FC2ブログ

池田恒興の犬山城略取に対する恩賞

2019年01月31日 17:28

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 14:48:21.48 ID:BCfrZ7lK
池田恒興の犬山城略取に対する恩賞


賤ヶ岳の戦いの後秀吉と織田信雄の関係は悪化し、天正12年3月13日に池田恒興が犬山城を占拠した。
下記はそのことに対する恩賞について、秀吉から恒興の母(養徳院)に送られた手紙。

今度の勝三(恒興)の犬山の御手柄は、中々お礼を申せるようなことではないのですが
尾張一円(一国)を勝三に差し上げるつもりです。また藤三郎殿(長吉)に美濃稲葉の知行を相添えます。
それゆえ、あなたさまにまで一筆進上しました。恐々謹言。
 勝九郎殿(元助)へはあなたさまに内密に申し上げた通りですので、御心を安くしてください。以上。 
  
    三月廿三日           秀吉(花押)
               秀吉
おおちさま(養徳院)            ちくせん


――『原富太郎氏所蔵文書』

恒興と元助が小牧・長久手で討ち死にしたため、実際には尾張一国を貰うことはなかった。


スポンサーサイト

百姓には似合わぬ事を致したものだな。

2019年01月31日 17:27

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 19:25:29.45 ID:MBkW3Zlu
(柴田勝家の自害後)

秀吉は越前の国まで御上りになられ、越前一国と加賀半国を丹羽五郎左衛門殿(長秀)に進ぜられた。

そういうわけで、佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと主従3人で百姓の
家へ立ち寄ったが、山路を伝った故に、ときを踏み杖にすがり、百姓にもぐさを貰ってときの口に灸を
致した。

家中の者は主人を装って「あの者は我々が召し連れている者で、ことのほか草臥れているから食べ物を
買い申したい。早く早く焼いてくだされ」と頼んだ。すると百姓めらは、「あのときを踏んでいるのは
主人だ。2人の者はとき踏みの家中の者か」と心中で見及び、「食べ物を焼かせて売りましょう。その
間に御休みなされ」と申して騙したのである。

そして百姓らに言い聞かせ、主従を棒で押さえ付けて召し捕らえたところ、推量したようにとき踏みは
佐久間玄番で2人は玄番の家中の者だった。

召し捕らえたことは同国北之庄に注進された。秀吉の御心には「無情にも縄を掛けたものよな」と思し
召されたが、是非に及ばぬ事の成り行きである。

秀吉は御心をもって玄番の縄を解きその身をゆるゆるとさせ、乗り物に乗せて道中を良いように労り、
それから「ただちに上らせよ。場所は宇治の槇島に置けよ」と仰せられて、道中を良く労わって玄番を
槇島に置いた。しかしながら、御番は堅く仰せ付けられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄され、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめのために、褒美
として機物にあげよ」と仰せになり、その時の12人を磔になさった。(>>700

――『川角太閤記』

“とき踏み”って何だろ…



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 10:52:12.23 ID:a/3DMyKC
流れからして、鋭い物かな?
「鋭き」って「とき」とも読むらしいけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:15:07.03 ID:hUh1KEi1
>>700>>705
百姓カワイソス…

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:44:27.80 ID:CgHfjAJq
>>705
文脈からだと刺じゃね

和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


我が家のことをばかり書き立て子供に譲る

2019年01月30日 10:11

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 09:13:39.85 ID:2nKS6+Gm
この書物を、徳川家の御譜代久しき衆がご覧になって。我が家(大久保家)の事ばかりを依怙に
書いたと思われるかもしれないが、そうではない。これを書き置いたのは人に見せるためではなく、
私(大久保忠教)は最早七十にも及び、今日明日にもどうなるかわからない。故に、今にもむなしく
なってしまえば、我家が仕える御主様(徳川家)が、どれほど久しい御主様なのか解らなくなる。
これは我が家が徳川家を御主様と仰ぎ奉ってから、当代の将軍様まで、九代に渡って御主様であることを、
我が倅に知らせるためであり、又、我々に至るまでの大久保家の辛労を知らせるために書き置いたのだ。

門外不出と申し置いているので、誰もご覧になることは無いと思うが、もし、たまたま落としてしまい、
ご覧になってしまったとしても、依怙に我が家の事ばかり書いたと仰せに成られるな。御譜代久しき衆は、
何れも自分の家々の御忠節の筋目、御譜代久しき筋目を書き立て、子供たちへ御ゆずりに成るべきだ。
私はこのように、我が家のことをばかり書き立て子供に譲る。であるので他所の事については書かなかった。
以上。

(三河物語)

大久保彦左衛門による、「三河物語」の執筆姿勢について



658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 11:33:08.11 ID:Zda8tyr2
たまたま落として見られたら困るなぁ(チラッ)

659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 20:09:44.12 ID:xkje4xgK
でも写本はしていいよチラッチラッ

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 08:16:45.51 ID:kz6yugKM
面倒くさい爺いだってすぐ分かる

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:27:23.77 ID:g0VHlQx6
様式美だし

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 22:53:23.34 ID:qgNP5BQt
???「日記とは、死後公表されることをねらって、他人の悪口を書き連ねておく文章である」

週間ブログ拍手ランキング【01/24~/30】

2019年01月30日 10:09

01/24~/30のブログ拍手ランキングです!


筑前守殿は城介様に恋慕故 14

諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば 11

褒美として機物にあげよ 8
徳川秀忠、池田輝政の屋敷での茶会 8
子のなき者はつる葉をも捜し求め 6
私に吉法師様の御守りを 5

常真を攻めなさろうと思し召し 4
如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候 4
すなわち筑前こそ上様 4
人々が因果であると申し習わすのも 3


今週の1位はこちら!筑前守殿は城介様に恋慕故です!
織田信忠と秀吉が衆道関係にあった、という事を匂わす逸話となっていますね。やはりここで大切なのは、実際に衆道関係に
有ったかどうかと言うより、衆道関係ならば相手の遺児の後見をすることは当然、という発想が、当時、説得力を持って
いたというでしょう。後世になっても、井原西鶴の『男色大鑑』などを読むと、衆道関係にある者が、一方が死んだ時、その残された
妻や遺児に対して一方が援助する、という話が結構あります。この逸話も、当時の一種の社会的常識をお話の中に取り込んだ
ものなのでしょう。そんな事を考えました。

2位はこちら!諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならばです!
この内容については、大久保彦左衛門もはっきり記しているように、あくまで人々の間の噂に過ぎないのでしょうが、
そういう噂があった事自体が興味深く思います。徳川秀忠は現在では、基本的に守勢の将軍というイメージが強いのですが、
ここではむしろ積極的に戦うことを選択する、非常に好戦的な将軍として描かれており、当時はこのような印象があった、
もしくはそのように印象つけるような傾向が有った、と見ることもできると思います。
しかしこういう噂があれば、諸大名は帰国を命じられても気が気ではないでしょうね。逆に一挙一動に慎重に成る事でしょう。
そういう効果も考えてこのような噂が流された、とも取れるかも知れません。

今週管理人が気になった逸話はこちら!褒美として機物にあげよです!
秀吉が、佐久間盛政を捕縛した百姓たちを処罰したお話です。この手のお話、近い例だと織田信長が甲州征伐のとき、
武田勝頼から寝返った小山田信茂を、主君への不忠として処刑された事がありますね。こういうものを更に遡ると、
実はかの源頼朝が奥州合戦の時、奥州藤原氏譜代の家臣でありながら、藤原泰衡を討ち取って頼朝に投降した
河田次郎が、譜代の恩を忘れた不忠であるとして斬刑に処されています。
信長にせよ秀吉にせよ、頼朝を真似たというわけではないのでしょうか、その前例を意識した面は有ったと思われます。
「武家の棟梁」はそういうものだ、という発想が自身にも周辺にも、きっとあった事でしょう。
この逸話の中で、織田信孝はその頼朝の父、義朝が謀殺された際の故事を織り込んだ辞世の句を詠んでいます。
全体としてもどこか鎌倉イズムを感じさせる、そんな逸話だと思いました。



今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気になった逸話を見つけた時は、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

常真を攻めなさろうと思し召し

2019年01月29日 21:41

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/29(火) 17:46:00.29 ID:Wr+hP5vY
(賤ヶ岳の戦い勝利後)

その年も暮れていけば、秀吉は大坂の城に御入りとなられた。年が明ければ尾張へ取り掛かって、
常真(織田信雄)を攻めなさろうと思し召し、

「私は水攻めで2つも3つも城を落とし遂せたのである。尾張の国は水攻めになる国だぞ。その
故は、ことのほか大河があって、少しの水でも国中へ暴れるからだ」

と秀吉は仰せになり、

「皆々皆々よ、さてさて御気を付けなさるのですぞ! 熱田辺りを丈夫に御塞き止めなされば、
国中は水に落ち込むことであろう。その用意をせよ!」

と御分国の鍛冶に鍬・鎌・斧などを仰せ付けられ、ならびに明俵をおびただしく御用意なさった
と聞こえ申し候。また、伊勢・近江・美濃の山々で枠の木などを仰せ付けられた。

(中略)

その年申の4月9日に、家康卿と秀吉との長久手の御合戦の次第は書き付け申し上げるに及ばず。

秀吉は大坂に御馬を入れられ、家康卿を何とぞ御引き付けなさりたいと思し召された。前述の水
攻めの御謀を仰々しくなされたので、東の常真方では恐れ慄く心をも抱き、

「秀吉が多勢を引率して当国に向かわれることは必定なり。当国は水が国中へ落ち込む国なれば、
ただ秀吉に御従いになられることが御もっともです」

と常真に申し上げれば、常真は悪心得で「さては家中は筑前守に内応でも入れたのか」と前疑い
なさったと聞いている。この事が秀吉に伝わり聞こし召され、秀吉はそれならばと思し召して家
中を御手繰りなさった。

常真の御家中の津川玄番(義冬)・岡田助三郎(重孝)・滝川(雄利)・浅井(長時)・丹宮の
5人に御状を送り付けられて、様々に御手繰りになられた。

この事を常真は聞こし召されたのか、岡田助三郎のことを土方彦三郎(雄久)に仰せ付けられて、
かの彦三郎が天守で助三郎を抱いたところを常真が手討ちになさったのだと、聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


人々が因果であると申し習わすのも

2019年01月29日 21:33

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/28(月) 22:54:14.43 ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)


褒美として機物にあげよ

2019年01月28日 17:51

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/27(日) 20:25:23.11 ID:RsuwMCIe
(賤ヶ岳の戦い敗戦後)

佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと赴き、主従3人で百姓の家に立ち
寄ったが、百姓めらに棒ずくめにして召し捕らえられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄されて、褒美なされようとした。「手伝い致した百姓めらも皆々参れ」
と仰せになり、百姓は御褒美を望んで「我も手伝いました!」「我も我も!」と申し、その召し捕ら
えた家に入っていたような者12人を召し寄せられた。

秀吉の御思案には「合戦の勝ち負けは世間の習いである。秀吉が負ければ、今日は人の身の上、明日
はまた自分の身の上である」と思し召しなされ、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめ
のために、褒美として機物(磔用の刑具)にあげよ」と仰せになり、その時の12人を機物に御あげ
になられた。

これは明智を討った百姓の時とは異なっておられた。討手に罪の軽重があったからである。

(中略)

三七殿(織田信孝)は野間の内海で御切腹を仰せ付けられた。その時の御辞世に、

「むかしより主をうつみのうらなれは むくいをまてやはしはちくせん」

――『川角太閤記』


徳川秀忠、池田輝政の屋敷での茶会

2019年01月27日 17:56

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 23:01:01.56 ID:5v4Tc4E9
徳川秀忠池田輝政の屋敷での茶会


慶長六年元旦、内府公(家康)の体調が悪く大坂の城への参賀はなかったが
同月十五日に快復されたので列侯は悉く登城し、新年の慶賀を申し上げられた。

二月三日、秀忠公は池田輝政の屋敷に御茶会に訪れられた。
先月十八日に、内府公から飛騨肩衝の茶入を輝政が拝領したからであるという。
このおもてなしの次第は、以前とは違い(将軍の)御成の作法と大して変わらないようなもので
関ヶ原御勝利以後、外様大名の屋敷を訪問するのは初めてであった。


――『落穂集』


如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば

2019年01月26日 20:03

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 21:59:05.04 ID:736jMRiG
元和二年の正月、相国様(徳川家康)は田中にて御鷹野を行われていた所、俄に御患われ、
次第次第に重くなり、卯月十七日に御遠行となった。御遺言については誰知りたる者は無いが、
人々が申しているところによると、相国様は

「我虚しく成った時は、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせるように。」

と仰せに成った。この時大将軍(徳川秀忠)のお答えは

「私は御遺言について、一つとして違背することはありません。ですがこの事についてはお許しください。
私としては、もし父上が御遠行成なされた時は、それより日本の諸大名を全て国へ帰し、敵対を成すならば
その国にて敵をさせ、我らが押しかけて一合戦して踏み潰します。どうあっても、天下は一陣せずしては
治まらないのですから。」

その時、相国様は手を合わせて、将軍様を拝まれた
「その事を聞きたくて、あえて申したのだ。さては天下は鎮まりたり。」

そう喜ばれ、そのまま御遠行なされたのだという。

(三河物語)

これが「わしが死んだら天下はどうなると思う」「乱れます」「そう思っているなら安心だ」って話の原型かな?
こっちは「むしろこの機会に敵対勢力を炙り出してやりますよ!」みたいな話だが。



すなわち筑前こそ上様

2019年01月26日 20:03

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/25(金) 22:22:58.26 ID:r9OmiDI6
(清州会議後)

吉法師様への御礼次第の目録を作るにあたり、秀吉は信忠様に御目を掛けられたことを仰せになって、
吉法師様の御守りを望みなさった。これを柴田殿(勝家)ら各々は感心され、秀吉は大名衆の目録に御
入りにはならなかった。

吉日の日が来ると、御一家衆(織田一族)はもちろんのこと、大名小名も残らず太刀折紙を御持参と定
め、御一家衆などは早朝に並み居って伺候なされた。

吉法師様は御月代になされて長袴に小さ刀だけで、秀吉は上段に厚畳を2畳重ね、座布団の背後の上段
3分の1ほどに屏風を立て回し、その裏側に上臈衆や御乳の人を御置きになられた。

秀吉が若君様を御抱きになられて上段に上がりなさるのと等しく、御礼事は始まった。三七殿(織田信
孝)と成心(常真。織田信雄)、その他の御一門中は御目録の如く御礼され、次第次第に事は納まった。
これは直接の御参上である。

大名衆の目録は柴田修理殿が参上し、その他も目録の如く目出度く納めたと聞こえ申し候事。

屏風の陰に御乳人や上臈衆を御置きになられた御判断は、吉法師様が御存知のない供を御覧になられて、
御機嫌を損ねた場合は御乳の人を呼び出し、御乳などを差し上げなさるためである。その他に不断に御
側に付き添い周られている上臈衆を皆々屏風の陰に御入れ故、御機嫌を一度も損ねなかった。

考えのまわる衆中はこの様子を見出し、目配せや鼻で合図して陰で笑いなさった。その子細は、

「御一家衆の御礼を始めとして、直接の御参上である。謹んで頭を地へ付けられて御礼なされているが、
筑前守殿は若君様を御膝の上に置かれて、少し頷きなさっているだけで、まことまことに上様が御礼を
御受けなさるような作法と、ちっとも違わぬように礼を御受けになられている。

柴田修理亮や滝川左近(一益)、丹羽五郎左(長秀)などにとっては猶更上様の位のように拝見致す」

前述に申し上げたような考えのまわる衆は「あれを見なされ。筑前守を上様とあがめるのは、すなわち
筑前こそ上様。御一家衆も柴田を始めとした皆々も、筑前に欺かれたのだよ」と内密に笑いなさったの
だと聞いている。

しかしながらその御礼は目出度く納まり、大名高家に至るまで宿々へ帰られたと聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』


私に吉法師様の御守りを

2019年01月25日 17:40

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 20:40:30.79 ID:OZsAZlBz
(清州会議の時)

「それでは吉日を選び、吉法師様への御礼を定める」と、勝家(柴田勝家)は申し出された。それより
「日柄を見よ」とその役の者に申し渡され、ややあって談合は終わり、その日から4日目に御礼は定め
られたとの事である。

「それでは御礼の次第目録を作れ」と、まずは御一家衆の御礼目録の巻物1巻ができた。またその次に
国大名衆の御礼の目録が別紙に1巻できた。「国大名衆は柴田修理殿、次に滝川左近殿(一益)、丹羽
五郎左衛門殿(長秀)、それから羽柴筑前守を目録に書き付けよ」とのことだった。秀吉はこれを御見
及びなさると、

「勝家と各々らへ訴訟がござる。御聞き分けになられればかたじけない。各々も内々に御存知のように、
信忠様がとりわけて私に御目を掛けられた子細(>>652)がござるが、御存知なので申し上げる必要も
あるまい。特別な訴訟ではござらぬ。私に吉法師様の御守りを仰せ付けられて下され。

私は早々と年寄りになったので特別な望みもござらぬ。城介様(織田信忠)に御奉公致すと心に取り置
いているので、この吉法師様を信忠様と存じ奉り、随分と御奉公を致したい。とりわけて申し上げる子
細はござらぬ」

と仰せ出された。これに勝家が「勝家を始めとして、秀吉が訴訟と申し出された時にはどのような事か
と各々存じたが、これは以ての外に心安き訴訟だ。我らとしても同心致す。各々もきっと別条あるまい」
と申された。

これにその他の大名衆も「貴所(秀吉)に信忠様が御目を掛けられたその様子は隠れ無きことでござる。
昔を思い出されて、吉法師様の御守りと仰せられたことは感じ入り申す。筋目を立て申し上げたうえに、
ひとしお頼もしき御覚悟である」と、各々申されたのだと聞いている。

こうして、その目録に秀吉は御入りにはならなかった。それから、その次々に御礼の次第目録を定めて
納めたとの事である。それより、柴田殿を始めとして各々は御城を出られ、屋形屋形へと戻られた。

――『川角太閤記』


子のなき者はつる葉をも捜し求め

2019年01月24日 08:23

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/24(木) 03:48:09.63 ID:wqDfmpXE
子のなき者はつる葉をも捜し求め


(文禄四年)四月廿三日

太閤様(秀吉)は関白様(秀次)の此度の御嘆き(弟・秀保の死)を気の毒に思し召し様々なことを
仰せられたので、(秀次)は良きついでと思し召して
「脇(側室)に子がありましたが、太閤様がどのように思し召されるだろうかと思い
 御沙汰をしていませんでした」
と申し上げられると、(秀吉は)
「どうして左様のことを隠していたのか。めでたいことで言い分などない」
と仰せられた。

また(秀吉は)ついに北政所様(ねね)にも
「子のなき者はつる葉をも捜し求め養子にするが、幾人御子にしても満足することはないものなので
 (秀次の子について)不満はない」
と仰せられ、北政所様より(秀次の)内儀、大上様(日秀尼)、小少将*に(そのことの)仰せがあった。


――『駒井日記』

* 同一人物かは不明だが、秀次事件で同名の人物が秀次の妻妾として連座している。


筑前守殿は城介様に恋慕故

2019年01月23日 22:33

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 21:18:36.57 ID:lazxmLUg
柴田殿(勝家)の三七殿(織田信孝)を天下の主に取り立てたいとの思案は、柴田殿が三七殿の具足始
を致された故と聞いている。この御契約故、後に柴田殿と三七殿は御懇意になられたと聞く。

秀吉は城介殿(織田信忠)と御懇意であられたと聞いている。その子細は、城介殿が御若衆の時に御公
家衆などは城介殿に御恋慕なさった。これを城介殿は御難しく思し召され、その御様子を秀吉は見及び
なさると、

「それならば、私に御目を掛けなさっていると世間に御披露なさいませ。そうすれば御気難しきことも
ございますまい。その上で私も本心から御難しきことは申し上げませぬ。その他のことも、その通りに
なさるのがよろしいでしょう」

と申し上げられた。信忠様はこれをもっともだと思し召されたということなのか、秀吉と御知音のよう
に世間で成り行き、ますます後々も御目を掛ける振る舞いをなされたという事である。

信長殿が御妹婿の浅井殿を御成敗なされて、内々にその後家をどうするかと思し召されていたところ、
三七殿は「柴田に遣されますように」と仰せ上げられた。また城介殿は「筑前守に遣されますように」
と仰せ上げられた。

そんな折に朝倉を御追罰なされ、その諸職一円を柴田に遣されて柴田は殊の外大名となられた。その時
に三七殿は、「ただ柴田に遣しなさいませ。柴田が大名にもなられた以上は、御兄弟となられましても
苦しからぬことでしょう」と仰せ上げられ、信長殿も「もっともだ」との仰せで柴田に遣しなさった。

この由緒故に三七殿を柴田は引き立てなさり、筑前守殿は城介様に恋慕故、その因みをもって吉法師様
を取り立てたいと思し召し、互いに数奇の争いとなったと承り候事。

――『川角太閤記』


週間ブログ拍手ランキング【01/17~/23】

2019年01月23日 22:27

01/17~/23のブログ拍手ランキングです!


城中には家を1宇も残さぬように 12

前田利家うらきりしたる故 9

茶々から秀次への手紙 8

もう精進は絶つことにしよう 7
さて、因果というものは 7
彼こそ後の天海である 7

叛賊の光秀が予め計っていたことには、 6
その儀ならば別心か。 6
古き武辺者たちは目引き鼻引き笑っているのだ。 4


今週の一位はこちら!城中には家を1宇も残さぬようにです!
明智光秀との決戦へ赴く秀吉の覚悟。中国大返しから山崎の合戦に至る一連の流れは、やはり秀吉神話の真骨頂というべき
ものだけに、これ以外にも彼の覚悟を表す逸話がいくつかありますね。姫路城の財貨や兵粮を全て兵士に分配したという
話とか。秀吉の生涯の中でも、これほど乾坤一擲の覚悟で挑んだ戦いは、光秀との決戦だけだったと思います。
それまでは信長のもとでの任務であり、これ以降は最大勢力としての余裕を持つ中での戦いでしたから。
逆に言えば、ここで乾坤一擲を挑み、それに勝ったからこその彼の天下の成立でも有ったのでしょう。
そんな事を感じるお話でもありました。

二位はこちら!前田利家うらきりしたる故です!
賤ヶ岳での前田利家の無断撤退について、歴ヲタの一部では「アレって関ヶ原の(俗説で言うところの)小早川秀秋の裏切りより
よっぽど酷いよな。」という意見があります。僕もそう思いますw前田利家の裏切りがなければ柴田勝家が勝っていた、とは
思いませんが、すくなくとも賤ヶ岳でああいう壊滅的な負け方はしなかったとは思います。
そういう評判を気にしてのことか、前田家というのは歴史書にどう著述されるかを非常に気にしていたフシがあり、
小瀬甫庵の後援をすることで、甫庵信長記や甫庵太閤記において前田利家や前田家を、非常に好意的に描かせた、
なんて言われたりもします。なのでこの「祖父物語」に、非常にダイレクトに「前田利家の裏切り」と書かれているのは、
たいへん貴重な記述だと思います。少なくとも当時やそれに近い時代の人たちに、賤ヶ岳での前田利家の行為は裏切りである、
という認識があったという事ですから。
そんな事を感じた逸話でした。

今週管理人が気になった逸話はこちら!茶々から秀次への手紙です!
この、将来への暖かな思いが感じられる書状が文禄二年閏十月八日、秀次事件の始まりが文禄四年六月末。
本当にどうしてそうなるのか。秀次事件の後召喚された伊達政宗の言い訳ではありませんが、秀吉の望みで秀次は
このようにもり立てられていたわけですから、それが二年足らずで謀反人扱いされるなど、片目でなくても解らなかったと
言わざるを得ませんね。この逸話から受ける印象もそうですが、秀次事件はつくづく、豊臣政権の自傷行為だなと、
いろいろな逸話や史料、書籍を見るたびに思ってしまいます。


今週もたくさんの拍手を各逸話にいただきました。いつもありがとうございます!
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

古き武辺者たちは目引き鼻引き笑っているのだ。

2019年01月22日 17:58

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 22:07:09.62 ID:y1eQSZez
大阪夏の陣の後、京都にて大坂での働きの良し悪しについての御詮索が行われたが、或いは伝長老
金地院崇伝)に相申したるという人もあり、または宗哲法印(片山宗哲)に相たるという人もあり、
或いは自分たちで互いに言い合って証人に相立ちたる人もあった。事おかしき証人である。

昔は出家や医者などを武辺の証人に立てるような人に対しては、中々付き合いもしなかったものだが、
今の世は末世にも成り、出家と医者が武辺の脈を取り、或いは察すれば武辺と成るようだ。

又は、度々武辺をした者を、昔は武辺の証人として立てたもので、その生きている間に敵の顔が
赤いか黒いかも知らぬような者を、武辺の証人に立てるような事は、笑って腹筋が痛くなるほど
おかしな事である。
(又は度々の武辺したる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きも
しらざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。)

相国様(徳川家康)はもとより度々合戦を経験した、日本では勿論異国までも隠れなき御武辺第一の
相国様であるが、おかしく思われながらもそれなりに対応し打ち置かせられているので、そういった
報告をした者達で自分の説明が通ったと武辺顔をしている者も多い。しかしそれを、古き武辺者たちは
目引き鼻引き笑っているのだ。

(三河物語)


叛賊の光秀が予め計っていたことには、

2019年01月22日 17:57

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 04:13:57.36 ID:lazxmLUg
叛賊の光秀が予め計っていたことには、

「柴田勝家は越前北庄に在城して越後の上杉景勝と対陣し、羽柴秀吉は毛利という大敵と合戦の最中、
佐々成政は越中にあって道は遠い。滝川一益は関東にあって北条を気遣い、容易に出軍は叶うまい。
三七信孝と丹羽長秀らは大坂にあって未だ四国へ発向していないから、この輩は弔合戦をしようと引
き返し、押し寄せるかもしれないと思う。

しかしながら、その中の織田七兵衛信澄(津田信澄)は光秀の婿である。その上、信澄の父・武蔵守
信行(信勝)は弘治3年(1557)に謀叛して信長公のために誅せられた遺恨もあるから、必ず我
に味方するはずの者ぞ」

と内々に頼み遣わすと、信澄は早速一味した。この時は四国発向のために順風を待ち合わせ、信孝を
始めとして丹羽長秀蜂屋頼隆も共に大坂城にいた。信孝・長秀は本丸に住し、信澄は二の丸にいた
ところを、光秀は謀を授け、「もし信孝を謀り殺したならば、その恩賞として摂津を半国授けよう」
と申し遣わしたのである。

信澄は願うところの幸いと大いに喜び、諸々謀を巡らせたが、その陰謀はたちまち露見した。信孝は
丹羽・蜂屋らと相談し、「それならばまずは光秀誅伐の手始めに、逆党である信澄を誅戮する!」と
軍勢を催し、二の丸を取り囲んで鉄砲を厳しく撃ち掛け攻め寄せた。

信澄も「覚悟したこと!」と手勢を指揮して手強く防戦しようとしたところ、その家人・匂坂民部丞
は「逆意であるからとても打ち勝つ戦にあらず」と思ったのか、丹羽に回忠して寄手を二の丸に引き
入れ、信澄はついに叶わずして上田左太郎重安(宗箇)のために首を取られた。

光秀がこれを聞いて肝を潰し、狼狽したことこそ浅ましいことである。

――『改正三河後風土記』


大坂には三七殿と惟住丹羽五郎左衛門殿、織田七兵衛殿の3人とその他小大名衆4,5人がおられた。
惟住五郎左衛門殿の所より秀吉が承ったことには、

「近日中に姫路へ御帰城の由を承りました。早々に御馬を急がされよ。拙者の次第も御弔合戦一つを
志してはおりますが、御存知のように七兵衛殿は日向守の婿であるため、きっと内心は一味同心であ
ると推量致して前の疑いは果てぬ故、大坂を出立しないのはそれが理由なのです。後から様子につい
ては追々注進させます」

と五郎左衛門殿より道中への早飛脚があったと、相聞こえ申し候事。

(中略)

これは羽柴筑前守殿の所から丹羽五郎左衛門殿への御内心と聞いている。

「織田七兵衛殿は日向守と本心は一味同心であろうと存ずる。三七殿と仰せ談じられて、七兵衛殿を
御討ち果たしなさるのが御もっともと存ずる」

この筑前守殿の御内心と、五郎左衛門殿も内々は判断を同じくしていたので、七兵衛殿の御座所の大
坂本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せて鉄砲ずくめにして攻撃致され、道理も表裏もなく七兵衛殿を討ち
果たしたのだと聞いているが、まさしく明智合戦は収束した。

(あや表裏なく打果し申と聞え申候扨こそ明智軍はおさまりけり)

――『川角太閤記』



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 05:39:16.44 ID:mhxHrSOm
大坂城ってあったのか

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 08:13:54.80 ID:PazeiqiM
>>687
名前は知らないけど、本願寺を応急措置で修復したものでしょ
ここを本格的な城にして安土の後の居城にするつもりだったって話もあるよね

もう精進は絶つことにしよう

2019年01月21日 17:08

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/20(日) 23:40:41.91 ID:Vh2MfU6r
(山崎の戦いの時)

秀吉は尼崎に御着きになり「禅寺はないか」と御尋ねになったところ、小庵1つを尋ね出して
御腰を掛けられた。しばらく御休みになって、御指図されたことには、

「信勝(羽柴秀勝)と久太郎殿(堀秀政)は聞きなされ。上様(織田信長)御切腹の知らせが
備中高松へ注進された時より、私は精進潔斎を確かに致し、すでに敵との距離も程近くなった。
この上は合戦に及ぶまでである。

私は年寄り故、この頃は腹中も思いのほか力が落ちたように覚える。もう精進は絶つことにし
よう。しかし御奉公には力を付けて槍をも取り、敵と太刀打ちする覚悟である。信勝と久太郎
殿は御若いのだから、精進を御絶ちになられてはなりませぬぞ」

と仰せになり、その次に台所衆へ「魚や鳥をなるべく使って料理を致し、我が前に出せよ。そ
れから亭主の僧を呼び出せよ」と仰せられ、御行水をなされて御櫛を下ろされた。

それから「信勝は若いのだから様を変えなさるのは無用である。短く茶筅に髪先を切りなされ
よ」と、秀吉は仰せになった。すると久太郎殿も「様を変えたい」と申されたが、「ただ髪先
を信勝と同様に御切りなされ」と秀吉は御教訓され、久太郎殿も信勝同様の体と相定め候事。

――『川角太閤記』

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/21(月) 17:53:58.69 ID:+QkshJgz
その御櫛(>>649)を紙に御包ませなさり、3人の御髪を仏前に御納めになられ、その僧に仰せ
出されたことには、

「合戦が利運となったならば、50石の地を末代まで差し遣し申す。多いというなら、すべて
代替わりの時の引出物とするがよい。そのために少し付けて遣そう。御祝いのためだ」

とのことで、金子3枚を遣されたのだと承っているが、かの50石の地は御所様(徳川家康)
の御代でも、今においても差し障りなしと相聞こえ申し候事。

御膳を据えて御盃を信勝(羽柴秀勝)へ御差しになり、仰せになったことには、

「惟任日向守は親の仇、または主の仇のこれ二つなれば、信勝は私めより先に討死なされよ。
その様子を見届けて秀吉は討死すると定めておる」

とのことで、盃を御取り交わしになったとの事である。

――『川角太閤記』


城中には家を1宇も残さぬように

2019年01月20日 19:08

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 18:39:36.49 ID:G7bkcu8p
(中国大返しの頃)

秀吉は三好武蔵守殿(吉房)と小出播磨守殿(秀政)両人を召し寄され、いかにも密かに仰せ聞
かせられたが、その様子はまったく知られず、この2人を御城(姫路城)に残し置かれた。

御合戦が目出度く収まって後、この両人の雑談でその時の有様は定かに知られ、それまでは人々
が推量したまでであったと聞いている。その次第は、

「合戦が負けとなって(秀吉が)討死となったならば、御袋様(大政所)と御前所(高台院)を
しずしずと片付けて(御袋様御前所しつしつとかたつけ申)、城中には家を1宇も残さぬように
焼き払えとの御指示であったが、このように目出度く収まった」

と、両人は後に喜んで雑談されたのだと相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 19:12:12.77 ID:hNL8ounx
よくわからんな

山崎の合戦の時堀は留守居じゃないし秀吉の家族は長浜だよな

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:09:30.77 ID:2x4KpY7B
堀秀政ではなくて小出秀政でしょ
伝聞だろうから何処かで入れ替わっているかもしれんし、敗戦後の長浜の処理を頼んだ二人を合戦で死なせない為に残したってことかもしれん

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 20:44:18.75 ID:hNL8ounx
すまん普通に空目して変なこと言った

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 05:40:01.15 ID:jhMglM8j
堀秀政
小出秀政
小笠原秀政
津田秀政
中川秀政

秀政多過ぎ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/17(木) 06:46:05.86 ID:8kiO8YrY
長政

さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)


茶々から秀次への手紙

2019年01月19日 18:16

淀殿   
667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 23:37:12.99 ID:oWMg4/ko
茶々から秀次への手紙


文禄二年閏九月六日に、関白・豊臣秀次は太閤・秀吉の有馬湯治の見舞いへと赴いた。
見舞いに行くことを北政所と茶々へそれぞれ手紙で伝え、自身も湯治をした。(『駒井日記』)
以下は十月八日に来た茶々からの返信。


(有馬の)御湯が丁度良く、すぐ清須まで戻ってこられるとの懇ろな手紙をありがたく喜ばしく思います。
太閤も一段とご機嫌がよく、この程は聚楽に御成されました。
姫君(秀次娘)も御息災でいられるそうです。そのまま御上洛をお待ちしています。
御文はよくよくありがたく思い、何と言ってもめでたいことですから重ね重ねお願い申し上げます。かしく。

人々御中 
まいる    申給へ

――『福田寺文書』

返信前の十月一日には秀吉により御拾(秀頼)と秀次娘の縁談が取り決められており、それを受けての手紙と思われる。
このとき許嫁となったとされる八百姫は病気がちで、秀次正室の若政所が祈祷依頼を出している。(『兼見卿記』)
秀次自害の連座で亡くなった子女に八百姫がいないこと、没日が違うことなどから自害前に亡くなったとされる。


その儀ならば別心か。

2019年01月18日 09:50

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 00:10:47.32 ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 11:46:54.74 ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 16:23:39.52 ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 20:45:30.78 ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 22:38:06.98 ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう~。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 19:05:44.45 ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

前田利家うらきりしたる故

2019年01月17日 19:05

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 21:13:33.90 ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。


彼こそ後の天海である

2019年01月16日 18:55

天海   
634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 20:48:00.21 ID:ogDEz5zg
蘆名盛重(義広)が摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ落人と成った時、会津城内の稲荷社別当である喜楽坊が
指図し、女にも刀脇差を挿させ、自身は薙刀を持って盛重を警護し、敵の中を堅固に撤退した。
その後盛重が常陸国江戸崎に在った時は、この喜楽坊を不動院と呼んだ。
彼こそ後の、東叡山寛永寺の南光坊天海である。

(武功雑記)

天海が会津蘆名家の所縁という話、武功雑記にも出ていたのね。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 21:38:03.52 ID:ykTP4dc7
じつは武闘派だったりするんかね

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 22:47:13.99 ID:0qpatG4+
戦国時代の僧侶はモンクみたいなの大すぎィ!まあそんな時代だからこそだろうけど

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 00:28:32.87 ID:C/26Bp5P
摺上原の戦い(1589.7.17)の頃にはもう家康の幕下にいたんだろうけど
まあそういった噂が立てられるぐらいには武張ってたのかね>天海の喜楽坊時代

週間ブログ拍手ランキング【01/10~/16】

2019年01月16日 18:54

01/10~/16のブログ拍手ランキングです!


わざと深いかのように 19

寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子 15

その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申した 7
「狼を退治した狛犬」 6

平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けた 5
たのしみに 命にかへて何かあらん 5
合戦も仕掛けず、人質も出さず、 5
異教徒の特徴 5


今週の1位はこちら! わざと深いかのようにです!
源平合戦の昔から、味方を出し抜くのも武士の習い。この郷戸三郎左衛門、中間とはいえ正しく武士の魂を持っている
人物ですね。武士の正々堂々とは、敵や味方を騙さないことではなく、騙したことに言い訳をしないこと、だと思っています。
そして出し抜くことがちゃんと評価されるのも武士の習い。彼を武士に値すると評価した田中吉政も、正しく武士の主人ですね。
そんな事を考えさせてくれる逸話でした。

2位はこちら!寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子です!
これも武士らしさ溢れる逸話ですね。散り際の鮮やかさ、華やかさこそ武士の真骨頂。理屈抜きに美しい死に様です。
逆にここが悪いと武士としてそれまでの生き様も全否定されるので、正しく必死です。
三河者に限らず、武士というものはつくづく面倒くさい人々なのですが、だからこそ今も日本人に、強烈な印象を残して
いるのでしょう。そんな事も思うわせてくれる逸話です。

今週管理人が気になった逸話はこちら!その悪しき臭いは安土中へ吹き散らし申したです!
実はこれと似た逸話は「祖父物語」に有るのですが、そちらでは中国の秀吉より緊急の援軍要請がありそのため
任務替えとなると、光秀が腹立ちのあまり用意していた食材などを安土城の百々橋の下に棄てたというもので、
腐っていた云々はこの時点では存在しませんね。おそらく同じ話が、川角太閤記の時点でいろいろ脚色されたということでしょう。
逸話というのはこのように、ソーズがそのまま伝えられるというより、時代と共に、また様々な人の手を経るごとに「成長」するもの
でして、これもその一典型なのだろうなあ、なんてことを思いました。逸話って、そういう楽しみ方も出来るのです。


今週もたくさんの拍手を、各逸話にいただきました。いつもありがとうございます。
また気に入った逸話がありましたら、そこの拍手ボタンを押してやってくださいね!
(/・ω・)/

平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けた

2019年01月15日 19:06

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 23:01:14.76 ID:O4RpCBZN
後に人々は算段して「これ(明智秀満が吉広江の脇差を渡さなかったこと)は松永殿(久秀)が大和
信貴山の城で切腹した時、櫓の下へ付いた佐久間右衛門(信盛)の手勢より、城内へ呼ばわりかけた
のとちっとも違わない」と、申されたのだという。

その子細は、佐久間右衛門が所存を出されて、松永殿へ申し付けられた言葉だと聞いている。

「この度の事に及んでは、内々に御秘蔵の平蜘蛛の御釜を、上様(織田信長)も常々御望みに思し召
されておられる故、御出しになるのがもっともである! それで滅んでしまっては、あまりに本懐なき
次第と存じ奉る!」

以上の通りに松永殿へ告げ知らせたとおぼしく、ややあって城内からの返事があった。

「平蜘蛛の釜と九十九髪の茶入、これは来世まで持って行き、慰みにと存じていた。そんなところに、
安土の御城で信長殿は御自身で御茶を下され、その時に『いつまでも御手前の九十九髪の茶入で数寄
を致すがよい』と、仰せられたのである。

その時に私めは茶室を新しく建て、九十九髪で信長殿に一服申し上げようと存じていたのだ。しかし、
その頃の信長殿は私めを方々に御遣わしになられたので、その機会もなく打ち過ぎた故、九十九髪を
安土の御城で進上したのである。

しかしながら、平蜘蛛の釜と私めの首の二つは信長殿の御目には掛けまいぞ!」

このように返答すると、松永殿は平蜘蛛の釜を微塵粉灰に打ち割り、その言葉に少しも違わずに首は
鉄砲の薬で焼き割り、平蜘蛛の釜と同様に微塵に砕けたのである。(頸は鉄炮の薬にてやきわりみし
んにくたけけれはひらくもの釜と同前也)

この九十九髪は、古に九十九石の田地で買い取ったため、その名で呼ばれたと承っている。信長殿は
御秘蔵なされ、御最期の時に本能寺で焼き割れたと、相聞こえ申す事。

――『川角太閤記』



647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/15(火) 13:48:55.66 ID:0qpatG4+
>>644
九十九髪も同じ運命をたどる皮肉、悲しいなぁ

寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子

2019年01月14日 17:12

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 18:56:01.30 ID:iwxzEU62
(坂本城落城の時)

城中では坂本城にやって来た弥平次(明智秀満)を見付けて、上下に至るまで勇み喜ぶこと限りな
かった。それから弥平次は人数に役目を行き渡らせて「ざっと務めよ」と申した。人数は偉丈夫で
はなかったが、そこかしこに配置した。その後、湯漬けを取り寄せてゆるゆると食すると、天守に
鉄砲の薬を開けさせた。

弥平次が天守から寄手を見渡せば、すでに城を半分ほど取り巻いていた。寄手は堀久太郎殿(秀政)
である。弥平次殿は天守から降りて塀の周囲を駆け回り、自身でそこかしこで鉄砲を撃ち、城を持
ち固めているように敵に見せかけ、また天守へ取って返すと、諸々の道具を取り出した。

弥平次は新身国行の刀と吉光の脇差、虚堂の墨跡を夜の物(夜着や寝具)に包み、目録を添えて、

「やあやあ、寄手の人々へ申す! 堀監物殿にこれを渡されよ! この道具は私ならぬ天下の道具な
れば、ここで滅しては弥平次は傍若無人と思し召される故、渡し申す!」

と申し、天守からこれを落とし申し候事。ややあって堀監物は返事をし、

「御目録の如く、少しも違いなく受け取り申した! しかしながら、申したき子細がある! 日向守
殿(明智光秀)が内々に御秘蔵なされた真の倶利伽羅の吉広江の御脇差はどうしたのか!」

と尋ねた。これに弥平次は返事して、

「その道具は上様(織田信長)より日向守が拝領された御道具である! 秘蔵の吉広江の脇差は久太
郎殿やその他の大名衆も御存知のように、越前国が破れた時に、朝倉殿の御物奉行が肌に差して出て
行ったところを、後に日向守が密かに聞き出して求め置かれたものだ!

渡したいとは存ずるが、光秀が命もろともと内々に秘蔵された故、私めの腰に差して死出の山にて
日向守に渡したいがためである! その事を御心得なされたい!」

堀監物とは現在の丹後守殿(秀政の従甥直寄)の親の事にて候。

(中略)

弥平次は真の倶利伽羅の切り物のある吉広江を、言葉を違えずその時に失わせた。

「時刻が移って敵が乱入すれば外聞は見苦しいであろう」と弥平次は覚悟を定め、日向守殿の御前
所(正室)と自身の内儀を手に掛けひたひたと刺し殺し、その脇差を取り出して天守の戸を開いた。

「寄手の人々は御覧になれ! 弥平次自害の様子を見習って手本にせよ!」

と弥平次は言うと、腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇ったのだということである。

後に焼け跡の灰を探してみると、残りの刀や脇差、その他の道具の形は確認できたが、吉広江の脇
差は見付からなかった。その後、古井戸からこれを取り出したが、すでに腐ってその形も見分けら
れず、「おそらく吉広江であろうか」と人々が推量するだけであったと聞いている。

松永殿(久秀)は首と平蜘蛛の釜を見せなかったが、この脇差の収め様もよく似ていると人々は申
し合ったと承り候事。

――『川角太閤記』



633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 20:38:19.00 ID:cDY2A0Xz
>>629
>腹を十文字に掻き切り、伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天の空へ昇ったのだ
美しい…

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:31:45.01 ID:2dhPlWF7
全然悪い話ではなくむしろ良い話に思える

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 23:44:19.36 ID:0ukWP+Ka
>伏せざまに鉄砲の薬に火を掛ければ、煙となって一天
の空へ昇った
松永弾正「爆死はわしの専売特許だぞ」

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 14:49:45.95 ID:928moBb/
>>629
>死出の山にて
>日向守に渡したいがためである!
これでほんとにそれだけ失われたってのがロマンティックで良いなぁ

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 15:37:18.95 ID:Qplf3XGe
誰かーロマンティック
止めてーロマンティック
胸がー胸がー苦しくなるー

たのしみに 命にかへて何かあらん

2019年01月13日 17:41

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 14:14:41.48 ID:51sqmfoq
大橋龍慶は河内の誉田の者で、片桐且元に仕え、右筆を務めていた。
豊臣秀頼が暴発しないようにと且元が考えている間に、大阪の陣が起こった。
その後大橋は、且元の息子である片桐出雲守(孝利)を頼って江戸へ下り、また故郷に帰るとして
三島まで上ったところで、且元弟の片桐主膳正(貞隆)に会い、主膳正が連れて江戸に戻り、
大炊殿(土井利勝)に近づき、そこから幕府に召し出され、高田に屋敷を与えられ知行五百石を
拝領し、法印に任じられた。

彼は徳川家光が心安く召仕い、踊り歌などを作ること上手で、家光がこの大橋の屋敷へ渡御された
事もあった。家光の日光還御の時、岩槻に一宿された日、先に帰ったため御意を違えたという。

彼が家光より拝領した茶入は、谷出羽守(衛友)の遺物で、有明というものであった。家光は
これを下した時、その名を「命」と変えた。これについて小堀遠州に歌を詠むよう仰せ付けた。
遠州はこのように詠んだ

 たのしみに 命にかへて何かあらん
       なからへて見し有明の月

(武功雑記)



632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 17:33:08.06 ID:Nr1GgLBJ
有明が谷家から幕府へ渡った経緯は悪い話

合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。