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あの兄弟の働きは良き膏薬

2018年10月31日 19:10

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 03:54:41.31 ID:CQKUgdKl
(長篠の戦いの時)

5月21日、武田四郎勝頼は夜中より軍勢を追々繰り出した。また曙に備を立てて一備ごとに分かれて攻め
掛かる様子なので、織田・徳川両将はかねて仰せ合わされたように「軍勢は柵外に出てはならない」と堅く

制し、鉄砲3千挺ずつ用意して待ち設けた。信長卿は「今日敵を練雲雀の如くせんものぞ!」と仰せになる。
その頃、徳川御陣では大久保治右衛門(忠佐)が兄・七郎右衛門(忠世)に向かい「今日の戦で当手は本主、

織田勢は加勢である。万一織田衆に戦を始められてはこれ以上の恥辱はありません! 某が進んで足軽戦を
始め候べし! 鉄砲の歩卒を添えてください!」と言うのを、神君(徳川家康)は聞かれ「もっともである」

との仰せにより柴田七九郎康忠・森川金右衛門氏俊・江原孫三郎利金・日下部兵右衛門定好・成瀬吉右衛門
正一らの属兵を大久保兄弟に差し添えて先頭に進められた。成瀬は徳川の御家来であったが、

一度子細あって甲斐へ立ち越し、この年頃武田家に仕えたが、今回御内意あって帰参した。それゆえ武田家
の侍大将どもの旗指物をよく覚えているからと先手に加えられたという。

(中略。大久保兄弟は先陣を切って山県昌景勢と戦い活躍)

今日の大久保忠世・忠佐兄弟の戦場での働きを信長卿は御覧になって、「徳川家の中で金の揚羽蝶と浅黄に
黒餅の指物をしているのは、何と申す男か」と問われ、神君は大久保兄弟と御答えし、信長卿は「徳川殿は
良き人を御持ちだ。あの兄弟の働きは良き膏薬のようだ。敵に付いて離れない」と仰せられた。

(中略)

かれこれする間に神君は岐阜におられた。信長卿は今回の加勢を感謝されて神君を厚く饗応なさり、御供の
人々へも若干の被け物を賜われたが、信長卿は「長篠で見た髭は来ているか」と問われた。その時、大久保

治右衛門が進み出て「兄の七郎右衛門は供に参ってはおりません」と申せば、信長卿は「汝の兄弟は今回の
功抜群なり」と仰り、御自身の手で衣服を取って授けられた。大久保は大いに面目を施され、神君も殊更に
喜びなさって浜松へと帰られた。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談・三河物語・
   神君御年譜)』

417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/10/31(水) 06:53:32.42 ID:zbk28BfY
流石は大久保、真田に付いて離れない。

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 14:02:12.81 ID:hpbAKV9H
>>416
>金の揚羽蝶と浅黄に黒餅
どういう組み合わせだw

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 17:03:16.97 ID:VrOWLq6S
こう、殿様が家臣などを褒めて色んなものを賜るというのがお話でよく出てくるけど
頂いた衣服や刀などなどって飾っておくもの?
馬とかの場合飾る訳にもいかないだろうから、乗ったり使うのが普通なのかな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 19:07:11.87 ID:Df67X3vF
>>418
黒餅ってお餅じゃなくこういう黒の円の事だぞw
https://i.imgur.com/zAouSP3.jpg
zAouSP3.jpg

426 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/11/01(木) 10:30:04.24 ID:kmp/q02H
黒丸って言えばいいのに黒餅に見えたなんてよっぽどお腹空いていたんだな
もしかしたら本当に餅をぶら下げていたかもしれん
返り血を浴びて黒くなっていったんだろうな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 11:33:31.48 ID:KZhZzpkc
菓子好きだから、そっちでイメージが浮かぶんじゃないの

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:25:38.00 ID:VVf5sW8r
>>426
黒丸だと黒で描かれた円(蛇の目)とも取られそうだし、便宜的に餅と呼称したのでは?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:31:04.15 ID:6GoIIEmA
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤堂高虎#/media/File:Site_of_T%C5%8Dd%C5%8D_Takatora_and_Ky%C5%8Dgoku_Takatomo%27s_Positions.jpg
藤堂高虎の旗印(一番右)も「三つ餅」と言われてるな
Site_of_Tōdō_Takatora_and_Kyōgoku_Takatomos_Positions

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 19:46:51.86 ID:KZhZzpkc
高虎のは餅の逸話からきてるんじゃないの?

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:36:57.17 ID:eJY+p62H
>>436
多分逆。旗印が三つ餅だったから出世の白餅の話が作られた。

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 08:56:26.72 ID:PhpvOcLA
もしそうなら参勤交代の時に立ち寄る風習ができた吉田の餅屋はマル得だな
あと初期の高虎の逸話を見ると食い逃げが本当でも驚かない

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週間ブログ拍手ランキング【10/25~/31】

2018年10月31日 19:02

10/25~/31のブログ拍手ランキングです!


『山城に行こう!2018~森長可の東美濃統一~』のお知らせ! 13

名高き兜を敵に取られては如何なものか 11
前田利長と七人の鋳物師 11

古老どもも古者だから捨てたか! 9
内藤昌豊の討死 9
あれこそ山県である 9
私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかった 9

故に大将に手を負わせたのだ 8
私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ 7
彼女は獰猛な牝ライオンのように 7
同じ忠次でも 7

奇特なる志の留守意 6
「流石に猛将かな」 5
織田信長を模倣する 4


今週の1位はこちら!『山城に行こう!2018~森長可の東美濃統一~』のお知らせ!です!
今月で、このまとめも十週年と成りましたが、そんな十年目に鬼武蔵も地元の歴史イベントの看板になるほどに成ったのだなと、
聊かしみじみしてしまいました。地元に愛される鬼武蔵!こんな日が来るなんてw
いつかこの記事が実現することも!
森長可について。そして大河ドラマ「鬼武蔵」・雑談
まああの、痛快なほど殺伐とした鬼武蔵像が浸透したわけではないのでしょうが、こういうイベントの中で「織田家の猛将」が
市民権を得てくと、なんだか嬉しいです。
それにしても実に興味深いイベントですね!行ってみたいなあ(;´Д`)

2位はこちら!名高き兜を敵に取られては如何なものかです!
敗戦の時、主君に変わり命を捨ててその逃亡を助ける。大きな合戦にはそういう役割の武士が表れますね。
有名所では三方ヶ原での夏目吉信などがいます。ここでの笠井高利、もし武田が滅びなければ、夏目のように
その家中で長く重く讃えられたのでしょう。家の興亡というものからは、忠義の意味もいろいろと考えさせられます。
そして秘蔵の冑すら捨てて逃げたという所からは、長篠敗戦後の勝頼の逃亡がどれほど過酷であったかを感じさせてくれます。
勝頼はそれでも、この敗戦から一旦盛り返しているのですよね。そこだけでもなまなかな人物ではないですね。
甫庵太閤記で秀吉が、信長が勝頼を殺したことを批判する内容があったりしますが、あの本が成立した時代、
そういう評価が存在したのだろうな、たどということも感じました。

今週2位はもう一つ!前田利長と七人の鋳物師です!
加賀、能登、越中はどこも、その地の産業に何かしらの前田伝説がある「前田王国」である、という話はよく聞きます。また事実、
それらは前田家の統治の中で育てられたものだったのでしょう。高岡の鋳物も、そういった産業なのでしょうが、「仏具の需要」
という言葉を見ると、どうも「越中一向一揆」を連想してしまいます。高岡と言えば、有名な高岡大仏も、高岡銅器職人の
技術の高さを伝えるものですが、あの大仏も阿弥陀如来である所に(「一向一揆」と直接に関わるわけではありませんが)、
そちらのつながりも感じちゃいますね。さすが真宗王国、でもあります。
越中の長い歴史を感じさせる、そんなお話だとも思いました。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみてくださいね!
(/・ω・)/

故に大将に手を負わせたのだ

2018年10月30日 12:53

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:55:09.65 ID:IayTbgkZ
関ヶ原で東軍が大勝し、三成の陣悉く潰れたが、山の側を伝って人が多く通っていた。
井伊直政これを見て、松倉豊後守(重政)、その頃は右近と申していたが、彼に向かって
「あれは敵か味方か」
と尋ねた。松倉は「敵とも味方とも見分けがたい」と申している所に、甲州衆が合流した。

直政は彼らに重ねて「あれは敵か味方か」と尋ねた。甲州衆より「紛れも無く敵です」と
申した所、直政は二の句もなく即座に馬に乗りこれを追った。この時右の腕を撃ち抜かれ、
落馬したのである。

松倉はその後、この甲州者を激しく叱りつけた
「私も最初から敵だと判断していたが、味方がこれほど大勝しているのに、こぼれ物の退兵を
攻撃しても益はない。しかし敵と聞いて付かないのは甚だ本意に非ず。だからこそ私は何となくの
返答をしたのだ。それなのにお主は、巧者のふりをして要らぬ見切りをした、故に大将に
手を負わせたのだ!」

この甲州者は、早川弥左衛門であったという。

(士談)



386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 07:41:04.48 ID:xfS9uC0v
>>382
原文ママだろうけど早川弥惣左衛門のことみたいね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:15:20.94 ID:lgbgK01D
>>382
でも味方だって言って、後でやっぱ敵だったって分かったら
やっぱりキレて来そう

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 10:42:22.36 ID:/KzaYwJ5
ググってみたところ早川弥◯左衛門、幸豊の生没年が(?-1600)になってるけど彦根城の築城に携わっているのでこれが誤りなのが分かるね
サイト主は記載してて誤りに気付かないのだろうか

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 18:31:47.25 ID:1NFKO9HO
状況わからんけど敗走する兵から首取って手柄になるのかな

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 19:46:01.30 ID:MhubSL59
なる
むしろ当時の首取りはほとんどが撤退時の追撃戦

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/30(火) 20:01:32.07 ID:1NFKO9HO
>>390
ありがとうございます
たしか乱戦混戦の時に悠長に首切り落としてたら自分が死んじゃうし形勢逆転されかねないですね

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/31(水) 02:29:35.20 ID:o/sbJwow
というか何であろうが首は首なので価値は変わんない
もちろん大将直々に打ち据えにしろとかの特殊な時は別だけど
後、そもそも敵に一番死傷者を与えられるのは古今東西問わず
敗走する相手への追撃時なので
必然的に手柄首も多くは追撃時に得られた物という事になる

『山城に行こう!2018~森長可の東美濃統一~』のお知らせ!

2018年10月29日 17:35

森長可   
376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 21:19:37.48 ID:6VuEZ25F
殺 伐 と し た ス レ に 鬼 武 蔵 が !
https://i.imgur.com/ycmhdzs.jpg
https://i.imgur.com/cpyqDDJ.jpg
ycmhdzs.jpg
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山城に行こう!2018~森長可の東美濃統一~
http://www.city.kani.lg.jp/15128.htm
日程
平成30年11月23日(祝日・金曜日)、24日(土曜日)、25日(日曜日)

場所
広見地区センター(岐阜県可児市広見7丁目77番地)

(23日)戦国寺子屋
特別顧問によるトークショーを開催!
日時:11月23日(金曜日)13時30分~16時00分
会場:広見地区センター
内容:
●第一部 森長可と東美濃の山城
長可の東美濃統一から小牧・長久手の戦いで討ち死にするまでのストーリーと東美濃の山城との関わりを城跡ごとに解説します。
●第二部 描き手からみた山城の魅力
漫画『センゴク』で描かれている山城を題材に、宮下氏が裏話を交えながら山城の魅力を特別顧問と語ります。

(24日)群雄割拠の山城めぐり!
美濃金山城跡、久々利城跡、今城跡をバスが巡回し地域団体がガイドなどでおもてなし。
現地では、特別顧問に会えるかも?!
日時:11月24日(土曜日)9時00分~13時00分
会場:市内城跡(美濃金山城跡、久々利城跡、今城跡)
内容:
可児市山城連絡協議会への運営協力金(各城跡500円以上)を納め、各城跡の通行証を手に入れて、特別なおもてなしを受けよう!
・美濃金山城跡、久々利城跡、今城跡の各城跡でガイド等を受けることができます。
・通行証を2枚以上お持ちの方は、25日(日曜日)縄張りシリーズ第二弾「縄張りクリアボトル」と引き換えが出来ます。

縄張りボトル引き換え方法:
25日(日曜日)10時00分~10時30分の間に、広見地区センター内の可児市山城連絡協議会ブースにて引き換えが出来ます。(通行証2枚につきクリアボトル1本)
先着300名(3城×100本)ですが、11時以降可児市山城連絡協議会のブースにて1,000円で販売します。

(24日)先手必勝山城軍議
パネルディスカッション「東美濃の山城に行こう!」
日時:11月24日(土曜日)14時00分~16時00分
会場:広見地区センター
内容:
中津川市、恵那市、可児市の城跡保存団体関係者がこれまでの整備等の成果について発表します。
(出演者)
●香川 元太郎
●中井 均
●加藤 理文
●萩原 さちこ
●3市城跡保存団体関係者

(25日)東美濃の山城が大集合!!
東美濃の山城が可児市に大集合!お城好きの人も、そうでない人も楽しめる企画満載!
日時:11月25日(日曜日)10時00分~16時00分
内容:
●合戦場
・チャンバラ合戦IKUSA 小牧・長久手の戦い
(参加費)500円 各回先着50名
(受付時間)
(1)10時00分~10時20分
(2)11時00分~11時20分
(3)13時00分~13時20分
(4)14時00分~14時20分

・あっちゅうまにカッチュウ
(参加費)1,500円 各回先着15名
(受付時間)
(1)10時00分~10時30分
(2)13時00分~13時30分

●城内
・講演会
山城が誘う戦国史の魅力と楽しみ方~明智光秀と東美濃の城~
(時間)13時30分~15時00分
(内容)
スペシャルゲスト小和田哲男氏を迎え、可児市にゆかりのある戦国武将「明智光秀」と、東美濃の城との関わりについて講演します。

・書籍グッズ販売
漫画『センゴク』の単行本を販売。また、作者の宮下英樹氏制作のオリジナルグッズも特別販売。※23日、24日も販売有り。

・山城紹介ブース
(時間)10時00分~16時00分
(内容)各城跡のPRブースが出展します。

●城下町
・戦マルシェ
(時間)10時00分~15時00分
(内容)鉄砲火薬ごはん、光秀の本能寺「焼き」そば、可児才蔵の串刺し五平などユーモア溢れるメニューが盛りだくさんとなっております。

・戦国武将を出陣させよ
会場内に設置された特製パネルにシールを貼ってドット絵を完成させよう。

・センゴク騎馬隊(ポニーの乗馬体験)
甲冑を着て乗れば気分は戦国武将!※衣装貸し出し有
(参加費)500円
(時間)10時00分~15時30分



とても面白そうです、興味の有る方、お近くの方は是非!

織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。


古老どもも古者だから捨てたか!

2018年10月29日 17:28

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 13:27:42.46 ID:2F6DKB/B
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は馬場信房の殿と討死の間に落ち延びたが、この時に相伝の旗を捨てたのを本多平八郎
(忠勝)の属兵・原田弥之助が拾い取った。梶金平(勝忠。忠勝の与力・家臣)は大声を揚げて、

「どうした武田四郎! たとえ命を惜しみ敵に押付を見せようとも相伝の旗を敵に取られるなんて
ことがあるか!」と散々に罵った。武田方の旗奉行がこれを聞いて、

「その旗は古物だから捨てたのだ!」と言えば、金平はなおも声高に「山県・内藤・馬場などの
古老どもも古者だから捨てたか!」と声を放って大笑いした。武田方はこれを聞かぬふりをして

落ちて行った。神君(徳川家康)はこの事を聞こし召し「金平、当意即妙の申し様なり」と仰せ
になり、金平は御感心に預かった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:04:30.49 ID:v5Mmkc9X
>>378
>古老どもも古者だから捨てたか!
煽りがうますぎるw

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:18:21.27 ID:Omn6ajDG
佐久間、林も古者だったな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:36:56.88 ID:c7+IdzTp
当意即妙の口ぶりなのを見ると三河者じゃなくて駿河か遠州出身なのかなとか思ってしまう

奇特なる志の留守意

2018年10月28日 18:04

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 17:59:53.82 ID:4Ch0sdeQ
富田信濃守(信高)が津城に居た時、彼の留守の折、天守に夜な夜な光るものが現れた。
これについて家老の坂三左衛門は「留守居をしている以上、このような事を見届けもしないのは
油断である。とにかくこれを見届けなければならない。」と申した所、若い武士たちが何れも
「我々が見届けます。」と申したため、坂は「ならば私は無用に致す。」と申した。

ある夜、坂は一人密かに天守へ上がり、そこに伏せていると、案の如く何者かが窓より飛来し、
声を立てて鳴いた。そこを即座に抜き合い切り留めた所、それは梟であった。

そして信濃守へ『このような説が有ったため、私が見届けました所、その正体は梟でした。
城には少しも変わったことはありませんので、虚説などを聞いて気遣いなさいませんように』
と申し伝えた。

徳川家康は後にこの事を聞いて、「奇特なる志の留守意である。」と仰せに成ったという。
(武功雑記)



412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 18:19:09.19 ID:+TS1W7u4
俺が、俺が、どうぞどうぞ、ってダチョウ倶楽部みたいやな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 20:26:55.22 ID:My4sFSdU
じじいが出しゃばって仕事を増やそうとするからウチらがやっとくからじじいは寝とけよって諌めたのに張り切っちゃって若いのの面目が潰れた話し

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 22:33:18.79 ID:aGV4WMpp
城に梟とは絵になりそう
ハロウィンっぽくて良いね

内藤昌豊の討死

2018年10月28日 17:57

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 13:41:07.22 ID:NONzLHXT
(長篠の戦いの時)

山県昌景の進軍を契機に続々進軍した武田勢であったが、いずれも織田・徳川両勢に柵内から鉄砲を
撃ち掛けられ多くの死傷者を出し苦戦した。勝頼本陣中軍の先手・内藤修理昌豊の1千余騎は先駆け

し、逍遙軒信綱(武田信廉)らも続いたが皆鉄砲に当たって引き退いた。この勢いに乗じ柵外に出た
佐久間信盛と滝川一益だったが、佐久間は手勢を立て直した馬場信房によって柵内に追いやられた。

白地に黒い山道の旗を押し立てる内藤はその後へ引き返し、滝川の3千余騎の勢の中へ突いて入り、
滝川勢は散々に突き立てられて、柵内へ逃げ入った。この様子を御覧になった信長卿は柴田修理亮

(勝家)・丹羽五郎左衛門(長秀)・木下藤吉郎(羽柴秀吉)に命じられ、この3人が千5百余騎で
森長村の方から横に打って掛かった。内藤はこれを見て馬の鼻を立て直し、白地に胴赤の旗と御幣の
馬印を真っ先に進めて打って掛かった。

(中略。山県昌景が柴田らを撃退するも討死)

勝頼も歯噛みをなして命じ、勢を進めて掛かったが激しい戦闘となり、典厩(武田信豊)・逍遙軒を
始めとして原隼人(昌胤)・小幡上総・小山田兵衛・望月甚八郎・安中左近・甘利三郎五郎らが諸軍
を進めて打って掛かった。こちらでは織田方において佐々内蔵助(成政)が、「内藤修理の備は浮き
立って見えます。一攻めに攻めては如何でしょう?」と申した。信長卿は「もっともだ」と許し給う。

(中略。その時、早くも徳川勢と武田勢が激突し互いに死傷者を出す。武田信豊が切り立てられ引き
退くと、信長は総攻撃を命じて武田勢総敗軍となり勝頼は敗走、武田諸将討死)

内藤は「今や討死の時至れり」と残兵百余人を選りすぐって半途より引き返し、徳川家御本陣目掛け
打って掛かった。これは御大将(家康)と直の勝負を決せんとする心と察した本多平八郎忠勝が

蜻蛉切の槍を振るって内藤と御本陣を懸け隔てて戦えば、榊原小平太康政・大須賀五郎左衛門康高も
中を破られまいと弓鉄砲の足軽を先に立て、射立て撃ち立て決戦した。内藤は手勢を皆討たれ自身も

鎧に立つ矢は蓑毛の如く。「流石は信玄の家で随一の勇士」と呼ばれた内藤が死狂い獅子奮迅の怒り
をなせば近寄り難く見えたところに、流れ矢1つが飛んで来た。内藤はこれに当たり馬からたまらず

落ちたものの、また起き上がって槍を押っ取り敵を突こうとするところを、朝比奈弥太郎泰勝が槍を
付けてその首を取った。泰勝はこの高名により徳川家の御家来に召し加えられたという。

(原注:泰勝は今川氏真の臣で、氏真より御見舞いの使者に来たり御陣にいたともいい、または元は
今川の家人で、この頃は小田原の北条家に仕えており、北条氏政から御見舞いの使者に来たともいう。
また氏真もこの時、信長とともにここに来た事が手記に見えているともいう)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ

2018年10月28日 17:56

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/28(日) 02:59:35.21 ID:jQCsznEq
(長篠の戦いの時)

山県昌景の先頭に続き武田勢は攻め掛かるが、鉄砲の激しさに堪えかね引き退く。武田右備の先手・
馬場美濃守信房の一隊は魚鱗に備えて金鼓を鳴らし、寒防山の麓より信長卿の本陣に押し寄せ、

喚き叫んで柵二重まで破らんとした。織田方は少しも取り合わず佐々内蔵助(成政)・前田又左衛門
(利家)・福富平左衛門(秀勝)・野々村三十郎(正成)らが命じ3千挺の鉄砲で段々に撃ち立て、
寄手の走り寄る者は撃ち倒され撃ち落とされ、ここでも人塚を築いた。

(中略。武田勢苦戦。土屋昌続討死、武田信廉・跡部勝資勢裏崩れして敗走)

この勢いに乗じて織田方の滝川左近将監(一益)と佐久間右衛門(信盛)は柵外に出張した。神君は
これを御覧になって「かねがねの軍令の如く早々に柵内へ引き入るべし!」と御使者を遣わされたが、
両人はこれを用いず、信長卿からも使者を立てられてこれを制し給う。その間に馬場は敗れた手勢を
立て直し、佐久間勢を追い崩して40余人の首を切り、佐久間勢を柵内へ追い入れた。

(中略。織田・徳川勢の総攻撃により武田勢総敗軍。内藤昌豊ら諸将討死)

ここにおいて小幡上総信貞・小幡備前貞員・河窪備前・小山田十郎兵衛国次らは、皆勝頼を落ち延ば
さんがため踏み止まり踏み止まり、勇猛の働きをして死んだ。穴山梅雪の一隊は後をも見ず寒防ヶ嶺

を目指して逃げ行くと、一条(信龍)の一隊も散々に打ちなされて敗走した。三河・遠江の勢は勝頼
を討ち止めて高名にせんと喚き叫んで追っ掛ける。馬場美濃は討ち残された手勢20騎ほどをまとめ、

勝頼本陣の大文字の小旗の影が見えなくなったので馬を引き直して、長篠の城際まで取って返した。
馬場のその日の出で立ちは卯花威の具足に錆色の星兜に鍬形を打ったものを着なし、

朱に染まった(血まみれになった)月毛の馬には白覆輪の黒鞍が置かれていた。これに乗って白旄を
胸板の鐶に差し、槍は馬の平首に持ち添え敵に向かって「私は武田家の古老、馬場美濃なるぞ!

各々は私を討ち取って高名にせよ!」と大声で呼ばわり、槍を振るって敵4,5騎を突き落とした。
その後は刀に手もかけずに、塙九郎左衛門直政(原田直政)の郎等・川井三十郎のために自身の首を
授けた。時に62歳。馬場が勝頼に今回の合戦御無用なりと諫めた時、跡部・長坂の両人に向かって

「合戦を勧められる方々は逃げられようとも、諫める某は討死する」と申した言葉を守って、退けば
退けたものをこのように踏み止まって討死せるこそ哀れなれと惜しまぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



彼女は獰猛な牝ライオンのように

2018年10月27日 11:20

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 22:28:54.76 ID:K7WJMRDm
彼女は獰猛な牝ライオンのように


播磨の国の殿(池田輝政)が住む城と御殿に接する異教徒たちが住む町で
悪魔がある女に取り憑くということがあった。彼女は獰猛な牝ライオンのように
家から出て誰も彼女を阻止出来なかった。そしてこの勢いと狂暴さをもって
城に入った。城の女房にさえ容赦せず、ついには無数の狼藉を働いた。
しかしその女房に仕えるあるキリシタン女に出会い、彼女に気づくと悪魔に
憑かれた女は逃げ出し、顔を覆って「キリシタンは恐ろしいものだ」と言った。

女房は腰元(あるキリシタン女)に
「この女はなぜお前から逃げたか」
と問いました。腰元は
「自分が首にかけている守り袋(アグヌス・デイ)のせいだろう」
と答えて、(悪魔に憑かれた)女の上に守り袋を置くと、女は静かになった。
異教徒たちは守り袋を拝むようになり、キリシタンの話を聞くことを望んだ。

その国で受洗した人たちの中に、公方(家康)の息女であるその国の領主の奥方(督姫)に
仕える高貴な若い婦人が二人いた。彼女たちはその御殿の他の女たちが、やはり
以前に行ったように、我らの聖なる教えの真実をよく理解して受洗した。


――『十六・十七世紀イエズス会日本報告集』



同じ忠次でも

2018年10月26日 17:24

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 17:12:32.47 ID:dptUjqFe
長篠の戦いの時、織田信長が「甲州勢は剛強であるので、柵を付けるべし。」と言った時、
戸田三郎右衛門(忠次)も
「私もその様に考えていました。そうやって然るべしと考えます。」
と申し上げた所、信長は叱りつけた

「又者(陪臣)の分際でいらぬ指出である!」

戸田も面目を失った様子であったが、その夜、信長は密かに戸田へこう仰せに成った

「今日の謀、一段と良いものだ。であるがもし敵方に知られてはと思い、わざと叱りつけたのだ。」

そして柵を付けさせ鳶巣より長篠へ出てくるであろう後詰の勢を払うため、酒井左衛門尉(忠次)、
金森五郎八(近長)を遣わせた。
武田勝頼は総勢一万七千の内、千は鳶巣に分け、四千は長篠の押さえとし、残り一万2千にて
瀧川を越えて信長と合戦した。

(武功雑記)

同じ忠次でも信長がわざと叱りつけたのは戸田忠次の方だった、という異説(?)



407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 17:34:16.69 ID:NI1kLOwj
家康の面目も失うことになるからね
フォローいれた信長はさすがといったところ
テルじゃこうはいかん

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:36:45.41 ID:2KVgIAZr
最初の会話の内容と「敵方に知られては~」の部分が矛盾してる気がする
あと酒井の方の逸話でも見た気がするけど織田から見てW忠次が陪臣だったら家康が織田の家臣になるけどそれで良いんだろうか

あれこそ山県である

2018年10月26日 17:22

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 13:28:58.92 ID:gqs82Hyy
(長篠の戦いの時)

大久保兄弟(忠世・忠佐)はこの輩(成瀬正一ら)と一同に柵より外に進み出て、武田の先手・侍大将の
山県三郎兵衛昌景の備に向かい鉄砲を撃ち掛ける。山県も始めの頃は軽卒を出し足軽迫り合いをしていた

が、次第に欺き引かれて堪えかね「あの柵を尽く押し破って進め!」と3千の赤備が一同に押し掛かった。
大久保兄弟は命じて思うままに山県勢を引き寄せ、3百余挺の鉄砲を隙間なく撃たせれば、先頭に進んだ

山県勢は散々に撃ち立てられた。その時、大久保兄弟・渡辺半十郎政綱・同弥之助・光池水之助らは山県
の属兵の広瀬郷右衛門昌房・小菅五郎兵衛元成・三科伝右衛門形幸といった名を知られた者どもと挑み

戦う。広瀬・小菅・三科も言葉を掛けて姓名を名乗り、馬上で突き戦8,9度に及び手負いて引き退けば
半十郎や水之助らは高名をなした。山県はそれには目もくれず3千余騎を手に付けて筋違いに織田勢・

佐久間右衛門信盛の柵を駆け破らんと押し掛かる。そこで信長卿は命じられて柵中より鉄砲を激しく撃ち
立てれば、山県勢はここに人塚を作る程に撃ち殺されたので、山県も堪えかねて引き退いた。

(中略。武田勢は鉄砲に苦戦するも、馬場信房・内藤昌豊が佐久間信盛・滝川一益を柵内に追い、信長は
柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉に命じて横から武田勢を攻撃させ、内藤がこれを迎撃する)

この時、山県は小山田・甘利らとともに撃ち残された勢を立て直して、柴田・丹羽・木下の勢を横合から
まっしぐらに打って掛かれば、柴田・丹羽・木下の人数は散々に突き立てられて敗走した。山県はこれを

追い打ちするかと見えたが、そうはせずにたちまち備を立て直して、徳川家の御本陣に打って掛かった。
御陣からは鉄砲を激しく撃ち立てれば、山県勢はまた撃ち殺される者若干なり。山県は白糸威の具足に

金の大鍬形を打った兜を身に着け、味方が討たれるのをものともせず、なおなお馬を進めたところ、本多
平八郎(忠勝)が「あれこそ山県である!」と命ずれば、筒先は山県に向かって放たれた。その弾が

飛んで来て山県の緩い糸の間から当たったため、山県は持っている采配を口に咥えて両手で鞍の前輪を
抑えてしばらく堪えていたのだが、ついにたまらず馬から真っ逆様に落ちた。味方がその首を取らんと
駆け集まるのを山県の従兵・志村又右衛門が敵に首を渡すまじと駆け寄り、その首を切って引き返した。

(原注:山県を撃ったのは大坂新助という者であると『勇士一言集』に見える)

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 20:06:25.04 ID:8I+DB0d/
>>365
敵に首を渡したくないから切腹した後に…ってのは解るが、戦場で戦闘の真っ最中にもやるのか(困惑

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/27(土) 00:18:52.69 ID:5EgtKHTm
>>368
討ち死にした大将の首を敵に渡せば敵の手柄となり、士気を挙げる材料とされる。
+ 首だけでも持って帰って供養しなければならない。

戦国時代どころか、戊辰戦争までやってた、当然のこと。

名高き兜を敵に取られては如何なものか

2018年10月25日 21:27

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 21:31:02.64 ID:64ZiG2JZ
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は自分の名が記されている武田信豊の母衣絹を初鹿野伝右衛門信昌に取って来させ、小松ヶ瀬で
馬を止めて待っていた。初鹿野が戻ったところで三河・遠江勢はこれを大将と見て雲霞の如く追い掛かる。

勝頼は引き退こうとすれども、馬は疲れて進めない。笠井肥後守高利(原注:四戦紀聞では河西肥後守
満秀とする)がこれを見て馳せ付け馬から飛び降り、勝頼に「これに御乗り下され!」と申せば、

勝頼は「それでは其の方は討たれる!」と申した。その時、肥後守は「命は義によって軽し! 私は主君
に代わって討死します!」と勝頼を自分の馬に乗せ、自身は勝頼の馬の手綱を取って押し戴くと、

その疲れ馬に乗って轡を引き返し、「元弘建武の乱で新田義貞の命に代わって討死した小山田太郎高家が
12代の子孫、笠井肥後守高利! 今日先祖の跡を穢さず主君に代わり討死するぞ!」と追い来る敵を

2騎突き落とし、3騎目にあたる敵と引き組み刺し違えて討死した。これより後は、追う兵も少なくなく
なったので勝頼は静かに落ちて行ったところで、1日の暑気に倦み疲れて信玄より譲られた

『諏訪法性上下大明神』と前立に記してある秘蔵の兜を脱いで初鹿野伝右衛門に持たせたが、伝右衛門も
疲れたので殆ど持ちあぐね、勝頼に断ってその兜を道に捨てた。ところが、その後から来た小山田弥助が

これを見て「名高き兜を敵に取られては如何なものか」と拾い来たり、勝頼に追い付いて捧げた。勝頼は
大いに喜び再びこれを着け菅沼刑部(定忠)の居城に立ち寄り、しばし梅酸で渇きを休めまた乗り出した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:14:04.87 ID:vu86f/YA
名乗り上げちゃったら身代わりの意味ねえな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 11:14:01.47 ID:Vl28NzIX
身代わりじゃなくって殿でしょ?

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 13:18:13.39 ID:9d1JBdE/
>>360
秘蔵の兜を捨てるほど疲れるってのがもう

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/26(金) 00:09:24.10 ID:/rskxWzu
まぁ兜も結構重いからな
信玄より譲られた秘蔵の兜って言うからには結構古そうで
当世具足みたいに軽量化とかあまり意識されてなさそうだし
逃走中って事は兜の一部なり結び緒なりつかんで持ってたんじゃ
なおさら重く感じて捨てたくなるのも判らんでもない

前田利長と七人の鋳物師

2018年10月24日 18:20

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 11:24:10.42 ID:OKsi2wXl
前田利長と七人の鋳物師


慶長14年、前田利長は居城としていた富山城が燃えたため、幕府に許可を取り
同国の関野に城を築くことにし、その周辺を高岡と名付けた。
慶長16年に、利長は近郊の西部金屋から鋳物師七人を招き、免税などの特権と
東西五十間南北百間からなる御印地を与え、鋳物づくりを行わせた。
この御印地が現在重伝建に指定されている高岡市金屋町である。

一国一城令で高岡城は廃城となり城下町ではなくなったが、金屋町は繁栄した。
当初は日用品である鍋や釜、鍬といった鉄器を作り、百姓に貸し付けていたが
仏具の需要が高まってきたことから、天保・弘化の頃に銅器も作るようになった。
現在の高岡は銅器のまちとして知られ、日本における銅器の生産額シェアの
約95%が高岡で作られたものである。

金屋町では、毎年利長の命日とその前夜2日間に渡って”御印祭”を行っている。
元々は鋳物師七人衆が利長に報恩するため、御印地をもらったことを示す文書を
拝んだことが始まりのもので、前夜祭では、鋳物師の作業唄である民謡弥栄節に
振り付けて、千人ほどが踊るにぎやかな祭りとなっている。



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 17:29:13.90 ID:BVEYNKqg
それでオナベの聖地になってるのか

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかった

2018年10月24日 18:19

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:56:21.95 ID:3ItfLnKv
私は昨年の書簡で、豊後の王(大友宗麟)の甥にして婿である土佐の王(一条兼定)が、豊後に於いて
キリシタンと成りしことを報告した。この王は一人の家臣(長宗我部元親)が反乱したためその国を逐われて
豊後に滞在していたが、前の書簡に認めた如くその国に帰り、短期間に国を回復した。

彼は豊後に在った3,4ヶ月間デウスの事を聴き、よく事理を理解する人であったため、多くの質問をなして
キリシタンとなる決心を成すにいたり、しばしば私に洗礼を請うたが、考えることがありこれを延期していた。
そのような中私は下(ximo)の地方巡察に行くこととなり、もし土佐の王が私が帰る前に病に罹り、又は
その国へ帰る事態となれば、府内にとどまるパードレ(ジョアン・バウチスタ)に洗礼を授けるよう
予め定めておいた。

我らの主は、土佐国の大身たちがその国を統治するため、人を遣わして彼を招くに至らしめ給いしが故に、
直に洗礼を授け、彼はその国を悉くキリシタンとする決意を成して出発した。その国に着きて、我等の主の
御加護により短期間に土佐全国を領し、暴君(元親)は多数の兵とともに守っていた主要な一城のみを有した。

王は我等の主が彼に与えた御恵を忘れず、甚だ良き町に立派なるコレジョを建てることを命じ、その町、
およびその他の地において6,7千クルサド(1クルサドは銀40匁に当たる)の収入を得るべき地を寄進し、
又国内の主要なる町々には大なる家を建て宣教師に説教を始めさせた。

かくして土佐の多数の主だった者たちはすでにキリシタンと成らんとせしが、デウスの隠れたる裁断により、
破滅が近づくのを悟った坊主達が努力したため、形成はたちまち一変し、王は一戦において敵に破られ逃げ、
味方の大身の城に入った。王は同所に在って私が臼杵に着いたのを聞き、書簡を託して人を私のもとに
派遣した。書簡の訳文は次のとおりである

『尊師が下より帰られたのを聞き、この家臣を貴地に派遣して私のことを告げ、私のためにデウスに
祈られんことを請はしむ。尊師の出発後、我が臣下の者数人が使いを遣わして私を招き、再び土佐に入国する
途が開けた為、私は尊師の手によって洗礼を受けることを望んでいたが待つこと出来ず、府内のパードレに
洗礼を受けることを請うた。その後私が国に着いて、我等が主デウスの御助により、間もなく
ファタ(Fata・幡多)の城とその町の他は悉く占領した、同所にはトソガミ(tosogami・長宗我部)が
5、6千の兵とともに籠もっていたが、これを守り続ける見込みはなかった。

私は我等が主デウスより受けた御恵を思い、パードレが当国に来るために、直ぐに会堂を建てることとし、
これに大いなる収入を永久に寄進し、国内の他の町々に大いなる家を建て、説教を始めさせる事とした。
臣下の多数は、私がキリシタンと成った後、我等の主より大いに保護を受けたのを見て、キリシタンと成らんと
決心したため、人を遣わして説教を成す者の派遣を請わんとしたが、この時意外にも形成一変し、私は再び
追い出され、今は長島(Nangaxima)の城に在る。

私は今日までデウスに対し不平を述べたことはなかったが、それにもかかわらず、何故にこの不幸が
起こったのか疑惑を持たざるを得ない。我等の主が、もし私が罪人であるため罰し給うたとするなら、
敵は異教徒であり、その主君に謀反を起こした者であり、更に大なる罪人である。この故に、尊師に請う所は
この疑惑を解き、また私一人異教徒の間に居るが故に、デウスの事に関する書籍を送付される事である。

私は一人だが、今日まで日曜日(の礼拝)を忘れた事は無い。当所に、昔山口においてキリシタンと成りたる
トビヤス(Tobias)という盲人が有る。彼と語ることで喜んでいる。

我等の主デウスに、私のために祈り、常に書簡を送り給え。私も又これを成すべし。』

右の書簡に対し返書を送り彼を慰めた。デウスがしばしば、最も愛する者に艱難を与えたもう事を述べたが、
彼はこれにて慰められ、すぐに他の書簡を送り、已に安心し疑惑も懐かず、デウスに祈ることを請うた。

(1576年9月9日(天正4年8月17日)付パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)

一条兼定が宣教師に送った、四万十川の戦いでの敗北を受けての書状の内容である。


「流石に猛将かな」

2018年10月24日 18:18

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 04:42:32.22 ID:9BSVOAEC
(長篠の戦いの時)

また典厩信豊(武田信豊)は度々敵と決戦し勇を振るったが、味方は総敗軍となったので手の者どもも
あるいは討たれあるいは落ち失せて相従う者はわずかに3騎となった。典厩は小桜を黄に染め直した

鎧に龍頭の兜を身に着け、紺地に金泥で経文を書いた母衣を掛けていた。この母衣は信玄の遺言で勝頼
から典厩に譲ったものである。勝頼は土屋惣藏昌恒・初鹿野伝右衛門信昌のただ2騎を従え長篠を落ち

延び三河黒瀬の小松ヶ瀬を渡ろうと思い馬を抑えると、伝右衛門を呼んで「私が典厩に譲った母衣絹の
裏書には『四郎勝頼』という名を記しておいた。もしやこの母衣が敵のために奪われては勝頼の恥辱と

思うのである。汝は後を引き返し典厩にこの事を告げて、母衣を受け取って戻れ」とのことであった。
伝右衛門は「畏まり候」と申して引き返し、典厩に会ってこの事を申した。典厩はこれを聞いて

「某も左様に存じたので先刻母衣を押したたみ、青木尾張守信時に渡しておいた」と申してやがて青木
を呼んだ。その母衣の絹を取って、初鹿野へ渡そうとした典厩の言い様は、「信豊の父・左馬助信繁は

信濃川中島の戦いで信玄のために御身代わりとして忠死した。信豊も出来る限り父・信繁に劣るまいと
数年の干戈の間に粉骨砕身するところをいつの頃にか勝頼に見落とされ、信玄の御遺言で賜った母衣を

戦場で取り返されるとは身の恥、家の恥。口惜しく存ずる」と申した。初鹿野が馳せ戻り云々と申すと、
勝頼は典厩の言葉も耳に入らない様子で、その母衣を取って腰に挟んだ。初鹿野が往来する間に、

勝頼がゆるゆると馬を止めて待っていたのは、「流石に猛将かな」と敵味方ともにこれを感心した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 06:57:36.06 ID:pvYF8ZJA
お坊ちゃんの戯言はスルーの勝頼くん

週間ブログ拍手ランキング【10/18~/24】

2018年10月24日 18:12

10/18~/24のブログ拍手ランキングです!


幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ 17

三人は因幡守家の従縁です 16

もし斥候の者が討たれると、 13
順慶の小姓 12

滝川辰政の履歴 9
この利勝である 8
多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver) 7

【雑談】そいえば、秀秋は 6
宣教師も燻される 6
長久手古戦場と白骨 6

この中でも信友は、 4
下瀬九太夫と茨木兵太 4


今週の1位はこちら!幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだです!
一休さんはねえ、厄介な人なんですよw
ここに出ているのは一休頓智話の一種であり、事実かどうかは何とも言えませんが、あの人、このくらいの事は平気で
やっちゃう人だよな、という印象を持っています。
あの露悪趣味、気に入らない者への容赦ない批判、そのくせ自分の「出自」を露骨に利用し、保身には鋤がない。
そらま直接に関わりのない人にとっては人気も出るなと思います。無責任に見ている分には、面白いですもんw
しかし「関わらざるを得なく成った人」には厄介としか言いようがありません。
あれが「禅」というものなのか、あれも「禅」というべきなのか。
このお話も子供への語り方を示しつつ、一休さんの厄介さを垣間見せている、そんなお話だと思いました。

2位はこちら!三人は因幡守家の従縁ですです!
新聞記事の方は正直、う~んという(;´Д`)、「自分は新聞と同じ速度で古文書を読める」というのを自慢したかっただけではないか
という気持ちも(僕はそんな事できないのでやっかみですがw)
内容自体は新発見でも何でも無いし俗説もいいところですので。ここから話をふくらませるなら、この方向は筋が悪いと思います。
その意味で投稿者の書かれた先代実録のお話は、話のふくらませ方から言っても考察のやりがいから言っても、
非常に良いものだと感じました。ここから、信長兄弟の複雑な関係性、尾張の非常にややこしく入り組んだ、地域勢力と
織田家との関係などにも興味が至りますね。そんな、良いお話だと思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!【雑談】そいえば、秀秋はです!
小早川秀秋は元服後の羽柴秀俊と名乗っていた一時期、事実上秀吉の後継者とされていたらしいのです。
天正16年(1588)4月、後陽成天皇の聚楽第行幸で、織田信雄、豊臣秀長、徳川家康、豊臣秀次、宇喜多秀家、前田利家という
6名の大名が連署した忠誠を誓う起請文の宛所は、金吾殿(秀秋)でした。
それがまあいろいろ有って気がついたら後継者の枠から外され、自身の全く関与しない形で変に秀吉から目をつけられ、
九州やら北陸やらと、地方を転々とする羽目になり、彼が客観的にも「酒でも飲まないとやってられない」状況に居たことは
確かなのでしょう。
強大な秀吉の権力というものに最後まで振り回され続けた豊臣の公達。彼にはどうしても、そんな印象を持ってしまいます。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話が有った時は、そこの拍手ボタンを押して下さいね!
(/・ω・)/

多田新蔵のこと(改正三河後風土記ver)

2018年10月23日 17:17

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 05:08:14.63 ID:eTfwBn7W
(長篠の戦いの時)

本多平八郎(忠勝)は猶も厳しく武田勝頼を追って行くと、岡の辺りの松を盾に取って矢を放つ
敵がいた。本多の郎等・多門伝十郎と蜂須賀彦助は馳せ向かったが、彦助は敵を1人討ち取って

討死し、伝十郎は手傷を負って敵を追い散らした。また味方の軽卒らが1人の敵を生け捕ったが、
雑人かと思って着ている衣類を剥ぎ取って見れば、緋緞子の下帯を身に着けていた。さては只者

ではないなと姓名を問うと多田淡路守満頼の子・三八(新蔵か)であった。信長卿はこれを聞き
なさって、「それでは伯父の葬送の時に火車を切った勇士であるな。私が召し仕おう」と仰り、

長谷川竹丸(秀一)に命じその縄を解かれると、三八はその縄を引き切って近辺にいる者の槍を
押っ取りその辺りに群居する者4,5人を突き殺した。よって竹丸は槍を取って三八を突き倒し、

その首を取って信長卿の御覧に備えた。およそ今日の合戦は卯の刻の始めに押し出し、午の刻の
終わりに武田方は総敗軍とぞなりにける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 14:38:18.02 ID:+GgA7et2
>>354
この時のぶな画を討ち取ってれば…。

【雑談】そいえば、秀秋は

2018年10月22日 17:30

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 20:08:15.54 ID:l6TmlEzq
アル中も広義なら乱心だろうな
当時アルコール依存症なんて知識がなかったらなおさら

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:01:31.74 ID:fQNGXS9/
>>386
知識はともかく、酒の飲みすぎで頭がおかしくなったって例はいくらでもあっただろうに

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:06:18.12 ID:bOTpVV6R
他家の侍に日本号プレゼントしちゃう人とかな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:33:42.13 ID:1TmMPqVb
酒毒って表現はあったね
どこで見たか忘れたけど酒毒に当たって死亡=急性アル中って意味だったはず

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 00:25:09.34 ID:kx6ciQNW
十代前半
北政所「夜な夜な仲間集めて酒盛りするのやめなさい。飲みすぎっ死にますよ」
十代後半
曲直瀬玄朔「黄疸出てます。みぞおちにしこり有ります。めちゃ喉乾くのは肝臓死んでるからです。辞めないと死にますよ!」
二十歳
家臣「酒毒で死にました。」

華麗なる酒人生。十代で肝硬変末期

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 06:49:39.98 ID:yKUCirf5
毛利元就も兄が酒に溺れて死んだかなんかで酒には気をつけろって言ってなかったっけか

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:16:12.39 ID:fLV0Og3E
>>390
これじゃあまりにみっともないから大谷の祟りのほうがマシだわな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:38:06.47 ID:5Fi/S/5C
毎日少しずつ毒盛っとけば酒のせいになるね

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:05:08.05 ID:UEIwRKoO
近衛信尹「昔から飲みまくってたぞ」

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:20:29.91 ID:Wnd/eiZN
まぁ娯楽の少ない時代アルコールの刺激に溺れるのはわかる
阿片とか戦国時代の武将間で広まってたら、とんでもないことなってただろう

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:25:24.50 ID:UbRF9N6P
大麻とかは喫われてなかったのかな

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:41:47.14 ID:9c9gis6s
自生の麻があるのに何故か日本では喫煙は山仕事をしてる人の一部で知られてた程度で一般には広まらなかったらしい

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 00:48:41.90 ID:HJTZraBO
この時代は食中毒で死ぬ人もいるな
毛利隆元や森忠政

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 05:32:53.71 ID:DKmMm+br
そりゃ、誰かに飲まされたお茶で死ぬのもいるしなんでもあり。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 08:35:51.88 ID:DRwuk6d3
如水「鮭が病に悪いなんて知らなかったんや!俺は悪くヌェー」

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 02:29:16.12 ID:GA4N5e0v
>>398
それを考えると秀吉に季節はずれのデカイ桃を献上しようとしたテルは
やっぱ軽率ではあるな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:11:44.67 ID:vu86f/YA
品種改良した桃の炎上商法か

宣教師も燻される

2018年10月22日 17:29

351 名前:名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote![sage] 投稿日:2018/10/22(月) 08:50:39.48 ID:2QB8bUrM
翌日の早朝、(大友家の)軍隊は2レグワ前進して敵に接近することになったため、私はその地方に
在住するキリシタンを訪問するため引き返すことと成った。彼等キリシタンの多くは私が何度か
この地を通過した際に帰依した者たちであって、かつてパードレを見たことが無かったためである。

軍隊は食事が終わると喇叭(法螺貝)を吹き、部将たちはそれぞれ部下の兵士、および行李(資材を運ぶ
部隊)とともに出発した。兵士は皆よく武装し、列を整えて馬上の部将に随い、宿舎を出るや、この宿舎に
火をかけた。

陣営は約1レグワの長さがあり、約30ヶ所に別れていたが、悉く竹木及び藁を以て造られていたため、
またたくまに恐ろしき大火となり、四方は叫喚と煙のため地獄のような様相であった。
しかし軍隊には労働者多数があり、この日の正午には朝焼いたのと同じ宿舎を備えた陣営が、
次の場所に出来るのである。

私は宿舎を焼かれたため希望より早く出発したが、この日、風は私が進む方向へ吹いたため、
1レグワあまりの間、この煙のため苦しめられた。

そしてこの軍隊は行進中も火を放ち、敵の諸村は終日燃えた。

(1570年10月15日(元亀元年9月16日)付イルマン・ルイス・ダルメイダ書簡)

敵も味方も燃やすし宣教師も煙に燻される大友軍



この中でも信友は、

2018年10月22日 17:29

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 16:18:02.48 ID:wL/yqqre
この戦い(長篠の戦い)も未だ半ばであるのに、勝頼の右備の穴山梅雪、本陣の後備の
武田左衛門信光(信堯)ならびに上野介信友(武田信友)らは勝頼を捨てて甲斐

目指して逃げて行く。この中でも信友は、信玄入道の父・信虎が我が子・信玄のために
本国甲斐を追い出されて婿の今川義元を頼み駿府に寓居した頃、かのところで設けた子

である。信友は駿河で成長し、父・信虎と謀を合わせ信玄に内通して今川家の諸功臣を
仲間に引き入れ、ついに氏真を追い出して信玄に駿河を奪わせた。

その功により、今は勝頼の方に扶持されていたところであったが、近年は癩病を患って
面相は変わり人の交わりも叶わず。よって甲斐勢は、「今回は是非幸いと目を驚かす

働きをして花々しく討死することだろうよ!」と頼もしく思ったが、人よりも先に逃げ
出したために諸軍は興さめてぞ覚えける。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



滝川辰政の履歴

2018年10月21日 17:33

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴


滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。

一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
  人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
  蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
  承っています。

一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
  信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
  承った通りに書き付け申し上げます。

一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
  なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。

一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
  太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
  というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。

一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
  転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
  織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
  跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。

一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
  韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
  上野介様に褒めていただきました。

一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
  出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
  おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
  岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。

一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
  なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
  ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。

一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
  暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
  合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
  おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。

一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
  先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
  とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。


――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』

* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
 の子孫という。




379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

順慶の小姓

2018年10月20日 11:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 09:11:19.83 ID:k5oh/zxF
明智光秀が織田信長を弑した時、筒井順慶は光秀と親しかったため、彼は必ず光秀に与すると
人々は考えていた。

池田紀伊守(恒興)は家臣の日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城の三人を使いとして順慶のもとに
派遣させることにした。三人はこれを承って「順慶がもし明智に与するようであれば、我々が刺殺します。」
と申し上げた。紀伊守は
「いやいや、汝らが死ねば私は片手を折られたのと同じだ。」
と、これを制したが、三人は

「順慶と戦した場合、どれほどの手負い討死が出るでしょうか?この三人を以て、多くの味方と
変えるのです。順慶を打ち取れば、光秀も必ず敗北します。」

そう申して順慶の元へと向かった。

筒井順慶は彼等に対面すると
「どうして光秀の不義に与しようか!すぐに信長公の弔い合戦をしよう!」と言った。
それを語る内容は偽りとも思えなかったため、三人は喜んで帰っていったが、その道すがら、
丹羽山城が語った

「今日、順慶が否と言えば刺し殺そうと考え座中をきっと見回した所、彼の傍らにあった
16,7歳ほどの男、順慶の刀を持って居たが、その面魂は只者ではなかった。
私が順慶に飛びかかれば、即座にこの頭を二つに切り割られそうだった。」

これを聞くと日置も土倉も「そうであったか、我らもそう思っていた。」と頷いた。

その刀持ちの小姓は牧野兵太といって、武者修行をして世に聞こえた剛の者であったという。

(常山紀談)


もし斥候の者が討たれると、

2018年10月19日 21:46

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 00:10:42.28 ID:hpo4qwgu
徳川家康がある時、敵方への物見を、甲州衆の内より遣わした。この時、榊原康政は物見の侍たちに向かって
言った

「各々、心得はあるか?このような物見には心得がなくては叶わぬものである。」

斥候の武士は
「委細心得候」と答え、物見をして帰還した。

側に射た人が康政に「あれはどう言う事か」と尋ねた。これに康政は

「もし斥候の者が討たれると、やむを得ず合戦に成ってしまうものだ。敵は大軍で味方は少勢なのだから、
『軽く見て帰れ』との心を伝えたのだ。」

と言った。

(士談)

最初からそのままそう言ってはいけなかったんですかね。


三人は因幡守家の従縁です

2018年10月19日 21:45

淀殿   
375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 04:44:55.46 ID:9DVEMnqs
噂が独り歩きして邪知淫乱とか密通とか不義の子とかボロクソに書かれている淀殿だが
ttp://uploader.skr.jp/src/up10490.jpg 
up10490.jpg

那古野氏側にも庶民の噂話とはちょっと違う淀殿の記録が伝わっている


「浅井備前守長政室信長公の御妹とも因幡守は従弟也
京極若狭守忠高若狭小浜少将の母公浄光院二女
秀忠公御台宗源院様三女
秀頼公の母公淀殿一女
此御三人因繙守は筋違の従弟也」

浅井長政に嫁いだお市の方と因幡守は従兄弟です
故に京極家に嫁いだ浅井氏二女
徳川秀忠に嫁いだ三女
豊臣秀頼の母一女淀殿
三人は因幡守家の従縁です
(先代実録)(岡山県史)


那古野氏は母方が小谷落城時にお市の方達を庇護した織田信次の娘(孫)でお市の方と従姉妹という縁もあり
後に豊臣氏から手厚い庇護もあり二女の智勝院殿は森氏に、四女の大林院殿は各務氏に嫁いだ。


*読売次掲載は松の丸殿(京極竜子)と那古野山三の艶書(不倫)特集



この利勝である

2018年10月18日 19:31

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 16:00:43.03 ID:hz70uM1d
水野信元処断の頃)

信元は讒者のために家国を失い遺跡は絶えてしまったが、女子2人あり。これは女なので子細ある
べからず。この他に2歳の男子あり。これは如何許らんやと家人らも思い煩った。

その頃、水野家に客人と称した女房がおり、この女房は機転のきく者で男子を我が子であると披露
して懐に抱き、浜松に赴いて民間に隠れて養育した。この子は成長に従って聡明英才に見えたので

徳川家外様の侍・土井小左衛門利昌が養い取って子とした。神君(徳川家康)はその由緒を聞こし
召されたのか、天正10年(1582)4月7日、長丸殿(徳川秀忠)の御誕生の時に7歳の

この子を召し出され長丸殿に付けられたのだが、その頃は甚三郎利勝といった。後に追々出身して
下総古河城主となって16万石を領し、大炊頭といって天下大老職に昇ったのはこの利勝である。

(原注:一説によると神君が御鷹狩に出られた時、1人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に
咽び口説き申す事があった。神君はその小児をただちに召し連れられ帰られた。後に土井大炊頭と
申したのはこの子であると、その説に見える)

――『改正三河後風土記』



376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 23:21:15.89 ID:HsflDq2G
>>373
>人の女が小児を抱いて御乗物に向かって涙に 咽び口説き申す事があった。

神君「床を敷けぇい」

下瀬九太夫と茨木兵太

2018年10月18日 19:31

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 21:29:26.72 ID:dTQ+W14S
東国の人である下瀬九太夫という武士が、上方へ上り、しかるべき人が有れば主取りをしたいと考えていたが、
近江で佐々木承禎(六角義賢)に認められ、その家臣と成った。

そうして一年ばかり過ぎたある時、六角家中の人々が寄り集まって様々な物語をする中、茨木兵太という者が
このように申しかけてきた

「九太夫殿は遠国よりはるばると上方まで上ってきたその志、誠に大切なことです。
そうであれば、弓箭の道にも定めて通じられていることでしょう。」

下瀬は答えた
「太刀打ちの勝負、弓法の事などは、侍の身につける基本的な所作ですから珍しいことではありません。
その他の芸がある事こそ大切だと思います。」

それでも茨木は望んだ
「そうは言われますが、兵法弓法は侍の所作なれども、私は不調法で身についていない者ですから、少し
ご指南を受けたいのです。」

「歴々たる御身代をお持ちの貴殿が、どうしてそのような事があるでしょうか。その様に仰るからには、
貴殿は私には無い、珍しきことを様々に身に付けているのでしょう。私こそご指南を望みたい。」

このように少し言いあいに成りかけた所で、側に居た人々が
「わかったわかった、武芸は武士の嗜道と決まっているが、総じて諸芸に付いて善悪の評価は有るものなのだから、
あまりそういう論議をするべきではないよ。」

そう言い紛らわしてその場は止んだのだが、これ以降下瀬と茨木は、表面上何も気にしていないようでも、内面には
心にかかるものが残った。

それから五十日程過ぎて、六角承禎は鷹野に出て終日狩りを行い、そのまま「猪狩をすべし」と、
侍衆三百余人を引き連れ、郷人達を勢子として獲物を追い立てさせ、狩りをしている所、大山の茂みより
巨大な猪が勢子に驚き、峰からまっすぐ下へと駆け下りた。
茨木これを見つけ、良い折だと弓を射たが、猪の前脛の高骨に当たり、矢は空へと蹴り飛ばされた。

猪は矢の当たったことなど物ともせず谷へ向かって駆け下りていたのを、下瀬も見つけ、射掛けた所、
その矢は脇腹を貫き、猪はたまらず岩のある方へ逃げた。

ところがこの時、茨木の者たちが下りてきてこの猪を捕ろうとした。当然下瀬の者たちも下りてきて捕ろうとした事で
互いに口論となり、茨木兵太は駆け寄ってきて、下瀬の者たちを弓で散々に打擲した。
下瀬はこれを見て馬にて駆け寄り、内々に意趣を持っていたため

「いかに茨木殿、猪狩りの法を未だ貴殿は知らないのか!?二の矢にて仕留めた猪を奪い取ろうとするのみ成らず、
私の者たちを打擲までしたこと、奇っ怪である。猪がほしいのなら取らせよう。」

これを聞くと茨木は
「人の猪を奪おうとしたから打擲したのだ!取らせようなどと、誰に向かって言っているのか!」
そう怒鳴るや、二寸七尺の太刀を抜いて打ちかかってきた。
下瀬も抜き合わせ、即座に茨木の弓手(左)の肩をしたたかに打ち付けた。
すると茨木の郎党たちがすかさず寄ってきて、下瀬の腰を切りつけたが、切りようが甘かったか、物ともせずに
平打に打ってまわり、たちまち五、六人を切り捨てた。
しかしそうしている内に、人々が彼を囲み、遠矢にて、まるで雨にように矢を射掛けたため、ついにこれにて死んだ。

(義殘後覺)



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 15:18:31.26 ID:8UF/z1Jw
>>322
この後どうなったんだ、お咎めは…?

長久手古戦場と白骨

2018年10月18日 19:30

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 00:17:52.70 ID:/dVSBscy
長久手古戦場と白骨


長久手原の御一戦から当年(宝暦4年)まで百七十一年。

戦場の小高い所には悉く白骨、平地も貝殻のように砕けているのはみな人骨である。
この一戦で、秀吉方で討ち死にしたのは一万五千人余り
当家(池田家)で討ち死にしたのは一千七百人余りという。
この合戦後三年の間は田地が死人の血油で肥え過ぎたため、稲は実らなかった。
合戦の翌日に、農夫二十人が物を拾いに行って、残らず死んだという。

(中略)

活賀五郎左衛門という者が牛を放してしまい、勝入塚を突き崩した。
拳が出入りできるような穴が二つ三つ空いたが、その中から多くの白骨が
見えたという言い伝えがある。


――『池田氏家譜集成 長久手古戦場聞書』




324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:43.76 ID:Dae3Z85n
物を拾いにいったのはなぜ死んでしまったのだろうか

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 11:50:17.72 ID:u71xBUX7
秀吉方の死者って2000人ぐらいでそ。10倍とまではいかなくても、盛っているなぁ。

幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ

2018年10月17日 17:22

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 02:22:43.06 ID:+jmlmL63
幼児に聞かせる物語でも心得があるべきだ


池田光政様が母君の福照院様のところへお越しになったとき
福照院様が何でもいいから御物語をするようにと仰せられた。
吾(作者、このとき十五、六歳)は、童の時に人から語り聞かされた
後も先もない物語を慰みとして一つ二つ申し上げますと言って話した。

一休和尚が道を歩いていると、道の傍の木の梢に童が一休に小便をかけて
ひどく笑った。一休は腰から銭を取り出してその童にやり
「よくもかようの仕打ちをしたな」
と言って去っていった。その童はよいことをしたのだと思って、人が通ったときに
また同じことをして銭を貰おうと待った。そこに士が通ったので、さっきのように
小便をかけて笑ったところ、怒った士にぶたれてしまった。

一休が利口なので人を使って意趣返しをしたのです、と申し上げると光政様は
「この物語の趣旨はそうではないだろう。一休に誠の志があるなら最初に
 小便をかけられたときに強く叱って、私は出家しているからぶたないが
 他人にかようの仕打ちをしたら命を失うぞ、と教えてやればいいのにどうして
 銭をやり人に仕返しをさせるのか。よこしまな心があったからではないのか。
 かような話が若輩の者の心にかなうはずがない。幼児に聞かせる物語でも
 心得があるべきだ」
と仰せられた。愚耳に留まったので記す。


――『烈公間話』



319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 14:32:15.93 ID:pOFKU+KZ
一休ならありえる話と思えてしまう

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 15:53:08.01 ID:EuvSQKPV
>>318
一休はとんでもない食わせもんだしなぁw

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 16:06:42.37 ID:mXcoWGCT
一休の捻くれ具合を知らんかったんだろうなぁ…

週間ブログ拍手ランキング【10/11~/17】

2018年10月17日 17:16

10/11~/17のブログ拍手ランキングです!


少々不出来なことが有っても、手初めをすれば 16

滝川今の一言天晴な盟主 15

相合元綱謀殺 14
神流川の戦い一日目 12

何條八幡の神体可成 11
鈴張 11
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」 11
成瀬正成、名誉の挨拶 11

広良身に代えても申し助け候べし 9
池田輝政の肖像画、モデルは木像 9
神流川の戦い二日目 9

神流川の戦い、戦後 7
名馬を2頭も貰った滝川さん 7

日本語についての報告 6
世にその勇を称して“鬼勝蔵”という 6
日本人は他の諸国民と、想像の出来ないくらい違っている 6

信長が少女を斬り捨てたのは驚くに足らぬこと 5
穴山梅雪の計略 5
【雑談】最近になって真田信勝という人について知ったのだけど、 2


今週の一位はこちら!少々不出来なことが有っても、手初めをすればです!
多少出来は悪くても雑でも、最初に成した者は評価される。そして一度何かがなされてしまえば、以降はその内容や質が
問われるので評価されにくく成る。現代でもそういう事はよくありますが、この頃からそういう発想があったのですね。
これは島原の乱のお話ですが、古き巧者の話していることですから、きっとずっと前からそうなのでしょう。
人間、結局はそう変わらないものだな、なんて気持ちになります。
戦国時代の逸話に現代性が有るとすれば、人間自身はたいして変わること無く今に至っている。そういう事かなあと思ったりもします。

二位はこちら!滝川今の一言天晴な盟主です!
実は東国における滝川一益の逸話って、みんなかなり立派なのですよね。彼が結果的に敗北したこととは別に、その人格には
東国の人々が敬意を払う何かがあったのでしょう。そういえばこの時、滝川陣営に若き日の前田慶次もいるはずですね。
一益はこの敗北のあとは、復活する足がかりをついに得られず、大名の地位から転落してしまいます。
また一旦は秀吉と敵対しながら、小牧長久手では秀吉に従った挙げ句に家康に敗北してしまいますから、後年の印象も
あまり良くないと言っていいかも知れません。しかし彼の選択には、彼なりの筋は通していたのだろう。そんな気はするのです。
このお話からふと、そんな事を考えました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!何條八幡の神体可成です!
非常に鬼武蔵らしいお話ですね。逸話の中で触れていましたが、織田信長も桶狭間の時、熱田神宮に参拝して銭を十何枚か
投げて「全部表だった!これは勝てる!」なんてやっていますね(実際には全て表面に加工した銭を使った)。
「そうやって兵の気持ちを乗らせるのも大将の仕事」という事なのでしょうが、鬼武蔵はそんな事一顧だにせず、せっかくの
神主の好意を引き裂いちゃいました。こういう所で「勇将だけど良将ではない」と言われてしまうのですが、きっと僕たちにとって
鬼武蔵の魅力が、こういう面であることも確かだと思います。

十週年の日の更新に鬼武蔵の逸話があったのも、何かしら不思議なめぐり合わせを感じました。



そんなわけで十周年も過ぎ、今週も、それぞれの逸話にたくさんの拍手を頂きました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやって下さい!
(/・ω・)/