太閤の耳塚は

2016年10月11日 16:51

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/11(火) 13:58:34.44 ID:cmvPSgmJ
 荘の近所にある御勘定所に、中村某なる者が住んでいる。
去冬から上加茂下加茂貴船御修営のことを役目として上京し、
この夏帰府した。兼ねて懇ろな人だったので、
ある日その宅を訪ねて京話を聞いた。
さてもさても、都といい、また旧山川といい、一感一喜珍しい面白いことどもが
湧くようであった。
そのうちのいくつかを留めた。

予は第一に問うた。

「大仏殿の石垣には、そのころの諸家から寄進された大石があり、
その献上された大名の家紋が彫られているという。
きっと予の祖先の紋もあるはずだと、京地の人や通行した人から聞くがはっきりとしない。
実際あるのか?」

「紋はもとから無い。かの石垣というのは、二間三間におよぶ自然石を、その石のまま重畳し、
石垣としたものである。紋所というのは見えない。」

大仏石垣の話のときに、予は問うた。

「文禄朝鮮攻めのときの耳塚は、先年の大地震に崩れたという。本当か?」

「そうではない。年が古いので誰も見るもの無く、草木が生い茂り、その上からそびえて見える。」

などと答えた。


 さて『閑田次筆』〔伴蒿蹊著〕というに挙げられているのは

「讃岐由佐邑の人、菊池武矩『つくしの記行』に、
筑前国、浜男という所の近くに耳塚が有る。神功皇后が三韓を打たれた時、
その国の人の切り、耳を埋められた所であるという。
これが本朝の耳塚のはじめで、この後源義家朝臣、奥州の戦に打ち勝ち、
河内国に耳塚を築き、耳納寺を建てられた。これが二度目である。
豊臣公、京大仏に耳塚を築かれたのは第三度目である。」

 このことによれば、太閤の耳塚は神功の古例に拠ったのか。
しかし神功は征伐である。豊臣氏は残忍である。
その応報は、ある人曰く、阿弥陀が峰の豊臣公の墓は、
後代に至って、頑民が悉く奪い去り、今はわずかに地底の骨棺のみ存すと。

(甲子夜話三篇)



203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 04:41:40.18 ID:6gGIiIHG
豊臣氏は残忍である
???

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 07:57:24.56 ID:zRqAX6S/
秀吉は残忍じゃなきゃいけないんでしょ

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 14:14:27.40 ID:Ml1Xcr10
>>204
『耳鼻削ぎの日本史 』で清水克行先生も、「やっぱ秀吉って残忍だわ」って書いてるな

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 19:42:48.08 ID:zRqAX6S/
特別なことでもないって記述をネットでは見かけるけどそうでもないってことなのかな?
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    この耳塚は、実際には耳っぽいかたちで、耳の病気にご利益があるとかいう話があって、耳を埋めたというのは、あとからできた俗説とか。

  2. 人間七七四 | URL | -

    ええと、要約すると太 閣 の 耳 は ロ バ の m (記述はここで途切れている)

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