こうしてようやく、一時の急を免れる

2016年07月15日 15:45

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:14:16.71 ID:GagDrAPh
慶長19年、東禅公(伊東祐慶)は江戸に出府され、9月7日、江戸詰の諸大名と同じように、
坂井讃岐守邸にて会合があり、徳川家に対して二心無き誓書を奉った。

10月、両将軍は大阪へと出陣され、祐慶も陪従にて、同月26日、京都に到着した。
この時伏見の伊東邸には平部長右衛門尉俊直が在番していたが、祐慶が京都に到着したと聞くと、
手元にあり合わせた金銀などを取り集め夜中に邸を忍び出て、かろうじて京都にこれを届けた。

しかしこの持参した金子も多分というわけではなく、軍用には大きく不足していた。
当面の軍費として伏見邸の金銀を当てにしていた伊東家の人々は困り果て、どうするべきかと相談していた所、
大阪邸に出切りしていた商人に、尼ヶ崎屋七右衛門という者があり、彼を尋ね出して才覚をしよう、
という事となり、様々に尋ねようやく見つけ出した。

召しだされた尼ヶ崎屋七右衛門に、伊東祐慶は直に対面し、金子の才覚を頼んだ。
しかし七右衛門はこれを断った

「金銀は所持しているものの、今回の騒動を受けて、或いは人に預け、或いは深く蔵し、
或いは遠国へと運び置いて、分散して避難させていますので、急にこれらを集め、参らせる
手立てが有りません。」

これを聞いて祐慶は深く憂慮した様子を見せ、それに対し七右衛門も忍びがたく思い、
金の椀10人分の揃いを近所の人家に預け置いていたのを持参して

「こればかりの品では、御軍用の費えにはならないでしょうが、せめての志の印として
この品なりとも献じさせてください。」

このような事が有り、伊東家の者達はそこから京都を発って山崎澤に一宿したが、
大阪に到着するまでの用意すら心もとない状態であり、いかがすべきかと再び評議して、
京都の金融業者である岸辺屋、金屋の両人に相談する以外にないと結論し、借家原源左衛門尉満実を
京都に派遣した。この時、名のある品ではないものの、手元にあり合わせた墨跡・茶入れの二品があったのを、
先ずはこれを質として頼み談ずるよう命ぜられたので。源左衛門尉はこの二品を持参し、先の
尼ヶ崎屋七右衛門を案内者に頼み、岸辺屋、金屋の両人に申し入れた。

両人も初めは中々引き受けようとはしなかったが、七右衛門が間を取り持ち。様々に説得したので、
両人も「已むを得ない」と、判金10枚を差し出した。

こうしてようやく、一時の急を免れるという、実に哀れなる有様であった。

(日向纂記)

伊東家、大阪冬の陣に参陣し、お金がなくて大変だったというお話



857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/14(木) 19:39:48.68 ID:gsTyxJTG
幕末のころの借金の多さは有名だが、江戸時代の初期から金欠だったんだな

スポンサーサイト


コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    金欠というより「口座には金があるのにATMがない」状態に近い気が。
    はい、経験者です。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    岸辺屋がヤミ金だった。というオチを期待しました。はい、「闇金ウシジマ」の読みすぎですね。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    遠路における手配が出来る家臣がいなかったというように見えますね。
    地方の大名となるとコネクション作りが必須なんでしょうが、家をやっと再興できたばかりで遠路へ向かう手筈を整えて出陣を迎える余裕がなかったんでしょうね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    伊東家の内情を考えれば、軍資金を用立てる余裕なんて無かったでしょうね。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    尼ケ崎屋さんの良い人っぷりに涙。

コメントの投稿

(コメント編集・削除に必要)
(管理者にだけ表示を許可する)

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/10105-71e68741
この記事へのトラックバック