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「伴内が困っておる」

2018年09月30日 19:43

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 21:46:23.02 ID:SujEa8Yj
伴内と言う者、世に類ない咄の名人にて、豊臣秀次公の御前を離れず、世の中の事を興あるように
取り繕い咄をつかまつる程に、一段と御意良くして、常に秀次公の御前に詰めた。

彼の咄の内、十の内半分は観世又次郎(観世方小鼓打ち)がどれほどうつけた事を言ったか、という
物であったため、秀次公は「それほどうつけ者なのか」と思し召した。

ある時、秀次は観世又次郎を召した。彼は御前に参って謹んで罷りあり、またいつもと同じ様に
伴内も伺候した。秀次公は仰せに成った

「いかに観世、どうして汝は萬に疎く心がうつけているのか?普段伴内の話す内容を聞くと、
大方汝のうつけ話ばかりなのだ。又次郎いかに?」

観世承り「そうですな、伴内と言う者は身体無芸なる奴でありますから、私のような天下道具の名人の
事を申さないと、喋ることが無くなってしまいます。ですので仕方がないと、私は彼をかまい申しません。」

秀次公はこれを聞くと「非常に面白い。伴内返答は如何に!?」と仰せに成ったが、伴内は当惑して赤面し、
何も言えなかった。そこで秀次公は観世又次郎を大なる利発者と感じ、「伴内が困っておる」と、大いに
笑った。これ以降、伴内は観世又次郎の事を語らなくなった。

(義殘後覺)


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無事に帰陣して……

2018年09月30日 19:43

森長可   
231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 00:05:59.88 ID:Skd+u1dp
無事に帰陣して……


濃州金山に自考斎という金持ちがいた。
あるとき(森家の)士たちに
「士という者は、戦陣で虎口に臨めば討ち死にを心がけるものだと聞いていますが
 長可様の御家来にも討ち死にと覚悟する士はいないようですね」
と語った。若い士が聞き咎めて
「士であれば誰でも、殿の御馬先で埋もれ草になってもよいと心がけるので
 生きて帰ろうと思う者はいない」
と言った。

そのとき自考斎は「聞いて下さい」と言って、証文を読み始めた。
「『今度荒木摂州(村重)の謀叛により、上様(信長)が行かれることになったので
  殿(長可)も先手として近日出陣します。近頃は甚だ御無心しておりますが
  金子五、六両をお借りしたく存じます。戦が終わった際には無事に帰陣して
  元利共に返済します』」
「とあるので、討ち死にの心がけはないと思ったのです。もし某が今度
 御先手のお供をするとしたら、某は討ち死にするかもしれない身なので
 『諸道具をもってなんとしても精算するように、と家人に申し置きました』
 と(証文に)書きますが、頼もしくはないでしょうね」
と言ったとか。


――『森家先代実録』



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 09:36:04.04 ID:+wh1ddCw
>>231
内容とはずれるけど、題でアニメの可成戦死前後の諸々を思い出した
可成とえい様や長可たち家族の一時の団欒
出陣する信長と帰蝶の会話
そして今期最終話のえい様と信長の会話
長可の憤慨

3分アニメのわりにはかなり濃い

勝頼は飢え疲れておられ

2018年09月30日 19:42

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/30(日) 15:01:00.39 ID:3tpAPdKz
按ずるに本文(武田勝頼討死の記事)はかの家に伝わる甲陽軍鑑の説に拠って記したものである。
大久保の物語(三河物語)には勝頼夫婦は田野の河原の草むらに敷皮を敷いて休んでいたところ、

早くも敵が押し寄せてきた。跡部(勝資)がこの時に逃げ去らんとするのを土屋惣藏(昌恒)が
射殺したとある。柏崎物語には勝頼は具足櫃に腰をかけておられたが、滝川義太夫(益氏)が

付け込んで土屋惣藏を討ち取り、伊藤伊右衛門永光が横合より勝頼を討ち取ったと見える。また、
武家閑談には伊藤伊右衛門の話として津田幸庵が物語り、「近年の書物を見るに勝頼切腹と

書くものもあり、また仰々しく戦って討死されたように書いているものもあるが、私はその頃は
小平次といって滝川方におり、伊藤伊右衛門とは同輩だったので目の当たりに見たのだが、

左様ではなかった。勝頼は鎧の櫃に腰を掛けて太刀で防戦されるといえども、飢え疲れておられ
何の働きもなく伊右衛門が討ち取った」と板倉周防守(重宗)宅で物語ったと見える。

これなどは実事と思われるのでここに付して一致に備える。

――『改正三河後風土記』


督姫、母の供養のために宗旨替えをする

2018年09月29日 18:38

督姫   
324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 11:47:06.40 ID:NRTWlHBq
督姫、母の供養のために宗旨替えをする


慶長14年、督姫は姫路から息子らを連れ駿府に行き、父の家康に拝謁した。
そのときに督姫
「母(西郡局)の御宗旨が日蓮宗であるので、私が宗旨を受け継いでいますが
 松千代(輝澄)に宗旨を譲り、自身は父の御宗旨(浄土宗)に致したく存じます」
と願ったので(家康は)もっともに思って松千代を膝下に召し寄せて
「母の願いなのだから、祖母西郡の宗旨とするのがよいだろう。
 そうであるなら父三左衛門の名字の池田を改め、祖父の名字松平とするように」
との上意により、松千代は松平氏と吉光の脇差、船の形をした黄金の文鎮を
授かった。(『譜牒余録』)(『寛政重修諸家譜』)

西郡局は慶長11年に伏見城で亡くなったが、その際の葬式法事は家康の命により
娘婿の輝政が執り行い、菩提を弔うため姫路城東方の野里に青蓮寺を建立した。
同寺には長谷川等伯筆の西郡局の肖像画や、井伊掃部頭(直孝)、藤堂和泉守(高虎)
土井大炊頭(利勝)連名の木札が納められていたという。(『蓮葉院余光記』)

輝澄は慶長20年に、兄忠雄から領地を分与される形で山崎藩を立藩した。
池田家が姫路から転封された際に、青蓮寺は輝澄の領地に移り(現・宍粟市山崎町)
輝澄の改易後も、その由緒から寺領百石の御朱印を有した。


左馬助の馬

2018年09月29日 18:37

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:03:16.89 ID:9noaiQKG
明智左馬助(秀満)は2千騎で安土城を守っていたが、羽柴筑前守が3万余騎で西国より馳せ上り6月13日に
山崎表で一戦あると聞き、「敵は亡君復讐の義兵で勇気は激しく、味方は不義天罰を逃れまい。

私はこの城を誰のためにいつまで守るべきなのか。ただ山崎の勢に馳せ加わり光秀と死を共にせん」と志を決し
すでに出陣したところに、光秀は山崎の一戦に打ち負け、青龍寺にも堪りかねて坂本へ引き返そうとし、途中の

小栗栖で土民のために討たれたとの噂を聞き「それでは出軍しても仕方ない。坂本城へ引き返して光秀の妻子ら
を刺し殺し、自分もこれでは甲斐もないゆえ直ちに自殺せん」と思い定め、粟津を北へ大津目指して馳せ帰った。

羽柴の大軍は昨日の勝ちに乗じて堀久太郎秀政を先手とし雲霞の如く群がり、えいえい声を出して大津松本の間、
おものの浜打手の浜辺まで押し来たり、光秀の居城・坂本を一呑みにせん勢いであった。羽柴勢は左馬助と札の

辻辺りで出合い頭に出で逢いたちまち戦いを交えた。左馬助は真っ先に駆けて右往左往に馳せ廻り、力を尽くし
花々しく戦った。しかし左馬助の2千騎は大軍に引き包まれてあるいは討たれ、あるいは落ち去り、今は左馬助

1人となって、ついに一方を切り抜けて名にある琵琶湖へ馬をさっと乗り入れた。左馬助のその日の出で立ちは
“二の谷”といわれる名高き兜、白練に狩野永徳が描いた雲龍の陣羽織で大鹿毛の駿馬に跨り、さざ波や志賀の

浦風に立つ波を蹴立て蹴立て、唐崎の1本の松を目指して静々と馬を泳がせた。羽柴の大軍は口々に「今に見よ、
左馬助は水に沈んで死ぬであろう」とこなたの湖岸に立ち並び、ただうかうかと眺めていた。左馬助はやがて

唐崎まで事もなく乗り付けたため、大津浦で眺めていた大軍は「ややっ、左馬助は海上を渡ったぞ!」と湖岸を
西へ喚き叫んで馳せ向かった。左馬助は唐崎に乗り上がり、1本の松陰で馬から降りて松の根に腰を打ち掛け、

追い来る大軍を遠見して休んでいたが、追兵がすでに4,5丁に迫る時、ひらりと馬に打ち乗ってただ一乗りに
坂本へ馳せ入った。町中には十王堂があった。左馬助はその堂の前で馬から降り、手綱を切って堂の格子に馬を

繋ぎ付けた。そして矢立の筆を取り出すと帖紙を引き裂いて「この馬は只今湖水を渡った馬です。分捕った御方
はこの馬に憐れみを御かけになって下さい」と書き付け、手取髪に結い付けると自身は坂本城へと入った。

光秀の妻(原注:服部出羽守保章の娘なり。台徳公(徳川秀忠)の御生母・宝台院殿とは又従姉妹だという)は
自然・天然(原注:原書に二男・阿古、三男・乙寿)という兄弟の子を天守に登らせ、下に焼草を積んで寄手を

待ち受けた。羽柴の大軍は潮の湧くが如く追々嵩んで押し寄せた。その時、十王堂に繋がれた馬を見付けて秀吉
に献上すると、秀吉は大いに賞愛されて翌年の賤ヶ岳の合戦でもこの馬に乗られたのだという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武家閑談・武徳編年集成)』



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/02(火) 16:21:54.44 ID:mS5x8qWa
>>321
自然ってこのときすでに井伊直虎に匿われたんじゃなかったの?
と大河ネタ

【雑談】関ヶ原の毛利家のことなど

2018年09月29日 18:24

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:26:01.92 ID:1lUQP2X3
金吾は最初から徳川に通じてたし
開戦後即西軍に攻めかかってるから(問い鉄砲はフィクション)
吉川が西軍に味方しようが勝負は決まってた

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:14:04.33 ID:xClyAv6P
家康本隊到着、岐阜を制圧して東軍諸将はやる気十分、金吾は要地を押さえて好きなタイミングで攻撃を始められる、
西国は黒田が大友を蹴散らして、毛利は広島城の守備兵も足りない状況。
この状況で和睦を考えない方がどうかしてるし、輝元はここで判断を誤るほどぬるい武将ではない。

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 04:54:27.36 ID:vdEL2s7b
判断がぬるくないというより一時乗せられたけど
本来そんな天下に野心がある訳じゃないから和睦したってだけじゃないのか?
判断力を褒め称えるケースでも無いような

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 07:17:40.48 ID:1+xdDwkE
みんな関ヶ原好きだな

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 08:11:22.75 ID:5g1GriLD
>>216
毛利単独でその他の大名家全てを叩き潰せるほどの戦力はないようだし、
そんな事が出来るような体制もなっていないし、そんな意思もないようには見える。
輝元個人の資質や能力は一流で天下の切り回しにも足りるだろうけど、毛利家で天下統一は無理だろう。

「心得たる者もあるものかな」

2018年09月28日 11:38

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 00:24:15.78 ID:yCmDMxb0
本能寺の変の後、京を静めた明智日向守光秀は『明日西国に出陣する、なれば京町中の者ども
御礼に上がるべし。則ち東寺の四ツ塚にて請け給うべし』とあり、京の町衆は「ならば畏まり候」と、
思い思いに進上をした。

ある者は饅頭、粽、餅の類。ある者は樽、肴、菓子などを進上した。また一方に

「いやいや、そういう類の物は世も静謐に治まり互いに裃などを尋常に着て御館にて請けられる時は
然る可きだが、既に甲冑をよろい、旗指し物を取り付け、馬、武具が黒煙を立て東西に馳せまわり、
しかも鳥羽の野原にて請けられ給う礼なのだから、干し飯などこそ然るべきである。」

そう言って干し飯を積み上げて参らす者も多かった。

そのようにしている内に、日向守が四ツ塚に床几を立てさせ現れ、この町衆の進上を見て、
干し飯を参らせたのを「心得たる者もあるものかな」と殊の外喜び、その後このように言った

「洛中の礼を請けた以上、その印がなくてはならない。今後町中の地子役(固定資産税)を宥し置く」

そう御諚され、皆は「有り難し」と喜び勇んで帰っていった。

(義殘後覺)

本能寺の後、光秀にとても好意的な京の町衆であった



320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk

>>319
あとはまとめの4860
京都屋地子免除由来
だと、明智光秀が織田信長を討った際、
「信長は殷の紂であったのだ!」と言ったら京童たちは
「光秀は自分を周の武王に例えているのか。片腹痛い」と心の中で思ってた
て話もあった

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 20:18:43.91 ID:vdEL2s7b
>>319
まぁその時点で京都を武力で実効支配してるのは光秀だから
良い顔しとくわな
その裏で面従腹背してるのが京都人クオリティ

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/29(土) 10:57:57.91 ID:c1DMZ+wW
民衆はどこの地域でもそうだろ
地侍だって強者の前では内股軟膏だ

忠興の母 麝香

2018年09月27日 18:58

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:17:03.94 ID:2yVq14zA
細川忠興の妻、玉が関ヶ原の折に壮絶な死を遂げたことは有名だが、
同じ頃忠興の母である麝香も激しい戦いをに身を投じていた。
麝香は夫の幽斎と共に息子の居城である丹後国田辺城の留守を守っていたのだが、
ご存知の通り敵の大軍に包囲されてしまった。
幽斎の指揮の下、三十倍もの敵を相手に城兵達は奮戦したが、その中には武装した壮年女性の姿が。
それは具足を付けて兵達を叱咤激励する麝香であった。この時御年五十五歳。

結局勅命を受け田辺城は開城したのだが、後に嫁である玉の死を知ると衝撃を受け、また深く悲しんだ。
関ヶ原の翌年、麝香は受洗しマリアの洗礼名を授かった。
宣教師オルガンチノの書簡によれば、麝香はかつてキリシタンに対して非常に冷たい態度で接していたという。
そんな麝香が受洗したのは玉の死の影響とも言われる。

忠興の周囲の女性と言えば妻の玉や妹の伊也が有名だが、母もまた激しい人だったという話。



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 16:03:51.31 ID:9cb7b1Pn
名前なんて読むのよこれ

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:16:56.71 ID:41f1YXYa
普通に「じゃこう」と読んでた…違うの?

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 17:41:57.80 ID:DY2JVs++
>>307
戦国時代は妻が武装して手伝うのは当たり前じゃないの?
この手の逸話何度か見たことあるし。と思ったけど珍しいから逸話になるのかな。

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:33:05.94 ID:R5OgqE8H
叱咤激励がめちゃくちゃ怖かったのかもしれない

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/27(木) 19:08:08.55 ID:zo2AY+oz
実父の死で嫁がキリシタン化

嫁の死で姑がキリシタン化

なわけか

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 19:40:08.61 ID:PPuWtRjN
嫁と実母がキリシタン化してしまった忠興ってめっちゃ可哀想な人なのでは…嫁のために宣教師呼んでキリシタン風の葬儀出してあげたくらいには優しいのに

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 20:32:37.31 ID:1TWMicDa
忠興がやさしい、、、、うーむ。

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:02:01.94 ID:xn0shDsC
スターリンは優しいおじさんとかポルポトはアジア的優しさとか言うのと同じ

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 21:13:09.07 ID:KIVsCtkv
小田氏治は佐竹に滅ぼされないくらいには名将
大関高増は那須家を滅ぼさないくらいには忠臣
武田晴信は義元存命中に今川に攻め込まないくらいには信義の人

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 22:58:56.49 ID:eTq+O+Z8
>>310
忠勝も、ワシが若い頃は女も武装して戦ったって言ってたな

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 23:20:23.43 ID:usJFDe+8
細川一家激しすぎ。似た者一族なのか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 19:17:47.74 ID:WbciJMTk
>>307
そういえばまとめの9144
雑談・明智光秀は信長に会う前に城持ちだった?
に、明智光秀が1566年に田中城に籠城した際に沼田勘解由という人物に書き写させた医薬の秘伝の話があるけど
麝香はこの沼田勘解由の姉妹か一族だとか

松永「だから言ったのに…」

2018年09月27日 18:55

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 22:51:21.90 ID:iu+zB/OK
永禄三年十二月、十河民部大輔一存と松永久秀はその仲悪しく、常に不快を現していた。
その頃、十河は病を煩い有馬温泉へと湯治に向かったが、この時松永は意見申した
「有馬温泉の権現は葦毛馬を御咎めある神であり、その馬は用いるべきではない。」
しかし十河は松永の申すことを用いず、また松永も十河の言うことを背ける間柄であり、
この時も十河はこれを聞かず、葦毛の馬に乗り湯治のため山を登ったが、案の如く落馬して
たちまち死去したのは不思議な事である。命運尽きるとは言いながら、あえなき事である。

(足利季世記)

松永「だから言ったのに…」



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++
>>206
警告したから暗殺してもばれないな!ってことじゃあるまいなw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 22:29:03.73 ID:pcpbQ0P5
>>206
上杉定正「落馬して命を落とすとは…」
鬼義重「武士の名折れよ」

源義朝・太田道灌「温泉いいよね!」

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/28(金) 23:50:11.14 ID:nWlOr0St
>>227
源頼朝「呼んだ?」

毛利輝元「これも私の分の悪さです」

2018年09月26日 17:46

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 00:19:16.40 ID:Il7Ru6Vb
毛利輝元「これも私の分の悪さです」


毛利家の重臣吉川広家毛利秀元は仲が悪かった。
毛利輝元は一人娘の竹姫を種々の事情で、広家の息子・広正に嫁がせることにした。
下記はそのことについて、秀元に説明する書状の抜粋&意訳。


こちらで話そうと思っていましたが、(あなたが)上国していて出来なかったので
この者をさし下して、あなたに内談することとします。
お姫(竹姫)の身上(縁談)のことは、おあちゃ様(阿茶局)にお任せすることに
していて、もし家中で縁談が出来るならあなたの息子とするのがいいかなと
思っていましたが、あなたには息子がいないので、どうすることも出来ません。

それでこれより以前、広家が「息子と縁談して下さい」と申していました。
「まず家中にお姫を置くことが決まらないと(答えられない)」と言ったので
最近はそのことを(広家は)申して来なかったのですが、(私が)
「公儀から仰せ付けられるかもしれないので、分別を持ってくれ」と言うと
「(息子との)縁談を整えたあとでも、(公儀の縁談が来たら)家のためですから
 文句を申すことはないし従うつもりです」
と広家は申しました。
また広家はあなたが宗休(毛利元政)に「然るべき所と(縁談を)するべきだ」と
配慮の話をしたことを承っていて、宗休にも(縁談の話を)申していました。

世上のことはどうなるか分かりませんから、日頃から縁談を決めておかなければ
整うものではありません。お姫は少しも根気がなく、もっての外短気なので
他国との縁談は気兼ねすることが多いでしょう。秀就の縁談も大事でした。
秀就は男なので(他国の姫と)縁談しましたが、後悔しているくらいです。
(秀就が)よからぬことをしでかして、家が崩れることにならないかと思い
日夜並々でない気遣いをしています。

この上お姫を他国などと縁談してしまえば、(私の)気遣いが及びません。
しかも女の身なのですから、(お姫が縁談相手を)不愉快にすることがあれば
中々他国でのことをどうにかすることも出来ません。そうであるので家中に
(お姫を)置かなければ家は滅亡するのです。

このように言うと、ただ広家と縁談したいからこんなことを言うのだと
思うかもしれません。神に誓って言いますが、そんなことはありません。
私の身にもなって下さい。藤七(秀就)のことは全く迷惑千万になったので
むしろ近くの者と縁談する方が支障がありません。(他国と縁談するのは)
外聞のために実を失うようなことだと、朝夕気が気でないのです。

お姫が丈夫で貞心だったなら、気遣いと言っても(お姫のことを)当てにも
出来ますが、体が弱く正気ではないので、突然一大事となってしまうでしょう。
家中でも人にやることは大事だと考えているので、他国にやることなどは
言うに及びません。このことを(あなたに)話しておきたかったのです。

広家と縁談すれば手元に(お姫を)置いて、まずいことになれば私のところへ
呼び戻すことも簡単に出来ます。また家中のためにもなるでしょう。
あなたに息子がいたら本望でしたが、これも私の分の悪さです。
(以下略)


ーー『毛利家文書 一一八八号』

ちなみに輝元の他の書状を読むと、元々お互い子供がいないときに輝元が
「子供が出来たらお前にやるよ」とふざけて言ったのを、広家が本気にしたらしい。



202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 02:35:15.07 ID:2rEkY+vu
てる夫の口の軽さはいかにもお坊ちゃまらしい
よく言えば鷹揚、厳しく言えば軽率と

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 06:59:36.43 ID:59seQf71
吉川は裏切り者だから宗家となんとしてでも縁組しないとね

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 16:07:48.69 ID:wQDBsTHB
>>201
お姫様が酷い言われようで草
説明のために大げさに盛ってるかも知れないがそれでもこれは…輝元に似たのかなw?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 21:54:37.66 ID:hy17lFhD
>>203
むしろ逆
公儀と繋ぎが取れてるのは吉川の方で輝元がそれを頼りにしてる状態

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 07:19:42.68 ID:xClyAv6P
>>205
とはいえ、支藩扱いになろうとする吉川と家中統制のためにそれを抑え込もうとする毛利宗家の
争いが幕末まで続くわけだが。

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 09:17:42.46 ID:hSj2UTzI
>>207
それ逆だよ。
幕末の争いがあったから広家にまで遡及して仲が悪かったことにされてるが
広家の時期にはまだその手の問題はなかった

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:05:41.24 ID:h9l33jpv
独立大名になろうとした騒動を巻き起こしたのも秀元の方だしなあ

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 12:22:06.35 ID:fKw4E6eC
関ヶ原では吉川の内通のせいで秀元は動けなかった
このため長束や長曾我部も棒立ち
内通のお陰で毛利は取り潰しを免れたというが南宮山が動いてたら金吾はどうしただろうな
吉川は忠臣じゃなくて裏切りモノだよ
秀元が広家を嫌いなのはこの一件が大きい気がする

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 13:10:37.85 ID:DY2JVs++

>>210
輝元じゃ関ヶ原に勝ったとしても日本統一なんて無理だし、目先の勝ちより未来を見据えた広家は忠臣だと思います。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/27(木) 18:40:57.66 ID:h9l33jpv
実際の和睦には福原も噛んでるし広家が独断で進めた形跡はないんだよね
家康到着後に慌てて交渉を始めてるからよほど兵力差があって勝ち目なしと判断したんだろう

週間ブログ拍手ランキング【09/20~/26】

2018年09月26日 17:43

09/20~/26のブログ拍手ランキングです!


鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅 11

坂井政尚の討死 10

茶の湯の歴史について 9
織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故に 8
鳥居強右衛門勝商顕彰碑 8

敵は皆腰印を捨てたるぞ! 7
10本の矢 6
斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候 6

「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」 5
明智光秀の最期 4
伊勢貞興、諏訪盛直の討死 4


今週の1位はこちら!鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅です!
寺に歴史あり。それにしても実に波乱万丈ですね。戦国と明治、この二つの時期に大きな変動が起こっている事に、つくづく
この時期が非常な動乱期だったことを伝えてくれていると思います。故地のから江戸へ、そして今は北海道幌延へ。
波乱万丈と言えば、ここに出てくる西郡局が生んだ娘が、あの督姫ですね。北条氏直に嫁ぎ秀吉の小田原征伐のために
離縁し、後に池田輝政と再婚しました。そんな動乱の時代が少しでも静まってほしい。この長應寺にはそんな思いも、
きっと籠められていると思います。

2位はこちら!坂井政尚の討死です!
坂井政尚といえば信長上洛の時の四大将の一人であり、織田家中において非常に重要な人物の一人でありました。
四大将とは柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ですが、この内二人は信長在世中に討死、柴田勝家も賤ヶ岳の敗北で
切腹し、畳の上で死んだのは蜂屋頼隆だけでした(そんな彼も子がなく家は断絶)。
織田政権はその中途で崩壊したためもありますが、「初期の功労者」たちの顛末の虚しさには、色々と考えさせるものが
あります。

今週管理人が気になった逸話はこちら!織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故にです
このお話、割と真を突いているというか、昨今の研究では、織田信長という人は「かなり真面目」であったと認識されています。
この場合の「真面目さ」というのは、自分の役割をしっかり認識すること。そしてその責務を果たすことを自覚している、
というようなことを言います。信長はこれを自分だけでなく他者にも求め、将軍にその自覚がなければ将軍に、天皇が
自覚を欠いていると思えば天皇にきっちり諫言します。で、その自覚がないと思った人には容赦がありません。
将軍義昭は勿論、安土城で信長の留守中に遊びに行った女房衆たちを皆殺しにした、なんて事になります。
そういう生真面目さが織田軍の統率を保っていた、のもたしかでしょうが、逆に生真面目さ故の厄介さも、おそらく
当時の人たちも感じていたのでしょう。
そんな事も考えさせてくれた逸話でした。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有れば、そこの拍手ボタンを押してみてください!
(/・ω・)/

10本の矢

2018年09月25日 18:12

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 21:18:19.80 ID:2iTomTC/
毛利元就はその死に臨んで、大勢あった子供を残らず集め、その子の数ほど矢を取り寄せて言った

「一本づつ折れば仔細無く折れるものだが、この多くの矢を一つに束ねれば、元々細いものでも
折れなくなる。お前たちは一味同心の思いを為して、親をさすがお前たちの親だと呼ばれるようにしてほしい。」

これが元就の遺言であったが、この時小早川隆景が言った
「何事も諍いは皆欲より出るものです。ならば欲を捨てて義を専らに守れば、兄弟の仲が不和になることは
有りえません。」

元就はこの言葉に大いに感じ入り、「皆隆景の言葉に従うように」と申したという。

(士談)

毛利元就の子供は9男3女の計12人だったらしいので、死んだ隆元と夭折した娘を除いても10人。
「3本の矢」どころか「10本の矢」だった、というお話。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 23:23:50.17 ID:xGfV/vnq
小早川はそんなおためごかし言うより己の血を引いた世嗣ぎ作っとけよ
押しつけられた養子が後々大変なことしでかすぞ

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 16:06:55.21 ID:EGegIX+B
偉大な隆景叔父さんを見習って世継ぎを作らなかったのでその養子が押し付けられることになりましたとさ

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 17:36:07.34 ID:VoZ0j+ua
>>300
あいつのおかげで減封ですんだという見方も出来るんじゃね?

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 18:52:13.17 ID:Rz5cb2Gf
>>302
隆景死んでからの小早川家、もはや完全に毛利とは無関係だお。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/25(火) 23:56:54.52 ID:TEr5n4tX
トリビアの泉だっけ?
3本でも折れるって言ってたの

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 05:35:01.78 ID:mFx53KAd
>>303
金吾死んでから小早川復活させたのは毛利

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/26(水) 07:22:53.54 ID:Bp25B9sC
>>305
御一新の後でな

茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


坂井政尚の討死

2018年09月23日 19:00

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 20:39:43.56 ID:5fRHuOJu
織田信長の軍の大将である坂井右近(政尚)が元亀元年(1570)11月26日に堅田の戦いでに討ち死にした理由だが、
彼はその以前、6月21日の姉川の戦いで嫡男久蔵(尚恒)が討ち死にして以来、何事も心に入ってこない様子で
あったのだが、敵対する堅田の一揆の内より、猪飼昇貞、居初又次郎、馬場孫次郎の三名が、信長へ寝返ることを
申し出てきたため、信長より「家臣の誰かが海を越えて堅田に行くべし」と命じたところ、坂井がこの命に応じ、
一千あまりの兵を率いて11月25日の夜中に堅田に入り、その構えに火の手を上げて合図を示した。

ところが、浅井朝倉軍がこの火の手に気づき「このまま放置して織田軍に堅田を取り固められては大変な
事になる!」と、26日の早朝よりこれを攻めた、そのため坂井政尚をはじめ安藤右衛門佐、桑原平兵衛などが
討ち死にした。

坂井は勇猛な将であったが、事の利を尽くさず、早くに敵に察知されたことが誤りであろう。

これは天正時代の尾張蟹江城の戦いでも、滝川一益が早くに合図の火を発したために、ついに敗北している。
全て名のある勇武の将であっても、事の理を詳らかにしなければ、このような落ち度があるものなのだ。

(士談)

嫡男を亡くした動揺が続いていて判断を鈍らせた、という事なんでしょうね。



197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 21:50:26.46 ID:al5PRGdw
朝倉にしては動きが速いな

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 03:48:41.32 ID:XTRl6+g8
朝倉って動くべきところで全然動けて無いという偏見があるから
この動きも浅井主導だったんじゃ…とか思ってしまう

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 11:43:23.04 ID:EluHms2J
朝倉の初動の遅さについて理由も検証されるようになってきたからな
度重なる動員と領外出兵で徐々に統制ができなくなっていったっぽいとか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/24(月) 15:07:56.65 ID:w1gRc5ll
義景さんは攻めはヒドいが守りはなかなかだろ

明智光秀の最期

2018年09月22日 17:47

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 14:13:27.79 ID:khh+DCR8
(山崎の戦いの時)

光秀は先手が追々敗走するのを聞いて心中大いに悶乱し、後悔しても甲斐もなきことであった。時に御牧
より使者がやって来て早く引き取りなされと諫めるも、光秀の心は一向に定まらずとやかくと先延ばした。

比田帯刀秀照が光秀を諫めて「進むも退くも時による。先々今夜は青龍寺まで引き取り、明朝は坂本へなり
安土へなりと引き取りなされ。安土には左馬助(明智秀満)が2千余騎で在城しておりますから、いまだ

頼みがないわけではありません。早く早く!」と勧めると、光秀は途方を失って「青龍寺はどの方向だ!」
と尋ねた。帯刀は馬から飛び降りると光秀の馬の轡を取り、馬を引き立てて進めた。しかし敵は早くも道を

差し塞いだ。進士佐左衛門と関田太郎八は馬前に進み、前途を遮る敵を攻め破り引き返しては追い払った。
光秀はようやく逃げ走らんとするも本道には敵が充満して行くこと叶わず、田間の小道を過ぎて青龍寺の

総構堀に馬を乗り入れ土居を登らんとしたが馬は疲れて登れず、進士佐左衛門が来て光秀を馬から降ろし、
その馬を引き上げて光秀を抱え乗せ大手の橋より青龍寺に入った。光秀が櫓に上り四方を望めば、

敵の大軍は雲霞の如く、その旌旗は風に翻る。「ああ夥しき軍勢かな! 敵の人数は3万7千5百余騎とは
聞いていたが、かくも目に余る大勢は近国の勢が集まったのか、それとも味方の人数が敵に加わったのか。

四面楚歌の声したる項王の陣中も同じ思いであったのか!」と光秀は慌てふためいた。そこで人数の着到
を試みたがその人数を見るに、申の刻までは騎士530騎、弓鉄砲の軽卒6百人余いたものが、それも酉
の刻には上下百人に満たなくなった。光秀はよほど心取り乱したのか、この6月の極暑炎熱であるのに

朝から着ていた具足を着替えずに、まず坂本へ引き取ってともかくもせんと評議一決し、夜半の鐘を待ち
青龍寺を逃げ出た。付き従う輩は一番に明智勝兵衛(溝尾茂朝)、その後より光秀、進士佐左衛門、

堀尾与次郎、山本仙入、三宅孫十郎、村越三十郎らであった。その後、小栗栖の方へと小幡の古道を急ぎ
行くと、傍の藪陰にたむろしていた百姓一揆どもが落人と見て、藪の中から真っ先に進む勝兵衛を突いた。
(原注:原書は村越三十郎とする)勝兵衛の甲冑は札の良い胴丸なので裏を突き通しはしなかったが、

馬から突き落とされた。その次に乗り来る光秀は胴腹を突き抜かれた。光秀はあまりに狼狽してこの6月
の炎熱の中で今朝から着ていた具足を着替えもせずにいたので、槍はぐさりと具足を突き通した。

光秀は「憎き奴!」と言いながらそこを乗り抜けたが3町ほど進んではたと落馬した。供の者ども大いに
驚いて駆け集まり「坂本までの道はもう近くです!」と申したところ、光秀は腸を見せて「我が命ここに
留まる。もはや助かりがたし。汝らは我が首を切って知恩院へ送ってくれ候へ」と言うので、

やむなく勝兵衛が介錯し光秀の首を打ち落とした。この時、光秀齢59(原注:武徳編年集成に57)。
母を人質として磔にかけてより37日、主君を弑逆してよりわずかに12日。不忠不孝の天罰巡るのも
早き理、天地神明の冥鑑こそ恐ろしきものである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/22(土) 16:49:37.68 ID:Civtyswb
>>194
生々しくてイイ(・∀・)!

斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候

2018年09月21日 10:01

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 05:57:48.32 ID:fX5WZda+
(山崎の戦いの時)

斎藤内蔵助利三は最初から今日は総敗軍と覚悟していたため、味方の敗走を見ても少しも屈せず、なんとしても
神戸三七殿(織田信孝)と一戦して今日の恥辱をそそぐべしと心掛けており、その子・伊豆守(利宗)と手勢を

整えてまったく動揺せず、静かに人数を進め山崎総構の東方の川を隔てて陣を立てた。その川は大河ではないが
近日降り続いた長雨によって水嵩は増え渦を巻いて流れた。ここに三七信孝の陣中より野掛彦之丞という者が

名乗りただ一騎馬を乗り入れ先に進んだ。内蔵助の子・伊豆守16歳、これも斎藤勢よりただ一騎川へ乗り込み、
川中で1,2度打ち合うと見えたが、双方押し並んでむずと組み合い水中へと落ちた。

これを見て斎藤の家士が一同に伊豆守を救おうと川へ乗り込むのを、内蔵助は大声を揚げて「武士の子16歳!
敵1人討てずして生きても甲斐なし! ただ捨て置け!」とこれを制した。その間に伊豆守は野掛の首を取って

下の瀬より岸に上った。これを切っ掛けとして敵味方は鉄砲矢戦となり討ちつ討たれつ喚き叫んで攻め戦った。
中でも内蔵助は大声を揚げて、「私は利仁将軍(藤原利仁)の後胤、斎藤内蔵助利三という光秀股肱の者で候!

恐れながら、三七殿にとって御親の仇随一の者である! 御自身で私を御討ち取り下さるべし!」と言いながら、
信孝の本陣へ父子手勢は必死になって切り入った。その時、中川瀬兵衛清秀の2千5百騎が横合より打って

掛かり、斎藤勢を引き包んで討ち取らんとした。これによって信孝は斎藤勢を散々に討ちなされ、過半が討死
したので内蔵助・伊豆守父子も叶わずして一方を切り抜け跡をくらまし落ち行った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


織田信長公は信を堅く守る人物であった。しかしそれ故に

2018年09月21日 10:00

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 22:38:34.64 ID:myQ+WRsY
織田信長公ご自身は、金石をも欺くほど、信を堅く守る人物であった。
しかしそれ故に、人の非を以ての外に悪まれた。そして臣の職分に違う事があれば、
殊に記憶し忘れること無く、一旦はそれを宥しても、腹の中に籠め、多くの年月を経て
何人かは流罪に処せられた。

一善を賞する時は衆も善を励み、一悪を罰する時は衆は自らの悪を恐れる。況やその類悪であれば
なおさらである。これを以て惟任日向守(明智光秀)は、己がこれまでした事を顧みて、
非義が累積していると感じた。しかし

「それを弁解した所で宥してはもらえないだろう、今はそのような色が見えなくても、今後必ず
戒められるだろう。」

そう思い究め、却って逆寄せして弑したのだ。

自分は忠を尽くしても、人が己に忠を尽くすことを欲するべきではない、という言葉があるが、
これが至当であろう。上下共に旧怨というものは、義を優先して捨てるべきなのだ。

(甫庵信長記)

信長が、自分と同じ倫理基準を家臣にも求めたために結果として裏切られ殺された、という批評。



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/20(木) 23:22:50.07 ID:FJ0UgTgQ
>>186
突然過去のやらかしを理由に追放されたのが林秀貞だけじゃなかったならなおのこと光秀じゃなくても誰かに討たれそうだな

伊勢貞興、諏訪盛直の討死

2018年09月21日 09:59

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 18:40:30.90 ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

寄手の先陣・高山南坊(右近)は味方が天王山を取り敷いたのを見て、そのまま山崎の大総門を押し開き、
打って出た。柴田源左衛門の備は総門の間際なので一番にこれを受けて鉄砲を撃ちかけ撃ちかけ防ぐとも、

池田父子(恒興・元助)と中川(清秀)の勢も追々雲の湧く如く競い掛かり、柴田源左衛門は散々に追い
崩され、それより段々と先手を追い立て厳しく厳しく攻め戦った。

中川は山を登って光秀の右備の諏訪飛騨守(盛直)・御牧三左衛門(量重)と弟の勘兵衛(御牧量則)の
左から打って掛かる。池田父子は川を越えて左備の伊勢与三郎(貞興)・津田与三郎(重久)の備の右を

突いて互いに箕の手形になって左右より挟んで引き包み討たんとす。斎藤(利三)の備に組みする先手の
近江勢は三方の敵を見て大いに恐れ、裏崩れして四方に敗走した。阿閉・後藤・多賀・久能・小川らは

取って返して諏訪・御牧を救わんと備も立てず専らに中川と池田に打って掛かり、一戦に追いまくられて
四方へさっと逃げ散った。高山・中川・池田の輩は逃げる近江侍どもは追い捨てて、また津田・伊勢・

諏訪・御牧らを討ち取らんと競い掛かる。伊勢が諏訪と御牧に向かって「さても申す甲斐もなき近江勢の
臆病者! 足手纏いが何になろうか、落ち失せたことは幸いなり! いざや花々しく討死して骸の恥辱を

すすぐべし!」と言えば御牧兄弟も同意して残兵千余騎は魚鱗に備え、勝ち誇る池田父子・中川・高山の
9千5,6百の大勢の中へ遠慮会釈もなく馳せ入り、敵を数多討ち取って伊勢も諏訪も同じ枕に討死した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


鳥居強右衛門勝商顕彰碑

2018年09月20日 21:06

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 23:19:13.94 ID:tcVhHGqo
鳥居強右衛門勝商顕彰碑

天正三年(一五七五年)五月武田軍一万五千人の兵に囲まれ、
落城間近の長篠城を救うため、鳥居強右衛門は、
単身で敵の囲いを突破して豊川を下り
岡崎の徳川家康の所へ援軍を乞うため走りました。

そして、帰城寸前に武田軍に捕らえられ、
「はりつけ」となり、三十六歳の若い生涯を閉じました。

この石碑は、地元市田町に生まれた強右衛門の軍功を讃え、
有志によって大正三年建立されたもので、
毎年春には、「鳥居祭」が行われています。

なお、松永寺には強右衛門の「はりつけの木像」が
まつられています。

(赤塚山公園)


敵は皆腰印を捨てたるぞ!

2018年09月20日 21:05

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 23:35:47.29 ID:9YaWm/t0
(山崎の戦いの時)

御牧兄弟(量重・量則)は初め一番に敵中に馳せ入って攻め破り、また一方を切り抜けて人馬の息を休めた。

「伊勢(貞興)も諏訪(盛直)も討たれたと見えて旗・馬印は乱れ走っている。近江勢は皆逃げ失せ、天王山に
たむろしていた松田(政近)を初め丹波侍も敗北したのか堀(秀政)と堀尾(吉晴)の旌旗が山風に翻っている。
今や総敗軍と覚ゆるぞ。光秀の先途を見届けるまでもない、ここで討死して光秀を落とすべし!」

このように兄弟は相談して、光秀の方へもその旨を申し送って兄弟一同に敵中へ突き入り死物狂いに奮戦すれば、
池田(恒興)・中川(清秀)らの大勢はこれをあしらいかねて見えた。

その時、池田紀伊守元助はこれを見て鞍壺に立ち上がり旗を打ち振るって高らかに命じた。

「敵は皆腰印を捨てたるぞ! 目当てにして組み合い討て!」

そのように元助が牙を噛んで命じると、総勢がこれに心付いて勇み進んで討つにつれて、御牧兄弟を初めとして
2百余騎の軍士は枕を並べて討たれたのである。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅

2018年09月19日 18:18

西郡局   
293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/19(水) 00:03:49.27 ID:1YeLLr8Q
鵜殿氏の菩提寺・長應寺と絵曼荼羅


長應寺は文明11年(1479年)に三河・上ノ郷城主鵜殿長将によって建立されたが
永禄5年(1562年)に家康が上ノ郷城を落城させた際に焼失してしまった。
鵜殿氏はその後、家康に仕えることになった。

家康の側室の西郡局は鵜殿氏の出身であり、長應寺を再建しようとしていたが
長應寺の当時の住職だった日翁が、一族と共に江戸に来ていることを知り
文禄元年(1592年)、日比谷門内にて長應寺を再建させた。
西郡局が大檀越として寄進したため、その後の長應寺は大寺院となり
幕府から江戸の日蓮宗の取締を勤めるよう命じられるなど、隆盛を極めた。

ところが幕末になり、米英仏露蘭の外交官邸を江戸に設けることになったとき
オランダの公館が長應寺を借り受けることになり、寺としての機能を停止した。
公館は後に別の場所に移転したが、その頃には明治維新などもあり
武士階級は没落し信徒がいなくなり、檀家はわずか30戸余りになってしまった。

明治31年に住職となった日聡は、前年の北海道国有未開地処分法の制定を受け
一念発起して長應寺の敷地を売却し、同32年北海道に法華宗農場を開設した。
当時の北海道では仏教各派の布教活動が盛んで、開拓地の布教に際し
寺院の経営に必要な信徒を北海道に送り込むことは、宗門の意向であった。

農場経営は紆余曲折し、明治41年になってようやく長應寺の建設がはじまり
大正2年、現在の北海道天塩郡幌延町に長應寺は建立された。
ところが日聡の跡を継いだ住職が、同8年に本堂を全焼させてしまい
日聡は長應寺再建のため、同12年には農場を木材商人に売却することとなった。

現在の長應寺では毎年西郡局の命日に合わせて、法要「葵祭り」を開き
鵜殿氏が天文14年(1545年)に奉納した絵曼荼羅8幅を1日限りで開帳している。
同寺は他に西郡局の肖像画や、葵の紋の付いた着物等も所蔵する。


――『芝高輪長應寺記録』『法華宗農場顛末』など

法要を報じるニュース動画のURL
ttps://www.youtube.com/watch?v=SQFnleE7N5w



週間ブログ拍手ランキング【09/03~/19】

2018年09月19日 18:15

09/03~/19のブログ拍手ランキングです!


北条一門の歌 11

信長は彼が陪臣であるにもかかわらず 11

今の深志、山より高く海よりも深い 11

汝の不明は私の不明 9
菅小左衛門、島津家臣に報復した咎により切腹する 9

堀と堀尾は難なく山を 7
今川の ながれの末も絶えはてて 7
光秀天罰逃れ難く 6
【雑談】それにしても上杉景勝って 6

この儀、別の仔細に非ず 5
この傲慢で残忍な国民に 5
任官之事 4
南坊が最初に総門を固めたのは 4
勝敗は互いに天運に任せ候 4


今週の1位はこちら!北条一門の歌です!
黒田基樹先生の『戦国北条家一族辞典』によると、この「喜連川文書」で系譜的地位が不明とされていたのは「氏親」「氏能」「氏冬」
そして「範以」でした
そのうち「氏親」は「大宅高橋家過去帳」にて、16歳でなく成った氏康嫡男として存在が確認され、「氏能」「氏冬」は、
一方が上杉謙信養子となったいわゆる「上杉景虎」、および北条宗哲長男三郎(宝泉寺殿)ではないかと比定されています。
また「範以」は今川氏真嫡男の今川範以と考えられています。
これは一度にこれが詠まれた、というより、足利義氏の時代に詠まれたものを後世編纂した、というもののようですね。
長く研究者を悩ませてきた記録でしたが、ようやく全体が見えてきた史料、とも言えそうです。

同票でもう一つ!信長は彼が陪臣であるにもかかわらずです!
陪臣も評価する、というのは戦国武将には割とつきものの「美談」で、この類だと榊原康政なんかも有名ですね。
ただこの人は信長によっては結局直臣に引き上げられること無く(こういう所、信長は律儀です)、彼が独立した存在となるのは
秀吉の時代に丹羽家が減知転封された後、秀吉によってですね。丹羽家の後に北ノ庄へ入った堀家の与力大名となります。
秀吉の目から見ても、彼が北陸方面の統治に必要な、非常に優秀な人材で有ったことが明らかに見えたのでしょう。
やがて溝口秀勝は越後新発田6万石を与えられ、溝口家新発田藩は明治まで存続します。
非常に実直な印象を持つ武将の家が、非常に実直に大名家としての生涯を全うした。そんな印象も受けますね。

そして更にもう一つ!今の深志、山より高く海よりも深いです!
追放された佐久間信盛父子を訪ね来た山岡景友・平井安斎のお話ですが、この山岡景友、非常に不思議な人物です。
なにせ彼は「足利義昭の寵臣」であったとされ、義昭蜂起の際は彼に従って信長と戦っています。義昭が追放されると
信長に従い佐久間信盛の与力となります。また小牧長久手では織田信雄に付いていたものの戦後秀吉の家臣に。
そして秀吉死後は藤堂高虎の邸宅に居候(!)し、家康のための情報収集に当たった模様です。さらに関ヶ原後、
その功績により家康から、伏見城で討ち死にした甲賀の士の子孫を組織した「甲賀組」を付けられます。いわば
「忍者の頭領」ですね。現在でも彼について様々に語られることがあります。
そういう人が訪ねてきたことを、色々と深読みするのも、歴史のおもしろさかな、なんて思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にただ来ました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね
(/・ω・)/

そして記事のエントリ数も、昨日11500となりました。
これも本当に、逸話を投稿される本スレの皆様をはじめとして、ブログを見に来て頂いている皆様、
ここに関わる全ての皆様のおかげだと思っています。心から感謝いたします。有難うございます。
来月にはここも10周年となります。こんなに続いていたのですね。我ながらびっくりです。
どうぞこれからも、よろしくお願いいたします。

まとめ管理人・拝

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北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

堀と堀尾は難なく山を

2018年09月17日 18:00

堀秀政   
292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 17:48:45.23 ID:HRhvRU/p
(山崎の戦いの時)

寄手の勢は羽柴筑前守秀吉が以前からこの周辺の地理をよく知っており、天王山を敵に取らせては
味方の大事と推し量った。そこで堀久太郎(秀政)と堀尾茂助(義晴)を呼び、

「汝は早く天王山を取り敷きて敵を山上にたむろさせてはならぬ!」

と命じた。ここは山崎宝積寺の旧跡、堀尾は元来気早の勇士であり弓・鉄砲の兵2百人を先に立て、
えいえい声を出して進んだ。堀久太郎も続いて人数を押し登らせんとす。

光秀がかねて命じていた松田太郎左衛門(政近)は山上にたむろしており、堀尾の人数を上げまい
と指揮してこれを防ぐ。堀尾は弓・鉄砲の者を先に立て「やれ上がれ上がれ! 上がると勝つぞ!」

と言いながら登る。山の土はぼろぼろとして登り悪し。松田は山上より「やれ防げ防げ! 上げると
負けぞ!」と精を入れて命じ防ぐ。一方、堀久太郎は道を変えて横合いから押し登った。

松田の勢も激しく防いだものの、羽柴方は義に勇む人数が前後より激しく攻めたて、松田も鉄砲に
撃たれて散々に追い崩され、堀と堀尾は難なく山を取り敷いた。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』


この儀、別の仔細に非ず

2018年09月17日 17:10

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/17(月) 12:34:03.11 ID:c3AbbcRr
天正10年6月朔日、惟任日向守(明智)光秀は亀山城において、明智左馬助(秀満)、同次郎右衛門尉、
藤田伝五、斎藤内蔵助(利三)、溝尾勝兵衛らを呼び寄せ、密かに語った

「各々の命を申し請けたい。それに同心するのなら評議をしよう。そうでないのなら、この光秀の頸を
刎ねるように。」

これを何の前触れもなく語ったので、五人の者達は「これは如何に」と驚き、呼吸も詰まりそうで、
互いに目を合わせるばかりであった。

そのような中、明智左馬助が進み出て
「今日まで殿を主と頼み奉る者共が、一大事に当たって、誰が見放すでしょうか。
何事であっても左馬助に於いては、御請け申し候」

そう頼もしげに言うと、残る4人も皆その儀に応じた。

光秀はこれを聞くと
「さては嬉しくも請けられたり。この儀、別の仔細に非ず。私の身の上に於いて、信長公が私を
誅されるという証拠がいくつか有る。既に事急であると考える。どう有っても逃れられぬ道が
迫っているのであれば、むしろ逆心を企てんと思う。各々同心に於いては、この牛王(牛王符)の裏に
霊社の起請文を!」

そう当座にこれを書かせ、その上で人質を取り固めた。

(甫庵信長記)

光秀が信長を討つことを告白するシーンですが、この時光秀が「信長に殺されそうに成ってるから
逆に信長を殺す」と言っているのが、スロイスが「日本では主人が下僕を罰しようとするのを知ると、
下僕が先に主人を討つ(だから日本で主人は下僕の前で感情を表に出さない)」と記録しているのと
ぴったり一致していて、同時代的にはリアリティの有るものだったのでしょうね。


任官之事

2018年09月16日 17:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/09/15(土) 21:37:19.54 ID:g32iigv6
任官之事

諺曰。君択臣而授官。臣量己而受職。君無虚
授。臣無虚受。然羽柴筑前守秀吉。天正壬午春。
為追伐西戎征備州。闘争之半。明智日向守光秀
討信長将軍。於尋常之大将者。秀吉所可敗軍
也。不然還而武勇智計兼備退凶徒。即時上洛。
悉亡明智党。夷洛属静謐。信長将軍仰主上之
徳。修造宮殴。扶臣下之衰微被充行庄園。最忠
臣也。以之思之。光秀悪逆第一之朝敵也。秀吉
又討之。無比類之忠勤也。故被成下綸旨。被補
官位。其辞云。

去六月二日。信長父子上洛之処。明智日向守
企逆意討果之。剰乱入二條御所。狼藉之事。
前代未聞。無是非次第也。然処秀吉西国爲成
敗。備中國敵城。所所取巻。雖対陣任存分。不
移時日馳上。明智一類悉誅伐。属天下泰平之
段。?古今希有武勇。何事如之乎。因茲官位
之儀。雖有宣下。被辞申之條。重昇殿叙爵少将
之儀。堅天気候也。?執達如件。
天正十年十月三日 左中将在判
羽柴筑前守殿

光秀天罰逃れ難く

2018年09月16日 17:28

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 17:35:28.33 ID:gJvnQJNT
(山崎の戦いの時)

光秀の先手・斎藤内蔵助(利三)は狐川の向こう岸より使者を立てて、光秀を諫めた。

「今日の合戦は御延期然るべし。筒井の加勢も見えず、只今より坂本へ引き取られて要害に
拠って一戦されれば、安土に左馬助(明智秀満)がおりますので後詰の便りもあります。

そうでなければ、すぐにこれから安土に籠城されて然るべし。以前から申すように山崎の地
は味方にとってよろしからず。大軍を引き受けて防ぐにはもっとも難しい地です。

合戦の雌雄は只今にて候。時刻が移れば、その方策もなおさら難しくなります。」

このように申し送ると光秀はこれを聞いて、

「主君を弑逆するほどの光秀、天命の帰するところ何の恐れかあらん! 汝そこまで恐れる
のならばそこを引き取って当手に来るべし! 先手は他人に申し付けん!」

と罵ったため、使者は大いに恐れて立ち返りその旨を申した。内蔵助はこれを聞いて、

「光秀天罰逃れ難く、敗軍の兆しあらわれたり」

と言って嘆息した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・続武家閑談)』



147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/14(金) 23:41:16.22 ID:w7XezzrT
>>146
斉藤さんって謀反にノリノリだった説と諌めた説があるけど
これは諌めた説を下敷きにしてるのかな

今川の ながれの末も絶えはてて

2018年09月16日 17:27

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/16(日) 14:19:10.26 ID:BFVsBUOo
天正10年の甲州征伐を終えた織田信長は富士遊覧の後駿河へと回り、駿府に到着すると
そこでは徳川家康が假屋を宜しく立ち置き、一献を進められた。

その頃は卯月の十日あまりであったが、今川義元が植えさせたという千本の桜も、花はすっかり
散り去っており、信長は「植え置きし主の栄えも、このようになってしまったな。」とつぶやき、
続けて思い浮かんだ一首を詠んだ

『今川の ながれの末も絶えはてて 千本の桜ちりすぎにけり』

(甫庵信長記)

ここから信長の「桜」が散るまで、4ヶ月あまりであった



信長は彼が陪臣であるにもかかわらず

2018年09月15日 19:05

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/15(土) 13:14:52.04 ID:134JHZze
天正9年3月26日、若狭の逸見駿河守(昌経)が病死した。彼の所領は八千石であったが、
相続すべき実子が居なかったため、織田信長の命により、そのうち三千石は武田孫八郎(元明)へ、
残りの五千石は溝口竹(秀勝)に与えられた。この溝口は後に受領して、伯耆守と名乗ったが、
彼は惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀)が幼少の頃より取り立てた者で、普段より正意誠心にして
武道を心がけ、何事にも心を尽くす人物であったため、信長は彼が陪臣であるにもかかわらず、
五千石を与えたのである。

このように信長は、陪臣であってもそういった人物であるなら賞禄を与えたため、彼の配下は
上下の区別なく功に励むこと、日々新にして、日々に新に、また日々に新たなりとも申すような
雰囲気であった。

(甫庵信長記)

直接の部下でなくてもきっちり評価してくれる信長公であった。