伏見馬揃えの事

2016年11月29日 09:05

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/28(月) 21:25:08.51 ID:TtoGbpWs
豊臣秀吉が伏見指月の城に天守や御殿を夥しく建設した理由は、当時朝鮮よりの遣いが来るため
異国への外聞故であった。

朝鮮より明軍の遊撃将軍(沈惟敬)が来るとの情報が聞こえると、秀吉は彼に馬揃えを見物させよと
仰せ出し、このため諸大名は多勢の準備が必要となり、これら人数を置く場所を請い、それらは
草津、石山、大津、坂本などに置かれた。

徳川家康の用意した人数は五千。これらは鞍馬、八瀬、木船、嵯峨、西ノ岳その他の場所に分散して
置き、それらから一備づつ押し出し伏見へ乗り入れる計画であった。

秀吉は、遊撃将軍がこの馬揃えを見物する場所は大仏山門と定められた。そして馬には鎧を掛け、
馬面、馬上には大小の金の熨斗を着け、騎馬の者達も全員甲冑姿になるようにと命じた。
そして遊撃も来日し、馬揃えは閏7月18日と決定。諸大名には近日までに待機場所へ行くようにと
命令があった。

そのような中、閏7月12日夜半、大地震が起こった。

この時、大仏は黄金に鍍金してあったが、揺れに寄って破損した。
伏見天守も上の二重が崩落した。
御殿の棟木は飛び、破風の作り物の狐格子は落ちて中まで丸見えとなった。
諸大名屋敷の御成門も損壊し、大手の二階門も揺れ崩れ、一庵法印という番衆も死んだ。
徳川家康の屋敷の2階建ての長屋も崩れ、加賀爪隼人も死んだ。
伏見中で家長屋が潰れ、死者は数知れないほどであったが、歴々で死んだのは一庵と加賀爪の
二人だけだった。

地震によって御殿、天守、諸大名の屋敷などは崩損し、この事に豊臣秀吉は以ての外に立腹した。
伏見に入っていた遊撃将軍も、夜中に伏見を退去したという。仔細の有るべきことだが
どういう理由かは知らない。

(慶長年中卜斎記)



357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/29(火) 18:57:27.86 ID:69pTnGMp
>>356
中国では政治が乱れると災害が起きると言われてるが、まさにw

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    支那では天災は為政者の罪という文化があるが、遊撃将軍は何を思ったことやら
    普通にさっさと引き揚げただけだろうけど

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