梅北一揆の事

2016年11月15日 21:26

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU
うわあぁ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    佐布ってどこ?って思ったら佐敷のことか

  2. 人間七七四年 | URL | -

    いっき……
    2人て鎮圧……
    ホーミング仕様の鎌でも持ってたのか

  3. 人間七七四年 | URL | -

    一揆だけに、一騎当千……さーて、そろそろ門番の仕事に戻るかなぁ

  4. 人間七七四年 | URL | -

    芦北郡だけ加藤家の飛び地だったんだよね。しかも海岸線に沿って西半分だけ。東半分(と言っても山だらけだが)は相良家という謎の統治。一応、江戸時代も肥後はそういう統治区分。
    島津対策に小西が心許ないと思われていたのか、清正ならやってくれるだろうかと思っていたかは不明だが、太閤様の差配は見事に当たったわけだ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    ※300
    二人だけで鎮圧って・・・一揆側の田尻但馬は違う武将に討伐されてるし、一揆鎮圧には人吉の相良勢も出向いてますけども・・・

    まぁ三成が知行を低くした理由があるとすれば、
    そもそも城番の井上と酒井が町人宅で終日酒宴に及んで留守にしてたから城を奪われたわけで、それを梅北に味方する振りして騙し討ちで解決してるんだから、失態の汚名返上に他ならないと考えれば、高い知行を与えるのはおかしいと考えたかもね

    ただ、留守居二人が城にいないだけで270人程と記録のある一揆勢に城を奪われるという事は、どれだけ九州がもぬけの殻だったのかと――そう思えば、天下の大事だったとも言える


    あと三成が高い知行を止めさせたのはもう一つ、新たな内乱を恐れた為もあるんじゃないかと

    九州南部は朝鮮の役で出兵している最中に太閤検地を実施することになっていて、梅北一揆の後に相良家でも太閤検地に端を発した深水一族による内乱が発生している。
    実際、相良家の内部は梅北に同情的で、犬童頼安が諭して梅北一揆鎮圧に臨んでるくらいだから、そんな中で高い報奨を上げたりしたら、不公平感から新たな一揆が発生しかねないとの判断もあったのではないかと

  6. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    佐敷城は石垣もよく残ってますんで、近くに寄った方はぜひご見学を

  7. 人間七七四年 | URL | -

    米5殿
    ためになるお話しでした
    かたじけない

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