ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

2016年08月25日 14:55

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:09.55 ID:vy/UI/bB
ガラシャの鐘とディエゴ加賀山の殉教

永青文庫にて所蔵・展示されている「九曜紋付南蛮鐘」は、記録がないため詳細は不明だが
現存する4つの南蛮鐘(キリシタンベル)の内の一つで大変貴重なものであり
現代の細川家/永青文庫では通称『ガラシャの鐘』と呼ばれている。



細川忠興は妻の珠(ガラシャ)とは生前信教のことで対立することも多かったものの、
珠が自害した翌年には焼跡から珠の遺骨を拾ってくれたオルガンティノに教会葬を頼み、自身も参列。
慶長7(1602)年からは、小倉城下ではセスペデス神父や家臣の加賀山隼人の指揮の下
天主堂や集会所等を作ることを許し、キリシタンに対して非常に寛容な態度で接していた。
忠興がこの南蛮鐘を鋳造させたのは、恐らく天主堂に寄進するためだったのだろう。
加賀山は10歳のときにフロイスから洗礼を受け、安土のセミナリヨで学んだという筋金入りの
キリシタンだったので、小倉の教会では中心的人物になったという。

しかし慶長11(1606)年のセスペデス神父の急死や、慶長18(1613)年の幕府の禁教令により
キリシタンに同情的だった忠興の態度はついに硬化し、天主堂を初め関連する建造物は全て破却された。
この鐘も小倉城下に音を響かせることは終ぞなく、櫓の隅に仕舞い込まれたと言われる。

当然細川家中でのキリシタンへの目も厳しいものとなり、六千石の禄を得ていた加賀山も幽閉され、
忠興に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言われ棄教するように説得を受けたが、拒否し続けた。
元和5(1619)年在京中に信者52人が処刑された京都の大殉教を見た忠興は、加賀山の説得を諦め処刑を命じ
10月15日、加賀山隼人(洗礼名:ディエゴ)は小倉城下町の西、干上りの丘で斬首された。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/25(木) 14:21:50.71 ID:vy/UI/bB
おまけ

細川忠興の親友森忠政はいろいろあって津山城を完成させ、お祝いに忠興から鐘をもらっている。
(参考:ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1154.html)



通称『朝顔の半鐘』とも『篇笠の釣鐘』とも言われる鐘だが、『ガラシャの鐘』と九曜紋の位置や大きさを
除けば、非常に似通っている。
確証こそないものの津山城完成が元和2(1616)年で同時期のため、
ガラシャの鐘を鋳造するときに一緒に作られたのではないかという論考がある。
こちらの方は津山城の天守閣の最上階に吊るされ、時を告げる鐘として毎日鳴らされ続けたらしい。




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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    三才様家臣思いじゃないか、しかも間接的にガラシャ絡みだというのにw

    新興宗教にハマった人って自身の希少性にも価値を認めているだろうし説得はホント難しいね

  2. 人間七七四年 | URL | -

    (●∀・)「新興宗教とは、金目教とかか伊達越前守政宗!」
    細川忠興「いや耶蘇教のことだろ細川越中守忠興!」

  3. 人間七七四年 | URL | -

    主君に「自分と一緒に地獄へ行こう!」とまで言ってもらってもキリスト教捨てないとかスゴイな。
    ある意味見事だし、どうしようもないよね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    森忠政と親友。
    伊達政宗と親友。

    三斎さんは、なぜ、DNQに親しまれるのでしょうか?

  5. 人間七七四年 | URL | avoeBHjE

    ※1
    巷では安倍信者なる者共がおりますが、はてさて。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    安倍信者なる者共がおると信じる者共がおるというだけでございますよ。
    ま、これ以上言うのは無粋というものでしょう。

  7. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    4つの南蛮鐘のうちの一つが大阪の南蛮文化館にあるのですが、鳴らすらことができます。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    ドンキュー

    ドンキュー

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    こう言う事を抜かす輩って無粋と言うレベルか?

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    類は友を……いや、なんでもない

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※7
    それが下の忠政の方の鐘だね。来館者が自由に鳴らせるとか

  12. 人間七七四年 | URL | -

    加賀山隼人は高山右近→蒲生氏郷を経て関ヶ原前の新参家臣なんだけど
    忠興のお気に入りの重臣扱い長岡姓や興の偏諱を与えている
    刑死も先伸ばしを重ねていてる事から心情が察せられる

  13. 人間七七四年 | URL | -

    加賀山のように大切に思う家臣もいれば、斬ってしまう家臣もいる。
    この違いって、やっぱりガラシャさん何だろうか。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※13さん
    家によって違う処罰の方法や基準の部分はありますが、大抵は当人の影響力(家格による
    上下関係・人望や能力)や、与えた石高(領地回収)で決まる場合もあります。
    (同じ様にキリシタン絡みだと毛利家も熊谷家でやってますし)

    また、主従の関係具合で決まる時もあります。今回はコレですね。
    むしろここまで来たら、当人の思いのままにさせてあげたいと云う意を組んであげた
    形ですね。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    三歳様ってDQNな所はあるけど、利休宗匠をゲヒ殿とただ二人見送った話といい、
    気持ちの通った相手に対しては情が溢れた人だったんじゃないかと想像している。

  16. 人間七七四年 | URL | -

    三斎さんを調べてたら、庭師や家臣だけでなく、茶坊主を「前から嫌いだったから」と切り、斬った刀を「晴思剣」(前から嫌いな茶坊主を切って晴れ晴れした)と名付けた。僧を切り、僧の名前を取り「希首座」と名付けた。って

  17. 人間七七四年 | URL | -

    ※14さん、15さん、有り難うございました。途中で送信してしまい、切れてすみません。
    三斎さまは、36人の家臣を斬った(歌仙兼定)だけでなく、「前から嫌いだった茶坊主を切り晴れ晴れした」と「晴思剣」と名付けたり、僧を切り、その僧の名前から「希首座」って刀に名前を付けてますが、彼らは思いが通じなかったんでしょうか。

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※17殿
    歌仙兼定の名前は後世につけられた可能性があるという説が出ていますので・・・
    (あと現在、永青文庫にてttp://www.eiseibunko.com/特別展示
    されていますが、この歌仙兼定が100%三斎様の歌仙兼定かどうかというのは
    いえないらしく・・・)
    「希首座」については、お坊さんの出自を考えれば三斎様の性格上間違いなく切るから
    >彼らは思いが通じなかったんでしょうか
    それ以前の問題でしょうねえ。

  19. 人間七七四年 | URL | -

    ※18さん、有り難うございました。
    なるほど「歌仙兼定」は後世の創作なんですね。後世の人が「三斎さまなら、やりかねん。」と思うぐらい、三斎さまは気性が激しい方みたいですね。
    「茶道四祖伝書」では、三斎さまの事「天下一、気が短い方」と書いてますが、晩年は「丸くなった」みたいです。
    秀忠が「どんな人材を採用した方がいいか」と訪ねたら「明石の牡蠣(潮で洗われるうちに角が丸くなった牡蠣のように、人も長年、苦労を重ねるうちに丸くなる)のような人材がいい」と言ったとか。
    そういえば、三斎さまだけでなく、他の三人の方も気性が激しい方々ばかりのような・・・あれ?エアコン消したのに、首筋がひんやりする。

  20. 人間七七四年 | URL | -

    ※19殿、こちらこそ。
    あの後、もう少し調べてみたら、
    「歌仙兼定については明治になってから、かつて細川家にあったという触れ込みで
    熊本の刀剣商に売り込まれたから買っただけ。買った時に、細川護立も確かに
    聞いたことがあると言って買ったものではあるが、本当かどうかは分からない」
    「なぜ歌仙の名前がついたか分からない、細川家にはそんなに家臣を斬ったと
    いう記録はない。売った側が言っているだけの話。そもそも隠居した人が当時の息子
    の側近を切ったら大変なことになる。よく勘違いされるが人の命はそんなに軽くない」
    「家臣の、しかも上級武士を36人も斬って、幕府から咎めがないわけがない。
    つまりこの話自体が怪しいものでなぜ歌仙という名前なのか分からない。」
    という話が永青文庫の歌仙兼定展示の記念講演会であったそうです。
    なので、>「三斎さまなら、やりかねん。」と思うぐらい~
    に同感します。
    もっとも、自分は三斎様と他の二人の気性が激しいとは思いますが、南の某悪久さんは
    (一部の人に対して以外は)腐っていると思ってますので・・・
    あれ?遠くから猿叫が聞こえる。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    ※19さん20さん
    骨董品を売りに出す時には「箔を付ける」事が横行していますからね。少し前でもコメ欄に
    有ったとおり、かの森欄丸の鎧とされた物も、誰かが突然言い出した事が一人歩きして、
    一時期それが定説とされてしまった事もありますからね。
    (ゲームの決戦Ⅲがソレですね)

    如何に売り物に対して「らしさ」を演出する事も、ある意味では骨董品の価値を決める要素
    になってしまっている事が原因の一つですね。
    一番の原因は江戸中期から後期にかけての武士の困窮と、明治維新後の武士世界の完全な
    解体による所有物の放出に因って、一気に物が世の中に流れた事ですね。
    ただ、中には本当に名のある人の製作物・所有物だったりするから困るw

    ですので、なんでも鑑定団の様に出自不明な物が突然値のある物だと判明したり、価値のない
    物が、誰かの手によって値打ち物として扱われたりするのですね。

  22. 人間七七四年 | URL | -

    ※20さん。
    江戸幕府以前にあった可能性がありませんかね。もし、あったら記録に残さなかったってこともありますよね。

    ※21さん。
    骨董マニアが高額で買って、「なんでも鑑定団」の出張鑑定に出したら「安値」が出て赤っ恥かいた。っていうのもありますよね。

  23. 人間七七四年 | URL | -

    ※20です。
    ※21殿
    >なんでも鑑定団の様に出自不明な物が突然値のある物だと判明したり、価値のない
    物が、誰かの手によって値打ち物として扱われたりするのですね。

    それが面白いところですものね。

    ※22殿
    >江戸幕府以前にあった可能性がありませんかね

    (切られたとなっているのは)息子(忠利)の側近ですので、江戸幕府以前は
    時期的に無理じゃあないでしょうか。
    永青文庫の歌仙兼定展示の記念講演会での話で
    兼定のことは「柏原家拝領兼定御刀略図」(1857年)と「三齋様御差」(1859年)
    にあるが、忠興は桃山時代の武将なのに200年も後に描かれているのはいくら
    なんでも遅すぎる上、細部が絵と実物で違う。そうですので望み薄かと・・・。
    まあ、政宗が秀吉から分捕った燭台切光忠も実のところ記録は伊達家のは殆ど無く、
    あるのは水戸徳川家にばかりなそうなので、あちこちに行った刀の来歴って調べるの
    大変そう・・・鮭様の鬼切丸も全国各地に逸話・伝説てんこ盛りだし。

  24. 人間七七四年 | URL | KnHW2vQ.

    史実と逸話を照らし合わせるとどうしても逸話は殺される運命にあるからね
    史実にこだわりすぎるとかえって無粋になるし
    逸話に走り過ぎると過剰な尾鰭背鰭がつく事になる
    (研究者でもない限りは)後世の我々が持つ視点は中庸が一番ということかな?

    加賀山の処刑は苦渋の決断だったんだろうな
    京都大殉教は子供を抱いた母もろとも火刑に処すなどの
    地獄絵図だったそうだが、それを目の当たりにして
    同じ目に合わせるのをよしとしなかったんだろうか

  25. 人間七七四年 | URL | KnHW2vQ.

    2016年夏の展示で初めて実物を見た
    忠興の御吉例の具足の真正面に鐘が置かれてて
    (柱が邪魔してたけど)なんだか胸が熱くなった記憶

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