堀久太郎秀政、後に左衛門督という。武士から下僕に至るまでこれを扱うとき、下の者達に
情を尽くすことを第一に心がけていたため、配下に彼を恨むものは居なかった。
ある時、奉行の従者と、荷物持ちの者達が言い争っているのを聞いた。荷物持ちの者達が
このような荷は重すぎて持てないと抗議をしていたのだ。
秀政はその荷物を自分で持ち上げると、そのままあたりを往来してきた。そして
「私はあの荷物持ちの者達より力がある。なのに一里ばかりこれを背負って疲れ果てた。
彼らがこれを持つこと出来ないというのは当然である。」
そう結論した。
またある時の合戦の折、秀政自らの武者押しに旗指が遅れた事を周りは咎めたが、秀政は自らこの旗を負って
馬を駆けてみた。
「これは武者押しの時の私の乗馬が、肝が強い物だったために旗指が遅れたのであろう。」
そう考え、肝の弱い馬に乗ったところ、以後旗指が遅れることはなくなった。
彼は世に名人久太郎と呼ばれるが、このように配下の者達を使うに心を用いた故に、そう人は言ったのである。
小田原陣中に卒した。享年三十八であったとか。
(芳譚)
コメント
人間七七四年 | URL | -
間違いなく良い人で堀家の雰囲気も良かったんだろうけど
何か大大名になった人達と違って家臣を道具として使いながら恨まれないという芸当は出来無さそう
( 2017年01月17日 18:16 )
人間七七四年 | URL | -
大大名に出世出来てれば(長生き出来てれば)、こういう本人が目端を利かせる中小企業の名社長的な逸話ばかりにならなかったかもしれないな
きっと、本当は部下の扱いも上手で名のある陪臣を量産出来たに違いない
( 2017年01月17日 19:37 )
人間七七四年 | URL | -
重い荷物を持ってその場で少し歩いたのかと思いきや、ちゃんと一里(四キロ?)歩いて感想を言う辺り流石だと思う
( 2017年01月17日 20:43 )
人間七七四年 | URL | -
※1※2
※2の言の傍証というわけじゃないが、倍臣には「天下の差配が出来る」と秀吉に賞された堀直政がいるね。
直政の息子の堀直寄も家康に賞賛されてるし、家臣を育てるのもうまかったんだろう。
・・・実子の秀治はまあ、その、いまいちパッとしない子に育ちましたけどね!
( 2017年01月17日 20:54 )
人間七七四年 | URL | -
直寄は能力は申し分ないどころか父・直政以上にすら思えるけど秀治や忠俊では到底使いきれなかったんだよな
( 2017年01月17日 22:07 )
人間七七四年 | URL | -
賤ヶ岳って事実上この人で勝ったようなモノだよね
( 2017年01月18日 18:00 )
人間七七四年 | URL | -
※6
80年代中頃の秀政はホンマ怪物
個人的には「島津弱すぎてツマンネ」という感想に尋常でないやばさを感じる
( 2017年01月18日 19:21 )
人間七七四年 | URL | -
この人の数少ない…というより唯一の欠点はたぶん寿命だな
「人間五十年」の時代から見ても早死に感が半端無い
( 2017年01月19日 10:44 )
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