に落とさないようにして
>人の陰に付いて回ったのは、畜生と言えども賢き物である。
怪談なのに妙にリアルだなw

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 18:07:39.33 ID:mmGCON2A
そんなのを台所に繋いだのか....
もしかして、後で美味しく頂きました?

90 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/18(水) 21:54:33.59 ID:/NO3z8Xw
>>89
そらもう餌断ちして臭みが少し減ったら〆て狸汁よ

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/18(水) 23:15:17.74 ID:F+2jpvv+
     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 狸じゃ、狸の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/07/19(木) 07:31:41.10 ID:d/QlK5mL
     ,へ、        /^i
     | 〉`ヽ-―ー--< 〈 |
     7   , -- 、, --- 、  ヽ
    /  /  \、i, ,ノ    ヽ  ヽ
    |  (-=・=-  -=・=-  )  |
   /  <  / ▼ ヽ    >   、 はいはいワシのせいワシのせい
  く彡彡   _/\_    ミミミ ヽ
   `<             ミミ彳ヘ
      >       ___/   \
     /         7      \
     |        /

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/19(木) 16:43:01.09 ID:MMKjxULT
ぽんぽこぽん

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2018年07月18日 15:11

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井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス 15

池田光政、お尻をつねられる 13

常在寺の盛衰 11
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル 8
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル 8

鈎の陣 6
大阪の陣の前兆っぽい事 6
古の軍記等には虚説が多い 6
奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。 5


今週の1位はこちら!井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評スです!
関ヶ原直前における井伊直政と本多忠勝の、西軍認識の差についてのお話ですが、これはどちらが正しい間違い、という
話ではなく、性格の違いと受け止めたほうがいいのかもしれません。
出典が松浦鎮信の「武功雑記」ですので、内容自体も後世になって形成されたと見たほうが良いと思います。
ここは「教訓」としては、家康は軍監として、強気な直政と慎重に状況を見る忠勝という、性格の違う二人を派遣して
バランスを取ったのだ、という所かもしれません。
ともあれ直政、忠勝が、未だその記憶の強く残る時代の人々に、どのように捉えられていたかを見る上で非常に面白い
お話だとも思いました。

2位はこちら!池田光政、お尻をつねられるです!
池田家に嫁いだ加藤嘉明の娘に、おしりをつねられたことを語る池田光政。なんともほっこりするお話ですね。
武士の教育が、一家一族全体の中で行われていたことも見えてくるようです。
またこのれは光政にとっても、良い思い出だったのでしょう。言われる池田長明にとってはなんとも困った話題だったかも
しれませんがw
この池田長明は、池田光政より大変に信任された家老だったのですが、その信任の元に、その母かたお尻をつねられながら
治世者の心得を教えられた事も含まれていたのかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!鈎の陣です!
コメントでもありましたが、足利義尚への評価ってかなり極端に別れているのですよね。これは逸話レベルだけでなく、
現在の研究者レベルでも、高く評価する人と低く評価する人で極端だと感じています。
義尚は鈎の陣に至るまで、父である大御所の義政が未だ握る権限を自分のものにするため様々に対立し、騒動を
起こしています。その「成果」の出る前に亡くなったため、「騒動だけ起こして何も確立できず死んだ」と見ることも、
「応仁の乱御の幕府を立て直すため様々な改革を行ったが、志半ばにて夭折した」とも見られるわけで、確かに
評価の難しい人だと思います。
個人的には義尚という人は、室町幕府という組織を「再構築」するために本気で活動していた将軍だと思っています。
彼はその一環として、室町幕府の「正史」を作るべく、史料を集めていたフシがあるそうです。義尚は歴史における
室町幕府の自己認識をしっかり定義して、その上で再スタートを計る、という意識があったのだと思います。
それも含めて、彼の夭折は非常に残念ですね。室町幕府自身の定義した「歴史」がいかなるものだったか、読んでみたかった。



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鈎の陣

2018年07月17日 21:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話


水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

2018年07月16日 16:53

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 16:13:14.19 ID:sF4DeMO/
水谷勝隆ノ乳母勝隆ヲ護シ難ヲ逃ル

慶長5年(1600)、関ケ原御陣の時、水谷勝俊は関東におり、その子・勝隆は4歳で
京都にいた。この時、石田三成は勝隆を捜索したので、その乳母は勝隆を背負って

摂津国山崎辺りへ逃れた。しかし訴人により小野木縫殿助(重勝)と川勝備後守(秀氏か)
が勝隆を捕らえようとかの地にやって来ると聞き、乳母はまた夜中に勝隆をだき抱えて

山崎のやのうらから小舟に取り乗って八幡の松坊へとやって来た。ところがここにもまた
島津の家人が尋ね来ると風聞したので、東山の麓にある近衛殿(近衛前久)の

龍山の幽居に赴いた。乳母は泣き告げて「これは水谷の児子でございます。君(前久)は
久しく彼の父を御存じでありましょう。どうかこの子の命を御助けください」と言った。

この時、近衛殿は憐れんで20日間、小風呂の中に勝隆を匿いなさった。その後、関ケ原
の凶賊等が敗北したので、勝隆は危険を免れることができたのである。

――『日本戦史 関原役補伝(寛永諸家系図伝)』


奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。

2018年07月16日 16:52

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 21:09:58.79 ID:p0z8v/pj
文明9年11月、将軍家(足利義尚)より東西の陣に上使が立てられ和平をなした。
「各々戦を止め自分の領邑に戻り兵士を休めて将軍家の命を受けよ」
東軍西軍である細川山名の両家とその従類はその命に従い自分の領邑に帰った。

しかし11年の兵乱に都鄙尽く衰微し、世路を渡ることも成り難い有様であった。
そこで将軍家は所司代、奉行人らと協議して、『天下徳政』と称して、福人の財貨を借り取り、借り捨てとして
返済の沙汰を禁止することとした。

ところが奸邪の者、すばやくこの事を聞きつけて、村里近隣の馴染みの者の家に行き、当座の銭や鎌鍬に至るまで
借り取って返さず、その内に徳政の触れがあると貸主の家に行き、あたかも迷惑のような振りをして
「これを返せば法令に違う、返さずば芳志を失う。どうにも出来ない。」などと騙し、結局はこれを奪った。

このような者たちに対し天下の人々は「奪う者は飢え、奪われる者は飢えず。これが天道の応報というものだ」
などと言い合ったという。

(南海通紀)



池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


常在寺の盛衰

2018年07月15日 17:55

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:07:50.52 ID:SA5mBLDe
永禄7年の9月中旬、織田信長は稲葉山城に移り、これを岐阜と称した。
この城の麓にある常在寺は、もともと寺領五百貫があったのだが、この時織田家によって没収された。
しかし由緒ある寺だったため、住職の日韵上人の申し出によって、日野村にて百貫文の朱印を賜った。

その後、信長は江州安土に城を築いて移り、嫡男信忠を岐阜城の守とした。
天正10年6月2日、明智光秀の謀反により信長信忠父子とも、京都にて生害した。
その後当城は信忠の長男である秀信の後見として、神戸三七信孝が住んだが、天正11年に柴田勝家と結んで
秀吉と戦い、これによって当城を去り、尾州野間の内海にて26歳にて切腹した。

この乱で常在寺も兵火に巻き込まれ、信長より賜った朱印やその他の遺物が焼失した。
しかし後に寺は再興された。

信孝の跡に岐阜城に入ったのは、少将豊臣秀勝であった。彼は織田秀信の後見であったが、
朝鮮の役の時に、肥前名護屋へ出陣し、彼の地にて病死した。

慶長5年、岐阜中納言秀信は石田三成に与して、東軍により岐阜城を攻め落とされ、終には紀州高野山に入って
没した。この時の兵乱で、瑞龍寺も焼けたが、後に再興された、しかし常在寺は、この秀信の時までは、
信長より賜った日野村百貫文の朱印地よりの収入を相違なく給わっていたのだが、秀信が滅んだ後は
寺領が断絶し、常在寺に今残るものは、斎藤道三の画像と、斎藤龍興の寿像だけである。

斎藤道三の画像は、道三が信長の北の方の父であることから、彼女が建立したものであり、斎藤龍興の寿像は、
その子息である龍興が建立したものだという。

(土岐累代記)

稲葉山の麓にあった常在寺の盛衰



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 20:42:02.56 ID:WP6C3Ozs
織田家がいなくなったら、領地の保証もなくなったわけか。しかし、頻繁に焼けてるなあ・・・

忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

2018年07月14日 16:36

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 21:00:22.32 ID:j2a9VVjX
忠興其子忠隆ノ優柔ヲ怒ル

6月27日、忠興君(細川忠興)は宮津で御門出(会津征伐のため)となった。御万様(烏丸光賢室)が
もってのほか御病気のため御見合わせになられて今日まで御延期されていた。昼は田辺<今ノ舞鶴>にて

御暇まで御饗応をなされた。その夜は若狭国安濃津に御泊りになって、2日御逗留されて御歯の御養生を
なさった。29日の暁に近江今津浦より夜舟に乗られて、あくる日の出に朝妻に御着船された。忠興君は
御人数を召し連れなさって、朝妻にて(後続の軍勢を)御待ち受けなさった。

7月朔日の日の出に朝妻を御出立され、その夜に美濃美江寺に御陣を取られた。御人数は合渡に陣取って、
同2日、美濃鵜沼の町で御昼休みになられ、町はずれの船渡しで向かうと、犬山の城より少し川上に舟は
着いたのであった。御人数は川向いに立って忠興君の御渡りを待ったので、忠興君は、

「これからは左様にはせず、予定通り先へ押し進み申すように」との旨を仰せ渡された。その晩、忠興君
は太田<一本ニ戸田>の宿に御陣を取りなさった。翌日3日、忠興君は御嶽<一本ニ見竹>の宿において
御機嫌が悪くなり、与一郎様(細川忠隆)との御仲は御不快となった。

その詳細は、忠隆君が先陣として若狭小浜の城下を御通りになった時、城中より使者が来て「城の周辺は
御避けになって下道を御通りくだされ」と申したので、その意に任せられて脇道を御通りになられた。

それから二番目に玄蕃殿(細川興元)が御押し通りになると、城中よりまた前述の趣を断りに遣してきた。

玄蕃殿は「出陣の門出で端の道を通るなんてことがあるか。異議に及ぶならば、打ち破ってでも通る!」
と仰せになって進み行きなさった。城内からもこれを妨害する支障もなく、玄蕃殿は押し通りなさった。

忠興君はこの事を御聞きになって玄蕃殿に御褒美なされ「与一郎は軍法を知らぬ!」と御怒りになられた。

――『日本戦史 関原役補伝(細川家記)』


井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

2018年07月13日 18:15

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 15:31:24.37 ID:m3mAOga4
井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、

兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。

(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)

また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、

「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。

左様に御心得なされ」と申された。

(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)

――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』



77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:35:18.29 ID:LVuhrboZ
時間経過なのか、忠勝の方が細かい観察力が優れているという話なのか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 09:38:24.86 ID:0uqXaRXi
そんなんだから突出して銃撃されるんだよ

大阪の陣の前兆っぽい事

2018年07月12日 10:56

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ

古の軍記等には虚説が多い

2018年07月11日 17:36

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:55:39.57 ID:4OTrD0VR
古の軍記等には虚説が多いと言うが、それも当然であろう。
信長記、太閤記などを読むと非常に虚説が多い。近頃なら難波戦記、島原記などだが、
私はこれらの戦いを実際に近くで見及んだわけだが、これらの書物は、書くべきことを
書き漏らし、書く必要も無いことを、さも大事な事のように書いている。

こういう近年の事例から、古についても察するべきである。

(渡邊幸庵對書)



922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 10:30:57.46 ID:5Chz2f1H
>>921
そりゃそうだろうけど
お前が言うなよw

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/11(水) 11:51:36.35 ID:fTvUYMZ5
130歳まで生きたと称している時点でアレ過ぎる

週間ブログ拍手ランキング【07/05~/11】

2018年07月11日 15:40

07/05~/11のブログ拍手ランキングです!


あれでも能の上手か!? 17

センゴク権兵衛の水野勝成動静より 16

斎藤織部落武者を助くる事 13
水野勝成さん、水野家出奔から蟹江城攻めまで 13
清見寺の膏薬 12

門出の朝は黒米飯 10
謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね? 9
鷹に鶴を取らせる心 9
小西行長の長子 8


今週の1位はこちら!あれでも能の上手か!?です!
中村靭負さんの主家が主家だけに、確かに途中までドキドキしちゃう内容ですねw中村さんが芸事に真摯な人で本当によかった。
これよりちょっと前の時代だと、武芸者が素人の話を取り入れて、なんて話が多いのですが、能という文化的なものに
なっているあたり、それだけ時代が平和に成ったのかなあ、なんて感じますし、そういう文化的な人が細川家だというのも、
またらしいですね。
こういう血生臭さのない逸話もまた、良いものですw

2位はこちら!センゴク権兵衛の水野勝成動静より です!
こちらは血生臭さしか無い人ですが、このお話もまあ、血まみれの中の「いい話」ですねw
竹崎右衛門の兄を殺したことにああいう形で贖罪する勝成にも、またそれで勝成を許す竹崎右衛門にも、まるで感情移入
出来ないというか、気持ちが頭では理解しても感覚として解らない、という気持ちです。
しかしこういう事で心が通じちゃってたのが、あの時代というものなのか、とも感じます。
過去を理解することの難しさはこういうところにも有るな、と思いました。
あと今日予定のヒストリア「水野勝成」が18日に伸びていましたね。残念(T_T)

今週管理人が気になった逸話はこちら!清見寺の膏薬です!
こういう形で武士を離れた今川の遺臣がいた、という話も興味深かったのですが、コメントから判明した後日談には、
更に驚かされました。そんな事に、なっていたとは。本当にびっくりですw
こういう事が寺を介して起こるというのも、この時代らしいのでしょうが、強烈な本末転倒感といい、インパクトありますね。
しかし膏薬をアレにどう使ったのだろう、気になるw



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謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

2018年07月10日 21:05

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 03:42:58.66 ID:o+BV0MVC
上杉謙信の家臣団といえば上杉二十五将などとも言われ著名な武将が多い。
そんな上杉家臣団を見ていて気付くことがないだろうか。

…あれ、謙信の家臣って、歳食ってる奴多くね?

そこで有名どころの生年と第四次川中島の時の年齢を上げてみる。

柿崎景家 1513年(48歳)
宇佐美定満 1489年(71歳)
色部勝長 1493年(68歳)
北条高広 1517年(44歳)
本庄実乃 1511年(50歳)
中条藤資 不明だが1494年には家督を継いでいた(70歳以上)
安田長秀 1516年(45歳)
直江景綱 1509年(52歳)

参考までに主な武田家臣の生年と年齢も。
山県昌景 1529年(32歳)
高坂虎綱 1527年(34歳)
内藤昌秀 1522年(39歳)
馬場信春 1515年(46歳)
山本勘助 1493年(68歳)
真田幸綱 1513年(48歳)
原虎胤 1497年(64歳)
小山田信茂 1539年(22歳)

またその子供も随分歳が離れているのが多い。長子と思しき人物との生年と年齢差も書いてみる。

色部勝長 ー 色部顕長 1549年(56歳)
安田長秀 ー 安田堅親 1557年(41歳)
中条藤資 ー 中条景資 1532年(40歳以上)
直江景綱 ー お船 1557年(48歳)

また柿崎景家の子柿崎晴家は生年不明だが1570年に人質に出された記録があり、この頃はまだ未成年だったとすると景家40歳頃の子供となる。



914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:31:47.68 ID:dSxs4i6+
安田長秀の末裔が言うには有重という子がいたらしい
親子ともに治部少輔を自称、母は長尾政景の妹、妹に安田堅親の室
因みに堅親は河田からの養子で有重の跡を継ぐ、兄が長親
他の者も親子同じ官名を自称して実名が表記されてないから混同されてんじゃね?

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 14:54:53.90 ID:dSxs4i6+
柿崎晴家は次子
長子祐家は天正元年越中朝日城攻めに名が見える
のち親子ともども誅殺されたのか討死、病死かは不明

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:12:04.41 ID:dSxs4i6+
大昔って大した娯楽がないから毎晩セックス三昧っていう暮らしだと勝手に想像しているんだが
子が生まれても女子だったり寒さで流産したりと跡継ぎが出来にくい土地柄だったのかしら

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:50:00.59 ID:oaqH4q4O
織田家部将の子どもの少なさ考えたら少なくとも身分ある武士がセックス三昧とはとても

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:23:27.63 ID:wjkq+BjH
戦国武将って、あちこち出張しているから、ゆっくり致す暇もなさそう。
特に、信長以降の天下人の部下は東奔西走しているからなあ。

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 21:42:18.89 ID:+Sn4NBhJ
あの時代は危険日(冷静に考えると変な言葉)とかわかってなかったんだろうし、それこそ運任せだったんじゃね。
戦があれば何ヶ月も帰ってこれないし、そら側室たくさんいても子供簡単にできないわな。

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 22:06:22.67 ID:2jNQiVdt
>>913
謙信の場合、一応父親と兄の代の家臣団をそのまま引き継いでいるので年齢高めなのは仕方ないかも。
家督継ぐ前に自分の家臣団を形成したような感じもないし、若手を大量抜擢とかもしてないようだし。
長子との年齢差はよく分らんが、、、謙信が遠征に引っ張りまわしすぎて作る暇もなかった?