入田家の後日談

2016年10月07日 15:17

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:37:00.52 ID:1rBePjzd
入田家の後日談

親誠の嫡男・義実(宗和)は若年につき赦され永禄末から元亀の頃(天正8年(1580年)頃説もあり)に宗麟から旧領の一部である筑前国鞍手郡若宮庄350町分を安堵された
宗麟に笠木城勤番を命じられたりするなど父のこともありながら宗麟時代はそれなりに信頼された義実だが義統時代になると俄然大友家での立場は悪化する。
天正12年から14年にかけて不仲だった戸次統貞(玄珊)の讒言によって大友義統と対立し討伐を受け居城を栂牟礼城を逃れて緩木城に移していた。
そんな義実に対して島津義弘は新納忠元を通じて宗和に寝返りを進めてきた。しかし宗和は最初「武門の素意に非ず」と断っていたが結局島津への内通を決意する。
天正14年(1586)豊薩合戦の際、南部衆の志賀親度(道益)・南志賀鑑隆(道運)や一萬田紹伝らは入田宗和主導でで島津氏に内通して大友氏の敗北に一役買った。
その後豊臣軍の豊後上陸後、宗和は岡城の志賀親次さらには豊臣秀長たちの軍に追われ豊後から薩摩に撤退し以降は日向に所領を貰い島津家臣として仕え家は斉彬や久光の時代まで続く

参考:大友宗麟のすべて(新人物往来社刊)ほか



176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/07(金) 02:48:56.69 ID:rn89lw8F
>>175
栂牟礼城は佐伯氏の居城だから入田の居城は津賀牟礼城の間違えだろうな
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    ちなみに入田の津賀牟礼城を奪った戸次統貞は道雪とは別系統の戸次氏。ただし祖母が道雪妹で母が紹運妹だから宗茂直次兄弟や吉弘加兵衛のいとこだったりする

  2. entelo | URL | -

    島津家に所領をもらって後世まで家名をを残せたのならそこそこの人物だったのだろうね

  3. 人間七七四年 | URL | -

    もしも義実が親父の恨みを抱き続けていたら宗麟が当主の時代に始末されてたと思うから宗麟への遺恨は捨ててたと思う。持っていたらとっくにに攻められてただろうし
    しかし義実といい志賀親度といい大友を裏切った連中は義統と何らかの因縁あるんだな

  4. 人間七七四年 | URL | -

    管理人様
    このスレのカテゴリーは「入田親誠」よりも息子の「入田義実(宗和)」とした方がいいような気がします
    それと入田親誠が未分類扱いになっていますが息子共々大友家に編入してはいかがでしょうか?

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