日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのである

2016年12月04日 10:34

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 01:53:06.16 ID:1PUt7qNp
徳川家康は、豊臣秀吉全盛の頃、家臣に小袖を与える場合、その品を呉服屋栄仁、茶屋四郎次郎と
いった者たちに「小袖一つに羽織を添えて作るよう」と申し付けた。

呉服屋の方から「小袖はどのような仕立てをすべきでしょうか?袖の裄丈はどれほど、綿をいかほど
入れるべきでしょうか?」と問われると、家康は好みを指定したが、そうやって造られたものは
通常の小袖より、五割から倍も高価な物となった。

家康は年間に小袖を、少ないときでも九つ、多い年では十四、五も下し渡した。
小身の者の中には「小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。」と呉服屋に申し請い、
その場合呉服屋の方は家康に回す勘定の時、小袖と書いて、金が渡ったとは言わなかった。
小袖を下すのは毎年のことであったので、このような場合、呉服屋は完成した小袖も取り、その代金も
取ったわけである。

ところで今のように小袖が世に広まったのは、天正の末から文禄年中にかけてのことである。
実は日本国の衣装が結構な物になったのは、家康公より始まったのであるが、こういった事は
世間では知られていない。『家康公は吝い人』と世上申しているが、そもそも気の大きな人であった。

衣装の中でも小袖が結構になったのは、豊臣秀頼より始まる。それは関ヶ原の合戦で徳川家康が
勝利した後、その年の暮、諸大名が秀頼に、小袖を進上したのである。その年から翌年までには、
非常に結構な物となった。そして年を経るほどに尚善くなり、諸士の下々、町人まで小袖を
着るようになった。これも御代長久の故であろう。

(慶長年中卜斎記)



375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 02:22:16.00 ID:7soxLXqH
わしがやった小袖はどうしたのだ?って聞かれなかったのかな

376 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/04(日) 04:35:47.65 ID:dEFAfBZk
現代でも嫌われる上司の言動だよ。それ。

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/04(日) 08:37:04.87 ID:ZFMNpLuG
>>375
子孫は小袖をもらっておけば、神君からご拝領の品、って言えたのにって愚痴ったか、
小袖を偽造して「これがあの時拝領した小袖です」と言い張ったか、どちらかだな

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >>小袖はいりません。小袖にかかる金額をいただきたい。
    信長さんが「家臣が欲しがる物を与えちゃ駄目、意外な物をあげなさい」って信忠さんに言ってた。
    でもこの頃なら武士も格好を整えないと舐められちゃうから、褒美としては正しくあると思う。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ※1
    これが後の日本のサラリーマンに繋がっていくんだな

  3. 人間七七四年 | URL | -

    家康ケチ説はリアルで出回ってた噂なのか?
    出所が卜斎記って事は

  4. 人間七七四年 | URL | -

    家康は、服の趣味いいから、わりといいものをあげた可能性がある。
    ご本人は、若年期に、駿河で、今川仕込みの京文化にあてられているので、雅な感覚だったかも。

  5. 人間七七四年 | URL | -

    家康が風に飛ばされた懐紙を追いかけて小姓に笑われた って出典はなんだったかな?
    前の天下人秀吉が演出として豪気に振る舞っているけど、信長もケチエピソードに暇はない
    当時としては普通の価値観だったのが、秀吉との比較や、江戸時代の家康顕彰の流れや華美を戒める為にチョットオーバーに描かれていたのではないかな?
    後、蒲生氏郷があんなケチには天下は取れない って言ったという逸話が有るが、出典元の利家夜話には家康が事を起こしても会津から喰らいついてやる!ってぐらいの事しか書いていないんだよね。
    多分このあたりは歴史小説家が逸話を色々盛っている可能性がある。
    こういう複合的な要素で家康=ケチの概念が出来たのでは

  6. 人間七七四年 | URL | -

    年寄りが物を大事にすることを「しみったれている」と感じる若者はいつの世にもいる
    元々は単なるジェネレーションギャップだったものが長い江戸時代の中でステレオタイプとして固定化してしまったのだろう

  7. 人間七七四年 | URL | -

    >>5
    ケチってのは、どこぞの腐れ犬千代
    確か、危険手当ケチって夜襲だったか追撃せんかった逸話があったはず

  8. 人間七七四年 | URL | -

    え?東照宮が出来てからじゃなかったの?

  9. 人間七七四年 | URL | -

    ※4
    趣味が良いと言うか割とハデな方だと思う。

    家康の場合、色あせた遺物を見て地味ーとか言ってたら、製法を再現して染め直してみると
    ド派手な色だったというオチなんだよなぁ

  10. 人間七七四年 | URL | -

    家康ケチ説は多分信長が生きてた頃の家臣に対する待遇とか
    その辺から来てるんじゃないか、あの頃って結構キツキツだったと思うし
    武田と戦ったりしてる時期もあるしな

  11. 人間七七四年 | URL | -

    ※10
    秀吉が家康に対して「四天王にもちゃんと領地あげろよ。扶持だけとかあんまりだろ」と言ったりしているんで、忠勝や康政クラスにも、扶持はそれなりに与えるけど、領地を与えなかったことから「家康=ケチ」とみられたのかもなあ。

    なお大盤振る舞いしてそうに見える太閤殿下は、もれなく「太閤蔵入地」をセットにしたりするなど(蔵入地はその領国でも豊かな場所指定。しかも経費は大名持ち)、お前それはどうなのよという事してはいるけどねえ。

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