千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

2016年10月07日 15:18

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:00:56.45 ID:qLWXhDd3
千光禅師将来の俳優并高麗町。熊川明神

 予の封邑に、筑前から浄瑠璃歌舞伎をする者が時として来てこの技をする。
これを寺中と呼ぶ。これまでいかなる故かを知らなかった。

 そういった中で印宗和尚が、行脚で博多の聖福寺に行ったときの話をしてくれた。

『かの開山千光禅師が入宋から帰朝のとき、宋国の多くの俗人が随従した。
よって聖福寺創立の時、境内にこの人を住ませた。
今はその子孫は増え広がり、皆歌舞伎を業とし、
渡世して他邦にも行ってその事をなしている。
昔は住所を八町と言われていたが、今は四町である。
なので人は寺中と称す。』

との話であった。

 また聞いた。
かの寺中と称する者は、人賤しんで、今も結婚するのはその一画に限ると。
これ思うにその党はもと異邦の人であるからだろう。

 予の城下にも高麗町と称して、一群の人が居る所がある。
これは祖先宗静公〔式部卿法印〕(松浦鎮信)が、
朝鮮の役に虜としてかの民を多く率いて帰られたときの子孫である。
よって昔は諸士の城家に勤仕する者の食事を調うことを担当していて、至賤の者であった。
この党も他と結婚をなさない。これもまた外国を卑しんだためである。
しかし歳月を経るに従って、その子孫はこれを嫌い、段々とそのところから出て、
我が民に混じり、ついに今では朝鮮の血脈が絶えた。
ただ我が邦の賤夫はその事をもって名のみ高麗町と呼ぶ。
これをもって思えば、博多の寺中はその祖先を思っている者か。阿々。

 これによって言う。
予の領邑の陶器を、世に平戸焼と呼んで名産としている。
この器は城下から十三里の辺邑に産している。
その地の陶匠の頭を今村某と言う。すこぶる富んでいる。
この祖も朝鮮の虜である。
予が先年領内を巡見したとき、その家で憩うと、家屋も狭くなく、
庭に仮山があって樹石の好景がある。
その山の中ほどに小祠はあって、鳥居を建てて額を掛けていた。
『熊川明神』と標してあった。

 予は始め疑って、熊川(クマカハ)とはいかなる神かと問うと、
某の祖先だと答えてきた。
すぐに悟り、朝鮮人の子孫であるためかと思った。
熊川(コモカイ)は朝鮮の地名なので、その地の人であったのだ。
(甲子夜話)



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 22:09:40.02 ID:6txp1WuR
熊川ではコムチョンになると思うのだが
熊江ならコムカンでコモカイにならなくもない

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    熊は現代韓国語でもkomだけど、川のカイは「川の河口付近、入江、浦」を表わす言葉(現代韓国語ではkɛ>ke)。古文献ではだいたい「浦」と書かれる。
    今では漢字を訓読みしなくなったけど、昔は固有語に漢字を当てて訓読みすることが結構あったみたいで、「熊川:コモガイ」はそういうのの1つ。これも現代の地名としては音読みして「ウンチョンung-cheon」なんですがね。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1殿
    情報に感謝

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