加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

2016年12月15日 14:56

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 05:59:58.19 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html
で既出になるかも知れないけど

その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。

その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。

しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。

そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。

しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。

ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!

そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。

その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。

熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 06:22:27.82 ID:pzCQt+x1
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。



417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 14:43:37.25 ID:VnJLJLbL
>>414
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20161021-001.html

震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…


422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 23:51:47.04 ID:CukiuDjr
http://i.imgur.com/fTbXTqO.jpg
http://i.imgur.com/flvt7Vs.jpg
fTbXTqO.jpg
flvt7Vs.jpg

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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    >「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
    修験者にそこを何とか頼み込んでと思ってたら手打ちにされるって酷ぇ…。

  2. 人間七七四年 | URL | -

    ttp://www.pref.kumamoto.jp/common/UploadFileOutput.ashx?c_id=3&id=4255&sub_id=1&flid=11&dan_id=1
    ttp://scary.jp/supot/kumamoto/yamabusiduka/index.php

    何処まで本当かは分からないけど、こっちが事実だったにしても酷い

  3. 人間七七四年 | URL | -

    飲んだらひどい福島に対しデフォルトで畜生

  4. 人間七七四年 | URL | -

    因みに首掛石自体は本丸御殿の蹲で有ったことがほぼ確実になっています。庭から高床の御殿に合せた高さで作っています。ほぼ、と言うのは蹲がO字若しくは[]字で有ったが欠けた上部が見つかって居ないからです。それ以外に付いては石材、寸法も一致しています
    これを運ぼうとすると10t近くなり修羅を使っても数十人で運ぶ重さです

    後、どういうわけか修験者の山伏塚は熊本城築城以前からあります。又この塚は熊本城から田原坂へと向かう大穀倉地帯の熊本平野と玉名平野を結ぶ道路脇にあります。田原坂は加藤清正が熊本城築城と同時に取り掛かった重要軍事施設でもあります。その途中に加藤家を呪うモノの塚を築くのは何か怨霊守護思想でも有ったのでしょうか
    似た話として熊本には武蔵塚があります。コレは細川家の処遇に感謝した宮本武蔵が死して細川家を守らん と参勤交代の街道だった豊後街道沿いに埋めて貰ったと言う逸話です。まあ、こちらも古墳じゃ無いの?と言われていますが調査はしておりません

    世の中そんなものですが、逸話は逸話として楽しみましょう

  5. 人間七七四年 | URL | -

    4
    山伏塚は江戸期に刑場だったかも知れないと言うから色々噂に尾ひれがついたのかもね
    とは言え、火のないところに何とやらで加藤清正も入封時に仕方ないとは言え色々やってるし、思い当たる節が色々有ったからそう言う塚も立ったんじゃなかろうかとも思ってしまう

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