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本圀寺襲撃と入札

2018年08月31日 17:29

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 10:36:09.89 ID:Nd9a42yo
永禄11年、織田信長は将軍・足利義昭を帰洛せしめ、六条本圀寺を以て仮の御所とした。
翌年正月3日、三好山城守、日向守、下野守、岩城主税等、一族蜂起して京中に乱入し、
六条本圀寺を取り囲みに懸った。

これに足利義昭は、自らの諸勢に下知して本国寺を持ちこたえさせた。
この時、門役(警備役)は入札(投票)を行い、入札の内17枚までが『明智十兵衛尉(光秀)』と
書かれた。また武者奉行の入札の内7枚までが野村越中守とあり、双方過半を超えもはや他の入札を
開く必要なく、これによって入札で決定される指揮官役は両名に命じられた。

彼らの指揮は著しく、何れもその剛操を以て、この襲撃は不意に起こったにもかかわらず
六条を持ち固め、三好の一党はついに引き上げた。

(士談)

三好三人衆の本国寺襲撃の時、義昭の側で指揮者を投票で決めていたらしいというお話。
光秀人望有ったのね



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 12:43:53.84 ID:ENxn/IaS
それを言うなら投票で指揮官を決めさせた義昭の企画力だろうな
流石は信長包囲網を編み出した知将だわ
場当たり的な謀反で横死したハゲとは違うんですよ
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この家には銀の兜をつけた侍が

2018年08月30日 17:59

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 22:02:07.71 ID:hN7iYod7
蒲生氏郷は常にこう言っていた
「人衆を戦場にて使うに、ただかかれかかれと計り下知していてたかからない物である。
かかれと思う所には、大将自身がその場に至り『この所へ来たれ!』と言えば、あえて大将を
見捨てるような者は居らぬものである。しかし大将自身は後に居て、ただ士卒をかからしめんと
しても、かかることは無いものなのだ。」

氏郷はその言葉の如く、人を新たに抱えた時は常に
「この家には銀の兜をつけた侍が、いつでも一番に乗り出して、諸卒に先立って働いている。
なのでこの男に劣らぬように稼ぐべし。」
そう言い教えたという。
これ則ち、氏郷の鯰尾の銀兜のことであり、働きを諸軍に先んじていた故であるという。

(士談)



240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 23:46:43.97 ID:p31L3AQN
足利義明「その通りである」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 08:29:23.45 ID:vtjT338y
>>240
S「目障りだから置いてくわ」

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 10:15:04.89 ID:WpX3rZhX
お、おう

汚れなく弓馬を取って

2018年08月29日 18:59

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 21:57:29.52 ID:0kRQSIZY
武田信玄に曰く、
「国を多く取ることは果報次第である。殊に天下を取って、日本国中を残らず皆治めることは、
源頼朝、北条数代、その後源尊氏、皆果報いみじく、公方にそなわり将軍になりて、武家の大望はこれに尽きる。

しかし彼らも果報の時刻に当たる以前には、どれほど艱難のことが有っただろうか。
また源義経は弓馬の誉れ、身の勤め共に有ったが、僅か伊予一国にて終わった。

このように、果報とは人間にはどうにもならない物であり、ひとまず差し置いて、末代までも弓馬の上に
汚れ無き如くに慎むべきなのだ。汚れなく弓馬を取って命長ければ、果報に任せて大国も天下も
自分の前に降りてくるものなのだ。

例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。こういった理に昏いために、果報も
知らず大国大録を望み、自分に恩を与えている主君に逆意を企て不義を成すこと多い。
しかしそういった者達は、当分はそれをやりおおせても、時が至っていないため大体は
非法の死をなす事、古今にその試し多い。以て戒めとすべきである。

(士談)

いいこと言ってるけど信玄の言葉だと思うとすごい複雑な気分になるな。



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:38:08.74 ID:MRF/OVJX
>>232
>例えば四季を急ごうとしても、春から秋へは飛び越せないものだ。

森さん「近年、夏が終わったと思ったらもう冬なんですよ…」

ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】

2018年08月29日 18:58

233 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/28(火) 22:11:02.89 ID:EvVT2odV
ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000036-tospoweb-ent


自分に政宗の血が通っている部分については「負けず嫌いなことと、眉毛が太いことでしょうか」

「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:17:27.94 ID:0m4UqgFR
>>233
この娘さんに「寝るから起こすな」と言われたのに起こしたりすると
寝起きが悪くて刀片手に追いかけ回されたりするのかな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 00:19:31.10 ID:j2Tx7DuF
>>233
父系だと空気な加藤さん、母系で政宗に繋がるけれど十数代目・・・
父親の名前だけを頼りにした調査が正確ならこの結果

まぁ江戸期以降の名家には違いないけれど

かの大軍に気を呑まれてその指図に従われる

2018年08月29日 18:57

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 17:04:21.36 ID:K7i/dcnH
羽柴筑前守秀吉は摂津尼崎に着陣し、神戸三七信孝ならびに丹羽・池田ら諸将へ使者をもって申し遣わした。

「秀吉は亡君(織田信長)の仰せを受けて討手として中国に向かい、備中高松城まで攻め取った。しかし、
毛利は大国といい大軍といい容易には決戦しがたく、援兵を申し願った。毛利は亡君の武威に畏服し3ヶ国

を避け渡して降参和睦の盟約はすでになるに及び、まったく思いも寄らず賊臣・光秀は叛逆して主君御父子は
討たれなさったと長谷川宗仁の方より告げ来たった。秀吉はこれを聞き、切歯扼腕して怨恨限りなく、

腸を断たれる思いだった。よって1日も早く亡君の弔い合戦をせんと思い毛利と和睦し、毛利より弓5百挺・
鉄砲5百挺・旗30流の加勢を受けて、今日尼崎まで着陣したものである。

只今より早々に上洛して逆賊光秀を誅戮せんと存ずるなり。信孝公はじめ諸将の軍議はいかがに候か」

信孝はじめ諸将は早く光秀と一戦せんと思うものの、あまりに小勢なので容易には打ち立ちがたく、かれこれ
評議に10余日を送っていた。そこに秀吉が今度2,3万の大軍で上着したと聞いて大いに喜び、信孝・長秀

らは早々に舟で大坂から尼崎へ至ってついに秀吉と対面し、秀吉の大義・大忠を感嘆して喜ぶにもまず涙は
先立った。追々に諸将も会合して軍議を凝らしたところ、合戦の場所は山崎と定められた。

その時、池田勝三郎信輝(恒興)は「今度の光秀誅伐の先陣は某が仕らん」と言った。高山右近友祥入道南坊
は声を揚げて「今度の弔い合戦の先陣は某、二陣は中川瀬兵衛清秀、三陣は池田父子であるべきだ!

池田殿は順序を越えて先陣とは何事ぞ!」と、双方すこぶる争論に及ばんとした。

秀吉がこれを聞いて「池田殿は亡君の御乳母兄弟でおられるから、とりわけて御在世の御陣定めを変えなさる
べきではない」と言うと、池田も承服して静まった。よって先陣は高山南坊、二陣が中川清秀、三陣は池田

信輝と定まった。蜂屋頼隆は密かに傍の人に囁き、「三七殿は亡君の御子、丹羽は当家一二の老臣、池田も
亡君の御乳母兄弟だ。いずれも当家において歴々の輩である。尼崎へ秀吉が参着と聞きなさったならば、

秀吉をこちらへ招き寄せて軍議されるべきことである。それを三七殿も丹羽も軽々しく秀吉の方へ参謁し、
かの大軍に気を呑まれてその指図に従われるとあっては、秀吉は早くも天下の主と見える。

きっと光秀を誅せられて後には、天下は秀吉の手に落ちるだろう」と申した。この言葉は後に思い当たった。

――『改正三河後風土記』


週間ブログ拍手ランキング【08/23~/29】

2018年08月29日 18:56

08/23~/29のブログ拍手ランキングです!


信長公、検校からの罰金で 17
右府信長公は末世において稀なる大将 17

今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた 16
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話 14

信繁も一騎で勝負 10
朽木は節義も一時の所縁も忘れて 9

曲淵城主と○○ 8
真実無妄の誠を以って 6
とかく高坂のことを讒言し妨げたので 5


今週の1位はこちら!信長公、検校からの罰金でです!
盲人組織において検校が配下の座頭から上納金を得るシステムを、「利権」として悪用した事に、織田信長が処断したお話。
中世は言うまでもなく「自力救済」の世界なのですが、一方で基本的には「弱い存在」と見られがちな盲人たちは集団を
形成することで、社会的に無視できない力を持っていました。盲人に武士が暴力を奮ったとこそ、その主君の城が盲人に
取り囲まれた、なんて話もあります。逆に言えばそれだけの力を持っているだけに、内部で恣意的なルールのねじまげを
してしまうと、その内外に様々な悪影響を与えるものでも有ったのでしょう。
それにしても罰金で宇治橋が建設できるとは。ここからも彼らに巨大な財力が存在した(と考えられていた)事がよくわかります。
いろいろな角度から読むことの出来る逸話だと思いました。

今週は同票でもう一つ!右府信長公は末世において稀なる大将です!
古を尊ぶ織田信長。最近でこそ「保守的」な信長像が受け入れられるようになりましたが、ほんの10年ほど前までは
この手の逸話も「後世の儒教倫理に合わせて創作されたもので云々」と、ほぼ無視されていたものでした。
本当に専門書でも、信長について「革新的天才」であることを前提に書かれてたりしましたからね。
そこから考えると隔世の感があります。
この逸話から、そんな事を思ったりしました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!信繁も一騎で勝負です!
何故そこでごまかすのか謙信公w
第4次川中島を描いた軍記では、謙信との一騎打ちが名場面としてよく出てきますが、ここで信繁が謙信と戦っているのが
非常に面白いですね。これは、このお話の中で武田信繁を非常に高く評価している、という事でしょう。
だからこそ一方の主人公である、謙信と一騎打ちで討たれているわけです。信繁にそれだけの「格」があると、
この著者は考えていたのでしょう。
軍記を読む時、そのように「著者・編者の意図」を考えてみるのもまた、面白いと思いますよ!


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してみてください!
(/・ω・)/


真実無妄の誠を以って

2018年08月28日 18:44

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 21:33:24.49 ID:FERgEUgq
天正7年(1579)11月3日、二条御新造の御所が完成し、織田信長は則ち四伝奏を以て奏聞あって、
皇太子誠仁親王へこれを奉った。
同じく22日に、式掌の御移徒(わたまし)があった。その後信長は参内したが、このとき親王に夥しい
捧げ物が贈られた。
かくして信長は妙覚寺において巻物、板の物二千端ばかり包みおき、近習外様の人々を召し寄せ、
それぞれに下された。

12月6日、山崎方積寺に至って御座を移されたが、俄に大雨があり両日逗留した所、八幡宮の木桶が
朽ちてしまったことを申し上げると、「唐金を以て鋳てまいれ」と、武田左吉、林甲兵衛に仰せ付けた。
また同所において片岡鵜左衛門尉が、周光香炉を所持していたのを召し上げ、対価として銀子一千両を
下した。

同17日、各方面において苦労をした諸侯大夫を慰るとして、天下一共の藝者を揃え、桟敷を作り、能を
仰せ付けた。そして桟敷桟敷へ四日の間、毎日食事として折二十合、柳五十荷づつ賄うようにと
京中に宛行わせ、その代金として黄金二百両を下した。そのほか見物の下々へも食事を配り、
寒飢を補った。
これぞ一河の箪醪(河に酒を流し兵士たちと分かち合う中国の故事)ではないか。

これは五逆罪の荒木村重に対し、幾程もなく御本意に達せられ天下静謐に帰した悦びの為であると言われた。
総じて信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
誠に今の世には稀なことである。

同じく20日、天下の仕置等仰せ付けられ安土に帰城したが、この時も京中に八千石、安土の町中に三百石、
酒を食べよと下された。

(甫庵信長記)

凄まじいほどに気前の良い天正7年の信長公であった




230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:16:21.53 ID:uouo1Z/w
>>229
>信長は強いて神仏に祈りをかけることはせず、自ら真実無妄の誠を以って祈られた。
宮本武蔵かな?
今じゃすっかり神仏に祈願するのが当たり前になっちゃったけどこのころはそうでもなかったのかな

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:21:28.83 ID:FA447Pf0
苦しい時の神頼み

とかく高坂のことを讒言し妨げたので

2018年08月27日 18:34

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 18:32:10.13 ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 19:32:21.87 ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 01:35:48.43 ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 18:26:37.59 ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html


60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 19:15:57.07 ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 07:01:04.62 ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 08:09:16.13 ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 10:12:49.07 ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 13:59:54.23 ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:10:45.17 ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:17:44.99 ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:28:08.07 ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:53:07.73 ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 21:26:13.55 ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 23:45:46.02 ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 00:35:09.34 ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

信長公、検校からの罰金で

2018年08月26日 18:14

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 22:11:53.36 ID:vdaAkkxv
摂津国兵庫の町人に、常見という、飽きるほど富み楽しむ者があったが、一生の間財産を減らさず
生きていく方法を考えた結果、検校の仲間に入り、その配下である座頭達からの配分を取れば、
そんな商売よりも効率的であると思い付き、すぐに良きように工作し、検校中へ本銭千貫を出して
その中に加わり、検校職と同じように、座頭からの配分の下りものを受け取った。

しかし配分を取られる側の座頭たちは、このように法度の濫用を行えば、果ては町人の過半が検校職を
持ってしまうようになると思ったものの、検校たちが一味して計ったこと故力及ばず、すでに数年、
その状況が変わらなかった。

そこで座頭たちはついに「織田信長公の正しき御制断を頂き、年来の愁眉を開き、先規のように
戻すべし」と衆向一同したため、信長に直訴を遂げた。

信長はこの訴えを聞き、暫く馬を止め内容を右筆に一々書記させ、
「申し状の如くならば不便の次第である。訴えどおりに計らうべきである。」
そう言って、直ぐに検校中へ問い合わせた
「云々の事聞こえあり、これは事実か?」
「左様候」

そこで信長は命じた
「法令を乱す事、悪行の内何がこれに過ぎるだろうか!されども盲目であるので斬刑まではしない。
検校の位をすべて剥奪する。今後再び、昇進のための功を励むように。」

これを村井長門守より申し付けられると、検校中は非義極々としたが弁解することも出来ず、
後悔してももはや及ばず、「御憐を垂れられて宥し置かれますように」と、五山僧侶を頼み
嘆き申し上げた

これに対し「ならば懈怠として黄金二千両出すべし」との事になり、検校中は畏まり、悦んでこれを出した。
すると信長は「ならば此れを以て宇治橋を掛けよ」と、宮内法印、山口甚介に命じて架橋させた。
翌年6月、橋は完成し、上下の往還安らかにしてその恩恵を楽しむ声、さらに洋々であった。

(甫庵信長記)

信長公、検校からの罰金で宇治橋を掛ける



221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:20:32.18 ID:dncSpBoR
>>220
ただの名君じゃねーか!

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 20:38:18.91 ID:Jwmeqw3a
やるなノブ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 21:29:24.28 ID:W3LlOJZ8
ノッブは日本改造論の初代だな

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:31:04.77 ID:KYawnVbX
ノブ君の野望

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:37:22.65 ID:Sse4I+gN
腐儒の甫庵著作出展だからこれは疑わしいゾ

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 10:58:29.01 ID:xKUTCWuX
検校の話はこれとほぼ同じ内容で牛一の信長公記にもあるぞ

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 13:11:04.51 ID:rhnB8gQ5
宇治橋ってすぐに壊れたの?

曲淵城主と○○

2018年08月25日 18:20

210 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/24(金) 12:58:20.77 ID:b7TWBcj9
仕事してたらちょうどいいネタを発見したから投稿する。


曲淵城主と○○

元亀・天正のころ、曲淵というところに鍬作りの鍛冶屋である甚五平衛という男が住んでいた。
ある日の夜、甚五平衛の家に見知らぬ坊さんが家を訪ねてきた。心の優しい甚五平衛は坊さんを誠心誠意にもてなした。

数日泊めた後、坊さんは出立することとなった。そして坊さんは書状を甚五平衛に渡してこう言った。
「この書状を高祖の殿様に届けよ。」
こうして坊さんは去った。

甚五平衛はその書状を高祖城主・原田隆種に渡した。隆種は書状を読むとこれに喜び、甚五平衛に「曲淵河内守」という名と曲淵城を与えたという。
甚五平衛はこうして曲淵河内守氏助と名乗り、今の早良区一帯の支配を任され、豊臣秀吉の九州征伐で滅びるまで、原田氏に仕えた。

なお、あの坊さんであるが、彼の正体はなんと時の将軍(元の文のママ)・北条時宗の父・北条時頼だったのであった。


早良区曲淵において伝わる民話である。
なお、これ書いた人は北条時宗を何故執権ではなく将軍と書いたのか尋ねてみたい。


ソースは福岡市早良区の情報誌

※投稿者の方からこの情報誌のサイトを教えていただきました
平成30年度「さわらの秋」パンフレット
http://www.city.fukuoka.lg.jp/sawaraku/sawaraku-tamatebako/miryoku/autumn/pamphlet2018.html
 パンフレット(7~16P)
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/64937/1/bbbb.pdf?20180904094345
SnapCrab_No-0562.jpg
本当にどう言う過程でこの逸話が生まれたのかw




211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 13:14:39.41 ID:wp5gUCGn
俺の読解力がおかしいのかな
元亀天正の話しだよね
北条時宗?

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 13:35:16.16 ID:kh6/p4Yo
鎌倉時代の伝承が雑に元亀天正に引き下げられた感じかな。しかし足利義昭がそんな事してたらそれはそれで面白いがw

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 14:06:53.67 ID:wp5gUCGn
鞆から船ですぐ行けるからな、義昭漫遊記を見てみたいわ

しかし登場人物がみんな実在と思われるのになぜここまで雑な設定になったんだろうな

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 15:09:21.40 ID:PuZ/RJsN
時頼が不老不死っていう説はないの?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 15:36:15.69 ID:EYE7KuwJ
原型はわからないけど何らかの元ネタをローカライズしたパターンかも

9世紀頃の摂津長柄の人柱の伝説を原型にした「雉も鳴かずば撃たれまい」の話だと
有名な長野の犀川や犀川繋がりで石川、原型に近い話が熊本にもあるし

竹叟夜話を原型にした話が上方から江戸に伝わり播州は番町、杯は皿に変わって番町皿屋敷に
今度は江戸から上方へ伝わり播州皿屋敷になるとか
ローカライズにありがちな、時代・場所・人物が改変された話の気がする。

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 16:30:29.30 ID:EYE7KuwJ
……よく考えなくても鉢の木か
よくある時頼廻国伝説の派生かと思ったが鉢の木から鉢の木のエピソードを抜くとは…酷すぎる

今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話

2018年08月24日 10:15

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:10:59.80 ID:t0gJgy7I
大坂冬の陣で家康から感状を得た横河次太夫重陳の話


池田輝政が姫路に入国した際、横河次太夫*は船大将として召し抱えられ
高砂城の築城に際し、巨石を運んだ功があったという。
大坂の陣のときには、輝政の三男で13歳の忠雄の家臣となっていた。

さて、そのときの横河次太夫の水主に高濱十兵衛という人がいた。
この人は元は相撲取りで鉄砧と名乗っていたが、世に優れる大力の持ち主で
あるとき播州の海岸で喧嘩があった際、仲裁し和談をすすめた十兵衛に対して
逆に大勢が掴みかかってきたのを、十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
振り回し、蜘蛛の子を散らすように退散させたことがあったという。

その頃横河次太夫は高砂に住んでいたが、次太夫も相撲好きであった。
それを知った十兵衛が次太夫を尋ねて来たので、次太夫の方も十兵衛を歓迎し
十兵衛は次太夫のところで逗留することになった。
その内に大坂へ出陣する風聞が立ったので、十兵衛が同道したい旨を次太夫に
頼んできたので、水主として次太夫に付いていくことになった。

池田忠雄は、薄田隼人(兼相)が守る博労淵(伯楽淵)の砦を攻めることになった。
隼人はその日神崎の娼婦の家に泊まり込んでいたため、砦を守る兵達も勝手に
知り合いがいる陣屋に行ってしまい、砦には四、五十人程しかいなかった。
蜂須賀至鎮の手勢がまず先に夜討ちを仕掛け、火花を散らして戦ったので
砦の者達の中で犬死を恐れる者がおり、本城へと引き取っていった。

蜂須賀勢も砦を押さえる程ではなく、一旦引き返してくるのと入れ違いで
横河次太夫は川を渡り、向こう岸に着いたと同時に陸に上がった。
夜討ちのときは物が多く落ちているので、逃げ散った者達が戻らぬ隙に
次太夫はなんでもいいから分捕ろうと槍を引っさげて、陣小屋と陣小屋の間を
進んだが城中には一人もいなかった。

実はその頃、本城へと引き取っていった者が三、四十人ほど連れ帰ってきたが
夜は既に白んできており、小屋より上に備前の船印(池田忠継勢)が見えたため
一人も進んでいく者はなく、本城の加勢を頼みに再度退却したという。
次太夫は"一人もやっていない"と言いながら、三、四町ほど追いかけたとか。

さて高濱十兵衛は槍を持たず刀だけ持って、味方の後を少し遅れて付いてきたが
後ろの葦原の中から”やらぬぞ”と声がし、槍で突きかかられた。
十兵衛はそれに気づいて引き返し、突いてきた槍の白刃を左手で引っ掴み
右手で白刃を握り直し手前に引き寄せると、大力の十兵衛に引っ張られて
相手が前の方へうつ伏せでべったり倒れたので、片手討ちにしたという。

そこへ敵を追うのを諦めた次太夫が帰ってきたので、十兵衛はこの旨を告げ
「我は新参の無名の者なので、自分の功には出来ません」
と次太夫に首をあげて辞退しようとしたところ、次太夫は
「その方の働きにて討ち取った敵の首を、次太夫が討ったことには出来ない。
 十兵衛が首を取って、その方の功名にしなさい」
と言ったので、十兵衛が手をかけてその首を取ったという。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 19:11:23.07 ID:t0gJgy7I
甲を脱がせると五十過ぎの老法師の首に見えたので、何の用にも立たない首でも
今日戦った証になるだろうと、敵の帯びた刀脇差を分捕り本陣へと引き取った。
この次第を申し上げたところ、心馳せの働きをしたことには変わりなく
大御所様への御奉公の証拠になるので、住吉の御本陣で言上するようにと
言われたので、首を高濱十兵衛に持たせ横河次太夫が遣わされることとなった。

大御所様がこの首をご覧になると
「よく討った、これは平子主膳めの首である」
と上意があった。
この平子主膳という者は、年若き頃より大御所様に恨まれるようなことをし
お憎みが深い者だったので、兼ねてからその行方を尋ねられていた者だったが
此度大坂に籠城して、十兵衛の手にかかり討たれたという。
老いても世に聞こえる大剛の者で、容易く十兵衛に討たれるような者ではないが
急な夜討ちで味方が逃げるのに遅れ、息を切らして葦原に伏していたところ
物音を聞いてガバっと起き上がり、槍を引っさげて十兵衛に声をかけたのだろう。
戦い疲れた老武者が、足が弱って引き倒されたことこそ、運の尽きであった、と。

このときに良正院様(督姫)の御女中から、横河次太夫に御感状が出たが
良正院様は御子様の御初陣に、御家人どもに功名させたいと思われていたので
程なくして大御所様へもその功を仰せあげられたという。
御姫様の御頼みなので、家中では敵の番船を乗っ取った箕浦勘右衛門と共に
次太夫も、大御所様から感状を下されたという。

十兵衛が平子主膳を討ち取ったこともお尋ねになり、事細かに上聞に達したものの
無名の者なので功名にはならず、次太夫の功名になったという。
しかし十兵衛は真実平子主膳を討ち取ったということで、御直参に召し出され
御知行五百石取りになり、子孫も御家中(鳥取藩)では知らぬ者はいないのである。


――『雪窓夜話』



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 20:52:17.21 ID:kogqW73A
>>207
>十兵衛は左右の手に櫓櫂を二つ持って
>振り回し、
宮本武蔵より強そう( ゚Д゚)

朽木は節義も一時の所縁も忘れて

2018年08月24日 10:12

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 01:51:18.15 ID:k0eQsWFI
元亀元年(1570)4月27日、浅井父子とその他近江の城主らは金ヶ崎・手筒山両城ともに
降参したとの由を聞いて、信長の後ろを遮って討とうとした。信長は大いに驚いて兵を引き、

28日、朽木越えのため引き返した。越前勢は追いかけて戦い、信長はまさに討死せんとしたが、
松平三河守家康が後殿して朽木谷に差し掛かった。この時、朽木信濃守元綱は8百余騎で難所に

引き受け信長を討とうと遮った。信長は通れず、松永弾正久秀は朽木と旧好があったので松永が
まず行って朽木を頼んだ。

朽木は節義も一時の所縁も忘れてこれを許し、信長を通した。信長は虎口を逃れて京都に至った。
近江の諸士は皆、朽木に義のないことを憎んだ。浅井長政は朽木を辱めて曰く、

「元綱はなぜ馬を他門に繋ぎ肩をそばだて尾を振るのか! そもそも朽木は江州先方の士にして、
しかも佐々木家血脈の一流ではないか! その業の口惜しきことよ、名字を汚した士なり!」

これに朽木は一言の返答にも及ばなかった。

――『浅井日記』



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:15:27.32 ID:c4dUWH66
きっと松永が朽木の子息を拐って手出ししないよう言い含めたのだろうな

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 10:44:03.08 ID:uwltokou
まとめブログの8605
草が風になびくような

>家康は
>「お前のような地位の低いものは、草が風になびくようなものであるから、深く責める必要はない。
>本領安堵はこれまでと変わらない」
>とおっしゃったので、元綱も家康の寛容さに感動し、涙を流しながら退いたそうだ。

「朽木越えの時は助かった」とでも言えば家康の株はもっと上がっただろうに

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/24(金) 21:26:17.80 ID:R8yzVX6v
赤座、小川「…」

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 12:09:54.01 ID:wY6mtzYB
>>51
王者は誰にも頭を下げないし、例え黒であっても白と言い切り白と認めさせねばならないのだよ

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 09:32:55.76 ID:Ak7DzSzb
>>51
家康は取り残されてたから朽木越えしてねえよ。
秀吉と一緒に普通に撤退だ。

信繁も一騎で勝負

2018年08月23日 17:56

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 15:28:47.99 ID:9WnDNqbg
信玄の弟・武田左馬助信繁は70騎で後詰の陣より馳せ来たり、信玄が手負い申されたと聞いて
その仇を討ち止め申すべしと、仇を探された。

その時、謙信は川の向こう岸へ着かれ、左馬助は大音を揚げて「そこへ引き取り申されるのは
大将・政虎(謙信)と見受けた! 私は武田左馬助である! 兄の当の敵なので勝負なされよ!」

と申された。謙信は乗り戻すと「私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
敵には不足であろう!」と申し捨てて、川岸に乗り上がった。

左馬助は主従11騎で打ち濡れて川を渡り申した。謙信は川岸に馬を立てて待ち受けた。

左馬助は左右を睨み「敵は一騎であるので信繁も一騎で勝負する! 皆々後ろへ下がるように!」
と命じて真っ先に渡ったところを、政虎は河へ馬を乗り入れて左馬助と切り結んだ。

左馬助は運尽きて左の高股を打ち落とされ、川へ逆様に落ち入った。

謙信は向こう岸に乗り上がり、宇佐美駿河守(定行)が7百余勢で備える中へ馳せ入り申された。

(原注:一説に武田左馬助信繁を討ち取ったのは村上義清であるという。上杉家では謙信が直に
左馬助を討ち取ったと申し伝えている)

――『川中島五箇度合戦之次第』



48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 16:45:33.30 ID:kogqW73A
>>47
>私は政虎の郎等・甘粕近江守(景持)と申す者である! 貴殿の
>敵には不足であろう!
ず、ずるい…wまあ兵法にずるいも何もないけど。

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 20:59:44.46 ID:lVWyYuvh
>>47
あの上杉謙信が私は別人の下郎ですよとかしれっと虚言で誤魔化そうとするとか
話として面白すぎる
まぁ11対1を1対1に持ち込んだ上に勝って悠々退却したといえば武略ではあるのだが
…あるのだが草生える

右府信長公は末世において稀なる大将

2018年08月22日 19:24

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 18:21:57.45 ID:LwZBVn2t
織田信長は若年より弓箭を業として長じ、今天下を平らげたが、戎夷猶属せざるもの多かった。
そのため昼夜天下一統の事業のため暇なく、士の賞罰、国の安否、おおよそそういった物ばかりで
心安らぐこともなかった。

しかし、多くの場合己の功に誇って、古き事などは嘲り要らぬことと思うのが世の常であるのに、
信長は古き政に心をかけられ、それを知る者には様々に尋ねた。これは絶えてしまったものを継ぎ、
廃れたものを興そうという心からであった。
中でも、右筆である二位法印(武井夕庵)には特に尋ねること多く、夕庵も事に触れて信長を諌めた。

或る時、夕庵が申し上げた
「朝廷の節会が久しく廃絶して、中老以下の者では礼楽の事名も知らず、勿論見聞など夢にも
経験がなく、哀れにもその様になって十年あまりも過ぎたため、我が朝の礼楽は跡形もない
有様です。
国家を治めるには礼楽の正しきを以てする事、和漢の流例であり、哀れにも浅ましいことです。」

こうしめやかに語った所、信長がそれを痛ましく思う表情は、涙もさらに咽び顔であった。
上下万民を一子として天下を慰撫したいと二六時中励んでいるその耳に、どうしてその言葉が留まらない
事があるだろうか

「直ぐにお前たちで対策を計るように。そういった事は誰に問えば良いのか?」

「何と言っても、禁中伺候の老者たちでしょう。」

そこで誰彼と人の薦めるにまかせて問いただし「先ず何から初めて興行すべきか」と
詳細を求め、菅屋久右衛門尉(長頼)、武井夕庵を以て夫々改めた。
節会、あるいは謡物などにおいて、中老以下の諸卿殿上人も、まるで今はじめて稽古するようで、
大変趣深かった。

このようであったので、貴賤おしなべて、この右府信長公は末世において稀なる大将であると
誰言うと無く諷した。

(甫庵信長記)

古を尊び旧来のものを復興する事に熱心な信長



201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 19:22:27.49 ID:EP5h4uYx
>>200
意外と皇室を大事にしてるんだよね~。

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 20:46:30.27 ID:hlLUN9am
朝廷・公家に対してラディカルにめちゃくちゃやらかすのは秀吉のほうがよほどひどいのに、
なぜかそのイメージが信長についちゃっているんだよなぁ。

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:15:31.40 ID:Hw58TqZF
まるで儒者だな
国学者の書いた創作の文ではないか?

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 22:42:27.63 ID:CBq0+MkX
朝廷にこまめに献金してた=皇室の権威を重んじていた大名って、毛利家と織田家ぐらいしかわからん。
朝廷が間に入れば両家の和睦ができたんじゃねえかと思う。

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 23:32:48.70 ID:3GVdf7rN
信長以前は大内が莫大な献金してた

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/23(木) 07:46:09.66 ID:0Yr8qeZS
信長のは親父譲り

週間ブログ拍手ランキング【08/16~/22】

2018年08月22日 19:23

08/16~/22のブログ拍手ランキングです!


謙信は唯鬼神にて候 12

織田信忠三位中将任官 10
「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」 10

家康の米蔵 9
てんかとりしつめ候 9

貧乏の時によく仏神の心に叶う 8
流石増田の子だ 8
為景は歌人でもあり 6

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に 5
このような名君が表れたのは天下の悦び 5
仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社 4
真田幸隆、危機一髪 3


今週の1位はこちら!謙信は唯鬼神にて候です!
いわゆる第4次川中島での謙信と信玄の一騎打ち。この二人が刃を合わせたかどうかはともかく、謙信が実際に
自身で切り込んだことは、近衛前久の書状などにも出てくる事ですね。大将として相応しい行為かどうかはともかく、
なるほど軍神と呼ばれるわけだと思いますw
上杉謙信という人は非常に恐ろしい印象を持たれるタイプの人だったようで、関東に攻め込んだ時も、名だたる坂東武者たちが
「あんな怖い大将は居ない」と慄いていますね。そういう印象も、このような戦場での勇猛さに由来するのでしょう。
しかし謙信は戦国大名として見ると、その生涯の主敵であった武田信玄や北条には結果的には押され、信濃、上野に置いて
労多くして功少ない状況に至るわけで、大将個人の武勇やカリスマの限界のようなものも感じます。
そんな事をふと思ったりもした逸話でした。

2位はこちら!織田信忠三位中将任官です!
織田信忠が天正5年(1577)に従三位左近衛少将に任官した時のお話。
この逸話では「松永久秀討伐」がその理由と成っていますね。逆に言えば、松永久秀を滅ぼすというのはそれほどの
価値の有ることであると畿内において認識されていた、ということでも有るかと思います。
それにしても実に筋の通った、絵に描いたような任官の受け入れ方ですね。父信長の許可をなにより重視するところなど、
ここだけでも立派な後継ぎであったことが伺えます。
しかしもしかすると、こういう何よりも父を重視する姿勢が本能寺で自身だけで逃げることが出来なかった、という
姿勢に繋がるのかもしれません。
その事も連想させた逸話でした。

今週は同票でもう一つ!「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」です!
この北越太平記は江戸後期ころの成立であるようですが、その頃にはもうこのように、ストレートに「毘沙門天の生まれ変わり」
と謙信は認識されていたのですね。それにしても本卦が凶故に「武人大君と成る」とは。占いは難しいw
上杉謙信もその生前から徐々に神格化されていった人ですが、後世にかけての神格化の過程を調べていくのも面白そうですね。
そういう研究、どこかにないかなあw


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に

2018年08月21日 19:43

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 14:29:17.07 ID:UbRWxlbF
去る程に、天下泰平に治まり行くによって、大名小名は尽く安土に集まり、織田信長に対し
歳暮の御礼を申し上げた。棒物(歳暮の御礼の贈り物)の類の夥しさは、限りもないほどであった。

明ければ天正6年正月の早旦、信長より諸侯大夫へ御茶を下されると兼ねて仰せが有ったため、
寅の刻(朝4時頃)より登城された。その面々は、まず三位中将信忠卿、羽柴筑前守秀吉、
二位法印(武井夕庵)、長岡兵部太夫(細川藤孝)、林佐渡守(秀貞)、長谷川丹波守(与次?)
惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)、滝川左近将監(一益)荒木摂津守(村重)、市橋九左衛門尉、
長谷川入道宗仁、以上11名であった。

お座敷の構は、六畳敷に四尺の縁、床には彼岸の絵、中に万歳大海、右に松島、左に三日月。
花の水差し、周光茶碗、うば口の釜、竹筒の花入れといったものであった。

信長は自身で迎えに出られ、座敷へ招き入れた。そして手づから配膳された。
この座の衆の中には後に、あまりの事に何を食べても、一切物の味の記憶が無いと言った人もいたとか。

御茶過ぎて、その日出仕した者達へは、諸大夫までは三献の土器(かわらけ)を、福富平左衛門尉、
矢部善七郎、大津伝十郎、大塚又一郎らの御酌にて下された。
平侍以下にはお通り(お通し)が出された。

翌日、大名小名尽く召されて「殿守見参らせよ」と、名物の茶器をかれこれと御見せになり、
南蛮、大明、珍奇の茶の子、数を尽くして下され、その後こう言われた

「各々数年心身を苦しめ、勲功を積んできた故に、この山が成就した事は、誠に珍重余りある。」

そう再三に仰せに成ったため、諸侯大夫は皆、感動に首を地に付け御返事を申し上げる者も無かった。

同じく4日に、信長より信忠へ贈られた数寄道具が、万見仙千代(重元)の所で御開きになったが、
羽柴秀吉、武井夕庵、宮内法印(松井友閑)、林秀貞、滝川一益、長谷川与次、市橋九郎左衛門尉、
丹羽長秀、長谷川宗仁、以上9人を召されて、終日丁寧のおもてなし、誠に善尽くし美を尽くされた。

(甫庵信長記)

この時は「お前たちが頑張ってくれたおかげだ!」って言ってるのに、何故甲斐征伐の時「我々も頑張ったかいがありました」
って言った光秀はあんな目に…



191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:03:49.56 ID:hEIi7MKj
信長は躁鬱の気がありそう、自分のメンタル具合によって似たような場面でも処置がまちまち

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:05:49.13 ID:CBpikV1D
>>190
仕事を頼まれる時と、仕事をこなした後で
上司の腰の低さが変わるのはブラックあるある。

上司『工程ミスったんで、しばらくサビ残よろしく』
部下達『…』
上司『俺のミスだから晩飯奢るし…取敢ずやって』
後日
部下達『やっと終わったけど、上のミスでサビ残とかきついよねw』
上司『会社批判か?こ○すぞ!?』

193 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/21(火) 15:50:12.38 ID:bCT5bmSJ
飯食ってるなら仕方ないね

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:17:12.20 ID:jZ5eq/tb
小姓たちじゃなくて福富や矢部たち奉行らが酌をして廻るのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 07:29:32.93 ID:CLHFQZxu
滝川が地方に飛ばされると茶会ができなくなると嘆く気持ちがこれでわかった

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:20:47.49 ID:AAf+nT0O
>>190
光秀は対武田において何か貢献してたか?
おべっか使うような家臣は折檻されて当然だろ

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 12:56:14.23 ID:PXuG0xCs
おべっか?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 13:43:03.41 ID:JOs6uGd/
ノブは新興成り上がりベンチャーの神経質社長やからな
そういう人物にありがちなステレオタイプの性格だったんだろう

仕事ができても人間性終わってるやつは今も昔もごまんといる

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 14:58:18.12 ID:L+C5gw+1
忠興さんとか鬼武蔵さんとか・・・

真田幸隆、危機一髪

2018年08月21日 19:42

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/21(火) 15:28:31.73 ID:e2ACyTJw
甲斐・越後の軍兵たちは互いに名乗り合い、火花を散らして戦い申した。

その中で真田弾正幸隆は傷を負って引き退くところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗りを
上げ、真田とむずと組んで押し伏せ、鎧の脇板の隙間を二刀刺し申した。

そのうちに保科弾正(正俊)が取って返し、「真田討たすな兵ども!」と言って戦い申した。

真田の家人・細屋彦助は下に合わせ高梨源五郎の草摺の外れ、膝の上より討ち落とし、主の
敵を取った。これより保科を“槍弾正”と申したという。

保科もその時に越後方の大将に取り籠められ、すでに危うく見えたところを後詰の侍の海野・
望月・矢代・須田・井上・根津・河田・仁科ら9人の侍がこれを見て「保科討たすな人々!」

と大勢で一度に鬨を揚げ追い散らし、越後の本陣近きところまで切り掛かり申した。そこを
越後の後詰の陣所より斎藤下野守朝信・柿崎和泉守景家・北条安芸守・毛利上総介・

大関安房守ら3千余勢が鬨の声を揚げて切り出て、追い返し押し戻し戦い申した。敵・味方
の手負い・死人、算を乱して数を知らず。

謙信も紺地に日の丸、白地に“毘”の字の旗2本を押し立てて原の町に備を立てられた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

真田幸隆、危機一髪



46 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/22(水) 09:19:26.55 ID:OFF1GAII
高梨頼治って
真田信繁の傅役の高梨内記の兄説があるようだけど
この逸話を見ると無理があるような

謙信は唯鬼神にて候

2018年08月20日 11:09

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 20:26:30.58 ID:/lrM7d7Z
その合戦(八幡原の戦い)は時を移し、そのうちに晴信(武田信玄)の命で犀川に大綱を幾筋も
張り渡し、武田本陣の大勢はその綱に取り付いて向かいの岸に上がり、大野の蘆萩の茂る中の

細道より旗・指物を伏せて忍び出て、謙信(上杉謙信)の本陣へと鬨の声を上げて切り入った。
このため越後勢の謙信本陣は一度にどっと敗軍したので、武田方は勝ちに乗って追い打ちした。

晴信が勇み喜んで旗を進められたところに、大塚村に備を立て申していた越後勢の宇佐美駿河守
定行2千ほどの勢が横槍に突き掛かり、晴信本陣を御幣川へ追い入れた。

そこへ越後の侍・渡部越中守翔5百余勢が馳せ付けて晴信本陣へ切って掛かり、宇佐美駿河守と
揉み合い信玄本陣を立ち挟んで討ち取り申した。武田の人馬は河水に流れる輩、または討たれる
者と数知れず。謙信本陣勢も取って返し、晴信本陣を討ち取り申した。

越後方の上条弥五郎義春・長尾七郎・元井日向守・沼掃部・小田切治部・北条丹後守・山本寺
宮千代・青川十郎・安田掃部以下も政虎(謙信)同様に御幣川へ乗り込み、槍を合わせて

太刀打ち・高名をなした。その他手柄の侍は多く、また討死の者も多かった。信玄も30騎ほど
で川を渡り引き退いたところを、謙信は川中へ乗り込んで信玄を二太刀切り付け申した。

信玄も太刀を合わせて戦い申されたところで、近習の武田の侍たちが謙信を中に取り込めたが、
謙信は切り払って中々近付くこともできない様子であった。

そのうちに信玄と謙信は間切れ致して押し隔てられた。その時、謙信へ掛かった武田近習の侍
19人が切り付けられた。

謙信は人間の挙動ではなく、まさに鬼神であったという。
(謙信は、人間の挙動にてなく、唯鬼神にて候と申候。)

その折はまさか謙信とは知らず、甲州方では越後侍の荒川伊豆守(長実)であると取り沙汰され
ていた。後に政虎と分かり「討ち止めるべきものを、なんとも残念だ」と皆々が申したという。

信玄は御幣川を渡って生萱山土口を目指し、先陣と後陣がひとつになって敗軍した。甲州勢は
塩崎の方へ逃げる者もあり、また海津の城へ逃げ入る者もいた。

中条越前(藤資)は小荷駄を警固していたところへ、塩崎の百姓数千人がくり出して小荷駄を
奪うため、中条はこれを切り払い散々に戦った。

この時、上杉・武田の両軍は入り乱れて散々に戦ったので、敵・味方の手負い・死人は数知れず。
信玄は敗軍して土口と申す山へ退き申され、上杉勢は追い詰めて土口で甲州方数百人が討たれた。

――『川中島五箇度合戦之次第』

「あいつ人間じゃねえ!」と言わしめた上杉謙信の武勇


織田信忠三位中将任官

2018年08月19日 19:22

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 23:37:53.43 ID:rihvtvBY
天正5年(1577)10月、松永久秀の反乱を滅ぼした織田信忠は、13日上洛した。
この時主上(正親町天皇)より、「今度凶徒たやすく退治せしむるの條、尤神妙」の旨叡慮あり。
三位の中将に叙せらるべきと、三条大納言を勅使として仰せくだされた。

信忠は勅使に向かって申し上げた
「厳かの旨、誠に生涯の面目と申すべきことです。であればこのように申すのは恐れ多いのですが、
昇殿の義を軽く御請いたす事には恐れあるべしと。愚夫(信長)より制せられております。
それゆえ安土の父に尋ね伺い、その上を以てご返事をしたいと存じています。如何お思いでしょうか。」

勅使は「それ迄には及ばぬことです。」と申したが、「問わなくては勅答も如何」と
再三申し上げたため、大納言は帰参して、この様子を奏上すると、主上も
「武勇智謀有る上に、謙徳をも守り、父の命を重んずる事のいみじさ、このような人物にこそ。」
と、君も臣も感じ入った。

さて、信忠より信長に飛脚を以ってお尋ね有るに、翌日未明に帰った。この返書を開いて見ると
『今度古兵の松永を早速に退治せしめる事、最勲功の至りである。然らばはや勅諚に従い奉って、
三位の中将に任ぜらるべき。』
そう書かれていたため、信忠は昇殿された。目出度いことである。

そしてお供の人々は過半が一両日も前に先立った後、同17日に、僅かに小姓ばかりを召し連れ
安土にお出であって、信長に御礼申され、そこから岐阜へと下った。

(甫庵信長記)

織田信忠三位中将任官のお話



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 00:12:08.90 ID:Vh+8MRXk
城介はボンクラ扱いされる事が多いけど生き残れば柴田、丹羽はもちろん徳川、羽柴もただ従うしかない程の権威はあったと思うけどな

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 02:22:35.77 ID:MMEWa7kR
主人に断りもせずに叙せられ昇殿しちゃうのは凡夫義経くらいだろ

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/19(日) 09:00:02.00 ID:7FRGYrbc
信忠がボンクラとは初めて聞いた

このような名君が表れたのは天下の悦び

2018年08月18日 21:09

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 23:27:19.56 ID:MXVA3GZ4
文明11年の春、新将軍義煕(義尚)卿の御判始、評定始あり。これより天下の政道を執政された。
御年未だ15歳の御若冠であったが才徳が豊かで慈悲深く、その上理非分明にて御学業も怠らず、
このような名君が表れたのは天下の悦びであると、人々は皆、乱世の愁眉を開いた。

父である公方家義政公はこの年、諸国御治世についての政道を皆、新将軍家へ譲り渡し、大変喜んだ
様子であった。それより義政は隠居し、東山慈照寺の院内に東求堂を造らせ、ここに閑居されたため、
当時の人々は皆、彼を東山殿と呼んだ。
この東山殿は御若冠の頃より天性遊興、美麗の事を好まれ、芸能数寄の嗜みは世に超えており、
萬に結構を尽くさせたが、御隠居の後も累代の奇物、和漢の名器を収集し、茶の湯の会を催され、
世事雑用より逃れられ、ただ老楽の御楽しみにて月日を送られていた。
(中略)

同年秋7月、義尚より近代博覧の君子と聞こえる一条禅定殿下兼良公へ、天下を治める政道の事について
記すべきと御懇望あり、殿下は御辞退叶わず一巻の書を著し、新将軍家へ呈進された。
今の『樵談治要』がこれである。

(應仁後記)

足利義尚の将軍就任と足利義政の隠居のことなど


為景は歌人でもあり

2018年08月18日 21:09

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 09:28:06.28 ID:Pkf2Ft4G
為景(長尾為景)は16歳の頃に父・能景に従って関東に出陣し、これを戦の始めとして
信濃・越中・越後において戦功はもっとも多かった。

特に寺泊・椎谷の一戦では大いに勝利を得られ、積年の戦功によって天文4年(1535)
6月13日、後奈良院(後奈良天皇)より綸旨ならびに御旗を賜った。

およそ為景は一生の間に諸国所々において百回余りの合戦を行い、他に類を聞かずという。
この時の御旗は今に至って上杉家の重宝として相伝わる。

為景は歌人でもあり、後奈良院に一巻を奏覧した。その中に次の一首あり。

「蒼海の 有とはしらて 苗代の 水の底にも 蛙なくなり」

後奈良院はこの一首に叡感なされたという。

――『北越太平記』


仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社

2018年08月18日 21:08

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 10:01:03.09 ID:3+iYClTC
此の時に当りて元親各所にて敗北し、ついに豊臣氏に降を乞いた。
是に於て豊臣氏は秀久の功を賞して当国(讃岐)に封じた。
(この時十河存保を山田郡二万石に分封)

さて秀久は宇足津の古城を修理してここに移ったが
当時の民情穏やかならずして、互いに結党し、国主に貢納するものがなかったため
秀久は直ちにその首魁どもを捕らえてこれを煮殺した。
また香川郡安原村の民が香西伊賀守の妻女を匿っているのを知ると
ある者は磔(はりつけ)に、またある者は斬首したため、ここにおいて一国の人民皆恐怖し従った。
(香川県史)

八幡神社(安原村大字安原下字平賀)由緒
世俗では岳八幡、又は平賀八幡と称せり。
社記、香西雑記等によれば、天正年間に仙石権兵衛秀久当国に封を受け、引田より宇多津に移居した。
時に当村の百姓等乱を起こし、秀久の命に服さなかったので乱民百余名が刎せられた。
そのため里人恐怖して安住せず、離散する者がすこぶる多かった。
この時当社御神体を奉じて葛西郷に至った者達がおり、そこで小さな祠を営んだ。
これが現在の香西町平賀神社の地であると言う。

(香川県神社誌)

仙石秀久讃岐入部時の弾圧とそれによって生まれた神社のお話




42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 15:18:23.99 ID:l4EdEMjJ
仙石の民政下手はホントひどい。小諸藩では一郡逃散される始末だし。

この辺のこと、例のマンガではなにも描かれないんだろうなぁ。

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/18(土) 20:47:06.20 ID:307WAghu
一揆ども撫で斬りは織田時代からの伝統でしょ
移民政策を取れば万事上手くいく

家康の米蔵

2018年08月17日 17:15

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 22:54:37.73 ID:5HD4XDkV
徳川家康の御代のこと。江戸の御蔵に納める米が非常に多く、故に欠米も多かった。
そのうえ、諸国の御代官所より当地までの運送の際の欠損も甚だ多かった。

そこで勘定方の者達より
「江戸の御蔵米の棟数を減らし、産地の近くで保管するか販売すれば、随分の徳と成ります。」
そう申し上げた所、家康は以ての外に機嫌を悪くして言った

「蔵の数が多いため欠米なども多く、私の損になっているという事は、かねてより知っていた。
しかしながら万一の事が起こり、諸国の新穀の、当地への運送が難しくなる、という事もあるだろう。
そのような時は米の値段も高騰し、諸方より集まっている江戸の人々が食料に難儀する事態も
考えられる。そういった時に米の放出が出来るように、江戸に米蔵を多く設置したのだ。

勘定方の者達は、今や天下の勘定頭とも呼ばれている。そういった者達がこんな事を、私のためだと
言い聞かせるような事が有って良いものか!?」

そう、殊の外叱ったという。

(駿河土産)

家康的にこういう損は許容範囲なんだな



178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 23:11:14.81 ID:98ciTnX6
大人口抱える都市は、ほんと備蓄が重要だなぁ…
足りないという噂が出るだけで米価が上がって大騒動になりかねないし。

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 04:11:18.70 ID:2aA0/P+T
損がでるからやめようよってのは今でもよくある話で目的を逸脱してることあるよな。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:00:28.61 ID:g3i+Xb7x
建物を改修すると赤字になるので営業を終了させられた娯楽施設があったなあ

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 07:38:08.45 ID:GgA1qgKB
トヨタ方式で部品在庫を極限まで圧縮したら、東日本大震災でサプライチェーンが止まって、世界中の生産がピンチとかあったな

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/17(金) 16:11:03.08 ID:0WeGR5bi
>>181
その代わり在庫に被害も出なかったけどね

貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」

2018年08月16日 20:12

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 02:06:10.22 ID:6gnDplDs
謙信(上杉謙信)は後奈良院の享禄3年(1530)庚寅正月21日、府内で誕生した。

はじめ謙信の御母君は受胎の折に夢幻ともなく、この際に8尺ほどの男が金色の甲冑を
帯びて矛を付き、光明光り輝く珠を持って現れた。男は曰く、

「我は毘沙門天王なり。この珠は明星なり」と仰せになって、母君の懐に珠を投げ入れ
なさった。これを見てより母君は懐妊したのである。

それから10ヶ月の間に様々な奇異の瑞相が多く、筮者が占うと甚だ吉だった。本卦は
天沢履の六三に当たった。その文に曰く、

「虎の尾を履む。人を咥らう。凶。武人大君と成る」
(過信から虎の尾を踏み虎に食われる。よって凶なり。卑しき武人が高貴な大君になる
ようなものである)

これに因んで幼名を“虎千代”と号した。虎千代殿はやがて成長して大きな志を持った。
見識と度量は世に優れ、孝行慈愛は寛大にして自然と仁心を備えた。

特に父母に孝行であったので、世の人はこぞって「凡人ではない」と言った。

――『北越太平記』



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 10:18:46.81 ID:wruV9DLp
甲斐の虎 v.s. 越後の虎

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/16(木) 18:38:27.90 ID:E6cH8wWy
戦国は鬼とか虎とか人外多すぎ問題

流石増田の子だ

2018年08月15日 11:17

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 22:30:22.72 ID:q6HYpvs1
大阪五奉行の一人であった増田右衛門尉(長盛)は、関ヶ原の後、高力左近(清長)へ御預となり、
武蔵国岩槻に置かれた。

増田長盛の息子である兵太夫(盛次)は、大阪冬の陣の折は将軍秀忠の軍勢に加わり
大阪表へ参ったが、戦いにおいて寄せ手の宜しき噂を聞く度に苦い顔をし、少しでも城方の
宜しき情報を聞けば喜悦していたという。

冬の陣和睦の後、駿府城に置いてこの事を徳川家康の耳に入れた者があった。
家康はこの話を聞くと

「それは近頃、奇特なる心入れであるな。流石増田の子だ。」

これだけを言い、何の咎めも無かった。

夏の陣の折も、もし牢人でいるようなら召し出し、親の長盛への監視も緩やかにせよと命じた。
しかし大阪夏の陣で、増田盛次は大阪城に入り秀頼の家臣として、長宗我部盛親の部隊へ入り、
5月7日、藤堂高虎の部隊と戦い、討ち死にした。

親の増田長盛も後日、武州岩槻にて切腹したという。

(駿河土産)



170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 02:16:29.78 ID:5wQcQ5X+
ましたは二重スパイだったという説があるけど、三成寄りというよりは豊臣寄りだったんかな

てんかとりしつめ候

2018年08月15日 11:16

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 00:35:14.43 ID:+pbE6rsn
てんかとりしつめ候


以下は関ヶ原の戦いの後、池田輝政の祖母・養徳院
戦勝を祝う書状と贈り物を送ったことに対する家康の返書の意訳。

お手紙および贈り物を二品お送りいただき、祝着に存じます。
お聞きの通り、天下を取り鎮めました(原文:てんかとりしつめ候)。
三左衛門殿(池田輝政)も一段とご心労があったことでしょう。
何にせよめでたいのは、重ね重ね申される通りでございます。
めでたくかしく

やうとく院(養徳院)     内ふ(家康)


――『林原美術館所蔵池田家文書19号』


週間ブログ拍手ランキング【08/09~/15】

2018年08月15日 11:15

08/09~/15のブログ拍手ランキングです!


私が道悪しき場所で馬より降りるのは 13

律儀なる佐竹義宣 10

今世武道に正しき将なし 9
ああ、将軍家が他界されれば三好が時を得て 8
東照大権現、明暦の大火を警告する 7

忍び難く、哀なること 6
香西元盛謀殺事件 6
我が去年攻め残したる城なれば 6

これより攻め滅ぼさせていただく 5
新居の物件探しをしてたら 5
まこと山鷹野のいうものには 4
今の武将(将軍)は有名無実なり。 4


今週の1位はこちら!私が道悪しき場所で馬より降りるのはです!
有名なお話ですが、家康という人は合理主義者なんだなと感じさせてくれますね。
大坪流一伝なんて割と大げさな感じに表現していますが、馬術の流儀も結局は、基礎的な技能をベースにして、
後はシンプルに状況・目的毎に「すべきこと」「すべきではないこと」を蓄積した物だといっていいでしょう。
家康の強さの一つは、自分の見栄えを気にせずそういう部分が忠実に出来た、という所かもしれません。
こういうの、言うは易しですがなかなか難しいのですよね。人間技術を持っていると、やっぱりそれを見せびらかしたいし
格好をつけたいものです。それをしないというのも人としては一種の異能なのではないかな、なんて思ったりします。

2位はこちら!律儀なる佐竹義宣です!
律儀すぎて(?)結果的に関ヶ原後転封となった佐竹義宣。「大名佐竹家」というレベルで考えると家中統制がここでほぼ
成ったわけで転封されたのは返ってよかったのでは、なんて考えることもありますがw(無論強制された転封により多くの
摩擦や悲劇が発生した事は理解した上で)、関ヶ原で佐竹が「中立」となったのも、佐竹の複雑な中世的体制が関わっており、
かつて大名権力確立のため滅ぼした「南方三十三館」など国衆の残存勢力が国内各地に残っていて、関ヶ原の時に
佐竹が仮に旗幟鮮明にすれば、滅亡国衆勢力が佐竹の敵方と結びつき蜂起する可能性があって動けなかった、などとも
言われます。
もしかすると佐竹義宣が動けなかったことを家康が「律儀ゆえ」と評価したのは、佐竹の当時の政治情勢を知っていた上での
有る種の優しさであったかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!これより攻め滅ぼさせていただくです!
昨今、大阪の陣は徳川家康が対豊臣融和派で、徳川秀忠が強硬派であった、なんて言われたりします。
「娘婿」秀頼を(おそらくその関係で有るがゆえに断固として)滅ぼそうとする秀忠を、なんとか宥めて和平に持っていきたい
家康、という構図が語られたりします。
この逸話については、その大阪の陣の時の印象が関ヶ原に転嫁したのではないか、という印象を持ちます。
「駿河土産」の成立は1720年頃と言われますが、その頃にも、対豊臣で非常に強硬な秀忠の印象が残っており、
彼ならば関ヶ原でもこう行動しただろう、と考えられたのではないでしょうか。
そんな事を感じた逸話でした。


今週もたくさんの拍手を書く逸話にいただきました!いつもありがとうございます。
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

忍び難く、哀なること

2018年08月14日 17:49

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 14:56:17.06 ID:OUO9MWgw
天文14年(1545)、応仁より後、度々の兵乱によって禁中はもってのほか御不如意
となったことは、神武天皇以来なかったことである。諸卿はこれを難儀とした。

近衛殿・鷹司殿・綾小路殿・庭田殿・五辻殿・中原大外記など皆近江に下向されて佐々木
の屋形(六角氏)を頼り、観音寺城下の常楽寺・慈恩寺に寓居された。

この他の諸公家も皆国々に下ってその所縁をへつらい、末々の殿上人・地下人らは摂津・
河内・近江などの間に徘徊して民間に交わった。

また京都を御出にならない人々には、商家に身を寄せて朝夕をしのぐ人もいた。あるいは
一椀の食を求めんがために門戸に侘び立ちすれば、戦国の習いで案内・検見(斥候)の者

かと怪しみ捕らえられ、詰問の責に及ぶ人もいた。あるいは賊のために討ち殺された人の
妻子や眷属として所々に迷い行き、愁嘆のあまり淵瀬に身を投げたり、自ら湯水を断って
渇死する人もいた。その消息は中々見るに忍び難く、哀なること前代未聞なり。

――『浅井日記』