能役者喜多が祖の事

2016年08月23日 18:11

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/23(火) 03:51:17.17 ID:JLm47JcP
能役者喜多が祖の事

能役者喜多七太夫の祖は、右京と称して太閤秀吉の近習士であった。
七太夫の家に伝わっている話に

大坂落城のとき右京も城内に居たが、大野修理が「早く傘を櫓から出して振れ」と言ってきた。
右京はその言葉に従って天守に上り、狭間から日傘を出して振れば、
雲霞の如く集まっていた寄せ手が、見るうちに段々減ったというものがある。

また城中の婦女雑人の類は、皆々落出る体となったので、右京も故郷筑前に落ち帰ったそうだ。

ただしこれは表向きに言うことで、
実は落城の時関東の御内旨で
秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

この櫓から日傘を出したことを矢留の傘とかいって、故実あることだという。
しかしいかなる訳かそのことは不詳である。
これは七太夫の父、湖遊が語ったことと聞く。
(甲子夜話)




115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 13:34:37.63 ID:+0+aEUCX
>>101
>実は落城の時関東の御内旨で
>秀頼が薩摩に落ちられるのを右京が従っていったという話だ。

関東の御内旨ってことは秀頼が生きて薩摩に逃れたのは家康、秀忠も了承してるってこと?

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    大坂方の人たちどれだけ薩摩に来るつもりだろうか?

    元和元年、薩摩と大阪諸将とほっかむり
    ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2529.html

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    少なくとも、「薩摩に逃れた大阪方の武将がいた」って事を示唆する逸話なんですかね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    薩摩の島津家は、そんなに秀吉によくしてもらったわけではないと思うんだけど、なんで、逃亡先が島津なのかね。

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3殿
    関ヶ原の後、宇喜多さんを匿ったからですかね。
    実際のところ明石さんの息子が薩摩に潜伏していた。
    (後に捕まってしまったけど)

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    二回とも参戦出来ずに終わったのが豊臣に好意的だから と取られたのかもしれませんね。
    大大名の中でも細川や福島等、幕府の特別の指示がない組を除いて唯一参戦していませんし、実際、畿内では島津の謀反説も流れたらしいですし、上にある宇喜多保護も相まって 島津ならそれでも島津なら って過大評価受けたかもしれませんね
    まあ、悪久はなまじやる気が有ったので涙目だったらしいですが

  6. 人間七七四年 | URL | -

    >>どうして薩摩へ
    以前このブログでも同様な疑問が投稿されていましたね?(どの逸話だったのか忘れたけど)
    ただ、その中で個人的に納得行ったのが「当時の日本の端っこだから」と言う回答でした。

    東北逃走の場合は東は近江・美濃・駿河、東北は越前・能登・越中。そして太平洋側は当然関東も
    突破しなければならないし、徳川寄りの領地ばかりで移動距離も長い。
    そして匿えるだけの十分な規模の大名も居ない(せいぜい伊達家くらい)。
    西国逃走の場合は、元豊臣系武将が多く匿ってもらえる可能性と、九州へは船を使わないとならな
    いので陸路よりは希望もあるから。と言う感じでした。
    (結構前の事なので多少内容違うかも?)

  7. 人間七七四年 | URL | -

    平家も西国へと詰め寄られているというのに、その故事と同じように西国へ落ち延びていったという逸話があるのは因果を感じる。
    豊臣恩顧の武将がいるといっても、だいたい代替わりしてるから期待は出来なかっただろうに…なぁ。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    九州から逆襲した足利尊氏とかいう怪物
    予測できた楠木正成もすげえがそりゃ誰も信じないのも無理はない

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※6殿の
    (東は)>匿えるだけの十分な規模の大名も居ない(せいぜい伊達家くらい)。
    確かに、明石掃部の息子の内記は奥州の伊達藩領に潜伏していたが、
    寛永15(1638)年、密告により逮捕され、護送される途中、
    宇都宮で死亡したそうなので、匿ってもらえる可能性として伊達領か島津領が
    妥当だったのだろうなあ。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※9
    東北は小大名だらけですからね、関東はそもそも論外だし。
    四国は当時はまだ田舎過ぎて住む場所限られるし。
    そんなモンでしょうね。

    最も豊臣家の逃げ場なんて最初から無いんですよね。
    結局自分達で首絞めちゃったのだから・・・

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    逆に北上して蝦夷へ逃げたらそれはそれで九郎判官チックではある
    そして「ホンタイジの正体は豊臣秀頼だったんだよ!!」という謎の説が登場

  12. 人間七七四年 | URL | -

    ※11殿
    「西郷隆盛、ロシアに逃れて生存している」伝説並みに
    凄い説になりそうですね、それは。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※12
    このサイトの主旨からは外れますが、ふと考えるとどうやって鹿児島から逃げたのやら。大陸経由でしょうか?

  14. ※12 | URL | -

    ※13殿
    当時の鹿児島新聞に「西郷、桐野、村田などは、九月二十二日の夜、官軍の囲みを突き破って
    串木野の島平に着いた。そこから舟で甑島にわたり、桑浦からロシヤの軍艦に乗り込んで、
    ウラジオストックに上陸。今、シベリヤの兵営にとまってロシヤ兵の訓練をしている」
    なんて記事が載っていたそうで・・・
    1891年(明治24年)にロシア帝国皇太子ニコライ2世が来日し、鹿児島へも立ち寄ると、
    西郷が皇太子と共に帰国するという風説もあったので沢山の人が見に行ったと言う話も
    あります。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    ※14
    それはまた大冒険な!まるで映画の世界ですねw
    ま・それが元でニコライ2世がとばっちり受けちゃうんだからお気の毒様だよね

  16. ※14 | URL | -

    ※15殿
    まさかそれが、大津事件のキッカケになろうとは・・・てなもんですよね。

    明治の話ばかりしてしまったので話を変えて・・・
    鹿児島にある真田幸村の墓(伝)と豊臣秀頼の墓(伝)真田丸効果で訪れる人が
    増えているそうです。(幸村の墓(伝)の最寄のバス停は一日に一本もバスが来ない日
    もあるので公共機関はお勧めしません)

  17. 人間七七四年 | URL | -

    伊達は武将本人じゃないけど真田信繁の息子と娘を片倉家で匿って、そのまま八代くらい隠し通してたな。
    関ヶ原や大阪の陣後、どっかに逃げこんだ敗将が突き出されるパターンも多かったけど、
    割とあっちこっちで誰かしらに匿われて、その事実が永遠に歴史にでてこないパターンもあったんじゃないか?
    証拠になりそうな身の回りの品捨てて、匿う側が「こいつは別人。逃亡者なんて知らねーよ。」で押し通せば
    追及側も逃亡者本人である動かぬ証拠ってなかなか示せないし、
    写真も戸籍も指紋での認証とかもある現代より、匿う側のリスクは低そう。

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