今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。
――『当代記』
343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 08:46:31.68 ID:h78xrH/D
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ
344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:06:12.48 ID:GifEEbwp
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。
コメント
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実は秀頼とは秀吉のイマジナリー息子で、周囲が付き合っていただけだった可能性が
( 2016年11月24日 15:06 )
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武芸に関してもさっぱり伝わってこないよね?政治に関しては仏閣の修繕とかで残ってるけど。
一応六角氏に弓とか習ってたらしいって事は書かれてるけど、その肝心の六角氏の経歴も
あやふやな部分があるし、実際どの程度の武士っぷりだったのかも分からない。
( 2016年11月24日 15:19 )
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※1
戦国ランスの信玄思い出したのは俺だけでいい
( 2016年11月24日 19:46 )
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少なくとも当代の有名人達より主体性は無かっただろうな。
当時の史料でも、豊臣家の意思決定に出てくるのは淀殿だし。
( 2016年11月24日 19:54 )
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まあ家督継いだときに幼少だったってのもあるけど、徳川が徹底的な情報操作で淀君を悪役にしたってのがでかいわな。
もし秀頼が何か決定してもそれを全部淀の決定に変える程度は平気でしただろうし。
( 2016年11月24日 20:16 )
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というか、近年になるまで、秀頼の研究ってほとんどないんで。
これがパットしない原因。
( 2016年11月24日 21:26 )
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ロクな資料が無ければ研究も進まないしね。
( 2016年11月24日 22:06 )
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しかしこの記事内容見る限り目剥くほど馬鹿とも思えん
当代記だから盛る必要は無いだろうし
( 2016年11月24日 22:22 [Edit] )
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なんにせよ的確に地雷を尽く踏み抜いて大阪の陣開戦に至った政治感覚の残念さは覆しようが無い気がする
( 2016年11月25日 07:17 )
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※9
秀頼だけの責任じゃないでしょう。周りの大人達の責任もあると思う。
そもそも豊臣家の根本が、結局は旧織田家と旧羽柴(木下)家の家臣団で構成されているから、
外様が離れると急激にスカスカになる構造も問題だったと思う
( 2016年11月25日 17:14 )
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ほんとに実際の所、秀吉は人たらしとか言われていながら、
結局は秀吉を守れるまでの家臣団を全然作れてない印象がする。
というか、やはり家臣団というものは生え抜きのというか、
譜代を持っている家が強いという事なのか…ここがいつも気になる。
( 2016年11月25日 22:35 )
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米11です。すんません、間違った。
×秀吉を守れるまでの
○秀頼を守れるまでの
( 2016年11月25日 22:36 )
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譜代家臣の忠誠心は自家→主君家
豊臣恩顧の忠誠心は自分→主君
この差は大きい
( 2016年11月26日 06:05 )
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豊臣家臣団は奉行衆が関ヶ原で壊滅しちゃった時点で中核を失ってるからさ
そこまで秀頼のせいにはできないだろう。
あと豊臣恩顧の大名ってのは無意味なカテゴリーだと思う。
出所も経歴も異なりすぎてて一纏めにする意味が無いんだよな。
( 2016年11月26日 08:24 )
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※14
それな>豊臣恩顧
大名家の中の親豊臣グループを表現するためだけの言葉
豊臣家には譜代が存在しない
当時は宗家が健在なので旧臣という言葉も不適当
そこで捻りだしたのが恩顧という用語なのではと思う
北条政子と頼朝恩顧という前例にもオーバーラップするし
( 2016年11月26日 10:42 )
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武官と文官の諍いってのも大きいよね
戦下手な人間が主導して人心掌握出来ず敗北
( 2016年11月27日 08:40 )
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日本の武士には武官と文官なんて区別自体が無いけどね。
( 2016年11月27日 11:02 )
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>>11
秀吉自身が極端なまでのトップダウン方式を好んでいたから、場合によっては自身の意図が反映されないような強固な官僚制度を整えるのを意図的に形成したがらなかった点は大きいかもなあ。
ここら辺、徳川とは対極的なんだけど、徳川の場合は、領土拡大に応じて、今川、武田、北条の有能な中間官僚層を確保できたことと、秀吉政権時に、家康が在京、秀忠が江戸で政務をとっていた影響で、双方の連絡を密にしないといけない関係上、報連相を行う上で大量の役人が育つ土壌があったのに対し、秀吉の場合は「秀吉の命令を忠実に実行する役人」が最小限いさえすればよいというレベルだったので、優秀な人間に権限が多く集まる反面、「優秀な吏僚個人の能力に頼る」という歪なものになっているんだよねえ。(石田や増田の役割って、いや貴方のレベルでそんなことまでしないといかんのという位、多岐にわたっている)
まあ関ヶ原もさることながら、秀吉政権の官僚層に致命的打撃与えたの秀次事件じゃねえかなあ。あれでまがりなりにも秀次政権内で形成されつつあった官僚層及び譜代層に壊滅的打撃与えちゃって、取り返しがつかなくなったし。
( 2016年11月27日 22:40 )
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>18殿
11です。自分も秀次事件はもの凄い影響があったんじゃないかと思っている。
具体的な損失は勿論、ああいう無茶苦茶な展開を見せられた外様も、
秀吉への心象がかなり悪くなったのでは。
( 2016年11月27日 23:35 )
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※16さん
他の方も書いてあるけど、得意不得意はあっても戦に従軍しない武士は存在しないです。
また、戦下手と有りますが誰の事を仰っているのでしょう?
少なくても官僚系武将でも長盛も正家も三成も治長も戦で武功上げてますよ。
※18さん
>>秀次事件
それだけでなく、秀長側の元家臣達もゴタゴタしましたしね。
でも、とどめほんとコレですね。これでまで従ってきた秀吉家臣も労に報われる事も無く処断。
与力やその家臣達も路頭に迷って各家へちりじりバラバラ。
謀反を疑われた各大名達も、豊臣家に対しての不信感が著しく上がったと思います。
日本統一の過程で付き従った各大名にしてみれば、心の底から秀頼を支えようって気には
ならんでしょうね。
( 2016年11月28日 15:34 )
人間七七四年 | URL | -
度々出てくる「秀頼は幸村と薩摩に逃亡」「秀頼は191センチ、161キロの大男」。
鹿児島に伝わる伝承で「秀頼は、大酒飲みになり、自堕落な生活を送った」「鹿児島の城下で、秀頼と呼ばれた大男が、食い逃げして暴れた」と云われてる。
あくまでも言い伝えだけど、こう云われてるぐらい、秀頼は庶民に、よく思われてないのかな。
( 2016年11月28日 16:52 )
人間七七四年 | URL | -
世間知らずというのが秀頼から分かる正確な評価なんだよなぁ。
( 2016年11月28日 18:03 )
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大事に育てられすぎるのはあんまりよくないな
( 2016年11月28日 18:39 )
人間七七四年 | URL | -
※21
それはもう、秀頼と言う名のただのデブニートなんじゃないのかな?
( 2016年11月30日 11:16 )
人間七七四年 | URL | -
秀吉が幼い秀頼に、気に入らぬ侍女は成敗してやるなんぞと手紙を送ってるけど、実際にそんな憂き目にあった人はいるのだろうか?
( 2016年12月01日 01:28 )
人間七七四年 | URL | -
判断の悪さは大友義統を思わせるんだよな秀頼は
まあ義統よりも人間性はマシだし秀吉の七光りもあるとはいえそれなりのカリスマ性はあったと思う
( 2016年12月04日 00:10 )
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