三成は亭主として

2017年01月24日 08:37

532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 20:39:35.21 ID:92lx1g3g
石田治部少輔が七将襲撃事件の結果、佐和山に引退した後、徳川家康
伏見城より柴田左近を三成への使いとして出した。

柴田左近が佐和山に到着すると、三成は柴田と格の合う家臣の屋敷に彼を
案内させた。柴田が休息を取り行水も済ませた頃、三成が自身でこの屋敷に参り
「大儀であった。」
と、持参した弁当で彼をもてなした。これは佐和山城より持ってきたものだという。

後刻、城に上がり家康よりの遣いの内容を伝えた。その後
「風呂を焚かせたので入浴するように」との使いが来た。三成は客人を迎える
亭主として、欠けるところ無い振る舞いであった。

翌日、柴田左近は日の出の頃、佐和山を出立しようとしたが、そこに何と、三成自身が
見送りに来た。居室でしばらく雑談をし、出立するときは表に出て、門まで彼を見送った。
この別れのとき、三成は「これは葛籠ですが、馬に付けてお帰りなされ」と、
渋紙で包細引きで念入りに結ばれた物を柴田に渡した。
宿に着いた後それを開けてみると、そこには念の入った造りの小袖が5つ、良き拵えの
脇差しが一腰あり、それには『百貫』との折紙が付いていた。

この頃、百貫の脇差しなどというものは希少で、また小袖5つの土産なども聞いたこともない
時代であった。
この時代の百貫というのは、現代の千貫よりも価値が高かった。
また本阿弥の折紙が添えられているのも、殊の外稀なことだったのである。

現代のように上使というような事も、奉書などというものも無かった。
慶長4,5年の頃を覚えている者は、『ここに言われている通りだ』と答えるだろう。
現代ではこういった重々しいもてなしは多く有るだろうが、当時は沙汰もなかったのである。

(慶長年中卜斎記)

石田三成が家康からの使者を心を尽くしてもてなしたお話。
一般的な三成のイメージとはだいぶ違いますね。



533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 21:17:07.44 ID:GCNAERFQ
細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀な印象がある

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/23(月) 22:57:20.58 ID:znPyROKP
>>532
>「風呂を焚かせたので入浴するように」
慶次「三成は気が利くな~」
義朝「…」

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 00:54:45.81 ID:kFsSwOgq
義朝さん、お土産には木刀入れときますね
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コメント

  1. 人間七七四年 | URL | -

    柿は懲りたようだな

  2. 人間七七四年 | URL | -

    三成自信もそうだが数奇が分かる家臣が居なかったのかな
    三成が募集かけたら幾らでも応募有ったろうに

  3. 人間七七四年 | URL | -

    何時の時代でもおもてなしって難しいのね

  4. 人間七七四年 | URL | -

    どうしてもへうげの三成が浮かぶ

  5. 人間七七四年 | URL | -

    私見ですが、これ位の気遣いが普通に出来なくては、多分秀吉の側近はこなせなかったと思し、
    出来る人だったからこそ出世して奉行になれたし、多くの優秀な家臣達が集まったのだと思う。

    にしても、柴田左近さんはやっぱり権六殿の家系の人なのかな?

  6. 人間七七四年 | URL | -

    柴田左近に見合う家臣は島左近かしら

  7. 人間七七四年 | URL | -

    真田丸の山本三成じゃないけど、見込んだ相手とそうでもない相手で接遇態度が違いすぎる気が

  8. 人間七七四年 | URL | sSHoJftA

    関ヶ原のときも、島津が大垣に撤退する時に三成本人が迎えに行っているので、これが地なんじゃないかな。

  9. 人間七七四年 | URL | -

    うまく立ち回れば・・・

  10. 人間七七四年 | URL | -

    ※5※8
    私もそう思います。
    特に秀吉は気に入らないことあれば、功臣であっても酷い扱いするように見えます。
    かなり気の利くタイプでなければあれほどの抜擢はされなかったでしょう。

  11. 人間七七四年 | URL | -

    百貫か

    当時の一貫が現在価値て約10万円だから、1000万円か

    京都から滋賀に上司のお使いで出張して、お土産に1000万円...

  12. 人間七七四年 | URL | -

    自分も長年三成に関心を持って調べているんだけど、
    彼は自分が認めてない相手にはクールに出た人じゃないか…と想像している。
    それが良いとか悪いとかではなくそういうキャラクターだったんじゃ。
    (戦国武将はそもそもその多くが、現代的な価値観で見ての「全方位で良い人」でないと思うし)
    でもそれでももの凄く出世したという事が、逆にもの凄い才覚の持ち主という事の証じゃないかとも思う。

  13. 人間七七四年 | URL | -

    ※5
    柴田勝政の子 柴田勝重(1579-1632)ではないでしょうか。
    左近の名乗りの由来がわかりませんが

  14. 人間七七四年 | URL | -

    柴田性は徳川譜代にもいるから何とも言えないなぁ

  15. 人間七七四年 | URL | EybeWf1w

    柴田左近が使いに出たのって前田征伐時のことだって記述をどっかで見た気もする

  16. 人間七七四年 | URL | -

    >細かいくらいに気を利かせるけど、それがうまく嵌まることが極々稀

    ていうか、本来の三成は普通に気遣いの人だったんじゃないか
    江戸時代に残った連中は元々三成と敵対してたか仲良かったのに裏切った連中だから
    元々は気遣いエピソードとして伝わっていた話を
    ピントのズレた気遣いで相手の逆鱗に触れるコミュ障エピソードに改竄して回ったんじゃないか
    (原版では忠興怒ってないのに怒ったことにされた例の柿エピソードとか)
    そういう可能性は無いんですか??

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