494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 14:57:57.93 ID:IDAI/Glu
森忠政の水理
森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。
美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。
ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg

(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)
洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。
森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。
――『美作中古紀事』
森忠政の水理
森忠政は美濃国可児郡金山城に生まれ、慶長5年に信濃国川中島城に移ったが
どちらの場所も川に近いところだったので、水理には細心の注意を払っていた。
美作に初めて入ったとき、津山川(現:吉井川)の水の勢いを見て
日照りの年でも涸れないだろうと喜ぶと共に、排水にも大いに配慮した。
津山への築城に決まってからは、市街に三十六の町を置く計画で区画を定め
市街の南方、津山川の沿岸には悉く石垣を設けて十箇所余りに水刎を築いた。
ttp://www.civil.pref.okayama.jp/img/hyakusen/spot/059-03.jpg

(画像手前の構造物が今も現役の吉井川の水刎)
洪水に備え津山川の川幅は、水上の村落や山野の広狭を考えて
上流一里に対し、幅員を六間以上八間までに定めた。
津山川の水源、西々條郡上齋原村までは七里十一町の行程だったが
伯耆国の境までの川路が屈曲しているので十里余りあるものとみなし
津山町においては、岸に達する川幅が最も狭い八出村覗山下までの
距離を八十二間とした。
(津山)市中を南北に横断する宮川の源流の上横野村までは
二里九町余りだったが、川路屈曲から三里余りとし宮川大橋を二十六間とした。
翁川は水源まで一里以内だったが、市の西北部を取り囲むように流れているので
翁橋を八間一尺に定めた。
森氏入封後この排水の施策が行われない内は、慶長12年と17年の二度の洪水で
市中が浸水し、いくらか人家も流出したことは先代実録にも記載があるが
その後市内の備えが全て出来た後は、天明5年までの170年あまりにわたり
しばしば洪水があって、この施策のない沿岸で堤防が決壊したり浸水しても
津山市中では水災がなかったのは忠政の余沢である。
――『美作中古紀事』
スポンサーサイト
コメント
人間七七四年 | URL | -
領主に求められるものは、治水>人間性ってことなんだろうなぁ
おや誰か来たようだ
( 2017年01月09日 11:27 )
人間七七四年 | URL | -
信玄「わしは人間性も確かじゃ」
( 2017年01月09日 13:36 )
人間七七四年 | URL | -
治水よりも血吸い(仕置き的に)ってイメージが・・・
( 2017年01月09日 14:50 )
人間七七四年 | URL | -
いい話だー。
知って良かったw。
今までの色々なアレがこれで吹っ飛……誰か来たようだ
( 2017年01月09日 16:34 )
人間七七四年 | URL | -
公共事業の傍ら、重臣達が直接斬り合うような異常事態も同時進行する。
忙しいな、森家
( 2017年01月09日 16:34 )
人間七七四年 | URL | -
※3
忠政「血ぃ吸うたろか~(刑罰的な意味で)」
なんちって
……さて、森家に呼ばれたから出頭してくるわ
( 2017年01月09日 16:52 )
人間七七四年 | URL | -
無理矢理、若い娘を人柱に・・・って話じゃなくてよかったね。あっ、私も森さんに呼ばれたので、行ってきます。
( 2017年01月09日 19:18 )
人間七七四年 | URL | -
このコメント欄は呼び出しが多いですなぁ
( 2017年01月09日 19:23 )
人間七七四年 | URL | -
※8
??「いっそ常駐するか」
( 2017年01月09日 20:57 )
人間七七四年 | URL | tKQf3S82
織田の臣も豊臣も臣もどこでこんな治水や築城の技術を学んだんだろ?
( 2017年01月11日 15:06 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
織田家出身者で治水を学ぶならば木曽川、揖斐川、長良川からなる木曽三川を治めていた土岐家や斎藤家の人達から学ぶ事がだろうし、築城ならばお抱えの宮大工が信秀の時代に仕えていたから学べたんじゃないかと思います。
豊臣家はちょっと分かりませんが、秀吉の家臣の蜂須賀正勝や前野長康など独立した国人衆を率いて木曽三川で活動していた人達がいるのが大きいのかもしれません。
( 2017年01月11日 15:53 )
10 | URL | JalddpaA
※11
ありがとうございます
加藤清正のような生まれも育ちも悪そうな武将が
いったいどこで治水や築城の技術を身に着けたのか?
ということに前々から興味があるものでして
( 2017年01月11日 20:26 [Edit] )
人間七七四年 | URL | -
鬼武蔵「犯人はお前だ!(ザクブシュウ) なんで、こんなに事件が多いんだ」
領民「ええ・・・」
各務「そっちの推理じゃないです」
( 2017年01月15日 10:21 )
人間七七四年 | URL | -
人間性も大事だし、生まれも育ちも悪いとは酷いな。
やっぱ工事に参加したりノウハウ伝授で技術得てんだね。
( 2017年04月17日 00:14 )
コメントの投稿