172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/06(木) 19:39:45.16 ID:HlWdKe1k
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。
義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。
しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った
「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。
代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」
そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。
その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。
(大友記)
入田丹後の最後についてのお話。
大友義鑑が津久見美作、田口らに斬られ最後の体となった事は、早馬によって別府に湯治に出かけていた
大友義鎮へと注進され、義鎮は早急に帰還した。
義鑑にその三男到明子の擁立を勧めていた入田丹後守(親誠)は身の危険を感じ、一類を語らい己の居城に
立て籠もろうとしたが、戸次伯耆守(立花道雪)、斎藤重実の手の者がこれに追撃をかけたため、
入田は入城できず、彼は肥後国阿蘇惟豊が舅であっったので、彼を頼って落ちていった。
しかし、雨の中頼む木の元にも雨が漏っていた。惟豊は入田丹後に向かってこう言った
「あなたは御屋形様の咎を蒙り、討手を下された。
大軍を引き受け一戦を遂げ討ち死にすれば、亡き後までも面目であった。
しかし甲斐のない命が助かるために私を頼って来ることは、卑怯の至である。
代々相伝の主君に盾突いた悪逆人を、婿であるからと言って助けるべきではない。」
そして袈裟懸けに入田を斬った。
その首は豊後へと送られ、獄門に晒された。
その後、程なくして大友義鎮は、大友十八代目の探題となった。
若いが仕置宜しく、豊筑肥六ヶ国の上下万民は共に、この主君を上に戴いたことを喜んだ。
行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか。
目でたかりし世の中と成ったのである。
(大友記)
入田丹後の最後についてのお話。
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コメント
人間七七四年 | URL | -
>行儀作法は他国に優れ、いかなる世の末までも、誰がこれを傾けようとするだろうか
後々の本人が…
( 2016年10月07日 17:54 )
人間七七四年 | URL | -
※1
自ら傾いていく傾き者の鑑
( 2016年10月07日 18:55 )
人間七七四年 | URL | -
>目でたかりし世の中と成ったのである。
えっ?
( 2016年10月07日 19:43 )
人間七七四年 | URL | -
>行儀作法は他国に優れ
立花道雪「お、おぅ…」
( 2016年10月07日 20:33 )
人間七七四年 | URL | -
大友記とはいえこれ(最後の部分)はひどい
( 2016年10月07日 20:41 )
人間七七四年 | URL | -
ちなみに道雪にとって親誠は舅にあたる。そして斎藤鎮実は義鑑に誅殺された斎藤播磨守の息子。
つまり追っ手の人事もひどい。というか、えぐい。流石宗麟。
( 2016年10月07日 21:05 )
人間七七四年 | URL | -
忠義の証明と仇討ちが追手なのか(´・ω・`)
( 2016年10月07日 22:01 )
人間七七四年 | URL | -
豊肥筑の六か国の民が喜んだ→豊肥筑の六か国の民が苦しんだ
( 2016年10月07日 22:33 )
entelo | URL | -
めでたいのは大友記の作者だよ
( 2016年10月07日 22:36 )
人間七七四年 | URL | -
治世の前期と後期でひどい差があるよな
なにが原因かなー
あーキリスト教がぜんぶ悪いんやな
( 2016年10月07日 23:18 )
人間七七四年 | URL | -
キリスト教以前に義統が悪い
( 2016年10月07日 23:33 )
人間七七四年 | URL | -
※10
初期から大友家中ではろくなこと起きてないけどな。
二階崩れの直後に叔父である菊池を攻め義理の叔母を寝取り、
家臣を無実の罪で殺してその妻を寝取り、反乱を起こされ
本人には大して責任はないとはいえ姓氏対立事件を引き起こしと。
これ全部家督継承の5年以内の出来事だぜ。
挙句の果てに決戦で勝利したことほぼなし、疑り深くて有能な家臣をことごとく冷遇。
なんでこんなのに忠臣があんなについたのやら。
( 2016年10月08日 00:28 )
人間七七四年 | URL | -
※12
菊池義武は義鑑生存時から不穏な動きをしてたからいずれ攻め潰すしかなかったと思う
逆に姓氏事件は宗麟が義鑑の忠告を守らなかったから起こったと言ってもいい
後に起こった高橋鑑種・田原親宏&親貫・田北紹鉄の乱も宗麟が種をばらまいたようなもの
( 2016年10月08日 08:32 )
人間七七四年 | URL | -
※13
菊池義武の成敗事態は問題ないんだけど、その後の叔母の略奪がいけないんだよ。
当時の価値観で滅ぼした家の妻や娘を妾にするのはOKだけど、義理とはいえ叔母をめかけにするのはNG(ちなみに何故か異腹の男女ならOKらしい)で家中どん引きって記録が残ってる。
( 2016年10月08日 09:36 )
人間七七四年 | URL | -
宗麟を批判するのは確かに簡単。後世で批判を受けるようなこともしてるしね。
でも当時の九州で、延いては大友家で変わりになる人物って居たかな?
九州ならクマとか鬼とかは居たけど、結局は大友家はバ○息子までは残ったのも確かな筈。
それに全く・全然・少しも・優秀さが無いと言う評価は無いと思う。
( 2016年10月09日 10:03 )
人間七七四年 | URL | -
※15
本来なら武田信玄やら今川義元みたいに家臣との絆を強めるようなエピソードの一つや二つは残ってそうなものなんですが、なぜか無いのが宗麟親子・・・
立花家あたりが抹消したかな。
( 2016年10月09日 11:27 )
人間七七四年 | URL | -
※15
そーりんの2、3代前あたりで一門の争いやら粛正劇があったんで
代わりになるような分家自体いなかったんだよな大友は…
( 2016年10月09日 12:20 )
人間七七四年 | URL | -
>>17
南北朝期に9代氏継と10代親世の系統に分裂したのが内紛劇の始まり
15代親繁の代に一旦まとまったけど親繁死後はまたgdgd
18代親治の代にようやく治まったように見えるけどその後もいろいろあった
親治:大聖院宗心(13代親綱末子)追放
義長&義鑑(親治&義長後見時代):朽網親満の乱、大聖院宗心再追放、佐伯惟治の乱
義鑑:菊池義武との対立、二階崩れ
宗麟期と義統期はありすぎて書ききれないので略
( 2016年10月09日 20:53 )
人間七七四年 | URL | -
※7
逆に手抜きをすれば今度は自分が疑われるからね
後年、志賀親次は大友家を裏切って島津に与して自分の居城を攻めてきた父・親度をあべこべに捕えて処刑してるし問註所統景は秋月・星野と一緒に自分の城に攻めてきた大叔父の鑑景を返り討ちにしてる
( 2016年10月09日 23:13 )
人間七七四年 | URL | -
大内義長「一応分家です、……滅びましたが」
( 2016年10月11日 04:12 )
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