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嘉明家中の者迄みな、前帯に

2018年11月15日 12:11

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 08:22:13.81 ID:wfNGKXgM
加藤左馬殿(嘉明)が密かに家来に物語した事によると

「事を競って居る時は必ず、帯を前に結ぶべし、後ろで結んではならない。
伏見で大地震が有った時、太閤(秀吉)は如何遊ばしたかと、何れもがご機嫌伺いに
走った。この時私よりも足早に行く者があり、彼に行き負けるのも口惜しいと考え、
人混みの中でそっと、かの者の帯の結び目をほどいておいた。
すると彼は門を入った途端帯がほどけ、刀脇差が地に落ち、これを拾い上げ帯を
結び直す間に、私は先に駆け抜けた、という事が有ったのだ。」

この事以降、嘉明家中の者迄みな、前帯にいたしたという。

(武功雑記)



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 09:58:54.02 ID:0DfYpmTa
刀と脇差だけでよかったな
ボトム全部脱げて下帯丸出しにならなくて

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 11:49:41.15 ID:ZMC6mAH2
これがあるから三斎様は下半身露出しないふんどしを開発したよな
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6月28日姉川合戦・徳川勢

2018年11月15日 12:10

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 01:25:00.65 ID:AH/VRodr
(姉川の戦いの時)

28日の暁に信長が敵陣の様子を見られると、浅井勢は8千ほどが野村に備えて東にあり、朝倉勢1万5千ほどが
三田村に備え西にあって姉川を境に陣を取っていた。信長は徳川殿に使者を立て「昨夜軍議を定めたが、我が恨み
は浅井にあるので私が浅井を討つ。徳川殿は朝倉に向かわれよ」と申し送った。酒井左衛門尉(忠次)がこれを

聞いて「味方はすでに浅井に差し向かっています。今にわかに陣備を立て替えようとすれば隊伍は乱れましょう」
と申せば、神君は「浅井は小勢、朝倉は大勢だ。大勢の方へ向かうは勇士の本意である。とにかく織田殿の仰せに
任せる」と御返答されてその使者を返し、にわかに軍列を立て直し西北に向かい直された。

(原注:『柏崎物語』によると南は横山、東は伊吹山と草野山の間より姉川は流れ出る。堤26丁程の高岸なり)

(中略)

徳川勢先手が弓鉄砲を放ち掛けるのを見て越前勢大将・朝倉孫三郎(景健)が「この手の敵はわずかな小勢なり!
打てばたちまち破れるぞ!」と命じれば、平泉寺の衆徒は心得たと徳川勢に切り掛かり、姉川を追いつ返しつ戦う。
折しも6月28日の極暑であり、馬汗や人汗は流水に異ならず。浅井方では磯野丹波守(員昌)がこれを見て、

「越前勢は早くも槍を入れたるぞ!」と呼ばわり、西南に向かって千5百の勢を押し出した。越前勢大将の朝倉
孫三郎が味方を離れて百騎ほどで平泉寺の僧らが力戦する横合から切り掛かり、徳川勢を追い払わんとするのを
見て、御本陣より本多平八郎(忠勝)が急いで馬を馳せて、雷の如く駆け来たるとこの敵を突き破った。

大久保兄弟(忠世・忠佐)と安藤彦四郎直次も同じく馬で馳せ来たりて奮戦する。朝倉孫三郎も激しく命じ諸軍を
進めて敵を川の向こうへ追い立てようとした。石川伯耆守(数正)は姉川の中ほどで返し合わせ、大塚甚三郎は敵
の槍を引き合ったが、ついにその槍を奪い取って敵を突き伏せ首を取った。この功により“又内”という名を賜る。

内藤正成の子・甚一郎正興(正貞)は槍を敵中に落としたので馬を乗り戻し、その槍を取って帰って来た。この時、
朝倉後陣の勢と浅井勢とがひとつになって進む。神君は御覧になって「これでは織田方は利を失うと見える。旗本
より敵の備を崩し掛かれ!」と御命じになり、本多平八郎は「畏まり候」と槍を引っさげ朝倉の1万余騎の中へ

喚いて掛かる。本多豊後守(広孝)を始めとして徳川勢は「平八討たすな!」と一同に3千ほどが突いて掛かった。
松井左近(松平康親)は左手を鞍の前輪に射付けられながら、その矢を抜いて敵を射倒した。松平甚太郎(家忠。
東条松平家)16歳は良く戦った。朝倉方は魚住龍門寺(左衛門尉)ら8千余騎が御本陣を目掛け突いて掛かると

大久保忠勝の子・新八郎広忠(康忠)を始め大久保党やその他に小栗又一(忠政)・服部一郎右衛門などがこれを
迎え打ち高名す。その中でも大久保権十郎忠直は敵の槍を奪ってその敵を突き伏せ首を取った。よって“荒之助”
という名を賜る。この時、神君の御下知あって、榊原小平太(康政)・本多豊後守に「敵の横を打つべし!」と

命じられた。小平太が左右を顧みると前方に水田あり。底は砂石で渡れるので、小平太が馬を乗り入れたのを見て、
豊後守とその子・彦次郎康重や渡辺半蔵(守綱)・本多三弥(正重)・水野太郎作(正重)も進み突戦す。小笠原
与八郎(信興)も進み戦えば、その手の者の渡辺金太夫・門奈左近右衛門・吉原又兵衛・伊達与兵衛・

中山是非之助など(姉川七本槍)も勇を振るう。越前勢はついに敗北して小林瑞周軒・黒坂備中守(景久)・前波
新八郎・同新太郎・魚住龍門寺などといった主だった輩が討死した。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


江州の滑者共さこそあらめ

2018年11月14日 19:13

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:37:54.35 ID:Kme0DLVB
永禄11年(1568)9月7日、足利義昭上洛のため六角承禎父子を討伐するべく織田信長は大軍を
催して近江へ出陣され、同8日、平尾村で人馬を休められる。11日には愛知川に着陣し、その近辺を

放火なされた。さて敵地に入ってみれば佐々木六角父子の設けた砦が数ヶ所あったが、織田殿は「諸塁
には目もくれてはならぬ。箕作・和田山両城を攻めよ」と手分けを定め、その後に宿老どもを召し集め

箕作城を攻める手立ては如何するかと評議された。坂井右近政尚が進み出て申すには「箕作と和田山の
間はさほど遠くはありません。敵もきっと互いに図り合って助ける手立てがあることでしょう。

幸いなことに、浅井備前守(長政)は味方であります。まずは和田山を浅井に押さえさせてしかるべき
でしょう」とのことで、織田殿も「もっとである。浅井はこの国の住人にして案内者であるから浅井に

箕作と和田山の間に陣を張らせて、和田山城を押さえさせよう」と仰せになり、佐々内蔵助(成政)と
福富平右衛門(秀勝)両人を浅井方へ遣わしてその旨を命じられると、浅井は「某父子はともに箕作

に向かい戦功を励みます。いかに織田殿の仰せであるとはいえ『和田山城の押さえをして手を虚しくし、
人の戦いを見物ばかりして日を暮らします』と申すことはできませぬ」と返答した。両使が帰って

その旨申せば、織田殿は重ねて両人を使者とされて、「浅井父子はそれならば急ぎ箕作城に攻め掛かる
ように」と仰せ遣わされた。浅井は承り「織田殿の御勢が攻め掛かる時は、某も引き続いて攻め掛かり

ます」と返答した。両使は立ち帰って来ると「近江第一の猛将と聞こえる浅井父子ですが、返答の鈍さ
からは近江侍の武勇の程が思い知られます」と申した。織田殿もこれを聞き給い、

「近江の浮かれ者どもはそんなものだろうよ」(江州の滑者共さこそあらめ)と打ち笑いなさり「それ
ならば我が手の者どもにこの押さえを命じる」と、美濃の三人衆といわれる氏家常陸介

(直元入道卜全)・稲葉伊予守(良通入道一鉄)・伊賀伊賀守(安藤守就)に、和田山の押さえを命じ
られ、また「箕作城の形勢を見て来い」と柴田修理亮(勝家)・森三左衛門(可成)・坂井右近の3人
に扈従・馬廻の侍5百余騎を添えて遣わされた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 12:42:34.27 ID:bQ2xyhE3
姉川で備を突き崩されたのはこの時の近江弱兵の先入観が出来てしまったからだろうか

早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ

2018年11月14日 19:12

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 06:39:43.95 ID:Kme0DLVB
箕作城の物見に出た森三左衛門尉・坂井右近将監は敵方の足軽と交戦し、敵80余を討ち取る。かくて
信長卿が仰るには「首途は良し。魁の勢は尽く愛知川表へ引き取り、観音寺に向かって鶴翼に陣を取れ」

と柴田に仰せ付けられ、各々主だった人々を召されて「なんといっても、出征の印が無くては叶うまい。
箕作城を攻めようと思うがどうだ。皆々計らい申すべし」と仰せになれば、坂井右近将監が進み出て、

「箕作と観音寺の間は少しばかりの距離の様に見えます。佐々木父子は目の前にいるというのに、なぜ
これを捨て置くべきでしょう。まずは観音寺を押さえる御手立てこそしかるべきです」と申せば、

信長卿は「幸いにも浅井備前守にとって近江は自国である。さぞ案内を知っていよう。『かの両城の間
に割り入って押さえられ、箕作城を攻められよ』と使者を遣わしてはどうか」と仰せになり、各々は

「もっともです」と申した。そこで佐々内蔵助・福富平左衛門尉が参り、「浅井方にこの事を申せ」と
命じられ、両人は急ぎ馳せ向かってその旨を申せば、浅井も家老の者どもを召し寄せて評定したのだが、

どうしたことか御返事を申しかねる様子のため、両人はやがて心を定めて「これはどうにもならないな
(罷成候まじ)」と馳せ帰ってその旨申し上げると、信長卿もさぞ不快に思し召されたろうが、今回は
浅井と初めての御見参でもあるし、特に君臣の睦みも未だ物慣れていないので打ち笑いなされて、

「それならば我が勢をもって両城の間へ割り入らせて、承禎父子を押さえさせよう。備前守には箕作を
攻めさせよ」と重ねて両人を遣わされた。ここで信長卿はのたまって、「かの大変のろまな浅井の所存

ならば同城どちらにせよ矢は受けるだろう。(彼大ぬる者の浅井が所存にては、両城何れも矢はうけ候
べし)その上で尽くして早く早く評議せよ」と仰せになり「ただいま攻められなされ」と申す者もあり、

「いやいや夜に入ってから攻められてしかるべきでは」と申す者もあり。信長卿は内々夜に入って攻め
ようと思し召していたのか、「日中に攻めれば城中の兵どもの多くは漏らさないだろうが、坂井の申す

通りと同じく思う。皆々支度を致し、夜に入ったら攻めるべし」と軍中へ触れさせ給う。そこへ佐々・
福富が馳せ帰り「なかなか(浅井は)申し上げるまでもなし! 美濃・尾張の者の他には、勇猛の者は

おりませぬ!」と怒って申す他もなかった。信長卿はかえって両人の気分を労わろうと思われたのか、
「私もまたそう察して早くも軍伍を定めたぞ。心安く思い候へ」と、御心良さげに仰せになった。

――『甫庵信長記』



442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 14:51:12.18 ID:p3uXClc3
>>440
最後に怒ってる部下をいたわるのが良いなぁw

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 04:05:32.41 ID:fNoTZAMW
ボロカス言ってるけど地理的には浅井は重要な味方だからな
今後も度々使者に立つであろう両人の機嫌が良くないと
以後のやり取りで思わぬトラブルを産む事にもなりかねないし
信長一流の細かい気遣いという事か

週間ブログ拍手ランキング【11/08~/14】

2018年11月14日 19:05

11/08~/14のブログ拍手ランキングです!


この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故 17

細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る 13

そんな秀吉の元同僚 12
扇でお顔をしたたかに打って 11
奈良の鹿 10

伊予の身において誉れとすべし 9
三田村の後殿 9
御父 織田弾正忠殿 8
春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様 7

小筒も、用いる所によって利があり 6
信長は手早き大将なので 6
これに宗矩が返し 6
手ひどき合戦には不合と見へたり 5


今週の一位はこちら!この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故です!
まあなんと言いましょうか。まさしく「三介殿のなさること」ですねwしかし信雄も信雄ですが、信長も甘いですね。
小さな枕を投げるしか出来なかったとは。戦わせた所で相手が信長の息子相手に無茶なことできないのも重々わかっていた
はずです。家康なら息子に、こういう時に本気でぶん殴りに来る補佐役付けるのに、などとも思いましたが、忠輝の例とか
考えるとそれもケースバイケースですかね。
それにしてもこの「殿」って、誰なんでしょうねw

二位はこちら!細川忠興、結城秀康に行列の先を譲るです!
さすが忠興、実にソツがない。このお話を見て、秀康と伊達政宗の、このお話を思い出しました
結城秀康と下馬しない伊達政宗・悪い話
こっちは怪我を言い立ててまで意地でも下馬しない政宗で、なんとも彼らしいお話なのですが、秀康という、立場的に
色々難しいところにある人への接し方にも、各大名の個性が現れている、なんてことも思いました。

今週管理人が気になった逸話はこちら!御父 織田弾正忠殿です!
これも、有名なものですが、将軍が自分を補佐する重臣を「御父」と呼ぶのは前例があり、足利義政が幕府政所執事の伊勢貞親に
対してそういう扱いをしていますね。まあこのコンビで文正の政変、そして応仁の乱に至ってしまうわけですがw
そこを下敷きにして考えると、義昭が信長に求めていたものの生々しさを少々感じてしまいます。
義昭はこの時、幕府三管領の一つ、斯波武衛家の家督継承も求めています。それによって、畿内の細川、畠山とともに、三管領
体制の復興を図った、なんて評価もされますが、斯波家を継ぐということは、その斯波家から独立していた朝倉を、信長の配下に
させるか拒否するなら戦うか、という事に、自動的になってしまいます。そういう事を義昭も信長も解っていて、虚々実々の
やり取りをしていたのではないか。そんな事を考えてしまいます。
足利義昭研究は昨今盛り上がっており、信長と共に、新しい義昭像も次々表れてくると思います。
僕もそれを楽しみに待ちたいと思っています。


今週も琢団の拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

そんな秀吉の元同僚

2018年11月13日 21:16

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 00:32:10.68 ID:ZVjC4cpg
日下部兵右衛門は、元は尾張の織田信長の家臣であったが、秀吉が未だ藤吉郎と称していた頃、
信長の命により、二人は堤の奉行をした。この時秀吉は褒美に預かったが、日下部には褒美がなく、
そのため信長の元を立ち退いて徳川家康に仕えた。

彼は関ヶ原の戦いの後、山城国伏見に在番した。この在番の間、常に下々に三度の食を食わせ、
自分の馬に鞍を置き、わらんず(草鞋)を傍に置いて、下々の者たちには身ごしらえを致させた。

彼は普段からこう言っていた
「もし不慮のことあれば、一番に城の大手に乗り出して討ち死にを遂げ、武士の職分を守り、
潔く死を善道に守ること以外は必要ない。」
自身も常に、そのように行動していたという。
(士談)

そんな秀吉の元同僚のお話



510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/14(水) 00:01:48.69 ID:kj0e+PB+
>>506
かっての同僚が天下人となり
その天下人が築いた城の在番として生涯を終えるってのは、なかなか数奇なめぐり合わせだね

春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様

2018年11月13日 21:16

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:04:49.28 ID:L+t9VgNU
織田上総介信長はこの度足利義昭を守護して近江より切り上り、三好・松永などの逆徒を誅伐して足利家
再興の功を成就し、中国へ旗を立て将軍家を堅く抱えて四海を令すれば、斉の桓公や晋の文公のような

覇業も瞬息のうちに定まるであろうと喜び勇み、その旨早く近国へ触れ渡されると美濃・尾張・伊勢3国
は言うまでもなく近国の諸軍勢は我劣らじと、美濃岐阜城下へ馳せ集まる者は雲霞の如し。

信長は近江一円の地図をもって軍議を凝らして、永禄11年(1568)9月7日、5ヶ国の大軍を引き
連れて早く出陣すべしと、まずは義昭の旅館・立政寺に参上して細川藤孝をもって申し上げられ、

「5ヶ国の大軍は早くも参着しました。よって速やかに上洛を急ぐべきといえど、近江の佐々木六角承禎
父子は内々に三好・松永などの逆徒と志を通じ、伊勢国司・北畠の加勢を受けてこの度の主君御上洛の

御道を遮らんとすると聞きます。まず承禎父子を誅し、彼らの首を刎ねて軍神を祭り、その後に御迎えを
奉りましょう」と御伝えすると、義昭も対面されて世にも嬉し気に「当家再興の事をひとえに頼み参らす」
と礼を厚くへりくだって仰せになれば、信長も「畏まり候」と返答なさって退出された。

(中略)

都合4万余騎と聞こえる織田勢は先陣がすでに近江平尾辺りに至るも、後陣は未だ美濃垂井・赤坂辺りで
遮られるほどの数だった。信長は先祖・平相国清盛より相伝の蝶1羽を染め出した赤旗と、この度義昭

より賜った桐紋・二引両紋の旗、斯波武衛家より伝えられた瓜紋の旗、また織田殿の馬前には黄絹1幅に
永楽通宝の銭を墨で描いた1流の旗、また妙法蓮華経と題目を書いた馬印9本を立てて、この日は

平尾村に着陣された。8日には近江南宮山に滞留されて人馬の息を休めなさった。茫々たる平原に色々な
旌旗が翻っている有様は、春の花に秋の紅葉を混ぜ合わせた様に異ならず。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 22:42:11.03 ID:E/F+EuE0
桓公に文公とはまるで漢書のような

小筒も、用いる所によって利があり

2018年11月12日 21:03

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 20:58:05.78 ID:ldUNo1GI
近年鑓鉄砲と称して、鑓に小筒を持ち添えて、鑓を突き出すと鉄砲が放たれるよう拵えた銃器がある。
確かに一理あるが、鑓前急な時に、これを用いる事、用捨あるべし。みな弓矢の工夫が薄いためこのような事に
成っており、心得るべきだろう。

亀田大隅(高綱)、後に鉄斎と号したが、彼は筒尺一尺余りの短い鉄砲に腕抜きを付けて、常に馬の際に付けていた。
慶長五年、新加納川越の時、川の半ばにて此の筒を撃った所、川向うの敵驚き去ったという。然らば小筒も、用いる所に
よって利があるということだろう。

(士談)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 21:02:55.36 ID:fcfYanbe
銃剣的な発想での運用なのかな
銃に槍を付けようじゃなくて槍に銃を付けようって発想だし
何となく実戦だと激しく使えなさそうな気配がするが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 14:44:21.94 ID:QbO22WvF
弭槍みたいな弓に槍つけたのとか、絶対に使いにくそうだもんな

奈良の鹿

2018年11月11日 16:25

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:19:41.68 ID:mvUm7K2Z
当地(奈良)にある第二のことは、多数の鹿のあることである。市内に在るもの3,4千であろう。
この寺院(東大寺)に属しよく人に馴れ、野に出て草を食べて帰る。市街を歩行すること犬のごとく、彼等は
寺院及び偶像(大仏)に属するがゆえに、諸人これを尊崇し、もし鹿一頭を殺す者が有ればその罪によって殺され、
財産は奪われ一族は滅ぼされる。鹿がもし一つの街にて死ぬことが有れば、同街は死したる理由を説明する義務があり、
若しそれを成さねば大いなる罰を受ける。

(一五六五年九月十五日附、堺發、パードレ・ガスパル・ビレラ書翰)

奈良の鹿は戦国期もあんな感じだったんだな



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 21:10:22.16 ID:UPmyeuoG
当時も鹿せんべいあったのかな

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 22:17:25.23 ID:pEsQdGJM
春日大社の記録には鹿エピソード載ってないのかな

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 23:20:47.55 ID:UpU8i2qB
中南米でもそうだけど、パードレの原住民ヤバい報告は現地資料と突き詰めると意外と誇張が無いのが怖い

伊予の身において誉れとすべし

2018年11月11日 16:24

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:32:25.39 ID:KKOyQnSl
(姉川の戦いの直前)

終夜火を焚く敵方を見た織田信長は龍ヶ鼻本陣への敵襲を悟り味方の備定めをされた。毛利新助(良勝)を神君御陣
へ使者に遣わし「明日の合戦で信長は越前勢に向かう。徳川殿は浅井に向かいなされ。しかしながら、御勢は多くは

ないので、誰でも加勢を申し付けよう」との口上をした。神君は聞かれ「私がここに来た以上は水をも火をも避ける
わけにはいきません。朝倉・浅井のどちらでも受け取り申しましょう。しかし左様な打ち込みの合戦はまったく本意

ではありません。強敵と覚える一方を受け取り勝負を決します。浅井の8千を我が3千で戦うことは、人数において
不足なし。されども加勢を添えて下さるならば稲葉伊予(良通入道一鉄)を差し遣して下さい」との御返答であった。

新助は帰り、信長はこれを聞かれて「徳川殿は伊予に将略があるのを知られて加勢に望まれた。この事は伊予の身に
おいて誉れとすべし」と仰せられ、伊予守に加勢を命じられ、重ねて織田勢を13段に定められた。1番は坂井右近

(政尚)、2番は池田勝三郎(恒興)、3番は木下藤吉郎(秀吉)、4番は柴田修理亮(勝家)、5番は明智十兵衛
(光秀)、その他に中条将監(家忠)・簗田出羽守(広正)などを堂々整々として備え、また丹羽五郎左衛門長秀・

氏家常陸介卜全・伊賀伊賀守範秀(安藤守就)などは横山城の押手と定められた。徳川勢は酒井左衛門尉(忠次)と
石川伯耆守(数正)を先手になされ、松平甚太郎家忠・松井左近(松平康親)・大須賀五郎左衛門(康高)・高天神

の小笠原与八郎(信興)など総じて2千余騎を2陣となされ、中軍の御大将左右に榊原小平太(康政)・本多豊後守
(広孝)が備え、稲葉伊予守を後軍として都合6千余騎なり。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


扇でお顔をしたたかに打って

2018年11月10日 16:45

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 10:25:29.90 ID:5FRsjJ5D
扇でお顔をしたたかに打って


八田豊後*は無銘二尺三寸の郷(義弘)の刀を所持していた。
国清公(池田輝政)は右の刀を指し上げよと度々仰せられていたが、そうしなかった。
ある夜お酒を飲んだ後(国清公は)豊後を呼んで、度々所望の刀を出せと仰せられた。

豊後は
「度々お断り申し上げる通り代々所持している刀で、これをもって
 御馬先を仕るべしと心がけていますので、指し上げることは出来ません」
と言った。その時国清公はお怒りになり長押にある薙刀を取られたので
豊後は扇で(国清公の)お顔をしたたかに打って退出した。

元来お酒に酔った後の話なので、御側の衆が(国清公を)取鎮め
「豊後のことは我らに仰せ付けて下さい」と押し留めた。
その後しばらくして酔いが覚められた後、深酒されていたものの豊後を呼んだ。
豊後はお手討ちだろうと覚悟してすぐに登城し、直に御寝所へと通された。

「我は酒に酔い其方を手討ちにしようとしたが、我の誤りであった。
 其方いささかも心にかけてくれるな」
と(国清公が)仰せられたので、豊後は不覚にも落涙して退出した。
国清公の御行跡は、大方この類が多かったとか。


――『備陽武義雑談』

* 池田家臣。先祖は楠木正成の家臣だったが千早城が落城した後に伊勢へ行き
 北畠家に仕えたという。父の代に北畠具教が殺害され、一緒に浪人となった。
 池田恒興が伊丹城に在城しているときに召し出された。輝政が参議に叙任した際
 太刀持ちが必要だったため陪臣ながら任官した。最終的に三千石を拝領したという。



488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 13:36:46.47 ID:Rb9DE5g9
話の中身だけ見ると正則の逸話って言われても違和感無いな

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:39:24.07 ID:sXciHy0v
最後、落涙したあと刀を献上するかと思ったけどそんなことは無かったぜ。
郷はSSRだからね、仕方ないね。

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 14:57:45.30 ID:uqMFgxk/
高虎「やはり酒はいかん。飯、いや餅を食うのが一番良い。」

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 19:40:42.06 ID:p0i+gKso
輝政さんストレス溜まってたんだろうね

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:08:27.04 ID:QjvIsSdR
これがのちのツッコミハリセンになるのか

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 06:34:01.03 ID:Rtctq3rn
下戸の光秀にションベン飲ませようとしたアレだな

信長は手早き大将なので

2018年11月10日 16:44

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 17:20:01.51 ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

この王子、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故

2018年11月09日 09:36

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 00:02:05.85 ID:of0Wpt0o
この王子(織田信雄)をもしキリスト教に帰依することが出来れば、大いなる収穫を得ること疑いない。
彼は意思甚だ強く、他の信長の子息達よりも、その父に似ている故である。

彼は諸人に対して甚だ親切なのだが、もし命令に背くものが有れば直ぐにこれを罰する。故にその家臣の
行儀正しく丁寧なることは驚くほどである。

先ごろ、彼は兵士たちに与える物がなく、一方で、一人の殿が余るほどの収入を有するのを見て、彼はその殿から
六千俵を奪ってこれを兵士に与えた。

この事件の後、信長は信雄を招き、何故そんな事をしたのかと尋ねると、

「私は父上の子の中で最も貧しく、兵士たちに与える物を持っていません。そのためあの殿より、有り余るものを
少し取ったのです。」と答えた。

信長は彼を責め、「奪ったものを返すように。」と言ったが、信雄はそれを理解した様子を見せなかったので。
信長は怒って小さな枕を彼に投げつけ、その殿の財産に対する彼の侵害を責めたのだが、それ以上は何も
出来なかったため、この殿に対し
「この上は武力を以て奪うべし。」
と言い、実際に対陣させた。

この殿は1万人、又は一万五千の軍勢を集め、一方の信雄は七百人ばかりであった。しかし信雄は
「何人も動くべからず」と命じ、一人で馬を馳せてその殿の陣中に乗り込み、諸方に乗り廻して混乱させたが、
殿の陣中では、彼が信長の子であるため誰一人これに触ることも出来ず、殿は隠れ、これを聞いた信雄は
「これを捜すのは時間を損ずるに過ぎない」と、闘いを中止した。

(一五七八年一月十四日(天正五年十二月七日)附、都發、パードレ・ジヨアン・フランシスコ書翰)

正直ひでえ話だな。



420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:09:06.89 ID:4LmF8tH6
相手は四十万石くらいの人だったのかな

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 07:39:04.23 ID:JEmsZ9R9
再評価せねばならぬ武勇伝だね

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:28:31.32 ID:ow9Yza7j
三介殿のなさる事だからしょうがない

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 09:54:57.62 ID:tNMLWG7s
>>421
斜め上に

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 18:43:03.92 ID:DZoKZpxX
>>419
何でそうなるんだ…としか思えない行動回路だ

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 20:18:27.35 ID:Py2/VUOM
確かに事実とは思いがたい

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 21:08:40.86 ID:xhuQeHXe
>>419
頭鳩山かな?

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 22:13:01.97 ID:0+fdcXJE
本多正純「一人の殿とは一体誰のことなんです?」

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 11:07:22.55 ID:DMxEB0Op
神君だろ

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 16:39:27.63 ID:9TutT64G
>>429
それは正純じゃなくても気になる

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/10(土) 20:14:27.23 ID:Rb9DE5g9
収益のために頑張ったら主君のドラ息子に理不尽に収奪されるわ
気難しい主君がせっかく説教してくれたのに息子の物分りが悪いせいで
匙を投げられて合戦もどきまでさせられた挙句
アホでも主の息子だから手を挙げられないで居たら散々暴れられるとか
この殿にしてみれば降って湧いた災難すぎる…

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 15:18:40.73 ID:2rFScKgH
>>419
もしこのドラ息子の話が本当ならそんな役回りは光秀か村重かな
1年後に村重は謀反を起こしているし

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/13(火) 17:16:11.36 ID:6IaFLY1o
本願寺に横流しする手筈だった兵糧を・・・
ぐぬぬ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


手ひどき合戦には不合と見へたり

2018年11月08日 18:23

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 17:41:29.66 ID:Y2HvOdmo
ある時、織田信長の前に武者修行をしているという武功の者がまみえた。
彼は冑に白熊の引き回しを付けて、冑立てに立てさせ、後ろに持たせて出た。

信長はこれを見て「彼はいままで手ひどい合戦には出会わなかったらしい。気に入らない。」
(彼はつひに手ひどき合戦には不合と見へたり。心にくからず。)
と言った。

これは白熊の引き回しなどと言うものは、それを損ねずに戦をするなどありえないためだという。

(士談)

関連
白熊の引きまわしなどでは、



415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 18:07:11.78 ID:/DFHlKKj
おお。読んだことあると思ったら違うソースだった
いい悪いブログ10501 (まとめサイトのURL貼るとエラー出る)

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:17:44.62 ID:1gkzLAvN
>>414
信長公へのお目通りという事で気合入れて新調しただけかも知れないのに…
まぁ、何となく信長ってこういうの嫌いそうなのも判る
でも傷だらけの甲冑で来たらそれはそれで主張がワザとくさくて信用ならないとかも言いそう

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/08(木) 20:34:15.44 ID:0WodYPFi
白熊ってホッキョクグマじゃなくてヤクのことなんだな

これに宗矩が返し

2018年11月07日 19:39

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 20:02:18.74 ID:dQlWUsaT
柳生但馬守宗矩の弟(実際には甥)である兵庫(柳生利厳)という者が詠んだ歌として、人の語るものに

「そのままに 理は有明の物としれ 開く扉に月ぞさやけき」

これに宗矩が返し

「出とも 月夜とならば暗からじ 見へて光のうつるにはなし」

と詠んだ。互いの剣術への考えを伝えたものだという。

(士談)

双方深いことを言っている気がするがさっぱりわからん



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/06(火) 21:47:15.43 ID:0PROuOj4
月影か

御父 織田弾正忠殿

2018年11月07日 19:38

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 04:36:39.32 ID:yJTjxHUj
足利義昭将軍宣下の時)

信長が帰国の暇を申し上げられると、義昭は不日に逆徒を退治し将軍家を再興した御感激のあまりに3通の
御内書を賜った。そのうち一通は信長を左兵衛督にと仰せ出されたものだったが信長はこれも辞退された。

その他には、

 今度国々の凶徒らを日を経ず時を移さずして退治せしめたのは武勇天下第一なり。当家再興の大忠として
 これ以上のものはない。ますます国家の安治をひとえに頼み入り候。この他に頼み入る他事はなし。なお
 子細は藤孝(細川藤孝)と惟政(和田惟政)が申すものである。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

また1通には、

 今度の大忠により桐紋と引両筋の紋を遣わし候。武功の力を受けることだろう。祝儀である。

  永禄11年10月24日 判

    御父 織田弾正忠殿

信長は大いに面目を施され、ただちに暇を賜り25日に京を発って、28日に美濃岐阜城へ帰陣され諸軍勢
に銘々賞禄を施して帰国せしめられた。

――『改正三河後風土記(永禄記・岐阜記)』


細川忠興、結城秀康に行列の先を譲る

2018年11月07日 19:37

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/07(水) 08:53:33.90 ID:xWVo5T5h
細川忠興結城秀康に行列の先を譲る


慶長8年3月25日、征夷大将軍となった家康は御所に参内し拝賀の礼を行った。
その参内の行列のうち、武臣の参議少将の衆は塗り輿で供奉した。
越前参議(結城)秀康卿、豊前参議(細川)忠興卿、若狭参議(京極)高次卿、
播磨少将(池田)輝政朝臣、安芸少将(福島)正則朝臣である。

結城秀康卿は従四位の参議にて、忠興君が上首(従三位の参議)であったので
秀康卿の上に列するところを、(忠興君は)ご辞退なさろうとしたが
家康公は「官位の次第は乱すべきではない」と仰せられた。
しかしそのように取り計らおうと、(家康公が)前もって奏上されたため
秀康卿は(同年の2月25日に)従三位に叙され、忠興君はその次に付けられた。
これは家康公が(忠興君の辞退に)感心されたからだという。


――『細川家記』


週間ブログ拍手ランキング【11/01~/07】

2018年11月07日 19:34

11/01~/07のブログ拍手ランキングです!


松村の報告 14

あの兄弟の働きは良き膏薬 13

六代の討死にして 12
少しも汝らが気遣いすることはない 12

武田総敗軍 8
さすが信玄の遺烈かな 8

武蔵守はその容貌の逞しさを感心し 7
下人などは如此こそころすべけれ 6
山県さんによると、鉄砲は 5


今週の1位はこちら!松村の報告です!
明智光秀の元家臣たち、謀反の家というイメージに反し、実は各所で重宝されていますね。それだけ光秀の家臣団は
有能であったということなのでしょう。この松村さんも、家康を褒めていると言うよりも、「世間的な家康のイメージに
引きずられたら間違うよ」という事を語っており、秀吉にとって有用だったことでしょう。「観察眼が有る」と秀吉が評価したのも
納得できるものだと思います。こういうお話を読むと、こういった人材を集め使っていた光秀という人への評価も、
新たに成ると思います。

2位はこちら!あの兄弟の働きは良き膏薬です!
有名な長篠での大久保兄弟の活躍ですね。三河物語でもある意味自賛していますが、客観的にも非常に印象に残る
戦いぶりだったようです。あの合戦で徳川勢は、「そもそも自分たちの戦い」であると、相当に奮戦したようですね。
その一つの象徴が、大久保兄弟であったのでしょう。
また武田というのはやはり徳川にとって非常に大きな楔であり、徳川勢はしばしば、武田軍というだけで怯えていた時期も
あったようです、しかし長篠後、徳川勢はそういった武田へのコンプレックスを脱し、むしろ武田のほうが、
徳川勢に対し逃げ腰になったとも言います。この「蝶の舞」は、そんな軛からの開放も著しているのかもしれません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!六代の討死にしてです!
この平子主膳こと平子貞詮が討ち死にした伯楽淵砦の戦いでは、同時に彼の息子の平子茂兵衛も討ち死にを遂げており、
はからずも七代の討死になってしまっています。
この平子という人、どうも同時代では相当有名だったらしく、平子というだけで「ああ、あの人」と通じるくらいだったようです。
しかし後代にその名があまり伝わらなかったのは、やはり子孫が続かなかったため、でしょうか。
討死で名を成し、討死で名が途切れた、とすると、何とも言えない皮肉となりますね。
それにしても六代、七代にわたっの討死とすると、おそらく戦国期全般で誰かしら討ち死にしているという事であり、
これもまた、戦国の申し子という人であり、家なのでしょう。
またこういうお話を読むと、大阪の陣で幕府方にも豊臣方にも、やたら討ち死にしたがる連中が出てくることの社会背景を
感じられるように思います。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつも本当に有難うございます!
また気に入った逸話を見つけたら、そこの拍手ボタンを押してみて下さい!

そして今週は、管理人なりの「逸話」についての見解を。
「逸話」は結局は、ある人物やある事態の一曲面を切り取って物語的に編纂したものであり、それ自体は史実でも
事実でもありません(史実や事実を元にしたものはあります。)
ただそこからは、その逸話の産まれた時代に、人々がその人物や事態をどの様に解釈し受け入れていたか、という事が
見えてきます。
人が社会的動物である以上、人についての評価とは、その人物の内面性ではなく、社会にどう写ったか、という事に成ってしまいます。
逸話とはそういった社会評価を物語的な形で現したものであり、それもまた、人間の社会における、個人、事態の「歴史」で
あると言えます。
「逸話」は大抵は、その人物の死後、事態が過去に成ってから語られるものです。逸話を読む時、その人物や事態がどのように
社会に咀嚼され「歴史化」されたのか。逸話はそんな視点で見ることで、より豊かに楽しめると思うのです。
「史実か否か」というような単純な価値判断をしてしまうと、きっとそこからいろいろなものがこぼれ落ちてしまいます。
そんな事を昨今は思っている、管理人でした。
(/・ω・)/

武蔵守はその容貌の逞しさを感心し

2018年11月06日 18:07

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 18:22:37.48 ID:xOwWXg/m
元和元年(1615)丁卯夏に、また大坂御陣あり。貞泰(加藤貞泰)と松平本名池田武蔵守
利隆は同じく神崎口に属す。伝えによると、貞泰は謀を進めて陣を張ろうとした時、

松平武蔵守の軍士が貞泰の備の前に進んだ。この時、家臣の加藤主馬光尚は武蔵守本陣に至り、
「直に申し上げたき事がある」と言った。武蔵守が対面した時、主馬は近々と進み出て、

「御人数を御開き下さるべし」と言った。武蔵守は同意して早速人数を開かせ、これによって
貞泰は先陣となった。主馬は遥かに座を下り、「早速の御許容かたじけなし」と申し述べる。

武蔵守はその容貌の逞しさを感心し「時に甚だ寒い。酒ひとつ」と言うと、近習の者が大杯を
持って来て主馬に遣した。主馬は「仰せかたじけなし」と言って引き受け引き受け3杯飲んだ。

武蔵守は猶もまたその意気の凄まじさを賞し、また酒を差し上げると、主馬は辞退せずに再び
これを飲んだ。これより見れば、武蔵守と先陣を争ったのは冬陣の時であろうと言われている。

一書によると夏御陣の時は貞泰は中嶋口に向かい、落城の後に御暇を下されて米子へ帰ったと
言われている。

――『大日本史料(加藤光泰同貞泰軍功記)』


武田総敗軍

2018年11月05日 17:39

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 00:55:12.56 ID:xOwWXg/m
(長篠の戦いの時)

徳川勢先隊の大須賀五郎左衛門(康高)・榊原小平太(康政)・本多平八郎(忠勝)・平岩七之助
(親吉)・鳥居彦右衛門(元忠)・石川伯耆守(数正)の諸将は自身で槍を振るって竹広の方より
まっしぐらに諸勢に抜きん出て突いて掛かる。武田方も和田・安中以下がこれを迎えて突戦する。

勝頼も本陣を進めれば、前備の望月右近・後備の武田左衛門信光も今日を最期と思い切って働き、
ここで本多作左衛門重次は7ヶ所まで手傷を蒙って右の眼を切られた。本多甚九郎・土屋次左衛門

を始め討死の味方も数多なり。敵も味方も討ちつ討たれつ手負い死人数を知らず。大須賀の属兵の
久世三四郎(広宣)・坂部又十郎・筧助太夫・同龍之助・伊藤雁助・浅井九郎左衛門・鷲田伝八・
柘植又十郎・鈴木角太夫・浅原孫七郎・松平助左衛門、その中でも渥美源五郎勝吉は生年19歳の

初陣なり。父に劣らぬ剛勇で敵の首若干を討ち取る。後々も高名を挙げて数え難し。“首取源五”
と異名を取ったのはこの勝吉のことなりけり。榊原の属兵では村上弥右衛門・富田三右衛門・伊藤
弥三・伊奈源左衛門・榊原仁兵衛・鈴木半兵衛も同じく奮戦して伊奈は討死した。

典厩(武田信豊)の勢1千余は返し合わせ返し合わせ突戦すれど、ついに徳川勢に切り立てられて
引き退いた。この時、信長卿の下知あって総軍一同に鬨を揚げて勇み進み追討すれば、勝頼もどう
しようもなく武田勢は総敗軍となり、鳳来寺の方へ敗走した。橋辺という所に至り大軍に追い掛け

られ、滝川に落ちて溺死する者もまた多し。真田源太左衛門信綱は渡辺半十郎政綱に討たれ、典厩
の弟・望月甚八郎信益(信永)は鳥居彦右衛門の同心・永田蘇父助に討たれた。

望月右近は永田澄之助に討たれて、堀無手右衛門は渡辺忠右衛門と小栗又一(忠政)両人がともに
討ち、興津十郎兵衛は高力権左衛門(政長)が討ち取った。その他に河窪兵庫助信実・下曽根源六

政利と弟の源七政秋・同弥右衛門政基・横田十郎兵衛忠重・油川宮内顕則・同左馬允顕重・高坂
又八郎助宣・甘利藤蔵吉利・杉原日向正之・土屋備前直親・高林恵光寺・岩手左馬助胤秀・原隼人

胤長(昌胤)・小山田五郎兵衛昌晟・高力源五郎昌宣・根津甚平伊広・真田兵部幸連(昌輝)・
安中左近広隆(景繁)・馬場彦五郎勝行・米倉丹後正継らは思い思いに奮戦して討死した。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』


山県さんによると、鉄砲は

2018年11月05日 16:44

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 09:10:20.96 ID:oem912mZ
武田家臣の山県(昌景)の言葉に

「武芸の四門とは、弓、鉄砲、兵法、馬の事である。大身小身によらず、この四つを習い
自余の事を稽古すれば、物を読み、物をよく書き習い、その後乱舞など習うのも尤もである。

而してこの四つの内、先馬、ニ兵法、三弓、四鉄砲とする。
馬は代わりを立てて人を頼むことは出来ない。
剣術、斬り合いも代わりの立てられぬ技である。

弓は古来より武士の家に備わっているもので、系図侍(代々の由緒ある武士)の如く、
出仕の侍(新規召し抱えの武士)は鉄砲である。

ただし鉄砲は、甚だしくわざありと雖も、魔がその焔を恐れおののくことは少ない。
弓は鉄砲に比べて激しくはないが、狐に憑かれた者、一切の不審ある事に、鳴弦などという事があり、
武士の奥意は弓の腕前が噂になることだ。」

と云ったという。

(士談)

山県さんによると、鉄砲は弓に比べて退魔などのマジックアイテムとしていまいち。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 10:26:43.04 ID:qKLJ14SM
畿内と違って運用方法を見出せなかった山侍の性

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 12:39:05.35 ID:g89IJWyC
性といえば宣教師驚愕の運用をしていた熊さん

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:09:59.19 ID:o4eMMqdY
くまモンさいつよ

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:13:18.61 ID:tFQzX33S
乱舞を習うのか…

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 15:54:44.04 ID:ozHexokv
>>471
面白い視点だ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:32:54.51 ID:24fLrZPo
単純に弾と火薬が手に入らなくて滅多なことじゃ使えないってだけだろ

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 17:59:08.81 ID:5qavs+R5
米倉さんと比べて古い頭よのぉ

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/05(月) 19:44:18.41 ID:pvjqcEwo
島津流弓霊術「つるがね」

六代の討死にして

2018年11月04日 20:58

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 22:39:14.16 ID:qOtmps2b
大阪冬の陣、伯楽淵の戦いの時、横川次大夫が取った頸を、箕浦右近が使いとして家康本陣の
茶臼山へ持参し、それが一番頸であることを、本多上野介(正純)を以て言上した。
しかし頸の名字は知れず、名もなき頸であるとして、そのまま白砂に置かれた。

そのような所に、浅野但馬守(長晟)の使者である菅田士郎右衛門という者が茶臼山へ参ったのだが、
その頸を見て、彼の名前を知っていたため、知人としてこのように置かれるべきではないと思い、
頸を取り上げて石の上に置き、感じ入った様子であった。

これを見た箕浦は、彼に近づいて聞いた
「あなたはどちらの御家の方か、あの頸を御存知なのか。」

菅田答えた
「しかじかの者である。この頸は、仔細有って見知っている。これは平子主膳という者の頸である。
この者の父まで、五代討死を致した。そして今日この者の頸を見るにおよび、六代の討死にして、
誠に侍の冥加にあい叶いたる者と存じ、石の上に上げたのだ。」

箕浦これを聞くと再び尋ねた
「確かに御見知候や」

「確かならぬ事を、初めてお目にかかったあなたに申すような事はしない。」

こう言われ、その場で菅田と知人に成り、紀伊国の事などを尋ね、その後箕浦は上野介に
「先程の横川次大夫が討ち取った頸の事、平子主膳の頸であることが解りました。何かのついでにも
仰せ上げられますように。」と申し上げた。本多上野介からは「重ねての披露は難しい。」と言われたが、
それでもと、達って申した所、徳川家康は大いに感じ入り

「平子の頸であると?さては六代まで討死を遂げたのか。冥加の侍と云うべし!」と仰せに成った。

上野介が「平子は御存知の者でしたか」と尋ねると、「彼は隠れもなき者である。」との上意あり、
そしてその頸をとった横川次大夫へは、感状が下された。
これは合わせて、箕浦の使いの致しよう巧者成るが故と、その頃評判と成った。

(士談)

武士にとって討死はむしろ名誉である、という事がよく解る逸話ですね。



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 23:27:17.93 ID:y/aNoiQu
六代まで討死とか壮絶やな

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 01:55:48.51 ID:l7DCctIn
息子も大阪の陣で討死しているので、七代…

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 10:43:15.31 ID:1AjO4BYd
>>456
え?お、おう・・・

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 11:10:03.90 ID:Tz26sLmg
7代連続討ち死には
平子家の合戦での立ち回りが致命的に間違ってるとしか・・・

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 12:29:50.41 ID:st2l0x2P
活躍して討ち死にした武士の家は普通重んじられるから、討ち死にが手柄の第一、と言われる By竹崎季長

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 14:59:33.22 ID:WgVotmTC
大御所様は当代の勇士知りすぎ問題

     §         
  ( ゚∀゚)  <話は聞いた その者は紛れもない勇士   
../  /ハ\ 
く_ノ;=8=」レ 
   家康           な、なんだってー!!
                          感状だー!>

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:21:22.46 ID:10fHARKO
>>456
良い話か悪い話かこれもうわかんねえな(錯乱

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:22:43.65 ID:xFrMk15D
7代連続討ち死にとかよく家が保たれたな…
そんだけ死んでれば結構若いうちに死んだのもいそうだが

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 18:25:40.35 ID:+iuEsOmt
討ち死にではないけど少弐氏当主も横死ばっかしてたよな確か

松村の報告

2018年11月03日 20:56

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:40:43.29 ID:CzSJgcY6
徳川家康へ、豊臣秀吉の妹の朝日姫との婚姻に置いて、秀吉は朝日姫に付け参らせるものを探していたが、
近江の中郡に、元は明智光秀が召し使った松村という者があり、これが才知有るとの事で、輿に副えて
家康の元へと赴いた。

後に秀吉は、この松村を招き家康の家風を尋ねた。松村は畏まって申し上げた

「家康は、世間のことは不調法に見えますが、弓矢の儀は勝れて鍛錬の所多きと見えます。
彼は腹を立てて人を叱るときにも、言葉は明らかで理由を詳しく述べます。
また腰の重い人かと思えば、鷹野にて2、3日も御逗留されます。
しわく吝嗇な人物かと思えば、家中に歴々が多く居ります。
何とも、凡眼にて推量するのは難しい人であります。」

秀吉は松村の報告に感じ入り、「人の言行をこのように細やかに察するものは、これまで聞いたことがない。」
と言ったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 08:13:57.12 ID:YbqDkvn8
>>449
間者か!

さすが信玄の遺烈かな

2018年11月02日 20:26

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 14:41:24.53 ID:9OUQeKKj
(長篠の戦い敗戦後)

ここに越後の押さえとして信玄時代より信濃海津城を守っている高坂弾正昌信(原注:一説に虎綱)は
さる老剛の宿将なり。3年以前に信玄が死去した時から勝頼は血気の勇にはやり必ずこのような大敗を

引き出すだろうと推察し、青貝の持槍に小熊の垂れの槍印20本、亀甲の槍2本、槍持の陣羽織までも
緞子で作って用意していた。高坂は長篠大敗の風説を聞くと等しく城には雨宮・小諸・寺尾・小田切・

屋代らを残し置いて自身は手勢8千余騎を従えて、かねてより用意していた長柄の槍などを引き具して
駒場(原注:一説に小満場)まで出迎えて勝頼を警衛し、見苦しくないように旗本備を取り繕った。
そうして勝頼を甲斐へ帰陣させた高坂の老功は「さすが信玄の遺烈かな」と感心しない者はいなかった。

今回、武田家で鬼神の如く呼ばれた老功武勇の将卒は馬場・山県・内藤・土屋・原・真田を始めとして
数を尽くして討死したため、これより武田家の武威は大いに劣ってしまった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』




442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 17:16:34.46 ID:UO7P84D4
このあと古者がいなくなったから若者を起用して見事な再編成をやってのけるんだっけ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 18:11:39.40 ID:/0+6zNZ4
若いイメージがあったけど、真田の兄弟も30代か

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:02:18.33 ID:Fv7735ki
>>443
嫡男いたのに、なぜか養子に出ていた武藤喜兵衛が出戻って家督を継ぐことに

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:08:01.35 ID:9eOVVS3q
流石にまだ家督継いでバリバリ活動するには早いし…
平時ならともかく情勢が厳しい武田家では真田家が活動力低下するのは困るし
もともと昌幸の器量が傑出してたから腐らせないように別家を立てた訳で
真田家を継ぐならそれはそれで武田家としては問題無いし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:16:33.91 ID:x5p+lKo9
>>442
徳川に合流した旧武田家臣は強かったの?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:26.53 ID:TNsgMF27
>>444
娘以外全員幼少だったんだよ、きっと…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 22:44:08.25 ID:lOaOtw/w
>>446
信玄の眼といわれた曽根内匠がいる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:46:38.44 ID:HhKi4wnv
>>446
依田、城、庵原、曲淵あたりかな活躍したのは

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 05:35:24.91 ID:IcnH0ZmW
依田さんもちっと長生きしてればな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 10:10:51.44 ID:VYjY1n+E
>>444
御屋形様の命ですが?

下人などは如此こそころすべけれ

2018年11月02日 20:25

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 23:35:10.04 ID:eJY+p62H
神子田半左衛門(正治)が家来の者を手放にするとして、縁側で爪を切っていたが、その爪を切る
小刀が下に落ちた。神子田はかの咎人を呼び、「縁の下に小刀が落ちた。取ってくるように」と言いつけ、
彼が縁の下にくぐった所、上から刺殺した。そして人を呼び死骸を取り出させた。

この時神子田は
「放し討ちなどといって、確実性のない成敗を好むのは然るべからざる事である。
下人などはこのようにして殺すのだ(下人などは如此こそころすべけれ)」
と。申したという。

(士談)



400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 11:47:36.51 ID:75FhpIpu
秀吉軍初期メンバーだけど、物語でも扱いが悪くて当然の人か

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:36:14.43 ID:vMEsZMso
潔いと思うが
偽善者は暗殺者送って素知らぬ振りだからな

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 13:03:32.56 ID:SDHbTpAD
人が死んでるから悪い話なんだな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:11:58.57 ID:9eOVVS3q
これって放逐する事を明言した訳ではなくて
内心で決めてたけど未発表の段階で抹殺したって事だよな
同じ殺すにしても誅殺や手打ちに比べてなんか汚いというか
陰湿というか…何かこう嫌な気持ちにさせる振る舞いというか

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:46.01 ID:x5p+lKo9
朝倉宗滴みたいな現実派だよな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:20:50.57 ID:lOaOtw/w
>>403
なんで放逐せなあかんねん
これは上意討ちや
対象が領内におらん時は放逐やない出奔や
逃げる前に討つのは当然のこと
ひとかどの将なら宴で酔わせて討つ
下人なら手打ちでおk

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 07:42:43.02 ID:PUgQnT4P
>>403
「放し討ち」ってのは、相手にお前は死罪と決まったから、抵抗するなら抵抗しろ、って言って
罪人と討ち方が切りあいになるやり方のこと。
罪人が名のある武士の時や、討ち方が罪人側に同情している時に取られる方法で、
返り討ちにあったり、その場を切り抜けて逃げられる危険が当然ある。

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 13:46:13.09 ID:IcnH0ZmW
実はいい話なのか

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 07:40:45.16 ID:7Ayt5tas
>>406
立花家の黒門の放し討ちが有名かな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/04(日) 17:44:58.36 ID:xFrMk15D
>>406
>>399の1行目の手放しってのはどういう意味なんだろう
解雇の事なのか処刑の事なのか
いずれにしろそんな事を申し付けた後に2行目のような小間使いをさせるのは
考えられないから処罰を申し付ける前の話なんだろう
どういう理由で処刑されたのかは不明だが仮にも家来に対して
罪状も告げずにだまし討ちというのは如何な物なんだろう
確実に殺せるけど他の部下や同僚上司はどう思うか

少しも汝らが気遣いすることはない

2018年11月01日 17:05

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 15:59:21.53 ID:eJY+p62H
宇喜多が毛利との、中国での合戦の時は、宇喜多は少勢にて毛利と対峙せざるを得なかった。
ある時、宇喜多は地下人を備のあとに立たせて軍勢とした。地下人たちは戦に出ることを
好まなかったが、宇喜多はこのように説得した
「少しも汝らが気遣いすることはない。敵の顔すら見ることはない。何故ならお前たちは、
味方が勝てば後ろからそろそろと進めば良いし、負けた場合は最初に退却するからだ。」

(士談)




430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:31:56.92 ID:OYaNoOus
地下人は生産人口だから死なれたら困るよね

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 16:36:18.42 ID:UpUBIf1J
数を多く見せたってこと?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:07:05.79 ID:erVV7GEK
ただし弁当代は自費で

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/01(木) 17:28:41.04 ID:mZ1OB+Xd
俺は戦に参加したんだぜ!って土産話を貰えたな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 10:28:49.46 ID:N+dkrhef
>>433
そして諸君は、「アウステルリッツの戦いに加わっていた」と言いさえすれば、こういう答えを受けるであろう。「ああ、この人は勇士だ!」と。

このたぐいか

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 12:41:06.54 ID:vMEsZMso
浮田の場合は明禅寺合戦だな