伊東家と島津家、修好の復活

2016年07月12日 08:58

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:11:19.82 ID:c7/Arcse
日向伊東家は、島津家とは黒田如水の指示により、朝鮮陣の最中、加徳島にて好を結んだが、
関ヶ原の一戦の時、島津家は大阪に属し、伊東家は関東に属したため、宮崎近辺にて両家は数度の
衝突があり、それまでの和睦も崩れ去った。

しかしこの頃、報恩公(伊東祐兵)が逝去し、後を継いだ伊東祐慶は未だ幼少であったので、伊東家の
諸大将は、島津家に頼ることも必要であると評議していた。そんな中、島津家より

『隣国の好は永く変わらない。我々は祐慶公成長の後は、こちらの息女を以って娶らせたい望みを持っている。
どうか鹿児島に来ていただきたい。』

との意向を伝えてきたため、慶長16年(1611)8月、伊東祐慶は鹿児島に赴き、兵庫頭(島津義弘)と
面会した。この時祐慶に供奉したのは、家老の川崎大膳亮、松浦久兵衛尉を始めとして、選ばれた屈強の勇士
数十人であった。

島津家の側は伊東家一行を非常に歓待した。喜入摂津守に命ぜられ善美を尽くして饗応した。
この時、猿楽の興行があり、白楽天の番組と成った時、
「今や今やと松浦船~」
という謡の文句を
「今や今やと与津船~」
と言い換えた。
これは祐慶の供奉に松浦久兵衛尉があったため、その名前を避けてこのように変えたのである。
このように島津家では、ここまで深く萬に念を入れて伊東家に気を使ったのである。

ただし祐慶公と島津家との縁組は、将軍家の沙汰難しくそのことは実現しなかった。
それでもそこから二代にわたって、両家の間は音信の使者絶えず、互いに懇意な事であったが、
その後は何ともなく、再び疎遠の間柄と成った。

(日向纂記)

島津家が関ヶ原後、伊東家との修好復活のため、その家老にまで気を使っていたというお話




928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 01:28:08.16 ID:41NkNuSk
伊東は黒田の舎弟だからさ、後に疎遠になったのは幕府からの黒田への評価が下がったから。

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 10:15:23.83 ID:z8yrg7Qr
江戸の時代になっても大名が気軽に隣国を訪れることが出来たんだな
いつ頃から出来なくなったんだろ?
武家諸法度あたり?

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/12(火) 20:55:22.15 ID:toR9SZ93
豊臣を滅ぼしてからとか。

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    『おい鶴食えよ、旨いぞw』
    の頃からだいぶ変わったんだなぁ

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    あれは家も身内も政治も状況が全然違うじゃない?

  3. 人間七七四年 | URL | -

    記事と関係ないですが、上野の国立博物館で、イタリアで発見された「伊東マンショ肖像画」が期間限定で展示されてました。16歳なのに口髭を生やして、顔も西洋人っぽく描かれてました。
    確か、佑慶さんが「ローマに派遣」の予定が、安土に行って間に合わないから、代わりに遠縁の「マンショ」が行った。と書いてありました。間違ってたら、すみません。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    伊東と肝付、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    慢心していたのは明らかに伊東の方じゃないかな……

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