政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ

2016年11月07日 09:44

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 15:14:46.21 ID:WnhtVHEx
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 21:26:03.72 ID:Sn33jf/C
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    (●Д゜)「俺の鎧兜は、俺のもの。お前の鎧兜も俺のもの」

  2. 人間七七四年 | URL | -

    下馬戦闘するなの理由が「馬上だと強いから」じゃなくて「下馬だと弱いから」ってなんか寂しいな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    素肌武者と聞くと真っ先に伊東七蔵さんが出てくるから、
    後れをとっても仕方ないとしか思えなくなった

  4. 人間七七四年 | URL | -

    *2
    弱いというか、大鎧と同じで下馬すると動きに不自由するくらい重いってことじゃないかな。結局、装備や得意な戦法は合わせて考えられるもので、それが家風ってことかと。
    三歳さんとこは、具足はとにかく軽く作れって感じだったみたいだし。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    たしか馬上槍って関が原の前後にはレアスキルになってたよな
    奥州では生き残ってたのだろうか

  6. 人間七七四年 | URL | -

    一世を風靡した後ボロクソに批判された某鈴木説やその亜流はさすがに言い過ぎだけど
    この話や雑兵物語・フロイス日本史あたりを見るに少なくとも戦国後半以降の西国、
    特に畿内においては下馬戦闘が常態化していた可能性は十分にあるな

  7. 名無しさん | URL | -

    政宗が直接見た西国兵の戦い、って

    ・葛西大崎などの奥羽一揆兵乱平定に来た豊臣陣
     ・しk、きゅうs、は行ってない
    ・朝鮮出兵
     ・せk、はみてない
    ・大坂の陣

    ・・・あれ?これだけだっけ?

  8. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    素肌といったら武田の若武者ふたり組じゃろ

  9. 人間七七四年 | URL | NkOZRVVI

    伊達者は馬上にて、紅白槍を振るうもの。

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