秀次妻子の処刑

2017年01月14日 15:43

513 名前:1/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:19:11.80 ID:rE+exn0h
文禄4年(1595)7月15日、豊臣秀次が切腹。
そして8月2日、秀次の若君、上臈、婦人たちを誅すべきとの上使が立ち、いやが上にも悲しみは増した。
検使には石田治部少輔、増田右衛門尉をはじめ、橋より西の片原に、布皮敷いて並び居た。
彼らは若君達を車に乗せ、上臈達を警護して、上京を引き下り、一条二条を引き下り、三条の河原へと懸った。

橋のあたりまで着くと、検使たちが車の前後に立ち「先ず若君達を害し奉れ」と下知した。
青侍・雑兵共が走り寄り、玉のような若君達を車から抱き下ろし、変わり果てた父秀次の首を見せた。

仙千代丸は冷静にこれを見て、「こは何と成らせられるや」と呟き、嗚呼と嘆いた。
その姿に母上たちだけでなく、見物の貴賎男女、警護の武士に至るまで前後を忘れともに涙に咽んだ。
しかし太刀取りの武士は「心弱くては叶うまじ」と目を塞ぎ、心を太刀だけに集中して仙千代丸達を害した。
この時彼らの母上たちは、人目も恥ずかしさも忘れ声を上げた

「どうして私を先に殺さないのか!急ぎ我を殺せ!我を害せよ!」
(こは何とて、我をば先に害せぬぞ。急ぎ我を殺せ我を害せよ)

そう、仙千代丸の死骸に抱きついて伏し嘆いた。
それより夫以下の目録に合わせ、順に座らせた。
一番に上臈、一の台の御局、前大納言殿の息女にて、三十路余りであった。これを今わのすさみとて
『存へて ありつる程を浮世ぞと 思へば残る言の葉もなし』

二番は小上臈、於妻御前であった。三位中将殿の息女にて、16歳になられていた。紫に柳色の薄絹の重ねに
白袴を引き、練貫の一重絹うちかけ、緑の髪を半切り、肩の周りにゆらゆらと振り下げて、秀次の首に三度拝し、
こう詠んだ
 『槿の日 影まつ間の花に置く 露より脆き身をば惜まじ』

三番は、姫君の母上、中納言の局於亀の前であった。摂津小浜の寺の御坊の娘で、歳は33。栄に少し
過ぎていたが、西に向かい「南無極楽世界の教主弥陀仏」と観念し
 『頼みつる 弥陀の教の違わずば 導きたまへ愚かなる身を』

四番には仙千代丸の母上、於和子の前であった。尾張日比野下野守が娘にて、18歳になられていた。
練絹に経帷子を重ね、白綾の袴を着て水晶の数珠を持ち、若君の死骸を抱きつつ、泣きながら大雲院の上人に
十念を授かり、心静かに回向して、こう詠じた
 『後の世を 掛けし縁の栄えなく 跡慕ひ行く死出の山路』

五番には百丸の母上であった。尾張国の住人山口将監の娘。19歳になられていた。
白装束に墨染の衣を掛け、若君の死骸を抱きつつ、紅の房の付いた数珠を持って、これも大雲院の十念を受け心静かに回向して
 『夫や子に 誘はれて行く道なれば 何をか跡に思残さん』

六番には土丸の母上、於ちゃの前であった。美濃国竹中与右衛門が娘にして、18歳。
白装束に墨染めの衣着て、物毎に軽々しい出で立ちであった。かねてから禅の知識に参学し、飛華落葉を観じ、
世理無常を悟って、少しも騒ぐ気色無く、本来無一物の心と
 『現とは 更に思わぬ世の中を 一夜の夢や今覚めぬらん』

七番には十丸の母上於佐子の前であった。北野の松梅院の娘で、19歳になられていた。
白綾に練絹の単衣の重に、白袴を引き、戻の衣を掛け、左には経を持ち右には数珠。西に向かって法華普門品を
心静かに読んで、秀次、若君、そして我が身の菩提を回向して
 『一筋に 大慈大慈の影たのむ こころの月のいかでか曇らん』

八番には於万の方であった。近江国の住人多羅尾彦七が娘。23になられていた。練絹に白袴引き、
紫に秋の花が刺繍された小袖をかけておられた。その頃病中であったので、見た目にもいと悲しく、
心も消え入るように思えた。これも大雲院の十念を受け掌を合わせ
 『何處とも 知らぬ闇路に迷ふ身を 導き給へ南無阿弥陀佛』

九番には、於与免の前であった。尾張国の住人堀田次郎右衛門が娘で、これも白装束に数珠と扇子を持ち添え、
西に向かい十念して
 『説置ける 法の教の路なれば 弧り行くとも迷ふべきかは』

十番に、於阿子の前であった。容姿よりも尚勝る心にて、情け深く聞こえた。毎日法華読誦怠らず、最後にもこの心であった
 『妙なれや 法の蓮の花の縁に 引かれ行く身は頼もしき哉』

514 名前:2/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:20:23.81 ID:rE+exn0h
十一番には於伊満の前であった。出羽最上殿の息女であり、十五歳になられた。東国第一の美人であると
伝え聞かれ、秀次より様々に仰せになり、去る7月上旬に上洛したが、旅の疲れにて未だ見参のない内に、
この難儀が勃発し、淀の方より「いかにもして申し請け参らん」と心を砕かれたため、太閤秀吉も黙し難く、
「命を助け鎌倉に遣わし尼にせよ」と言った。これにより伏見から大至急早馬が出たが、あと一町という所で
処刑された。哀れと言うにも余りある、最後の際、やさしくも
 『つみを切る 弥陀の剣に掛かる身の 何か五つの障あるべき』

十二番には阿世智の前であった。上京の住人秋葉の娘であり、30あまり、月の前、花の宴、事に触れて
歌の名人であったとか。最後の時も先を争ったが、目録どおりとのことで仕方なく、辞世に
 『迷途にして君や待つらん 現とも夢とも分かず面影に立つ
  彌陀たのむ 心の月を知べにて 行けば何地に迷あるべき』

十三番には小少将の前であった。備前国本郷主膳が娘にて、24歳になられた。彼女こそ関白の御装束を
賜った人である。
 『存へば 猶もうき目を三瀬川 渡るを急げ君や待つらん』

十四番には左衛門の後殿であった。岡本某の後室で、38歳であったという。琵琶、琴の名人で、歌の師匠も
されていた。是ぞ今わの気色にて
 『暫くの 浮世の夢の覚め果てて 是ぞまことの仏なりけり』

十五番には右衛門の後殿であった。村瀬何某の妻であったとか。村井善右衛門の娘にて、35歳になられていた。
21歳で父の村瀬と生き別れ、今また重きが上のさよ衣、重ね重ねの憂いの涙。よその袖さえ乾く間もない
 『火の家に 何か心の留まるべき すずしき道にいざやいそがん』

十六番は妙心老尼であった、同坊の普心の妻であったが、夫に先立たれた時も自害しようとしたのを
無理に止めて、尼と成られたのである、最後の供を悦んで
 『先達ちし 人をしるべじ行く路の 迷を照らせ山の端のつき』

十七番は於宮の前であった、これは一の台の娘であり、父は尾張の何某にて13になられた。
母子を寵愛されたこと、ただ畜生の有様であると、太閤は深く嫉み思われたとか、最後の体、おとなしやかに念仏して
『秋といへば まだ色ならぬ裏葉迄 誘ひ行くらん死出の山路』

十八番には於菊の前であった。摂津国伊丹兵庫の娘で、14歳になられていた。大雲院の上人に十念授かり、
心静かに取り直り
 『秋風に 促はれて散る露よりも 脆きいのちを惜しみやはせじ』

十九番には於喝食の前であった、尾張国の住人、坪内右衛門の娘で、15歳であったとか、武士の心で
男子の姿をし、器量類なかったため、稚児の名を付けられた、萌黄に練絹の単衣衣の重ねに白袴を引き、
秀次の首を拝して残る人に向い「急がれよ。三瀬川に待ち連れて参りましょう。」と語りかけ、検使にも
暇乞いをして、西に向かって声高に、こう2,3回吟じた
 『闇路をも 迷わで行かん死出の山 清る心の月をしるべに』

二十番には於松の前であった。右衛門の後殿の娘にて、12歳であったとか。未だ幼く、唐紅に秋の花を
刺繍した薄衣に、練絹をかけ、袴の裾を握りながら、母親の死骸を拝しつつ
 『残るとも 存へ果てん浮世かは 終には越ゆる死出の山路』

二十一番には於佐伊の前であった。別所豊後守の身内の客人、という者の娘で、15の夏の頃初めて見参し、
新枕のあと絶えて召されず、拙き身を恨んでいたが。ある酒宴の折に「君やこじ我や行きなん」と謡ったことで
他に勝って寵愛されるようになった。しかしその後何があったか、事情があり久しく出仕しなかったが、
最後の御後を慕い参られた事こそやさしくも哀れである、法華経を読誦してこれだけを言った
 『末のつゆ 本の雫や消え返り 同じ流れの波のうたかた』

二十二番には於古保の前であった。近江国の住人鯰江権之介が娘にてこれも15の春の頃より寵愛深く、
閨の袖の香浅からず成り染めて、花月の戯れに、後の事は思いもよらなかったであろう。
そしてこの期は大雲院の十念を受け回向して
 『悟れるも 迷いある身も隔てなき 弥陀の教を深くたのまん』

二十三番には於仮名の前であった。越前国より木村常陸守が呼んだ上臈とか。17歳であった。
非常に賢く、浮世を泡のように観念して
 『夢とのみ 思ふが内に幻の 身は消えて行く哀れ世の中』

515 名前:3/3[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 12:21:29.42 ID:rE+exn0h
二十四番には於竹の前であった。一条あたりで、ある方の拾った娘であったという。類なき美人にて
昔の如意の妃もこうであったと思われた。仏元来今無く、心又去来の相なしと悟り
 『来りつる方もなければ 行末も死らぬ心の仏とぞなる』

二十五番には於愛の前であった。古川主膳の娘で、23であったとか。法華転読の信者で、草木成仏の心を
 『草も木も 皆仏ぞと聞く時は 愚かなる身も頼もしきかな』

二十六番には於藤の前であった。大原三河守の娘で、京の生まれ。21歳になられていた。
槿花一日の栄、夢幻泡影と観じて、大雲院の十念を受け
 『尋ね行く 仏の御名をしるべなる 路の迷の晴れ渡る空』

二十七番には於牧の前であった、斎藤平兵衛の娘で16歳だとか。これも十念を受け西に向かい手を合わせ
 『急げ唯 御法の船の出でぬ間に 乗遅れなば誰を頼まん』

二十八番には於國の前であった、尾張国大島新左衛門の娘で、22になっていた。肌には白帷子に山吹色の
薄衣の重ねに、練絹に阿字の大梵が書かれているのを掛けて、秀次、若君たちの死骸を拝し、秀次の
首に向かって直られるのを、太刀取が「西に向かれよ」と言うと、「本来東西無し。急ぎ討て」と答え、
そのままに討たれた
 『名計を 暫し此の世に残しつつ 身は帰り行く本の雲水』

二十九番には於杉の前であった。19歳。前年より労気を患い、秀次とも疎遠になっていたため、浮世を恨み、
どうにかして出家したいと願っていたが、叶わずこのような最期を遂げた
 『捨てられし 身にも縁や残るらん 跡慕ひ行く死出の山越』

三十番には於紋といって、御末の人。心静かに回向して
 『一聲に こころの月の雲晴るる 仏の御名を唱へてぞ行く』

三十一番は東といって61歳。中居御末の女房が預かる人であった。夫は75歳で、この3日前に相国寺にて
自害した。

三十二番に於三。末の女房であったとか。

三十三番は津保見。三十四番は於知母であった。

この三十余人の女臈たちをはじめ、午の刻(午前11時頃)から申の刻の終(午後5時頃)までに
朝露となられたのは、彼女たちのことを知る人も知らぬ人も、見る人聞く人ごとに、肝も裂け魂消えて、
涙に暮れぬものはなかった。
秀吉は殊更に、死骸を親類にも返さず、巨大な穴を掘らせて、旃多羅が手にかけてその手足を取って
投げ入れた。その有様、昔玻斯国の瑠璃太子が浄飯王宮を攻め破って、五百の宮女美人を穴埋めにしたという
哀れさも、これにはどうして勝るだろうか、
こうして最期に臨んで、歌を詠まれし風情、万年の後までも、聞くに涙に咽ぶであろう、

色を誅するのは、不義を後にして己の嫉を先にすると、世史に謗って記されているのもこのためである。聖智ある明将のやることではない。
太閤秀吉の強暴さは支那をも動かしたが、慈しみの心が嫉妬に勝つ事を得なかった。婦人や幼い子供を億万殺しても、一体何の益があるのか。
人々は誠に、「御代が短かるべき事ぞ」と申した。

(石田軍記)
秀次家族の処刑についての記述である。



516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 13:12:53.81 ID:QLhwJ8hg
まだ出てなかったんだ、秀次妻子の処刑の模様

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 15:56:12.34 ID:YLjoeKPp
妊娠してたら困るからってここまで殺さんでも…

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 16:48:44.45 ID:tVr6p7UI
手当たり次第に手を出して子を産ませるアホは死んで当然
秀長を見習うべきだったな

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 18:21:08.96 ID:z7jd4P8T
???「城中の女に見境なく手を出して100人以上作ったけど何か?」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 19:52:46.06 ID:399BbC7j
はいはい、お薬出しておきますねー

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/14(土) 20:49:57.21 ID:AHLvRmkW
>>514
於伊満の命乞いを淀がしてるのか
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    これはちょっとどころか すげー悪い話
    石田軍記でも擁護されないほどの悲惨さが

  2. 人間七七四年 | URL | -

    >どうして私を先に殺さないのか!
    目の前で子を先に殺されるのは惨い仕打ちだ…。

  3. 人間七七四年 | URL | -

    秀次が好色家じゃなければこんなにも死なずに済んだのだろうけど・・・

    まぁ、それ以前に秀吉が苛烈な断を下さなきゃよかったわけだが

  4. 人間七七四年 | URL | -

    このリスト、鮭様に見せたらあかんな・・・

  5. 人間七七四年 | URL | -

    6時間か。
    前に処刑自体は4時間に及んだという記述をどこかで読んだ。
    四時間で一人当たり6分。
    前後の準備もあったろうが、6時間としても一人当たり10分もない。
    ぞんざいに扱われたもんだとぞっとした。
    それを目の前で延々待ってた人は、体も辛かったな。

  6. 人間七七四年 | URL | -

    ※3
    豊臣家(というか秀吉系)の血縁者の少なさを考えたら、若い秀次は側室たくさん貰って子供をたくさん作ろう、って考え自体はそこまで間違ってもいないと思う
    母娘丼は流石にアレなのかもしれないが

    あと好色の件は、太閤殿下もなかなか派手だったし…残念ながらあまり実を結ばなかったけど……おっと誰か来たようだ

  7. 人間七七四年 | URL | -

    11世紀(平安末)~14世紀(南北朝初期)は女性の人口が、男女比が1:1.25以上って日蓮が書いてたらしいけど、さすがに妾囲いすぎだろうw
    生きていくためとはいえ、男も女も命が軽い大変な時代だったんだな

  8. 人間七七四年 | URL | -

    むごすぎるよなあ

  9. 人間七七四年 | URL | -

    埋葬のされ方も酷い事この上無かった。
    一連の事象には被害者の関係者ばかりでなく、
    本来秀吉の味方である者の心も荒んだのではないか…。

  10. 人間七七四年 | URL | -

    そら鮭様、家康に接近するわな、かなり秀吉に恨み持ってたんだろうな。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    実は日本史上でこんなに酷い大量処刑ってあんまりなかったよねぇ

  12. 名無しさん | URL | -

    旃多羅なのね

  13. 人間七七四年 | URL | -

    大阪の陣で、豊臣恩顧の武将が秀頼につかなかったのも、これが原因の1つかもね。
    秀次の娘が真田信繁の側室になってルソンに逃げたのを「真田丸」でやってたけど、実際はどうなんだろう。秀次の娘と信繁の間に生まれた娘が秋田にいた。とも言ってたけど。

  14. 人間七七四年 | URL | -

    ※3※6
    この時に処刑されたのが側室だと思われてたから秀次外道とか誤解されたけど
    これって側室だけじゃなくて、その家族や侍女まで根こそぎ処刑したんだよ。

  15. 人間七七四年 | URL | -

    そら、秀吉がこんな振る舞いしてたら台所のジジイも情報流したり城に火つけたりしますわ(フィクション)

  16. 人間七七四年 | URL | -

    >>13
    小早川秀秋が西軍に付かなかった遠因にもなってる事件だと思う。

  17. 人間七七四年 | URL | -

    米15
    あの人信長のシェフだったらしいな

  18. 人間七七四年 | URL | -

    ※14
    誤解というより、英次の評判を落とすため侍女達まで側室扱いしたのでは

  19. 人間七七四年 | URL | -

    この事件の後すぐに取り潰された大和豊臣家の家臣の大半が家康に流れてる理由も何となく察する

  20. 人間七七四年 | URL | -

    最上家を親豊臣にしておければ関ヶ原における上杉の北上も無かったろうし、伊達の動きも一層不透明になってたろう。
    無慈悲な殺戮が豊臣家の命運を縮めた。

  21. 人間七七四年 | URL | -

    謀反人の場合妻子も皆殺しになるのは当たり前なんだが。
    よくわかってない人が多いなあ。

    ※20
    何の関係もないよ。
    そもそも家康は秀頼公の為といって上杉討伐してたんだから。
    そして家康が帰って行って上杉に攻められそうになったら、最上は速攻で上杉に土下座して攻めないでくれと頼みにいった。結局攻められたけどねw
    そもそも女子供の処遇程度で大名が判断変えるわけがない。

  22. 人間七七四年 | URL | -

    ※16
    どの辺りの理由が?
    普通は家康と秀秋の関係は領地の一件だと思うのだけど?

  23. 人間七七四年 | URL | -

    ※18
    結果、秀次よりも秀吉自身の評判がガタ落ちという

    ※20
    関が原自体は豊臣政権内での権力抗争だから新豊臣・新徳川とかは関係ない。あえて言うなら家康始め当事者全員が(腹積もりはともかく表面上は)新豊臣

  24. 人間七七四年 | URL | -

    >>22
    秀秋は丹波亀山を取り上げられた上に秀次に連座して切腹させられそうになっている
    下手したら実兄の長嘯子や実父の木下家定でさえも危なかったほど
    秀秋が殺されなかったのは秀吉の信頼厚い小早川隆景の養子になってたせいもある
    石田と関係が悪くなって家康と関係を深めるきっかけになったのは名島を取り上げられた時(二度目)

  25. 人間七七四年 | URL | -

    ※23
    これで秀吉の評判が悪くなったというのは初耳だが?
    誰がそんなこと言ったんだ?
    元々秀次は評判がよくない。

  26. 人間七七四年 | URL | -

    >女子供の処遇程度で大名が判断変えるわけがない
    だとしたら、なんで人質なんていう無益無駄としか思えないシステムが存在したんスかね

  27. 人間七七四年 | URL | -

    ※21
    >謀反人の場合妻子も皆殺しになるのは当たり前なんだが。
    >よくわかってない人が多いなあ。

    謀反人認定される経緯もあれだけど、その後の女子供を切り捨てて遺体も渡さず畜生塚に放り込んで供養もしないとか、そういう処遇が酷すぎる仕打ちに感じられたからこういう文献が記されてるんだろ。

  28. 人間七七四年 | URL | -

    噂とかでなく本当に謀反起こした光秀の娘のガラシャさんや津田信澄の妻、処刑されてましたっけ?

    普通は離縁するか、秀頼の娘みたいに仏門にいれるのが当時のセオリーだったのでは…

  29. 人間七七四年 | URL | -

    一般的な処置は子供については男子は処刑、女子は助命だな。
    秀次事件は武家の常識から見ても常軌を逸してる。

    秀次が勝手に自害したせいだなんて説もあるけど、連座してる人の数や処罰の広がりを考えると
    それもちょっと違う気がする。いずれにせよ古参家臣層に打撃を与えたのは確実でしょう。

  30. 人間七七四年 | URL | -

    ※24
    詳しく書いてくれて有難う。でもごめんね、自分の書き方が悪かったよ。
    書いてくれたその辺りは読んだ事あったんだ。

    「関ヶ原の件での直接の原因」と言う意味で聞きたかったので、確かに領地の件での
    事もあったのだろうけど、「それ以外でこの時代の辺りで何かあったかな?」と思って
    書いたんだ。

  31. 人間七七四年 | URL | -

    武士が台頭してから累が妻娘妾に及ぶ例って大きな事件思い浮かぶ範囲では少数な気がするわね
    細かい事例までは知らないけどね

  32. 人間七七四年 | URL | -

    戦いの末、落城時にともに命を無くしたりはあるが、
    捕まった場合には男子は殺されても、
    妻や娘は仏門行きが基本の印象だろう
    妻子娘どころか家族やその事侍女まで引っ張り出して殺害は
    記憶にはないなぁ

  33. 人間七七四年 | URL | -

    ※29
    謀反は普通に妻子連座。族滅が普通。
    家康も謀反というか武田と内通した家臣を妻子ともども皆殺しにしている。

  34. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    大賀弥四郎か
    敵への内通だから当たり前ではないかな

  35. 人間七七四年 | URL | -

    当時は、嫡男(重くて男児全て)と生母乳母くらいで収まってた
    男児がなければ女児が人質になり処刑される(例:信孝の娘)
    妾全て、娘全て(生後数か月の末娘だけ助命)
    庶子全てまで連座するのは滅多にない事
    評判が悪くなってないと言う人がいるが
    当時の文献にも「豊臣の代は長続きしない」と
    人々が噂したとあるし、滅茶苦茶悪くなってるだろ
    おまけに大和家まで取り潰して家臣が丸ごと家康につくし
    秀長の息子の死に方が「家臣が抱きかかえ川に飛び込み溺死」
    な時点で、そりゃ秀吉から人心離れるわという・・

  36. 人間七七四年 | URL | -

    >>33
    残念ながら、日本では一族皆殺しは普通のことではない
    中国では普通だが、日本では滅多にしない
    家康の件も少ない例のうちの1つに過ぎない
    当時の価値観では、嫡男と生母と乳父乳母くらいで連座は止まる
    いや、生母や乳母まで及ぶことも稀だった
    そもそも女を処刑すること自体が少ない
    信長が仕事をしてなかった侍女を処刑したという逸話は
    その後、侍女たちが普通に働いてることが分かっているので創作

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