水手(かこ)切りと厚藤四郎

2017年01月02日 20:59

487 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:15:43.31 ID:/Gyz7fw9
水手(かこ)切りと厚藤四郎

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2043.html?sp&sp
↑に纏わるお話

天正20年(1592年)7月、母大政所が危篤という報を受けた秀吉が、肥前名護屋城から水路上洛中、舟が豊前の沖(関門海峡)で浅瀬に乗り上げ、転覆しそうになり秀吉は海中へ投げ出された。
この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。
秀吉は危うく遭難する所であったが、護衛にあたっていた後続の毛利秀元の船に救い出されて難を逃れ、この功により秀元は名物「厚藤四郎」を拝領した。

太閤肥前名護屋より帰洛の節赤間ヶ関にて乗船座礁したる時秀元僅かに十四歳小船を漕寄せ太閤を救ひまへらせしにより海岸の砂原にて秀元に賜りし由物語にあり

この時秀吉は、海難と大政所の臨終に間に合わなくなるという怒りから、水手の頭明石与次兵衛をこの時佩刀していた、備前三郎国宗で手討にしようとしたと伝わる。

その為、この備前三郎国宗に水手(かこ=船頭または船乗りの意)切りの名が付いたと言う。

488 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:21:21.59 ID:/Gyz7fw9
異説として、この際毛利秀元の懇願により、明石与次兵衛は打首ではなく切腹(当時の武士としては名誉の死)に処されたという。
明石与次兵衛は柳ヶ浦の浜で自害するが、地元では与次兵衛の不運を哀れんで遺体を浜に手厚く葬り、目印に一本の松の木を植え、
後に「明石松」と呼ばれたという。また篠瀬も同様に「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれるようになったという。
のち、慶長5年(1600年)に黒田孝高の後に細川忠興が豊前に入部する際、この明石与次兵衛が事故当時に細川家の組下であったことから、
与次兵衛の死を悼みまた航海の安全を祈願して、船が座礁した暗礁に明石与次兵衛の塔を建てさせている。
その後この石塔は何度も流されるが、そのたびに建てなおされている。しかし文政11年(1828年)の嵐の際に大波にあおられ、ついに海中に流されてしまったという。
文政年間に柳ヶ浦一帯の民の手により再建されるが、大正年間に旧日本海軍が航路を確保する目的で暗礁を爆破する際に、石塔は海中投棄されてしまった。しかし戦後、昭和29年3月に門司郷土会の有志によって海中から引き上げられ、現在は和布刈めかり公園に建っている。

水手切りはこの明石与次兵衛切腹の際、介錯に使われたとも言われる。

与次兵衛は元は明石(石井)与次兵衛といい、播磨国明石を拠点としていた海賊衆。
その後豊臣秀吉の水軍の将となり、石井の姓を与えられ、四国攻めや九州攻め、小田原攻めなどにおいて活躍したという。


490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/02(月) 11:35:13.41 ID:/Gyz7fw9
>>487の追記として、毛利秀元は秀吉を自らの舟で救助した際、家臣共々秀吉に逆心無き事を示す為、
この時佩いていた自分達の刀を海に投げ捨て、その気遣いや手際の良さから秀吉からその器量を認められ、
後に秀吉養女の大善院(秀長娘)を妻として迎える事になったり慶長の役で若輩にも関わらず病身の輝元の代わりに右軍総大将を任されたと言う。



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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    厚藤四郎は現存してるけど、水手切りは現存してないのね…

  2. 人間七七四年 | URL | -

    もしこの座礁が本当だとしたら、多分船頭達はこの航路の通行に対して慎重論を唱えたのでは?
    それを秀吉が急がせて結局座礁とかじゃないだろうか?と、想像をしてみる。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    この時点で、船頭の明石は66歳なんだよなぁ
    長年水軍の頭領やってたベテランも歳で鈍ってたのかもよ

  4. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    水運関係の身内を持つ私から一言言わせていただくと、年食ってるからこそ海の危険・
    難所の航行の危険を熟知していますし、よく通る場所なら鈍るってことは大概無いです
    (そもそも、そんな奴を船に乗せちゃいかん)

    ただ明石さんに限らず余り通らない航路だったり、自然相手ですから予期せぬ
    力が働いたりしたら、誰でも座礁の危険性は当然有りますね
    当時なら尚更だった筈です

  5. 人間七七四年 | URL | -

    4
    この浅瀬は、地元では「篠瀬(しのせ)」と呼ばれ、満潮時には波の下に見え隠れするために恐れられており、別名「死ノ瀬」とも呼んでいたという。これに加え、この地域独特の「戸ノ上下ろし」と呼ばれる激しい突風が合わさり、古来難所として知られていた。

    これ故に、仕方なかったのかも知れんね。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    14歳で冷静沈着な判断を下す秀元って、凄いね。この時代の14歳と今の14歳って違うのかな。

  7. 人間七七四年 | URL | -

    多く居る一族の中、おじさん達から父親並の目つきと器を持った子と賞賛されてるし、
    歳重ねてからも常人に非ずって評価されてるし、優秀だったんだろうね。
    今だから、昔だからじゃなく持って生まれた資質(リーダー向?)によるものは有ると思う。

  8. 人間七七四年 | URL | -

    武家っていわば貴族なんだから
    そこらへんの14才じゃなくて王室とかの14才で考えるべきだと思うけどね

  9. 人間七七四年 | URL | -

    今川氏真「おっ、そうだな」

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