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仁義の道の奥義

2018年11月30日 20:02

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 01:25:15.74 ID:GU5Ble3X
ある人が藤原惺窩の所へ行、仁義の道の奥義を尋ねたことが在った。
惺窩はそれに直接答えず、何と無く世の中のことを物語し、「人々の身ほど大切なものはない。」という事について
「天下を取るほどの大富貴であるが、これを得るとそのまま死して、子孫へも渡らない、となれば、あなたはこれを
得ようとするだろうか?」

問うた人は
「その場合、どうして天下を得ようとするでしょうか。この身に変えるほどの宝はありません。」

「その志を、他者に施す事を仁というのです。一方で、それほど大切なこの身を、人に頭を叩かれたり、
一言の恥を受けたという事で、忽ちにして死を省みなくなる事があります。それはどうでしょうか?」

「わかります。そのような時、必死となります。」

「その、忍ぶことの出来ない事があるのを、義と云うのです。天下にも変えられない命であるのに、一つのことに
対して死んでも後悔がないという事が、義なのです。」

そう諭したという。

(士談)


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叛臣たちの末路

2018年11月30日 20:02

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 16:35:16.50 ID:Ny+xzMJX
さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい」と願い出た。

ところが信玄は頭を振り「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。数代恩義を蒙った主君を
捨てて叛逆したことを大功と思っているのか。君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、

甥の氏真へ返し渡す!」と、大いに嘲笑って罵った。葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を
経て後に北条氏康へ内通し、氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。

瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、ついに民間に落ち入った。

朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるい
は民間に流浪した。不忠無道の天誅逃れざるこそ恐ろしけれ。

――『改正三河後風土記』



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 20:05:06.68 ID:Xogi4/3p
>>486
信玄を信じてはいかんということか

黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた

2018年11月29日 21:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 19:23:41.98 ID:k9WRVOTA
黒田如水入道は茶の湯を嫌っていた。「武士の道に非ず。なんぞや刀小脇差まで外に捨て置き、
丸腰にて其の会あらんこと、沙汰の限りである。」と言っていた。

ある時、豊臣秀吉が如水を招き、数寄屋にて茶の会があった。如水としても君命辞し難く、その命に
応じた。ここで秀吉は、如水一人を客として、数寄屋にて密事を談じた。これは関白秀次生害の事であったと言われる。
他者が知ること無く、詳細に話し合いをし、終わって退出した。如水はこの時大いに茶の会に大利あることを感じ、
以後数寄の道を趣味としたという。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 23:07:36.70 ID:n4LZlX5q
随分晩年の話だな
それまでに茶の湯に付き合わなきゃならない事なんて山とありそうだが

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:44:07.54 ID:smPpcYRC
これが

黒田官兵衛と茶の湯

の出典か

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 09:47:31.06 ID:smPpcYRC
名将言行録出典だと話はおもしろいけど名将言行録だから…となるけど
山鹿素行先生はどうなんだろ

武田軍、駿河侵攻

2018年11月29日 21:02

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 20:16:21.24 ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月28日 18:53

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 21:54:05.37 ID:x04VAUwX
薩た峠の戦いにて殆どの今川諸将は今川氏真を見限り駿府へ逃げ入り、その後の軍議で存慮を口にしなかった。
その中でも今川随一と人に知られた朝比奈兵衛太夫(信置)は軍議の席へ出座もせず、料理の間の長炉に背中

を向けて居眠りしていた。岡部忠兵衛(土屋貞綱)と小倉内蔵助(資久)らは、この様子を見て不思議に思い、
「兵衛太夫には逆心があるかと見及びます」と、氏真へ告げた。「それには何ぞ証拠ありや」と、氏真が尋ね
られると両人は答えて「兵衛太夫は無双の剛士。数度の名誉を人に知られた身が、今回は武田の旗色も見ずに

一番に逃げ帰ったこと、これ一つ。次に武田の軍勢はすでに当国へ乱入し、事の急に臨み軍議の席にも出ない
こと、これ第二なり。またこの騒動の最中に、当家随一の老臣が具足も身に着けず炉を囲んで座眠りしている
こと。この3ヶ条をもって、不審がないとは言えません。みるからに21人の侍大将は尽く信玄に内通したと

見えて合戦を気遣う様子もなく、敵を恐れる様子をも見えません。兵衛太夫1人を誅戮すれば、残る輩はこれ
を見て懲りるのではないでしょうか」と述べれば氏真ももっともだと得心し、日根野備中守(弘就)ならびに

内蔵助の嫡子・小倉与助両人に命じて、「兵衛太夫にいよいよ逆意の形勢あれば、速やかに討ち果たすべし。
もしもそうでなければ、軽卒な騒擾を起こしてはならない」と指示を加えた。両人は畏まりやがて料理の間に
来ると座睡している朝比奈の側へ立ち寄ったが、朝比奈はまったく用心する様子も見えず。日根野は小倉を

差し招き、「朝比奈に逆位があれば我ら両人の形勢を見て少しは用心するはず。しかし、さらさらその様子も
ない。この上は朝比奈は逆心にあらざるか」と言う。小倉は聞いて「私もそう存ずるので軽卒な振舞いをして
はならない」と相談し、氏真へその有様を告げた。その間に兵衛太夫は密かに座を立って宿所へ帰り、

弟の金七郎に向かい「私は今日、ようやく虎口を逃れて帰ったのだ。その故は日根野備中守と小倉与助は両人
で我が身の側に立ち寄り、しばらく佇み立っていた。その様子は事ありげに見えたので、必ず主君の命を蒙り
秀盛(信置)の形勢を窺い見て、もし私に怪しい体でもあれば、討ち果たそうとする様子だった。

秀盛はこれを推察して、もしもこちらで用心の体をすれば身の災難は逃れられないと心付き、わざと知らぬ体
で座眠りしていた。それを見て両人は不審の顔色で立ち去ったのだ。今や陰謀の露見は程近い。そうなったら

甚だ危うい。私は速やかにここを立ち退く。其の方は私めの人質を盗み出してどこかへ落ち行かせよ」と申し
含めて、兵衛太夫はその夜に逐電した。氏真はこの事を夢にも知らず、重ねての軍議をするとして宿老どもを
召し集めると、秀盛はすでに逐電したと聞こえて氏真は呆れ果て、とかくの沙汰にも及ばなかった。けれども

21人の宿老どもは各々が敵への内通露見を恐れて、皆が武田に従った。秀盛の弟・金七郎は兄の人質を盗み
出して逃げたものの、これを聞いた氏真が大いに怒って手分けして追い掛けさせれば、金七郎は取り逃したが
人質は取り返して来た。このため氏真は諸人を懲らしめるためとして、かの人質の首を刎ねたのであった。

――『改正三河後風土記』


週間ブログ拍手ランキング【11/22~/28】

2018年11月28日 18:47

11/22~/28のブログ拍手ランキングです!


謙信の武勇などいか計りの 11

それをくびきる今福浄閑にも 11

三越同盟 10

氏真はこの事を夢にも知らず 9
中川秀政の討ち死に 9
姉川勝利 9

秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をして 8
秀吉「皆々ここに居よ!」 7
名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか 7

只今ほど通りやすい事はありません 6
快く信玄に遠江を賜るべし。 6
おそらくこれが信長であった 5
皆々家一つで育った片口者なので 5


今週の一位はこちら!謙信の武勇などいか計りのです!
佐々成政という人、甫庵信長記では、例の浅井長政や朝倉義景の金箔ドクロの宴会の後、信長に対して諫言しています
(別にドクロの件ではない)。何で成政が、おまえ信長公記じゃ信長の暗殺未遂事件起こしてるのに!なんて思ったりも
するわけですが、彼に関して、良く言えば誰に対しても物怖じしない、悪く言えば身の程を知らない、という印象があったのかも
しれません。この逸話も「謙信何するものぞ」という意識が強く出ており、それはある意味武将として必要なものなのでしょうが、
人格が鞘走りしている危うさも感じさせます。
逸話は同時代、あるいは後世の人達の感じていた「印象」を保存している、とも言えるのかなと思います。

今週は同票でもう一つ!それをくびきる今福浄閑にもです!
このお話、多分文字面だけを追うと、色々納得の行かない所が出てくると思うのですが、この手のものはやはり、
「誰が言うか」と「誰が聞くか」が大切なのだと思います。法興和尚はこの短い話の中からも、今村今福浄閑をはじめ
武田家の武士たちに尊敬されていることが見て取れます。また和尚が今福と親しく、彼のことをしっかり理解していることも
把握できます。そういった双方の関係性を前提として、この説法(これに限らないのでしょうが)は成り立つのでしょう。
そんな事も考えさせてくれた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をしてです!
秀吉が佐々成政を寝室に呼び入れたお話。
当時、寝室という最も無防備な場所に入れるというのは、相手に全幅の信頼を寄せている、という意味合いがあり、
これもそういうお話では有るのですが、紅梅色の布団にビロードの枕という、実にけばけばしいアイテムを用意しているあたり、
まあ色々解釈もできるのでしょうけど、やはり一義的には成政をビビらせようと思った、という所かなと思ってしまいます。
こういう事を、硬軟取り混ぜてというのかどうか。秀吉という人の感性は、難しいw



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が在りましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をして

2018年11月27日 17:11

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 16:26:27.35 ID:3QZcjrrA
佐々成政は越中に在城して秀吉に敵対したが、秀吉の軍が越中に侵攻すると、やむを得ずして降を乞い、
剃髪して編綴(軍事や行政文書をまとめたもの)を著し出仕した。

この時秀吉は紅梅の色の布団を敷き、天鵞絨(ビロード)の枕をして仰向けに寝て、成政をその御座所に
召し出し、良き分別なりと笑談し、色々懇ろをつくし、越中一郡(26万石)を与えた。

(士談)

変に雰囲気のあるベッドルームに寝たまま成政を招き入れる秀吉。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 00:24:45.02 ID:n4LZlX5q
これがそこらの大名だったら尻の危機を感じるところだが
秀吉だからその辺は安心だな

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 14:27:22.27 ID:k46ENbCe
藤吉郎にこんな態度取られて、どんな気分だったろうな

氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月26日 17:46

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 18:14:09.89 ID:ZB80nPSy
(薩た峠の戦いの時)

永禄11年(1568)11月6日、信玄は3万5千余人を引き連れて甲府を出軍し、下山通を経て由井八幡坂を左に
見なし、長坂を越え宇津総というところへ日数7日で押し付けて松野に陣を取った。信玄にかねがね内通する今川方の

諸将へ「いよいよ忠勤を励むべし。恩賞は望みのままであろう」と申し送った。氏真はこの事を夢にも知らず、信玄が
出軍したと聞き「さらば出向かい蹴散らさん!」と人数を催した。先陣の庵原左馬進忠宗と同安芸守忠胤は2千余騎で

薩た峠を前にして陣を取った。2陣は岡部忠兵衛長宗(土屋貞綱)・小倉内蔵助直次(資久)が7千余騎で八幡に陣を
取る。総大将・今川氏真は2万5千余騎で清見寺に備えていた。今川家一族や旧好の宿将老臣かれこれ21頭は

総じてその勢3万4千余。「股肱金鉄の勇士どもも今日を大事と兜の星を輝かし、具足の袖を連ねて雲霞の如く列して
いるから、今川と武田の雌雄を決する大合戦、さぞやいかめしき事であろう」と敵も味方も固唾を飲んで今日を最期と

思っていた。そこへ信玄方先手の旗の手が見えると、そのまま後陣に備えている今川方の朝比奈兵衛太夫秀盛(信置)
は早々に陣を払い駿府へ逃げ帰った。これを見て瀬名陸奥守親隆(氏俊)とその子・中務大輔氏範(信輝)や三浦与一
義高・葛山備中守氏信(氏元)、ならびに武田陸奥守信虎が駿府で設けた上野介信隆(信友)らを始めとしてかねがね

信玄に内通する侍大将21人の輩が同じく評議したことには「氏真の暗愚ではとても駿河・遠江領国を長く守ることは
できない。ついには織田・徳川両家のために切り取られるよりも、かねがね信玄が所望の如く信玄に授けて、その功を
もって我らは恩賞に郡邑を数多申し受けよう。これこそ家名を失わずに富貴を得る妙計である」と評議一決して各々

駿府へ逃げ入った。数代恩顧の老臣がすでにこの如くなれば、前後に隙間なく居並んでいる諸軍勢は氏真を顧みもせず、
しばらくの間に我も我もと逃げ帰り近辺に人ありとも見えざりけり。先陣の庵原左馬進と同安芸守が後ろを振り返って

見ると、後陣はにわかに群れ立って引き退くかと見えたので「これはいかがしたことぞ! 八幡辺りに控えている味方は
堪えているか見て来い!」と使者を遣わすと、やがて馳せ帰って「この近辺にいた味方の勢は1人も見えません!」と

言った。庵原は聞いて「それではこの勢だけでは武田との合戦は叶わない! ひとまずは駿府へ引き返し、重ねて軍議を
定めて合戦する!」と申し、21人の老臣どもを召し集めたところ各々別心を企てたのかもしくは武田勢に恐れたのか、
一言も存慮を申し出す者もなく途方に暮れた有様であった。

――『改正三河後風土記』



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 20:24:40.17 ID:542rKWP7
信玄視点だとまさに戦わずして勝つを体現したいい話かな
氏真視点だと眼も当てられないが

謙信の武勇などいか計りの

2018年11月26日 17:45

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 17:40:01.92 ID:KK3kfl/4
佐々陸奥守成政が越中の守護職であった時、彼は越中外山に在城していた。

何保という所に、菊池入道と号す者があり、彼は元は長尾(上杉)に属し、現在は佐々に随心して、我が子を
成政の傍に使わし、常に外山に出仕して、越中の昔のことなどを物語した。

ある時、酒宴たけなわで成政も興に乗じている時分、常にもてはやしていたナマズの盃を取り出し、これに
酒をつがせ飲むと、次に菊池入道へさした。入道三度これをかたむけ成政へ返し、腰に挿していた脇差、これは
波平であったが、それを捧げ

「慮外ながら献上仕る。これはかつて長尾(上杉)謙信より受納した物ですが、どうか謙信にあやかり給うように。」

そう言ったところ、成政は大いに怒った

「何事をあやかるというのだ!?謙信の武勇など、いか計りの事があるというのか!」

入道を怒鳴りつけ、脇差を投げ捨てた。入道はこれに

「武勇のことではありません。謙信は九ヶ国の管領でありました。ですので、果報いみじくましますように、との事です。
この入道も老耄して、酒興故にこのような事をしました。この脇差はどうぞ御小姓衆へ。」

と、酌に立った小姓に遣わした。これを見て成政も機嫌が直り、「小姓どもへのあやかり物としては丁度いい。」と
言って笑った。

(士談)



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:12:47.85 ID:Yfv/hYw6
佐々成政はほんと状況読めないし小物だし…
なぜ没落したのかがよくわかる。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:35:45.98 ID:bNDBxVrQ
>>474
切れた上司に対するフォローがすげえw即興でこんな返しができるようになりたい…。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 15:13:01.25 ID:T+B7ABYS
魚住城攻めで勝家と大喧嘩したんだっけ

只今ほど通りやすい事はありません

2018年11月25日 17:23

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/25(日) 17:11:20.22 ID:wok7f2q1
安房里見義康の重臣である正木将監(頼忠)は関ヶ原の陣の折、当時里見家の妻子方が因幡国に在ったのを
見届けるため、下人五、六人を召し連れ関東より上った。この事について朝比奈喜左衛門という人物が、
「只今の騒動に、軽き体にて海道を通られるとは、奇特なる事と存じ候。」と、殊の外誉めたのであるが、
これに対して正木将監は

「いや、只今ほど通りやすい事はありません。何故ならば、天下を望む治部少輔が、私のような者を一人
打ち留めて、却って里見に恨みを含ませるような事はする筈がないからです。」と申した

(武功雑記)


秀吉「皆々ここに居よ!」

2018年11月24日 12:45

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 12:23:25.48 ID:813OVVpG
小田原の役の時、山中城攻めの陣において、秀吉が鉄砲の音を聞いて驚いた表情を見せた。
しかし直後、これを印象が悪いと思ったのか、「皆々ここに居よ!」と一人城方へ近く寄り、
鉄砲が激しく撃たれている場所で小用を成した。

(武功雑記)

秀吉は何かと言うと立ち小便だな



528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 22:42:36.84 ID:p6QSydTI
失禁してもバレないからな

それをくびきる今福浄閑にも

2018年11月23日 21:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 23:56:06.49 ID:gS7QotLX
甲州武田家の譜代衆で高位の侍であった今福浄閑は、若い頃より試しものを良く斬る人で、しかも上手であり、
据え物を斬ってその頸が落ちる時、脇差で傷口を貫き、地面に落ちる途中ですくい上げるほどの手練であった。
ためし物の上手であったため、武田家中の侍衆は大身、小身共に浄閑にこれを頼まぬ者はなく、其のようであったので
47,8歳までに千人も斬ったと噂されが、実際にも百人から二百人は斬っただろう。

ところがこの人はどうしたわけか、その子供が幾人も病死していた。しかしながらこの今福浄閑は参学などして
心も才知勝れた人物であったので、下劣な批判に取り合わず、子供が死ぬのも不昧因果(因果をくらまさない)と申し
少しも取り合わなかった。

ある時、信州岩村の法興和尚が来られた時、今村浄閑も彼の元を訪問した。法興和尚は浄閑へこう言った
「そなたは良い歳であるのに、ためし物の罪作りをしているのは勿体無い。」
浄閑は申した
「私が斬っているのは、囚人の科が斬らせているのです。」

法興も「それは尤もである。」と答え、暫く間をおいてこのような事を頼んだ「今福入道よ、この囲炉裏へ
炭を入れてくれないだろうか?」

「畏まって候」そう浄閑が炭を持ってきて囲炉裏へ入れようとすると、和尚は言った
「大きな炭を火箸で入れるのはどうだろうか?名にし負う武田幕下歴々の今福入道なのだから、指で持って
炭を入れてほしい。」

この浄閑と言う人は又、興のある人物で諸芸に達し、能などする時、古保庄太夫などと立ち会っても浄閑の方が
上手であるという程の人であったため、炭をいかにも面白く囲炉裏へ入れた。

そうして彼が立ち退く時、その手を拭った。これを見た和尚が言った「今福入道は、どうして手を拭うのか?」

「今の炭にて汚れたのです。」

「その炭を焼いた炭焼の手も汚れていただろう。」

「炭焼は炭を作り取り出すのですから汚れるのは当然です。今は炭を取った手が汚れたのです。」

これを聞いて法興和尚は
「では先刻、その方のためし物となる人間には科があると言ったが、それをくびきる今福浄閑にも罪があるのではないか?」

この教えにより、今福浄閑はその後、ためし物を斬ることは無くなったという。

(甲陽軍鑑)



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 05:35:26.28 ID:Kw2DX8n0
家に帰ったらまず手洗いうがいの始まりか

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:28:47.65 ID:cAkTgeNM
>>523
良い説法だ

快く信玄に遠江を賜るべし。

2018年11月23日 21:19

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 02:56:40.72 ID:/Iaku1z0
義昭将軍が帰洛されたために畿内はようやく静謐の如くなったものの、諸国はますます擾乱して一日片時も静かならず。
その中でも甲斐に武田信玄、越後には長尾謙信、相模に北条氏政、駿河に今川など互いに険要の地に割拠し、各々国境

を争って干戈はまったく止む時なし。今川氏真は昏愚闇弱といえども父・義元の武威は残り、譜代の被官や武功の輩は
多いため駿河・遠江両国を失わず。武田信玄は父の信虎を追い出して家国を奪ったほどの無道人なれば父子の大倫さえ
知らず、ましてや舅甥の情をどうして弁えることだろうか、甥の氏真の家国をも侵略せんと年来謀計を巡らせた。

そこへ父・信虎が駿府を逐電し京都へ赴くとして掛川の満福寺より内通し「今川氏真は昏弱にして譜代古老の輩は怨み
を含み、二心を抱く者がいる」と告げてきた。信玄は大いに喜び、氏真の老臣である瀬名陸奥守(信輝)・葛山備中守

(氏元)・朝比奈兵衛太夫(信置)などといった随一の侍大将どもへ賄賂を贈り交わりを厚くして語らった。その内に
利を求めて欲に耽る輩は甲斐へ内通する者数多あり。その後、信玄は初鹿野伝右衛門(信昌)を駿河へ遣わし氏真方に

申し送ったことには「三河の徳川は父の広忠の時より今川殿の幕下に属して代々恩義を蒙ったが、いつしか大恩を打ち
忘れて尾張の信長に属するのみならず、今川殿所属の城々ここかしこを攻め取って今は遠江へ手を出さんとする形勢

である。その勇威に恐れて、今川家重恩の被官どもは徳川に降参する者も少なからず。只今の如くならば、近年の内に
遠江を徳川に攻め取られるのは眼前である。さりとて、いまの今川殿の弓矢をもって徳川に敵することも覚束ない。

座しながら徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし。そうすれば信玄は遠江を
手に入れて日を置かずに大軍を発し、三河を攻め取って今川殿の怨みを報じよう」とのことであった。氏真は聞いて

大いに憤り、使者の伝右衛門を呼び出すと「信玄の遠江所望はまったく心得られず! その身は奸智貪欲にして、甥の
氏真の所領を奪わんがために巧言をもって欺くとは親戚の道に背いている! 遠江を徳川に渡すことはかねがね氏真が

覚悟するところだ! 信玄の奸計など無駄である! 汝は帰ってこの旨よくよく入道に申し伝えよ!」と返答して、
早々に伝右衛門を追い返した。信玄はこの返答を聞いて大いに怒って「氏真のような乳臭の小児が、なんと無礼の

甚だしいことか! それならば徳川と和睦し、後ろを心安くして駿府を攻め取らん!」と、やがて山県三郎兵衛昌景を
岡崎に遣わし「今より後は両家長く誼を通じて大井川を境とし、遠江は徳川殿の御手柄次第に切り取り給うべし」と
申し送った。神君も、もっともであると御同意の御返答をされた。

――『改正三河後風土記』



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 10:09:32.49 ID:GJCxuqZg
氏真の低評価ぶりが酷い

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:26:00.44 ID:cAkTgeNM
>>463
>徳川に遠江を取られて他家の所領とされるよりは、快く信玄に遠江を賜るべし
無茶苦茶な要求過ぎて草

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 15:42:23.83 ID:UlX5qNJK
領土野心ないならいい条件だと思うけどな
徳川からの防波堤になってくれる申し出
断るのはアホでしょ

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 01:26:15.31 ID:3nUGGM6I
どうみても遠江だけでは済みません本当に(ry
まぁ戦国時代なんて力の強い奴は無茶な要求してくる訳で
それが嫌なら力を持つか降参するかって話だな

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 11:57:34.49 ID:p8OrvtZN
信玄「わしは海が見たかっただけなんじゃ…」

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/24(土) 12:39:41.80 ID:g58iGVCm
>>463
ハルノブ・ノート

中川秀政の討ち死に

2018年11月23日 21:18

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 10:19:09.75 ID:OgYlCKSq
中川秀政の討ち死に


中川秀政は父・清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にした際家督を継ぎ、その後も
秀吉配下として各地を転戦し、摂津国三木13万石を領する大名となっていた。
文禄の役でも弟・秀成と共に三千余りの軍勢を連れ肥前名護屋に参陣した。
秀政は渡海し守備についていたが、10月24日水原城の辺りで鷹狩をしようとした。

秀政は家臣からの
「今は敵兵が四方の山々に満ちているのに、軽々しく鷹狩をするのはいかがか」
との申しに従わず、甲冑の上に狩装束を着て連れ行く兵にも具足で武器を持たせた。
しかし鳥を驚かせないために、付いて行く者は皆徒歩で馬は五、六町後に引かせた。
鷹狩で鳬(ケリあるいはカモ)、雁の類を、数多く捕らえたという。

その時日本の雑兵二、三百人が薪取りか刈田にでも出てきていたのだろうか
朝鮮人に追い立てられ、散り散りに逃げていた。
秀政はそれを遥かに見て
「彼の者どもを目前に討たせては、後日の嘲りを遁れることが出来ようか」
と言って笠を脱ぎ捨て半月を打った冑を付けて、馬に乗りただ一騎にて馳せ入った。
付いていた兵は徒歩の鎧武者なので、心は逸ったが後に続くことが出来なかった。

秀政は伯耆安綱が打った二尺七寸の太刀を持ち、真っ先に出てきた七尺余りの敵を
左の肩先から乳の下まで斬りつけると、馬から倒れ落ちて死んだ。
続いて金子寛という敵が組み付いてきたので、(秀政は)太刀を捨て共にもつれながら
馬から落ちた。
(秀政は敵を)押し伏せて首を掻こうとしたが、脇差が弓手(左手)の方に回って
取れなかったので、下にいる敵の剣を抜いて二度刺し通し大将を討ち取った。
「続けや者ども」
と秀政は呼びかけたが、傍にいるのは雑人ばかりで物の用には立たなかった。
付いていた兵も未だ駆け付けられず、その間に近くにいた敵が半弓から毒矢を放ち
秀政の脇壺を射った。痛手を負ったものの、(秀政は)その敵と組み合った。

この時ようやく五、六人の兵が駆けつけ、草履取りの市蔵が毒矢を放った敵を引いて
柳原源蔵がこれを斬った。
横田九左衛門光成、田島傳助、村治五郎大夫などは群がる敵を斬り殺した。
その間にも、兵が駆けつけたため敵兵は悉く逃走したという。

それから秀政を引き起こすと矢柄が中の方へ折り曲がっており、矢を抜いたものの
箆(矢の棒の部分)だけ抜けて、鏃は中に残ってしまった。
(脇壺は)急所であり深手だったが、ようやく水原城に(秀政を)運んだ。
(秀政は)同日の暮に卒した。享年二十五歳。
遺骸は城の傍らに葬り、目印に桜を植えたという。


――『中川家譜』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 01:55:28.03 ID:oszB9Hdo
>>465
秀政の死については天正20年12月6日付中川秀成宛秀吉朱印状で触れてるね
秀政が部下を連れず単独で敵の番所へ視察に出て待ち伏せに逢い
その時の傷がもとで死んだと報告を受けた秀吉が軽率過ぎると激怒してる

姉川勝利

2018年11月22日 18:15

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 02:44:20.60 ID:hd5SfMHy
(姉川の戦いの時)

浅井長政も叶い難く小谷を目指して敗走すると、味方は矢島郷の尊照寺・田川辺りまで追い討ちした。安養寺
三郎左衛門経世(氏種)は生け捕りとなり、信長の前に引き出された。信長はかねてよりその名を

聞き知っておられたのでその命を許され、「私はこの軍威に乗じてただちに安養寺に案内をさせて小谷を攻め
ようと思うがどうだ」と問われた。安養寺は答えて「長政は今日は敗走したといえども、父の下野守久政の勢
1,800ほども備えて城を守っていますので、軽々しく押し寄せなさるのは御遠慮あるべきでは」と言った。

信長はその言葉をもっともであるとして、「小谷はまたのことにしよう」と安養寺を助命し、そのうえ願いの
ままに小谷へ送り帰しなさった。かくて今日討ち取った敵の首を数えると3,170級。多くは徳川勢の討ち
留めたところである。信長は神君の大功を感心されて、

 今日の大功は殊更に言うまでもない。前代に比類なく後世の誰が雄を争えようか。当家の綱紀にして武門
 の棟梁というべきものである。(今日大功勝て言う可からず。前代比倫無し。後世誰か雄を争う。当家の
 綱紀武門の棟梁と謂う可き也)

以上の感状に長光の刀を添えて進上された。この刀は光源院将軍(足利義輝)の秘蔵でその後に三好下野入道
謙斎(政勝)が所持した世に優れた名物である。(原注:『柏崎物語』にこの時、信長より源為朝の用いた

矢根を進上され、御当家で槍にされたと見える)その他氏家・稲葉・伊賀の3人(美濃三人衆)も横槍の功を
賞して感状を賜り、諸手の将卒の勲功も漏らさず褒美なされ、姉川で勝利の凱歌を奏せられた。

姉川の戦い大勝により信長は頻りに礼謝の言葉を尽くされ、神君は御勢を引き連れられて三河へ凱旋された。
信長はただちに横山城を囲んで攻めなさった。大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭などは
随分と防戦するも叶い難く、ついに城を渡して小谷に引き取ったため、ここは木下藤吉郎秀吉に守らせ、

姉川で討ち取った首は京都へ遣わして、義昭将軍の実検に備えて六条河原で梟首せしめた。京都では「ああ、
おびただしい首かな」とこれを見る貴賤ともども驚嘆して肝を潰したということである。信長は7月に至り
軍勢を進めて、磯野丹波守(員昌)が籠る佐和山城を囲み攻められた。この城は険阻な要害の地であり、

丹波守はさる老練の宿将で防戦の術を尽くしたので容易に攻め取り難く、そのうえ織田方の軍勢は打ち続いた
合戦で人馬も大半が疲れたため「この城はまた攻めるとする」と城の近辺に獅子垣を結い回し、鳥居・本口・
百々屋敷に向かい城を取って丹羽五郎左衛門(長秀)に守らせ、北方の尾末山に市橋九郎左衛門(長利)、

南方の佐渡山には水野下野守(信元)、西の彦根山には河尻与兵衛(秀隆)などと定め佐和山を押さえさせて
信長は入洛なさり、義昭将軍に謁して姉川の戦い勝利のことを告げられ、7月8日に岐阜城へ帰られた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞・織田真記)』


おそらくこれが信長であった

2018年11月22日 18:14

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 20:25:38.67 ID:ucCeN/Yq
明智日向守が本能寺に押し寄せ、その軍勢が織田信長の御座所まで入った時、日向守の家臣である
天野源右衛門、鑓を持って縁へ上がると、鴨居に兜を当てて尻餅をついた。そこに森乱丸が鑓で源右衛門の
外腿を突いた。その後乱丸は内へ入ったが、源右衛門立ち上がり、障子越しに人影を見てこれを突いた。
おそらくこれが信長であったのだという。

(武功雑記)



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 22:08:46.32 ID:sPYXC3wR
確かこの人はこの後に森長可の部下になるんだよな
そして信長と同じ日に死んだ

皆々家一つで育った片口者なので

2018年11月22日 18:12

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/22(木) 13:45:43.46 ID:kEbWa5TN
皆々家一つで育った片口者なので


若原右京は(池田家臣の)若原勘ヶ由の甥にあたり、関ヶ原の戦で功があった。
段々出世し禄四千石になり、中村主殿と共に国政を執って過分の威勢を持っていた。
国清公(池田輝政)が薨じた後、右京と主殿は奢侈に流れて仕置もよくないと
関東に伝わったので、神君(家康)はとてもお怒りになった。
それにより安藤対馬守(重信)、村越茂助(直吉)両人が上使として姫路に来たる。
時に二(三)月十五日、池田の御一族ならびに老臣物頭どもの列座にて、右京と主殿の
御不審のことなどについて御穿鑿があった。

第一に、右京は四千石の身上で騎馬の士を百人召し抱えているのは甚だ不審である。
第二に、良正院殿は神君の御女であり、その御腹の君達は御孫である。しかし右京は
良正院殿を初め幼君達に対し、無礼過分の振る舞いがあったこと。
第三に、池田の一族、歴代の家老どもを差し置いて、おのれ一人威勢権柄を振るい
諸事ほしいままに執り行ったこと。
この条々について申し分があるかと、村越安藤両人が上意として申し渡した。

右京は承って

「上意の如く心馳せの浪人どもに、後々三左衛門(輝政)直参として召し出されると
 申し聞かせ、優れた百人を自分で召し抱えたことは確かです。これは三左衛門が
 当国を拝領したとき莫大の御恩を忝なく思い、内々思うところがあったのでしょう
 当地は海陸肝要の所でその上関東より御心懸けがある国なので、とりわけ大切だと
 その任に当たるべき者を選ばれ、国法軍法を拙者一人に申し付けられました。しかし
 小身では叶わないからと加増をすると、家老初め譜代の者が恨み憤ることは必至。
 そのため蔵入五万石の地代官に申し付けられ、知行代わりとして心のままに取り
 計らうように命じられたからなのです。浪人どももそのために召し抱えていました」

「第二に、奥方子息などに無礼慮外を仕ったとありますが、これは三左衛門が奥方の
 暮らしが華美に過ぎるときは家の破れる元である、子息の方も同じことだ、左様の
 ことがあれば遠慮なく取り計らうよう、内々に申し付けられたからです。大御所様の
 御姫君、御孫であっても、過分の御振る舞いがあるときは恐れながら諌めましたのは
 確かです。武州(利隆)は別腹の惣領で、左衛門督殿(忠継)は当腹の愛子、その次々の
 子息の方も同じことですが、ややもすれば武州を越えて若輩が奢り、全てのことが
 過分になったときに異見をし、差し止めたので無礼と聞き及びになられたのでしょう。
 不敬と言い立てる程の事柄は、露ばかりもございません」

「第三に、一門家老どもを踏みつけたとのことですが、上意の如く池田出羽(由之)は
 池田の嫡家で一城の主、その他家老どもも多くは城主郡主です。このような一門譜代の
 歴々が国中の仕置などに召し使う才略があれば、それが一番よいことだったのですが
 皆々家一つで育った片口者なので、その任に付けるのは難しかったものですから
 三左衛門の思いのままに、国政軍法を某に申し付けられましたのは周知のことです。
 これについては何の子細もございません」

と申したところ、丹羽山城入道(右京の親戚)が末座より進み出て
「上使の御前にて高声無礼である」
と叱ると、右京は(丹羽の)眼を見て
「なんだ徳入、無礼とは何事か。亡き殿が御在世のときに我に対して、左様のことを
 言い張るべきなのに、今更出てきて我を折檻する方が無礼だ」
と言ったので、丹羽は言葉もなく引き下がった。

右京の申し開きは悉く立ったが、国政に相応しい者ではないと、将軍家は播州から
右京を御改易にし、主殿も同罪になったという。


――『池田家履歴略記』

右京が改易になったせいで、加増や召し抱えが反故になった士も多かったとか。


三越同盟

2018年11月21日 16:45

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 20:07:43.88 ID:nigKKgzI
(姉川の戦い勝利後)

神君(徳川家康)はこれより先に今川氏真の媒介で越後の上杉謙信と音信を通じられたが、この年7月下旬
に至り、遠江秋葉の別当・加納坊光幡とその婿・熊谷小次郎直包を使者として越後に遣わされ、これからは

ますます仰せ合わされたいとの旨で、浜松御城の図・太刀・馬代金10両を贈られた。謙信は大いに喜んで
「今の世に“海道第一の弓取”と伝えている徳川が、私めの武略を慕って使節を送られた事は謙信にとって
これ以上ない大慶である」として両使に引出物若干を与え、徳川家の老臣に書簡で返礼した。

その文によると、

 追って真鳥羽(矢羽に用いる鷲の羽)20尻を、これまで通りに任せて差し遣します。誠に些少の至り
 ではありますが、未だ申し通じてはおりませんので、一筆啓達します。さて、家康よりよくよく使僧を
 遣わされ、これ以上の大慶はありません。これからは無二に申し合わせたいとの心中ですのでよろしく
 取り成しを頼み入ります。なお子細は口上させます。恐々。

   8月2日  謙信在判

     松平左近丞殿

甲斐の信玄方へは翌年に至り越中の椎名肥前守からこれを告げ知らされたので信玄は大いに嘆き苦しんだ。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』


名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか

2018年11月21日 16:43

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 19:32:26.29 ID:nigKKgzI
・佐々木六角左京太夫入道承禎とその子・弾正少弼義弼(義治)は観音寺城にあって箕作城へ敵が押し寄せれば
後詰して救おうとかねてより思い設けていたが、美濃三人衆がその道筋を取り切ったのでどうすればよいかと心
を苦しめた。そこへ箕作城は落城して和田山城も開け退いたと聞こえ、今や防戦の頼みもなく興ざめていた折に

織田家の大軍が勝ちに乗じて観音寺城に押し寄せると聞こえて承禎父子は大いに狼狽し、ついに堪りかねて城を
落ち失せ、甲賀の山中に逃げ入ったのである。入道父子が落ち失せたと聞けば、承禎がかねてより設けて置いた
国中の城々18ヶ所は一夜のうちに尽く落去した。織田殿の武威は破竹の如く、1日の間に近江を切り靡き

13日に観音寺城に入り給えば、国中の輩は皆々が降参して人質を献上し、柴田修理亮(勝家)・森三左衛門
(可成)・坂井右近(政尚)・蜂屋兵庫頭(頼隆)などへ命じられ、功を賞し罪を罰し、国法を沙汰された。

・さてさてこの度、佐々木六角承禎が大軍を有し数多の城々堅固に備え、国は富んで兵は強くありながら僅かに
一両日も支えられずたちまち没落したことは代々将軍家に不臣の乱逆挙動をした天罰ではないかと世上の評する
ところである。その故は常徳院義尚将軍の時にあたって大膳太夫高頼の子・弾正少弼定頼は武命を蔑如し上洛も

なさず、そのうえ将軍家近付きの御家来たちの領地を侵略した。常徳院は御憤りあって、長享元年(1487)
9月、近江鈎の里まで御動座されて3年まで攻め給えば、定頼は叶い難く甲賀の山中へ逃げ隠れた。明応元年
(1492)8月、恵林院義稙将軍が常徳院殿の御志を継がれて再度近江へ御動座された時もまた甲賀山中へ

逃げ入って頭をも差し出さず。永正5年(1508)6月、恵林院殿が周防国山口より大内義興を供奉し御上洛
された時には、定頼は細川左馬頭政賢・三好奇雲斎(之長)などと一味して京都へと攻め上り、これを阻まんと
するが打ち負け近江へ引き返した。光源院義輝将軍が北白川に城郭を構えておわした時は、今の承禎入道が大軍
を引き連れ京都へ乱入し、光源院殿を追い出し奉った。天文16年(1547)7月のことである。

また永禄8年(1565)に三好・松永が乱逆を振舞った時も内々承禎はその与党であったので、義昭が矢島に
おわして、しばしば御頼みあっても表では了承しながら内々では三好・松永と謀を通じて義昭を亡きものにせん
とし、今度の義昭上洛の道をも遮り留めようとした。

このように代々不忠不臣を振舞ったので数代の名家が一朝に失われたのも天命の然らしむる所とぞ知られける。

(原注:案ずるに足利殿は有力の人を頼んで怨敵を滅ぼして後に、またその功ある者を嫌って他人を頼み、その
功臣を滅ぼすことをもって代々の家風とされ、その旧轍を改めず。義昭は信長の功を忌み嫌われて朝倉・武田・
北条などを頼んで信長を滅ぼさんとしてついに天下を失うに至る。佐々木六角は攻められれば甲賀の山奥へと

逃げ入って、敵が去る時には首を差し伸ばして自国へ立ち帰るのを万古不易の謀計と代々思っていたのである。
よって今度も甲賀へ逃げ入ったが、時代は変じてその誼もまた異なり、ついに再び旧轍を踏むことはできずに
長くその家を失ってしまった。琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失う類は古今少なからず。

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか)

――『改正三河後風土記』


週間ブログ拍手ランキング【11/15~/21】

2018年11月21日 16:41

11/15~/21のブログ拍手ランキングです!


嘉明家中の者迄みな、前帯に 17

加様の時ばかり、又市又市とばかり 14

6月28日姉川合戦・徳川勢 13
武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する 12
江州の滑者共さこそあらめ 11

御心強く御談合候へ 7
勇士・真柄十郎左衛門直隆父子 7
早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ 7

大将は何処におわしますぞ 6
はや笛を吹くように 6
人の馬は猶以嫌 5
その血は神君の御刀にそそぐほど 5
「さらば掛かれ!」 3


今週の1位はこちら!嘉明家中の者迄みな、前帯にです!
まあセコイですよね。しかも地味に。キャラには合っている気がしますがw
しかしこの手の妙な戦国いざという時ワンポイントアドバイス、手拭い大好き藤堂高虎さんが有名ですが、加藤嘉明にも
この手の逸話が有るという事は、秀吉、というか羽柴家取り立ての人々には、割とこういう細かい日常(?)でつかえる
技術を考えたり教えたりしたがる、アイデアママみたいな特性があったのではないか、なんてことを妄想したりすると、
割と面白い気がしますw

2位はこちら!加様の時ばかり、又市又市とばかりです!
同じ様な話として人の馬は猶以嫌も紹介されていますが、
この小栗又市も安藤さんもこんな事言いながら大阪の陣では非常に奮戦し、両者結局、その時の負傷が元で死んでしまうわけです。
それを知った上でこれらの逸話を読むと、なんとも不思議な感慨を持ってしまいます。
確かに三河者は、面倒くさいですね。面倒くさい本物の戦士たちなのだな。そんな気持ちになる逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!武士は病に依りて死せず、戦争に於て死するです!
非常に生々しく、戦国期の京都の有り様が描かれていると思います。朝廷権力が朝廷と武家に分裂し朝廷権力が衰退し、
更に武家券力も分裂するというあたり、中世日本の権力の流れを大変良く理解していると感心sます。よほど日本の歴史に
詳しい人物からレクチャーを受けたのでしょう。
それにしても、最後の「武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する爲め生まるる者なりと信ぜり。」という言葉、
実際に誰か、或いは複数の武士がそう言ったのでしょう。ここからは近世葉隠の一節、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の
精神の源流を感じたりもします。
非常に興味深い内容だと思いました。



今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました、いつもありがとうございます!
また気に入った逸話が有りましたら、そこの拍手ボタンを押して下さいね!
(/・ω・)/

御心強く御談合候へ

2018年11月20日 17:05

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 16:47:24.31 ID:fBT/H7FH
羽柴秀吉が明智日向守(光秀)を誅伐した後、近江長浜にて柴田勝家その他当時の大名衆寄り合い(会議)が
行われる事となったが、この時、何れの宅にてか秀吉を殺すべし、との陰謀があった。

大名たちが会議に参集する時、これを聞きつけた有馬法印(則頼)は現地へ駆けつけ、
「何れもどこにお入りになったか?」
と尋ねた所、「何れも二階座敷に向かわれた」と聞くと、そのまま二階へ駆け上がり、梯子の下の段まで参ると、
法印は「筑前殿(秀吉)!」と呼びかけ
「御相談を承り、ここ迄参りました!御心強く御談合候へ!」と、いかめしく梯子を踏み腰を掛けてそこに留まった。
このような事が有って、その座で秀吉を殺すことはできなくなり、この法印の忠義を秀吉は後々まで御感あった。

(武功雑記)

清須会議のエピソードですが、何故か舞台が長浜城に


大将は何処におわしますぞ

2018年11月19日 11:21

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 02:57:32.31 ID:CTrXDgYx
(姉川の戦いの時)

遠藤喜右衛門(直経)は昨夜浅井長政の前で軍議があった時、「某は味方が万一敗軍と見れば敵軍に
紛れ入り、信長と引き組んで討ち取るべし!」と申したが、果たしてその言葉の如く首1級を携えて、

「この首を実検に入れたいと思うなり。大将は何処におわしますぞ」と言いながら信長の本陣近くに
進んで来たのを竹中久作(重矩。半兵衛の弟)が見咎めて引き組み、遠藤を切って首を取った。

遠藤の郎等・富田才八、その他に弓削次郎左衛門・今井掃部助も引き返して討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 19:26:00.30 ID:VZBn70rG
>>452
神風特攻…

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 00:25:20.12 ID:IhX79kpM
そこまで追い込まれてたんだね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/21(水) 03:32:06.45 ID:t6PeB9XF
姉川って互いに3倍以上多いほうが崩されてるのが面白い

人の馬は猶以嫌

2018年11月19日 11:19

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/19(月) 10:58:13.61 ID:8WENTLh0
>>450と同じ様な事例

大阪の陣の時、安藤治右衛門に、徳川家康が何方かへの使いを仰せ付けた所、
治右衛門は「馬がくたびれており出来ません(馬草臥候間罷成間敷)」と申し上げた。
松平越中守が「私の馬を貸そう」と申した所、
治右衛門「人の馬に乗って行くことは猶嫌です(人の馬に乗申て行事は猶以嫌)」
と言ったという。

(武功雑記)

大阪の陣の段階でもこんなのばっかりか


加様の時ばかり、又市又市とばかり

2018年11月18日 22:11

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 09:55:08.45 ID:HHO290R9
小栗又市は、駿府城の火災の時に奥方の御番を申し付けられていたが、避難のための門を開けるのが
遅かったため、御古茶という末の女中が、大勢が逃げる中踏み殺された。この責任により改易された。
当時、知行二千石であった。
大阪の陣の時再び召し出され、五百石を与えられた。

さて、御陣の時、彼は御使に遣わされることになったが、徳川家康は絵図を見ながら
「又市、これからこう参れ」と指示した。しかしこれに又市は「私の馬がくたびれており、参ること出来ません。」
と答えた。
これに本多佐渡守(正信)が、「私が馬を貸しましょう。」と言ったが、又市は

「人の馬を借りて行くのは嫌だ。その上こんな時ばかり、又市又市と仰せになる。何もくれないくせに!」
と言った。
(人の馬を借てはいやなり。その上加様の時ばかり、又市又市とばかり仰られ、なにもくれもせいでと云。)

(武功雑記)

なおこんな事言いながら「若い使番は俺と違って遠くからしか観察しないから役に立たない。」なんて言い放つほど
しっかり仕事していた模様。ちなみに大阪夏の陣で敵に接近しすぎて銃撃を受けその傷が元で翌年死んだ。


「さらば掛かれ!」

2018年11月18日 22:09

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/18(日) 16:06:44.95 ID:0sQ0peas
(姉川の戦いの時)

これより先に織田方先陣の坂井右近(政尚)は敵に姉川を越させまいと遮ったが、浅井の先鋒・磯野丹波守(員昌)や
その他に高宮三河・大宇大和・山崎源八郎・前田信濃・蓮台寺常陸など5千余騎が突いて掛かった。坂井は小勢ゆえ

突き立てられて嫡子の久蔵16歳や郎等百人ほどが枕を並べて討死した。右近はこれを知らずに味方の陣へ引き取った
のであった。2陣の池田勝三郎(恒興)も散々に切り崩された。浅井方は切り誇り勝ちに乗じて阿閉・上坂を始め

7千余騎が一足も引かぬと突いて掛かる。木下(秀吉)・森(可成)の備も敗れて、整々堂々たる13段の備は11段
まで切り崩され、信長の旗本も大いに騒動してすでに危うくなった。これを神君は御覧になって「さらば掛かれ!」と

御命じになり、越前勢を追い捨てて浅井勢の中に馬煙を立てて喚き叫び駆け入り給う。稲葉伊予守(良通入道一鉄)は
今朝から徳川勢の後陣に備えて手を虚しくし口惜しく思っていたので、良き幸いと同じく馳せ入り突いて掛かった。

横山城の押さえとして備えている氏家卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)の3千余騎も横槍を入れ、徳川勢と双方より
激しく攻め立てれば、浅井長政も力を尽くして戦うもついに戦い負けて総敗軍となった。神君は歯噛みをなして衆人を

励まし命じられれば大久保七郎右衛門(忠世)・本多平八郎(忠勝)・酒井左衛門尉(忠次)・小笠原与八郎(信興)
などは先を争って奮戦した。青山虎之助定規はこれより先に討死す。また浅井方では浅井玄蕃(政澄)・磯野丹波守・
阿閉淡路(貞征)が取って返すも、ついに戦い疲れて玄蕃と淡路は引き退き、磯野は手勢3百ほどで

群がる敵を打ち破り佐和山の居城へ引き取る。浅井雅楽助・同斎之助・加納次郎左衛門・同次郎兵衛・安養寺甚八郎・
同彦六郎・細江左馬之助・早崎吉兵衛・上坂五助・同弥太郎・同次右衛門などは討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


はや笛を吹くように

2018年11月17日 22:11

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:53:39.97 ID:A7XhWLUJ
太閤秀吉が名護屋において井筒の能を自身演じられ、井筒が陰に隠れる中入りで、装束を変えているその時に、
朝鮮より兵粮のことについて申し来たため、それぞれに運送について申し付けた。

このためかなり時間が経ち、秀吉は「中入りからあまりに引き述べてしまった以上、ただ出ていく訳にはいかない、
はや笛(テンポの早い笛)を吹くように!」と申し付け、その早いテンポに乗って再び舞台へと現れた。

(武功雑記)

中断の空気をBGMで変えた、と言う感じなんですかね


その血は神君の御刀にそそぐほど

2018年11月17日 22:11

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/17(土) 14:35:48.11 ID:QBvZ1LDM
(姉川の戦いの時)

この戦いの半ばで、誰かは分からないが朝倉方の者が御本陣に紛れて神君(徳川家康)に
近寄ろうとしたが天野三郎兵衛康景と加藤喜右衛門正次が怪しみ2人でともに討ち取った。

その血は神君の御刀にそそぐほど御近くでの出来事であった。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する

2018年11月16日 17:55

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 17:32:58.59 ID:r88jfdPt
日本の島は六十六ヶ國に分れ、昔時は悉くダイリ(内裏)と称する君主に服従し、此君の下に
公方と称する軍隊司令長官(征夷大将軍)ありしが、互に争ひ司令長官は全國を領し、主なる君に服従せざるに至れり。
而して更に分裂し、各國の長官起ちて主なる君にも司令長官にも服従せざるに至れり。

主なる君(正親町天皇)は当都にあり、尊大にして地を踏むこと能はず、若し地を踏めば廃せらる(天皇が禁苑外
に出ないことか)。彼は少しも兵力を有せず、之が爲め常に困窮せりと難も諸人に尊崇せらる。但し服従する者なし。
軍隊司令長官(足利義輝)も都に在り、少しの兵力を有すれども頭を挙げて其地位を回復する程度に非ず。

此の如き状態は四百年来の事にして、頭なき爲め平和安寧なく、各人其兵数と勢力に應じ、各國を領す。
是彼等間に絶えず戦争ある原因なり。
彼等は大に武器を重んずるが故に其値甚高し。五千クルサドの値のものもあれど少数にして、千クルサドのもの
之より多く、五百クルサドのものは多数あり。短剣も又千クルサド、千五百クルサドのものあり。其他は値低し。
予が今之を述ぶるは如何に武器を尊重するか示さん爲めなり。
武士は病に依りて死せず、戦争に於て死する爲め生まるる者なりと信ぜり。

(一五六四年七月十五日附、都發、パードレ・ガスパル・ビレラよりポルトガルのパードレ、イルマン等に贈りし書翰)


勇士・真柄十郎左衛門直隆父子

2018年11月16日 17:54

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 01:00:27.56 ID:d9pkbY3b
(姉川の戦いの時)

“北国無双”と聞こえし勇士・真柄十郎左衛門直隆父子は、両人とも衆人に抜きん出て働いた。十郎左衛門は
向坂式部と渡り合い、草摺の外れを一槍付かれながらも式部の兜の吹返を打ち砕き、あまる太刀で槍を打ち

落とした。式部の弟・五郎次郎が助けに来たが十郎左衛門はその太刀を打ち落とし、あまる太刀で五郎次郎の
弓手の股を薙ぎ据えた。その弟・六郎五郎吉政が進んで来る。六郎五郎の従者・山田宗六が、我が主人を討た
せぬと進むと、十郎左衛門は宗六を手の下に切り伏せた。その間に六郎五郎は十郎左衛門を掛け倒して

首を取った。十郎左衛門の嫡子・十郎三郎直基(隆基)は青木加賀右衛門(重直)の子・所右衛門一重と戦う。
所右衛門の郎等1人が掛け塞がったところを、十郎三郎は郎等が太刀を上げるよりも早く首を打ち落としたが、
所右衛門は鎌槍で十郎三郎の馬手の肘を薙ぎ落とした。

その間に朝倉孫三郎(景健)は危うき命を助かり、虎御前山まで引き取ったのである。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/16(金) 10:44:39.78 ID:pzw7m1wd
匂坂だと思ったら向坂とも書くのか

嘉明家中の者迄みな、前帯に

2018年11月15日 12:11

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 08:22:13.81 ID:wfNGKXgM
加藤左馬殿(嘉明)が密かに家来に物語した事によると

「事を競って居る時は必ず、帯を前に結ぶべし、後ろで結んではならない。
伏見で大地震が有った時、太閤(秀吉)は如何遊ばしたかと、何れもがご機嫌伺いに
走った。この時私よりも足早に行く者があり、彼に行き負けるのも口惜しいと考え、
人混みの中でそっと、かの者の帯の結び目をほどいておいた。
すると彼は門を入った途端帯がほどけ、刀脇差が地に落ち、これを拾い上げ帯を
結び直す間に、私は先に駆け抜けた、という事が有ったのだ。」

この事以降、嘉明家中の者迄みな、前帯にいたしたという。

(武功雑記)



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 09:58:54.02 ID:0DfYpmTa
刀と脇差だけでよかったな
ボトム全部脱げて下帯丸出しにならなくて

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 11:49:41.15 ID:ZMC6mAH2
これがあるから三斎様は下半身露出しないふんどしを開発したよな